善き人の徳と善き市民の徳
――『ポリティカ』第3巻第4章の解釈 ――
斉 藤 和 也
は じ め に
アリストテレスの『ポリティカ』第3巻は,ポリスの基底的な構成部分であ る市民(ポリーテース)の定義や国制(ポリーテイアー)の分類が提示される 巻であり, 『ポリティカ』全体の構成に関わる重要な巻であるが,その中で,
善き人の徳と善き市民の徳との関係を論じた第4章の議論は難解であるばかり ではなく,この論題が第3巻全体の中でどのような位置を占めるのかも明らか ではない。そもそも善き人の持つ徳と善き市民の持つ徳とが同じなのか異なる のかという問題設定自体が理解しにくいのである。 P. P. Simpson はその注釈書 において第4章が書かれた理由を次のように述べる
!
。第1章においてアリスト テレスは市民の定義を与えたが,それは事実に基づいた一般化であり,市民資 格の正当性を述べたものではなかったために,第4章では,民主制になって市 民となった手工業者(バナウソス)やかつての奴隷たちの市民としての資格に 疑念を持つ批判者たちに答えて,彼らの市民資格の正当性について明らかにす る必要があった。批判者たちの疑念には,市民であるには善き人としての徳を 持つ必要があるという暗黙の前提が含まれており,これは,善き市民の徳と善 き人の徳とは同じであるという主張である。アリストテレスは,第4章におい てこの主張を検討し,続く第5章では,手工業者や労働者の市民資格について 論じることになるというのである。しかし,アリストテレスから見れば消極的
(1) Simpson, p.140. 香 川 大 学 経 済 論 叢 第83巻 第4号 2011年3月 5−28
な存在でしかない手工業者や労働者の市民資格の問題が大きく採り上げられる とは考えにくいし,そもそも彼らの市民資格の正当性を問う問題が善き市民の 徳が善き人の徳と同じかどうかという問題構成になることはないだろう。彼ら が市民としての徳を持つかどうかが問題であって,人間としての徳を持つかど うかは問われないだろうからである。また同じことだが,手工業者やかつての 奴隷たちの市民資格を容認しない人々でも農民の市民資格を認めるであるだろ うが,農民が善き人の徳を持たないからといってその市民資格を否認するとい うことはないであろう。以上の点から, Simpson の解釈は十分な説得力を持た ないと言わざるを得ない。この問題に関連して, E. Schütrumpf は,第4章の議 論が第1章で導出された市民の定義を前提にしておらず,また第6章や第1 1 章の議論が,第4章との関連が深いにも拘らず,第4章に言及していないとい う理由に基づいて,第4章は,後の挿入であると判断している
"。 Schütrumpf は また,第4章が第1章を前提としていないもう一つの理由として,第4章にお いて「支配される市民」という概念が登場することを挙げる。第1章において
「審議と裁判への参与の資格を持つ者」と定義された「市民」は,ポリスを支 配する「能動的な市民」であって, 「支配される市民」という概念はこの定義 に反するというわけである。
だが, Schütrumpf も指摘するように,第4章の論題は,第3巻の後の箇所に
おいて!及的に言及されている。たとえ後の挿入であっても,これらの言及箇 所の存在は,第4章が第3巻において一定の意義を持っていることを示してい る。また,後の挿入といっても,我々に残されているテキストの不整合を理由 としたものでしかない。第3巻を一貫して流れる通奏低音を取り出すことに よって, 『ポリティカ』の中で最も難解で重要な章の一つと言われる第4章の 議論をできる限り第3巻の中に埋め込むような解釈を求めるべきなのではある まいか。本論は,第4章が第3巻の中で占める位置を解明するための準備作業 として,第3巻第1章及び第4章の議論を分析するとともに,後者の背景にあ
(2) Schütrumpf, p.414−415.
−6− 香川大学経済論叢 358
る国制のモデルを推定するべく関連の箇所を検討することを目的とする。
1.市民概念の定義
市民概念の定義はポリスに関する体系的学問の基礎概念の一つを確定するこ とである。第1章の冒頭において,アリストテレスは, 「国制について,それ ぞれの国制が何であり,どのような性格のものであるかを探求する者にとっ て,まず第一に研究するべきことは,ポリスとは何かということである(1 2 7 4 b 3 2−3 4) 」と述べるが,その理由として,革命が起こった場合,外国との約束 など過去の行為はポリスが行ったことなのか,それともポリスではなく寡頭制 や僭主が行ったことなのかについて意見の食い違いが存在するということを挙 げている。そして,国制はポリスを運営する者たちの或る種の秩序であり,ポ リスは市民たちから成る複合体であるから,まず探求するべきことは市民とは 何かということである,という論の運びによって市民概念の定義に入る
!。これ は,市民概念の定義への導入的な議論としては奇異な印象を与える。なぜスト レートに,ポリスの構成部分がポリス市民だから市民概念について検討すると されなかったのであろうか。ここには,アリストテレスなりの意図があると思 われる。上記の論争を概念的に表現すれば,約束という行為の主体はポリスな のかポリーテイアなのかという問いである。アリストテレスが狙っているの は,この問いによって浮上してくること,つまり,ポリスとポリーテイアの異 なりを明らかにすることなのである。この問いはポリスとポリーテイアとポリ ーテースという三者の関係を把握するための恰好のケーススタディであったと 思われる。第3章においてこの異なりが明らかにされる。ポリスは市民たちを 構成部分とする複合体であり市民たちの共同関係であって,ポリーテイアはこ の市民たちの共同関係の或る秩序である。市民たちが同一であってもこの秩序 が変化すれば同じポリスであると言えないのであるから,ポリーテイアはポリ スの形相である。このように捉えられたポリーテイアの本格的な研究は第6章
(3) 革命後に過去の約束を履行するべきかどうかという問題は,第3章において再び採り あげられるが,そこでは別の機会に論議するべきことであるとして脇に置かれる。
359 善き人の徳と善き市民の徳 −7−
以降で行われるが,第1章ではポリスの基底的な構成部分である市民について 本質を規定することになる。
では,実際に,市民の概念に到達するまでのプロセスを見ておこう。アリス トテレスはまず,民主制においては市民であるが,寡頭制において市民ではな い者が存在するという指摘から議論を起こす。では,民主制においてどのよう な人を市民と言うのか。まず,ポリスに単に居住していることだけでは,民主 制において市民であるとは言えない。奴隷や在留外国人は市民ではないが,市 民と同じくポリスに居住しているからである。また裁判を起こしあるいは裁判 を受ける権利を持つだけでも市民であるとは言えない。在留外国人は,或る場 合には後見人が必要であるが,裁判を起こしあるいは裁判を受ける権利を持つ からである。アリストテレスが求めている市民資格は,さしあたってアテナイ 民主制における完全な市民としての資格であるが,この観点から子供や老人は 除外される。さらに,市民権を ! 奪された者,亡命者,追放された者が除外さ れる。このようにして,完全な市民として認定される者が有している資格を挙 げると, 「裁判と支配に参与すること(1 2 7 5a2 3) 」となる。支配に関わる役職 には任期のない役職と任期のある役職とがあり,前者は裁判員と民会員である が,普通,これを役職者とは言わない。しかし,裁判員と民会員はポリスの意 志決定に直接関わる立場にあるから,支配に参与する役職からこれらを除外す ることはおかしい。したがって,これら両者を共通の名前で呼ぶべきであり,
市民とは「任期のない支配に関わる役職に参与する者(1 2 7 5 a 3 2−3 3) 」である とされる。
ひとまず民主制における完全な市民の資格が定義されたが,次に国制が正し さから逸脱していない国制群と逸脱している国制群に分けられることを指摘す る(1 2 7 5 a 3 8− b 3) 。ここは第6章において本格的に検討されることを先取り して述べている箇所である。アリストテレスはここで,それぞれの国制におけ る市民の資格は国制によって異ならざるを得ないとして,民主制において市民 とされた者が他の国制において市民と認められない可能性があることを指摘す る。このことは,市民の定義を開始する場面において指摘されたことであり,
−8− 香川大学経済論叢 360
ここまではこのことを織り込みながら市民の定義を行ってきたと言える。民主 制ではデーモス(民会)の構成員が市民であったが,デーモス自体が存在しな い国制がある。また或る国制では,デーモスが存在するにしても「集会(エッ ククレーシア) 」と呼ばれず, 「シュンクレートス」と呼ばれる。 「エッククレ ーシア」は民主制において定期的に開催される民会の集会であり, 「シュンク レートス」は寡頭制や貴族制において不定期に召集される集会である。またラ ケダイモーンのように,エポロスたちが契約に関する裁判を行い,長老会が殺 人に関する裁判を行い,その他の事柄についてはその他の役職者が裁判を行う という国制もある。カルケードーンでは,或る役職がすべての裁判を司る。し たがって,これらの国制における市民にも適用できるように,上記の定義を修 正する必要がある。これらの国制において審議や裁判を行う人々は,役職に就 いている期間が限定されている。したがって,これらを包括した規定を求める ためには,期限の限定を取り除く必要がある。最終的な修正では, 「審議的支 配や裁判的支配に参与する資格を有する者(1 2 7 5 b 1 8−2 0)
!」が市民の定義とな る。
最終定義での修正点は期限に関する条件の削除である。修正を加えられずに 残った市民の本質は,国制の審議的機能や裁判的機能への参与である。ここで 注目すべきことは,市民の資格が国制の支配機能への参与という観点から捉え られていることである。国制が異なっても国制である以上備えている本質的機 能に参与する人が市民なのである。 つまり,市民の資格は市民の果たす機能 (エ ルゴン)によって規定されている。市民としてその機能・役割を十全に遂行す ることは市民の持つ徳に基づく。アリストテレスが市民をその国制の支配的機 能への参与という形で押さえたということは,当然,市民がその機能をよく果 たすことを織り込んだものと考えるべきである。第4章における市民の徳に関 する議論は第1章における市民の定義をこの意味において前提にしているので
(4) テキストは写本通りに読む(Miller, p.147, n.13)。厳密には両者の機能を兼ね備えて いなければならないのではなく,どちらかの機能を果たすことが定義の内容となるだろ う。カルケードーンでは特定の役職がすべての裁判を司るからである。
361 善き人の徳と善き市民の徳 −9−
はないだろうか。第4章では,善き人の徳と善き市民の徳の関係を市民の機能 を前提にして論じている。では,その第4章の議論に目を向けてみよう。
2.第4章の議論
この章の課題は,善き人の徳と善き市民の徳とが同じか否かを解明すること であるが,その議論の中に最善の国制における市民像がかいま見られるので,
それに注意しながら読解を進めていきたい。まず,善き人とはどのような人な のか。これは明示的に示されてはいないが, 「善き人」の特徴に言及している 箇所(1 2 7 7 a 1 5,1 2 7 7 b 2 5−6)から, 「善き人」とは, 『ニコマコス倫理学』第 6巻1 3章で解明された「思慮ある人(プロニモス) 」を指していると考えられ る。
アリストテレスは,まず,次の3つの議論によって,両者の徳が同じではな いことを証明する
!。
第1の議論(1 2 7 6b1 8−3 5)は次の通りである。善き人の徳と善き市民の徳 は同じであるのかそれとも異なるのか。このことを探求するためには,まず簡 単に(善き)市民の徳について理解しておくべきであるとして船乗りと市民と の類比に基づく議論を展開する。船乗りたちは,同じ船乗りでも,それぞれ 様々な能力や仕事を分担していて,彼らは「能力においては類似していない者 たち」であるが,一つの船の航海の安全を共通の目的とする共同関係にある者 たちである。それぞれの乗組員の最も厳密な定義はそれぞれの乗組員のアレテ ーに固有であるが,或る共通の定義がすべての乗組員のアレテーに当てはま
る
"。それは,彼らが共通の仕事として船全体の航海の安全を目指しているため
である。船の乗組員の場合と同様に,それぞれの市民は別々の仕事に従事して いて「 (能力においては)類似していない」にしても,共同関係にある者たち として,それの保全を目指す点では共通のアレテーを持っている。この共同関 係とは国制のことであるから,市民の徳は国制との関係において規定されるこ
(5) Simpson, pp.141−143.
(6) この箇所はT. V. Saundersの解釈を参照。
−10− 香川大学経済論叢 362
とになる。国制には複数の種類が存在するから,善き市民の徳が完全な一つの 徳であることは可能ではない。これに対して,善き人の徳は国制とは相関しな い完全な一つの徳である。したがって,善き人の徳を有していなくても善き市 民であることは可能である。このように,第1の議論では,市民の間での役割 能力の異質性にも拘らず市民たちが共通の目的を有することから,善き市民の 徳はこの目的との関係において規定され,さらに,国制が複数あることに応じ てそれに対応した善き市民の徳も複数存在することから,善き市民の徳は,国 制の形態に関わりなく常に同一である善き人の徳とは異なるということが帰結 する,とされるのである。
第2の議論(1 2 7 6 b 3 5−1 2 7 7 a 5)は次の通りである。この議論は最善の国制 の場合において成り立つ議論であるとされている。最善の国制を持つポリスが 善き人々のみから成り立つことは不可能であるとしても,少なくともそれぞれ の人は自分の仕事を立派に成し遂げる必要があり,このことは (市民としての)
徳に基づく。そこで,最善のポリスではすべての市民が善き市民の徳を持つ必 要があるが,最善のポリスの市民がすべて善き人であることは必然ではないか ら,すべての市民が善き人の徳を持つことは不可能である。つまり,すべての 市民が同質であることは不可能であるから,善き市民の徳と善き人の徳とは同 じではないということになる。
この議論について,最善の国制においてはすべての市民が善き人である(VII 1 3,1 3 3 2 a 3 2−3 6)から,この議論において前提となっている命題は,第7巻
の理想国論における言明と矛盾するという指摘
!
があるが,厳密には,第7巻の 当該箇所では,すべての市民が同時に善き人であるのではなく,すべての市民 が善き人であるかあるいは善き人になり得る人であると解釈することが可能で
ある
"。若い市民は成長途上にあり,やがて善き人になるにしても,それまでの
間は,善き人に指導されながら成長していく。議論のこの段階では,善き市民 の徳とは,市民としての役割を十全に遂行できることであるとされる一方で,
(7) Newman p.158.
(8) Simpson, p.142.
363 善き人の徳と善き市民の徳 −11−
この徳は,善き人が持つ完全な徳ではないとされる。その理由は,第4章の最 後の箇所において示されることになる。
第3の議論(1 2 7 7 a 5−1 3)は,第2の議論と同様,最善の国制において成り 立つ議論である。この議論は,第2の議論の前提,すなわち,すべての人が善 き人であることは,最善の国制においても不可能であるという前提に基づく。
すべての市民が善き人であることは不可能であるとしても,すべての市民が善 き市民の徳を備えていなければ,最善の国制であるとは言えない。第2の議論 では,このことが,支配の任を全うする市民たちの間の役割や仕事の相違から 論じられたが,第3の議論では,支配の任を全うできる徳のレベルの問題とし て論じられる。動物が魂と身体とから成り立ち,イエという関係が男と女から 成り立ち,財産関係は主人と奴隷とから成り立つように,ポリスもまた同質的 ではない人々から成り立つとアリストテレスは述べる。ポリスには,市民であ る成年男子の他に,子供や女性,奴隷などが居住しているが,最善の国制にお いて,市民の間に或る種の支配に関わる関係が存在する。それは歌舞団の指導 者と助力者との関係に類似している。つまり,指導者としての市民と助力者と しての市民の間に徳のレベルの違いが存在し,優れた善き人は,人間として未 完成なその他の市民を指導する。この意味において善き市民の徳は善き人の徳 と同じではないと言えるのである。
このように考えると,最善の国制は,支配者としての善き人と被支配者とし ての善き市民から成り立つという図式が浮かび上がってくる。第3の議論をこ のように解釈するなら,次の節(1 2 7 7a1 3−2 5)において, 「支配者」と「被支 配者としての市民」という区分が持ち出されることも理解できる。 「以上のこ とから,善き市民の徳と善き人の徳とは,端的な意味においては同じではない ことが明らかであるが,或る場合には同じなのではあるまいか(1 2 7 7 a 1 2−
1 4) 」 。この或る場合とは,優れた支配者の場合である。このような場合を持ち 出してくるのは,アリストテレスを含め多くの人が, 「優れた支配者は善き人 つまり思慮ある人であり,ポリティコス(政治的指導者)は思慮ある人である
(1 2 7 7 a 1 4−1 6)
!」と考えているからである。 『ニコマコス倫理学』第6巻1 3章
−12− 香川大学経済論叢 364
で論じられているように,倫理的な徳を完全に身につけた人にのみ思慮が備わ るのであるから,優れた支配者は,人間的にみて善き人であり,また優れた政 治指導を行なう思慮を備えていることから,支配することに長けた善き市民で あると言える。ところが,ここに問題が出てくる。或る人々の見解によると,
支配者には被支配者とは異なる教育があるとされる。彼らは支配者は支配する ことに長じる必要があるので,被支配者とは異なる教育を受けるべきであると 考えている(1 2 7 7 a 1 6−2 0) 。だが,その立場に立ってしまうと,善き支配者の 徳と善き人の徳とは同じであるが,被支配者もまた市民であるから,或る市民
(すなわちこの場合,善き支配者)の徳は善き人の徳とは同じであるとは言っ ても,やはり,善き市民の徳と善き人の徳とは端的な意味において同じである ことはないだろう(1 2 7 7 a 2 0−2 3) 。たしかに,このようであれば,支配者の徳 と(単なる)市民の徳とは同じではない(1 2 7 7 a 2 3) 。それゆえ,イアーソン が僭主を逐われたときに私人としての生活が不如意になったように,支配する 能力しかない支配者は,支配される市民としての能力がないのである(1 2 7 7 a 2 4−2 5) 。
しかし,このように,善き支配者の徳に被支配者の能力が含まれていないな らば,結局,善き支配者の場合,善き人ではあるが,本来の意味における善き 市民の徳を持っていないことになるのではないか。なぜなら,立派に支配し支 配されることができることが善き市民の徳であると考えられるからである
(1 2 7 7 a 2 5−2 7) 。ここで,2つの見方が対立している。1つは,優れた支配者 は,善き人であり支配能力を発揮できる思慮ある人であるから,善き人の主人 的な徳のみを持つだけでよいとする見方である。もう1つは,善き市民とはお 互いに支配し支配されることが立派にできる人であるから,優れた支配者は,
支配者の徳に加えて被支配者の徳を持つ必要があるという見方である
!。前者 は,優れた支配者の学ぶことは支配される市民の学ぶこととはまったく異なる という教育論を持ち,後者は,優れた支配者は被支配者の学ぶべきことも学ぶ
(9) この箇所は写本通りに読み,Rossによる改訂は採らない。
(10) Newman, p.164, Simpson, p.144.
365 善き人の徳と善き市民の徳 −13−
べきであるという教育論を持つことになる。
ここで,アリストテレスは,支配されることを含まない支配が奴隷に対する 主人的支配であることに触れ,奉仕的な仕事は,善き人も政治的指導者も善き 市民も学ぶ必要はないと述べる(1 2 7 7 a 3 3− b 7) 。たとえば,料理術は奴隷の 身につける技術であるが,生活に必須なこのような事柄に関する技術は学ぶ必 要がなく,これを使用する知識を持てばよいと言う。だが,ここでこのような 議論に展開していくのは何故なのだろうか。1つには,主人的支配とは異なる 支配形態であるポリス的支配の存在を明らかにするという見方も可能かもしれ ないが,このことは既に前提になっているとも考えられる。むしろ,次のよう に考えるべきではないだろうか。1 2 7 7 a 1 6− b 1 6の議論は,或る意見を採り上 げ,それを批判するという形になっている。或る人々は,支配者の教育は被支 配者の教育とは全く異なるもので,たとえば王の子息は幼少時から馬術や戦争 術を学ぶべきであるとするが,彼らは支配者の知識の修得方法について誤った 見解を抱いている。彼らには,ポリスの支配能力は支配される経験を経た上で なければ本物にはならないという観点が欠けている。彼らの見解では,支配者 と市民との徳は全く異なるという帰結にならざるを得ないが,そうではなく,
支配者の徳には市民的な徳が内在するべきである(1 2 7 7b9−1 0) 。イアーソン のような支配者には市民として支配される能力が備わっていないが,支配者 は,むしろ,奴隷を使用するような主人としての能力ばかりではなく,自由人 として支配し支配される市民的な徳を,支配者になる前の段階において市民と して支配されることを通じて学んでおく必要がある(1 2 7 7b7−1 1) 。たとえば,
騎馬指導術は騎馬術の指導を受けることによって獲得され,将軍術は将軍に指 導されながら部族部隊長としてあるいは歩兵部隊長として活動することを通じ て獲得される必要がある。これは市民として同格の自由人(1 2 7 7 b 8)を支配 する能力である市民の徳の獲得のために必要な方法である。
さらにアリストテレスは議論を進める。同格の自由人の間での支配及び被支 配の能力は善き市民の徳であり,このような徳を優れた支配者も身につける必 要があるから,優れた支配者が持つ善き人としての徳にも両方の能力が含まれ
−14− 香川大学経済論叢 366
ていなければならない(1 2 7 7 b 1 6−1 7) 。そして,支配者的な節制や正義が被支 配者的な節制や正義と異なる種類のものであるとするなら(なぜなら,被支配 者にも節制や正義があるからだが) ,善き人の徳は一つではないことになる
(1 2 7 7 b 1 7−1 9) 。すなわち,善き人として支配する徳と善き人になるために支 配される徳とが異なる種類のものとしてあり,家政において夫の徳と妻の徳が 異なるように(1 2 7 7 b 1 9−2 1) ,ポリス的支配の領域においても,支配者と被支 配者の関係においてこれに類似した関係が存在する。支配者は思慮を持ってい ることにおいて被支配者と決定的に異なる。被支配者は思慮ではなく正しい思 いなしを持つ(1 2 7 7 b 2 5−2 6,2 8−2 9) 。そして,節制や正義といった倫理的徳 は,支配・被支配の関係において種類の相違は存在するにしても,支配者と被 支配者に共通するものであるとされる(1 2 7 7 b 2 6−2 7)
!。
ここで,アリストテレスは,支配者の徳と被支配者の徳を対比することに よって,何を語ろうとしているのだろうか。それはおおよそ次のようなことで あると思われる。最善の国制における支配関係は徳を目指して行われるから,
そこでは倫理的な意味における人間の完成がポリスの目的になっており,これ を達成した人間がポリスの支配者になるが,それ以外の人間は未完成の人間と して被支配者の地位に甘んじなければならない
"
。民主制では自由人であること が支配者になる条件であるから,籤あるいはローテーションで支配者か被支配 者の立場に立つことになる。寡頭制では富が支配者になる条件であるから,そ れを相対的に満たす者が支配者になり,条件を満たさない者は被支配者の地位 に甘んじることになる。民主制でも寡頭制でも人間的な完成は問わないのであ る。しかし,最善の国制においては,政治的指導者の人間としての徳と市民と しての徳とは一致しなければならない。そうでなければ,最善のポリスにおい
(11) Newman(p.171)やBarker(p.107)は両方の徳によって善き人は善き人であること になるとするが,Simpson(p.145)はこの解釈では思慮のみが支配者に特有とした点と 整合しないとして,善き人である根拠は支配する徳のみであるとしている。本論では両 者の徳を上記の仕方で経ることが善き人の条件となると解釈する。
(12) ポリスの役職の数から言って,完成された人間で指導者にならない場合もあるが,そ のことは措く。
367 善き人の徳と善き市民の徳 −15−
て指導者となることはできないからである。この国制では,被支配者も善き市 民として,思慮を除く他の倫理的徳を有することになる。なぜなら,ここで は,すべての人が思慮ある人ではないが,すべての市民が善き市民でなければ ならないからである(1 2 7 7 a 1−3) 。最善の国制における善き市民とは,不完全 ではあっても各自の仕事を完遂する程度には十分な倫理的徳を有する者なので ある。
以上で,第1章と第4章について一応の解釈を行ったので,次に,これらの 関係について検討する。
3.第4章の位置付け
第1章における市民概念の定義には,確かに, Schütrumpf の言うように,市 民の徳について直接の言及はない。そして第4章における市民の徳に関する議 論の中にも第1章で得られた市民の定義について直接の言及は見られない。し かし,最善の国制において手工業者が市民ではないとする第5章の議論におい て,第1章で解明された「ポリスの役職への参与」という市民の資格とそれに 基づく市民の徳が議論の前提とされている。第5章は次のようなアポリアを指 摘することから始まる。
「市民とは,本当に,支配に参与する資格のある者をいうのであろうか,
それとも手工業者も市民とするべきなのであろうか。一方において,支配 に参与する資格のない彼らを市民にするなら,そのような徳はすべての市 民が持つものではなくなる。 (というのは,最善の国制においては,この ような徳を有する者が市民であるからである。 )他方において,手工業者 のような連中がいずれも市民ではないとすれば,彼らをポリスのどの部分 に分類したらよいのであろうか。というのは,彼らは奴隷でもないし,在 留外国人でもないからである。 」 ( III 5,1 2 7 7 b 3 4−3 9)
上記の引用において,明らかに,第1章の市民の定義と第4章の市民の徳への 言及を見て取ることができ,したがって,内容的には,第4章と第5章は第1 章を前提としながら連関していると言えるのである。
−16− 香川大学経済論叢 368
アリストテレスはポリスの社会階層を大きくデーモス(民衆)とグノーリモ イ(上流階層)に分け,デーモスには農民,手工業者,賃金労働者,小売り商 人,海上業務従事者などが含まれるとする
!。上記の引用箇所において,難問と してアリストテレスが提起したのは,支配に参与する資格のある者を市民と定 義するなら,手工業者や賃金労働者など生活必需品の生産に従事している者た ちは市民の徳を備えていないから,最善の国制においては市民とは認められな い。しかし,彼らは奴隷でも在留外国人でも外国人でもないから,どのような 社会的身分として彼らを分類するべきか,という問題である。もちろん,これ らの階層は自由民であるから,極端な民主制においては市民の中に算入される し,手工業者の多くは,富を蓄えているから寡頭制においても市民の中に算入 される可能性がある。上記の問題は,徳がポリス的秩序への参与の基準である 最善の国制において,自由人ではあるが奴隷と同質の仕事をしていて市民の徳 を身につけるための余裕のない彼らに,どのような位置づけが与えられるべき かという問題なのである。というのは,アリストテレスによれば,市民の徳は 生活に必要な仕事から解放された者達がポリスの運営をめぐり支配し支配され る中で培われる性格であるからである。上記のアポリアは, 「ポリスの本質的 ではないが不可欠な部分」という新たな範疇を立て,この範疇に彼らを分類す ることによって解消されている。
このように,上記の引用箇所は,最善の国制における市民の徳に言及してい る第4章と連関を持つと考えるべき十分な根拠を提供している。これらの章を ひとまとめに考えるなら,次の一節は第4章における最善の国制のあり方を考 える上で重要な手がかりを与える。
「国制の種類は多数あるから,それに対応して市民の種類も多数なければ ならない。とりわけ,支配される市民の種類も多数なければならない。し たがって,或る国制においては手工業者や賃金労働者は市民でなければな らないが,或る国制では,彼らが市民であることは不可能である。 」 ( Pol.
(13) Pol.IV4,1291b17−28.
369 善き人の徳と善き市民の徳 −17−
III 5,1 2 7 8 a 1 5−1 8)
第5章では,手工業者や賃金労働者の市民資格が国制と相関的な関係にあるこ とを示すことが論題の一つとなっている。民主制では自由民はすべて市民であ り,貴族制では市民的徳を有する者だけが市民である。手工業者や労働者は,
民主制では自由民として完全な市民である。寡頭制では財産高が市民資格の基 準であるので,最貧民である賃金労働者が市民であることは不可能であるが,
富裕な者が多い手工業者は市民であることが可能である。この議論において,
最善の国制が理念的な存在ではなく他の国制と並ぶ一つのタイプの国制とみな されていることに注目する必要がある。国制に種類があるのはそれぞれの国制 の目的が異なるからであり,それに対応して市民の資格も異なるが,最善の国 制はこれらの国制の頂点に立つひとつの国制として位置づけられているのであ る
!。この国制は徳を目的とし徳に従って役職が割り振られる国制である
"。
では,この最善の国制が理念的なものではないとすれば,アリストテレス は,この国制における政治的制度をどのようなものと考えていたのであろう か。アリストテレスは,この章の冒頭で市民とは支配に参与する資格を持つ者 であると言いながら,同じ議論の中で, 「支配される市民」という概念を持ち だしている。Schütrumpf は,このことを理由の1つとして第4章及び第5章と 第1章との関連を否定した。しかし,これらの章の関連を認め,ここに2つの 市民層を想定し高位の市民による下位の市民の支配という図式を読み込むこと も不可能ではない
#。最善の国制における 「支配される市民」 とは,具体的には,
どのような制度の下にあるどのような存在なのであろうか。次節では,第4章 及び第5章においてアリストテレスが念頭に置いていたポリスの体制について 考察する。
(14) Pol.III1,1275a34−b3.
(15) Pol.III5,1278a19−21.
(16) 後に紹介するKrautは,このような図式で第4章を解釈している。
−18− 香川大学経済論叢 370
4.第4章における最善の国制のモデル
第4章における最善の国制では,思慮を持つ支配者は指導的市民たる地位を 保ち,思慮の代わりに真なる思いなしを持つ被支配者は善き市民として被支配 者の持つべき倫理的な徳を持つとされている。では,具体的に,歴史的に存在 したポリスであれ理論的に構想されたポリスであれ,どのようなポリスの国制 がこの体制のモデルになっているのだろうか。
Schütrumpf は,王制にせよ僭主制にせよ,独裁者支配制とその下で支配され
る市民という図式は,アリストテレスにおいては例外的であり, 『ポリティカ』
では,第3巻第4章及び第5章以外には見られないとしているが
",後述のよう に,貴族制的体制を論じたいくつかの箇所において同様の図式が登場する。
Schütrumpf はこのような図式の前例として,プラトンの『法律』第3巻6 8 4 a
を挙げている。 『法律』の当該箇所では,ドーリア人のペロポネソス侵入時に おける三国の成立とその特殊な誓約に関して語られている。三国はその時の王 制を維持し, 「支配者である王家」も「被支配者である民衆」も共に現状の権 利を侵害しないこと,もしどこか1国においてこれが破られるなら,王家同 士,あるいは民衆同士が相互に護り合うという誓約を交わしたという故事が語 られている。
R. Kraut は,第4章の最善の国制においては,価値と権威の階層秩序が存在
し,高位の役職に生涯携わる最善の人々と下位の役職に交替で就任する普通の 人々の間には画然とした階層分化が存在すると解釈している
#。高位の役職に携 わる最善の人々とは「支配者」のことであり,下位の役職に交替で就任する普 通の人々とは「支配される市民」である「善き市民」のことである。この解釈 は,第1章の市民概念を前提とした解釈である。 Kraut の解釈に基づいて第4 章の議論を「支配」の概念を軸に整理すると次のようになると思われる。
! 主人的支配 これは奴隷を支配する支配形態であるが,支配する者は支 配される者の仕事を学ぶ必要はない。
(17) Schütrumpf, p.425f.
(18) Kraut, pp.366−8.
371 善き人の徳と善き市民の徳 −19−
" ポリス的支配 市民が支配されることと支配することを交替で行う。支 配されることによって支配することを学ぶ。
# 支配者になろうとする者はポリス的支配を学ぶことによって真の優れた 支配者になる。学んでいる間は未完成な人として支配される。
$ 「支配される市民」は高位の役職者に対しては「支配される市民」であ るが,下位の役職を務め,そのレベルにおいて相互に支配し合う。
% 高位の役職者と下位の役職者は, 「支配者」と「支配される市民」の関 係にある。
& 高位の役職者は「支配者」として「思慮」及び「完全な倫理的徳」を持
つ。
' 下位の役職者は「支配されるもの」として「真なる思いなし」及び「不 完全な倫理的徳」を持つ。
Kraut の解釈は第1章と第4章の理論的な連関を前提にしたものであるが,
最善の国制における下位の役職が明示されている他のテキストを示し得ていな い点で弱点を持つ。
ここで,第4章の論題がまとめられている第5章の末尾の箇所を参照した い。 そこでは,善き市民の徳と善き人の徳とが一致する人間はポリティコス (政 治的指導者)であると語られている。これは単数で表現されているので王を意 味している。しかし, 「自分一人でか他の人々と共にか(1 2 7 8b4) 」という選 択肢も示されているので,王のみではなく最優秀者たちも含んでいると考えら れる。この他に,この論題への!及的言及があるのは,第1 5章1 2 8 6a3 9,第 1 8章1 2 8 8 a 3 7− b 2である。第1 4章から第1 8章までは王制論に充てられ,貴 族制を含めた有徳な人物の支配に関する議論が展開されている。これらのこと から,第4章における最善の国制のモデルは,王制ないし貴族制であると考え るのが自然である。
第7巻第1 4章においても第4章に対応する議論が見られるので検討してみ よう。ここでは次のような趣旨の議論が展開される。すべてのポリス的共同関 係は支配する者と支配される者から成り立つ。支配者と被支配者の間の関係が
−20− 香川大学経済論叢 372
神と人間との間ほどの懸隔がある場合は,支配者は生涯支配者のままでいるべ きであるが,このようなことは事実上あり得ないから,同等の者同士であると 認め合い交替で支配し支配されるべきである。だが,同等の者たちの間におい て支配・被支配関係が固定化されると,その国制は正義に反するものになるの で長続きしない。なぜなら, 「地方の住民が被支配者と語らって反乱を起こそ うと構えている(1 3 3 2 b 2 9−3 0) 」からである。ここで地方の住民とは,理想国 家における農民以下の生産者層であり,被支配者とは軍隊に所属する若者たち であり,支配者とは成年たちである。ここでアリストテレスは,若者が体力と 能力に優れているので戦士の役割を果たし,やがて一定の年齢に達して精神的 にも成熟した頃に支配者に加わるという流れを作り出すための工夫を立法家に 託している。その際,若者たちの教育は「立派に支配する者になろうとする者 はまず支配されなくてはならない」 (1 3 3 3 a 2−3)という方針によって行われる べきであるとされる。そして,奉仕的仕事も目的が立派なものであれば経験す るべきであるという主張を述べたあとで,次の文が続く。
「市民すなわち支配者としての市民の持つ徳と最優秀者の持つ徳とは同じ であり,また人はまず支配されることによってそののち支配する者になら なければならないと我々は主張しているから,立法家は,人々が善き者に なるような仕組みを講じ最善の生活の目的を定めなければならないだろ う。 」 (Pol. VII1 4,1 3 3 3a1 1−1 6)
以上の通り,この箇所(1 3 3 2 b 1 2−3 3 a 1 6)において第3巻第4章にほぼ対応 した議論が展開されていることは明らかである。アリストテレスがここで描い ている最善の国制では,支配者は相互に同等のものであり,被支配者もやがて 支配する市民になる者として支配者と同様のものである。だから,いつまでも 支配を交替しなければ正義に反することになり反乱を招く元になるというので ある
!
。ここには,支配階級を成す人々はすべて思慮を持つか持つ能力があると
(19) ここでは,被支配者について,支配者と同等であるが何らかの事情で被支配者の立場 に据え置かれている場合と,支配者とは完全には同等ではないがやがて同等となる未完 成な青年層である場合が想定可能である。
373 善き人の徳と善き市民の徳 −21−
いう前提がある。この国制では,支配者の壮年層は国政の審議と意志決定に参 与し,青年層は戦士として支配者の命令を受けて行動し,老年層は現役を退き 神事に従事する(1 3 2 9 a 3 0−3 4)とされる。これら三者がポリス政治に関わる 社会層であり,農業・手工業・商業等の産業は奴隷身分の社会層が担う。
最善の国制においても支配の任から外れている人々が役職の配分の不平等に 憤って内争を起こすと述べられていることは意外な印象を与える。思慮を持つ 人々であればそもそも内争を起こすことを思いとどまるのではないかと思われ るが,これは,同等の者たちの間における栄誉の不平等という不正を放置する ことは思慮ある行為ではないと考えられているからではあるまいか。理想的な 貴族制においても内争の可能性を想定することは,先に述べたように,貴族制 が他の国制と並ぶ一つの国制であることを示している。貴族制の国制を分析す る際のこのような枠組みをよく示す例として,カルケードーンの国制の分析を 挙げることができる。
第2巻第9章から1 1章にかけて,よく治められていると言われている類似 する3つの国制が採りあげられている。ラケダイモーン,クレーテー,カルケ ードーンはいずれも少数の支配者がポリスの運営に関わる体制であり,貴族制 的支配という側面を備えていると考えられる。しかし,クレーテーは貴族制と いうよりも寡頭制の極端な形態であると判断されたため,一種の混合国制とし て或る種の貴族制であるとされるのは,ラケダイモーンとカルケードーンだけ である。ここでは,アリストテレスによる国制の分析の枠組みを示す箇所につ いて概略を述べる。まず,カルケードーンの国制は貴族制であるが,いくつか の点で民主制の方向と寡頭制の方向へと逸脱していることが指摘される。民主 制の方向への逸脱は,2名のバシレウスと長老会からなる「支配者たち」が提 案権を持っているが,民会にこの提案の承認権や反対意見の表明を許可すると いう譲歩を行っている点にある。寡頭制の方向への逸脱は,自己選出組織の5 人委員会がラケダイモーンのエポロス職にあたる1 0 4人会の役職を任命する権 利を持っている点にある。また,役職に手当が付かないこと及び選出が籤では ないことは貴族制的であるとされる。しかし,最大の役職であるバシレウス職
−22− 香川大学経済論叢 374
と将軍職は,能力や功績のあった者の徳に従って選出されるが,同時に就任に 際して金銭が必要である。これは十分な金銭を持つ余裕のある人間にこそ政治 が任せられるという理由によると思われるが,アリストテレスはこの制度を強 く批判する。結局この制度は役職の売買になってしまうというのである。そし て,この制度を設計した立法家に大きな責任があると批判する。法律が徳より も富を尊重していれば,そのような国制が貴族制的に確固として運営されるこ とはできない。 「主権者が何を尊重するにせよ,彼らに他の「市民たち」は追 従するもの(1 2 7 3 a 3 9−4 1) 」なのだから,立法家は, 「最善の人々が支配の職 にあるときにも,私人として生きるときにも,生活の資を稼ぐようなことをせ ずに余裕を持って生きることができるよう(1 2 7 3 a 3 3−3 5) 」制度を設計する必 要があるというのである。立法家は,優秀な人々のために生活の保障をしない としても,せめて彼らが支配の職にあるときには生活に余裕が持てるように配 慮するべきである。また,各人が自分の任務をよりよく迅速に完遂できるよう になっているが,その大きな原因は,戦争や海戦に関する事柄において, 「支 配することと支配されること(1 2 7 3b1 7) 」とが隅々まで徹底していることに ある。そして,この国制は富を尊重する寡頭制的側面を持つが,民衆の一部を 周辺の支配地域へ派遣して富を獲得させることによって彼らを懐柔し国制を安 定化させ内争を起こさせないようにしている。しかし,これは幸運の賜物であ り,法律によって内争を生じさせない方策を考えるべきである。もし「被支配 者の大衆(1 2 7 3 b 2 3) 」が立ち上がるようなことがあれば,現在の法律では沈 静化することはできないからである。
カルケードーンの国制についておおよそこのような内容が語られているが,
いくつか重要な点において,第4章の叙述と同じ様な言葉が使われていること に気が付く。まず,ポリスの政治運営の実権を握っているのは, 「支配者」で ある2名のバシレウス職,長老会,5人会,1 0 4人会であり,民会は制限付き であるが一定の権限を有している。そして,民会の構成員は「被支配者」と呼 ばれる。また,一般論を述べる形で間接的に彼らは 「市民たち」 とも呼ばれる。
このように,ポリスは国の重要な役職を握る支配者と被支配者に分かれてい
375 善き人の徳と善き市民の徳 −23−
る。この点で第4章の言い回しと同じである。また,支配者が支配職を離れ私 人として生きるということについても,第4章ではイアーソンの例によって示 されたことである。また,市民の任務が完全に遂行されている原因が支配及び 被支配の徹底にあるということについても,第4章において,市民の徳が軍事 上の支配及び被支配を通じて体得されるとされたことに通じる。
このように,第7巻第1 4章では理想的な貴族制が分析され,第2巻第1 1章 では貴族制の一種と見なされる国制が分析されているが,以上の検討から,こ れらの分析の枠組みが支配者と被支配者の区分に基づいているという点におい て第3巻第4章と共通していることがわかる。第7巻1 4章では,支配者は力 や富ではなく,徳によって支配の地位にあり,思慮ある支配者と被支配者であ る青年層との間の教育的関係を確立することが立法家の課題とされている。そ れでは,第3巻第4章における「支配される市民」という概念は,第7巻第 1 4章の議論で描かれた体制を念頭において書かれたものであろうか。それと
も, Kraut の解釈のように, 「支配される市民」の中に,エリート層の青年のみ
ならず,生涯支配者とはなり得ず下位の役職に交替で就任する市民たちを含め るべきであろうか。類似のテキストがあるという点では前者の解釈が有力であ るが,支配・被支配関係に関する第4章と同様の枠組みをもつカルケードーン の国制分析のような箇所があるという点を考慮するなら, Kraut の解釈にも可 能性があると思われる。
お わ り に
最後に,第4章の議論は何のために導入されたのか若干の考察を行って本論 の結びとしたい。本論の冒頭で述べたように, Simson の解釈によれば,善き 人の徳と善き市民の徳の異同に関する論題は,手工業者等の市民資格の正当性 を明らかにするためのものであるとされるが,もしそうであるなら善き市民の 徳を問題にするだけで十分であって,ことさら善き人の徳との異同を問題にす る必要はなかったであろう。では第4章の論題の意図はどこにあるのか。善き 人を育成する教育及び習慣は政治家や王を育成する教育及び習慣とほとんど同
−24− 香川大学経済論叢 376
じものであるとの第1 8章の記述
!から見れば,ポリスの最高エリートの育成方 法を明らかにすることが第4章の論題を導入した意図のように見える。しか し,将来の指導者の育成が重要であることは確かであるが,第4章の論題を導 入した意図がこのことによって説明できるだろうか。
第4章の前半の議論では,国制の多種類であることに対応して市民の徳も多 種類であることが強調されている。その議論は第1章の市民の定義に対応す る。第1章では国制が多種類あることを踏まえていずれの国制における市民に も妥当する定義が導かれた。第4章の後半では,徳と功績に従って役職が割り 当てられる貴族制における人間の徳と市民の徳との関係が考察され,これら が,思慮を持つポリスの最上層エリートにおいて一致することが明らかにされ たが,その際アリストテレスが当面批判の対象としたのは,支配者たる王の息 子は市民とは異なる教育を受けるべきだという思想である。第1巻第1章で は,ポリス的支配が主人的支配や家政的支配の規模の大きくなったものである との見解を批判し,これらが種類において異なるものであることを指摘してい る。主人的支配は自然本性的に主人であり奴隷である人間たちの間に成立する 関係であり,この支配は一方的な支配であって,生まれながらに主人の子は主 人の教育を受け奴隷の子は奴隷のしつけを受ける。それに対して,ポリス的支 配は,同等な者たちの間の関係であって,相互に支配を受け合う。したがっ て,ポリスの支配者になるには,支配されることも知る必要があり,支配され ることを通じて支配する能力を獲得する必要がある。 「支配される」ことの内 実は,テキストで確認できる限りでは,軍隊組織における上下関係の中で将来 の司令官を目指すプロセスであり,その中で若者は,上官の指導を受けながら 具体的な状況の中でいかに対処するかの方法を学び,それを担保する倫理的徳 と思慮を養うのである。最終的には正義や節制の徳に磨きを掛けて,支配者の 持つべきレベルにまで倫理的な徳を高めたときに,若者は全体を眺望しながら 十分な思案に基づいて的確な判断を下すことのできる指導者としての能力(思
(20) Pol.III18,1288a37−b2.
377 善き人の徳と善き市民の徳 −25−
慮)を獲得できるのである。ここでアリストテレスが主張しているのは,現実 の状況において経験を積んだ上でなければ,本当の支配術を身につけることは できないということである。主人的支配とは異なり,ポリス的支配においては 相互性が支配における重要な要素となる。部下が現実の状況において自分の命 令に従うかどうかは支配された経験がなければ分からないからである。このこ とは,優れた支配者になるには,善き人の徳に加えて善き市民の徳が必要であ るということを意味している。アリストテレスの理想とする最善の国制では,
支配者としての善き人々はお互いの間では人間としての徳において同等のもの であるから,その間で機能する支配の原理は相互的なものでなければならな い。善き人の徳に加えて,同等の者同士の間で支配と被支配を行う能力である 市民の徳が必要なのである。このことが,支配者は支配されることによって支 配することを学ぶべきとされる第一の意味である。これに加えて第二の意味と して,このことが貴族制に特徴的な選挙による支配者の選出に不可欠であると いう事情がある
!。
貴族制は,ポリスの目的と人間の目的とが一致する国制であるから,ポリス 本来の目的である「善く生きる」ことを実現するためにポリスの指導者は人間 として完成された者でなければならない。このような指導者を選出するには,
その人間の資質が同等の者たちによく知られていなければならない。そのため にも下級指揮官として人々の目に触れる活躍の場を獲得する必要があるのであ る。
しかし,最善の国制における支配者の徳の中に市民的徳を組み込むべきこと を主張するために,優れた支配者において善き人の徳と善き市民の徳とが一致 するということを証明する必要があるのだろうか。おそらくそうではあるま い。この主張は,もし支配者の徳に善き市民の徳が組み込まれていなければ,
真の意味において善き人の徳と善き市民の徳とが一致する優れた支配者が存在 する事実を確証することができないという意味を持っている。アリストテレス
(21) ポリスの重要な役職が選挙によって選出されることは貴族制的である(Pol.II11,1273 a18, IV14,1298b7)。
−26− 香川大学経済論叢 378
はこのことを言いたかったのではないか。つまり,第4章の論題が導入された のは,優れた支配者において両者が一致するという事実を明示するためであっ たのではないだろうか。このことは第1章の市民の定義を前提とするなら明ら かになると思われる。第1章において,市民とはポリスの「支配」に参与する 資格を有する者と定義された。ポリスを主宰する主権的部分に参与することが 市民の資格の核心である。そして国制が異なるのに応じて誰が市民であるかが 異なるとされた。これは支配する力がさまざまであることを意味する。ポリス の支配者は,民主制においては民衆の数の力によって,僭主制においては軍事 力によって,寡頭制においては富の力によってポリスを支配する。富の力とは 財産によって築かれる家門勢力や教養などを総合した力である。それぞれの国 制においてそれにふさわしい市民の徳があり,それを持つ人間が支配者とな る。つまり,市民的徳とは支配するための力である。第4章では,人間的な徳 がこの支配の力にどのように関わるのかが探られているのではないか。事実的 世界では一般的に善き人の徳による支配は問題にされないかもしれないが,ア リストテレスにとっては或る譲ることの出来ない直観的に明らかな事例があっ た。王あるいは貴族の支配である。そこでは善き人の徳がポリスを支配する。
つまり,アリストテレスは善き人の徳がポリスの支配に実効力を持つ事実を示 そうとしているのではないか。それはソクラテス・プラトン的路線を踏襲する ことであるが,それにとどまらず,最善の国制が諸国制の一つとして位置づけ られるために善き人の徳がポリスの支配に実効力を持つことを確認する必要が あったと思われる。
だが,第4章の論題はポリスの支配に善き人の徳が実効的に関わる事実を確 認するために提起されたという説明は未だ推定にとどまるものであり,このよ うな推定を確証するためには,この観点が第3巻全体の読解に有効であること を示さなくてはならないであろう。この課題は別稿において果たすことにした い。
379 善き人の徳と善き市民の徳 −27−
参 考 文 献
【ギリシア語テキスト】
Ross, W. D., Aristotelis Politica, Oxford : Clarendon Press,1957.
【引用文献】
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Newman, W. L.,The Politics of Aristotle, vol. III, Oxford : Clarendon Press,1902,(Arno Press, Repr.1973).
Saunders, T. V., ARETH and ERGON in Aristotle, Politics III iv, Mnemosyne,33,1980, pp.
353−355.
Simpson, P. P., A Philosophical Commentary on the Politics of Aristotle, Chapel Hill : University of North Calorina Press,1998.
Schütrumpf, E., Aristoteles Politik Buch II/III,Berlin : Akademie,1991.
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