高倉泰夫
『生産諸関係論としての経済学の成立』
九州大学出版会,1989年
高木彰
(Ⅰ)本書の概要
本書は,「一つの生産関係」としての資本の概念規定の形成を明らかにするこ とによって,即ち資本循環論の形成の過程を追求することによって,経済学の成 立を生産諸関係論を基軸において展開しようとするものである。その内容は,次 のようなものである。
第1章 資本理論および生産諸関係論の生成 第2章 『経済学批判要綱』における「資本一般」
第3章 「貨幣の資本への移行」と「貨幣としての貨幣」
第4章 「資本一般」の展開過程(1857〜62)
第5章 「23冊のノート(『経済学批判』)」(1861〜63)の拡充過程について 第6章 資本関係の再生産とW …W 視点の成立
第7章 外国貿易の捨象と再生産論の形成 第8章 「競争」から「信用」への移行と金融市場 第9車 生産諸関係・交通諸関係・分配諸関係
ここで,著者は「各章間は理論的にも問題意識でもそれぞれに密接な繁りをも って叙述されている」(「はじめに」i頁)としているのであるが,それ以前の問 題として,経済学の成立を生産諸関係論として展開しようとするその問題設定自 体の必然性,従って課題が課題たりうることの説明が必要であると思われる。経 済学とは経済諸現象の体系的展開のことである。その経済現象は,生産様式によ って基本的に規定されるものである。その意味で経済学は生産関係のみならず,
生産力との統一として存在しうるのである。それを生産関係の側面のみを一面的
に問題にすることによって何が見えてくるのかということ,そのような課題設定 の積極的意味がまず明らかにされておかねばならないものといえよう。本文を熟 読することによってそのようなことは自ら理解されうることかもしれないが,評 者をも含めて本書のような課題に対してかならずしも精通していないものにとっ ては,それを読み取ることは難解である。
著者の経済学研究の基本的態度は, I 現代の資本制的生産を分析するための基 礎理論構築」ということであり,その「利器」を「マルクスの著作自体という武 器庫のなかで J (同前)探そうとすることである。マルクスの資本理論の形成過 程の追跡もかかる問題意識に支えられてこそ一定の意義をもちうるものといえよ
フ。
著者は,その形成過程の追跡の中で得られた結論の一つは, I マルクスの『経 済学批判」体系プランは社会的分業の体系として構成されており,国民経済内部 での経済学的諸範時はそれぞれ物象化した『一つの生産関係』としてとらえられ ており,その複合体としての生産諸関係論として,すなわち物象化して表現され た社会的分業として『資本論』が構成されている J (同前)ことであるとする。
そこでは,社会的分業が物象化して表現された生産関係であるとすることによっ て , I 社会的分業の体系」としての『資本論』と「生産諸関係論」とが同ーのも のとされているのである。この点は後になって「国民経済における社会的分業の 構造」を「生産諸関係」においてとらえることが「マルクスの視角 J(265頁)で あるとされるのである。しかし, I 社会的分業の体系」と「生産諸関係論」とを 同一視することと, I 社会的分業の体系」を生産関係論においてとらえることと は全く別のことである。両者の聞には理論的相違が存するものといえよう。この 相違が認織されることなく本論が展開されていることが本書の理解を妨げること にもなっている。
著者は又「生産諸関係と交通諸関係 J ,従って資本制社会の運動機構と,その 物象化機構それを解明することが「マルクスの意図 J (同前)であるとしている。
ここで,物象化された生産関係の複合体,物象化機構とは,運動機構に対応する もののことであり,資本制経済のいわば構造的把握に関わるものとして了解され るのである。資本制経済の構造的分析としてではなく, I 生産諸関係」として問 題にされることの意義が,或は両者の相違点が明確にされる必要があるのである。
更に,運動機構の分析を欠落させる経済学の成立は,当初から極めて限定された
ものにならざるをえないと思われるのであるが,そのような考察のもつ一面性に
ついて何らかの説明がなされてもよかったと思われる。
いずれにしろ, 1 社会的分業の体系」と「生産諸関係論」を同ーのものとして 把握するという著者の結論が如何にして導き出されたのかが,本書において果た されるべき第一の課題とされねばならないといえよう。
まず,各章の主な内容について簡単に記しておこう。
第 l 章においては, I r 一つの生産関係 J としての貨幣から出発して,生産諸関 係の総体にまで至ること,即ち市民社会をその総体において把握することがマル クスの方法となる J( 3 7 頁)ことが,マルクスの初期の論稿(1 8 5 7 年以前)を通 して明らかにされる。市民社会の総体とは, 1 生産諸関係の総体」のことであり,
それ故,マルクスの『経済学批判』の「前半体系」も I r 一つの生産関係』であ る貨幣,資本,信用,流通,資本制的土地所有,賃金等の複合体としての『生産 諸関係』つまり市民社会を,総体としての物象化機構として把握すること J ( 3 7 頁)であるとされる。その際の基本的視角は貨幣資本循環 G … G' であるが,そ のような資本循環範式の三形態を析出することが,本書全体の主題となっている のである。
第 2章においては, r 経済学批判要綱』における蓄蔵貨幣論を手掛かりとして,
「そこにおいて貫いている基本的な資本循環の視角 (G … G ' )を析出し,次に それによりながら『要綱』時点での『資本一般』の方法的限界 J ( 4 1 頁)を示す ことが試みられる。『要綱』の「資本一般」は, 1 資本を価値の運動体としてとら えることを第ーの課題としていた J ( 4 1 頁)のであるが,然るに,そのことは同 時に「資本一般」と「諸資本 J との「方法的な連続性を切断することになってい る J ( 4 3 頁)とされる。
第 3 章においては,貨幣の資本への転化の問題が論じられているのであるが,
そのことを通して『要綱』以降「弁証法的・歴史的移行という方法はとられなく なる」ということが示され,それは I r 要綱』と『経済学批判』においても,貨 幣論での蓄蔵貨幣及び『貨幣の資本への移行』の処理の変化において,その方法 上の変化としてみることができる J( 6 9 頁)とされ, 1 それは『批判』で確定した 論理的方法の貫徹であり,弁証法的・歴史的方法が少なくとも前半体系の方法で はなくなったことを示 J ( 8 6 頁)めすものであるとされる。
第 4 章においては, r 要綱』から『経済学批判 J に至る「資本一般」の概念規
定を追跡する中で,当初の「資本一般」の論理構造のうちにあった難点が, 1 8 6 1
年以降いかに克服されていったかが分析されている。そこでは, 1 1 8 6 1 年以降の
『資本一般』は『諸資本」の視角を含まざるをえなかった」のであるが,そのこ
とによって I~競争』や『信用』がし、かに『経済学批判』体系中に含まれるようになったのかの方法的基盤を定めうる J ( 8 9 頁)ということが明らかにされる。
第 5 章においては, 1 2 3 冊のノート J(~経済学批判 j) が理論的に拡充されてい
った過程が追跡される。そこでは社会的資本と個別資本の次元の差が明確にされ ることが論じられているのであるが,そのことは同時に再生産論の生成及びスミ スの IV+M のドグマ」の克服を可能ならしめたとされる。それは一方では「ケ ネーの経済表」の評価を可能ならしめ,他方では D. リカード地代論の批判を可 能ならしめたのであるが,著者はそこに「それまでの叙述プラン(特に『第 3 章 資本と利潤j ) の大転換を引き起こすことになる J ( 1 2 5 頁)ことを見ているの である。次いで, 1 資本と利潤」の検討を通して, 1 信用論の導入と第 2部の再生 産論への貨幣流通の導入とは表裏をなしていた」ことが明らかにされ,そのこと は「再生産論を基盤として信用論を構築するという構想が成立したことを示唆し ている J ( 1 6 5頁)ことを明らかにされるのである。
更に,第 5 章においては,生産力の上昇についての社会的資本と個別資本とに おける相違について, 1 1 8 6 1 年以降のマルクスの経済理論の発展は, 1 8 6 1 年のノー ト1‑ ‑ ‑ ‑5 冊での社会的資本と個別資本の次元の差の明確化を出発点とした上で,
社会的労働の生産力諸力上昇が個別産業次元のみでなく,社会的資本の次元でど のように現われるかということに対する理論的研究の深化であり,それは実物視 点のみでなく貨幣的視点からもとらえようとするものであった J ( 1 6 5 ‑ ‑ ‑ ‑6頁)と されている。しかし,個別資本において行なわれた生産力の上昇が社会的総資本 の生産力を上昇させうるのは,従って,個別的な生産力の上昇の契機が社会的な ものとして評価されうるのは,一方では市場機構を媒介することにおいてであり,
他方では産業循環という資本の運動の基本的な l期間において,結果として達成 されることになるのであるが,そのような運動機構の解明が不可欠なのである。
生産力の上昇が社会的に達成されることを理論的に明らかにするためには産業循 環の運動機構の理論的解明を前提としているのである。著者はその視点を欠落さ せたままで生産力の上昇を論じているのである。
第 6 章においては,商品資本循環の形成が論じられ,資本循環論の意義が, 1 資
本制社会の運動をとらえる視角としても重要な意義を持っている」ことにあると
され,又, 1 資本循環論は自由主義段階を越えた,資本制的生産における資本の
行動を各段階において位置付けうる視座としてもとらえられる。それと対応する
物象化論の射程もまた,資本制的生産の各段階とくに現代の資本制的生産に及ん でし、る J ( 2 2 3 頁)として,その資本主義分析における意義が明確にされている。
第 7 章においては,国民経済の考察において外国貿易の捨象の意義が論じられ る。それは再生産論の形成と時期的には一致しているのであり,国民経済全体を 使用価値及び価値の二側面からとらえる視角が明確になる中で,外国貿易の捨象 を言いうるにし、たったとされる。更に, r 再生産論の形成は世界市場と国民経済 を区別する理論上の基盤を与えた」のであり, r 同時にそのことは後半体系の出 発点とは何であるのかも明らかになったといえる。即ち,再生産論が又後半体系 をとく場合の基礎であることが 1 8 6 1 年以降明らかになったといえよう J( 2 4 6 頁) とされる。
第 8 章においては, r 競争」で展開された理論に対して,貨幣論,再生産論で 展開された要因が付加されることによって, r 信用」の新たな理論展開が可能に なったことを示そうとするものである。そこに著者は, r 商品流通と対比された 金融的流通の肥大化という現代の資本制的生産をもとらえうる基礎視角 J ( 2 6 4 頁) を認めるのである。
第 9 章においては,物象化した生産諸関係及び交通諸関係というこ様の視角は,
分業と交換とに則した把握であるが,
~要綱」において労働力商品範時が明確になることによって,分配諸関係という視角が追加されることが明らかにされる。
ここで本書の検討に入る前に,次のことを指摘しておきたい。それは,第 1章 の官頭が次の一文で始められていることについてである。
「マルクスは 1 8 4 4 年の経済学研究への着手以来,資本概念については一貫して 固定資本・流動資本という古典派経済学にとって一般的である範時を使用してい ない。それらの用語がみられるのは自己の資本把握が確立した『経済学批判要綱』
においてであり,その際には自己の体系中の概念としてそれらの用語を使用して いる J (1頁)。
これは些か独断的な結論であるように思われる。マルクスは,
~要綱』以前にも固定資本・流動資本の範時を使用しているのであり,
~要綱』においても『学説史』においても古典派的残浮のある固定資本・流動資本範時を使用しているの
である。それは, r 流動資本と固定資本との聞の比率の撹乱」によって恐慌の発
生を論じるということである。まず,
~要綱』以前の 1856年 6 月に執筆された「フランスのクレディ‑モピリエ〔第 3 論説 J J においては, r 賃金の支払いや原料の
購入のために残しておく部分と不釣り合いに彼の資本の一部を建物や機械設備に
投下するような工場主は,まもなく,自分の工場を停止させなければならなくな るであろう。同様のことは国民経済についてもあてはまる。近代におけるほとん どすべての商業恐慌は,流動資本と固定資本との間における適当な比率が撹乱さ れることと関連をもっている。 J(rマルクス・エンゲルス全集』⑫, 3 3 頁)とされ ている。
『要綱』では, r 流動資本の固定資本への転化」は生産力水準に照応し,両者 の「比例性 J ( G r . 5 9 5 ) を維持することが再生産過程の円滑な進行の条件である とされ,かくて, r 近代産業の不断の過剰生産と過少生産においてー不断の動揺 と産撃は,流動資本の固定資本への転化がある場合には余りにも少なく,ある場 合には余りにも多く行われるという不均衡に依存している J ( G r . 5 9 5 ) とされる のである。
そこでは,マルクスは,固定資本と流動資本とにおいて「諸労働相互の社会的 関係」と「労働の社会的生産力」とを資本の属性として措定することによって,
「ブルジョア者の内部的仕組み」の総括的把握を行なおうとしたのである。それ は明らかにスミスに特有な資本の形態規定による再生産過程把握の方法と理論的 には同ーのものである。『要綱」における固定資本と流動資本の範時については 本書に言及されているが ( 5 2 " ‑ ' 5 6 頁 , 1 0 0 " ‑ ' 1 0 1 頁),そこでは再生産過程把握の 問題として整理されているわけではない。
又 ,
r学説史~( 2 3 冊のノート)においては,部分的過剰生産は, r 不均衡な生 産から発生」するのであり, r この不均衡な生産の一般的な形態は一方では固定 資本の過剰生産でありうるし,他方では,流動資本の過剰生産でありうる」
(Meh.2.52 1)とされているのである。
最後に『資本論』においては, r 固定資本と流動資本との生産における不均衡 は,恐慌を説明するために経済学者達が愛用する論拠の一つである。このような 不均衡は,固定資本がただ維持されるだけの場合にも起こりうるし,又起こらざ るをえないということ一一これは彼等には耳新しいことなのである J ( K a p . 2 . 4 7 3 ) とされている。この『資本論』において初めて流動資本の固定資本への転 化の比例性の撹乱によって恐慌の発生を説くという展開が否定されることにな る。即ち,固定資本と流動資本の範時に関する限り,そのスミスの残津が払拭さ れうるのは漸く『資本論』においてであるということである。『学説史』におい ても『要綱』と同じ理論水準において固定資本と流動資本が論じられていたので ある。
かくて,マルクスは自己の資本概念を確立した段階においても,古典派的意味
における固定資本・流動資本という範時を使用しているのである。そのような残 浮を払拭出来たと言いうるのは,
W資本論』の段階に至つてのことである。一方 でマルクス自身の概念が設定されながら,他方で同じ問題に対して古典派的影響 を払拭しえないでいるというのがマルクスの経済学研究の歴史であるといえよ つ 。
( 1 I )本書の方法について
マルクスの資本理論の形成過程を追求する場合,第一に問題にされねばならな いことは,
W要綱』と『資本論』との関連についてである。確かに,著者の指摘 するように I W 要綱」から『資本論』へは一直線の深化の過程, W 資本一般』の単 線的な拡充過程 J ( 9 0 頁)として論定することは誤りである。しかし,著者は『要 綱』と『資本論』の間には理論的不連続性が存在すると明言されている訳ではな いのである。むしろ連続説に近いものといえよう。確かに, 1 8 6 1 ‑ ‑ ‑ 6 3 年に執筆さ れた 1 2 3 冊のノート」について,一方では「叙述プランの大転換を引き起こした」
とされるのであるが,他方では,それは 1 8 5 9 年プランの「修正」されたものであ り,理論的に「拡充 J ( 1 4 5 頁)されたものとして規定されているのである。 1 2 3
冊のノート」と『資本論』との間にどのような方法論的変化があったのかについ て本書では問題にされていないのである。
しかし,マルクスの資本理論の形成過程を連続的変化において捉えようとする 方法においては, W 資本論』以前のマルクスの著作にいわば前駆的思想を探し,
理論的萌芽を求めることになり,その萌芽の成長と延長において成立したものと して, W 資本論」を位置付けることになるのである。しかし,そのような試みは
『資本論』の古典派経済学に対する理論的革命とされるその構造的特質を不明瞭 にするものでしかないのである。
これに対して,評者は,
W要綱』と『資本論』との間に理論的には不連続性が 存しているものと把握している。それはガストン・パシュラールの指摘する「認 識論上の断絶」として定式化されうるものでもある。その場合, W 学説史』は,
理論的不連続性を惹起する重要な契機として位置付けられることになる。いずれ
にしろ不連続説においては『要綱』と『学説史』とは,それぞれそれ自体のレー
ゾンデートルをもつものとして規定されねばならないのであり,それら両者を『資
本論』への一里塚として規定することは適切ではないものとなる。
著者が『要綱」と『資本論』との関係を理論的不連続性において把握しようと することは,
~資本論』体系からの裁断として,或は『資本論』において結実する理論的萌芽の確認として『要綱』と『学説史』が検討されていることに見るこ とができるのである。例えば,
~要綱』においては,貨幣資本循環に依拠した分析であるために,理論的困難性(著者はそれを『要綱』の論理構造にもたらされ た「偏筒 J ( 9 0 頁)としている)が生じ,それを克服するものこそ,生産資本循
環 (r~要綱』では生産資本循環の視角が確立していなかった。つまり蓄蔵貨幣を取り扱いうる視角がないのである J ( 4 9 頁))と商品資本循環の析出であるとして,
その析出過程を追求するという手法がとられることになるのである。しかし,そ れは二重の誤りを生むことになるものといえよう。第一は,
~要綱』それ自体の理論的特徴を見失わしめることであり,第二は,資本循環論の成立を個別資本循 環の析出に還元してしまうことにおいてである。そこでは,連続説を採用する場 合の『資本論』形成史研究のいわば限界が示されているのであり,本書の方向を より進めようとする研究は全くの文献詮索に終ることを示唆しているのである。
『要綱』における理論的特徴とは,それが「資本一般」体系であることにある が,それは同時に「諸資本の競争」による補完を不可欠とすることにおいて,
~要綱』では「資本一般」と「諸資本の競争」と
L、ぅ方法論上の問題を提起すること になるのである。その際,著者が強調するのは, r 社会全体の資本 J= r 一つの 資本」と
L、ぅ方法による制約であり, r 無理 J ( 8 9 頁)である。そのような「無理」
のために「労働の生産諸力の上昇が剰余価値の生産として現われる論理の展開が 制約されること」になり, r 生産諸関係の物象化論を特に労働過程において根拠 づけることを不十分 J ( 1 7 5 頁)なものにしたとするのである。
然、るに,
~要綱』における方法的制約性と無理を指摘することからは, ~要綱Jそれ自体が展開を意図していたことをみることができなくなるのである。『要綱」
においても,資本制経済の構造的分析と動態的分析とが意図されていたのであり,
社会的再生産の過程を一つの総体性において把握しようとすることが試みられて いたのである。その際, r 資本一般」のもつ方法的制約性を強調することは,そ こで採用されている理論構造の把握を不可能ならしめるものである。少なくとも 著者が『要綱」の理論構造について「資本一般」と「諸資本'の競争」の関連を如 何に把握するかという問題として言及していないのはそのことと無関係ではない
と思われる。
次いで,資本循環論の成立についてであるが,個々の資本循環範式は,遅くと
も 1 2 3 聞のノート」において析出されているものといえよう。しかし,そのこと は , W 資本論』第 2 部第 4 章において論じられている資本循環論の成立とは理論 的に相違するものである。社会的総資本を 3 循環の統一と連続性において,従っ て「連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は,ただ単に流通過程と生産過程 の統ーであるだけでなく,その 3 つの循環全部の統一 J( K a p . 1 . 9 8 ) として規定 するということは,少なくとも『要綱』や『学説史 J における資本循環論とは大 きく相違しているのである。個々の資本循環範式の析出を追求することも極めて 重要であるが,そのことと「全体を究め尽くす J こと, 1 全体を見渡して新しく 秩序づけること」は全く別のことであり,
W資本論』における資本循環論が成立 するためには,
W資本論』全体の論理構造が明確になっているという方法論的前 提が必要なのである。
確かに,著者は「資本循環論は, W 資本論 J 第 2 部第 1 編あるいは,第 2 部全 体での視角としてだけではなく,資本制社会の運動をとらえる視角としても重要 な意義を持っている」として,更には「資本循環論は自由主義段階を越えた,資 本制的生産における資本の行動を各段階において位置付けうる視座としてもとら えられる J ( 2 2 3 頁)としている。しかし資本循環論が資本の運動把握の「視角」
であり, 1 視座」であるということは,個別的資本循環範式の問題でしかないの である。資本循環論において社会的総資本を 3 循環の連続性と統一性とにおいて 規定するということは社会的総資本を構造と動態の統一において統括するという 方法を必然化せしめるのである。
( I I I )本書の問題点について
本書の展開領域は極めて広いために,その全体についてコメントすることは評 者の能力の及ぶところではな
L、。ここでは, 1 資本一般」と「諸資本の競争 J の 関係に関連して若干のコメントを試みることにする。
著者は, W 要綱』での「資本一般」の方法は, G…G' であるが,それは一方で は「資本を価値の運動としてとらえること」を可能にし,他方では「資本一般」
と「諸資本」との「方法的な連続性を切断すること J ( 4 3 頁)になっているとし
て,この「資本一般」と「諸資本」の連続は, 1 2 3 冊のノート」において果され
るのであり,それを可能にするものは, 1 一方での P … P ,他方での W' … W' 視
点の統一」であるが,それは同時に I W 要綱』おける『資本一般』を貫く視角の
修正 J ( 6 6 頁)を意味することになるとする。即ち, r 資本一般」について『要綱』
と r 2 3 問のノート」とにおいては, r 視角を大いに異にしている J (同前)のであ り
, r 視角の修正」が存するということである。ここで, r 資本一般」と「諸資本」
の連続とは,
rw社会全体の資本~= w 一つの資本」とL、う制約を外し, w 資本一 般」の中に既に『諸資本』の展開を含む J (同前)ということである。それ故,
著者は, r 資本一般:'jがその体系に「諸資本」を含むものとして展開されること を「資本一般」の「視角の修正」とするのである。
そこでの問題は,第一に, r 視角の修正」された「資本一般」は依然、として「資 本一般」でありうるかということである。内容の拡充された「資本一般 J ,或は 厳密な意味ではない「資本一般」というものが存立しうるかということである。
「資本一般」とはまさしく厳密に規定されるからこそ「資本一般」でありうるの である。
第二は, r w 資本一般』と『諸資本」との方法的関連を問う」ということは, w 諸
資本~= w 競争』又は『信用』等とする方法とは異質である J ( 8 9 頁)とされて いることについてである。著者が「なお『要綱』を書き終えたマルクスが,
・この時点で『資本一般』の中に『競争」等以外の『諸資本』の契機を含むこと が考えられ始めた J ,或は r w 要綱」の「資本一般」の外部には, 1 8 5 8年以降にみ られるような「諸資本の競争」等に含まれない, 1 8 5 7 ‑ ‑ ‑ ‑ 5 8年当時に独自の「諸資 本」の問題が存在していた J ( 1 05 頁)とする場合, r 諸資本の競争」とは区別さ れる「独自の『諸資本』の問題」とされるものの理論的意義は何かということで ある。
第三は, r 資本一般」と「多数の諸資本」との連続性ということに関わる問題 である。両者は,本来方法論的には「連続的」ではありえないところにその理論 的特徴が存していたのである。
以上の三つの問題は, r 資本一般」と「諸資本の競争」との関係を如何に理解 するかという問題に還元されるのである。
ところで, r 資本一般」とは「資本としての価値を単なる価値または貨幣とし ての自己から区別する諸規定の総括 J ( G r . 2 1 7)のことである。この「諸規定」
とは「自己の限界を乗り越えようとする無限界的・無制約的衝動」のことであり,
「より多くの剰余価値をっくりだそうとする不断の運動 J ( G r . 2 4 0 ) のことであ
る。そのような諸規定を解明するものとして,資本は,即目的に考察されねばな
らなかったので、あり,著者の指摘するように「資本一般」とは「そのものとして
の資本 J= r 全社会の資本 J . r 一つの資本」とされたのである。
「資本一般 J は,極めて抽象的な規定における資本であるが故に. r 自立的実 在性」が付与され,現実的資本として措定されねばならないのであるが,そのよ うな課題の展開領域が「諸資本の競争」編なのである。「資本一般」の規定それ 自体が. r 他の資本との関係における考察 J . r その実在性における資本の考察」
( G r . 5 7 6 ) を別個に必要とすることになるのであり. r 資本一般」は. r 諸資本の 競争」による補完においてのみ資本の一般的規定を解明しうるものとなるのであ る。その際. I 資本一般」と「諸資本の競争」とは論理的に次元を異にするので あり. r 連続的」な連関は当初から存在しないのである。
かくて. r 資本一般」が「諸資本」を含むとされ,本来のそれとは「方法的に みて構造的に相違している J ( 1 2 1 頁)とされる場合,それは既に「資本一般」そ のものではありえないのである。「資本一般」が別の内容のものに転化したとす れば別の用語が用いられねばならないのである。著者は. r 2 3 冊のノート」の時 点でも「資本一般」という用語法は続けられながらも. r 社会的資本は多くの諸 資本又は産業部門より成るという認識の上に立っている J ( 1 1 1 頁)としているが,
そのことの理論的合意がそこでは検討されねばならなかったのである。
「諸資本の競争」について.
~要綱』においては独自の理論構造が提示されているのであるが,本書はその点についてはあまり重要視していない。「諸資本の 競争」とは. I 資本としての自己自身に対する資本の関連 J . r 資本としての資本 の実在的な関係行為 J( G r . 5 4 3 ) . r 資本自身の諸条件であるような諸条件の内部 での諸資本の運動 J( G r . 5 4 4 ) を考察するものである。「多数の諸資本相互の聞の 交互的作用 J( G r . 3 1 1)の結果として. r 資本の内在的諸法則」は,外見上「覆さ れ」たかのように現われ. I 反対の形」で現象することになるのである。
その際「競争」の実体は,資本が「総体としての資本の諸条件」の中に置かれ
るということである。ここで. r 総体としての資本の諸条件」とは,それ自体と
しては,相互に無関心性と自立性とにおいて存在する個別的諸資本の相互的行動
によって,それらの外見的には独立した行動とそれらの無規制な衝突によって形
成されるものであり,諸資本の単なる集合としての「多数の諸資本」によって形
成される条件のことではないのである。即ち. I 総体としての資本」と単に「諸
資本」が多数存在するという「多数の諸資本」とは相違しているのであり. r 諸
資本の競争」と「競争一般」とは理論的に区別されねばならないということであ
る。それ故,著者とは逆に評者は「多数の諸資本」としての問題ではなく. r 諸
資本の競争」としての問題にこそ分析の重要性が存するものと理解している。
『要綱』においては, r 諸資本の競争」についての言及が「生成しつつある資 本
j, r 生成した資本
j, r 果実をもたらすものとしての資本」のそれぞれにおいて 行なわれている。それは「資本一般」の全範囲に対応して「諾資本の競争」を展 開するということである。「資本一般」編に対応した内容のものとして「諸資本 の競争」編が構想されていたのである。
『学説史』段階においては, r 資本一般」と「諸資本の競争」の関連について はそれ自体として問題にされていないのであるが,スミス経済学の方法を克服す る問題として提起されているのである。しかし,本書ではその点については全く 言及されていない。スミスの経済学を方法的に特徴づけるものは, r 本質洞察的 な考察」と「現象記述的な考察」との二様の研究方法の併存ということである。
マルクスは, Ir資本論」においては, r 資本一般」に続いて「諸資本の競争」を展 開するという構想を構造と動態の対応関係として再構成するに至るのであるが,
そのような方法を確立するのに大きな影響を与えたのが r 2 3 問のノート」におい て行われたスミスの「二様の分析方法」の批判的克服である。資本制生産の諸事 象を「資本主義的生産の内的関連」を考察するものとしての「資本一般」と, r 競 争のうちに現われる通りの事物の連関」を考察するものとしての「諸資本の競争」
どに分類する限りでは,スミスの理論的地平に留まるものでしかない。それ故,
「資本一般」と「諸資本の競争」を夫々独立の編として経済学の体系を構想する ことではなく,両者の統一的止揚の方向において構想することによってのみスミ スを乗り越え,マルクス独自の体系の確立が可能になったのである。勿論,現行
『資本論』がそのようなものとして構成されているということではない。かかる 理論的方法において『資本論』を再構成することが必要であるということ,それ が評者の了解している形成史研究の結論の一つである。
ところで,著者は, r マルクスの方法は社会的交通の中の貨幣から始まり種々 の物象化した生産諸関係論へ至り,それらを分配諸関係としてもとらえる中で,
諸階級の存立の根拠,そして社会的諸権力の存立の根拠の論証へと至っている。
このような方向から『資本論』を見るとき,それは一方てーは聞かれた体系として,
そして未完成の,可能性をもった体系としてとらえることができる。それは,一 定の予定された体系の中において『資本論』を固定化する方向とは異なっている」
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