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町 村 合 併 と 教 育

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(1)

町 村 合 併 と 教 育

小 松

 昭和28年10月施行の町村合併促進法は,昭和31年9月30日までの3年間に,9ε95の市町村の 数を3741に減少することを目標とした。その3年間,種々の波瀾を起しながらも,一応,市町 村の数を3973にまで減少することに成功した。その後もなお合併が進行し,現在に於ては,国 の目標とした数を突破している。そうして,合併によって誕生した新市町村は,今や,新しい

「世づくり」「村づくり」に真剣にたちむかっている。

 社会機能としての教育は,必然的に,rこの新しい「町づくり」「村づくり」に如何に対応 すべきであるか。』 と,いうことを問題としなければならない。この小論丈はその問題の究明 を企図するものである。

 この問題へのアプローチとして先づ町村含併の原因について考察してみよう。

 終戦後,我国民主化の体制が着々として押進められたが,その一環として,中央集権的な制 度を排し,地方自治制度の強化がとりあげられた。地方自治の強化に伴い地方自治体の能力が 問題とされるようになるのは当然なことと言うべきであろう。昭和25年のシヤウプ使節団は,

行政事務再分配に関して次のような勧告をしている。

 「地方行政事務はできるだけ優先的に住民に直接関係の深い市町村に行わせることが望まし い。けれども,さしあたっては行政事務を処理する能力のある団体に与えられなければならな い。……市町村の規模の合理化を図る手段をこうずべきである。」

 地図自治の強化は必然的に地方行政の内容の増加拡大となり,それに対応するだけの財政能 力が要求される。明治22年に制定された町村的規模では, この要求を充たすだけの能力を欠 ぎ,事実,それはまもなく赤字町村の続出となって証明された。かくて,町村合併促進法の制 定となり,昭和28年より市町村の合併が行われ,全国の津々浦々に新市町村が誕生するように

なったのである。

 こ鼠に銘記すべきは,明治に於ける町村合併が,中央集権のために行われた(このことにつ いては後に詳述する)のに対して,昭和の町村合併は,我国民主化のための地方自治強化に起 因するということである。

 町村合併により,弱小町村が整理統合され,議会費,役場訳詞の諸経費を軽減し,地区住民

の福祉のための施策が充実されるであろうことは,理論的には一応諒解できる。その点,町村

の合併が地方自治体の能力の強化に役立つであろうことも認められうるであろう。しかし,町

(2)

村合併が果して真にその自治能力を強化することができるかということについては,甚だ疑問 とせざるを得ない。

 田中二郎教授は戦後の地方財政の窮迫と地方自治の危機について,地方行政制度そのもの に,地方財政制度の建て方に,及び地方行財政制度め運用にその原因があるとされている。

(註1)即ち,第1については,地方行政組織の民主化のための機構の複雑彪大(長の公選制 の採用,執行機関としての各種行政委員会の設置,教育委員会の設置及びその事務部局の拡 大,義務教育延長による教育施設の整備,議会の常任委員会の設置,議会事務局の設置など)

に伴う経費の膨脹と,生活保護法,児童福祉法,労働関係法等の社会保障行政の充実に伴う経 費の膨脹を指摘されている。第2については,地方自治体に自主的財源が乏しく,しかも義務 的経費が甚だ多く地方財政の弾力性に欠ぐることをあげ,更に,地方交付制度の採用は,地方 の国に対する依存度を高め,殊に交付金又は交付税の算定方法が複雑で地方団体の予算編成時 にその額の適確な予測が困難な事1階にあるとし;又,国庫補助負担金制度に於ける補助単価の 不合理からくる地方団体の超過負担,しかも,地方財源に乏しい地方団体がこの補助金に依存

しようとしたこと,あるいは,地方起債の累積より公債費の膨脹などを指摘している。第3に ついては,人気とり的な単独事業のやりすぎ,徴税努力の不足などをあげている。このような ことは県自治体に限らず,多かれ少なかれ市町村自治体についても言えることであろう。戦後 の自治制度は制度的に保障されるだけにとゴまり,その財政的裏づけなしに出発させられたと 言う事実が,地方財政を窮迫せしめ地方自治を危機においこんだと言うことができよう。

 しかし,私は,地方財政の窮迫と地方自治の危機は単にこれだけの原因によるものとは考え たくない。否,むしろもっと根本的な原因が他にあるとするものである。

 その根本的な原因とされるものを明らかにするための一方途として,明治に於ける町村合併 について検討する必要がある。

 明治7年の調査では,町村の数は80372で,1町村の平均戸数は88戸,410余人である。(註 2)これらの町村は鈴木栄太郎氏の言う自然村である。 (註3)明治22年の町村合併はこの自 然村をいくつか合併することによって一行政村を成立せしめたのである。明治21年に70435あ った町村数は明治22年の合併により13347の町村数となったのである。(註4) この町村合併 の理由としては,従来の町村の規模があまりに零細で政治諸般の施設に不便であることもあげ られるけれど,むしろ,真の理由は,旧制を廃棄し諸制度を新政府のもとに統一しようとする 中央集権にあったのである。

 しかし,古い歴史と伝統を背景とし,社会的,経済的に強固な生活共同体を形成している旧 幕村は,中央集権的町村合併にはごとごとに反機し・その共同体を維持せんとしたのである。

明治の町村合併は先づ明治4年4月布告の戸籍法に始る。その戸籍法第3則によると「……其

一区テ定ムルハ四五町モシクハ七八村テ組合スヘシ然レトモ其小ナルモノハ数十二及ヒ大ナル

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モノハーニニ止ルモ都テ其時宜ト便利トニマカセ妨ヶナシ」とある。この1区.には戸長と副戸 長がおかれた。元来,この戸長は単に戸籍掛の官吏にすぎないのであるが,実際はその他,土 地人民の事務をも取扱うようになったbこれに対して,従来の町村より劇しい抵抗が生じた。

「諸国村町二於テ従前庄屋名主年寄ト称シ公事二関係ノ諸務取扱来候処,戸籍編成二付テハ別 段戸長副戸長差置土地人民ノ処分為致候向不少一事両道二渉リ主宰抵抗ノ弊害モ有之随テ村町 回入費モ相三下儀二付一般旧来ノ名義テ廃シ都テ戸長副ト改称諸事総括為致三方可為便宜適用 ト存候依之別紙布達三相添此段相伺候也」との井上大蔵大輔の正院への伺となったのである。

(註5)明治5年4月の大政官布告第117号は戸長を解消し,新に区に区長,小区に副区長をお き,町村に於ては従来の庄屋名主年寄をそのま鼠戸長副戸長に改称するようにし,詳細は地方 官の任意に任かせるとした。かくて,府県の下に数個の大区をおき,大区に更に数小区をお

き,小区は数町村を包括するものとした。大区に区長を,小区に戸長を,町村には戸長の部下 として副戸長,用掛,組惣代等の名称の吏員を設けた。従来の村役人の地位はこの戸長が占め るようになり町村は行政の単位としての性質を失うに至ったのである。

 か」る町村無視に対する町村の二二はいよいよ劇しく,ついに政府もその対策として,明治 11年7月郡区町村編制法(明治11年布告17号)を定め,町村の再確認をせざるを得なかったの である。同法案の説明書に「旧慣二三ルニ町村ハ実ニーノ形態ラ成シ大ナルモ之ラ削ルヘカラ

ス小ナルモ之テ併スヘカラス1町1村ノ人民ハ利害相依ルコト1家1室ノ如キアルノミナラス 亦財産テ共有シ1個人ノ権利テ具フルモノノ如シ」と述べざるを得なかったのである。(註6)

 しかし,明治17年には,これではあまりに町村が自主的であり過ぎるとなし,その実は中央 集権化に支障をみとめ・強い制度的干渉を町村に加えるに至ったのである。それは明治17年布 告第14号の区町村会法の改正・同達第41号の戸長官選制度の制定となってあらわれている。こ の改革により・戸長役場は5・6ヶ町村を包括し,戸長の権力強化とあいまって,町村は行政 区劃の単位でなくなり,部落に解消したのである。かくて,明治22年の町村制実施となり,大 体1戸長役場の管轄区域が1合併町村の区域となったのである。

 この町村制実施は明治10年代にはげしい勢で展開した自由民権運動の成果としてみられない こともないが・その実は地方自治の名同で自由民権派の反政府運動を鎮め,かっては中央集権 政治の行政単位とし小さすぎる旧町村の整理統合を企図したものであった。なるほど,新町村 には町村会ができ・町村長も村会から選出され・村の予算も村会で議決できるなど,形式だけ はいかにも民主的な地方自治制度であるが・その内容に於ては,中央政府や官選の府県知事の 厳重な監督の制限をうけたものである。しかも,この行政町村はその成立過程に於ても明らか なように・いくつかの旧幕村の単なる寄せ集めにすぎず・真の生活共同体の実をもたない集団 であった。従って・か玉る行政町村はその発生とともに,自治無能力者として運命づけられて いたのである。齢60を過ぎても・旧行政町村の自治的無能力はお鼠うべくもない事実であっ

た。

 福武直氏の次の文章はそれを最も鮮明に指摘されている。

(4)

 「先づ第一に行政村の政治を行う村会議員か部落の利益代表としての性格を濃厚にもってい ることをあげなければならないであろう。……戦前においてこれらの村議によって選ばれた村 長も,多くは部落の勢力均衡の上に立たざるをえなかった。村政はおのずから消極的にならざ るをえず,何よりも部落の利害を調整することが,その目標とされたわけである。そうして,

その調整が,村長や村議の社会的経済的地位から当然のこととして,地主富農階層の利害を主 体として行われたこともいうまでもない。

 このようなことは,産業組合や農会,のちの農業会などの諸団体に於ても,大体同様であっ た。……村役場や村議会,さらに農業団体などの性格が以上のようなものであったとすれば,

行政村が部落の区劃された独立性を止揚して,行政府の範囲により有効広汎な社会的統一をき ずきあげることができなかったのも当然であった。……新しい積極的な政治が行われると,そ れによって部落間の利害対立を招来することが多いために,村政は自然に低調となって消極化 するが,対立抗争が部落間にすでに存在するときには,一層事なかれ主義に堕して従来の政治 を踏襲するにとゴまった。それは,専ら下級末端行政地域としての役割に終始し,……外部の 国や県の行政によって動かされることが多く,これらの行政施策を伝達するトγネル機関の性 格を多分にもっていたといえよう。」(註7)

 このような自治能力をもたない行政町村は住民の福祉増進のために,積極的に長期の綜合的 計画を樹て,それを遂行するなどということはまさに白昼夢にひとしいことであった。それよ りも,町村費の乱用と赤字財政の背負いこみの方が,旧行政町村にふさわしいものと言っても 過言でないであろう。

 山梨県東山梨郡松里村は,30年に渉って,公金で酒を飲み,選挙費は村費をごまかさすこと によって捻出し,村有林もひそかに売りとばしての乱用という悪政が続いた村である。その結 果,村は荒廃し,学校も道路も荒れ放題の村となった。昭和24年秋に正義派硬骨漢の武川村長 の当選となるや,武川氏は村政から酒を追放し,徹底的に公費を節約し,30年の悪習を一掃し た。そうして,独裁的なやり方で村民の福祉増進の施策を遂行した。その結果,昭和25年には 学校の修理,増築,備品整備費として1CO万円,次年度にも1GO万円を計上している。叉,26年 のうちには,100万円で村立診療所を充実し・60万円で公民館を改装し,25万円で火見楼を建 て,10り万円で消防関係の充実をはかっている。27年には村立図書館に!10万円を,村有動力耕 紙機5台購入1CO万余円を,農道改修費に240万円を使用している。以上あげたものはその主な ものであるが,その他・結婚衣裳を村費で購入し1回500円で貸出す仕組みとか,農用噴霧機 31台を購入し1回10円で貸与するなど・村民の福祉のための施策を枚挙にいとまのない程遂行

している。 (註8)

 この松里村の例は我々に何を教えているのであろうか。武川村長の施政方法の是非は別とし

て,それは,旧町村でも住民の福祉を増進しうる潜在的可能をもっていることを示すものでは

ないであろうか。故に・戦後の地方財政の窮迫と赤字市町村の続出の諸原因のうち,その最大

の原因は旧町村の自治的無能力にあったと言うことができよう。しかも,その旧町村の自治的

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無能力は,旧幕村(部落)に存在する部落意識が大きく原因していることは福武氏の前掲の研 究でも明らかである。旧町村が6G有余年の歴一史をもちながらも,術,社会的統一をつくりえな かったのもこの部落意識のためである。

 昭和の町村合併によって生れた新市町村が,その規模の広大を誇ってもむしろいよいよ複雑 なその内部構造のため,旧町村以上に自治的能力を弱める結果となるのではないであろうか。

小林与三次氏が,「すべての町村の望みは合併によって,一挙に叶えられ,或は叶えられるべ きものかの如く思っているようである。底なしの甘さである。合併に伴う褒賞として,無限の 力を持つ魔法の杖か,打出の小槌でも与えられることを期待している。」 (註9)と,述べて いるが,このような甘さを切り捨て,脚下の現実を冷静に検討し,反省するのでなければ,新 市町村の建設は三巴となるであろう。昭和31年に制定された5ヶ年の時限法である新町村建設 促進法は第1章及び第2章で,建設の基本事項を規定しているが,特に,第1章に於て,新市 町村の綜合的発展策をたてそれを計画的かっ効果的に実現すること,そのため合併によって拡 大された地域社会の一体性の確立と新市町村の組織及び運営の合理化を図る(第3条)ことを 強調している。将にこの「地域社会の一体性の確立」こそ,新市町村建設のキイ・ポィγトで

ある。

 町村合併が,「その地域社会の成員たちの生活機能の解体と再統合の過程」(註10)たりう るためには,我々はアメリカに於けるのとは違った観点からコミュソティ・オーガナィゼーシ

ヨγを問題としなければならない。(註11)

 我国に於けるコミュニティ。オーガナィゼーショγの問題として,アメリカのそれに於け る,社会移動(social mobility),丈化的遅滞(cultural lag),個人解体(indi〜iCual dis−

organizalion)などの諸原因にもとつく地域住民の価値一態度体系(value・attitude system)

の混乱を如何に調整するかという問題が含まれていることは言うまでもない。しかも,現在我 が国の地域社会は,それに加えて,町村合併という制度上からもたらされた地域社会変動に対 処するため,地域祉会の再組織化を当面の急務としている。こ&では町村合併に起因するコミ

ューニティ・オーガナ・fゼーショソだけの問題に限って考察することにする。

 明治に於ける町村制は,部落共同体を解体し,社会的統一体としての行政町村を建設できな

かったことは,既にふれた。そうして,この町村の社会的統合の前に立ちふさがったものは部

落共同体であった。もともと,地域社会の組織化という問題は,地域社会の解体を前提とする

ものである。しかるに,我が国に於て,現在当面している地域社会の組織化は,実は町村合併

という制度上からの地域社会解体作用が部落共同体の中に浸透せず,したがって,新生の市町

村はその一体性を確立できないということを問題とするのである。従って,我が国に於けるこ

のコミューニティー・オーガナィゼーシ・ソの問題は先づ部落共同体の解体を忌何にして可能

にするかという問題から始まる。

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 この問題を究明するためには,先づ部落共同体について老察しなければならない。

 わが国の部落共同体は水と山(用水と林野)の共同体的利用をその成立の基盤として構成さ れたものである(註12)この水利,林野の共同体的所有は必然的に耕作上の共同体規制を生む ようになった。更に,我が国農業が稲作を中心とするところがら,農作業上の共同組織を必要 としている。このようにわが国の部落の共同体的側面は,先づ生産面に於て捉えられる。叉,

生活上の種々の共同組織や部落自治組織などの生活面に於て,或は,思情慣習上の共同体的性 格など社会的意味行動体系面に於ても捉えられる。

 鈴木栄太郎氏は,この部落共同体の性格を三重地域論より解明している。即ち,それは(イ)

きわめて接近した家と家との結合による近隣集団あるいは小部落(第一社会地区)(ロ)それ がいくつか結合されて内部的にも外形的にも明らかな統一性を示しているところの自然村(第 二社会地区)(ハ) さらに一層ノムい地域にわたってそのような自然村の幾つかが制度的に統一

されているところの行政村(第三社会地区)の三重の組織をもって村落ができているとするの

である。

 この三つの社会地区にはそれぞれ社会的諸集団や諸社会関係の重層累積がみられるとし,特 に第二社会地区(大字,部落)について次のようにのべている。

 「更に此等の3種の集団累積体を立ち入りて考察する時,其の内の一つは単に集団累積体で あるばかりでなく,社会意織の自足的作用の営なまる道義的自治体である事を知った。そうし て,其が我が国の農村界に於ける社会化に於ける社会の単位をなすものであり,あらゆる社会 生活の足場である事を知った。そうして此社会的統一体を行政学町村や聚落と区別する意味で 自然村という名を付した。」 (註13)この社会単位としての部落は強固な社会統一体をなし,

外部の政治的経済的講造に即応してつくられた諸機能集団さえも;これを分解し自己の機能に 吸牧しつ鼠自己の上累積しているのである。部落のもつ特色は単に以上のことだけにとゴまら ず,第一社会地区や第三社会地区にはみられないものとして,社会統一意識をもっている点に ある。この社会統一意識は,第二社会地区に強固な社会的統一をあたえているのである。部落 たらしめるものは,この地区のもつ独立した統一作用を発揮するこの社会意識である。この社 会意識はその具体的内容として,①氏神崇敬に関する制度 ②諸種の共同祈願の慣行 ③村仕 事の慣行 ④土地の総有の制度をもっている。「かくの如き社会意識の内容存ずる事によって 自然村は一つの社会的独立性を保証され,又,あらゆる社会意識作用が自然村内に自足的に営 まれるのである。」(註14)

 故に,部落の社会意識の特色は,それが単なる連帯意識ではなくて,その連帯意識を鼓舞 し,連帯の具体的限介を明確に意識させ,さまざまな生活規範による相互製肘の具体的範囲を 自然村の範囲に限定するような性質にあるとされるのである。鈴木氏は更に部落の社会意識の 特異性について次のようにのべているのである。

  「恐らく明治維新前に於ては,村人が自己を滅して社会の為につくすとか,私に対する公の

観念等皆,具体的には,具体的な自己の村が意味されて居た。社会の為と云うも,村の為に外

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ならぬ事を村人は右の如き慣行の中に体験して居たのである。生活規範の最も根底にある正義 の観念も所詮は村の正義に外ならぬ。かくて村の社会意識内容は全く個人より独立した村自体 の発展の為の規範に外ならなかった。明治以後村人が感じた犬きな変化の一つは村の社会意識 の申に新らたに国民としての自己意識が加はった事である。然し,それは村の社会意識を質的 に変化せしめているものでない。」(註15)

 かくて部落住民にとっては部落をこえた社会は直接的な社会ではないということになる。外 部の社会に対しては,部落の利益が自己の私益とむすびつけられて強く主張される。いわゆる 部落意識をこ鼠にみることができるのである。森田俊男氏は山や海辺の三々の実態調査を通じ て,現在の進展する社会情勢からとり残されて病的な様相を呈している部落意識を明らかにし ている。(註16)森田氏はその病態を5っあげているが,その2・3を以下紹介してみよう。

即ち,先づ,部落意識は,伝統への執着とそれを否定するものに対する排斥の意識として残存 し,社会の進展がその伝統的なものをつき崩してゆくのをどうすることもできず,た蛎アノ ミーに陥っている状態にある。次には,それは,むらの秩序の絶対性を確信する意識とそれを 隣り部落の境界線上にのみ認識し,その生活と支配の秩序に安住する意識である。資本主義の 展開による漁民分解,窮乏化などの渦中におかれた漁村部落が,その原因をあげて隣部落に求 め, 「敵は隣部落だ」 という認識のしかたをとっている。 さらに部落意識は, 「むらの平 和」,おりあいを何よりも大切なものと考え,そこに安住する意識であって,その「むらの平 和」を破るものを「むら八分」にする意識である。

 このような部落意識,それを生み出している部落共同体を今日まで存続せしめているものは 何であろうか。

 その第1の原因は,我が国農業が水田稲作を主体としているということである。水田経営の 故に水利に関する共同体的な規制から脱することができない。叉,田植上牧穫期などの季節的 に労働力需要が極めて増大し,農作業上の共同組織を必要としている。その2の原因は,我が 国の経済的構造に由来するものである。わが国に於ては,資本主義は農業人口に雇傭の機会を 与える事ができなかったばかりでなく,農村を犠牲にすることによって発展した。かくて,農 村には過剰人口が堆積し,過小農経営を解消せしめず,自由な商品生産としての農業への進展 を妨げられている。この経済的封鎖性とその貧困は村落をおくれた小宇宙として今日にいたら しめているのである。従って,「村落共同体の生活から排除されることは,その生活の可能性 のすべてをうばわれることに通じ,このゆえに村落社会からの孤立への恐怖が地域社会の成員 たる村人をつよくとらえることもまたしごく当然であった。」(註17)わけである。

 その第3の原因は,公権力による部落共同体の温存である。明治政府によって封建的諸制度

の撤廃,町村制の施行,部落有財産の国有又は公有への移行など,部落共同体解体の一連の政

策が実施された。しかし,それと同時に部落共同体を中央集権的専制主義の基礎として利用し

たのである。例えば,戦前の農政の基調が中農の保護におかれたのは,中農が部落秩序の実質

的な担い手であり,このような農政により部落共同体を維持し,中央集権的専制主義に奉仕せ

(8)

しめる政策をとったのである。(註18)叉,戦時中の部落常会の奨励も部落共同体の強化に大 きく影響している。戦後,部落会が法制的に廃止された。(昭和22年5月3日政令15号)それ にもかかわらず,供出制度等に於て,部落組織を事実上,認めざるを得ず,増大化した町村行 政機能の遂行のためにもこの部落組織に頼らざるを得なかった。更に,今度の町村合併にとも ない,ますますこの傾向が著しくなっていることは,既に多くの人々によって指摘されてい

る。(註19)

 昭和の町村合併によって誕生した新市町村の建設は,この部落共同体を解体し,地域社会の 一体性を確立せんとするコミュニテー。オFガナィゼーショ:ソの成否にかかっているといって

も過言でない。そうして,部落共同体の解体は豪きにあげた部落共同体存続原因のうち,特に 第2第3のものの排除にかかっている。これらの原因の排除のためには,種々の政治的,経済 的方策がとられなければならないであろう。福武直氏は「共同体からの全面的な解放は,おそ

らく日本の資本主義体制の場合不可能であろう。村落共同体の残存は……日本の資本主義の構 道的特質と深くつながっているからである。」 と,その存続原因の排除の困難さを指摘してい る。そうして「解体への唯一の道は部落住民が先づこの困難さを自覚することであり,その自 覚にもとづき,新しい結合の原理によって部落を再組織することである。」 と,述べている。

(註20)

 その薪しい結合の原理は何であろうか。我が国資本主義が,農村の犠牲のうえに発展したと いうことは今日に於てはも早常識である。農民は「国の本」たる光輝ある使命のみを負わされ て,人間であることを拒否されてきたのである。過小農的社会のむらは貧困と牛馬のような苛 酷な労働にあえぎつづけて来たのである。この「むら」を支えているものは没主体的な,非 合理な家族主義であった。叉,逆にこの過小農的な低い生産力は農民を家族主義的なものから 解放せずこれを温存したのである。かくて,「農民の意識はすべてこのような家族主義的性格 によって貫かれている。彼等は人間を人賦として愛し,その人間的能力を認めて相互に協力す ることができない。人間の自由と平等も彼等には意識され難い。対等的人格の意識は彼等の家 と村に於ける位座が許さない。」 (註21)このような人間的主体的自覚をもたない農民の社会 的結合は合理的で,自由平等な人格的関係によるものでなく,温情的な身分的従属関係による ものである。勿論,かかる家族主義的な社会結合は,ただ農村に限った事ではなく,わが国の あらゆる社会に於てみられる特質でがるが,(註22)特に農村に於て現在尚顕著である。さき にあげた部落共同体存続原因を外的原因とすれば,この家族主i義的人間と,家族主義的社会結 合はその存続原因の内的原因と言うことができよう。部落共同体の担い手である部落住民の人 間改造を通じて,かかる非近代的な社会結合を廃棄し,近代的な人格を中心とする新しい社会 結言の原理によって部落を再組織する時,部落共同体を解体することが可能であろう。元来,

社会の下部構造が,その上部構造を限定しつつ,更にそれは上部構造によってまた限定される ことは唯物弁証法の教えるところである。部落共同体解体の道は種々あるであろうけれども,

この部落住民の人間改造と,それにもとつく家族主義的社会結合の廃棄の道はそれえの本街道

(9)

として取りあげられねばならぬものと確i信ずる。

 我が国が当面しているコミュニーテー。オーガナ・イゼーシ・γは先づこの人間改造,家族主 義的社会結合の廃棄を通じて,部落共同体解体,部落意識の解消をその第一歩としなければな らない。この人間改造を通じての社会改造の仕事はまさに教育の仕事でありその責任のかかる ところのものである。

 町村合併にともなう我が国当面のコミュニテー・オーガナ イゼーショγの問題は,部落共同 体及び部落意識の問題となり, ついには人聞改造の問題になった。 即ち,「新しい人間づく り」を通じて「薪しい村づくり」をはからねばならないということになった。この「薪しい人 間づくり」はいかにして可能であろうか。私はこの「新しい人聞づくり」の方途を,戦後我が 国に於て注目されつつある小集団活動(サークル活動)に求めるものである。勿論,それはア メリカに於けるメ門ヨー(Mayo, G. E.1880−1949)やモレノ(Moreno, G.:L.1892一)或はレ ヴィy(:Lewin, K:.1890−1947)などがそれぞれ集団生産性の向上に於て,個人の社会的適応 性の拡大に於て,或は人間関係の改善に於て小集団を問題としているしかたというよりも,小 集団の封建的遺制と意識に対する斗いの機能に於て問題とするのである。

 今日,世界で最も民主的な国と云われるスエーデγをそのようにあらしめた原因には種々あ るであろう。けれども,おそらくその有力な原因は,小集団活動に基礎をおく社会教育の成果 であろう。スエーデγに於ける小集団活動はすでに1840年代よりとりあげられ今や大きな国民 運動にまで展開している。この国の小集団は「多くの場合,それは夜おそく知識と心のレクリ ェーショ:ソを求めて,そこに集ったあらゆる職業の男女である。彼らは勤労の友情を覚え,研 究に結ばれた友愛を経=験したいと思う。会員はすべて同志であるということが,サークルの雰 囲気と成果に最も重要なゆえんである。人の上に立つ者はいない。会員協力しあい,一人一人 己の分をつくさねばならない。」 (註23)と,いうような集団である。そうして,この小集団 は,異ったさまざまな意見が偏見なしにテ入トされ討議されることを重視し,他人の意見にす ぐ感化されたり,上から押しつけられた誤った信念をもったりする人間のあり方を克服しよう とするものである。更には,この小集団は互に思いやり,互に同等の権利をみとめ,他人の意 見を尊重し,積極的な寄与をしょうとする正直な努力を弛んでうけ入れることなどを重視し,

真の協同活動を体得せんとするものである。スエーデγに於ける小集団はその活動内容に於て,

その形式に於て種々雑多な姿をもっているけれども,我々の注目をひくものはこの集団の性格 である。というのは,部落共同体の申に於ける人間がこのような性格の社会結合を実現すると いうこと自体に於て,すでに,その集団は,その活動参加以前の価値体系をくつがえし,民主 的な意識をもつことになるからである。

 勿論,部落共同体の申で,このような性格の小集団を形成すること自体に於て大きな抵抗が

予想されるのである。現に,農村に於ける青年たちのサークル活動に対して,その家族の抵

(10)

抗,或は村の幹部,長老,ボスなどの反対,妨害,懐柔に遭遇していることを,佐々木斐夫氏 も指摘している通りである。(註24)しかし,だからといって,全くそれが不可能というわけ ではない。愛媛県の久保ケ市という山村部落の婦人サークルに於て,「最初60名のうち,約半 数は,姑や夫の無理解から,参加できなかったが,現在では次第に理解され,姑も夫も近代農 村の建設に強い関心をもち,50名以上のものが学習に参加している。そうして,さらに姑,夫

も参加するようになった。」という報告もある。(註25)

 しかし・部落に於ける小集団形成の方法については大いに考究する必要がある。私は先づ・

共同体の抵抗の比較的少ない趣味娯楽的なもの,即ちレクリェーシ・ヨγ的なものを内容とする 小集団の形成から着手すべきであると思う。それらのものであっても相当な抵抗があるのは当 然であるが,直接,共同体を否定し,それを新しい社会に改造するような活動は,共同体の猛 烈な抵抗に遭うのみならず,集団成員の自発性を失わせる故である。この点についてはすでに わが国の小集団運動に於て経験ずみである。佐々木斐夫氏は1947年から48年へとサークル活動 の異常な高まりが,1949年を境に衰退した内在的原因の大なるものとして,卑俗な政治主義的 指:導をあげている。 (註26)

 勿論,このような性格の小集団が個人的な趣味娯楽に,或は仲間とともに話しあったり,遊 んだりする事に,現実からの逃避の巣となる危険性は多分にある。(註27)私はある期間,そ れさえ許容してよいのでないかと思う。何となれば,このようなことすらも,部落住民の人聞 性の回復に効果があるからであり,叉,さきにも述べたように,小集団形成それ自体に大きな 意味が含まれているからである。

     ヒ

 次の段隈としては,これを更に日常の衣食住などの生活に関する話しあいや,それの改善を 申心とする活動をなすよう発展さしてゆくことである。これと同時に生産についての話しあい や,その改善を研究するサークルへの成長をはからなければならない。

 第3段階として,どんなに働いても食えない現実を問題とし,現実分析のため自らの実力を 蓄積し,その打開の道を考究せんとするサークル活動に育てるべきである。

 この部落に於ける小集団形成方法の段階は,1集団の発展的過程に関するものではない。部 落に於ける小集団指導過程についての一般論である。

 これらのサークルは,一つ一つ孤立し,独立したものでなく,部落の壁を破って,市町村の サークルへ,更には全国的サークルへと結びつくようにすべきであると思う。それは「各一つ 一つの小さなサークルを母胎にしながら全国的な大きな組織につながることによって,社会的 な力をもつことができる。」(註28)からである。

 さて,部落に於ける小集団の育成が,部落共同体の解体及び部落意識の解消に,更に,新市

町村の建設に最も効果あるものであるとしても,この育成をあまり急ぎすぎてはならない。山

形県の青年学級は,その成長過程に於て,その育成を急ぎすぎた結果,最初の自発的な学習集

団が,ついにその自発性を失い,単なる官僚制の一単位としての教養や職業的なものを受容す

るだけの機能集団に変化していた。(註29)このことは小集団育成についての大きな警告とし

(11)

てうけとらねばならない。

 尚,その地域の学校教育に於ても,児童生徒をして小集団活動を活濃ならしめるよう,特に クラブ活動,児童会(生徒会)活動について充分な指導がなされなければならないのは言うま でもないことである。

 町村合併にともなう当面の「地域社会の組織化」の問題に対して,その地域の社会教育,学 校教育がいかにそれに対応すべきかということは,これ以外にも種々あるであろう。それらに ついての考察は他日にゆづり,今回は小集団活動を中心とする考察にとどめておくことにし

た。

註 (1) 田中二郎 地方財政の窮迫と地方自治の危機(地方自治,第96号 1〜12頁)

  (2)自治諺発布50周年論文集745〜6頁   (3) 鈴木栄太郎 日本農村社会学要論 昭和25年

     筒この論文中にも自然村の概略についてのべておいた。

  (4)大森鐘一,一木喜徳郎共編 市町村史稿 94頁   (5) 参事院編 維新以来町村沿革 44頁

  (6)地方官会融傍聴録 1号 ll頁

  (7)福武直 日本農…村に於ける部落問題(福武面一 日本農村社会の構造分析 1955,487〜489頁)

  (8)浪江虜 村の政治 1956,15〜19頁   (9)地方自治第89号 7頁

  (10) 田原音和 町村合併問題(福武直,日高六郎,高橋徹編 社会学辞典 618頁)

     田原氏は「町村は単に行政上の一区劃にとどまらず,もともと地域社会としてまとまった統合      体をなしていたものであるから,行政単位の整理・拡大ということは同時にその地域社会の成     湿たちの生活機能の解体と再霜融の造程である。」 と言っている。しかし,もともと町村は地     域社会として統合体をなしていなかったのだから,その生活機能の解体と再統合は制度的変化      によっては起り得ない。

  (ll)アメリカに於けるCommunity OganizationはCommunity disoganizationによってとな     えられ出したのである。地域社会の解体は種々の社会変動にともない住民の地域福祉に対する     無関心,地域社会活動に対する参加の減退,指導性の欠如となってあらわれている。この結果,

    貧困者の救済問題,青少年不良化防止の問題,老人福祉の問題,長期欠席児童対策の問題等が     発生している。「地域社会の組織化」とはこのような地域社会を如何に再建するかを問題とす      るものである。このことに関してはA.Hillman. Community Organization and Plannig.

     (1950)に詳しくのべられている。

 (】2)松好貞夫 村の記銀 昭和31年 77〜141頁  (13)鈴木栄太郎 日:本農村社会学要論 昭和25年 71頁  (14)前掲書 146頁

 (15)同上書 162〜163頁

 (16)森田俊男 漁村の教育 1956,15〜28頁

(12)

(17)松原治郎 農村社会の構造(講座社会学 第4巻 151頁)

(18)島崎稔村落と社会(講座社会学第4巻219〜220頁)

(19)多くの人々とは例えば次の八達である。

   石田 雄 家と共同体的秩序(日本法社会学編 家旗制度の研究 上 230頁)

   大島太郎 公権力と村落共同体(潮見俊隆 ほか 日本の農業 48頁)

(20)福武 直 現代日:本に於ける村落共同体存在形態(村落社会研究会編 村落共同体の構造分析    1956,19頁)

(21)福武 直 日本農村の社会的性格 1955,10〜11頁

(22)福武 直社会学の現代的誤題 1953,205〜225頁

(23)大志万準治 スエーデンの成人教育(社会教育 第13巻 5月号 (昭和33年)17頁)

(24)佐々木斐夫 新しい文化の創造(講座社会学第7巻 228頁)

(25)越智恒夫 小集団学習の理論と実際(社会教育 第13巻 4月号 61頁)

(26)佐々木斐夫 前掲書226頁

(27)北川隆吉 小集団をめぐる問題(思想 玉956,11月号 90〜91頁)

(28) 同上書 98頁

(29)永井道雄 新しい集団の形成(謡座社会 第7巻 156〜158頁)

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