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インドの第3次5ヵ年計画期における 外資政策の展開過程−
立 山 杣 彦
は じ め に
1950年代半ばまでに,独立後の混乱した経済の安定が図られるとともに,資本主義的蓄 積の枠組が整い,計画の枠内で民間部門が公共部門と補完関係を以って発展する特殊イン ド的資本主義メカニズムが一応形成された。これを土台として,1950年代半ば以後,公共 部門を中心に積極的な重化学工業化が推進された。これは,産業的には,鉄鋼・電力・機 械・化学・肥料・石油等に重点が置かれた。重化学工業化政策の結果,第2次5ヵ年計画期 の政府部門開発総支出額は第1次計画期の2倍以上に拡大し(第1次196億→第2次467.2億),
1)
鉱工業のみに限ると11倍以上に拡大した(9.68億→112.5億ルピー)。民聞部門に対する統 制が不十分だったことも加わり,資本財輸入が大幅に増加した。また,農業生産不振のた め食糧輸入が増加した。一方,輸出は停滞したままであり,1957年から1958年にかけて外 貨事情は急速に悪化し,インドは外貨危機に陥った。こうして,インドは援助・外国民間 資本に大きく在存せざるをえなくなった。米国・世銀を中心とする独占資本主義陣営は,
社会主義陣営に対抗しインドを資本主義体制に止めておくという政治的目的もあり,本格 的に援助を供与し始め,国家部門計画財源に占める援助比率も第2次計画期には第1次計 2)
画期のほぼ2.5倍に達した(第1次9.6%→第2次23.7%)。彼らは,一方で,インド政府に 対し,公企業重視の産業政策の転換,外資に対する「門戸開放」や外資進出条件の整備を 迫っていった。以上のような状況の下で,積極的な外資奨励政策が推進され,外資側に有 利な投資環境が整備され始めた。とくに,外貨危機による輸入統制強化の下で,外国企業 との提携が熱心に追求された。資本・技術面において脆弱なインド資本は,これにより双 方の弱点をカヴァーしょうとしたのである。また,輸入統制の結果である市場保護が,外 資のインド進出の大きな要因となることは言うまでもない。こうした事態に外資側も積極 的に反応し,外国直接投資額や外国企業との提携件数は飛躍的に増大することとなった。
以上の詳細については,拙稿「独立より1960年までのインドの外資政策」(『東南アジア研 究年報』第24・25(合併)集一1983年)参照。
この小論では,インドの第3次5ヵ年計画期(1961年4月〜1966年3月)を中心とする 時期の外資政策および外資をめぐる諸問題を取上げる。インド政府の外資にかんする公式
声明等の重要性については言うまでもないが,外資政策と密接な連関を有する産業政策等 についても注目したい。国民会議派政府の政策策定に支配的な影響力を及ぼし,また個々 の産業部門で外資の受入れに直接の利害関係を有する大財閥を中心とする土着大資本の動 向の把握も重要である。また,ここでは米国政府,その支配下の世界銀行の動向を重視す るとともに,米系「多国籍企業」のインド進出にも注目したい。とくに,援助供与と外資 政策の推移は密接に結びついており,米国政府・世銀の動向は決定的な重要性を有してい る。さらに,外資進出形態としては前述のように第2次計画期より増大してきた企業提携 を,産業的には石油・・鉄鋼・肥料を,重視したい。
なお,この小論では,重要な諸事象を総体的に把握することを主眼としており,これら の諸事象をできるだけ年次別に叙述し,歴史的な推移が明確となるようにしたい。今日の インドの外資政策および外資の問題を考察するには,歴史的な過程の正確な把握が不可欠
である。
第1節 1961年
1 第2次5ヵ年計画期には米国の援助は期間を2年あますにすぎない.時点で開始さ れたが,第3次5ヵ年計画期にも同様の戦略が用いられた。1960年9月にパリで開催され た対印債権国会議の会合では第3次計画への援:助の問題が話合われたが,この会合は,イ ンドの全体的な外貨危機も第3次5ヵ年計画への長期的な金融の問題をも解決しなかった。
インドは,1961年5月初めにワシントンで開催された対印債権国会議の会合へ期待をかけ たが,援助資金の分担をめぐるメンバー間の意見の相違によって成果は上らなかった。西 側の新聞は,これを,イン hにその開発計画を修正させる新たな試みを行なうための口実 と把えた。その1ヵ月後の次の会合で,インドの第3次5ヵ年計画の最初の2年間へ22億
8,600万『ドルの借款が配分された。しかし,この額は,社会主義諸国が承認したかなりの 資金を考慮に入れても,インドが同計画の最初の2年間に直面する外貨の赤字を埋めるの には不十分であった。インドは,追加借款を求めざるをえなかった。同年8月,蔵相M.
Desaiは,インド下院の演説で,インドの外貨準備の減少が進行しており輸出を増強する 3)
以外に方法がないと述べた。
米国およびその支配下にある世界銀行を中心とする対印債権国会議の援助遅滞政策には,
種々の要因が働いているのだが,その一つは,インド政府に産業・外資政策の変更,第3 次5ヵ年計画の修正を迫るための圧力である。これとの関=連で,次の世銀使節団の示唆や 世銀報告はきわめて興味深い。
1960年2・3月にインド・パキスタンを視察旅行した世銀の「銀行家使節団(そのメン バーは,ドイツ銀行頭取Herman J. Abs,ロイド銀行頭取Oliver Franks卿,前ニュー
ヨーク連邦準備銀行総裁Allan Sproulであった)」は,援助を求める政府はr潜在的な援 助源泉を十分に利用しようとするならば,海外から民間資本を引きつけるような諸条件を
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 75 創出する必要があろう」と示唆し,さらに別あ世銀報告は,これらの諸条件を次のように 詳細に説明した。①民間関係者を石油産業へ参加させることができるための,政府の石油 政策の変更;②石炭政策の変更一「民間炭鉱を……奨励して増産可能な石炭を増産させる べきである,新規採鉱権の認可に課された諸制限を撤廃すべきである,さらに同産業によ り大なる再投資資金を供給できるよう価格を調整すべきである」;③計画法のボカロの 第4の公共部門鉄鋼工場にかんする鉄鋼政策の変更一「公共部門に工場を保有するという 主張は,民間部門において生産のいっそうの拡張を確保できるかもしれないという別の可 能性が完全に調査されるまでは,認められない。そして,その可能性は,まだ完全には調査 4)
されていないようである」。
2 米国・世銀を中心とする独占資本主義陣営は,とくに石油産業に注目していた。
とりわけ,石油精製は最大の争点であった。M.Tanzerは,「1950年代後半から1960年代 初めの時期は,政府と民間企業との石油精製における各々の役割をめぐる強烈な闘争によ 5)
って,特色づけられた」と述べている。つぎに,このころの石油産業およびこれをめぐる 諸状況について簡単に見ておこう。
〔1〕1960年7月号インドにとって好条件の印ソ石油輸入協定が締結されソ連原油が輸入 されることとなった。さらに,同時に,インド政府はインド側にきわめて不利なメジャー 系3社との製油所協定(1952年〜1953年)における価格設定・訓練・副産物の条項に対し て公式に異議iを申し立て,1960年8月には石油価格調査委員会(通称Damle委員会)が設 置された。メジャー側は,ソ連原油の精製を拒否するとともに,原油・製品の公示価格を 引下げた。1961年3月,石油燃料相KD. Malaviyaは,石油会社を,インド原油精製交渉 をわざと長びかせたことで非難した。Burmah−Shell, STANVACの支配人は,そうではな いと抗議した。Malaviyaは,これに対し反撃し,彼らは問題のインド原油もしくはソ連 原油の精製を拒否できる強力な権利を有するが,国営製油所は製油所の拡張については彼 らに対して優先権を主張し続けるであろうと,述べた。その1ヵ月後,生産量増強の許可 を拒否したということが,再び公に明言された。
こうした状況の下で,1960年夏,ある世銀使節団は,第3次5ヵ年計画の投資財源との 関連でインド政府の石油政策を次のように批判した。「第3次計画における企業資本の流入 が第2次計画より大きくなるであろうとの見込みは,かなり大きい。しかし,石油を除け ば,外国民間資本に第3次計画の金融に対する重要な貢献を期待できない……インド政府 が過去数年間追求してきた,石油および精製に対する民間資本のいっそうの投資を排除し ようとする政策のために,インドの外貨資金は,ただちに窮迫することとなった。との政 策を変更すれば,石油産業へ追加的外国資本を導入することにより,相当量の外貨を第3 次計画期の他の用途のために解放することができよう」。その後石油会社の工作もなされ,
世銀が中心的役割を果している対印債権国会議は,石油政策を転換すれば回避しうる外貨 の赤字を補填することは翻印債権国会議の仕事とは言えないと,示唆した。1961年4月,
すなわち対印債権国会議のワシントンでの会合の6週間前,インドのアメリカ大使B.K.
6)
Nehruは,確実に石油政策を変更させようとしてワシントンからデリーへ帰還した。また,
半割債権国会議の会合と同じ頃,世銀総裁Eugene Blackは,インドの第3次5ヵ年計画 の投資財源の問題に関連させ,石油政策の転換を求めて次のように述べた。「彼ら(インド 政府一立山)は,真の必要より威信を重んじ,経済計算を無視し,さらには生産資本の受 7)
容れを拒否することにより,稀少な資源を浪費する余裕はない」。
〔2〕1961年5月31日,インド政府とBurmah Oil Co.Ltd.(BOC)との問でOil India
:Ltd.(OIL)にかんする第2次補助協定が締結された。これにより,双方の所有比率はそれ までの1:3より5:5となったが,BOC側も,インド政府から次のように広範な譲歩を 獲得した。(1)インド政府は,OILの取締役会において拒否権を有する「特別取締役」の要 求を取下げた;(2)OILの株主には9〜13%の配当が保証された;(3)OILは,政府が当初 意図した〔原価+適正な利潤〕ではなくペルシャ湾公示価格に連関する価格で原油を供給 することとなった;(4)探鉱認可と採堀権がそれぞれ1,886平方マイル,400平方マイルまで 拡大された;(5)OILが生産した原油については, Barauni・Nunmatiの2国営製油所の必 要を満した残りの原油は,BOCの子会社Assam Oilへ最大限435,000トンまで供与され 8)
ることが可能となった(Assam OilのDigboi油田が澗渇していた)。
この協定が締結されて数日後,政府は外国の株式持分が少数という条件で新製油所の申 出を考慮するであろうと,Malaviyaが述べることにより,交渉の糸口が開かれた。同時 に,石油諮問委員会による将来の需要予測に対する増大の方向での修正により,石油会社 に生産量増加が許可される力が加わった。というのは,どう考えても,国家部門は,追加 需要を吸収できるほど迅速には拡張できなかったからである。1961年7月にDamle委員 会報告が出され,同年9月,インド政府は,長期の討議の後に慎重に,1億5,000万ルピ ーもしくは8〜10%の価格引下げの提案をも含む同委の勧告を受容れた。石油会社は,こ の勧告を拒否しながら,他方では彼らが選択の余地をほとんど持っていないことを告げた。
しかし,彼らは,その後も依然として,海外より必要な原油を購入するための外貨を供与 され,「ロンドンでは,状況はまったく決定的であるとは見られなかった」。おまけに,12 9)
月に上院でなされた製油所国有化の提案は却下された。また,ONGC(原油開発・生産の ための公企業Oil and Natural gas Commission)は,同年12月,フランスのInstitute Francais des Petrolesにラジャスタン州ジャイサルメル地域の探鉱を依頼した(1964年 10)
2月の協定でフランスの民間会社Forasolが試掘を行なった)。
以上のように,1961年の年頃より,インド政府と外国石油会社の対立状態はほぼ緩和の 方向へ断ったのである。しかし,与党国民会議派左派の石油燃料相Malaviyaのメジャー に対する姿勢は弓車硬であり,彼は,1960年10月,前出のインドにきわめて不利な製油所協 11)
定を修正させようとして,メジャーに製油所の生産を1960年の水準まで削減させた。なお,
12)
A.Royは,メジャーの石油燃料省以外の省への接近に注目している。
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 77 3 以上のように,石油産業では,曲折はあるが,全般的な外貨不足,ことに第3次
5ヵ年計画のための援助導入の必要性,そしてこれを利用しようとする世銀等の圧力を背 景として,外資とインド政府の対立状態は緩和の方向へ向いつつあったが,外資一般に対
しても外資導入促進の観点から一定の施策がとられた。
1961年5月7日,インド政府は,インドに対する外国民間資本の今後の取扱いにかんす る新聞声明を発表した。同声明は,「基本的には,外国投資に関する政策は,計画月標の遂 行にあたってわが国が開発を必要としている分野に民間外国資本を導入することにある」
との原則に立っているのだが,まず,「インド政府は,わが国における産業単位の設定に関 心を持つものによりなされる申請の処理に関する諸手続の再検討を行なってきた……この 再検討にしたがって,これら諸手続のうちのいくつかを近代化し,簡素化した」として,
いくつかの措置について述べてい乱第一に,同声明は,審査の遅滞を避けるための統合 機関の設置について次のように述べている。「産業(開発及び規制)法にもとつく許可,資
、本発行,合弁事業の条件,資本材輸入許可等のような,第3次計画における民間部門主要 計画のさまざまな分野についての各種当局による別個のまた継続的な審査に伴う遅滞を避 けるため,関係官庁と協議し,同時に全分野の統一的審査を行ないうる1個の統合機関を 設置することが望ましいと考えられる。したがって,このために,商工省内に特別の仕丁 を負う上級公務員が任命された」。第2に,同声明は,「若干の重要な第3次計画事業は外国 との合弁事業または外資参加を含むものとなろう」として,重要プロジェクトにおける合
「弁形態を重視しているのだカ㍉次のように,外国投資家のために専門の公務員とそのスタッフ が迅速で信頼のおける指針を与えるとしている。「第3次計画への重要な案件への参加に関 心ある今後の外国投資家のために,迅速で信頼のおける指針を与えることは明らかに必要 なことである。このような指針は,今後,巨額の外国投資またはとくに重要な技術的「ノ ウ・ハウ」および技術を含む重要合弁事業計画の,迅速な処理責任をおもに負っている学 問の公務員とそのスタッフから得られる」。
同声明は,ついで,「外資が通常歓迎される業種の例示的なリスト」を示しているが,
「このリストは網羅的であるというより例示的なものである。このリストに載らない合弁 計画もそのメリットに即して考慮される」として,相当広範な業種での外資導入を示唆し ている。1956年産業政策決議のA表(「企業の新設については国家がもっぱら責任を負う 部門」)についても,「しかし特別な場合には,十分な考慮のうえ公衆の利益になると認め
られたものに限り,除外例が設けられよう」として,その例外を認めている。しかし1こ 13)
のA表についてはそれぞれ既に外資進出の事例が少なくなく,この文言は,この意味でこ うした事例の追認でもある。また,合弁形態の所有比率については,次のように,それま でどうりの一般原則と特定の場合の例外がうたわれている。「インド人による過半数保持が 一般に歓迎されるが,合弁事業における外資とインド資本との比率,特定の場合に認めら れる外国人の株式取得限度等は,当然そのメリットに即して判断されなければならない」。
その例外の判断の基準については,同声明は次のように述べている。「この判断は,もたら される専問技術を評価し,外国設備購入のための所要外貨額およびインド側の合弁提携者 14)
が事業経営上効果的な役割を果たそうとする熱意を考慮したうえで下される」。
また,1961年財政法では,所得・pイアルティに対する法人税が引下げられた(ただし,
15)
これは中印戦争後は無効となった)。
こうしで,外資のインドへの進出条件がさらに整備されていき,要事やその他の国の独 占グループも,インドにおける政治・経済条件が彼らに合致するようになったことを認め るようになった。たとえば,1961年10月にインドを訪れたある米国人実業家グループは,
現地の環境が米国の投資にとって有利となり,第3次計画期間中に多数の米一印会社の設 立が期待できると,述べた。この米国人達は,民間資本が肥料・アルミプラントの建設を 許可されたことに,喜んで注目したのである。しかしながら,インドの大企業は外資の流 入額が少ないとして満足せず,「最大限の譲歩をしているのに,民間資本は,何故,たとえ 16)
ば年間10億ルピーの規摸で流入していないのだろうか」といった疑問が出されたのである。
第2節 1962年
1 1962年1月の対等債権国会議の会合では1962−63の2年間に対し22億ドルが提示 されたが,インドの必要額は26億ドル以上と見積られていた。この年には,独占資本主義 諸国は,「援助を遅滞させ『飢餓的水準の援助しか与えない』という戦略」を以前以上に厳 し一く追求した。同年5月末,以前に提示された1962−63の2年間に対する借款承認のため 債権国会議の会合が開かれたが,その時インドの平和政策へ直接的な圧力を加えるためg)
キャンペーンが推進された。その当時インドの国際収支上の困難は増大してきており,こ 17)
のような条件の下では,借款決定の延期は,正に政治的脅迫と見なすことができよっ。米 国・世銀を中心とする独占資本主義陣営は,1961年12月のポルトガルよりの.ゴア解放をも 18)
問題としていたと推察される。インド政府の産業・外資政策が問題とされていたことも言 うまでもなかろう。
つぎに,この間の米国の動きについて簡単に見ておこう。1962年5月12日,上院国際関 係委員会は,インドに対するこの年の援助として割当てられていた7億2・700万ドルの25
%削減を決議した。ニューデリーの親米グループは仰天し・米国のインド早使Galbr吊ith教 授は急遽ワシントンへ飛んだ。その結果,援助削減の提案は,再考され,5月21日退けら れた。しかしながら,委員長Fulbr ight上院議員は,インドに対する援助削減の決定は Kris㎞a Menon氏の「反米的態度」,国連でのNehru氏の「非協力的態度」,インドのゴ ア「侵略」おタびソ連よりの軍事装備購入計画に対する委員会内の「強い反感」を反映し ていると,述べた。A. Royは,こうした事態について次のように述べている。「米国の援 助供与の条件は,Nehru・Menonによって体現される全外交政策の破棄を含んでいる。
先の削減の撤回は,米国の政策策定者の側における本心の変化を意味するわけではなく,
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 79 19)
単に方策の評価の変化を意味するにすぎない」。
1962年には中印国境紛争が生じ,7月21日,インドと中国が交戦するという事態に至っ た。インドは英・米国そしてソ連に援助を求めた(11月14日米印軍事補助協定,11月27日 三内長期軍事協定等)。英・米国は,援助の見返りとして多くの条件(悪名高き「空中援護」
計画を含誘1)を課することを欲し,インドを非同盟政策から引離そうとし建1)軒口紛争は,
インド政府内の右派の力を強化し,左派の力を著しく弱化させた。1962年11月7日,左派 のK.Menonは国防相を解任された。こうして,インドの米,英国への政治的,軍事的依 存が大きくなっていった。後述のとうり,インド政府内の左右勢力の変化や米・英国への 政治的,軍事的依存は,その後のインドの産業・外資政策の推移に大きな影響を及ぼした。
また,中印紛争は,防衛費を増大させることにより財政・国際収支を悪化させ,援助・民 間外資導入促進の大きな要因となった。
2 つぎに,石油精製およびボ幸織製鉄所プロジェクトについて簡単に見ておこう。
〔1〕1962年1月,ルーマニアの援助による公共部門争刀の製油所(Nu㎜ati)が生産を開亥台 し,また同年2月印ソ製油所建設契約が締結されたが,この年には外資とインド政府との対立 はかなり緩和された。たとえば,Kidronは,「1962年の夏以来,政府と会社との関係にお 22)
いてある程度の安定が達成された」と述べている。その最大の原因は,決定的な外貨不足,
国内需要の絶えざる増大そして中印紛争がインド政府の姿勢を変化させたことにある。
1962年5月,内閣は,計画委員会に工業における民間部門の役割を再検討するように依 頼した。同委員会は,石油需要計画を上向きに修正し,製油所に拡張(300万トン)を許可 23)
するようにとの勧告を行ならた。中印の軍事対立が始まった1962年6月後半,前述の前年 10月から行なわれた製油所の生産量を1960年水準まで削減するという政策(Tanzerはこれ
を黙test of strength と呼んでいる)が中止されたのだが, Tanzerは次のように述べて いる。「この時点は,明らかに,インドのエネルギー政策史およびインドの歴史の決定的な 転換点であった。というのは,中国との紛争が,インドの左翼をひどく弱体化させたから であった」。しかしながら,Malaviyaは,1961年6月,メジャーより,製油所協定を通常 のlicensing agreementへ変更することをインド政府と進んで「協議iする」との譲歩を,
24)
また,前述のように,1961年,石油燃料相Malaviyaは政府は外国側少数所
勝ちとった。
有という条件で新製四所の申し出を考慮する旨の発言をしたのだが,とれに沿う形で1962 年,.米国のインディペンゲンツPhilips Petroleum(PPC)が,インド政府へ精油所建設の 25)
申出を行なった。
〔2〕公共部門の,それぞれ西独・ソ連・英国の援助によるルールケラ・ビライ・ドゥル ガプールの3製鉄所に続く第4のボカロ製鉄所プロジェクト問題は,1957年に始まった。当 時,インド政府は,国営第3製鉄所建設候補地としてボカロを考えていたが,運輸・通信 設備等の不備のためドゥルガプールに変更した。しかし,ボカロは放棄されたわけではな
く,同年中に,3製鉄所の所有と経営にあたる公企業Hindustan Steel Ltd.は,民間の
エンジニアリング・コンサルタントM.N. Dastur&Company(Private)Ltdと契約し て,ボカロ建設にかんする暫定報告作成を委託した。同報告は59年12月に提出された。計 画委員会は,第3次計画にボカロ製鉄所建設を組入れた。ボカロにかんする試験的交渉が
さまざまなところで行われ,それぞれ異なった時点で英国・ソ連・日本・西独が有力とな ったが,1960年頃から1963年9月までは,米国との間で協定が調印されそうなもようであ った。1958〜59年頃からインド鉄鋼業に関心を持ち始めた米国民間鉄鋼資本が,ソ連のじ ライに対抗する意味からボカロ建設に関心を持ち,U.S. Steelとインド側3社でインドー 米国コンソーシアムを形成して対策を講じた。しかし,民営製鉄所の新設は産業政策決議 に抵触するので,米国は,政府借款のAIDに切り替え,うまくいけば資本参加,最:大限 26)
に譲歩して相当奇問の実質上の経営・管理権掌握という線で交渉した。最終的には,米国 側は後者の線で交渉を進めていくこととなる。
米国側は,米国人が工場を建設し,一定期間これを経営し,その後完全な状態でインド へ引渡すという「ターン・キー」の考え方に固執し,その期問については10年間が適切で あると見なした。しかしながら,インド側は,そこまでの米国の支配を受容れる用意はで きておらず,インド人経営者・技術者が計画の当初からかなりの役割を果たすべきだとの 信念を有していた。しかし,インドの国内でさえ,どの程度のインド人の経営関与が望ま しいかについて,この間一致は得られなかった。インドをかなり苛立たせた一つの原因は,
一連のアメリカ・チームによって遂行された長期にわたる技術・経済要素の調査であった。
ほぼ2年間の交渉の後,1962年4月,米国は,AID資金に依拠した, U. S. Steelによる,
資金のみならず鉄鋼需要そしてプロジェクトの経済的実現可能性・適切性にまで及ぶ全面 的調査を,強く主張した。これに対して,インド側では,次のような主張がなされた。米 国に何らの約束もさせなければ,これはインドを1年後退させるであろう;インドは既 に十分な情報を有している;援助が必要とされるのは,経済的評価よりむしろ鉄鋼・工学 技術である。そのすぐ後で,インドの統計が「信頼でき完全である」場合にはこれらを受 27)
容れるということで,妥協がなされた。
米国側はボカロ製鉄所の経営支配を目指していたが,米国政府は,ソ連の援助によるビ ライ製鉄所に対抗するという政治的意図をも,有しており,西独の援助によるルールケラ 製鉄所の「失敗」を繰返すまいとしていた。p. J.Eldridgeはこの点を次のように述べてい
る。「米国の世論が,ル緊ルケラをインド人の経営ミスによってそこなわれた完全に恣意的 な企業であると見なすドイツ人の見方を受容れたのは,当然である。合衆国政府は,西独 へふりかかった不当な政治的非難と思われることを恐れ,ボカロが米国の専門技術・企業
の・立派な見本、となるよう望ん潔
第3節 1963年
1 1963年になっても,米国・世銀を中心とする独占資本主義陣営の三三援助動向は,
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 81 変らなかった。1963年1月2日分のEconomic Timesは,インドの非同盟政策に対する 西側の圧力の結果としてインドに立ちはだかった諸困難について,次のように述べた。「第
3次計画における外貨の見通しは,報告されているように,早期に対印債権国会議の会合を 開こうとの提案を合衆国が進んで支持しようとはしないことによって,再度暗くなってい る。計画の第2年次が残りの期間について予想される外貨需要をまかなうための大した約 束もないままに3月31日に終了する恐れが,出てきた。事実,本年度の約束額は,西側の 対印債権国会議が受容れた:最初の2年間についての元々の約束額にまだ3億8,000万ルピ ー不足している。対印債権国会議が昨年7月末にいくつかの仮約束をした後に散会した時,
その不足額を埋めるため9月中に会合を持つということが暗示された。会合は開かれず,
その他の方法でも何ら重要な約束はなされなかった。その後,少なくとも1月までに対印 債権国会議iはインドが進行中の計画を進めることができるよう1963−64の援助見込額につ いて何らかの明確な指示を与えるべきであるとの提案が,なされた。しかし,これでさえ 少しも温く受容れられたわけではない…冷戦という戦略は,インドを相当規模かつ長期的 なベースに基づいて援助しようとする世銀の努力を台なしにしたように見える…米国政府 は,政治的理由から,発展途上国への援助支出を新たに引締めようとして,海外援助政策 29)
の再調査を開始したばかりである」。ここでは,世銀と米国との密接な関係が軽視されてい るが,インドの第3次5ヵ年計画が全融面できわめて厳しい状況に直面していたことが分 る。こうした状況の下で,インドは,政治面のみならず経済諸政策の面で,米国・世銀を 中心とする独占資本主義諸国より大きな圧力を受けざるをえなかったのである。つぎに,
この記事で取上げられている米国政府による「海外援助政策の再調査」および援助効率化 の問題について,小谷義次氏の所論に依拠して簡単に見ておこう。インドに対する援助 遅滞政策は,援助効率化の問題と結びついている。また,この記事の「再調査」は,Clay 委員会による調査を指しているものと推察される。
米国対外援助の効率化への要請は,1957年の経済開発援助にかんする経済開発委員会の 報告に初めて現れた。その後,この効率性の問題は,1958年以降の国際収支の悪化にとも なう金流出の増大とドル危機という情勢に当面して,いっそう厳し い要請として現われた。
従属化の基本的式器,安全保障における支柱的意義をもつ援助の重要性と,当面する国際 収支対策の必要からくる援:助削減への要求との間の矛盾は,いくつかの政策的措置によっ
て調整されねばならない・。1963年3月のClay委員会報告は,そのような要請に応ずるも のであった。Clay委員会報告は,対外援助の削減を強力に主張するとともに,援助を米 国の利益にいっそう直接に関連させるべきであるという形で重点的政策を明らかにしてい
30)
る。このClay委忍会報告は,その後の米国政府の対外援助政策へ反映されることとなる。
これが米国の対印援助政策へ大きな影響を与えたことは言うまでもない。ことに,後述の ように,Clay委貝会報告は,ボカロプロジェクトの帰趨を左右する一大要因となった。
2 これまでの展開からも明らかなように,1962年以前においても民間外資導入のた
め種々の措置がとられたが,1963年,当時の蔵相は「われわれは,外国民間投資に対する 門戸をもっと開放しても,正当化されるであろう」と述べたと,言われる。また,1962年 以前には現金以外の対価での非居住者への株式発行は許されてなかったが,その後,プラ 31)
ント・機械もしくは技術援助を対価とする株式発行は一般的なものとなった。さらに、1963 年5月,重要性の低い諸産業がロイアルティの過大な支払いにより国際収支に加える重圧 を軽減しながら,外資・ノウハウの流入を促進する方法を見出すために,高級官僚より構 成される委員会が設置された。1963年5月21日付のEconomic Timesは,この事実の指 摘に続いて,「重要産業,とくに国防生産にとって重要な意味を持つ産業への外資流入の速 32)
度に,ある程度の失望があるように思われる」と述べている。
つぎに,1963年のNorman KipPing による英国工業連盟への報告書に注目するP. J.
El ridgeの所論に依拠しながら,当時の英国工業界のインドへの投資にかんする認識につい て簡単に見ておこう。Eldridgeは,「英国は,インドへの民間投資を促進するため確実な 努力を行なっている。インドにおける総海外投資に占める英国の割合は減少しつつあるが,
その持分は依然として相当なものである。インドに持分を有する英国の指導的実業家が事 態の本質的動きを把握していることは,明らかである」として,同報告書について次のよ うに述べている。「これらのことは,1963年のNorman KipPing卿による英国工業連盟へ の報告書によく表わされている。第一に,伝えられるところの高課税のよつなさまざまな 不利益にもかかわらず,インド市場が大きな成長可能性を有していることが認識されてい るが,しかし,成長過程を始動させるためにはあらゆる出所からのきわめて大量の資本の 流入が必要である。政府援助と貿易・投資開発との関連にかんする英国の認識については,
既に注目されていた。しかしながら,Kipping報告書は,さらに,インド市場は輸出では なく投資によってのみ掌握しうることを強調している。国際収支問題はインドを長期にわ たり高野同国としそうであり,資本投資は,海外の会社が高関税障壁を回避するための唯
_の有効な鍛であ認以上のように,Kippingは,インド暢の大きな成長可能性を認 識するとともに,インド市場を掌握するための英国によるインドへの投資を主張している
のである。
なお,経済統制緩和の傾向は1960年代半ばに明確となるが,物資統制のうち最:大の比重 が置かれてきた価格統制が1963年に緩和されることとなった。すなわち,、次の16品目が価 格統制からはずされた。レーヨン系,人造繊維,苛性ソーダ,ソーダ灰,塩酸,塩素,炭 化カルシウム,漂白粉,チリ硝石,硝酸カリ,硫酸カリ,洗剤,タそやおよびチューブ,
34)
板ガラス,板紙,生ゴム。
3 石油精製の状況について簡単に見ておこう。
〔1〕前述のように,石油産業においては外資とインド政府との対立は緩和しつつあった が,インド政府の石油政策に対する世銀の批判は,1963年になっても続けられた。1963年
1月初め,世銀使節団は,石油精製・配給の分野をできるだけ外国民間会社へ任せるべき
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 83
だとして,次のように述べた。「…石油精製・配給においても,十分な競争手段を確保する ために,政府の介入が必要とされる場合を除いて,その開発は,できるだけ民間の手中に 残すべきである。民間石油会社は既に精製・貯蔵・配給へ大量の投資を行なっており,彼 らが彼らの通常の事業の一部として需要の増大をまかなうのに必要とされる追加施設へ資 、 35)金を供給することができるであろうという点を,疑っべき理由は何もない」。一方,同年1 月,石油燃料相Malaviyaは政府部門拡張計画を発表した。その内容はほぼ次のようなも のであった。(i)民間部門拡張の必要性はない;(ii)既存の3政府製油所の年間精製能力を
1,800万トン拡大する;(iii)年産1,800万トンの能力を有する「公的所有」の製油所を南イ 36)
ンド(マドラス)に建設する。このマドラスの製油所は,後述のとおり,インド国家資本 と民間石油資本との合弁形態が予定されていた。
その後,1963年6月,Malaviyaは石油燃料相を辞任することとなった。これについて,
1963年6月28日のEastern Economist誌は次のように論評した。「次のことを期待するこ とができよう。すなわち,政府が現在の石油政策に責任を有しているということは,
Malaviya氏の辞任後でも,それらの不毛の議論にとどめをさし,それにかわり政府と国 際石油会社との間の協力について建設的な対話を導き出すために何らの措置もとれぬこと
を,意味しないということである。現在,政策の健全な方向転換が確かにもっとも望まし いように思われる2つの特別の問題が,ある。第一に,ボンベイのBurmah−Shell・Esso 製油所のいっそうの拡張の問題がある。Malaviya氏は,この拡張に対する配慮を断固と して拒否してきた。彼は彼のとった姿勢について多くの理由を与えてきたが,彼の姿勢の 37)
健全性について政府内で意見が一致していないこと,も,明らかである」。この論評はMalaviya 石油燃料相の辞任を契機とするインド政府の石油政策の転換を主張しているのだが,事実,
その後,インド政府の石油政策において国際「協調」が加速化していくこととなる。
〔2〕前述のようにPPCはインド政府へ製油所建設を申し出ていたが,同社は, ENI やBurmah She11を押えてインド政府との協定締結に成功した。1963年4月に建設協定が 締結され,同年9月,Cochin Refineries Ltd。(CRL)がpublic limited company とし て設立されたが,これは,石油産業において民間外資の導入を認めたという点で画期的な ものであった。つざに,CRLについて見ておこう。
当初の建設協定によれば,CRLの払込資本金約7,000万ルピーの出資比率は次のとうり であった。インド政府51%;ケララ州政府7.14%;生命保険公社6.57%;PPC 25%;
Goenka財閥傘下の元英系代理商社Duncan Brothers 2%;公募8.29%。その後,一般 の公募が予定を下回り,その不足分をインド政府とPPCが折半分担し,各々の出資比率 は,それぞれ52.4%,26.4%となった。PPCは,出資を外貨で行なうほか,外貨で1,800 万ドル(約8,550万ルピー)の借款を供与することとなった。こうして,製油所建設費の 38)
約50%は外資依存であった。インド政府は,,製油所資本の過半を所有するとともに,外貨 を確保することができた。しかし,この製油所は,PPCにとっても多大な利益をもたらした。
インド政府は,ほとんどの海外製油業者の収入(製品販売価格一供給原油コスト)が1 39)
バレル当り60〜70セントであったのに,CRLには平均1.35ドルの収入を保証した。これら の数値は1963年のものと推察されるが,同年におけるBurmah−Shell・Esso・Caltex のバレル当りの収入は,それぞれ1.24ドル・LO2ドル・97セントであり, CRLのそれより 40)
小さかった。この点は議会でも問題とされ,1969年には協定が改訂された。CRLは製品1 バレル当り60〜70セントの総利益(年間11100〜1,400万ドル)を得ており,税率を50%と 41)
仮定すると,PPCは,ほぼ30%の法外な利益を上げたものと推察される。また, PPCは,
15年間にわたり同製語誌へ原油を供給するための代理店となったのであり,実質的な原油 供給権を獲得した。PPCは,自社の原油を供給せず,メジャーが通常インドへ適用してい
る販売価格でSOCALと契約を結んだ。この契約によるSOCALへの利潤は,ほぼ1億
42)
5,000万ドルにものぼった。したがって,PPCは,この契約に対して相当の見返りを受け たものと推察される。さらに,経営面では,新会社の設立後10年間もしくは外貨の負債が 43)
なくなるまでのどちらか長い方の期間,PPCは,専務取締役を任命することとなった。
PPCはみずから建設契約を結び, Philips Petroleum International Corporationが同 製油所の建設をターン・キー・ベースで行なったのであり,この面でのPPCの利益も無 視しえない。こ0ほか,PPCは同製油所へ技術サービスを提供することとなり,多年にわ
たり一定額が支払われることとなった。政府がEstimates Co㎜itteeへ提供した資料に よれば,同契約の技術サービス料条項による年々の外貨流出額は,表一1から明らかなよ 44)
うに,きわめて大きい。
表一1 コチン製油所協定における技術サービスによる外貨流出の概算
年 度
インド国内での米
技術サービス(単位:100万ルピー)
インド国外での
技術サービス(単位:100万ドル)
1967−8 1968−9
1969−70 1970−1 1971−2 1972−3
1973−41974−5
1975−61976−7
1977−81978−9 1979−80 1980二1
計
3.263 3.255 3.255 3.255 3.270 2.843 1.628 1.628 1.223
23.620
0.44 0.44 0.44 0.44 0.43 0.40 0.40 0.40 0.40 0.39 0.39 0.36 0.36 0.36
5.65
(出 所)RVedavalli, Private Foreign Investment&Economic Development−A(ゑse
Study of Petroleum in India, Cambridge University Press(London),1976, p.114.*(原注)しかしながら,インド国内のサービスについては,現行の70%の所得税を源泉控除でき
る。(原資料)Lok Sabha,50th Report of the Est㎞ates Committee to the Fourth Lok Sabha
:,Petroleum and Petroleum Products (1967−8)
インドの第3次5ヵ年計画期における外資政策の展開過程 85 以上から明らかなように,CRLはPPCに多大の利益をもたらしたのだが, Tanzer は,、この点を「全般的に見て,この製油所にかんする取引がPhilipsにとって正直正銘の 大当りであったに違いないということは,明らかなように思われる」と述べている。他方,
彼は,CRLが同時にインドの左翼・民族主義者や実業家にも受容れられる側面を有してい たとして,次のように述べている。「その製油所が「公共部門」に位置する(そして既存の 有名なメジャーを排して)こととなったという事実は,左翼およびインドの民族主義者の 気をひいたであろう。インド人が歴史上初めてその国の石油産業において実質的な普通株 式の保有を,おまけに高利潤の株式保有を許されることとなったので,その取引は,明ら 45)
かにインド人実業界に人気があった」。形式的にはインド側の要求をも満足しつつ,実質的 には国際石油資本に多大の利益をもたらした公私合弁企業形態のCRLは,石油精製にお ける民間外資導入の先駆となった。また,CRLは,石油産業のみならずその他の重要産業 においても,民間外資導入促進の大きな積枠となったものと推察される。
〔3〕以上のような状況にもかかわらず,既存メジギーの製油所拡張が許可されるまでに は至らなかった。つぎに,この点について簡単に見ておこう。
1963年の秋,既存メジャーは,事実上彼らの目標を達成したように見えた。インドの計 画委員会は,もし認められれば年産約300万トン増となるBurmah・She11・Esso・Caltex の製油所の生産能力拡張を,勧告した。新石賢相0.V.Alagesanによれば, Esso・Shell・
Caltexによるインドの精製設備の拡張は,3社が政府との普通株式資本の共有に同意すれ ば,政府認可を得られるとのことであった。しかし,新石油相は,早急にこのような考え を変更せざるをえなくなった。すなわち,Nehru首相が,新石油相に,前石油相Malaviya の石油政策を継続しなければならず,民間部門製油所のいかなる拡張も将来の条件がこの 46)
ような動きを余儀なくさせるのでなければありえないと,告げたのである。
4 つぎに,ボカロ製鉄所プロジェクトについて見ておごう。
〔1〕前述のとうり1963年3月の米国のClay委員会報告はその後の米国政府の対外援助 政策へ反映され,四駅援助も,影響を受けることとなる。援助「効率化」の方針の下で,
援助総額が厳しく規制されていったことは言うまでもないが,援助の「質」がそれまで以 上に問題とされるようになった。とくに,同報告の次の主張は,公共部門をベースに経済 建設を推進していたインドにとって,重大な意味を有している。「…われわれは,アメリが 合衆国は既存の民間の努力と競合する政府所有の工業ポ商業企業を設立するプロジェクト では外国政府を援助すべきではないと,信じる。われわれは,海外諸国の援助においてわ れわれ自身の経済制度を打立てることを主張しえないことは分っているが,…われわれは,
発展途上国において政治的に運営され多大の補助金を与えられ注意深く保護されている非 効率な国営企業の無数の事例に注目しており,これら諸国家の経済生活におけるこのよう な企業の意義にかんして重大な疑念を有している。このような路線を歩む諸国は,次のこ とを悟るべきである。すなわち,合衆国は自身の経済制度を押しつけるために彼らの諸問
題に干渉しないであろうし,彼らも,たんに政府の経費を増加させるだけの企業援助や彼 47)
らがわれわれに要求している外国援助負担のために,わが国の財布に干渉する権利はない」。
従来より米国・世銀はインドの公共部門重視の経済政策には批判的であり,重化学工業分 野の公企業への援助には厳しい姿勢をとってきたのだが,Clay委員会報告書は,この点を よりいっそう明確に打出している。同報告はインドのみを対象にしているわけではないが,
当時進行中のボカロプロジェクトを強く意識していたものと推察される。同報告に批判的 なP.J.Eldridgeは,同報告を引用しながらこの点を次のように述べている。「「合衆国は 既存の民間の努力と競合する政府所有の工業・商業企業を設立するプロジェクトでは外国 政府を援助すべきではない」と独断的に述べているClay報告は,とくにBokaroに狙い 48)
をつけているように思われた」。Clay委報告とほぼ同時に,1963年4月,前出のU.S.Steel による調査の報告書が出されたが,この報告も,ボカロプロジェクトの推移に重大な影 響を与えることとなった。この報告では,原材料・給水やインド人の経営上のノウハウの 状況が概して不満足だと考えられており,これらの諸問題を解決するために,さらに2年 49)
を要すると判断されたそれ以上の報告が求められた。
〔2〕Kennedy政府は,製鉄所が公共部門に設立されるという事実が米国の援助の障害と はならないとの見解を明示しており,立場は明確であっ1た。このような見解に対するGalbraith 50)
大使の発言・行動も,一貫しており明白であった。Kennedy大統領は,以前よりGalbraith
・Chester Boules・Jo㎞Cooper・E. Keller・Kefauver・Humphrey・MansfieId・Fulbright とともに,とくに中国との関係からインドの重要性に注目しており,米国のインド・ロビ 51)
一の先頭に立っていた。したがって,米国の対外援助効率化が求められていた情勢の下で も,彼は,四界援助とくに重要プロジェクトへの援助については特別の配慮をせざるをえ なかったと,推察される。インドの大資本の側も米国援助によるボカロプロジェクトの推 進を主張した。たとえば,J.R. D. Tataは国家所有プロジェクトへの米国援助を擁護する ため断固とした声明を行ない(New York Times,25May 1963),インド商工会議所連盟 会長Bharat Ramもそのプロジェクトが民間部門の外回にとって不可欠であることを 52)
強く主張した(New York Times,gJune 1963)。ところが, U. S. Steerの報告とともに Clay報告がそのプロジェクトの反対者に強力な武器を与えることとなり,1963年8月22日,
米国上院は,ボカロプロジェクトを海外撰助歳出より外した。Kennedy政府がこの決定を 覆えすための準備をしていたことは明らかであるが,Nehru首相は,いっそうの混乱を避 53)
けるために,公式にインドの要請を徹回した。
米国上院がボカロプロジェクト援助を拒否したということは,「逆にインド側が米国側の 援助条件を拒否したことになるのだが,これまでの展開力1らもほぼ明らかなように経営・
技術上の問題も大きなポイントであった。米国側は双方の技術的役割について厳しい条件 を出していたのであり,Balral Mehta・は,この点を重視して次のように述べている。「ボ 一口鉄鋼プロジェクトに対するアメリカの援助条件を拒否し,それゆえに援助要請を徹回
インドの第3次5ヵ年計画;期における外資政策の展開過程 8写
したこと(国外のconsultancy and design engineefingが支配的役割を果し,インド側 は二次的・従属的役割を受持つとのアメリカの要求が,問題の決定的論点であった)は,晩年のNehruの,この非常に重要な領域での従属を払拭しようとの努力の,最高水準を 象徴した。この決定は,その時とくに科学・技術陣には大歓迎され,インドの経済発展に 54)
おける新たなかつより重要な段階の始まりとなっても当然であった」。彼は,このように,
ボカロプロジェクトにおける米国への援助要請の徹回を技術的従属の払拭という点で,
高く評価している。ボカロプロジェクトは,後述のとうり,最終的にはソ連の援助をえて 遂行されていくこととなる。この引用文の少し後で,彼は,その後の事態の推移について 次のように述べている。「しかしながら,ボカロへの合衆国援助に対する要請を徹回したこ
とが,結局,竜頭蛇尾に終ったことが明らかとなった。それは,大胆さと創意によって遂 行される堅固な政策には成長しなかった。逆に,全般的な経済状況が急速に悪化し始め,
計画それ自体も困難に陥り,他方では外国の援:助供与者や債権者の圧力も大きくなってい ったので,このようなベースに基づいていこうとする意志は,まもなく,援助供与者がい っそう多くの援助を申し出続けさえずれば彼らの設定する条件は何でもさもしく受容れる 55)
という方向に,しぼんでしまった」。金融的従属の下で全般的な事態は彼が述べているよう に推移していくのだが,米国側は,インド政府へ圧力を加える際に,ボカロプロジェクト の経緯を利用するとともに,そこからの「経験」を十分に生かしたものと推察される。
〔3〕1963年9月11日の議会における鉄鋼・鉱業・重機捨物C.Subramaniamによる援助 要請徹回の公式声明は,配慮された穏和なものであり,その声明では米国政府の有益な姿 勢が強調された。P. J.Eldridgeは,その要請が徹回されつつあったのは時間の節約と長期 的な友好関係の持続のためであると,述べているほどである。政府がしばらくの間別の方 策を探していたことは明らかであり,言論界では,最初は,インドは一定部分を下請に出 すだけで実質的には同プロジェクトを自身で引受けることができようとの,多少の楽観主 義が,表明された。また,前出の民間のエンジニアリング・コンサルタントDastur and Co.による報告書は, U. S. Steel Corporationがインドの潜在的な貢献力を過少評価して おり,その結果総経費を過大に見積ったとの意見に,重みを与えることとなり,1963年12 56)月11日に議会へ提出された報告は,この点できわめて楽観的であった。
第4節 1964年
1 前述のように米国の対外援助の「効率化」が進められていくのだが,1964年の初 めまでに,米国の援助政策に一定の変化が生じた。すなわち,返済期間40年間・年利O.75%・
利子支払猶予期間10年間の条件で米国国際開発局が供与してきた開発借款が改められ,利 子率が2%に引上げられ,利子支払猶予期間の10年間にも0.75%の利子が課されることと 57)
なった。また,1964年には,表一2のとうり外貨不足がいっそう深刻どなった。こうして,
1964年8月,インドの状況を調査するために,長期にわたり米国国際開発局の行政官を勤
めたB6rnard Bellを団長とする世銀使節団が,インドを訪れた。翌年その報告書が提出 58)
されるが,これについては後述。援助条件の悪化,外貨不足のいっそうの深刻化という 状況の下で,インドの諸政策への米国・世銀による圧力が強化され,民間外資導入の諸措 置がとられていくこととなる。ちなみに,Kidron は,1964年4月4日号の Economic Weekly誌を参考文献に挙げながら,ある世銀報告が「すんでのところでインドの計画へ 59)
の世銀の参加を提案するこころであった」と述べている。
前年の16品目の価格統制撤:廃に続き,1964
表一2 外貨準備高 年には,銑鉄および一部の鋼製品を除く鉄
60)
鋼製品が価格・流通統制からはずされた。
また,産業認可制度も緩和されることとな った。同年1月,産業認可を必要としない 固定資産の限度額が250万ルピーへ引上げ られた(いくつかの例外はあるが)。さらに,
同年,認可申請の迅速な処理のために,「仮 認可」発給業務が取入れられた。認可がす ぐに発給できず,認可供与について原則的 に異議がない場合に,申請者に仮認可が発 61)
給されることが期待されたのである。
2 1964年4月,M. Tanzerが「国 家部門から外国民間部門への全般的転換を 62)
画するめざましい出来事」と評価する,米 国主要会社の代表とインド政府高官との1 週間にも及ぶ会議が,ニューデリーで開催
された。つぎに,Business Week誌1964 年4月11日号の黙India opens wider to foreign funds と題する記事に拠りながら,
見ておこう。なお,
(1,0001万ルピー)
ドル表示年度
金外 貨 計 (1鋤
1950−51
117.8 911.4 1029.2 ,2,161.3 1955−56
117.8 784.6 902.4 1895.0 ,1956−57
117.8 563.3 681.11,430.3
1957−58
117.8 303.4 421.2 884.51958−59
117.8 261.1 378.9 795.71959−60
117.8 245.1 362.9 762.11960−61 117.8 185.1
303.6 637.61961−62 117.8
179.5 297.3 624.31962−63 117.8
177.3 295.1 619.71963−64
117.8 188.0 305.8 642.21964−65
133.8 115.9 249.7 524.31965−66 115.9 182.1
298.0 625.81966−67
182.5 295.9 478.4 637.91967−68 182.5
356.1 538.6 718.11968−69 182.5
394.2 576.7 768.91969−70
182.5 638.8 821.3 1095 ,1970年
@ 6月
182.5 655.3 837.8 1117 ,(出所)外務省経済局編『インド一世界各国経済 ハンドブック19』日本国際問題研究所,
1971年,140頁。
(原注)各年度3月末現在。1969−70年度および 70年6月現在はEconomic Times,Sept.
19,・1970による。
(原資料)Gover㎜ent of India, Economic
Survey 1969−70,pp.117−118.
この会議およびこれをめぐる諸状況について この記事の見出しの下には,太字で次のような文章が掲げられている。
rNehru政府が経済目標達成のために政策を転換するので,合衆国の超一流会社の経営 陣が,投資の可能性を討議するためにニューデリーへ飛ぼうとしている」。
同誌は,民間外国資本の誘致に努めていたT.T. Krishnamachariの動きに注目して,次 のように述べている。「1963年8月にインド蔵相の地位を継いだ富裕な元実業家のT・T・
Krishnamachariは,近年,外国資本誘致のためのキャンペーンを行なってきている。彼 は,すべてのインドの政治家達が少なくとも口先だけの好意を示している「社会主義」一
もしくは混合経済一という概念を定義し劃してきており,社会主義は「個々の企業心や事 業を刺激しこれに報いようとする」制度であると主張している。T.T.K.(彼はそう呼ばれ