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雑誌名 長野県短期大学紀要

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(1)

るりんご栽培の普及 [研究ノート]

著者 横山 憲長

雑誌名 長野県短期大学紀要

巻 70

ページ 181‑191

発行年 2016‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1118/00001224/

(2)

はじめに

 一九二〇年代以降の地主制後退期における農民層 の特徴として、生産力担当者としての自小作中農層 に研究の焦点が当てられ、農村における彼らの行 動・指導力が、一方で小作争議を醸成するとともに、

他方で産業組合、農会の指導者として恐慌後の農村 経済更生運動を担ったとされる。一九七〇年代から これらに焦点を当てた研究は、森武麿・大門正克 氏

(1)

らによって展開された。

 森氏によると、経済更生運動に関しては、東北 型・近畿型・養蚕型の三地帯類型を設定し、(農事 実行組合長としての五〇町歩大地主が)中農層の積 極的エネルギーを引き出すことに失敗した東北型、

小麦・蔬菜・果樹・畜産等の商品作物を早期に導入 した近畿型、養蚕に代えて編成替えが進む地域と養 蚕の生産性向上・合理化に努める地域との二面性を もつ養蚕型とした。そして「近畿型は自作・自小作 中農層の基盤の強さに支えられ、養蚕型は耕作地主 が主導、自小作中農を担い手とし、東北型は寄生地 主主導、中農の基礎の弱さに特徴があった」

(2)

と図 式化した。

 産業組合活動が立ち遅れていた一九二〇年代の農 産物流通を補完していたのは系統農会とその末端の 農家小組合(出荷組合等)である

(3)

。しかし、一九 三〇年代に産業組合―農事実行組合が編成されても 出荷組合は消滅するわけではなく、産業組合との関 係がいかなるものに変質していったかが問われる。

 産業組合の動態をテーマとした森氏に対して、玉 真之介氏は、土地制度史観から市場問題史観へと視 点を変えて、主産地形成が系統農会の斡旋事業に支 えられて進展していった動態を追究した。白菜の産 地である仙台における村農会を事例として、小農に よる出荷組合長が多いなかで 2 名の地主が存在する が、その評価・位置づけは低い。しかし東北型の出

荷組合長と言ってよいのではないか。

 出荷組合(共販)の強さを産業組合(共販)と比 べた研究が、大阪府川西町の事例で見られる。果実 主産地の都市近郊農業地域では、果実(桃)共販が 組織化の要であり、産業組合が必ずしも組織化の中 心的地位を占めていなかった。一九三〇年代後半に おいて、販売のシェアは産業組合一九%、出荷組合 八一%と後者が圧倒的である

(4)

。集荷・出荷に関し てこうした両者の対抗関係が問われなければならな い。

 さて、本稿は長野県北安曇郡常盤村の五〇町歩地 主清水家を研究対象としたものである。同家は五三 町歩地主(在村地主、一九二四年調査)で、近世に おいては大庄屋をつとめてきた家柄である。同家鎮 雄(第一二代目、一八七九年~一九五七年、七八歳 没)は、一九一七年から七町歩の苹

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果栽培を始め、

その後、一九三六年から常盤苹果出荷組合を組織し、

一九四二年から四五年まで常盤村青果物出荷組合を 運営した。さらに同家長男千春(一九〇二年~七〇 年)は東京農業大学で園芸を学び、家業の苹果栽培 を助けた。養蚕地帯における清水家をどう位置付け るのかが課題である。

 鎮雄の経歴をみると、開成中学校(東京)を卒業 し、一八九九年に近衛騎兵師団に入隊(近衛騎兵少 尉)、日露戦争に従軍した。帰郷後は、長野連隊将 校会や在郷軍人会で活動した

(5)

。また、北安曇郡会 議長(一九一九年)や村長(一九二七年~三〇年)、

村農会長を務めた。一九一一年三月には自宅近くに 三等郵便局を開設している

(6)

 このように清水鎮雄は、村における名望家、「中 心人物」でありつつ、同時に「中堅人物」として出 荷組合を率いてきたところにきわだった特徴がある。

1、常盤村の農業

 常盤村の水田は表 1 によると、一八九〇年以降、

大地主による農産物の転換と推進

―戦時期におけるりんご栽培の普及―

The Change and Promotion of Agricultural Products by the Big Landowner:

The Development of Apple Culture in Tokiwa Village during World War Ⅱ

横山憲長

 NorinagaYOKOYAMA

(3)

夏秋蚕の実態が桑園の著しい増加を伴っている。

(7)

 常盤村の養蚕業を細かくみると、春蚕の収穫量が 少ない時(一八九八年)、秋蚕に勢力を注ぎ、違蚕 等による減収を次期の収穫量で補填しながら夏秋蚕 を中心とした養蚕業の拡大を図っている

(8)

。  稲作と養蚕(夏秋蚕)の発展に引きかえ、麦作と 雑穀の生産は後退気味である(表 4 ‐ 1)。水田の大 麦作は全村でわずか一町三反程度(一九一九年)に 過ぎなく、畑の麦作も一九〇七年をピークとして後 退している。大豆、稗、そばも一九〇二年以降減少 増反のなかで、収穫米増、反収も一九一〇年以降、

一・六石から一・七石で安定してきている。

 つぎに、養蚕業の展開をみると、表 2 から、ひと 目見て注目されるのは、春繭の一八九三年以後農家 数の減少傾向、作柄の悪さに加えて、一九〇二年~

〇五年の間における激しい衰退と夏秋蚕の発展の対 照的動向である。これは、常盤村、平村や大町にも 共通する特徴であり、桑園反別で見ても(表 3)、

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表 1 水田の反別と収量

注)計にはもち米を含む。

出所)各年『公文編冊 農商』常盤村役場による。

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表 2 養蚕の推移

注)基本的に5年間隔で掲示したが、数値が不明の年は翌年値を利用した。

出所)各年『公文編冊 農商』『農工商書類編冊』(常盤村役場)による。

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注)見積反別含む。

出所)各年『公文編冊 農商』

   常盤村役場による。

している。

 果実に関しては柿、梅、桃と比べて苹果の植栽数 は減少しており(表 4 ‐ 2)、これが増加に転ずるの は一九一六年(三五〇本)ないし一九一八年(一六

〇〇本)である。長野県全体では、一九一四年以降 一一万本に達し、北安曇郡では一九一六年に三〇〇

〇本に、隣町の大町では一四年から一六年にかけて ༢఩䠖⏫䚸▼

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表 4-1 麦作(畑)と雑穀

出所)各年『公文編冊 農商』常盤村による。

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表 4-2 果実

出所)各年『公文編冊 農商』常盤村役場による。

(4)

急増している

(9)

 つぎに、村内農民層分化の状況として、表 5 から 自小作別農家戸数の変遷を見ると、一九〇六年から 一二年にかけて農家総戸数は横ばい状態のなかで、

自作農家割合と自小作農家割合が増大している

(10)

。 逆に純小作農家は一三%台に過ぎない。この時期は 開墾・開田が盛んであり、一九〇八年から村内須沼 地区では耕地整理前五八反の耕地が七一反に増反し た。これ以後一九一七年から本格的な事業が始まり、

その面積は一〇八町歩以上に及んだ

(11)

①田畑・宅地・原野の地目であっても小作地小作料 はすべて籾表示となっており、実際の徴収小作料も すべて籾納である。②小作籾は一俵五斗四升入(目 方一六貫目)、納期は毎年一一月一五日限りで収納 する。③年々豊凶に拘わらず期日までに収納する。

④万一期日過ぎて滞った場合は、二割の利籾を差加 え納めるべきこと。⑤収納できかねる場合は請け人 が弁償すること、とされた。

また、田小作料反当籾一石三斗、収穫高三石五斗、

したがって小作料率は三七%である

(13)

 こうした土地所有からあがる収入(一八八七年

〔明治二〇〕~一九二四年〔大正一三〕)をみると、

農業収入に占める米は、おおむね八〇~九〇%台を 維持しており、一九一二年以降四か年に一〇〇%も みられる(表 7)。米収入のうち毎年五%は手作り 米収入である。繭については記帳のない年も見られ る(計一〇か年)

(14)

が、毎年一〇〇円ほどの収入を あげている。桑葉は豊富とみえて、その販売も年に よっては一〇〇円を上回る場合もあり、林業収入

(不定期)とともにおろそかにできない。

 つぎに表 8 から、収入の柱となっている米収入の 実態を見ると、一九〇五年の減免高一九石二斗は、

水田小作料をすべて一三%引きとした結果である。

 田の手作り収量は一九〇五年(明治三八)の六石 八斗から翌年の三石三斗へと減少、畑はその分増大

(〇五年・五石四斗から〇八年・八石六斗へ)して いる。地目の「山・原・原野」は一九〇一年の五〇 石二斗をピークとして一九〇五年から畑小作料が増 えはじめ、一九一二年には六〇石台にのっている。

原野の畑化(地目変換)が推し進められたと考えら れる。作喰(前年度の滞納小作料)は一八九五年

(七二石)~一九〇二年(九三石)までは毎年の新

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注)各年の下段の数値は兼業農家数で、うち数。

  1890 年の兼業は欠。

出所)各年『公文編冊 農商』常盤村役場による。

2、清水家の経営

(1)土地所有

 近代における清水家の土地所有の推移をみると、

表 6 のようになっている。清水家の土地には山林原 野も含まれているが、地租をすべて田畑分とみなし て、その地租率をもとに地価金を算出したものであ る。そのためおよその数値である。一八八八(明治 二一)の地価金五一一一円から一九一九年(大正 八)の六三八一円に増大し、一九二四年六月、農商 務省の「五十町歩以上ノ大地主」調査によれば、田 三一・三町歩、畑二一・四町歩計五二・七町歩で自 作地が八町歩存在した

(12)

。その圧倒的部分は苹果 園であるとみなされる。所有地はすべて村内である。

(2)小作籾と実納率

 まず清水家の小作証書(一八八七年)によると、

表 6 清水家の土地所有(地価金)

注)土地は総て田畑と雑地とみなして、換 算した。

出所) 『常盤村分壱人別地租名寄帳』(戸長 役場)、各年『公文編冊 議事』『大正 八年度公文編冊 農工商ニ関スル書 類』常盤村役場による。

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(5)

規小作料(①)の三〇~四〇%台を占めていたが、

一九〇三年から滞納高が一一〇石台に膨れ上がった ところで、一九〇七年に一五八一円におよぶ「負け 引き」(同年『書出日雇差引帳』による)を断行し た。その結果、一九一〇年以降二〇%台に軽減して いる。実納率(③/②)をみると、一九〇八年まで は六〇%台、七〇%台の繰り返しであったものが、

七〇%台に落ち着いてきている。この背景には小作 農の生産力の向上・安定化が読み取れる

(15)

(3)米の販売

 つぎに米収入の重要な要素としての販売方法につ

いてみよう。

表 9 によれば、一八九八年(明治三一)から米価変 動が従来と異なるような波形を描くようになった。

これは米穀流通市場(過程)の近代化の結果なのか もしれない。流通の近代化とは必ずしも米価の価格 差の縮小を意味するものではなく、高米価・低米価 の時期的季節的乱れとして具現されるものかもしれ ない。

 出回り期には安く、端境期に高くなるという一般 的普遍的現象にひずみが出ること。これに対処する ためには、安全策として分散的販売方法をとる必要 があり、それによって最高米価に遭遇する時(月)

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注) 米×0.05=手作米。 1910~11 年、16~19 年欠。

出所) 『清水家 金銭出入帳』による。なお、『同 書出日雇差引帳』

(各年)で補正。

(6)

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表 8 小作料と実納率

注)「作喰」は前年度の滞納小作料。

出所)各年『小作取立帳』(清水家)による。

(7)

の販売と最低米価にあたる月の販売が発生するよう になる。その結果、同一年で売り時の「成功」と

「失敗」が併存する年が出てくる。

 米の販売関係では、明治期、一八九七年を例にと ると、同年四月の販売(四二駄)に関係した商人は 一一人、最高取引高は保高「久保屋」の二〇駄であ った。また同年七月の取引高六二駄を一一人が関係 し、うち保高「白木屋」、大町「竹屋」がともに五 駄であった。それが大正期になると、一九二一年で は、一月二〇駄二人、二月一〇駄一人、三月一五駄 二人、四月一〇駄一人、五月二二・五駄二人という 具合に、商人が絞られてくる。

 ところで、米価の動向を見ながら有利な販売を行 おうとするのは、すべての地主にとって共通すると ころであるが、地主経営(収支)が複雑化する。す なわち、銀行から多額の融資を受けており、その返 済期限が迫っていたり、納税期を控えている場合に は、必然的に米の販売を急がなければならない場合 も出てくるのである。

(4)農業経営費

 支出のうち、「給金・賃金」とそれ以外の「農業 経営費」の動向をみると、表 10 のようである。一 九〇八年まで前者は一〇〇円程度、それに後者を合 算すると〇八年までは百数十円であったが、翌〇九 年には二五五円に、それ以後は一〇〇〇円台に向か って高騰している。この農業経営に費やされる費用 を手作収入との動向と比べると、つぎのことがわか る。さきの表 7 農業収入の桑葉と繭の合計(①+

②)に、米の手作部分(五%程度)を加えると、〇

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表 9 米の月別

注)ゴシック体表示の数値の月は各年の最高米価月を、< > は、同最低米価月を表す。1904 年は価格 出所)清水家『金銭出入帳』による。

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表 10 支出

注)※ 1 月分と 12 月分のみの合計。

出所)『清水家金銭出入帳』(各年)による。

(8)

八年(明治四一)までの手作経営はなんとか黒字基 調であったといえよう。

 もう一つ重要なことは、一九二〇年以後の農業経 営費(①+②)が高騰していることである。これは 言うまでもなく一九一七年の苹果栽植に基づく経費 による。この経費高騰にもかかわらず苹果経営を可 能にしたのは、米価高騰・米収入の増大(表 7)で

あった。

(5)地主小作関係

 地主に対する小作人の債務の内訳・内容が表 11 である。小作人の生活水準を映し出している「貸 金」「籾・白米・玄米代」の借用が、一九〇八・〇 九年から減少に向かっている。その前年の一九〇七

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販売駄数割合

不明(記載なし)。

表 11 小作人等の債務額

注)

α

は金額化困難なもの

出所)清水家『書出日雇差引帳』(各年)より集計。

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(9)

年に清水家が思い切った債務大整理を実施した結果 であろう。

 一方、表 12 は地主による賃労働機会の提供であ る。「家事」は女子向けの洗濯・糸紡ぎ作業である。

水車(挽屋)は、小作料籾を玄米にして商人に販売 するための水車小屋労働である。「その他とも小計」

の推移をみると、一九〇七年から二〇〇円の大台に のっている。

(6)清水家の納税額

 表 13 によれば、一九〇九年から村税が四一五円 に増加し、地租(二九六円)を大幅に上回るように なった

(16)

。これ以後、村税の動向が地主経営の去 就を左右するようになる。村税の算定の基礎が、大 きく資産(土地所有)に依存しているとすれば、村 内のステータスを維持する以上の土地所有規模と

「農業を家業」(祖父の遺言)の中軸に据える土地所 有のバランスを迫られるに違いない。日露戦争時に 抑制されていた村税は、戦後、その反動として役場 費、教育費が増え、とりわけ一九〇八年教員宿直室 新築(二九三七円)、一九一二年尋常小学校建築費

(八八五五円)、一九一三年高瀬橋修繕費(一三〇九 円)一九一五年信濃鉄道布設補助(九四〇円)など が続く

(17)

 最後にこれらの納税額を小作料収入と比較してみ ると、二〇%台から日露戦争前後の四〇%から年に よっては過半を占めるようになっている。一九二〇 年六月には、別途、「開墾補助費」として五二八円 が支出されている。開墾がどのような意義を持って いたかは、今後の研究に俟つしかないが、田畑の小 作料収入に依存する地主経営の危機的状況を垣間見 ることができる。この窮状を緩和するためには、清 水家はさらなる農外投資か、原野等土地の有効活用 を迫られる。

課題・展望

 常盤村では一九〇九年八月に倉科良策他四九名よ り財産目録を添えて「購買組合設立認可請求」がお こなわれた。その財産調べによれば、倉科良策(田 畑八町三反)、倉科織次と清水真虎(田畑各一六町)

らを筆頭に、地主層が多かった

(18)

。その後どのよ うな変遷をたどったか、四種兼業後の産業組合活動 を明らかにしなければならない。

 清水鎮雄が主宰する青果物出荷組合資料のうち

「出荷組合規約」には「生産並に出荷ニ関する資材 の共同購入及配給」(第六条)とあり、資料中に

「縄買入帳」「箱釘渡覚」(ともに一九四二年)など ༢఩㸸෇

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表 12 小作人等の債権額 ( 地主の債務額)

注)

α

は多少の上乗せ額あり。

出所)清水家『書出日雇差引帳』(各年)より集計。

(10)

は散見されるが、肥料、農薬の主要資材購入に関し ては、産業組合との関係も含めて今後明らかにして いかなければならない

(19)

 大地主清水鎮雄をどのように評価するか。

 果樹栽培では、兵庫県の伊藤家が一九〇二年に三 町五反の果樹園を〇七年には五町歩に拡大して、

梨・柑橘・林檎・桃・梅などを栽培し、「趣味の深 い道楽」「社会的道楽」として営んでいた事例があ る

(20)

 これに対して、清水家では本格的に苹果栽培を始 めたのは、一九一七年(大正六)であった。そのた めには、農作業が競合する養蚕業を廃業し、原野を

開墾して「農業を家業」としつつ経営の転換を図っ た。おりしも苹果栽培を手掛ける前年の七月には大 町から松本間に信濃鉄道が開通し、常盤駅も新設さ れた。

 またこの時期は、「我県農会としては系統農会と 連絡を採り、之が団体設立のために、大正五年以来 一町村以上を区域とする出荷組合の設立を奨励 し」

(21)

はじめたことと符合する。第一次大戦の好況 を契機として都市市民の購買力が向上していたこと が背景にある。その都市部における卸売市場(問 屋)の展開が府県農会の販売斡旋事業を通じて県農 会―郡農会―町村農会―出荷組合にどのような変化

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䚷䚷䚷䚷䚷༢఩䠖෇䚸䠂 表 13 清水家の納税額

注)1924 年は 5 月までの値。1893 年までの小計には「連合費又は郡費」をふくむ。

  1914 年~1921 年、1923 年は国税と県税が一括記帳となっている。

出所)『清水家 金銭出入帳』(各年)より算出。

(11)

をもたらしたか、とりわけ末端の、村における出荷 組合の変容と清水鎮雄の立ち位置を解明したい。

1、森武麿『戦時日本農村社会の研究』東京大学出版会、一 九九九年。大門正克『近代日本と農村社会』日本経済評 論社、一九九四年。野田公男『戦間期農業問題の基礎構 造』文理閣、一九八九年。

 近畿型先進地域・京都府久世郡御牧村の商品生産振興施 策のうち「流通改善施策」として同村農会は、出荷組合 を設立し、梨・桃等について昭和恐慌期に出荷統制・共 同出荷・市場調査輸送体制の確立・販路開拓・代金回収 方法改善などの事業を行った。こうした出荷組合の実態 は地域・町村によってさまざまであり、産業組合との関 係も含めて今後解明されなければならない。

2、森『前掲書』一九五頁。

3、森武麿『戦間期の日本農村社会』日本経済評論社、二〇

〇五年、三三、三五頁。

4、白木沢旭児「近畿都市近郊農業と商品生産―兵庫県川辺 郡川西村加茂の事例―」三好正喜編著『戦間期近郊農業 と農民運動』校倉書房、一九八九年、二三六~七頁。

5、長野県立歴史館編『長野県立歴史館収蔵文書目録 6 清 水家文書』一六頁。

 なお、同郷の従弟清水克己は陸軍大学校卒である(一九 四一年戦死)。

 前澤健「清水家文書『陸軍大学校関係文書』について」

(資料紹介)『長野県立歴史館研究紀要』第一四号、二〇

〇八年三月、一〇二頁。(資料は、陸軍近衛師団に属した 清水鎮雄(明治期)と克己(大正・昭和期)の二人に関 わるもので、在郷軍人会、陸軍士官学校、陸軍大学校の 文書からなる。)

6、一八八三年七月、「郵便切手売下免許印鑑一枚右御下付 ニ相成正ニ領収候也╱郵便切手売下人清水又居╱駅逓総 官野村靖殿」清水家文書。

7、一九二〇年六月末現在「収穫又ハ時期別桑園反別」によ ると、春蚕専用桑園六反歩、夏秋蚕専用桑園一六八町歩 三反、春夏秋蚕用桑園一町歩、計一六九町歩九反であった。

(一九二〇年度『公文編冊』常盤村役場)。

8、常盤村に製糸場が創設される前の一八九一年の繭移出高 を見ると大町へ二七〇〇貫、諏訪へ三〇〇貫となってい たが、一八九七年の村内製糸場(表 7)の原料繭高は九六 六石八斗であり、おもに村内産繭五六七石を含めた近隣 の地繭を使用しており、ごくわずか六一石四斗を千葉県 産に依存しているに過ぎない。(一八九七年度『公文編冊  農商』常盤村役場による)。

9、『北安曇誌 第四巻 近代現代上』一九八〇年、八三一頁。

 ちなみに、大町では、一九一二(大正元)年の「果実」

統計に初めて「苹果」(五〇本、四〇貫)として計上され た。それが、このとき、梅は自給用と考えられるが、一 七〇本、八五〇貫で、果実中、最高位を占めていた。と

ころが、一九二〇年になると、苹果の本数は六〇〇本(梅 四〇〇本。梅樹数は四〇〇本)に増大している。一貫目 あたり単価をみると桃五〇銭、梨七〇銭、柿三〇銭に対 して、苹果は一円七〇銭と高く、需要の高さをうかがい 知ることができる。(一九一三年『農商書類編冊』、一九 二一年『農商工書類編冊』大町役場)

10、一九一〇年の自作田二三一町(五九・八%)、小作田一 五五町(四〇・二%)、計三八六町(一〇〇・〇%)、自 作畑一〇七町(五六・六%)、小作畑八二町(四三・四%)、

計一八九町(一〇〇・〇%)であった。(一九一〇年『公 文編冊 農商』常盤村役場)

 これを同年の長野県平均値(『長野県農会報』六三号、一 九一二年七月、五九頁。)でみると、田の小作地率四九・

一%、畑は四〇・五%であることから、水田の自作地率 の高さがわかる。

 また、その二〇年前(一八八九年一二月調)の田畑は、

田三五九町、畑一九一町であった。一九一〇年と比べると、

田は二七町の増加を示している。これは、原野の畑化、

畑の水田化の影響と推定される。(『明治二三年 公文編 冊 農商』常盤村役場)

11、大町市史編纂委員会『大町市史 第 4 巻 近代・現代』

一九八五年、三一〇頁。

 一九一二年「農業組織概要」によると、傾斜二〇度以下 の未耕地の耕地化の見込み反別として、水田となすべき もの一〇〇町歩、畑となるべきもの九六町歩とある。(一 九一三年『公文編冊 農商ニ関スル書類』常盤村役場)

12、農業発達史調査会編『日本農業発達史 7』中央公論社、

一九七八年改訂版、七四六頁。

13、「本村ハ小作料、割合ニ安ク、又減免ヲ行フ程ノ凶作モ ナシ。」

 昭和三年一〇月、常盤村村長清水鎮雄より長野県内務部 長宛て「小作事情調査報告ノ件」のうち「土地分配の状 況」による。(『昭和三年度 公文編冊 農工商書類』常 盤村役場)ちなみに、このとき清水鎮雄の所有地は、田 一八町、畑一三町二反、山林二三町四反、原野九四町八反、

計一四九町四反と報告されている。

14、故清水利和氏(二〇一二年一一月逝去、八二歳)の妻 ゆき子氏(一九三七年一月生れ、七七歳)からの聞き取 り(二〇一四年一一月二〇日)によれば、同家では養蚕 を行っていなかったとのこと。大正期に苹果栽培との作 業競合を避けて廃業した可能性が高い。

15、一八九八年六月、田畑反当小作収益調べによれば、中 田小作米七斗である(『公文編冊 農商』一八九八年、常 盤村役場文書)。一九一三年、水田の反当収量(籾)は平 均一石八斗七升五合である。(「農業組織概要」『公文編冊 農商ニ関スル書類』一九一三年、常盤村役場文書)また、

大町の「一九二二年「小作慣行調査」によれば、中等田 の実収籾一石八斗、小作料九斗、小作料率五〇%である。

(『農商工書類編冊』一九二二年、大町役場文書)

16、加瀬和俊「地主制衰退過程における地主課税政策の意

義について―天皇制国家と地主制の関連にふれて―」『東

(12)

京水産大学論集 13 号』一九七八年、五、一六頁。

 村税の中核は戸別割(戸数割、県税の付加税)で、資産 状況を斟酌して資力を算定する「見立割」であった。田 畑山林等の所得が資力とされた。(田中廣太郎『地方税戸 数割』良書普及会、一九二二年、一三二頁。坂本忠次『日 本における地方行財政の展開』御茶の水書房、一九八九年、

二九〇頁。)

17、各年度『常盤村会議録』による。

18、申請者構成割合では、五町層以上六%、二~五町層二 三%、一~二町層一〇%、五反~一町層一三%、五反未 満層三一%、田畑所有なし層一七%となっている。(『自 明治四十年至明治四十二年 公文編冊 農工商ニ関スル 書類』常盤村役場、による。)

 どのような性格の「認可請求」なのか判断しかねるが、

実際、同年翌九月に常盤信用購買販売組合が組合員四三 二人を擁して発足している。『大町市史 第四巻近代・現 代』一九八五年、五一四頁)

19、長野県農会技師高坂専一郎は農会と産業組合との棲み 分けを次のように提唱している。

 「農産物の販売斡旋は、農家の総合指導の立場より考察す れば、農産物に関する限り全部を農会が行ふべきであるが、

生産指導も徹底し、集荷も相当大量に訓練付けられたも

のは、順次産業組合に移管して、産業組合が取り扱へば よい。統制集荷の訓練課程にあり、生産指導を要する様 なものの販売斡旋は、当然農会が之れに当るべきで、茲 に 農 会 と 産 業 組 合 の、 事 業 分 野 は 自 か ら 判 然 す る。

╱・・・要は農家本位、農村本位に立脚し、如何にした ならば農産物の販売処理を公正妥当ならしめて、農家収 入を増大し、農家経済を改善工場して農村更生の実現を 期するかを主眼としなければならない。」(高坂「銃後運 動と農産物販売統制に就て」『長野県農会報』第二九五号、

一九三八年七月号、九頁)

20、船津吉太郎「伊藤家農会の活動について(一)」全国農 事会『中央農事報』一九〇九年一〇月号、五三頁。

21、長野県農会編『農村中堅青年講義要綱』一九三四年一月、

四〇頁。

( 長野県短期大学多文化コミュニケーション学科 国際地域文化専攻 )

(連絡先 〒 380‐8525 長野県長野市三輪 8‐49‐7 TEL026‐234‐1221 FAX026‐235‐0026)

(平成 27 年 9 月 24 日受付、平成 27 年 12 月 1 日受理)

(13)

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Kuntze, Carl Ernst Otto (1891) Revisio Generum Plantarum: vascularium omnium atque cellularium multarum secundum leges nomeclaturae internationales cum enumeratione plantarum

雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

記述内容は,日付,練習時間,練習内容,来 訪者,紅白戦結果,部員の状況,話し合いの内

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施設 平成17年 平成18年 平成19年 平成20年 平成21年 平成22年 平成23年 平成24年 平成25年 平成26年 10年比 松島海岸 㻟㻘㻠㻝㻥㻘㻜㻜㻜

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