十 地 基 本内容の体系的構造
その一︑第一菩薩地について−
伊
ヲトぷ
騰
瑞 叡
すでに指摘されている如く﹃十地経﹄ の十地説は︑思想史的に 大『事﹄の十地や﹃菩薩本業経﹄の十住と直接的関係を有するとは
見がたい大乗独白のものである上に︑その起源について論じうる直
接的な資料もまた存在しないものであるからともあれ何よりも全
体的な内容の研究がなされるべきであろう︒そのことを通じてその
発達が推知されうるであろうし︑大乗菩薩道の思想的発展が究明さ
れるべきでもあろうからである︒
そこでここでは華厳菩薩道の根幹をなす十地の教説の全体を︑几 夫位より仏位へと漸進する実践的思想の完成された体系的範型とし
て見る観点から所与の経文すべてを可能なかぎり見てこれを適正
に 解 釈しその本質に迫るという註釈的態度を方法として︑第一地よ
り第十地に至るまで順次に内容研究したいと思う︒すなわち十地思
想 の 基 本 的な理念内容の論理構造をその構成諸要素の連関次第を
十地基太・内容の体系的構造︵伊藤 ︶
洞察的に追究しながら捕捉的に記述し︑その本質的ともいうべき体 系を各地ごとに要約化して図式的に摘示するという形式をもって
解明したいと思うものである︒
なおインド仏教の伝統的な流れを汲み︑洞察に充ちた的確で合理
な解釈を多く示す﹃十地経論﹄︵畑﹁苫−合沿;コ︸±一ぎ三看τ三ロコニ・二︶一︶で
>O<︶のチベット訳を︑その内容研究の意味をも含めてシナ訳と対
照しながら解読和訳し︑経文趣意との対応連関を克明に検証するこ
とをもって︑本研究を補強したいとも思う︒
凡例e論文記述の便宜上︑経文内容の類別前後をM︑国田⁝OC2⁝の記号
をもって大別して示す︒経のシナ現存五訳は訳出年代順に示すに各々︹漸︺︹住︺
︹六︺︹八︺︹地︺と略称する︒ラーデル本の文節アルフ/ベット記号を論文中関説
経文の右側に併記し対照を便ならしめる︒経の諸本諸訳の比較対照の結果として︑
文章語句の出入異同を必要に応じ論文の本文や註記の中て適宜に論及すろ︒ ﹇.十
地経論﹄はチベット訳を和訳し必要に応じて本文中に引用す︐oが︑大部分はこれ
八三
法華文化研究︵第二号︶
を註記に載せて参考に供する︒本文・註記に引く経・論の訳文には︑意味の明瞭
を期し異解の可能性を示し問.題の所在を暗示する等のために︑括弧を付して根拠
あるサンスクリット原語︑チベット語︑シナ訳語︑ある種の語句を添加し︑カギ
括弧を付して原文にない語句を補添すろ︒論文所引の経文には時として︑また諭
訳文所引の経文には常に側線を付して区別を示す.︑論訳文中の経文で論文本文に
引用のものは時として番号をもって省略する︒論訳文中反復される語句その他は
何某かの付号をもって省略する︒
第一菩薩地について
A
先ず経文には︑ 衆YI ︵g.atva︐ setlls call︶が第一菩薩地︵一︶︹三一ピ︵﹇三勾
be﹇Ihisa.tva−bh t−imi︐ byafi chub sems dp︵tt.﹈i s. a 一ah po︶に住する︵ゾ↑三叶P
gllas 1︶a.︶場合に︑その前提・条件となると看倣しうる事項が︑左の
如く四節をもって説示されている︒それは衆生がその凡夫性を離れ
て菩薩へと転入するところの様相︑および衆生と菩薩との区別性を
的碓に表示したものとして︑詳細に検討すべき重要性を具えている︒ R
すなわちその第一節には﹁諸の・衆生があって︑そのω善根がよく
集め﹈Sれ ︵sfipac.ita−kuia︐1﹇;邑︹三ヅ臼ぎい一一一↑三︶エ言F9る︶︑②諸行が
よく行ぜられ︑③資糧がよく集められ︑④諸仏の出現によく近侍し︑
同白法︵竺亘ぱdharina.︶がよく聚められ︑g善友︵ぎ六図日−三言p並目
知識︶によく摂護され︑ω意楽がよく浄化され︑⑧広大なる深心を
具え︑⑨勝妙なる︵または勝妙なるものに対する︶信解︵F三弩言三−− 八四ヨ已ご六己c二︺勾﹁σqya cheii po︶を具え︑⑩悲敗心︵言一﹂P六茸三る三コ三芸
(罫コ蛋三﹁拾πσ勾︹譜コ︶が現前するとき﹂ と前提せられ︑ しかして
︵1︶
r菩提へと心が発起する︵bo︵ニlaya cittani utpad︸︐ate︶﹂と見える︒
この中︑末尾の発菩提心を示す語句は︑チベット訳とシナ訳︹八︺︑
〔地︺に欠いているが︑それでも次節には見えるから省略されたと
受けとってよいであろう︒
第二節には﹁ω仏智を求める︵σ⊆︹三言−盲ぎエ︶三一3ぞ凱↑三ζ緩ニエξ﹂
ye
ges k二弓三二︶目﹂︼︼三言︶ために︑②十力者の力を得るために︑
㈲ 大 無 畏を得るために︑④平等なる仏法を得るために︑〇一切世間
を救うために︑θ大悲慾を浄めるために︑⑦十方無余の智︵ー無着
ヘ へ智m7弓芸﹈コ昌ρ︶︵︵一かこご三憤−︵髪.ゆ聯盲雪三三づ︐三工ご・.=三︵i. Ius par thogs
pa med p︷tl.﹈i ye .ges. ︶を得るために︑ ぽ一切の仏国⊥を着すること
なく浄めるために︑⑨三世を一刹那に知るために︑09大法輪を転ず
るのに無畏となるために﹂と前提せられ︑︒︹︑し/﹂﹁二︑の心が諸の書
ワこ薩に発起する﹂と見える︑この最後の語句はチ./︑ット訳にのみ第三
節 の 末 尾 に 移 動している︑
第三節には﹁︹その心は︺ω大悲を首とし︵三^三ご竺﹁三る一︑雪..川ピ三︐
sT;uiin.︐ s. fiifi rje e﹈ieti p︵︸ gTh︶n du 1.iL︐︐︐io ba︶︑ω般若・知11が増上であり︑
㈲善巧なる方使に摂護され︑ω意45∴深心に輔持せられ︑㈲如来力
の 無 量を具え⑥衆生力と覚慧力とのよく︵観察︶決択を決定せる 無 擬智へ﹇Fz三きゴご﹈︷竺−三μコ三らぎる一峯三巳二る三言いcの無差別智︶が現
前し︑ ⑦自然智︵s. x.ayaTllげ言−︺自11a︐ 1︐︹r︼ご●︑已コぬ二.︒ξ︶に従い︑
⑧1切の仏法の般若・智の教授を求受し︑⑨法界を究党し︑⑩虚空 ︵3︶界に住し︑後際を究尽する﹂と見える︒
卿四 節 に は
「その心の発起が起る高時に︑護は︑ω凡夫地を
超える︵・三・§言誓・・三昌・・量〒亘一雪∨一∋︑切︒∫・∨三劣︼^u︑巳亘言z一ピ
la rab tu l.﹈das pa yin︶︑②菩薩位︵げえ三鍋葺奏−三盲︼パ﹈pevskYon rned
I)a︶に入る︑③如来のiK ︵t−. thiLgata−kula︐〜rigs︶に生れる︑ω如何
なる種姓論︵jati−vada︶によっても識嫌されることがない︵ρ旨!︑p︵ぞρ︶︑
㈲一切の世間趣を離れて出世間趣に入る︑⑥菩薩の法性︵ぴ゜︐dhar︐
mata︶に庄する︑⑦菩薩の庄Ne ︵b.−avasth.ina︐〜rnam par dgod pa︶
に 安 住する︑θ三世の平等性に随行する︑⑨正覚︵︒︐^三︑一︑︒.=︑一︑弓二︒︐二頒工
pal?i by:Lfi chub︶に趣向する︵11を究極目的とする︑︼︑沿脇︸︑p﹇石戸︶﹂と
あり︑しかして﹁かくの如き法に安住する菩薩は歓喜菩薩地に不動 ︵4︶
の 理 趣 によって︵11不動と相応して︶安住する﹂と見える︒
以上を概観すると︑凡夫は菩提心を発起すると同時に︑凡夫地を 超えて菩薩位に入りそして動揺することなく初地に安住するとい
うことがともあれ経文の一往の趣意と見て採ることができるであ
ろう︒ ところで以上の四節はン︼︶ぐでは第一地を正しく説示する部分
としてW︽︹地の︺説︵忌ζる説分︶︾と見られる中︑そのー︿住
(gn
as pa︶﹀というのに配釈されているが︑そこでいうその︿住﹀と
十地基本内容の体系的構造︵伊藤︶ は︑衆生がa﹁如何なる依止︵gnas︶がある︹ときに︺︵$1 tl何身一︶﹂︑b﹁如何なることのために︵為昌何義一︶﹂︑ c﹁如何なる依事︵讐ρ・︒=vastu︶ ﹇がある︺から︵以二何因一︶﹂︑ d﹁如何ような︵有二何相一︶
心 が ︵5︶ 起ることによって﹂︑ 第一地に住しうるのかを説く部分という 意 味 であり︑四節はそういう観点から精解されている︒
︵6︶ すなわちその第一節十句は︑a﹁如何なる依止があるときにそ
の 心 は起るのか﹂を説示するものとして註解されている︒それによ
ると︑第一節十句は︑衆生にあっては﹁善根がよく集められる﹂と
きに︑すなわち増上の戒・定・慧の三学および声聞・独覚に勝れる
意 楽 が 具 えられる︑という依止︵11基礎的状態︶があるときに︑菩
提への心が発起するのである︑ということを説示したものであると
解されている︒
︵7︶ 第二節十句はb﹁如何なることのために︑その心は起るのか﹂を 説 示するものとして註解されている︒すなわちその第二節十句は︑
菩薩にあっては﹁仏智を求める﹂ために︑菩提への心が発起するの
である︑ということを説示したものであると解されている︒そして
ここでいう発菩提心とは願善決定のことであるという︒ ﹁仏智を求
める﹂ という総説句には確かに菩薩たりうる願︵praliti︵=を蚕︶の一
切 が 集 約されているかのようである︒そのような願のよく決定され
ることが︑そのまま精神の本源的特質への内発的傾向ともいうべき
発菩提心として︑理解されているのである︒そして注意すべきこと
八./1.
法華文化研究︵第二号︶
は︑そのような発菩提心の主体的対象としての菩提︵bodhi︶そのも
の である仏智︵一︑声一︵一.二一ρ−言竺ε︑ 加えてその本質的属性︵︒撃窪江巳
attribute.︶であろうところの智・断・証・修の四種が発菩提心と
いわれる︑そういう心の中にすべて摂在する︑と見られている点で
あろう︒ この考え方は同経の嘱累品に見える ﹁しかもその ︵11菩
提心の大地より出でて流れる︶善根の水はまさに最初より一切智性 ︵8︶
(s
arvajfiata︶ ︵I﹀大海を現前する﹂という言明の趣意に︑発菩提心と
菩提の実在的作用との相応的連関が示されている点において一致し
ている︒すなわちここでは心は菩提へと向けて発起せられるときに︑
菩提を自己の本源的特質として主体的に回復しうる契機を得る︑と
いう理解を想定しうるであろう︒
説示するものとして註解されている︒そこではこの第三節十句の中︑ ︵9︶ 第三節十句はc﹁如何なる依事︵因︶からその心は起るのか﹂を 大「悲を首とする﹂という初句が総説句であり︑余の九句は如何な
る点においてそうであるのかを︑すなわちその悲が増上乃至住・尽
において大であるということを︑別説したものであると解されてい
る︒そしてかかる増上乃至庄・尽などの九種において大なる悲であ
る︑いわゆる大悲が︑先行的契機・主導的内容としてあるとき︑発
菩提心がそれを直接的根拠︵依事︶として発起するということが︑
この部分の趣旨であると見られている︒
第四節九句はd﹁如何ような︵kitdr.4:L︶その心が起るのか﹂を説示 するものとして註解されている︒経文によると︑ω凡夫地を超える C10︶ 八六
乃 至
⑨ 正覚︵ー阿褥多羅三貌三菩提︶に趣向するような心として︑
菩提心の発起︵ー発心巳﹇らε邑p︶が起るというのであるが︑ンU匂
によると︑それは要するに聖性︵μ蔓葺勃︶・出世間道︵一︒客江ρ﹁︵F−三智σq﹇L︶
すなわち出世問聖道の獲得を示していると解されている︒それはま
た凡夫の入胎乃至成就に対比されつつ︑菩薩への生まれの特性を示
すものとして註釈されるが︑つまるところ凡夫のそれ︵凡夫生︶と
菩薩のそれ︵菩薩生︶との区別は︑右煩悩︵三穿.ご︶と無煩悩︵三T
Jdcga︶との相違にあると見られているー︑
さて四節の経文の趣意は︑以上に見たン﹁︶べの明証的な解釈の要 点をもってするなら︑かなり的確に︑そして簡明に下のような形で 捕 捉しうるであろう︒凡夫には﹁善根がよく集められる一という依
止︑ ﹁仏智を求める﹂という仏智を目的︵義︶とする願の善く決定
すること︑および﹁大悲を首とする﹂こと︑すなわち大悲を先行⊥
導 的な依事とすること︑これらを前提とするならば︑ ﹁凡夫地を超
え菩陸位に入る﹂ようなものとして菩提心が発起するのであり︑苫
ヘ へ
薩 は か かる苫提心の発起を直接的条件として︑その凡夫性を超え菩
薩地の第一地に安住するのであると︒かくして発菩提心が仏智を
求めろ願の泣決定という能動的性格と︑大悲をその先行主導的内容
たる内発的で直接的な根拠とするという受動的性格とを同時に共有
することによって︑n己を発菩提心として保証していると理解され
うる点は︑発菩捉心の特性を示すものとして注目するに充分であろ
う︒心は理念的普遍への意志としてのみでは菩提心たりえないので
あろう︒理念的普遍への意志すなわち仏智への願として︑51存的特
殊への心的共感すなわち衆生への大悲によって︑誘発せられ特徴づ
けられるとき始めY菩提心たりうるのである︑というのであろうか︒
さてしからば第一地における菩薩の実践的な実現の内容は如何な
るものであろうか︒
ユ
B
ソ
先 ず 経 文 には﹁ここ歓喜菩薩地に住する菩薩はω多くの歓亘三℃品‖
ヨcξ^三三︶竺︹一顎暮ぎ︶がある︵ー歓喜に満ちている︶﹂という一句 Wを始めとする十句によって歓喜の内容種類が︑第二に﹁諸仏世尊を
念ずる︵ρ11uVsll﹈r︐ r°言竺^一一︐ぷ竺二ご随念する︶とき歓喜する﹂という
一句を始めとする十句によって︑また ﹁一切の世間の境Bg ︵sarva−
jagtLt−vivlLy﹇L︶より転離した ︵として歓喜を生ずる︶﹂という一句を
始めとする十句によって︑如何にして歓喜するかということが詳し ︵1︶<説示されている︒
なわち第一地の名称の説明部分として配釈されている︒それによる ︵12> この部分は﹀一︶<ではyの中︑2︿地のscpm ︵bhllmi−nirukti︶﹀す
と︑この地は歓喜が多いから歓喜であるといわれるが︑それは経文
の 初句からして自明のことであろう︒そして第一の十句はa﹁如何
十地基本内容の体系的構造︵伊藤︶ ような歓喜によって歓喜するのか︵以レ何歓喜︶﹂を説示するものと
見られ︑その初句に見える歓喜とは心喜︵エ︒三︒・三ぬ戸i ba = uclagra−citta
)? .体÷:1! ︵yid bde ba=saumanatya︐ :atisfication of mind︶ .根喜
(yicl rafis b;L=iitta−nianas︐ Nvhose. niiii︵=㏄竺三ま三c二!三︷=三プ.︶とい
うふうに︑総括的に三分されるが︑その内容特性は余の九句によっ
て九種に別説されていると解されている︒そして1I口及されてはいな
いが︑おそらくその九種の中︑浄信︵ヌξ・la︶ .愛楽︵言三︶・慶悦
(utplavaniL︶ Q三歓喜は心喜に︑ 調柔︵声ピ︵言σ︒﹁﹁︶・踊躍︵巳﹁︶・勇桿
(utsaha︶ S三歓喜は体喜に︑無闘譲︵そ三弓三二︶=谷や︶・無悩害︵︹三三11
三∫卿︶・1︿−gr ︵akrodha︶ Q三歓喜は根喜に︑それぞれ抱摂されうると
考えられているようであるt︶
また第二の十句と第三の十句とは︑ b﹁如何ような想念︵^一三云ゾ
るー智ρ二旨=ご所縁︶によって歓喜があるのか︵以二何念一故歓喜成︶﹂
を説示するものと見られている︒すなわち前の十句は﹁仏を念ずる
(==諸仏世尊はかくの如くであり︑吾もまたかくの如くなるべし︑
と作意する︶ときに歓喜があること﹂︑いわゆるα ﹁未来に得るべ
きこと︹に閲する想念によって歓喜があること︺︵念二当得一故生二歓
喜心一︶﹂を説くのであり︑﹁諸仏世尊を念ずる⁝⁝﹂という初句が
総 説 で余の九句はその念仏内容に関する別説であると見られている︒
そして要するに︑念仏というのは仏の法︑あるいは菩薩そして殊に
は 菩 薩 行
(σ
。合ぎジ︑P弓三﹀︑勾︑ いわゆる諸波羅蜜乃至入一切如来智
八ヒ
法華文化研究︵第二号︶
行︶の中に仏 ︵のあるがまま︶を想念することであり︑白分もまた
未 来 に は そ のような仏になりうると想念することである︑と解され
ている如くである︒ 後の十句は ﹁五口は1切の凡夫の境界︵〆︐lsava︶
より転離したと念ずることによって歓喜があること﹂︑ すなわちβ
現r
在 に得ること︹に関する想念によって歓喜があること︺︵念二現
得一故生二歓喜心︐︶﹂を説くのであり︑﹁一切世間の境界より転離し
た⁝﹂という初句によって示される凡夫の享受︵bhoga取著事︶よ
りの転離の内容は︑余の九句の別説するところであると見られてい
る︒そして転離したと念ずることは︑現在に凡夫の境界より転離し︑
その享受乃至成就の内容において凡夫とは全く不相似である状態を
得たと観念すること︑それであると解されている︒
以上の如くンOくの解釈は精要を得ているので︑経文はそれを掛 酌して要約的に理解するとよいであろう︒すなわちこの部分の経文
は︑菩薩がこれより行ずる仏法や菩薩行の中に仏のあるがままを随
念して自己も未来にそのような仏になりうるのであると︑またまさ
しvこの現在に凡夫の境界より転離して菩薩の根抵的様相を得たの
であると随念することによって︑歓喜に満ちあふれるということを 説 いたものである︑といえるであろう︒
B
次 に 経 文 で は 歓喜の生ずるその所以が︑ 不活畏︵μ二..二ら勾︑1︑1︶a﹀lts
plts
ho ba med ︶ar 1︶jigs pa︶ .悪名畏︵p︽loka−bh.︐ mi b:ぎσq二⁝〜︶ − 八八
死畏︵ヨ自日pげプ・亨三ぎ三〜︶・悪趣畏︵︹三品ρ︷三︶言−ぎコ∫^三窒〜︶・
怯xKgK ︵par︷iac−char︐idya︐−bhニl.︶khor dti ba.g tsha bas〜︶など︑ 一切
の 怖 ︵1︶ 畏を捨離k; xl ︵tiLni farvani vyapagq︹ピ9巳︶ということにあると 説 示されている︒すなわち五離怖畏が歓喜の生ずることを可能なら
しめる原因であるというのであろう︒
しかもついで不活畏・悪名畏のなくなる所以が我想︵竺三匡^↑・三自・
三編巴宮=珍m︶を離れる故に我執︵葺三Pτコっ;二︶^一^云﹈弓言﹁蠕一峯﹁
senls pa︶がないからであり︑また死畏・悪趣這只・怯衆畏のなくなる 所 以 が我見︵臼三ご−︵ご︐らti︐ bda.igr dtニドバニ︶二︶を離れる故に我想がないか
らであると示され︑つまるところ離怖畏の所以が我想・我見を離れ へー︶ることに求められている
この部分はン﹈︶/.ではC﹁怖畏が何であるか︵何者是怖畏︶︑何 が 怖 畏 の依事・捨離・無いことであるか︵云何怖畏因・遠昌離此因一
・無二怖畏i︶﹂という︑いわゆる﹁怖畏の依事︵ー因︶の対治︵一︑三ご11
︵ L5 .︸
pak;a︶﹂を説くものと見られている︒そして怖畏の依事とは1つに は 邪しまな所知︵盲3︑じに執着する想と見と︵の︶渇愛︵﹇﹁巳三に執
着する相︵lakl:;a︶︑すなわち我想・我見・我執であり︑1つには善
根︵ku㏄ala−miflP︶の微少なることであるというのであるが︑前者は
経 文 の 趣 意 に 全く合致している︒ここで我想等の捨離を可能にする 必 然 的 で内的な根拠は発菩提心と51るべきであり︑また善根の微少 性 はその発菩提心の前提・条件のもとですでに克服されたものであ
るから︑この部分の経文の趣意は歓喜の生起の所以を示すものとし
て︑直接には発菩提心に連結していると考えるべきものであろう︒ ヨ
R 次 に 経 文 に は 先 ず
「また菩薩は大悲を首とするから︑不壊にして
無俗なる深心によって︑ますます一切の善根を集成するために勤修
舳
・VasQ ︵prayujyate︐ rab tu brtson par byed do︶﹂と前提されて︑第
一に
「信が増上する︵い﹁p︵三庁ぞ=二︸邑9>V智声ぶcl︷Ld pa la ︵=b;Lii s. 憤yU1ba︶﹂
㏄
という初句を始めとする十句が︑また第二に﹁昼夜に厭足なく善根
を集O..︐ Q ︵rcitri−divftt;︶ta−ku.gala−rnt−i16pacay?ita︐ fiin int:han du nii
て第三にFl切智地を希求する︵z鶴づどコρ︐一旨口己罵︐︹巨三艮ε江靭︷二︹F三¢ ㏄ flっms p︷Lr dge ba﹈.︶i rtsa ba︶﹂という初句を始めとする九句が︑そし ca^;ikhy︷/︐n pa fiid kyi sa la n︶fion par n>os pa︶﹂ という初句を始
めとする十二句︵または十三句︶が︑それぞれ説示され︑しかして
「⁝かくの如き諸のxt−Hpt±v ︵bhiinii−parigoddliaka dharJnELI﹈︐ s﹇L .vこfis
¢ 已旨冥三ご︶喜;三︶エ︶を具える菩薩は歓喜菩薩地に安住する﹂と述べ
︵16︶られている︒
ここで始めの前提文に見える二切善根を集成するために勤修す
る﹂といわれる︑その勤修されるべき内容は︑後続の三節によって
詳 説されていると見られるべきであり︑総括的には地を浄める法と
して浄地法といわれているというべきであろう︒そして菩薩はかか
る浄地法を具えたときに第一地に安住するというのである︒
十地基本.内容の体系的構造︵伊藤︶
を示すと解され註釈されている︒すなわち菩薩は意楽︵asa.x.a︶と加 へ17︶ この部分はンOくでは末尾の経文の趣意を見て︑Wの3︿安庄﹀
k r ︵prayoga︶と廻向︵る﹁三昌三︶との三種の成就による勤修をもっ
て︑別言するなら諸の浄地法を具えて︑第一地に安住するのである︑
ということを示しているという︒そして第一地の十句はその﹇︑信が
増上する﹂という初句が総説としての総相︵か二〆三であり︑余の九
句が何事において信が増上するのかを九種に別説すろ別相︵ニ1︶1こ長二︶
であると見られ︑しかして三種の成就の中a﹁意楽の成就︵信心成就ご
を示すと解されている︒要するに信の増上が意楽の成就であるとい
うのであり︑余の九句は信の内容的特徴の分析的説明であると見ら
れ て いる︒第二の九句はその﹁善根を集める﹂という初句が総相で
あり︑余の八句が如何なる善根を集めるのかを八種に別説する別相
であると見られ︑しかして三種の中b ﹁加行の成就︵修行成就︶﹂
(精進︶を示すとされている︑また第三の十二句はその﹁一切智地を 希求する﹂という初句が総相であり︑余の十一句が別相として如何
なることによって一切智を希求するかを別説するものであり︑しか
して三種の中c﹁廻向の成就﹂︵方便︶を示すとされている︒要する
に如来の力・無畏・不共仏法の観慮や無着なる波羅蜜を求めること
など︵第二句乃至第十二句︶を一切智地の希求にそのIRLiS ︵uptlya︶
として廻向するというのであり︑そういう廻向のある意味での達成
を示している︑というのであろう︒
八九
法華文化研究︵第二号︶
以 上 からしてこの箇所の趣意は︑加行を勤修することによって︑
すなわち浄地法を具足して︑第一地に安庄する︑ということとして
要約的に把捉しうるのである︒
4
B D
次に経文には﹁彼はこの歓喜菩薩地に住するときこれらのかく
の如き大誓:5 ︵n︶a.hEHt−pra.i︶idh;−.nta.︐ : mon lam eheTi po︶ .大勇決︵ヨ己﹀苧
vy−. vasiLya︐ nor brtson pa. chen po︶ .大成就︵己昌勾.一︶hinirhiLra︐ miion
pa︐ r bsgrti︶ pa ehen I︶o︶を成就する︒すなわち﹂として十大願︵^三い二
∋︹二5−一・﹁m三三一﹈ご祭三ゾ三三i lani chen pe b︵ru︶が各々順次に説示され
へ旧︶るが︑ここに経文からその十大願各々を要.約している語句を摘出す
ると︑ 一切の劫数・一切の仏出世 ︵buddh6tpada︶数においてω大な
る供養・承事︵己︹三〇壱εひ言三一を三一︐i11二さ﹁︒合コln︹︑liod pa ch.i二po︶︑
皿
② 正 法 の 摂持︵sacl︵lha.i−ma−pELI︐igraha°︐ dan二三一ご・︑hos. ﹀︐fis su gztn︐二忘・︶
社
③ 乃 至 大 般 浬 葉 へ の往詣︵∨.口v;Ln ﹈na.hii−parinirvi﹈.﹈Apas. aniki︐;Lll︶:︶.I︶:L
my:i. f三二︵チご^一か三三合巳︼i p︵︶I.﹈i bar gyi druih dL二実﹁e ba°︶︑ 一切の
㏄
劫 数∴汀︵carya︶数においてω発心の成就︵二竺︐・ご︾■︵§︶三三ユる﹁三 serns 1︶skyed pas nifion pa︐r bsgrub pa︶︑ 一切の劫数・衆生界数にお
皿
いて㈲衆生界を成熟せしめろこと︵︒︐三〆.mご︐三一〇三︐P︵Uil︶iU:l.rl:L︐ S. LVIIs c・l;
拳i khams ︸oiis sn smiii p:Lニヴ.⁚rぎ︶︑一切の劫数・世界数において
11㈲世界の異種性に入ること三・ぎ−・三葺z−︿⁚﹀一三篇﹃穗≦三﹁・.さ.二こ言⁝二 月
yk;Iianit thatns. ca︵二類三夷二p︶︑1切の劫数・仏国数においてω仏 yik カ 一ー 1ー衆生界尽
mthar tl﹈u/g p︷L︶︑力世 v
nn.Jn mkhiξ界尽︑ω法界 氾葉︵三コ.3三・三︑・二⁝二三
S;tilS. 1︐ST﹀︑5三・ソ.三.・亨︶界尽︑
肌 わヨエ5︑三︻三写﹇︶じ界尽︑㈲仏
ヘ へ
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−avesa︐ ︸︐巳z.﹂㌧11111︵︶Il I︶Il.r
】,三三﹀︑二︐g﹀.ud.︐世道︶・辻
この部分以後の経文は︑
なる殊勝によって諸の声聞 国の浄化︵言︵一・二・苧5・二a−parigoclhana.︐ sa. .ls r/g.﹀︐nn kyishifi y;ヲ・・z二芸
i)ar byit b︷L︶︑1切の劫数・行数において㈹大乗に入ること︵三^三卸︐
yiin︐・.a.tiiraipa︐ th︵︑gv pa ellotl 1︶o MiloT﹈ PtUひ養一シ三︶一三︶︑⑨不空︵ 不
虚︶なる一切の所作性︵^;io︐g︐ha−sa︐rva−ee/ta.tit︐ s. pyod pa. tha.ms cacl
dt二﹂三as bu yod pa︶︑ 一切の劫数・正覚︵三︑三戸二三︾三lhi現.等覚︶数
㎜
に お いて⑩大智の神通の成就︵ln^三ご自姦︶︸三自︑三一三︐;︻︐三︸.c沿プ
(、言︵三言三三弓・一i par !es pa L.hen po︶︑それぞれを休息しないことが
それである︒
/l
しかして経文にはフてれら十大願を一の尽句︵・一︹芸二・一学三〇・・で^三
三二一三︐二三狽三三兀三∫十.不可尽法︶によって成就する﹂として︑
大 願 成 就 の有様を示す十尽句が若干の説明をも.りて挙示されてい
.x︑卜弍とまD °考三∫cか三罪/.一へ19ン
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(sittviL−dluLttr−≡零7コ﹂ 三か三プ
(]︒ka︐ I.︶°iig J︐﹇・三界尽︑③虚空︵巳会ハ三
(dhai︐二三^三茸三ehcFs k﹀Ji ︵=︶マ∨ヲ︶尽︑㈲
三と三︶界尽︑⑥仏+:X ︵bud︵lh︵︶tpi−tda.︐
G如来智界尽︑㈹心所縁︵巳芹.割.三三5︒騨
境.界たる知11に入る︵﹈︶u︵ldha−vitiu.y;l.−jfill11︸μ.−
7石︐三︶︸ご︶界の尽︑⑩世転︵ご!.三︐ご二﹁﹂与鵬
広転︵ 法道︶・智転︵目智道︶の界の尽である︒
:.
x Dvでは﹁この地に住することが如.何
・
独覚に勝れるのか﹂を説く箇所と見ら ミ
・
KK
き
:
LL .
れてW︽殊勝︵VigL・till校量勝分︶︾として対配されているが︑それ はー︿願︵三E二︑この殊勝︵願勝︶﹀と2︿修行︵夷﹁三二う11三二τ ﹁20一 ])2εの殊勝︵修行勝︶﹀と3︿果の福刊︵三三ぞ一三ハ︹三﹀る︶の殊勝
(果
利戸︑胤勝︶﹀との三種に分たれるというtそしてこの部分はそのW
へ2︶ のー﹁願の殊勝に勝れること︵願按量勝︶﹂ に配釈され︑先ず十種
の大願が願の殊16を示すとして詳解され/︑いる︒すなわち要すろに ω は世俗仏︵∫学三〆.﹁﹇=︶uddha応身仏︶・色身仏︵﹇旦︶三〇三−7報身仏︶
・
法 身仏︵穿ζ∋三臼ノa−b︶の三種の仏に対する利.養の供養︵巨︶=ζ
℃コさ︶・恭敬の供養︵竺﹇冨﹁^二︶°︶・修行の供査︵﹂︶﹁ぷ↑ご一三三−℃°︶の三種 の 供五と︑希求︵∫三三︹三司緩二^︹二和侍︶による承事近侍︵で三∨・ξ竺三ρ 迎送︶ による承事・修行による承事の三種の承事とに︑ ②は如来
(所説︶の法眼︵・=lllllllmL−netli︶といわれる教法︵︸︶日ぐど︑勾︼田人=5目竺︶
たる経︵6εp︶と仏のSA:zz ︵buddhct−bocthi︶といわれる証法︵言3三−
dha rma︶と正等覚者の教︵γ三︼三品・︹三二︾三二言−い日三ごといわれる修
行法三三三︶9二︒;p︵︻ぎ︼日とプ三∋︹ξ︶たる資糧︵ゾ三二壬コ﹁じとである
正±/1 ︵saclclharnia︶を摂持することに︑㈲は所化の衆生の不敬を遮し へ て
乃 至 学 の 摂 坂を促がすことに︑ωは十地︵広・大無量・無分別︶
を種類︵‖行相︶とし一切の波羅蜜の所摂︵竺﹁≦−︸誉﹁二三=鋤−SILIIIITIllitlL︶
を自性とし地の浄el ︵bh﹇imi−pa.rigodh:lll:L︶を作用︵業︶とし波羅蜜の
浄業三竺5三日−るユ一¢﹇三ρ三を方便とする菩薩行の教授・教誠の授
与により支持iv # Q ︵bodhisatva−carya− ⁝pvavitdiNinuq. iLsatiy−anupru.dit=
十地基木内容の体系的構造︵伊藤︶
]三・・一・三・・=三︶発心を成就することに︑6は衆生界︵麓細乃至名色川 摂
せられるもの等六種の衆生︶を仏所説の法に入らしめる・二乗の
菩提に入らしめる︵ー一切の趣数を断ずる︶・大乗に入らしめる︵ー
一切智智に安日せしめる︶という日的のために成熟せしめることに
㈲はI切相︵ー広乃至正住︶・勝義El ︵r−帝釈天の差別︶・無量相
(==無余十方の異種性の差別︶など世界の異種性に入ることに︑︹り
は同体浄乃至果浄の七種に仏国を浄化することに︑︷i︸は十種の菩薩 行として顕示♪︑﹂れる大棄に入ろことに︑⑨は身口意の業の不空と利 益を作すことの不空︵大薬︑⊥・如∵・.忌宝の如き身を得ること︶との
二種
の 勝 義 性 によって顕示される菩陸行を行ずることたる不空なる 一切の所作性に︑⑩は七つの業を作すと知るべきである大菩提︵ー
無上正等覚︶によって顕二小される大智の神通の成就︵ー大乗の成就︶
に︑それぞれ休息しないことである︑という.︑しかして要略的には
ω
は福徳の資糧︵一︶F三ソ.コ︐∫︹三二︺一る︹三を︑②は智ニコ∋三︶の資糧を︑
それぞれ満足すること︵三三る﹃・二三を︑また③乃至⑦は衆生を成
熟せしめること︵slLtva−1︶fu︐i﹈︶ic﹇FIlll︶才τ︑Oは如実に衆生を成熟せし
ヘ パ
めることを︑説示していると解されている︒そして大願の意義につ いては﹁その中︑誓願三三三・三雪三とは求める対象を形成すること
(lidvd pal.︸i don miion p:ir 1.idti byed I︸a︶である∧.勇決当一三ゾ三二5d﹃
brts. o=︑^戸‖..言.︑ρア身舎決心・努力︶とはそれを達成する方便である︒
成就︵︵FbhinirhiLr︐a=出雛︶とはそれを達成することである︑この︹第
九i
法華文化研究︵第二号︶
1〕 地
に住してこの三つを漸次に成就するのであって同時にではな いと知るべきである︒この十大願は各々また百千阿僧祇の春属を有
すると知るべきである︒⁝⁝それ故に善根が善治され増多である く22︶
(いill tu∫bvafis sifi nfui b:i︶から大願といわれる﹂と理解されている︒
しかして﹁この殊勝なる菩薩の願︵言三二︑ごは声聞等の願より二 種 すること︵thun nion pa.=sa︹lhiara.i︶a︶とによってである﹂と述べら ︵23︶ によって勝れている︒善治されて増多なることと一切衆生と同行
れ︑十尽句について﹁その同行することはまた諸の尽句︵・d窮尽状 へ2︶態を示す句︶によって説示されている﹂として詳説されている︒こ
の 解釈を要言するならば︑大願を成就することは衆生界等︹の極限
に 至ろまで︺を不断に窮尽するが如くである︑という点に尽きるで
あろう︒すなわち十尽句中︑そのω衆生界尽が総相でそれ以外が別
相︑また19が略説でそれ以外が広説であると見られているが︑一切
衆生と同行するというのが総相とされるωの趣意﹁衆生界の辺際を
不断に窮尽する﹂ということに照応し︑したがってこの趣意に重点
が置かれているからである︒
以上に見たご︶之の適正と思われる解釈の基本的な若干をもって︑
この十大願・十尽句の趣意を要約するならば︑それは仏に対する供
養承事と止法の摂持とに不休息であるという多大の利他的な大願を
誓 願し勇決し︑衆生界の辺際に至るまで不断に窮尽するような在り
方をもって次第に成就する︑ということを示しているといえるであ 九lろう.︑したがってこの場合に願の内容傾向は主に衆生教化に重点があるということができるであろう︒ ドつ
i1i
次 に 経 文 に は
︵25︶ 十浄地法︵︵三拾;O﹇三﹈︶︹ユハo^=三島ヘニ1﹇lr三三吉己望ofi∫
∫z ニヴ.・三プ・ピ三ちhos. ︶eu︶ Q生起する様相が説示されている︒浄地法
というのは﹁地を浄化する法一という意味であろうことはその原語
および諸訳からしても明らかである︒その各々は大願の結果として︑
しかも順次に因果的次第をもって生起するものとして説かれている︒
行校量勝︶﹀に配釈されている︒すなわち十浄地法を修行と看倣し ︵26へ この部分はンO/︑によるとWの2︿修行の殊勝に勝れること︵修
ているのであるt︑
oo さて経文には先ず十浄地法中︑信︵Srad︵11ul︐ d.d pa︶が殊に詳しく
見える.すなわち﹇彼はかくの如く誓願をよく成就し堪能心︵一.︹声叶−−
nrar.iyn−︵itta. Ius s. u ruii bal.︶i sem・︶ .柔頓︵∋三z.三三1 P︷1︶心・不壊
のulug ︵us.uiphtlrya−gra.d︵ihiL︐ dad pn︶を有するものとなる︒彼は如来
応供正等覚者が前際行の成就に入る︵一己﹁zO11t;1−t︑︹F﹁ち一一︑三三ユ筋窯ピ︐一シ日u
vc ︵. a︐ si三=gyi mthal.ii spyed pa mThon par bsgrubs pa.1.ii rgyud︶ ︵/︶を
よく信ずる﹂云々と広説されているが︑末尾でその趣意が﹁要略
すると︑一切の菩藩行乃至如来の地・智の説示と加持とを信ずる ︵27︸
(a
︵28︶ bhi4. ra.ddadhitti︐ Tnfioi﹈ pal yid chez p︐ft ﹀iTl︶ Jと要約されている︒
この部分はン剛︶ぐも的確に註解するところであるが︑双方の趣意
を採って理解をめぐらすと︑ここでいう不壊の信とは誓願成就によ
っ て 得られた自在力による堪能心と楽住による柔軟心とによって︑
一切の菩薩行 ︵−波羅蜜・十地︶乃至如来の地・智︵ー菩提︶の説
kl ︵−所説︶と加持︵それらを証得すること︶を信ずろことであ
る︑と見ることができる︒
円 次に経文には︑菩薩がこれら︹信の対象とされる︺仏法の甚深
QQ −
(galnbhirn.︐ ziL︶ PLI︶であることを︑ また愚人凡夫が邪見に堕した
(心︶ー相続︵ご︹5古一−﹂︶︹三自㏄p引﹁ニコロ三到当^三三﹇二﹇三・一︶ぷ↑三甲馴弓1︶
品
によっていることを各々十種に思惟し︑ さらに ﹁彼等衆生の苦纏
(du︸.ikha−skandha︐ ︐ sdug bsfial gyi phuiis︐ ︶が我・我所を離れ⁝⁝無動
(niriha︐ bycd pa mcrl pa ca︷知無覚︶にして⁝⁝影の如vに現成して ︵29︶ いるものなのに︑彼等がそのように覚知しない﹂でいることを有情 数 縁 起観をもって思惟する︑として説示されている︒
この三つの思惟内容その他は﹀・︶くでは詳し註蟹れ編・要
するに諸衆生が﹁︹甚深なる仏法の︺勝義の楽︵11畢童安楽の渥紫︶
を具足しない﹂で﹁︹邪見に堕した心相続によって︺苦を具足する﹂
に 至り 一︐﹁苦纏が縁起に依存しての生成であることを覚知しないた
めに︺その中で顛asiass−Q ︵bzlog pa︶﹂状態にある︑ということの観
察を示しているのであり︑ことにその思惟観察が大悲を起す要因と
見られている︒ この見解は後続経文の ﹁かくの如き衆生の苦紐よ
り解脱しないのを見て衆生に対して大悲の引発︵己川三ご三三言︼三コ︺三
十地基本内容の体系的構造︵伊藤︶ ︵31︶
sfi
ifi rJe chei︶ p・︶ rg﹀︑a∫ P:L︶が起る﹂という結語的趣意によって要約
されているといえるであろう︒なおここでの引発とは>O〆︑による ︵32︶と持続的生起の意であるという︒ 部
次 に
経 文 に は
彼「
等 衆 生 は吾等によって救抜され解脱せしめられ
るべきである︒と︑彼に大慈︵∋巳る−∋︹二日−l/︶yains ︶a chen po︶の ︵33︶引発が起る﹂と見えろ︒この中で衆生を救抜・解脱せしめようとの
意向を示す文面は︑シナ訳︹地︺に先行経文と合楳して為抜彼苦引
発 大悲と訳されていろ如く︑むしろ大悲の意向内容と看倣すべきも
の であろう︒そして衆生を畢尭安楽の浬繋に安住せしめるというの が 大 慈 の 意向内容であると見られるべきであろう︒
この文面は﹀°くではさほど註解されてはいた漣・
質 次 に
r⁝悲・慈を具する深心によって⁝:二切の事物に対する 吝 惜を有する心︵エぞ︸ζ︵三−︐三三言言る一三一ご︒︐弓=三;ピピぽ三淫一ゴァ︶を
捨て︑仏智に対する勝妙なる愛求の覚慧︵z合日ま・三p︑プ三一婁二︶乞三パご
mos. pa daii da︷t p:L l︶rla.b: pt︶ c/hel.︶i blo︶が︑大捨︵三︹巳ピa−tyaσqa︐ sb﹀in
pi, chen po︶を勤修する﹂云々とあって︑一切の事物に関して吝惜
のないものとなって一切を棄てるという捨の意楽の生ずることが詳
︵35︶しく説かれている︒ここで捨を勤修する精神的直接性は悲・慈を具
する深心であり︑主体的精神性は仏智に対する愛求の覚慧であると
見ることができるであろう︒
≧DVは経文に順じて一切の事物その他を分析的に註解するのみ
九一..
法華文化研究︵第二号︶
c36︶
であろ︒
㎝ 次 に 経 文 に は 如 上
の悲・慈⁝⁝捨の意楽によって︑十浄地法の後
六 法すなわち無疲倦︵aptL1︐ikheda.︐ s5e ba nicd pa︶・論智︵拾二三
]コ三■但三ぬ一芸珍劣︷︶乙・世間智︵lok﹇i.−jfintfi︐ 1﹈jig i−t;か︑プ三︶・漸 悦
(三乞三︶葺﹁書∨.ぞ乞外﹃巳尾^三∩芸式・・三三芸.二沿二︶三・堅固力の任
持 ︵dhrti−bal﹇ldh﹇tna︐ d︐gal.i bal.ii st︷︐bs kyiIugs︶ .如来の供養承事︵を
︵37︶ 勤修し教においても修行すること︶が各々媒介的根拠を伴なう因果 的 経 もそれに対応し︑かつ十浄地法を総括的に理解していろ︒ ︵38︺ 過をもって順次に生起する旨が詳説されており︑≧︶くの註解 すなわち十浄地法中︑前四法は﹁意楽︵︳ ︑:l.S:l.Vぺ1︶の成就︵深心成就ご
を︑後六法は﹁S71! ︵prayoga︶ g成就︵修行成就︶﹂を顕わしてい
るとされ︑さらにその各々の発趣・行・加行としての意義が例せ
ばtとは菩薩行・諸仏法の実在性・可能性を信じ求める自利への
発趣である︑などと極めて簡明に理解されているのは留意に価する
点 であろうそして第十法﹁如来に対する供董承事を勤修し教にお いて修行する﹂というのが︑﹁利養恭敬の供養︵利養供養︶﹂と﹁修
行の供養︵修行供養︶﹂との二種の供.養を示しているとされ︑二種
のうち前者が親近敬重せしめる勝妙なる身を成就するのであり︑後
者が本質的に︹信等の︺善法を喜ぶ堪能心を成就するのである︑と
説明上・﹂れているが︑それは第十法を十大願中の﹁仏に対する供養承 事
に休息しない﹂という第一願との照応を意識しながら具体的実践 九四
の次元で捉えなおし︑その事実的な成果ま断♪τ洞察したものなので
あろうUまたチベット訳ン一︶ノ︑によると三十句︵または三十二句︶
をもって前説された浄地法がその広説であるのに対して︑ここで説
か れ た 十浄地法はヴ︹︑の摘.要略説であるという︒たしかに双方あい照
応する行目が見える..しかしシナ訳﹃十地経論﹄によると︑前者は へ39︶清浄地法であ=︑十浄地法は障地浄法であろと見えるt︑すなわち広
説における浄地法は字義通り地を浄治し︑それによって第一地に安
住する法であるのに対し︑十浄地法は地に安住しつつ障︵ー所対治︶
をその地にあって浄化するところの法であるというのであろうが.
後者に積極的作用を認め少しく性格の異なるものとして見た点は︑
両者の前後㈲係からいってある程度に妥当なものと思われる︒ J C
以下の経文のすべては多少こみいっているので︑﹀づ♂︑の理解を
方途として整理してみるのが解し易いようである︒
それはン=乙ではWの3︿果の殊勝によって勝れること︵果利益
校量勝︶﹀ に配釈され︑初地の果相を示すとして四分され詳解され
るところである︐
ヘ ヰ〔 へo︹
︵E?︶ あること︑ 一切智性に廻向される諸善根が堪能︵言﹁三︹﹇三︐三一〇竺 cT2︺ よって諸衆生を成熟すること︑十波羅蜜の中で布施波羅蜜が最勝で ︵ ;︶ すなわち先ず経文には.要約すると︑見仏と供養と廻向︑四摂事に
1UT二竺調柔︶となろこと︵黄金の警喩︶が次第して説かれている︒