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― ― 「人間」の語られ方

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目次

第1章 「人間」の誕生-視点としての認知社会学 第1節 人類史の見直し

第2節 人間を構築するカテゴリーへの注目 第3節 本論の構成

第2章 「人間」の解体-「人間」から心へ 第1節 社会学における「人間」の発見 第2節 個人主義の5段階

第3節 私化・心理化・ソーマ化

第3章 「人間」の再考-2つのポストヒューマン論 第1節 ポストヒューマン論の分類

第2節 ブライドチのコスモポリタニズム論

第4章 ポストヒューマン論①-コスモポリタニズム論の可能性 第1節 伝統的なコスモポリタニズム論批判

第2節 ベックのコスモポリタニズム論

第3節 コスモポリタニズムをめぐる同心円理論-認知社会学とコスモポリタニズ ム論の接点

第5章 ポストヒューマン論②-先端科学の発展と人間への問い 第1節 シンギュラリティについて

第2節 AIは人間に近づけるのか 第3節 人間がAIに他者を読む

第4節 サイボーグ化する人間-人間をめぐる境界の溶解 おわりに-問題の確認

―ポストヒューマンの社会学序説―

片 桐 雅 隆

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第1章 「人間」の誕生-視点としての認知社会学

第1節 人類史の見直し

近年、人間とは何かの議論がさまざまな学問分野を超えて広まっている。たとえば、ベスト セラーになった『サピエンス全史』を書いた Y.N. ハラリは、人間を種としてのホモ・サピエ ンスの点から、その特徴を描いている。それによれば、人間が他の動物と異なるのは、第1 に「認知的な能力」をもった点にある。認知的な能力とは、虚構を発明する能力である。その ことによって交易のネットワークや政治的な機関などの複雑なゲーム(社会)が発明され、さ らにそれらを、世代を超えて発展させることが可能となる。その認知的な能力の獲得のことを、

ハラリは「認知革命」と呼ぶ。その認知革命によって、ゴリラやチンパンジーにとって 10 の 単位を超える個体からなる社会を作ることが困難であったのに対して、人間(人類)は 100 や 1000 を超える個体からなる社会を作ることが可能となった(cf. Harari 2011)。認知革命に始 まり、農業革命、帝国による人類の統一、科学革命を経て現代があるのだが、ハラリは、そ の次に「超ホモ・サピエンスの時代」の到来を予測している。それは、人間がサイボーグ化し、

種としての人間(人類)自体を超える時代である。サイボーグ化とは、めがねなどの矯正器具 や、コンピュータやスマホなどによる人間の能力の拡張などの現代の実態にとどまらず、脳の 解明に基づく記憶の補充や他人の脳とのネットワーク化などに見られる未来の実態を含んでい る。後者の、サイボーグ化は、シンギュラリティ(特異点)のもたらす人間のサイボーグ化に 対応している。そこでは、種としてのホモ・サピエンスを超えて、新たな種が形成されること になる。

「超ホモ・サピエンス」の時代の到来が可能かについての真偽は別として、人間を、種とし てのホモ・サピエンスとしてとらえ、その観点から人間とは何かを論ずるという傾向は、人類 学の分野での新たな発掘や類人猿の研究などの発展を背景とする議論と対応する(山極 2014 参照)。一方で、ハラリの議論はシンギュラリティ論に象徴されるポストヒューマン論を背景 としている。

第2節 人間を構築するカテゴリーへの注目

人間とは何かは、人文・自然科学のさまざまな学問分野、また、それぞれの学問分野がもつ

研究史をまたがる解答が困難な問いである。ハラリは、ホモ・サピエンスという単位で人間の

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歴史を探求した。その視点は、後述するポストヒューマン論とともに、人間とは何かを語る1 つの視点を提供している。人間とは何かという問いは、その「人間」によってどのような対象 が含まれるかという点と密接に結びついている。換言すれば、人間というカテゴリーは人間が どのようなものであるかを意味し、また、どのような対象がそのカテゴリーに含まれるかを 意味している。人間をホモ・サピエンスとしてカテゴリー化するとき、それは他の動物と区別 される生物種を意味しており、したがって、そうした生物種とは異なる、ポストヒューマンと いう新たな生物種という発想が可能となる。このように、人間というカテゴリーが何を意味 し、それがどのような対象を含むかを出発点として、人間のカテゴリー化という観点から自己 や社会のあり方を問うことが、従来から提唱してきた「認知社会学」の視点である。このとき、

「カテゴリー」は、同種のひとやものの集まりそのものではなく、その集まりを構築する言葉 と定義される。したがって、人間は「人間」をめぐるカテゴリーによって構築されると考えら れる。『「人間」の語られ方』というタイトルをもつ本論は、人間がどのようなカテゴリーによ って語られ、それがどのような社会を構築するかを問うものである。人間をホモ・サピエンス としてカテゴリー化し、それをふまえて人間の社会や歴史を問うことは1つの視点である。

人間とは何かは、解答の困難な問いであることを指摘したが、「人間」というカテゴリー化 の作用から社会の構成のあり方を問うというように方法を限定したからといって、その困難さ からすべて免れることはできない。そもそも、人間をめぐるカテゴリー、あるは「下位」のカ テゴリーにはさまざまなものがある。たとえば、今まで用いてきたような人間や人類(ホモ・

サピエンス)など。それらのカテゴリーは、「人間」と“human beings”に見られるように、

それぞれの言語によってもその含意は異なっている。また、人間にはさまざまな「下位」の カテゴリーがある。ジェンダーやセクシュアリティをめぐるもの、エスニシティをめぐるもの、

白人や有色人種などのカテゴリー、女や男、LGBT などのカテゴリーがそれらに当たる。それ らを、人間の「下位」のカテゴリーと表記したが、それらは単純に人間を「上位」とする「下 位」のカテゴリーと言い切ることはできない。なぜなら、それらの「下位」のカテゴリーのい くつかは、「人間」というカテゴリーから排除されてきた歴史をもつからである。また、人間 というカテゴリーは、人間そのものに自己言及的なカテゴリーを含んでいる。自己、心、主体、

身体、脳、遺伝子など。人間は脳に還元できるかという論点は、AI 論の1つの主要な論点で

もある。したがって、人間のカテゴリーにどのような他のカテゴリーが含まれるかは、自明で

はなく、1つの闘いの所産でもある。また、そもそも、「人間」というカテゴリーも、自明な

ものではない。「人間」のカテゴリーの成立に関する議論もさまざまあるが、それは、西洋の

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近代社会が生み出したカテゴリーであるというのが一般的な説だろう。

第3節 本論の構成

こうした議論を踏まえつつ、「人間」の語られ方、とくにポストヒューマンをめぐる「人間」

の語られ方を探ることをとおして、現代社会における自己や社会のあり方を問うことが本論の 課題である。そのように限定したからといって、その問いは1本の論文に収まるような簡単な 問いではない。副題に、「ポストヒューマンの社会学序説」とあるように、本論では、その後 の各論の展開を序論風に概観することを目指した。ポストヒューマン論については、第3章~

第5章で扱うが、その前に、第2章では、認知社会学の視点から、われわれが今までに、「人 間」の語られ方に関してどのような議論をしてきたかを概括的に説明しておこう。なぜなら、

それらの議論の続きとして、あるいは、それらの議論との関連の中でポストヒューマン論が位 置づけられるからである。

第2章 「人間」の解体-「人間」から心へ

第1節 社会学における「人間」の発見

社会学において、「人間」の発見は、近代社会の成立時において見いだされた。伝統的な共 同体的社会における、身分、家柄、出身地域、職業、ジェンダー、エスニシティなどの属性 によってではなく、それらを超えた「人間」一般として規定されることが人間の発見である。

そのような人間は「個人」とも表現される。個人は、言われるように、the individual であり、

分割できないものを意味している。身分などの個別的な属性をはぎ取られ、最終的に残された 属性が個人である。しかし、この個人は残されたものというネガティブな属性ではない。個別 的なものとしての身分、家柄、出身地域、職業、ジェンダー、エスニシティなどの属性を超え て、それぞれの個別的な存在が、「人間」一般としてカテゴリーされる。つまり、個別的に定 義されてきた人々が、共通して「人間」としてカテゴリー化されることで、人間としての属性 をもつものとしてくくられるようになったのである。典型的には、「誰もが人間として平等で あり、等しく人権をもっている」という発想がそれに当たる。そして、重要なことは、そのよ うな「人間」というカテゴリー化によって新たな社会が構築されたことである。

それらの現象を指摘した社会学者に、É. デュルケームや G. ジンメルがいる。デュルケーム

は、近代社会において「人間という概念(notion d’ homme)」が発見されたと指摘する。人間

という概念は、個別的な何々人という属性を超えた人間一般を指すものである。デュルケーム

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において「人格崇拝」がキーワードとされるが、そのキーワードも人間という概念の成立と密 接に結びついている。なぜなら、人格が不可侵で聖なる存在であるという考えの背景には、人 格を担う人間とは誰か、どのような範囲の人々が含まれるのかという発想が不可避的に伴う

(Durkheim 1960: 275f.[下 89f.])。従来個別的なものとして分断されてきた特定の、身分、家 柄、出身地域、職業、ジェンダー、エスニシティなどを担う人々も共通の人間として、1つの 社会を構成する成員として見なされ、また、共通に聖なる人格をもつものと見なされるように なる。そのことが、デュルケームにとっての「人間という概念」の成立がもたらす帰結である。

ジンメルは、「人間」というカテゴリーの成立そのものには言及していないが、「労働者」と いうカテゴリーの成立をとおして同様のことを指摘している。つまり、人々の作るものが、靴 なのか、農具なのか、武器なのか、玩具なのかにかかわらず、等しく賃金のために労働して いるのだという考えが、同じ状態にある人々を結合させるのだと(Simmel 1989: 248[129])。

個別的な属性を超えた労働者という一般的なカテゴリーの成立が、従来の個別的な社会への認 識を超えて、より普遍的な社会の成立を可能とする。そのことを、労働者というカテゴリーの 成立は意味している。

そして、デュルケームにおける人間という概念の発見やジンメルにおける労働者というカテ ゴリーの成立は、ともに伝統的な共同体をこえた近代社会の成立と関連づけて論じられている。

デュルケームはそうした社会を「有機的連帯の社会」と呼び、ジンメルは、それを「集団の拡 大と社会圏の交差」として特徴づけた(詳しくは、片桐 2011: ch.1. 参照)。それらは、ともに、

個別的属性によって構成される共同体的な社会ではなく、個別的な属性を超えてより普遍的な 原理によって構成される社会を意味している。われわれの観点から言えば、人間というカテゴ リーや労働者というカテゴリーの成立がそうした普遍的な社会の成立を可能にしたのである。

第2節 個人主義の5段階

デュルケームやジンメルの指摘した近代社会は、換言すれば個人主義の成立した社会と言え

る。なぜなら、個人主義の社会は、個別的な属性を脱し、普遍的な概念である個人というカテ

ゴリーによって構成される社会だからである。しかし、今日、良い意味でも悪い意味でも、近

代社会が生み出した個人主義、あるいは個人主義に基づく社会の揺らぎが指摘されている。そ

のことを、C. レマートと A. エリオットの個人主義論で見てみよう。彼らは、近代初期の時代

から今日に至る個人主義の発展を5段階に分類している(Elliott & Lemert 2006)。その5段

階とは、「古典的個人主義」、「操作された個人主義」、「孤立した個人主義」、「再帰的個人主義」、

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そして「新しい個人主義」である。先に見たデュルケームやジンメルの時代の個人主義は伝統 的な個人主義に当たる。しかし、そうした伝統的な個人主義は今日困難な状況にある。

操作された個人主義と孤立した個人主義はともに大衆社会を背景としている。「大衆」とい う概念は「個人」あるいは「公衆」という概念と対比され、個性をもたない集

マ ス

塊を意味してい る。それがイメージさせるものは、社会的な関係(中間集団=媒介的関係)を奪われて、社会 的状況や欲望に流される人間像である。操作された個人主義は、ファシズム下において集権的 な国家に操作される個人を担い手としており、孤立した個人主義は、典型的には戦後のアメリ カ社会において、豊かな生活を享受しながらも孤立した個人を担い手としている。再帰的個人 主義とは、次のような特徴をもつ。つまり、伝統的な個人主義は確かに個別的な共同体を超え て普遍的な社会を構想したのだが、一方で、国民国家や階級、性別役割分業に根ざす近代家族 などの帰属する対象を残したのに対して、今日の再帰的個人主義下では、グローバル化に伴 ってそれらの対象が揺らぎ、自己や社会のあり方が反省や再考(再起性)の対象となっている。

さらに、新しい個人主義は、再帰的な個人主義の傾向がより深まっている段階を指している。

それは、再帰性の対象が感情的な側面で深化しており、また、再帰性のスピードが加速してい る点を指摘する点で、再帰的個人主義とは、区別される。

古典的個人主義以降の個人主義、つまり、操作された個人主義、孤立した個人主義、再帰的 個人主義、新しい個人主義は、それぞれが指摘する側面は異なるにしても、古典的個人主義が もっていた人格への崇拝に根ざす人間というカテゴリーによる社会の成立が困難であることを 指摘する。こうした、個人主義の今日的な変化の指摘は妥当だが、一方で、われわれの関心は、

今日に至る個人主義の変化を、「人間」というカテゴリーの変化、あるいは、人間というカテ ゴリーの成立の困難性という観点から描くことにある。それが、私化と心理化、あるいはソー マ化という現象をとおして指摘してきたことである。

第3節 私化・心理化・ソーマ化

私化(privatization)は、孤立した個人主義に対応する。エリオットらは、私化を孤立と結

びつけたが、私化は必ずしも孤立を意味するのではなく、むしろ社会的な抑圧からの解放と

いう側面をもっていた。中間集団=媒介的関係の希薄化は、一面では、孤立や孤独を意味する

が、一方では、それらの関係からの解放を意味するからである(注①)。P.L. バーガーによれ

ば、私化現象とは、公的な領域が匿名化することによって人々が生きる意味を求める対象とは

ならずに、私的な領域がそれに変わる傾向を示している(Berger et al 1974)。このとき、公

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的な領域とは国家や仕事の領域を指しており、一方で、私的な領域とは、家族や友人関係など の親密な関係を意味している。われわれの関心から見て重要なことは、自己を位置づける枠組 みの私化である。つまり、私化現象下では、意味を共有するという点で、親密な関係の成員は 同一の社会の成員と見なされるが、公的な領域で出会う人たちは同一の社会の成員としては括 られないという点である。

一方で、心理化(psychologization)は、さまざまな問題を、社会の問題としてではなく、

心や精神の語彙に帰属させることで、解釈し対処する傾向である。それは一般には、労働や教 育の問題に例を見ることができる。労働や教育において成果が上がらないことや、人間関係の 悩みを社会的な問題に帰属させるのではなく、心や精神の語彙に帰属させる傾向がそれである。

つまり、労働の現場におけるこれらの問題を、長時間労働や組織上の意思疎通などの社会的な 問題として解釈し対処するのではなく、鬱や発達障害などの精神やコミュニケーション能力の 障害として解釈し対処する。教育の現場でも、勉強ができなかったり、友だちとの人間関係が うまくできなかったりすることを、学校の問題や家庭環境の問題などとしてではなく、同じよ うに、鬱や発達障害などの心や精神の問題として解釈し対処する傾向が、心理化である。

しかし、われわれは心理化を上記の現象に限定するのでなく、より広範な事象を含むものと 考えた(片桐 2017: ch.2.)。つまり、上記のような心理化を管理的な心理化とし、それ以外に、

自己実現の心理化を第2の心理化、人間関係の感情意識化を第3の心理化とした。自己実現の 心理化とは、本当の自分は、自己の内部=「心的なもの」にあるという自分探しの傾向を意味 しており、それはさらに、以下の3つに分けることができる。つまり、第1に、心理学的な言 説が宗教に変わる現象としての「スピリチュアリティの心理化」、第2に、自助的な集団やメ ディアをとおして拡散するセラピー的な語彙によって自己実現を果たす「セラピー的語彙によ る自己実現」、そして、第3に、自己肯定感をもつことが生き甲斐の獲得や人生の成功を導く という「自己肯定感が神話化」の3つである。

一方で、人間関係の感情意識化は、他者とのコミュニケーション場面において、他者への 感情的配慮が過度に求められる傾向を意味している。典型的には、「やさしい関係」のように、

傷つけることを恐れて他者に対して感情的に配慮することで、人間関係を構築する傾向を人間 関係の感情意識化と呼ぶ。人間関係の感情意識化が心理化の傾向をもつということは、他者の

「心的なもの」への配慮がコミュニケーションを築く上で重視されているからである。

管理的な心理化、自己実現の心理化、人間関係の感情意識化は、異なる現象のように見える

が、労働や教育現場、自己実現、人間関係の構築などのさまざまな問題を、社会的な問題とし

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てではなく、心や精神の語彙によって解釈し対処するという点で共通している。このとき、わ れわれが注目したいのは、人間が、心や精神の属性に還元、あるいは分解されているという事 態である。本来、近代が発見した人間としての個人は、それ以上分解できない、自律や主体の 担い手として想定された。しかし、私化では、個人は公的な意味づけを欠いた私的な存在とな り、さらに、心理化では、人間は心や精神に還元、分解されたのである。その傾向は、ソーマ 化(somatization)においてさらに深化している。ソーマ化とは、病気の社会的背景や人種の 分類のイデオロギー的な背景などの社会的な文脈を排除して、遺伝子や脳の伝達物質などの分 子レベルの属性によって人間を定義する傾向を意味している(Rose 2007: 109-110)。そこでは、

個人の分解はさらに進んでいる。なぜなら、心や精神から分子レベルの属性へと、その分解が 進行しているからである。

人間への懐疑は、今まで見てきたような個人主義の変化に見られるだけではない。それは、

思想の分野ではフーコーの「主体(Subject)」論をはじめ、一般に、ポスト構造主義や構築主 義におけるように、自己を言語的な構築物と考える視点に典型的に見いだすことができる。そ の点で、人間への懐疑の根は深いし、人間とは何かを考えることのしらけの傾向が進行してい ると言えるだろう。しかし、そうした状況の中で、改めて人間とは何か、あるいは、人間と何 かを考えることの意義が問われている。それが、ポストヒューマンをめぐる議論である。

第3章「人間」の再考-2つのポストヒューマン論

第1節 ポストヒューマン論の分類

ポストヒューマンは、ハラリの『サピエンス全史』で見たように、サピエンスという種を超 えた新たな種であり、それは、AI やバイオテクノロジーなどの先端科学によってもたらされ る人間という意味で用いられることが多い。しかし、ここでは、ポストヒューマンをもう少し 広い意味で用いることにしよう。それを検討するための出発点は、ポストヒューマン論を、新 たな自己や人間像の探求の試みと位置づける一連の議論である(注②)。その中でも、ポスト ヒューマン論についてより体系的な位置づけをしている R. ブライドチの議論を参照しよう。

ブライドチは、ポストヒューマン論を、人間に対する見方の見直しという点から、3つに分

けている。その3つとは、「自己(self)」を超えた人間のとらえ直し、種を超えた人間のとら

え直し、そして、死を超えた人間のとらえ直しである。第1の、自己を超えた人間のとらえ直

しは、西洋近代の自己概念への批判的な検討をふまえた、新たな対抗的なコスモポリタニズム

の探求を意味している。第2の、種を超えた人間のとらえ直しは、主には、遺伝子操作に代表

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されるバイオテクノロジーの発達を背景とする人間という種の再考を意味している。人間は動 物や植物に対して特権的な種ではなく、それらと同列の関係で位置づけられる必要性が指摘さ れる。もう一つの、死を超えた人間のとらえ直しは、気候変動やパンデミックに見られる自然 環境の変化や、殺人兵器の AI 化などに見られる死の新たな再考を意味している。ハラリが念 頭に置いたポストヒューマンは、ブライドチの分類では、第 2 と第 3 を含めたポストヒューマ ンに対応する。ここでは、第2と第3のポストヒューマンの論点を1つのポストヒューマン論 とし、それと合わせて今日的なコスモポリタニズム論をもう1つのポストヒューマン論としよ う。それぞれについては、第5章と第4章で検討する。しかし、第4章でのコスモポリタニズ ム論を検討する前に、ブライドチがコスモポリタニズムについてどう考えているかについて見 ておこう。

第2節 ブライドチのコスモポリタニズム論

ブライドチのコスモポリタニズム論への批判は以下のような順序において行われる。第1に、

伝統的な近代主義的なコスモポリタニズム批判、第2にそれに変わる対抗的なコスモポリタニ ズムの提示である。

ブライドチによれば、伝統的なコスモポリタニズムは、固有性、理性的な自己規制、道徳を 内面化した近代的な主体性を前提としており、それらを、人間に普遍的に見られる属性と考え てきた(Braidotti 2013: 13-14)。そうした、コスモポリタニズム的発想は、先に見たデュルケ ームらの「人間」というカテゴリーの発見とも対応している。しかし、こうした人間像は、男、

白人、大人、健常者などを念頭に置くものであり、その反対に、女、有色人種、子供、障害者 などを排除してきたのである(Braidotti 2013: 25)。それに対して、ブライドチは、女、有色 人種、子供、障害者、さらには人間以外の生物を含めた新たな対抗的なコスモポリタニズムの 構築を提唱する。そこでの、自己像は、伝統的なコスモポリタニズムが前提とする理性的な自 己規制や個別的・自己完結的な自己像に代表される自律的で固有な自己ではなく、関係的で生 成的な自己である。それは、「ノマド的自己」、「生成する(becoming)自己」、「状況づけられ た(situated)自己」などとも表現され、ハイブリッド、ディアスポラ、クレオールといった 多文化的な現象を典型的な例としてもっている(Braidotti 2013: 48-50)。

こうしたコスモポリタニズム批判は、グローバル化の進展によって顕在化したエスニシティ

をめぐる問題をその第1の背景としている。そして、伝統的なコスモポリタニズムが、個別的

な西洋の人間像を普遍的なものとするイデオロギーとして浸透することで、エスニシティを

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はじめとするさまざまなマイノリティを抑圧してきたことを批判する。そして、ブライドチ は、伝統的なコスモポリタニズムが前提としてきた「人間」= Man は死んだと言う(Braidotti 2013: 52)。しかし、その議論において、コスモポリタニズムの全否定ではなく、「ノマド的自 己」などに見られたように、対抗的なコスモポリタニズムの提唱に注目する必要がある。

第4章 ポストヒューマン論①-コスモポリタニズム論の可能性

ブライドチの分類に従って、ポストヒューマン論をコスモポリタニズム論に根ざす論点と、

バイオテクノロジーや情報科学、人工知能(AI)、ナノテクノロジーなどの先端科学による人 間論の新たな展開とに2つに分けて論じよう。両者は、一見異なる議論のように思われるが、

ともに人間とは何かという今日的な問いを代表している。

第1節 伝統的なコスモポリタニズム論批判

コスモポリタニズム論は、M. ヌスバウム、D. ヘルド、J. ハーバーマス、D. ハーヴェイらに よって今日さまざまに展開されている(注③)。しかし、今日のコスモポリタニズム論は、西 洋近代が生み出した伝統的なコスモポリタニズムへの批判に端を発しているという点では、そ れぞれの見方は共通している。ここでは、コスモポリタニズム論を総括することが目的ではな く、今日的な人間の語られ方を問うためにコスモポリタニズム論を参照することが目的である。

伝統的なコスモポリタニズム批判の1つの典型を、D. ハーヴェイのカント批判に見ること にしよう。少し長いが、それを引用しよう(Harvey 2009: ch.1.)。なぜなら、伝統的なコスモ ポリタニズム批判の勢いが、より伝わるからである。

「カントは、さまざまな住民の習慣や慣習に関するあらゆる偏見に満ちた所見を無批判に繰 り返している。たとえば、こんな風である。『熱帯の国々では、人間はあらゆる点でより急速 に成熟するが、温帯の国におけるような完成の域に達することはない。人類がその最大の完全 性に達するのは白色人種においてである。すでに黄色のインド人であっても白色人種よりも能 力が低い。ニグロ(ママ)はもっと劣っていて、アメリカ原住民の一部はニグロ(ママ)より も劣っている』」

これに続いてカントは、極北の民族について次のようなことを言っている。「ラップ人、グ

リーンランド人などは、臆病さ、怠惰さ、迷信、強い酒を飲みたがるという点で、熱帯地方の

人々と似ているが、後者に特徴的な嫉妬心だけは欠いている。なぜなら、彼らの住む気候は情

熱をあまり喚起しないからである。」

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有色人種が白人種に対して劣っているという認識は、確かにハーヴェイの言うように偏見で あり、「コスモポリタン(世界市民)」による恒久平和を提唱したカントがこのような認識をし ていたことには、(とりわけ有色人種にとっては)意外さや憤りを感じるが、一方で、北方の 民族が、気候が寒冷だから熱帯地方の人々のような嫉妬心はもたないという認識に至っては、

憤りを超えて、あまりの滑稽さに笑えてしまう。人間の平等や自由などの人権思想が提起され た 17 世紀末から 18 世紀においても、一方で、奴隷貿易が行われ、奴隷貿易を行っていた東イ ンド会社の株を西欧の市民が買うことで利益を得ていたことを思えば、自由や平等とされる人 間の中に、奴隷を含む有色人種は含まれていたのだろうか、あるいは、女性は含まれていたの だろうか、という素朴な疑問がわいてくる。したがって、今日のコスモポリタニズムは、改め てコスモポリタニズムの前提とする、あるいはその担い手としての人間とは誰か、あるいは人 間とは何かという問いと切り離すことはできない。

こうした問いに面したとき、西洋の近代社会の成立を「人間」というカテゴリーの成立と重 ね合わせたデュルケームやジンメルら社会学の創始者たちの見方はどう評価されるだろうか。

今日の社会学者でコスモポリタニズムを論じているベックの議論をとおして、そのことを考え よう。

第2節 ベックのコスモポリタニズム論

ベックのコスモポリタニズム論を見るとき、現代社会の特徴としてのコスモポリタン化(あ るいは、コスモポリタン社会)と、あるべき姿としてのコスモポリタニズムを分ける必要があ る。第1のコスモポリタン化は、社会のグローバル化に対応する。ベックを含む、A. ギデン ズや Z. バウマンの現代社会論を支える背景はグローバル化である。彼らはともに現代のヨー ロッパで生きる中で社会学を構想した点では、社会的な背景を共有している。そして、グロー バル化の帰結として、現代社会が、デュルケームやジンメルらの近代初期とは異なった社会に なったことを、微妙に異なるにしても共通して指摘する。

その中で、ベックは、近代初期の時代と現代の違いを、第1の近代と第2の近代の違いとし

てとらえる。第1の近代は、国民国家、身分的な労働者、近代家族、道具的な知への信頼とい

う4つの点から特徴づけられる。第1の近代は、デュルケームやジンメルの言う個人化の進ん

だ社会だが、その個人化は第2の近代である現代社会に比べてまだ緩やかであった。第1の点

では、経済活動が、基本的には地域という境界によって枠づけられ、その結果、さまざまな制

度が国家の領域に制約されていた。第2の点では、階級という身分的な属性が生きており、そ

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れは経済的な側面だけではなく、労働者のアイデンティティやライフスタイルを規定するもの であった。第3の近代家族は、性別役割分業に根ざす家族であり、それは良い意味でも悪い意 味でも、家族を安定したアイデンティティ付与の対象とした。そして、第4の、道具的な知へ の信頼とは、自然の開発に象徴されるように、科学がもたらす社会の進歩への信頼を意味して いる。

一方で、第2の近代は、第1の近代の4つの特徴をすべて根本的に変えるものである。つま り、グローバル化の進展による国民国家の脆弱化、身分的な階級の解体、性別役割分業に基づ く近代家族の解体、原発事故や地球温暖化に象徴される科学技術への信頼のゆらぎ。それらは、

合い重なって、制度の個人化、リスクの個人化をもたらす。つまり、従来、国家、階級、家族 などが「社会」的、福祉的な機能をもってきたのに対して、責任やリスクへの対処が個人化し たのである。

コスモポリタン化は、こうした第2の近代を背景とする。第2の近代への視点なしに現代社 会を描くことはできない。では、コスモポリタン化がグローバル化を背景とするならば、グロ ーバル化とコスモポリタン化は同じなのだろうか。ベックは、コスモポリタン化がグローバル 化と異なる点を指摘する。それは、グローバル化の概念が国家の枠を最終的に残す概念であ るのに対して、コスモポリタン化が、ナショナルなものとグローバルなものという 2 項対立を 超えて混交していること、さらに、グローバル化が経済や政治的な分野だけの出来事ではなく、

ライフスタイルやアイデンティティの問題として人々の日常的な生活に入り込んでいることを あげている(Beck 2008: 93-94[101-102])。(注④)

このような留保を置くとしても、ベックのコスモポリタン化の概念はグローバル化と密接に 結びつく現代的な現象である。しかし、ベックは、第1の近代に生きたデュルケームが、個人 化をコスモポリタン化としてすでにとらえていたことを指摘している。デュルケームが「人 間」というカテゴリーの点から近代を見ていたことはすでに指摘した。ベックは、デュルケー ムの次のような指摘に注目する。つまり「人々は同じ社会集団の成員が人間としての特性以外 に共通性をもっていない状況に向かって一歩ずつ進んでいる」と(Beck 2011: 25)。

この指摘は、国家、階級、地域社会、家族などの個別的な集団の成員として自己をとらえる

のではなく、それらに還元できない、あるいはそれらを超えた人間という共通項によって相互

を認識し、それに基づいて社会を構築していくという事態を示している。そのことは、社会の

個人化と言い換えられる。たしかに、デュルケームは第1の近代に生きたがゆえに、第 2 の近

代である現代社会と同じ枠組みによっては個人化をとらえることはできなかったが、コスモポ

(13)

リタン化論の先駆けをなした点では高く評価される。

コスモポリタニズムは、コスモポリタン化という現状分析と切り離すことはできない。ベッ クも、コスモポリタニズムがコスモポリタン化した社会の原理として不可欠であることを認め ている。では、現代のコスモポリタニズム論が批判の対象とした「人間」をどのように見てい たのだろうか。ベックは、伝統的なコスモポリタニズムのもつ普遍主義的な前提には批判的で ある。普遍主義が、自らの立場を人間一般に普遍的な見方であるかのように装い、異なる他者 のもつ固有さへの理解を欠くことによって、他者を支配し、あるいは排除する側面をもつこと を指摘する(Beck 2002: 409-410[342-343])。デュルケームにおける「人間」の発見における 人間が、そうした批判的な対象としての普遍主義的な特徴をもつかどうかについては、ベック は直接言及していないが、いずれにしても現代のコスモポリタニズムは、伝統的なコスモポリ タニズムとは区別される必要があることは確かである。

第3節 コスモポリタニズムをめぐる同心円理論-認知社会学とコスモポリタニズム論の接点 古典的なコスモポリタニズムに対する現代的なコスモポリタニズムの問題関心を見てきたが、

改めてわれわれの理論的な視点からコスモポリタニズムをどう見るかについて触れておこう。

ベックの議論は、コスモポリタニズムの社会的な背景を描いた点で社会学的な研究と言えるが、

一方で、次に示そうとすることは、コスモポリタニズムを描くまた異なる社会学的な理論枠組 みを提示する試みでもある。

認知社会学は、カテゴリー化の作用から自己や社会のあり方を問うという視点をもつもので あった。自己を定義づけるカテゴリーには、さまざまなものがある。つまり、役割、ジェンダ ー、エスニシティ、国籍、ライフステージなどのカテゴリー、それぞれの時代に固有な人間像、

自己そのものに言及する、心や主体、あるいはソーマ的な属性を示すカテゴリーなどがそれら に当たる。そして、人々がお互いを同一のカテゴリーによって見なすときそこに相互行為=社 会が成立すると考えられる。コスモポリタン化とは、人々が、個別的な役割などの「下位」の カテゴリーによって相互を意味づけるのではなく、人間一般として意味づけるときの社会の生 成を意味しており、コスモポリタニズムとはそうしたコスモポリタン化を望ましい社会のあり 方とする見方である。コスモポリタン化、あるいはコスモポリタニズムへの認知社会学の見方 と親和的な見方を参照することで、コスモポリタン化やコスモポリタニズムへの見方を改めて 提示しよう。

認知社会学と親和的な見方を提示しているのは、コスモポリタニズム論を展開するヌスバウ

(14)

ムの同心円理論であり、それを批判する共同体主義者(コミュニタリアン)として位置づけら れる M. ウォルツァーの自己論である。

まず、ヌスバウムの同心円理論とは何だろうか。同心円とは、生活圏の同心円的な広がりを 意味している。中心の円は個別的な自己を囲んでおり、次には、家族、拡大家族、さらに、隣 人や同じ街の居住者などのコミュニティ、その次の円に、民族的、言語的、歴史的、職業的、

ジェンダー的、性的アイデンティティに基づく集団が続き、一番外側の最も大きな円に属する 人類全体やそれが担う人間性が位置づけられる(Nusbaum 1996: Part Ⅰ)。これは、ヌスバウ ムがストア学派の考えを参照したもので、必ずしも彼女自身のアイデアではないが、ヌスバウ ムはこの同心円理論を用いてコスモポリタニズムを説明する。つまり、コスモポリタニズムと は、内側の個別的な自己ではなく、一番外側の円に属する人類や普遍的な人間性に特別な注意 と尊敬の念を払うべきとする考えである。

ヌスバウムの同心円理論を批判するウォルツァーも、理論的には同様の見方を示している。

それが、自己の分割論である。自己の分割は、3つの点から指摘される(Walzer 1994: ch.5.)。

第1は、利害関心や役割の点からの分割、第2は、アイデンティティの面からの分割、第3は、

理想や価値の点からの分割である。第1の分割は、市民、親、職業などの役割上の分割であ り、人々は、それぞれの役割に基づいて、それに伴う自己の責任や資格などの点から自己を定 義する。第2に、自己は、家族、民族、宗教、ジェンダー、政治的な態度などの点から、自己 のアイデンティティを構築する。さらにそれらの外側で、自己は異なる歴史や伝統をもつ異な る集団のなかでより拡大した自己を形成する。最後の第3の分割は、多元的な理想や価値の点 での自己の分割である。とりわけ、理想や価値の葛藤や疑いは、自己への相対的な視点を可能 とする。このように、自己はさまざまに分割されるとともに、それらを含めた多元的で複合的 な存在であることになる。そして、ウォルツァーのヌスバウムへの批判は、自己の固有性や複 合性を離れて、人類一般や普遍的な人間性を語ることに向けられる。そうした自己への語りを ウォルツァーは「薄い語り」と呼び、それに対して固有で複合的な語りを「濃い語り」と呼ぶ

(Walzer 1995: 91[157f.])。それは、共同体主義者一般の自己観に共通していると言えるだろう。

単純に比較すれば、ヌスバウムは同心円理論の外側にある人間や人間性に基づく社会の構築

を目指し、ウォルツァーは、それに反して、自己の多元的で複合的なあり方に注目した。もち

ろん、両者の意見は、そうした単純な 2 分法で片付けることはできない。なぜなら、ヌスバウ

ムは、人間の個別性、多様性への無理解や排除に根ざすものではなく。多様で異なるひとの立

場に立って、そのひとたちの感情や欲求を理解することの必要性を主張しているし(Nusbaum

(15)

1996: Part Ⅲ)、一方で、ウォルツァーも、民主主義の基盤としてコスモポリタニズム的な人 間の普遍主義的な見方を認めているからである(Walzer 1994: ⅹ[10], 古河 2014: 340 参照)。

コスモポリタニズムをめぐる2人の論点にはこれ以上立ち入らない。確認すべきは、ヌスバウ ムにおいては、同心円の一番外側に自己を位置づけることでコスモポリタニズムが説明され、

ウォルツァーにおいて、それが、自己はさまざまに分割された側面の多元的複合的なあり方に 注目することで論じられた点である。2人の視点は、認知社会学の視点と親和的である。なぜ なら、自己はさまざまなカテゴリー、つまり、個別的な属性を示すカテゴリーや、人類や人間 といったより包括的、普遍的なカテゴリーによって構築される。このとき、コスモポリタニ ズムは、より普遍的で包括的なカテゴリーが顕在化することで成立すると考えられる。しかし、

どのカテゴリーが顕在化するかは、静態的で調和的ではなく、むしろ動態的で対立や闘争、抑 圧や差別を含むものだろう。自己は、単一のカテゴリーによって一義的に定義されるのではな く、さまざまなカテゴリー間の交差のなかで生成的に築かれる。このときわれわれが注目した いことは、「人間」というカテゴリーがどのように顕在化し、そして、そのことによってどの ような社会が立ち現れてくるかというダイナミズムである。このような意味でのカテゴリー化 のあり方から、コスモポリタニズムとは何かを検討することがここでの基本的な立場である。

第5章 ポストヒューマン論②-先端科学の発展と人間への問い

第1節 シンギュラリティについて

AI は人間を超えるかといった話題が、今日沸騰している。そのきっかけに大きく貢献した のが、R. カーツワイルのシンギュラリティに関する議論である。カーツワイルの『ポストヒ ューマン誕生-コンピュータが人類の知性を超えるとき』(Kurzweil 2005)は、単に AI が人 間を超えるかという問いを立てているのではなく、AI を含む先端科学の展開を人類史という 大きな枠の中に位置づけている。その構想は、先に見たハラリの構想に似ているが、ハラリは

『サピエンス全史』においてあくまでサピエンスの歴史を扱ったのに対して、カーツワイルの 構想はそれを遙かに超えている。

カーツワイルは、進化の6つのエポックを指摘する(Kurzweil 2005: 14-21[27-33])。エポ

ック1は物理と化学の段階である。それは地球上の物質の構造が固まる段階であり、時期的に

は、ビッグバン(百数十億年前)から数十万年経った時代に当たる。エポック2は、今から数

十万年前の生命の誕生を意味している。エポック3は、脳をもつ動物の誕生に当たり、エポッ

ク4は、人類がテクノロジーを発明した段階である。そして、エポック5は、人間のテクノロ

(16)

ジーと人間の知性が癒合する段階であり、最後のエポック6は、融合した人間の知性とテクノ ロジーが宇宙に出て行く段階である。この6つのエポックの中で、シンギュラリティとはエポ ック5の段階に相当する。つまり、シンギュラリティは、物質や生命の誕生に始まる宇宙の歴 史のなかに位置づけられた壮大な歴史のなかの一時点を意味している。そして、AI が人間の 知性を超えるかという問いを超えて、AI を含めた先端科学と人間の融合によって人間(人類)

という種自体が変わるという意味で、ハラリの「超ホモ・サピエンス」段階に対応する(注⑤)。

第2節 AIは人間に近づけるのか

AI がチェス、囲碁などにおいて人間のチャンピョンを負かすことで、人間の存在が脅かさ れるような不安感や恐怖感をもつひとが増えていると言われている。人間は、すでに、自動車 や飛行機などで、速く走ることや空を飛ぶという機能において機械に負けているのだが、それ らが人間の身体的な機能の問題であったのに対して、AI は人間の脳に取って代わろうとする 点で不安感や恐怖感は深刻である。

機械の進歩に対して、人間を機械と差異化して、人間の独自性を守ろうとする試みが古くか らなされてきたことを S. タークルは指摘する。その典型は、19 世紀のロマン主義に見ること ができる。それは、近代科学やそれに基づく産業の機械化に対する反動として、人間の感情や 情念などの非合理的な側面を強調しようとする思想であり、運動である。それと同じことが、

現在の AI に対しても見られるとタークルはいう(Turkle 1984: 283-284[457-458])。つまり、

人間は AI に計算やゲームなどの知性の面ではかなわないが、AI には感情がない、AI には想 像力あるいは創造力がない、AI は死を知らないなどとして、AI を人間と差異化する。そうす ることで、不安感や恐怖感を和らげるのである(注⑥)。

AI が人間を超えるか、あるいは超えないかは、1950 年代に AI という言葉が登場して以来

さまざまに論じられている。その言説は、AI の技術的な進歩とも結びついている。1980 年頃

に哲学者のサールが「強い AI」と「弱い AI」という区分をした(cf. Searle 2004)。その区分

は、「中国語の部屋」という実験をとおして、中国語を全く理解していないひとが、中国語に

よる問いに対して、マニュアル通りに対応して答えられたとしたとき、そのひとは中国語を理

解していると言えるかという問いに端を発している。そして、単にマニュアル通りに対応する

AI を弱い AI とし、内容を理解しうる AI を強い AI として、現在の AI は弱い AI であると規

定した。たとえば、「わたしはあなたが好きだ」という日本語を「I love you.」という英語に

翻訳する AI は、それを表現するときに感情の高まりや、あるいは恥じらいを感じることはな

(17)

いだろう。それは、AI という翻訳機が弱い AI だからということになる。

この区分は、80 年頃に言われたことだが、当時は確かにそう言えたが、今日ディープラー ニングに象徴される AI の進歩によって、強い AI ができる可能性があるといった言説や、一 方で、AI と人間をあくまで差異化する言説が、現在でも流布している(注⑦)。そして、これ らは、カーツワイルのシンギュラリティ論のインパクトとも連動している。

第3節 人間がAIに他者を読む

AI がシンギュラリティを迎えるかどうかという論争の真偽を問うことでなく、われわれが ここで社会学的に論じるべき点は2つある。1つは、AI と人間の関係を見るとき、AI が人間 に近づくかが重要なのではなく、人間が AI に対してどう振る舞うかという点が重要だという 論点、そして、もう1つは、AI が人間に近づくというよりも、人間が AI を含めた道具や機 械と一体化すること、つまりサイボーグ化することで、自己や社会のあり方が大きく変わろう としている点である。第2の点は、われわれの認知社会学の視点から見て重要である。第 1 の 点から見ていこう。

日本の代表的なロボット研究者である石黒浩は、人間に似たアンドロイドの制作者として有 名である。そのアンドロイドは、自ら動くのではなく人間が遠隔的に操作するものである。し たがって、人間を超えようとする AI を作成するという趣旨とは異なっている。石黒は、アン ドロイドを作ることの意義を、人間とは何かを問うためであると言う(石黒 2009)。実際に、

石黒のアンドロイドを見たとき、「確かに人間に似ているが、顔のここの表情がやはり人間と は違う」とか、「肌の感触が人間とは違う」などの印象をもつ。人間にあまりに似ていると、

かえってそのアンドロイドに対して不安を抱く境界は「不気味の谷」と言われているが、石黒 のアンドロイドを見ているとそうした不気味の谷を感じる。一方で、人間に限りなく近いロボ ットを作ることより、かえって似ていない方がロボットと人間の関係がうまく築けると言われ ている。たとえば、犬型のロボットである AIBO は犬の形状や質感とはかなりかけ離れてい るし、アザラシ型のロボットであるパロも、アザラシのぬいぐるみのようであり、本物のアザ ラシとはかなり異なっている。しかし、それでも、AIBO やパロと接していると何かそこにコ ミュニケーションが生じているような気がしてくる。

このことは、AI と人間のコミュニケーションを考えるとき、AI が人間と同じコミュニケー

ション能力をもつ必要はなく(注⑦のコリンズの指摘参照)、人間がロボットに人間としての

他者を読み込むことが重要だという点に気づかせてくれる。この点に関して、石黒は演出家の

(18)

平田オリザの演出法に触れている。平田によれば、演技において感情移入は不要であり、演技 の外見が重要であるという。つまり、悲しい場面を演じるとき、役者が感情移入をして悲しさ を感じることは必要ではなく、泣くという動作(外見)をまねることが重要であることになる。

なぜなら、感情移入するとかえって演技がわざとらしくなるからである。つまり、役者が感情 を抱くことが重要なのではなく、聴衆が役者の感情を読み込むことの方が重要なことになる。

このことから、ロボットによる演劇の可能性を石黒は探究する(石黒 2009: ch6.)。

この指摘はコミュニケーションとは何かを論じるときに重要である。社会学の代表的なコ ミュニケーション論であるシンボリック相互行為論の土台を築いた G.H. ミードの役割理論は、

コミュニケーションにおける他者理解の重要性を指摘している(片桐 2011: 67-70 参照)。つま り、他者とのコミュニケーションにおいて、自己の行動に対する他者の反応を予期することが コミュニケーションの成立において重要だとミードは言う。そして、このとき、他者は人間に 限られない。ペットや家畜のような動物でもいいし、石のような自然の物や机のような人工物 を含む物であってもいい。こうしたミードのコミュニケーション論から考えれば、ロボットと いう物にも人間は他者としての意図を読み込むゆえに、ロボットとのコミュニケーションは可 能になると考えられる(注⑧)。そして、ロボットに人間が他者の意図を読み込むという視点 は、その読み込み方の多様性という視点を導き出す。西洋と日本(あるいは東アジア)では、

ロボットへの接し方が異なることがしばしば指摘されている。つまり、西洋ではロボットに対 してあくまで機械として、人間に対立するものとして接するのに対して、日本(あるいは東ア ジア)では、ロボットに対して人間の仲間として、親密な他者として接するなど、のように

(注⑨)。

第4節 サイボーグ化する人間-人間をめぐる境界の溶解

われわれが AI を論じるときに重要な第2の視点として、AI が人間に近づくかどうかでは なく、人間が AI などの機械と一体化=サイボーグ化することで生じる、自己や社会の変容を 扱うことの重要性を指摘した。次にその点を考えよう。

実は、人間は生まれながらにしてサイボーグだったという見方がある(Clark 2003)。その

始まりは火の利用にある。火の利用は土器の使用と不可分である。土器で火を用いて料理する

ことは、人間の食べられる物の範囲を拡大し、穀物の食べ物化に見られるように、人間自身の

身体的な特徴である消化器官の構造をも変化させた。また、文字の発明は、人間の思考力や社

会のあり方を大きく変える。2 桁以上のかけ算をすることは、多くのひとにとって書くという

(19)

行為と切り離せない。つまり、2 桁以上のかけ算をするとき、その数字や式を紙などに書いて

(=外部記憶化して)計算するからである。この作業は、短期的な記憶とかかわるが、書くこ とは長期的な記憶、あるいは記録を可能とすることで、社会の地理的、歴史的な範囲を拡大し た(cf. Ong 1982)。このように、機械、あるいは道具は、人類の発生当初から、人間に組み 合わされており、その点で人間は生まれながらのサイボーグと言える。そして、その後も、近 代科学の発展がもたらしたさまざまな機械、たとえば、交通や通信のための機械、産業用の機 械、時計などの機械と関係なしには、人間の歴史、あるいは人間の日常世界を考えることはで きない。そして、今日サイボーグ化が改めて言われるのは、AI などの発達がサイボーグ化を より進展させたからである。

人間は生まれながらにして機械に近づき、機械と一体化してきたことを機械と人間の境界 の溶解の歴史としてとらえる見方がある。B. マズリッシュは、機械と人間の境界を第4の 境界と位置づけている。では、それに先立つ3つの境界を含めた4つの境界とは何だろうか。

(Mazlish 1993)。第1は、地球が宇宙の中心ではないことがわかったこと、第2は、人間が動 物と区分されるものでないことがわかったこと、そして、第3は、人間の「自我(self)」は 人間の主人ではないことがわかったこと、第4は、人間が機械と連続的なことがわかったこと。

第1の点は、地球と宇宙との境界を溶解し、第2の点は、ダーウィンの進化論にあるように、

人間と動物との境界を溶解した。そして、第3の点は、フロイトの無意識の発見にあるように、

人間の身体と精神との区分を溶解する。マズリッシュは、人間と機械との境界の溶解が、歴史 的には第4の、最も新しい境界の溶解だと位置づけているが、先に見た、生まれながらのサイ ボーグという見方からすれば、その順序が第 4 と言えるかどうかは留保が必要だろう。しかし、

そうした留保を踏まえた上で改めて考えれば、今日の AI に象徴される機械と人間の境界の溶 解という現象は、他の3つの境界の溶解と同様、人間とは何かを考える上で重要な出来事であ る。カテゴリー化の作用から自己や社会のあり方を問うという認知社会学の視点から改めて考 えれば、サイボーグ化とはまさに人間をめぐるカテゴリー化の変化をもたらす重要な契機であ る。

マズリッシュは主に機械と人間の境界を問題とした。しかし、その境界を溶解するのは必ず

しも AI という機械に限らず、バイオテクノロジーなどの先端科学をも含んでいる。典型的に

は、遺伝子操作による出産や病気の予防や治療では、生物に関するテクノロジーが人間のあり

方を大きく変えようとする。このことを踏まえて言えば、AI やバイオテクノロジー、ナノテ

クノロジーなどの先端科学が、自己や社会のあり方を支えてきたカテゴリーをどのように変え

(20)

ていくかに注目することが、重要な視点となる(cf. Sandel 2007)。

先端科学が今後引き起こすと予想されるカテゴリーの変化はさまざまな現象に見ることがで きる。もっとも現実的な現象は、AI が産業構造を大きく変えるだろうということである。AI の進展は新たな格差、あるいは階級社会を生むと言われている(新井 2018 ch.4. 参照)。それ は、AI の進展によって職を失う人、AI にはできない職につける人、そして、AI を開発した り操作したりする人々の間の格差である。それは、従来の格差や階級のカテゴリーを大きく変 えることでもある。しかし、テクノロジーが格差や階級のあり方を変えたのは、今に始まった ことではない。産業革命が無産の多くの労働者を生み出した歴史にも対応するからである。

そして、AI を含めた先端科学の進展は、「種としての人間」を超える能力を補ったり、「人 間の種」としての特性を人工的に変えたりすることで、健常者と障害者、若者と高齢者、ジェ ンダーやセクシュアリティのあり方、あるいは家族とは何かなどの境界を変えていくことが予 測される。AI 化したパワースーツは身体的な差異を平準化するし、血縁によらない出産やセ クシュアリティを変更する手術の普及は、家族やセクシュアリティのあり方を大きく変えるだ ろう。また、近い将来予測される記憶の補填や遺伝子操作は、倫理的な問題を抱えているこ とは明らかだが、障害者と健常者などのカテゴリー的な差異を大きく変えるかもしれない(cf.

Gray 2002)。

さらに、より SF 的ではあるが、ハラウェイが、サイボーグ・フェミニズム論で指摘してい るように(cf. Haraway 1991)、男が出産できる身体を獲得すれば、産む性か否かという、女 と男をめぐるカテゴリーの区分も溶解するかもしれない。また、カーツワイルが指摘している ように(cf. Kurzweil 2005)、人間同士の脳がコンピュータによって結ばれたり、ナノテクノ ロジーによって病気が克服されたりすれば、自己と他者、生と死といった従来の常識的なカテ ゴリーの区分が解体するかもしれない。

先端科学が自己や社会のあり方を大きく変えていくことは避けては通れない。そのとき、社 会学に何ができるかと考えたとき、先端科学が従来のカテゴリーをどう変えるかを見ることで、

自己や社会の変容を問うという視点は1つの可能性をもっている。

このときさらに重要なことは、人間というカテゴリーの浸食という問題である。先の例で見

たように、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、障害と健常などの「下位」の境界が崩れる

ことは、「人間」とは何かをめぐるカテゴリーに揺らぎをもたらすとしても、「人間」そのも

ののカテゴリーを根本的に崩すことはないだろう。しかし、SF 的ではあっても、一人のひと

の記憶が他者によって補填されたり、特別な能力が意図的に付加されたり、あるいは、シンギ

(21)

ュラリティ論が予測するように、一人の人間の脳がコンピュータをとおして他者の脳と結び ついたりしたとき、それらのひとは「人間」と呼べるだろうか(限界研 2013 など参照)。ま た、こうした先端科学を利用してポストヒューマン化しうるひとと、利用できないひととの間 の格差や分断も予想される(高橋 2006: ch.3. 参照)。このとき、それらの「人間」の間で、相 互に同じ「人間」とカテゴリー化することで社会を構築できるのだろうか、あるいは、誰か がそのカテゴリーに包摂され、誰かがそこから排除されるのだろうか。実際に、分子生物学者 の L.M. シルヴァーは、遺伝子加工して優れた特質を獲得した「ジーン・リッチ」と、加工を する経済的なゆとりのない「ナチュラル」との間に格差が生じ、遺伝子の違いが何世代にも蓄 積されることで、いずれ両者の差が拡大して相互に生殖が不可能となる=異なる種となること を予測する(Silver 1997)。そのとき、ジーン・リッチ(あるいは、ナチュラル)から見れば、

ナチュラル(あるいは、ジーン・リッチ)は同じ「人間」ではないことになる(注⑩)。

コスモポリタニズムという考えは、相互を、「人間」としてカテゴリー化すること、そして、

そのことで同じ社会の成員として相互を承認することで生じる社会を前提とする。先端科学の 発展が、「人間」というカテゴリーそのものを侵食するとすれば、そのとき社会はどのように 構想、構築されるのだろうか。その点が、先端科学の発展をめぐるきわめて重要な(認知)社 会学的な問いと言える。

おわりに-問題の確認

2つのポストヒューマン論は必ずしも直接の関連はないかもしれない。一方は、グローバル 化が進展し、民族的、宗教的な多文化主義やナショナリズムが復権するなかで、改めて人間と は何かの問い直しが求められている状況を背景としている。日本でも、グローバル化や、それ と不可避的に結びつく新自由主義的な経済を背景として、格差社会化やヘイトスピーチに象徴 される排外的なナショナリズムの登場が指摘されている。そして、それらの状況を説明し解決 する視点として、人間とは何かという新たな視点の探求が求められている。それが、現代的な コスモポリタニズムの探求であった。一方で、AI やバイオテクノロジーなどの先端科学の進 展も、人間とは何かの問いを新たに投げかけている。従来の道具、機械も人間のサイボーグ化 をもたらしたが、それはあくまで身体の機能に関わるものと見なされた。それに対して、AI は人間の脳の代替となり、人間が不要になるかもしれないという不安感や恐怖感をもたらした。

そうしたなかで、人間と機械の境界がどうなるかが重要なテーマとなっている。

このように、2つのポストヒューマン論は確かに直接的な関連性はないように思われる。し

(22)

かし、両者は、従来の、人間観=自己観、つまり、自己は、他者に対して自立的、自律的であ り、また状況の変化に対して同一的で一貫しているという自己観への再考を迫るという点では 共通している(注⑪)。あらたなコスモポリタニズムの提示する自己は、ブライドチの言うよ うに、関係的で生成的な、モナド的な自己であり、先端科学の進展がもたらす人間も、今まで 自明とされてきた自己をめぐるカテゴリーやその境界を溶解する可能性をもつものであった。

また、前章の最後で指摘したように、先端科学の発展は、究極的に人間とは何かの問題をも たらし、そのことが、相互を「人間」としてカテゴリー化し、同一の社会の成員として承認し 合うことで成立するという社会のあり方を根本的に問い直す契機を孕んでいた。この問いは、

コスモポリタニズム論が抱える問題と通底している。

このように、2つのポストヒューマン論は、第1に、新たな自己論の必要性、また、第2に、

「人間」というカテゴリーによって成立する社会とは何かという問題をあらたに提起している。

本論は、これから各論的に展開するポストヒューマンの社会学序説であり、その概要を示した ものである。最後に、その展開のための視点が認知社会学にあることを改めて確認しておこう。

認知社会学は、カテゴリー化の作用から自己や社会のあり方を問うものであった。その点で、

本論のタイトルにある「人間」の語られ方=カテゴリー化への注目が不可欠とされるのである。

①無縁社会、あるいは社会の消失の両義性については、(片桐 2017: ch.1.)で詳しく検討しているので参照の こと。

②AI論に限らず、ポストヒューマン論全体を扱っているものとして、(Herbrechter 2013)、(Roden 2015)、

(飯盛 2019)などがある。ただし、コスモポリタニズム論と先端科学がもたらす問題を合わせてポストヒ ューマン論の2つの柱として明確に位置づけているのは、ブライドチのポストヒューマン論(Braidotti 2013)の特徴である。

③コスモポリタニズム論全般を整理したものとして、(古河 2014)を参照のこと。

④伊藤美登里は、他に、錯綜するグローバル化の概念と差異化するためにベックがコスモポリタン化の概念 を用いていると指摘する(伊藤 2017: 131)。

⑤カーツワイルはシンギュラリティが2045年に到来するという断定的な予言をしたことが、シンギュラリテ

ィ問題をよりセンセーショナルにしたと言えるだろう。その後、AIは人間を超えるのか、それはいつなの

かといった議論は鳴り止まない(高橋 2017 参照)。また、ハラリも『サピエンス全史』の続刊である『ホ

モ・デウス』(2018)において、ホモ・サピエンス以後のポストヒューマンのあり方について詳しく論じ

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Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”