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明治期師範学校図画教員の研究 一彼らの出身学校の変遷を中心に一

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明治期師範学校図画教員の研究

一彼らの出身学校の変遷を中心に一

金 子 一 夫*

(1982年9月30日受理)

On the Drawing Teachers of Normal Schools in the Meiji Era and Their Alma Maters

Kazuo KANEKo*

(Received September 30,1982)

1. は じ め に

本稿は明治期の全国の師範学校における図画教員の変遷についての基礎的研究をまとめたもの である。筆者は数年来,明治時代の中等・高等学校の図画教員の異動を確定することに傾注して いる。今回は師範学校のそれを取り出し,第一報告的意味あいのもとに発表する。もともとこの 調査は,図画教育の実践史的研究の基礎資料づくりとして始めた。しかし,予想に反してかなり の困難と労力を伴う作業であった。そして,基礎資料として提示するにはあまりに筆者の判断が 多い仕事となった。それゆえ,若干の考察を附し一つの研究として批判を乞うことにした。

明治五年に官立の東京師範学校が設置される。それ以後,各地にさまざまな名称の教師養成の 学校がつくられた。短命に終ってしまうのであるが,東京以外にもいくつかの官立師範が設置さ れる。明治十年頃には名称も師範学校に統一されてくる。明治十九年の法令によって,それまで たくさんあった師範学校は,各府県一校の尋常師範学校と全国一校の高等師範学校に整理される。

また,この頃まで県の地割にかなり変動があって,それによって変化を余儀なくされている師範 学校もある。明治三十年の法令によって各府県の尋常師範学校は各県師範学校と改称する。また,

明治三十年代から二つ目の師範や女子師範を別置する府県も出てくる。明治三十六年に広島高等 師範,四十二年に奈良女子高等師範が設置される。明治時代の師範学校は大略以上のような変遷

をする。

それでは,その中に勤務した図画教員にはどのような変化が見られるであろうか。それを確め るのが本稿の目的である。問題は次の二点くらいに集約できるであろう。一つは何年頃から図画 専門の教員が確認できるかということである。そして彼らはいかなる場で図画を修学したかであ

*茨城大学教育学部美術科教育研究室

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る。もちろん,これらの確認には限界があり,どこまで確認できるかは学校によって違う。そ して少なくとも,その確認できる時点あたりからは一応きちんと図画が教えられたと想像できる であろう。もう一つは明治中期からそれまでの西洋画(鉛筆画)の教員の他に,日本画(毛筆画)

の教員が出てくるが,全国的にこの日本画系統の教員がどの程度の割合を占めるかという問題で ある。特に毛筆画教員の養成も目的とした東京美術学校の卒業生が,どのくらい師範学校に就任 したかを確認したい。師範学校は毛筆画教員採用を強く働きかけられた学校とされる。かなりの

@    割合で毛筆画教員に交代したらしいとされるのであるが,現在まで確認されたことがない。その 確認も本稿の目的である。

今回の調査研究にあたっては確実な資料が少なかった。明治時代の教員に関する文書が残ってい る学校はほとんどなかった。いくつかの大学に何人かの履歴と,ある県立図書館に県学務課文書 があっただけである。文書が少ないのは,昭和十八年に各府県師範が官立に移管される際,教員 に関する文書は県に返還されたためか,ほとんどの師範学校が戦災にあっていて文書等も焼 失したためと思われる。印刷発行された文献資料は,ある程度見ることができた。最も参考 にしたのは各師範の旧教員一覧表である。ただ,担当教科が記入され,勤務期間の数字も確実と 思われる旧教員表があったのは一校だけである。ほとんどの旧教員表に担当教科が記入されてい ない。そして,漢数字であるためか勤務期間が誤植,あるいは誤植と思われる場合が少なからず あった。さらに,旧教員表がなかったり,あるいは見ることができなかった学校が約十校あった。

以上のような資料事情なので,担当教科の記入されていない1日教員表から図画担当者を推定し 取出すことが主な作業となった。それは図画教員歴,あるいは図画教員となる可能性を持つ者,

すなわち美術学校・画塾の出身者,図画教科書の著者,初期洋画家などの人名を,旧教員表中に 探すことであった。旧教員表を見ることができなかった学校は,県職員録,全国教員録等で同じ 作業をした。その他,これまでの中等学校図画教員調査の過程で得られた資料も参考にした。

こうして得られたのが別表である。また,各自の絵の修学についても調査した。判明した場合 別表中に記入した。同時に主要な画塾,美術学校の出身者の各年の在勤者数を計算し,さらにそ のいくつかをグラフで表示した。すべての図画教員を完全に把握できたわけではないので,確定 表ではないが,おおよその変化は読みとることができるであろう。

今回は紙幅の関係上,初期の官立師範と明治後期に設立されたいくつかの師範については除い た。また,明治十九年の法令で,あるいはそれ以前に廃止されてしまう師範学校については,図 画教員が判明した場合のみ記入してある。論述の順序は,最初に別表をもとに師範学校図画教員 と図画教育について全体的な考察を述べてしまい,次に各校図画教員について簡単に解説する。

2.明治期師範学校図画教員と図画教育

明治五年の「小学校教師教導場建立の伺」には学科として墨画が入っている。墨画とは今言う ところの素描である1〜この小学校教師教導場は東京師範学校となる。その後設置されたいくつか の官立師範にも画学があった。官立師範ほどでないにしても,初期の各府県の教師養成学校でも 早くから画学が導入されていたと思われる。明治十年前後にはほとんどの師範学校に画学が置か

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れていたようである。そして別表を見るとわかるように,明治十年頃には既に多くの師範学校に 画学を修めた画学専門の教員がいたのである。師範学校といえどもまだ明治十年頃は図画教員は あまりいなかったのではないかとする通念からすれば,予想外のことであった。彼らは初期の洋 画塾や官立師範で洋画を学んだ者たちであった。これらの教員がいた師範学校では当時なりに充 実した図画教育が行われていたと思われる。たとえば,松井昇のいた滋賀県師範では画学専修科 が設置され,中等学校の図画教員を養成した。近藤貞義,林茂久治,山下宥などがここの出身で ある。また,画学以外も教えたのであるが,鳥取県師範の遠藤藤蔵は,第一回内国勧業博覧会

(明治十年)に自分と生徒内田玄教らの作品を出品している2)。勤務地で図画教科書を発行してい る者も多い。この頃の師範学校で具体的にどのような図画教育の方法がとられたかを示す資料は 少ない。おそらく,自分の画いた手本を模写させる場合が多かったと思われる。なかには長崎県 師範の西敬のように,洋書から必要な部分を口授した教員もいた鬼もちろん,日本画の素養のあ る教員や洋学を学んだ教員が兼担する場合もあったと思われる。二十年近くなるまで手本の模写 を監督をするだけの教育しかできなかった学校もあったらしい。

明治十四年に師範学校教則大綱が出され,中等・高等師範学科の課程に図画を置くことが明記 された。この課程があった学校では必ず図画が教えられた筈である。この頃から二十年頃までに さまざまな場で絵を修学した図画教員が,師範学校に勤務することになった。高橋由一の天絵舎,

国沢新九郎・本多錦吉郎の彰技堂,五姓田芳柳・義松の塾,中丸精十郎の塾といった洋画塾,そ れから工部美術学校,京都府画学校が図画教員の主な供給源であった。そして,明治二十年頃ま ですべて図画教育は鉛筆画すなわち西洋画あるいは西洋の図画教育を模したものを行ったと思 われる。日本画的題材を描く時でも鉛筆で描いた。洋画家でも日本画の素養があるのが普通であ るけれども,図画教育には西洋画的方法が用いられた。当時は画学・図画即西洋画と考えられて いたのである。図画教育の方法は以前と同じように手本の模写が主なものであった。しかし,明 治十七年に岡山県師範に着任した,五姓田門下の松原三五郎は実物写生を指導したらしい。それ まで模写教育しか受けなかったのでとまどったという生徒の回想が残っている4)。明治十年代にあ

って松原の方法は例外的と言うべきであろう。松原の教育は師範や中学だけではなく,岡山県と いう地域の美術の隆盛をもたらすことになる。明治二十年代に静岡県師範で杉本克次が写生とい

う言葉を唱導したらしい5も これとても写生指導のかなり早い例と言わなければならない。

一方,明治十五年あたりから徐々にフェノロサ,岡倉覚三らによって日本美術振興の運動が始 まる。図画教育にも直接的に影響が及ぶが,それが図画教育の内容さらには図画教員の採用にま で及ぶのには時間がかかった。市販の毛筆画教科書が現れるのは明治二十一年になってからであ る。日本画で教材をどのように編成するかについては,おそらくフェノロサ以外は誰も明確な理 念を持っていなかったに違いない。明治十八年に文部省が編輯した図画教科書は,浅井忠・柳源 吉筆のr小学習画帖』である。明治十九年の文部省訓令で指定された尋常師範学校の自在画教科 書も,当然このr小学習画帖』である。

もちろん,毛筆画を導入する運動は随所に行われている。早い例は東京女子師範学校のそれで ある。明治十六年に同校々長の那珂通世は同校教員に,生徒にはなるべく筆を用いさせ鉛筆は使 わせないようにと達を出している6)。これだけでは文字を書く場合のことかもしれない。が,同年 に那珂は高等女学校では鉛筆画の他に水墨画も教えるべきだと演説しているので7),図画にも筆を

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用いさせる意図と思われる。さらに,同校では日本画の教授用画帖の製作を京都府画学校に依頼 し,明治十八年一月頃その画帖が同校に発送されたという記事が残っている鳴しかし,明治十八 年八月に東京女子師範は東京師範に合併されたので,同校の毛筆画運動は中断する。もちろん,

東京女子師範の毛筆画導入の試みは,それだけ独立して行われたのでなく同校の国粋化の試みの 一環であった。

そのうち,毛筆画教員として採用される者が現れる。例外的に早いのは,明治十九年一月に石 川県師範学校で京都府画学校卒業の水野治三郎を画学校教員助手に採用した場合である。水野は金 沢区費によって京都府画学校に学んでいるので9)教員になることを義務づけられていたのかもし れない。その後は明治二十二年七月に永峰茂吉が東京府師範嘱託,二十三年に岡吉寿が高等師範 付属学校教授係補助(後に嘱託教員),岡倉覚平が女子高等師範嘱託となる。岡と岡倉は狩野芳 崖の高弟で東京美術学校第一回生として入学したが,中途で抜擢され男女高等師範に派遣された のであった1噌鉛筆画教員の中心的存在,高等師範の小山正太郎は,この毛筆画教員の採用をめ

ぐって校長の高嶺秀夫と対立し非職を命じられている。この頃から小学校の図画を毛筆画に転換 する県も出てくる。

明治二十四年七月に東京美術学校から最初の卒業が出る。すなわち,特別の課程を卒業した三 人である。特別の課程の内容ははっきりしていないのであるが,図画教員となる者のための課程 で,明治二十六年七月卒業の四期生まで二十七人の卒業生がいる。目立たないが,優秀な人材が 多かった。明治二十六年七月からは絵画科(二十九年より日本画科と改称)の卒業生も出てく る。この卒業生もほとんどが特別の課程も履習していて,かなりの割合が全国の中等学校の図画 教員となる。例外もあるが,これらの卒業生は毛筆画の教員である。それで東京美術学校卒業の 毛筆画教員が急激に増えることになる。

ここで図1を見よう。明治十五年から十八年にかけて当時の代表的な三画塾,すなわち天絵 舎,彰技堂,五姓田塾の出身者と,工部美術学校中退または修了者の師範学校図画教員が急増し

ている。やや減少するものの明治二十五年までほぼその数を維持している。三画塾は工部美術学 校の線と同じような変化をしているが,内訳はそれぞれ違う。明治十年代は天絵舎出身者が多

く,二十年代は五姓田塾出身者が多い。彰技堂は優秀な図画教員も輩出した画塾であるが,中学 校の教員が多く師範学校は少ない。十八,十九年あたりに四人いるのが最高で明治二十六年には いなくなる。ただ工部美術学校に入った西敬,守住,畠山は工部美術学校として計算した。五姓 田塾も優秀な図画教員を輩出している。明治二十六,二十七年にかけてこれらの三画塾,工部美術 学校出身の教員数はともに急に下降する。それに代って急上昇しているのが東京美術学校特別の課程 卒業生である。二十九年まで急上昇してから今度は三十一年にかけて急下降しその後は徐々に減少 する。特別の課程が急減している時に急増しているのが絵画科(日本画科)卒業生である。特別 の課程と交代するような印象を受ける。明治三十九年まで上昇しその後は減少する。特別の課程 と絵画科卒業の図画教員の増減のしかたは違うが,明治三十年代は合計二十人前後を維持する。

このグラフからすれば,明治二十五年から三十年にかけて出身に関して大きな転換が行われてい ると言える。グラフに記入されていない他の諸学校,諸画塾,個人教授,独学等の出身者を算入 しても,この転換は打消されないであろう。あまりにも明確に東京美術学校出身者が急増してい るからである。また,小山正太郎の門下生は他の画塾出身と違って,明治二十五年あたりから増

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えて明治末まで五名前後が謹務する。これはある意味で当然である。小山が若くて明治二十年頃 から不同舎としての活動が始まるからである。京都府画学校出身者は二十年,三十年代を通じて 三人か四人で一定している。これは同一人が長期間勤務しているからである。

全東京美術学校出身者

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図1 主要出身別図画教員在勤のグラフ

各年の六月時点で計算した。複数箇所に学んでいる者は原則として後の方の出身として計算.

三画塾は天絵舎,彰技堂,五姓田塾の合計.高等師範の図画教員は計算していない.

明治二十五年から三十年にかけて出身の大きな転換が行われたことによって,指導内容も大き く転換したのであろうか。つまり,鉛筆画から毛筆画へである。これは使用図画教科書や教授案 等をていねいに調査しなければ断言はできないのであるが,二十五年から三十年代前半に転換し た学校が多かったのではないかと想像する。東京美術学校は岡倉覚三らの運動によって成立し,

そこで養成されるのは「師匠(教員若クハ制作二従事スヘキ者)」である11も日本美術の再生とい う理念のもとに養成された図画教員が,例外はあるにしても毛筆画を指導しないとは考えにくい。

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また,そのような趨勢の中で在来の図画教員の中でも,毛筆画に転換したり,部分的に取入れた りする者がいたと思われる。もともとは日本画家であって洋画を少し学んで図画教員となった者 の場合は,そうしたであろう。明治二十五年を過ぎると毛筆画教科書も多数発行されている。宮 城県師範に勤めた市川力蔵は工部美術学校に学んだのであるが,日本画の素養もあり「毛筆画入 門』 (明治二十二年)という教科書を著している。おそらく師範でも毛筆画を教えたのではない かと思う。同じく工部美術学校修了の太田七郎は岩手県師範で毛筆画教科書を使用している鬼た だ,中には林竹治郎のように東京美術学校特別の課程卒業でありながら,西洋画の指導をしたの ではないかと思われる場合もある。

明治三十年代後半も,毛筆画系の教員が半数を超えていると思われるが,指導内容は鉛筆画と 毛筆画を併せて教える場合が多くなったと思われる。というのは,三十五年を過ぎるあたりから,

いわゆる教育的図画の運動が起ってくるからである。たとえば,「普通教育二於ル図画取調委員 会」や図画教育会の主張を思い浮べればよい。そして,図画教育会は他ならぬ東京美術学校が中 心となっていたのである。会の委員も日本画科出身者たちであった13〜

明治四十年代になると東京美術学校西洋画科,図画師範科卒業の図画教員が現れてくる。また 東京高等師範学校は明治三十四年に手工専修科,四十一年から図画手工専修科の卒業生を出す。

彼ら大部分は師範学校へ就職するのであるが,手工科を主に担当している。画家として名が知ら れた長谷川會一のような者でも,神奈川県師範では手工科担当である。

以上のような変遷を明治時代の師範学校の図画教員はしていると言うことができるであろう。

また,同校,同塾の出身者が連続して勤務することが多いのにも気がつくが,その具体例は別表 を参照されたい。

3.各師範学校の図画教員について

この章では各師範学校図画教員の確定作業に使った主たる資料と,確定された図画教員につい て簡単に解説する。画塾の門人名簿等共通する資料については,よく知られたものしか使用して いないので省略する。

東京(高等)師範一r創立六十年』 (昭和6年)の附録にグラフ状の教員表がある。年月の 表示はない。宮本,本多佑輔の名前と溝口の勤務期間は記入されていなかった。別表に記入した 数字は各自の履歴を参照した。

東京女子(高等)師範一一旧教員表を見ることができなかったので,同校一覧や,一部の教官 については履歴を参照した。また,r桜蔭会史』(昭和15年)とr耕霧集』(昭和6年)も参照した。

北海道師範一明治十九年以前についてはr函館県職員録』と森川清の履歴を参照。明治十九 年以後はr北海道札幌師範学校五十年史』 (昭和11年)にグラフ状の教員表がある。年月の数 字は各自の履歴を参照。工部美術学校に学んだ山口,畠山,浅井門下の飯田,そして東京美術学 校卒業の林竹治郎となる。特別の課程卒業であるが林は洋画家として名を知られ,後に札幌中学

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に移り北海道の美術教育の中心的存在となる1寵

青森県師範一r青森県師範学校一覧」(明治42年)の「創立以来ノ職員表」を利用。そ れに担当教科は記入されていないが, r青森県師範学校六拾周年記念誌』 (昭和12年)所収 の卒業生の回想によって棟方,西田,成田が図画担当であるとわかる。明治二十七年から勤務の 棟方はr青森県師範学校第三年報』(明治28年)によれば毛筆画嘱託である。松永は履歴で図 画嘱託と判明。

岩手県師範一基礎となる教員表なし。岡井と古川の勤務については旧盛岡中学校教員履歴と r岩手県職員録』を参照した。岡井は宮城師範学校同窓会の会員名簿の官立宮城師範学校卒業生 の部分に名がある。太田の勤務期間は履歴を参照した。太田は工部美術学校でサン・ジョヴァン 二に学び,優秀な人物であった。図画教員として一生を送る。

秋田県師範一r創立六十年』 (昭和8年)に葛野から岡本まで図画習字担当教官として名が 載っている。下遠野某は同書所収の卒業生の回想に出てくる。芳川と吉田は同書にないので,r東 京美術学校一覧』の卒業生の部分より推定した。岡本の師は履歴を参照した。葛野は明治二十六 年に東京で開かれた洋画沿革展示会に司馬江漢の油絵を出品した葛野伴次と同一人と思われる鬼

山形県師範一山形大学教育学部同窓会r会員名簿』 (昭和55年)の「母校旧職員」表を 利用。別表の空白部分は誰が図画教員か不明。市川,井汲の修学については履歴を参照した。井 汲はr山形同窓会第二報告』 (明治28年)に「絵画論」を発表している。その中で毛筆画に は反対したことを述べている。伊吹は図画教科書の著者なので図画担当と推定鬼

宮城県師範一宮城県師範学校同窓会r会報』第10号(昭和15年)に「創立以来ノ職員」表 あり。駒峯はその中にあるが,畠山はない。畠山は別な勤務校教員履歴中に仙台師範学校勤務の

ことが出ている。駒峯の勤務は当時の公文書等から確実である。同じ工部美術学校中退で同時期 に勤務することは,担当教科の経済上考えにくい。畠山はこれまで工部美術学校在学者とは知ら れていず,駒峯と同じ岩手県士族であるから,二人は同一人物である可能性がある。今後の調査 を待ちたい。近藤の勤務期間は履歴によって修正。小圃の師はr宮城県百科事典』を参照した。

福島県師範一r福島大学教育学部百年史』 (昭和49年)のrl日職員一覧表」を利用した。

明治二十一年以前の図画教員は,はっきりしない。溝口,広津,飯塚は同表中に出ていない。規 短期間勤めたらしく福島大学に履歴が残っている。広津はr福島県職員録』 (明治20年12月改 正)に書記兼助教諭心得・広沢正人として出ている。広津柳浪の兄17≧工部美術学校で三代のイタ

リア人教師に学んでいる。犬塚は一覧表には十八年十二月まで勤務とあるが,十九年十二月のr福 島県職員録』でも師範兼務となっている。那須も一覧表にはないけれども,r第二回内国絵画共 進会出品人略譜』(以下r出品人略譜』と略記)に師範の嘱託をしているとあったので,別表に 記入した。久保田の師の南園は父親囎

茨城県師範一教員表等の資料なし。大矢の勤務期間はr国語と国文学』第5巻7号(昭和3 年)の大矢透特集所収の年譜を参照した。画学担当はr創立九十周年記念水戸一高史』(昭和45 年)の記述からも確実。大矢は洋画を学んだことはないらしいとする人もいるが,天絵塾門人牒 に名がある。後には明治美術会賛助会員となり通常会員に混じって展覧会に出品もしている噌絵 の力量もあったと思われる。茨城県師範学校で使う図画教科書も著したらしい2『!飯塚,松本の勤 務期間は履歴を参照した。建部元一郎についてはr茨城教育家評伝』 (大正3年)を参照した。

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栃木県師範『r栃木県師範学校創立六拾年」 (昭和8年)に「旧職員名簿」あり。明治八年 から十年まで,後の群馬県師範図画教員の林盛太郎がいるが,この時点で図画を担当したかどう か不明。平野は図画教授書の著者なので図画教員と推定噌石原の師は履歴を参照。生出は不同舎 にも学んだ人であるが, r一筆画手本』という毛筆画教科書を宇都宮で出版している。

群馬県師範『職員表なし。武居の勤務は林盛太郎と飯塚忠遠の履歴から推定。林は師範在職 中に武居に学び,さらに武居の師の高橋由一に学ぶ。岡田の師と勤務期間は履歴を参照した。

千葉県師範一r創立六十周年記念千葉県師範学校沿革史』(昭和9年)に「創立以来ノ旧職 員」表あり。明治三十年より日本画の教員となる。松室の勤務期間は学習院教官履歴によって修

正。

埼玉県師範一r百年史埼玉大学教育学部』 (昭和51年)の「埼玉県師範学校教職員一覧表」

を利用。中一十,増田松之の師は履歴を参照。増田は天絵塾門人牒では増田松之助となってい る。増田は高橋由一の後,五姓田芳柳に学んだ。

東京府師範一r東京府青山師範学校一覧』 (明治42年)の職員表を使用。ただ,そこには 明治十三年以前の教員は記入されていない。そのため細田の勤務期間については東京都公文書館 所蔵の旧学務課文書で確定。同文書によれば高橋元亨は東京大学三学部画学教師であった。高橋 は西洋画も学んだと思われるけれども,r出品人略譜』には狩野景信の弟子としか出ていない。

永峰以降はずっと日本画の教員が続く。鵜川の勤務期間は履歴によって修正。

神奈川県師範一「創立六十年記念誌』 (昭和10年)に旧教職員表がある。ただし,明治三 十一年以前の図画教員の勤務期間は不明となっている。藤田,飯塚は履歴より勤務期間を確定。

脇屋元吉と山本元吉が同一人かどうかは不明。また,明治末頃新潟県に小山正太郎の門人に田中 元吉がいるが,山本元吉と同一人の可能性が強い。明治三十一年頃,岡田啓蔵が書記,千葉真弓 が訓導として勤務しているらしい。

山梨県師範一r創立六十周年記念誌』 (昭和10年)に「創立以来ノ旧職員表」あり。小坂,

松林は図画教科書の著者なので図画教員と推定碗また小坂は明治二十一年に図画の教員免許状 を得ているので図画担当は確実と思われる232

静岡県師範一教員表なし。 r創立六十周年記念誌』 (昭和10年)所収の明治十年卒業生の 回想に,図画の「遠藤先生」のことが書かれている。明治初期の静岡県で遠藤という画家兼教員 は,遠藤政徳(確山)くらいしかいない。村松と城谷は図画教科書の著者なので一応,記入241川 路,松山,木村の勤務期間は各自の履歴を参照。川路新吉郎は明治十六,十七年頃のr静岡県職 員録』を見ると新太郎という名を使っていた。杉本克次は後の牧野克次である。前章で触れたよ うに,写生を唱導したらしい。

長野県師範一r信州大学教育学部九十年史』 (昭和40年)に部分的な教員表あり。中野,

浜,河野の就職時期はr長野県教育史』第十巻(史料編)を参照。中野は長野県でr小学画学教 授書』 (明治11年)を出版している。河野は高橋由一に学んだとされ25!エ・ソチングなども手がけ

た画家である。河野通勢の父。ただ,天絵塾門人牒に名が載っていない。河野の後は日本画の教 員が続く。

岐阜県師範一r岐阜県師範学校一覧』 (明治42年)の「創立以来ノ職員」表を使用。周防 と加賀野井には画学教師の職名がついている。野口の職名は権訓導なのでこの時は画学担当でな

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かったかもしれない。平瀬は福井で加賀野井に絵を学び2〜)その後東京で高橋由一の弟子山田成章 に就いたらしい。岐阜県用の図画教科書を何冊か著している。岐阜県師範の後,理科大学の画工 となる。そこでイチョウの精子を発見して世界的に有名となる。その後,彦根中学,花園中学に 勤務した。北村森之助は従来,京都府画学校東宗卒業とされ,京都市立芸術大学の同窓会名薄や 同大のr百年史』でも東宗卒業である。しかし,岐阜大学所蔵の履歴には西宗卒業とある。本人 の履歴であることや,明治美術会の通常会員になっていることからして,西宗卒業の方が正しい ように思われる。岐阜県師範はずっと西洋画の教員が続く。

新潟県師範一r新潟県新潟師範学校沿革略誌』 (大正5年)の「創立以来ノ職員」表を利用。

小原,古橋中村には画学教師の職名がついている。古橋はr出品人略譜』に東京開成学校で洋 画を修むとある。小原は後に山口中学へ勤めたが,師等は不明。五姓田芳雄は離任後,二世五姓 田芳柳となる。後任はやはり五姓田門下の田中篤郎。田中は第一,二回内国勧業博覧会に油絵を 出品して褒賞を受けた画家。

富山県師範一r富山県師範学校創立満四十年記念誌』 (大正3年)に旧教員表あり。中村清 古はその表にないが,例のr出品人略譜』に石川県第二師範教諭書画専門の命を受けるとあるの

で記入。当時の富山の師範は石川県第二師範と称した。記念誌の表には明治十年から十一年勤務 の中村清六という者がいる。中村清古と同一人かどうかは不明。三輪は明治美術会の通常会員で あるので図画教員と推定。石倉は図画教授書の著者なので推定2な中村安太郎は記念誌では明治三 十八年より勤務とあるが,それは誤植である。彼の履歴によれば明治二十八年からの勤務。

石川県師範一教員表なし。市村,宮野の勤務については各自の履歴参照。青山,水野,宮北 の勤務期間については金沢大学教育学部の教示による。佐々木の勤務についてはr明治美術会会 員名薄』 (明治32年4月調)を参照。宮北の師及び出身校は履歴を参照した。なお,小林は履歴 に中学師範学校勤務とあるので,啓明学校勤務と思われる。小林の師,グリフィスは福井の明新 館の米人教師である2蒐

福井県師範一教員表なし。各自の履歴及びr東京美術学校一覧』より推定。野村は東京美術 学校彫刻科出身であるが,山本芳翠の生巧館で洋画を学んだこともあり,図画教員として名を知

られる。

愛知県師範一原稿状態のr愛知県第一師範学校一覧草稿』中の教員表を利用。河野はここで 図画教科書r画学階梯』 (明治11年)を出版している。野口には図画嘱託教員という職名がつい ているので,図画担当は確実である。

三重県師範一『三重県師範学校一覧』 (明治44年)の「創立以来ノ職員」表を利用。明治 二十一年以前は誰が図画教員か確定できなかった。柳田の師は平木政次r明治初期洋画壇回顧』

(昭和11年)所収の写真より五姓田と推定。田総の師はr日本美術年鑑』第2巻(明治45年)

の「日本美術家人名」を参照。田総は純粋に日本画を指導したらしい。

滋賀県師範一r滋賀県師範学校六十年史』 (昭和10年)に「旧職員名簿」あり。林と近藤 は同師範画学専修科卒業者。原態太郎は後の原撫松。高木,北垣の師は履歴を参照。北垣は女子 師範設置後はそちらに移る。画学専修科は十八ヶ月の課程である。何年頃まで存続したかは不明。

同校の同窓会名簿によれば明治十一年に画術専修科卒業が四人いるだけである。ただ,大阪府師 範学校教員となった加来栄太郎の履歴によれば,明治十四年修了の加来も画術専門部で学んだと

(10)

している。また,増野も滋賀県師範出身である可能性が強い。

京都府師範一r京都府師範学校沿革史』 (昭和13年)に職員表あり。明治二十年以前は離 任の期日が不明。不思議なことに京都府画学校卒業者は井上九衛と山下久馬太の二人しかいない。

井上松治は不同舎や黒田清輝に学んだ秋田県出身の図画教員である292竹内は毛筆画嘱託教員と しての勤務。

奈良県師範一r奈良県師範学校五十年史』 (昭和15年)に担当教科入りの教員表がある。

明治十八年に大阪府師範に合併される以前の教育についても若干の記述がある。山本の勤務期間 と師については某校所蔵履歴からの教示による。野村,久保田の師はr日本美術年鑑』 (前出)

参照。

和歌山県師範一r和歌山県師範学校同窓会誌』第27号(昭和15年)所収の「客員名簿」を 利用。高橋,中村ともに図画教科書の著者なので図画担当と推定噌中村は第一回内国絵画共進会 の出品者でもある。中村の就任後は,主に中村が図画を担当したと思われる。薗村は当時のr和 歌山県師範学校一覧』を見ると,図画と数字を担当している。的場が就任してからは,主に数学 を担当するようになる。しかし,薗村はかつて広島にいた頃石版画を描いたり,内国絵画共進会 に出品している。さらに図画科教員免許状を取得したり図画教科書の著述もあり,いわゆる素人 ではないと思われる。

大阪府師範一r大阪府師範学校沿革史略』(明治34年序)に各年の教員表がある。黒杭の 図画担当についてはr(大阪府)官員録』 (明治10年7月改)に画学教師としてあるから確定。

黒杭の勤務期間は長崎県立図書館蔵の学務課文書中の履歴を参照。三戸はr北野百年史』 (昭和 52年)の記述を参照。加島信成は大阪の初期洋画家で菱州と号した人物。守住の就任時期は河 野太郎r画人守住貫魚』(昭和46年)所収の年譜を参照。加来と山下の修学については履歴を 参照。増野は同書の表にないが,r明治美術会会員姓名録』 (明治25年)に師範勤務とある。

大阪府尋常中学校に勤務していたことは確実であるけれども,師範勤務は確証がない。松岡から 教員表に就任の月日が記入されている。松岡は石版画工として名が知られる。松原,田中と五姓 田門下が続く。両者の師を芳柳でなく義松としたのは,各自の履歴にそうなっているため。田中 は大正十年七月没。なお,大阪師範図画教員として知られる須磨英一は,官立師範勤務である。

兵庫県師範一一一r兵庫県御影師範学校創立五十周年記念誌』 (昭和3年)に旧職員表がある。

前田は初期洋画家として名を知られる。増田は埼玉県師範に既出。堀越については長崎県師範の ところで述べる。明治二十九年より日本画の教員となる。

       t

ケ取県師範一鳥取大学教育学部の同窓会名簿に簡単な旧教員表がある。遠藤藤蔵については r郷土教育の父遠藤董』 (昭和27年)を参照。遠藤の師として高橋由一が知られる。同書に よれば遠藤が高橋に就いたのは,明治十年十一月から十一年五月の間である。それ以前の 師として原一介の名がr明治十年内国勧業博覧会出品解説』に記されている31〜原は広島県師範 教員であるが,それ以前に官立広島師範の教員であった可能性が高い。そこで遠藤と接触したの ではないかと想像される。宮宇地が図画担当であることは確実であるが,師等の詳細は不明。

島根県師範一r島根県師範学校一覧』 (明治44年)の「創立以来ノ職員表」を利用。内田 の図画担当はr松江北高等学校百年史』 (昭和51年)所収の卒業生の回想によって確認。鳥取 県師範で遠藤藤蔵に学んだことは第2章で触れた。内田は松江でr物品模写法』 (明治13年)な

(11)

る書を出版しているらしい322堀,小野の師については各履歴参照。堀の師,小豆澤亮一(碧潮)

は島根県洋画の草分け的存在とされるが,言われているような高橋由一ではなく横山松三郎に学 んでいる。森本については,松江北高校の石橋幸雄氏の研究「二人の美術教師の足跡」r(松江北 高校)研究紀要』第18号(1981年)がある。

岡山県師範一r岡山師範(男子)卒業生名簿』 (昭和57年)に簡単な旧教員表がある。ただ 図画教員の勤務期間ははっきりしない。佐久間と教員表にない平野雄也については,巌津政右衛 門r岡山県美術名鑑』 (昭和5年)所収の松原三五郎の談話からの推定。松原については履歴と 岡山朝日高校の後神俊文氏の「松原三五郎」 r鳥城』Nα132,(昭和52年)を参照した。佐久 間は地理が専門と思われる。松原については第2章で触れた。

広島県師範一r広島県師範学校一覧』 (明治32年)その他の職員表を利用。原一介につい ては「尾蝿欧行漫録(五)」r同方会誌』第42号(大正5年)所収の「原一介伝」を参照し た。薗村は和歌山県師範で既出。斎藤はr明治美術会会員姓名簿』 (明治25年)に秋山姓で同 校勤務とある。中津については履歴を参照した。

山口県師範一r(山口大学教育学部)同窓会誌』 (昭和47年)の「客員名簿」を利用。r創 立六十年史』 (昭和9年)によれば明治七年は阿保友一郎が画学を兼担したらしい。それから明 治十六年まで誰が図画担当か不明。渡辺は天絵舎出身であるが,明治三十二年のr山口県師範学 校一覧』によると高学年の一部に毛筆画教科書を併用している。三十年の時点では併用していな

い。

香川県師範一教員表なし。市川の履歴,r東京美術学校一覧』, r中等教育諸学校職員録』

等より作成。西敬は明治二十七年頃までの勤務は確実であるが,離任(あるいは死亡)時期につ いては不明。三十年頃まで勤務したかもしれない。

徳島県師範一徳島大学教育学部同窓会r教学百年』 (昭和49年)所収の「創立以来の職員」

表を利用。ただ,仁木と佐香の勤務期間は当時のr徳島県職員録』によって補正。佐香の師につ いてはr出品人略譜』及び河野太郎r阿波画人名鑑』 (昭和43年)を参照。須木の師が佐香で あることは,履歴を参照。仁木が不同舎に学んだのは,勤務していない二十年から二十四年の間 と思われる。

愛媛県師範一r愛媛県師範学校一覧』 (明治33年)の「本校創立以来職員」表を利用。明 治十七年以前は誰が図画教員か不明。愛媛県師範勤務であった堀越に若き日の小林万吾が学んだ

らしい。堀越以後は日本画の教員が続く。

高知県師範一r高知県師範学校一覧』 (明治39年)所収の旧職員表を利用。明治十七年以 前は誰が図画教員か不明。西山の勤務期間は履歴によって修正。楠永は職員表にないがr楠永直 枝とその教え子展』 (昭和53年)所収の年譜を参照。神山は明治二十三年に明治美術会の通常 会員となり同会の展覧会にも出品しているので,図画担当と推定。西山の師も不明である。最初 陸軍に勤務しているので,陸軍の学校にいた洋画家に学んだのかもしれない。

福岡県師範一r福岡県福岡師範学校創立六十年誌』 (昭和11年)に簡単なグラフ状の教科 別教員表がある。しかし,かなりの空白がある。和田,宮園の詳細にっいては不明。福岡教育大 学の書類によれば吉田は明治十九年九月着任,宮園は二十年十一月より二十三年六月まで勤務と あるらしい。 r福岡県教育百年史』第2巻(資料篇)所収の明治二十一年尋常師範学校予算案中

(12)

に宮園の名だけあって,吉田はない。吉田は二十年中に離任したと思われる。また,明治二十九 年のr福岡県職員録』で宮園は同校嘱託となっている。二十三年からずっと続いて嘱託なのかど

うかは不明。久留米師範の三谷についてはr出品人略譜』を参照。片山,朝長はr新選小学画学 本』 (明治11年)の著者。

佐賀県師範『r佐賀県教育五十年史』中篇(昭和2年)に「旧新職員一覧表」がある。富野,

三上は第一回内国絵画共進会の出品者。三上は習字科の免許も持っているので,宮崎,犬塚など 図画専門の教員が着任してからは主に習字を担当したと思われる。高木,石黒は浅井忠門下。

長崎県師範一r長崎県師範学校一覧』 (大正9年)の「創立以来ノ職員」表を利用。落合,

黒杭はその表にない。しかし,県立図書館蔵学務課文書中の当時の卒業生の卒業証書の写しには 画学担当の教員として名がある。落合は第一回内国勧業博覧会に写生画を出品している。梅村は 後に東京府女子師範の手工科教員として知られる。明治二十六年に長崎でr図画教授法』を出版

しているので図画担当と推定。堀越が長崎県師範着任後,嘱託教員をした長崎医薬学予備校の教 員履歴が学務課文書にある。それによると堀越は高橋由一,小山正太郎,浅井忠に洋画を学んだ とある。天絵塾門人牒,小山の門人名簿に堀越の名はない。ただ,両塾に共通して島田季(喜)

三郎という門人がいて,堀越と同じ兵庫県士族である。この島田が堀越ではないかと思われる。

大分県師範『 r大分県師範学校一覧』 (大正7年)の旧職員表を使用。明治十八年以前は誰 が図画教員か不明。坂(大矢)の勤務期間は履歴を参照。合志はr小学画手本』の共著者なので 一応記入した。別に図画教員がいるかもしれない。内林は図画科と手工科の免許を持っているの

で図画担当と推定3亀

熊本県師範一r創立六十年』 (昭和8年)に旧職員表あり。明治十七年以前は誰が図画教員 か不明。住田は東京師範卒業であるが,小山正太郎の門人名薄に名があり,後に熊本県師範学校 長の時r小学図画教授』(明治23年)も著しているので一応,記入。石川の旧名が吉岡元造であ

るが,詳細は不明。石川以後の図画担当は確実。

宮崎県師範一r宮崎県師範学校一覧』 (明治44年)の「旧職員氏名」を利用。明治二十五年 以前ははっきりしない。松山はr東京茗渓会雑誌』百七号(明治24年)の「学事景況」に複数 の担当教科の一つに図画を挙げているので一応記入。一部を兼担しただけかもしれない。梶原,

宮宇地の詳細は不明。しかし,図画担当は確実である。

鹿児島県師範一勤務期間の入っている旧教員表は見ることができなかった。市川は履歴,浜 八百彦以後はr中等教育諸学校職員録」を参照。浜は後に女子学習院教員となる。二木と佐多に ついてはr出品人略譜』参照。

沖縄県師範一教員表なし。山口の勤務期間はr沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』 (昭和 6年)を参照。山口の師については『帝国絵画名鑑』 (大正5年・四版)を参照。明治二十九年 以前の図画教員については不明。

口       注

1)明治初期に素描の意味で墨画という言葉が使われる例は多いが,教科名としてはあまりない。

(13)

2) 『明治十年内国勧業博覧会出品目録』 (東京国立文化財研究所美術部編『明治美術基礎資料集」1975年,

所収).

3) 「師範学校生徒卒業証書授与方二付文部省へ伺ノ件」『学務課教育掛事務簿』明治15年自1月至6月

(長崎県立図書館蔵).伺の日付は明治14年11月9日。

4)井上利喜次「感想筆録1(岡山県師範学校同窓会編『創立五十年記念』1924年,所収).

5)影山勝「懐古」 (静岡県師範学校同窓会『創立六十周年記念誌』1935年,所収).

6)武村忠(編)『耕霧集』下(編者刊,1931年),39頁。同書は東京女子師範教員であった武村千佐

(耗講)の日記の抄録.

7)『東京茗渓会雑誌」第4号,1883年,28−34頁.

8)「雑報」『大日本美術新報』第15号,1884年,19頁.

9)「雑報」『大日本美術新報』第27号,1885年,15頁.

10)従来,どういうわけか岡と岡倉の派遣が明治十九年とされているが,それは考えられない。

11) 「東京美術学校規則」 『官報』第582号,1889年.

12)太田七郎「岩手県師範学校図画科授業方法取調書答案」『巌手学事量報』第647号,1903年,17−20

頁.

ユ3)金子一夫「続・日本の近代美術教育史〈3>」及び「〈5>」 『美育文化』第27巻8号及び11号,1977 年を参照されたい。

14)北海道立美術館『林竹治郎展』 (1974年)。林がいっ頃から油絵に転向したかははっきりないが,第 一回文部省展覧会に油絵を出品している。

15)神奈川県立近代美術館『神奈川県美術風土記(高橋由一篇)』 (有隣堂,1973年)附録の「洋画沿革 展覧会目録」.

16)日本美術教育連合『山形文庫目録』 (1974年)に『中学臨画帖』 (1889年)が収録されている。

17)広津和郎編『広津柳浪集』 (筑摩書房,1965年)所収の年譜参照。

18)「日本美術家人名」 『日本美術年鑑』第2巻(画報社,1912年).

19)『明治美術会第一回報告』 (1889年),同第10回(1890年),同第14回(1891年).

20)杉山司七「明治大正の図画教科書(一)」『美育』第12巻5号,1936年.

21)『小学画手本附録』 (山中八郎刊,1879年).

22)小坂『画学照景法』 (1879年), 『小学画手本』 (1882年).松林(画)・岡田(訳)『画学書』

(1878年).

23)文部省総務局文書課『教員免許台帳抄』 (1903年).

24)城谷『小学画学初歩』 (1876年),城谷・村松『小学図画新教授法』 (1883年),

25)長野県信濃美術館『河野通勢一その父と子と』 (1978年).

26)平瀬教諭謝恩会『平瀬作五郎先生小伝』 (花園中学,1925年)所収の仙石亮の弔辞参照.

27)小林寿校閲『図画教授術』 (広済堂,1888年).

28)『福井県藤島高等学校百年史』 (同校刊,1956年).

29)秋田魁新報社文化部『秋田の画人』 (秋田魁新報社,1964年),127−128頁.

30)高橋伴九皐共著『小学画学階梯』 (1878年)。中村『小学中等科画学書』 (1883年).

31)東京国立文化財研究所美術部編『明治美術基礎資料集』 (同所刊,1975年)所収.

(14)

32)『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録』第3巻(ユ963年)に同書が収録されている。しかし,現 在行方不明本になっていて見ることはできなかった。

33)文部省総務局文書課,前掲書.

(付記)

本稿執筆にあたって以下の諸機関,諸氏をはじめ多くの方の御教示及び御協力を得ました。御礼申し上 げます。

大学及び附属図書館一北海道教育大学札幌分校,引前大学,宮城教育大学,福島大学,宇都宮大学,群 馬大学,千葉大学,東京学芸大学,横浜国立大学,埼玉大学,山梨大学,静岡大学,信州大学,岐阜大学,

新潟大学,金沢大学,福井大学,愛知教育大学,三重大学,滋賀大学,奈良教育大学,和歌山大学,鳥取大 学,岡山大学,広島大学,山口大学,徳島大学,愛媛大学,高知大学,福岡教育大学,佐賀大学,大分大学,

態本大学,宮崎大学,鹿児島大学,琉球大学,お茶の水女子大学。

公立図書館一秋田県立秋田図書館,山形県立図書館,宮城県図書館,福島県立図書館群馬県立図書館,

山梨県立図書館,静岡県立図書館,新潟県立新潟図書館,富山県立図書館,金沢市立図書館,和歌山県立図 書館,鳥取県立鳥取図書館,徳島県立図書館,長崎県立図書館,島根県立図書館,鹿児島県立図書館。

その他の諸機関及び諸氏一野間教育研究所,長野県信濃美術館長の竹本春男氏,神奈川県立近代美術館 の青木茂氏,広島県立美術館の原田佳子氏,茨城県立美術博物館の藤本陽子氏,三重県師範同窓会の水谷昇 氏,福島大学助手の中村民雄氏,大阪教育大学教授の花篤実氏。

o

(15)

金子:明治期師範学校図画教員の研究      31

〈別表1>       凡  例

0校名の変遷等は繁雑になるので記入していない。廃校,設置等は縦の二本線で示した。       0括弧内の学校の略記は次の通り       ー

o実線は勤務期間を示し,両端の数字は着任と離任の年月を示す。端が矢印の場合,その時点ま     (工美画)…工部美術学校画学科        (京画西)…京都府画学校西宗

】0.11    12

での勤務が確実なことを示す。(例  ●一一一)明治10年11月に着任し,12年までは勤務確     (東美特)…東京美術学校特別の課程      (東美絵)…東京美術学校絵画科 認)       (東美日)…東京美術学校日本画科       (東美図講)…東京美術学校図画講習科

○破線はその附近で勤務したと思われる場合あるいは図画担当が不確実なことを示す。        (東美彫)…東京美術学校彫刻科        (東高師手)…東京高等師範学校手工専修科 o人名の後の括弧内は,修学校名または師の名を記入。数字は卒業または終了の年月。複数箇所     (東高師図手)…東京高等師範学校図画手工専修科(東 師)…東京師範学校

に学んだ者は,原則として後の方を記入。重要と思われる時は,前の方または複数を記入した。     (東 工)…東京職工学学校または東京工業学校 小山正太郎の門人は便宜上すべて不同舎とし,修学順に番号をつけてある。      その他は以上の要領に従って略記。

日 覇 5    6    7    8   9    10   11   12   13   14   15   16   17   18   19  20   21  22   23   24  25   26  27   28   29   30  31   32   33   34  35  36   37  38   39   40   41  42  43  44  45

1 .12 2310 浅井、 32,532.12 大5.1

東 尿

i高等) 三・ (飾Jl正寛)

12. 正太 ド( 美画 11」1 23 28.9

(前

一■一 本多 小山正 区(目」出)

師 範 7.10 溝口 一(自 .宮 三平 忠(

i.1

)松 (師.

18.9

P1上 岡吉 (自 .狩 浜徴 (東美 277) 34.11(師 野芳

38.

j ・部 五三 高師 343)

9. 18.8 京自 範に 併) 2 .7 27 2 .8 大12。10

東京女子

i高等) 佐(師.春木南漠,川上寛) 倉覚 ・(師. ・野 崖) 木悌 師.荒 寛幽

目1田貫

師 範 一 、 荒木

羅17.7 9,9( 2 .12 27.4 31. 32.9 35.7 38.11 大15.

北海道 森川清

飯田 太良 竹治 B 西 高橋 三良 次郎 (東 日2 .7)

畠山

師 範 範)

山口 次良

美画 11,) 11.12) (師.° 井,」 美特 5.7) (東 3図案.7 (東 35. (中

9. 0105 13. 0 20.12/21.8 2.11 24. 25. 0 27.6/27.9 31.3 31.4 32.1 32. 1 7.2 42.4 大2

青森県

t 範 絈p10.4

西田 心央 13.6 シ永信嗣

←1

河村

i東

逸) 東(東 治)

方角,

、、

中(東 次郎

冾Q .7)

藤(

美日 2.7)

立一

i東 日3 .7)

山崎勇馬

? 31.7

98 15.1 6.9 44.3

岩手県 師 範

岡( 益太

骼t)

β 古川鏡翁

一■■■9

4

太田 工美 16.

11. 14.9 16.7−17. 17.7 20.3/20 5 28.3/28.4 37.5

秋田県

葛野

 ●

コ遠 森1 (彰 堂174) 岡本 師.那 ロ漠 芳川 東美 25. (東 5.7)

師 範

中川

13.1 21.3 24.3 2 .7 31.1 32. 83 41.3 大12.10

山形県 ll力 (工 画1 .3) 伊吹 5.8 {干一 義一

師 範 本三 ・,中 精一 郎) (東 日3 .7) (東 日32. (東 図手

4 .3)

宮城県 2.51 .2/1 .4 1 .4 1 .7 21.4 22.1 23. 大7.3

師 範 駒峯 、臣( 美) 井璽 陸二 匡近 ヂ1・3市ll 小圃 師.渡辺文 郎, 芳柳

12菖

13. (師. 章) (師. 本, 丸)( \同 (工 画133)

189 20.7 216 31.4 大12.4

福島県 ム津 美画16.1 久保 郎(自 .久 田南 服部 東美 30.

師 範 那須

B.

塚忠 =:遠(天・) 絵舎14.3) 岡常 ● 2 29

Q

4   3

?R米蔵

4東美

、26.

10.2 15.4 16. 0 1 .21 .8 大14

茨城県 天絵舎) 忠遠 松本畠五 (彰技堂16.7) 建部元一郎(師・川村清雄,狩野友信)

師 範 絵舎  1 4.3)

U.9

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