• 検索結果がありません。

体育授業における記録の意味とその役割 *

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "体育授業における記録の意味とその役割 *"

Copied!
9
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

体育授業における記録の意味とその役割

       * チ 藤 敏 弘

(1990年9月14日受理)

On the Significance of Profiling and Its Role in Physical Education

Toshihiro KATo

(Received September 14,1990)

は じ め に

体育授業の教室は,体育館でありグランドである。そこでは,運動のしやすさと安全性が要求さ れ,他の教科の教室のように机と椅子が常設されることはない。したがって,学習者は体操服に着 替えることはあっても,鉛筆とノートを持たないのが通常である。しかし,教育活動である以上,

何らかの記録が必ずとられている。他の教科と同じように出席状況や評価のための記録は欠かすご とができないし,体力テストやスポーツテストの結果はデータとして記録され集計されている。ま た,さまざまな学習カードや記録用紙が工夫され,授業記録や学習記録として活用されている。こ のように他の教科に比べ記録がとりにくい教科でありながら,しかし,なお記録は何らかの意味と 役割を持っている。

ここでは,いわゆる授業記録や学習記録全般について論じるのではなく,特に体育授業独自の記 録の意味や役割について言及する。したがって数多くの授業記録や学習記録を直接対象とするので

はなく,体育授業の独自性から演繹によって記録の意味や役割を導き出す。

1では,体育の授業場面でどのような記録がとられているのか,また,その問題点は何かを明ら かにする。Hでは,特に運動とのかかわりから記録をとることが何を意味するのかを明らかにし,

読みについての考察をふまえて,学習者にとってどのような意義があるのかを明らかにする。皿で は,教師と学習者にとって記録がどのような役割を果たすのかを明らかにし,体育教師に課せられ た課題について言及する。

なお,本研究で述べる「体育授業」とは特に実技を中心とした内容を指しており,教室における 講義や実験などは念頭においていない。

*茨城大学教育学部保健体育講座.

(2)

1 体育授業における記録の現状と問題点

1−1 記録と人間

記録は人類の歴史とともに歩み,その足跡をしるしてきた。そして今日ではあらゆるものが記録 として後生に伝えられようとしている。一般に「記録」といった場合,その対象を問わず書きしる すことやその文書を示すが,カメラやビデオの発達によって「記録」は必ずしも文書とは限らなく なった。メディアの発達にともなって「記録」という語の指し示す範囲は拡大している。さらに,

芸術作品などのように人間によって創造されたものを「記録」と呼ぶ場合もあり,その用語の使用 も統一されてはいない。また,特に競技などの成績を表すときも「記録」といい,体育授業におい ては,むしろこの場合の使用を連想することが多い。このように「記録」という概念の外延は広が り,その形態や内容はそれこそ星の数ほど存在する。このことは「記録」という概念の内包を浮き 彫りにしている。確かにあらゆる現実が記録の対象となり得るが,「記録」はあくまで記録であり 現実そのものではない。そこには,必ず「記録」となる時点で人間の意識や意図が反映されており,

その枠組みにしたがってなんらかの手段でしるされるのである。

人間が言葉によって思惟する以上,記録の根底に流れるのはやはり言語である。したがって単に

「記録」とは言わず「なになに(の)記録」と対象を限定することによってその内容を明確にして いる。そこで,たとえばある範囲の社会でどのような記録の特徴があるのかを確かめるには,「な になに」にあたる限定詞に着目することによってある程度その特徴を絞り込むことができる。

1−2 体育授業における記録

体育に限らず,学校教育においてはさまざまな記録がとられる。授業記録,学習記録,活動記録,

個人記録,クラス日誌やグループノートなど学校という社会を特徴づける限定詞が並べられる。特 に授業についての記録は,「設計(PLAN)→実行(DO)→評価(SEE)→フィードバック(FB)→設 計2」という流れにしたがってそれぞれの段階に大別することができる。たとえ記録という語が使 用されなくても,教科書は設計段階の記録であり,黒板への板書やノートは実行段階の記録である。

テストは評価段階の記録であり,自己採点や質問の時間になされる記録はフィードバックの段階と 言える。このほか教師による授業研究のための観察記録や実践記録なども広い意味で評価の段階で あるし,自己課題解決学習などの際によく用いられる学習記録は,通常上述の各段階をふまえて記 入していくようになんらかの書式が決まっている場合が多い。

体育では,教科書が用意されているが実際はほとんど使用されることはない。現状ではそれぞれ の発育段階に応じて適切な運動量が確保されることが要求され,じっくりと教科書を使用して運動 理解の知識を深める余裕がない。そのため,特に小学校や中学校において盛んに学習カードが考案 され成果をあげている。もともと体育の授業では,運動や活動に主眼がおかれ記録がとりにくい。

動きながら鉛筆で文字を書くことは不可能であるし,定められた机や椅子もないので落ちついて記 録をとる場所も時間もない。そこで,少しでも短時間に的確にあるねらいを達成させるために場所

をとらない学習カードが工夫されているのである。

学習カードが,体育の授業実践に直接的にどんな意味があるかについて高島1)は,次のようにま

とめている。

(3)

1.からだの動きや練習方法を図示できる。

2.カードを編成して提供することによって,技能の体系や練習の順序をコントロールするこ とができる。

3.カード式にしておくことによって,学習者に選択させることができる。

4.学習カードが評価も含めた記録にもなり,これをつみ重ねていくことによって,学習の成 果の道すじも明らかにできる。

5.手軽にいつでも使え,どこにでも持ち歩ける学習カードの機能を生かす。

6.カード使いは遊びの要素を加えながら活用できる。

7.学習カードによって学習者が自ら学習の仕方・運動の学び方を学習することができる。

また,立木2)は学習カード作成のポイントを次のようにまとめている。

1.運動の特性に触れる学習カード  2.発達段階に応じた学習カード 3.自己評価能力が育つ学習カード  4.わかりやすい学習カード

5.気楽に簡単に書ける学習カード  6.いつでもどこでも活用できる学習カード 7.形成的評価のできる学習カード

このように,学習カードは教師が設定したある目的や目標を達成するための手段として学習者の 理解を深めるためのものであり,様々な工夫が要求され実際にそのカード集も出版されている3)。

また,一方で教師による教育実践記録が体育関係雑誌に数多く発表され,毎日の授業記録はその ための基礎となっている。やはりそれぞれの教師が設定した目的や目標が達成されたかどうかを教 師自身が継続的に観察し記録し,そこからさまざまな問題点や学習者への評価が導き出される。教 育実践記録はこうした授業記録や学習記録をもとに,あるテーマにしたがって授業研究の題材とし て書かれることが多く,第三者に授業の内容を伝えるばかりでなく第三者自身が実施している授業 をも振り替えさせることができる。出原4)は,「書かれていることと書かれていないことは表裏一 体なのである。書かれていることを分析・評価すること(書かれていることから読み取ること)は,

書かれていないことを読み取り,分析・評価することにつながるのである。」としている。つまり,

実践記録として書かれた時点で他の教師と共通する普遍性をもつことになり,そのためにある程度 共通した書式で書かれている。

このように体育授業におけるさまざまな記録は,記録の効率を高めるために,あらかじめ設定さ れた目的や目標にもとついて書式が決められている場合が多い。その範囲の中で学習者の理解を助 けたり教師の評価のもととなったり,授業そのものを検証したりすることができるのである。

1−3 一般化と個別化

上述のように,体育の授業では定められた書式にしたがって記録をとることが多い。学習者にと っても教師にとっても記入しやすくまとめやすいのである。したがって,目的や目標が広く達成さ れたかどうかを検討するのに適しておりそこから一般に通用する何かを導きだすことが容易となる。

しかし,このことは一方でそうした枠組みとは無関係の学習者の新しい発見や感動がとらえにくい ことを示している。

体育科学の発展にともない,体力テストやスポーツテストなどの結果に基づいた各個人の運動処

方が提示されるようになった。会員制のスポーツクラブなどでは,個人カルテを作成し各自のニー

(4)

ズに応じていろいろな運動が実施できるようになっている。もちろん学校体育においても医者のカ ルテのように継続的に学習者の変化をとらえて記録していくことが望まれている。評価のためでも あるがそれ以上に日常的で個別的な自由な記録は,学習者の全人格的な成長を助けるからである。

実際の現場では一人一人の個人調書を作成するだけの時間的な余裕はないが,それでも限りない努 力によって実践している人もいる。θ      .

このように,体育の授業では書式にとらわれない個別的な記録がとりにくい状況にある。しかし,

このことは何も体育に限ったことではない。むしろ体育だからこそこのような個別的な記録が必要 なのであり,他の教科と異なる独自の意味や役割がそこから導き出される。

皿 身体の読みと記録

H−1 体育授業の特質

体育授業については,身体運動を抜きに語ることはできない。体操やスポーツやダンスなどの領

域の内容ばかりでなく,ゲームの運営や係りの仕事なども含めて学習者のダイナミックな活動が展      ■

開される。その結果,トータルとして学習者一人一人の全人格が表出されやすく,体育教師は運動 能力や身体の特徴ばかりではなく一人一人の個性や社会性をも読みとることができる。

さらに,体育授業にはドラマがある。特にチームゲームでは,どのような結果が生まれるか全く わからないし,その時々の流れによってさまざまな事件が起こる。達成種目ではそれまで全くでき なかったさか上がりが突然できてしまうなど,本人ですら予想もしないような事件が起こるのであ

る。

このように体育授業は,全体で活動を営みながらも実は全く個別的な学習過程を経ており,個人 と集団との関わりや学習者と教師の関わりのなかで全人格的な教育活動が行われているのである。

したがって,全体としてのまとまりや見栄えのよさよりも,各個人がどのように運動に取り組んで いるのか,あるいは,そこでどのような発見や驚きがあったのかが大切なことであり,教師はその 一つ一つに意味づけをしていかなければならない。全体の記録も大切だがむしろ個人の記録がより 重要であり,記録の個別化が必要である。

H−2 二つの読み

先に述べたように記録は現実そのものではなく,人間の意識や意図を反映している。いや,むし ろ人間の意識や意図そのものであると言うこともできる。たとえば,「100mを何秒で走ったか」と いう一見客観的な記録でも,実は「メートル」や「秒」という人間によってつくりだされた単位に したがっているし,人間がつくりだす計測機器の精度によっても枠組みが変わってくる。このよう に記録が客観性を持つということは,共通の枠組みを持つということにすぎない。したがって記録 はあらゆるものやことをある枠組みで切りとることであり,読み取ることである。その読み取り方 に普遍性があるかないか,また読み取られたものやことが共通理解されるかどうかによって,記録 に意味が生まれる。

外山5)は,今まで一様と考えられてきた読みを既知を読むアルファー読みと未知を読むベータ読

(5)

みの二種類に分類し,読書の方法について述べている。アルファー読みとは,見て知っている野球 の試合の記事を読むときに代表される読み方である。既知を下敷きにしてわかる。表現そのものが 完全に理解されているかどうかは,かならずしも問題ではない。かりに,わからぬことがかなりあ っても,なお,よくわかったという印象をもつことができる。これに対してベータ読みは,学校の 教科書や新聞の社説や批評のように,アルファー読みと違って下敷きがない。文字だけを手掛りに してわかる必要がある6)。もっとも純粋なベータ読みは全く知らない外国語であり,実際はこのア ルファー読みとベータ読みの混合読みがほとんどで,アルファー読みからベータ読みへ移行させよ

うというのが,現在の教科書であるとしている。しかし,外山は現代は読みの危機が起こっている と指摘している。現代社会の印刷出版文化の急速な発達によるベータ的要素のほとんどない純粋に アルファー読みといっていいものが氾濫し,思考と新しい認識の手段となるベータ読みが失われて きているというのである。その上で昔の人が学問をする場合に用いた四書五経をいっさい説明なし にただ声を出して読ませる「素読」の有効性や古典と外国語を読むことの大切さを述べている7)。

、    体育授業においては,いったい何を読み取るのであろうか。

H−3 アルファー的運動・ベータ的運動と身体

体育授業で記録をとる際にも必ず何かが読み取られる。もちろんあらゆることがらがその何かに あてはまるが,体育授業ならではの何かが存在する。それは,身体である。運動を通して身体を読 むことが,他の教科では果たし得ない重要な読みである。この運動による身体の読みに対してもア ルファー読みとベータ読みが存在する。

人間にとって歩くことは,意識するしないに関わらず実行される。したがって単に歩くことをア ルファー的運動と呼ぶことにする。これに対してベータ的運動は,例えば水泳である。それまで,

まったく経験がないからどうしてよいか全くわからない。完全に未知なる世界であり,すぐさま泳 げるようになるとは考えられない。もちろん歩くことであってもベータ的要素は存在する。例えば 競歩には競歩独自の歩き方が存在するし,ダンスにおいて「歩くこと」が表現の一部となる場合,

意識の顕在化として独自の様式で実行される。しかし,一度体験したりできるようになった運動は アルファー的運動となり,このアルファー的運動を通してアルファー的身体の読みがなされる。そ

していつしか意識が介在しなくなり,自然に運動できるようになるのである。

しかし,体育授業があくまで人間形成に寄与するものである限り,学習者が自分自身の身体に内 在する無限の可能性を広げていくことが求められる。そのために既にアルファー的身体の読みがで

きていたとしても,それを新たなベータ的運動によってベータ的身体の読みができるようにしなけ ればならない。外山8)は,ベータ読みができるようになるためのヒントとして次のように述べてい る。「泳ぐのはたいへんだからといって,いくら畳の上で稽古していても,いつまでも泳げるよう にはならない。水に入るのがこわいから,砂場で泳こうか,などと言っているのでは話にならない。

どうせ一度は苦しい目にあわなくては泳げるようにならないのなら,ひと思いに,まるで泳げない のを承知で海の中へ突き落としてしまえ。何とか泳げるものだ。素読にはそういう読者への信頼感 をもっている。それと同時に,へたにやさしいものを読ませたりしていると,いつまでたっても,

四書五経のようなところへはたどりつけまい,という考えもある。アルファー読みからベータ読み

へ切り換えて,などといっていては,本当の読みができるようになるまでにどれほどの時間がかか

(6)

るか知れない。一挙に本丸から攻めよ。それが素読の思想である。」体育の世界にはどうやらもとも とこの素読の思想があるらしい。用意周到な体育の授業よりも,一見荒削りのような体育の授業の 中にむしろベータ的運動が要求されることが多いのも事実である。

そもそも,体育授業にはどんな展開になるか予想できないドラマ性が内在している。そのドラマ の中で巻き起こるさまざまな事件が,学習者に何らかの作用を及ぼし,その後の生活に大きく影響 を与える。運動の楽しさや喜びを体験したことがあれば,再びその体験を思い描いて運動をする。

逆に苦しみや悲しみばかりを体験していると,運動に対して嫌気がさし,新しいことに挑戦しなく なって,苦しいことに取り組む姿勢が失われる。つまり,否定的なアルファー的身体の読みが確立 してしまうと,もはやベータ的身体の読みへ移行することができなくなってしまうのである。だか らこそ,学習者にとっても教師にとってもその時々の身体の読みを記録することに意味があり,役 割があるのである。

H−4 身体の読みと表現

こうした身体の読みが前提となって書くことが可能になるが,しかしなお,その間には困難がつ きまとう。つまり,英語を読むことはできても書くことができない。聞くことができても,話すご とができないのと同様である。なんとなくわかる。何となく感じるレベルから,はっきりとした明 確な意識へと高めなければならない。それには言語が必要である。読書の場合,あらかじめ言葉で 書かれてあるため,音読みを繰り返すことによっていつしかその言葉の持つ概念を理解し,不明な ままでも使用しているうちになんとかなる。しかし,身体の読みを表現するためには,まず運動を 言葉で表現し理解できるようになることが必要であり,その上でそうした運動を通して得られた身 体に内在する自分自身の内面を意識して言語化しなければならない。こればかりは,そう簡単に表 現できるものではない。したがっておのずとイメージでとらえることや体感することが強調され,

体育教師の言葉に整合性や合理性がないように思われることも事実である。このことが体育やスポ 一ツに多くの誤解を招く原因でもある。

例えば,一般に理解されているはずの言葉が表すところの運動はいったいどこからどこまでなの かを明確に説明できる人はいない。「シュー下」といった場合,サッカーのシュートとバスケット ボールのシュートではその形態が異なるし,一連の動きのなかでしか語れない。しかし,実際はシ ユートの練習といって止まっているボールを蹴ることや,ゴールの真下から手だけを使ってシュー トをすることが繰り返される。そして,ゲームになるととたんにシュートができなくなってしまう のである。学習者が練習に忠実になればなるほどアルファー的身体の読みが蓄積され,時々刻々と

,変化するゲームの中で要求されるベータ的運動が実行できなくなってしまうのである。こうしたこ とが,学習者にベータ的身体の読みを困難なものにし,言葉で意識することなど到底不可能なこと のように思わせる原因でもある。

身体を意識化して言語によって表現することには,かなりの困難がつきまとうが,それでも我々

の身体には想像以上にすばらしい世界が存在し,今なお未知との遭遇を求める数多くの人間を虜に

している。実際は身体そのものが表現の媒体であり,100m競争を見て人々が感動するのに言葉はい

らない。それでもなお,なにげない記録が,その豊かな世界を表現することに一役かっており,そ

れによって輪が広がっていることも事実である。

(7)

皿 体育教師と記録の役割

皿一1 体育教師と教科書

体育授業では教科書が使われないことが多いが,教科書に代わってベータ読みを学習者に要求す るのが教師の役目である。言い換えれば体育教師は生きた教科書と言うことができる。

本来何の手掛りもない学習者にとって,未知なる身体を読むためには,何らかの指標が必要であ る。そこでまず体育教師のアルファー的運動やアルファー的身体の読みから得られた知識が学習者 に伝えられる。これによって学習者はイメージや知識として運動や身体をとらえる。しかし,頭で わかっても自分の身体を読んだことにはならない。素読の思想ではないが,まさに実体験しなけれ ば自分自身の身体に内在する未知を読むことはできない。そこで,運動するという実体験を通して,

単なる知識やイメージが自分のものとして消化吸収される。なかには消化不良を起こすかも知れな いが,そんなとき体育教師のベータ的運動を通してベータ的身体の読みが得られたときのヒントや 工夫が暗示される。こうして教師という教科書とのやりとりから学習者は,次第にベータ読みがで

きるようになっていくのである。

学習者が本当にベータ読みができているかどうかは,明確に言葉で言い表せるかどうかによる。

感覚的なレベルで理解していてもいつかは意識から消えてしまう。この意味で学習者にとって体育 授業において記録をとるということは,与えられた知識やイメージを,実体験を通して自分自身の 内面と対応させながら,意識化するために絶対必要な作業である。

身体に内在する豊かな世界は長年にわたって培っていなければ,一朝一夕では理解できない。体 育教師に第一に求められるのはこうした運動経験であり,身体を読む能力である。体育教師が,単 なる頭でっかちでは勤まらない由縁はここにある。そしてさらに,表現能力や学習者の身体を読む 能力が求められている。学習者は一人一人異なった時に異なった体験をする。それまでできなかっ たことが突然できるようになるなどの事件はいつ起こるかわからない。それでも体育教師は,一人 一人の個別的な事件を拾い上げて,適切なアドづイスによって意味づけをしていかなくてはならな い。体育授業では教師が全体のマネージメントにかかわる時間が多く,じっくりと記録をとる時間 的な余裕がないのは事実である。しかし,学習者の運動する姿を見てどんな事件が起こっているの か,どのような読みができるようになったのか,まさしく未知を読み取る訓練が必要である。その ためにも,教師は学習者一人一人の身体を通してほとばしる何かを記録し続けることが必要であり,

そのことがトレーニングにつながる。実際,こうした記録がなければ体育教師の言葉や行動に含蓄 が出てこないのも事実であり,笛を持って学習者を動かすことに専念する以上に,学習者一人一人 の様子や場の雰囲気などさまざまなことがらを自由にノートに記録することが大きな力となる。

皿一2 アンフォーマットな記録の一般化

学習カードは,学習者にとって未知であっても教師にとっては既知であることを手順を追って学

習者に読み取らせるためのものである。記録をとりやすくするために書式を定めていることが多い

が,これは思考の枠組みを決めることにつながる。ある目的・目標にしたがって早く的確に要点を

おさえることができまとめやすいという利点をもっているが,自由な発想や独創性を養うにはむか

ない。これに対して書式がない(アンフォーマット)記録用紙は,思考の枠組みがない。したがっ

(8)

てあらゆることに気がつく可能性があり,教師にとっても学習者にとっても未知なる世界が記述さ れることがある。上述してきたベータ的身体の読みは,こうしたアンフォーマットで自由な記録用 紙に記録される可能性が高い。

教師にとって既知であることを学習者に読みとらせようとすることは,過去を理解させようとい うものである。確かにそうした過程を経なければ,現在や未来を語れない。しかし,学習者にとっ て本当に大切なのは未来である。自由で個性的でフォーマットにのらないデータを蓄積することに よって,本当の何かか見えてくるのではないか。ノートの端に描かれる落書きは,自由で伸び伸び としている。何かをまとめようとする時も「その他」の項目が作られ,「その他」のなかに将来役 にたつ新しいヒントが隠されていることが多い。

したがって,学習カードにも必ずアンフォーマットなスペースが必要であり,そこに書かれる文 章を蓄積していくことが,未来への架け橋となる。

また,教師も授業研究や評価などを念頭におかないで,自由に気がついたことや思ったことをそ の場で書きためておくことが大切である。もちろん個人的なものであるから,記号で書いてもいっ こうに差し支えないが,あとで読んで理解できる程度にとどめ,できるだけ文章で書いておく方が よい。言語の使用は,ベータ読みのトレーニングになるからである。

毎時間教師と学習者が少しずつ記録することの積み重ねの中に,学習者にとっても教師にとって もたいへん意味のあるものが生まれてくる。記録の断片をつなぎ合わせることが,大切でありその ための工夫が必要である。こうして蓄積された個性的で個別的な記録は,それだけに留まってしま うように思われる。広く人々に共通の財産とはならないと思われる。しかし,例えば歴史的事実と いう動かしがたい記録であっても,なお,人間は自分自身の中にしかその事実を認識し得ない。阿 部9)は「私にとって歴史学はこのようなものでしたと語る以外の方法はないのです。なぜなら,私

にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって,自分の内奥と呼応しない歴史を私は理解 することはできないからです。」と述べている。このことは,アンフォーマットな個別的な記録の中 にも,十分一般化に耐え得る新たな知見や知識が存在することを表しており,毎日の体育授業のな にげない記録を大切にしていくことが,身体性に支えられた体育やスポーツの世界を広く人々に理 解させるための糧となることを示唆している。

お わ り に

体育の授業では,運動を基盤とする体操やスポーツやダンスを教材とし,ゲームや練習など様々 な活動を行う。学習者はこうした活動を通して,自分自身の身体に内在する未知なる世界を体験し,

自由な精神に喜びや悲しみを反映させながら成長していく。その結果としてそれぞれの現場で掲げ

られた目的や目標が達成されたりされなかったりするが,どのような場合であっても,あらかじめ

想定された結果だけを求めるのではなく,各個人の自由な精神を反映したきらりと光る一言を大切

にしたい。そのためには,アンフォーマットな記録を各個人ごとに蓄積し,データとして有効に機

能させるようにしなければならない。それによって記録は,第一に学習者にとって身体の意識化を

助け,第二に教師の学習者理解の鍵となり,第三に学習者や教師を問わず各個人にとって蓄積にも

(9)

とついた未来への展望を明確にし,第四に第三者にも共通の財産として活用される。

体育の授業では,文字として記録をとることに様々な制約があるので,それを克服するために最 近はビデオなどの機器が活用されている。しかし,実際にはビデオに記録しても撮りっぱなしであ ることが多く,そのビデオを整理するために膨大な時間を費やすことになってしまう。やはり記録 は意味のある文章で整理しておき,補助手段として写真やビデオを活用するのがよい。

現在,パソコンは急激に普及しており,特に場所を選ばず持ち運べるパソコンはいつでもどこで もデータを入力することを可能にした。また,ソフトウェアの開発によって数値データだけでなく 大量の文字データをも扱えるようになり,パソコン通信によって巨大なネットワークが形成されて いる。もちろん入力方法にまだまだ問題が残されているが,一人一人が一つ一つ意味のある文章を データとして蓄積し,共通の財産としていくことが可能となった。人工知能に代表される新しいコ ンピュータ時代に向けて,体育の授業における記録もしっかりと蓄積し整理していくことが,体育 授業のエキスパートシステムを構築する際の原動力となるであろう。

1)高島稔「学習カードの意義・役割」 『学校体育』41−14(1988),pp.6−9.

2)立木正「効果的な学習カード作成のポイント」 『学校体育』41−14(1988),pp.10−13.

3) 『学校体育(主体的な活動を促す学習カード集)』41−14(1988)を参照のこと。

4)出原泰明「國友先生の実践記録を読んで」 『体育科教育』37(1989),p.66.

5)外山滋比古『読書の方法』 (講談社現代新書,1981),p.86.

6)同書,P.88.

7)同書,pp.86−141を参照のこと。

8)同書,PP.128−129,

9)阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』 (筑摩書房,1988),pp.203−204.

参照

関連したドキュメント

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

体長は大きくなっても 1cm くらいで、ワラジム シに似た形で上下にやや平たくなっている。足 は 5

世界レベルでプラスチック廃棄物が問題となっている。世界におけるプラスチック生 産量の増加に従い、一次プラスチック廃棄物の発生量も 1950 年から

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

【フリーア】 CIPFA の役割の一つは、地方自治体が従うべきガイダンスをつくるというもの になっております。それもあって、我々、

夜真っ暗な中、電気をつけて夜遅くまで かけて片付けた。その時思ったのが、全 体的にボランティアの数がこの震災の規