国語教育における映像の役割
著者 大河原 忠蔵
雑誌名 奈良教育大学教育工学センター研究報告
巻 4
ページ 1‑5
発行年 1981‑03‑10
その他のタイトル How to Use the Photograph for Writing Composition
URL http://hdl.handle.net/10105/4640
国語教育における映像の役割
大河原忠蔵(国語科教育室)
How to Use the Photograph for Writing Composition Chuzo Okawara {Department of Language Education)
Abstract
The photograph can teach a point of view about something for children. When they see some‑
thing, they call to their mind what they saw in the photograph. And they concentrate their attention on it. They use special care in it. So they can find out new fact. They canwrite it in their compositions. A close up is most effective in this case.
Key words:
Point of view Closeup
(I)研究目的
一般に国語教育は、国語を正しく読み、正しく使える能力を育てる仕事と考えられている。
文章の内容を読みとる力、人の話をききとる力、自分で考えたことや調べたことを、あるまと まりをもった形で人に話し、またそれを文章に書く力などが、国語教育では問題になる。
このように、言葉の世界で終始する国語教育の中に、写真やスライド、 8ミリ、ビデオなど の映像が入りこむ余地があるだろうか。もちろん、以前から教科書にはさし絵があり、授業で は掛け図などが使われていた。それらは言葉だけでは物の形や状態が想像できないとき、その 想像を助ける役割を持っていた。映像も、従来のさし絵や掛け図と同じものとしてなら、国語 教育の中にその位置を占めることができる。そこでの映像は、現代化されたさし絵や掛け図と いうことになる。
ところが、映像は、さし絵や掛け図よりも物や場面の存在感を強く示す力を持ち、独自の働 きをする。映像は、さし絵や掛け図の段階にとどまっていない。その部分を、国語教育の中に 積極的に取り入れていくことはできないだろうか。とくに児童・生徒に文章表現をさせる場合、
映像によって、そのモチーフに刺激をあたえることはできないだろうか。たしかに、映像と言
語は、その機能が根本的なところでちがっている。その質のちがったものが、認識主体の内部
で統一され、新しい認識を生みだす契機になりえないだろうか。この点をあきらかにしようと
するのが、この研究の目的である。
(II)研究方法
はじめから一つの意図をもってつくった自作スライド「城が島」(146コマ)の刺激によって、
生徒が自分たちの日でどのように城が島をみたか。この点を、生徒の文章を分析して、あきら かにする。その場合、とくにいちじるしい特徴が見られたときは、映像が文章表現にあたえる 影響関係を原理的なところまではりさげ、それを一般化してとらえる。
つぎに、国語教育の内容を、詩、短歌、俳句、小説、ノンフィクション、評論、物語、説明 文などに分け、それぞれのジャンルと映像の結びつきについて検討する。これまで言われてき
た国語教育と映像は関係がないという見方は、大ざっぱすぎる。両者の関係は、ジャンル別に、
場合によっては、教材ごとに検討されなければならない。
(III)研究結果
1.スライドの映像と生徒の文章の関連。
スライド「城が島」に出てくるさびた把手のグローズアップが、生徒に、物を克明に見る視 点をあたえた。この把手は、戦争中海軍が使っていた建物の窓の把手で、かって若い兵士たち が、それを握ったものである。生徒は、海岸に
落ちていたわらぞうりに目を向け、克明に細部 を描写し、そのわらぞうりをはいた人の人生に 想像をめぐらす文章を書いている。この細部へ の視点は、把手のクローズアップに誘導されて おり、それをはいた人への想像は、その把手に 目を近づけた兵士の生き方に関するスライドの コメントにみちびかれている。
つぎに生徒の文章の一部をぬき出しておく−
「わらぞうりは、縦17センチ、横12センチぐら いで、卵をふくらませた形だった。槙からわら がちぎれて出ている。指をはさむと鼻緒がすぐ にほどけて、一歩でも歩けばきれそうだ。編み 目は縦に千本ぐらいある。目を近づけると、か かとより少し手前のところは、畳と同じような 編みぐあいであったが、あとの残りは、夏みか んの実がかたまったようになっていた。これは、
とってのクローズアップは、誰がどんな思 いでそのとってをにぎったかを想像させる。
古くなったためではなく、ばあさんがこれをはクローズアップは、細部の真実に目を向けさ いて、一生けんめいに働いたからだ。さわって
せるカをもつ。みると、編んだ中に鉄が入っているみたいに固かった。裏返すと、編み目は、犬の毛が水にぬ
れた感じだった。こなごなになった且や石がついていた。編み目はすりへっていて、全部がつ
ながっているようだった。表はおしんこの色をしていたが、裏は白い布地に醤油をたらした色
だった」
国語教育における映像の役割
2.クローズアップの内面性。
把手のクローズアップは、その把手を握った兵士の存在をコメントでおぎなうことによって、
それが持っている社会的意味を示しはじめる。錆びて、いまにも折れそうになっているが、そ れは島に吹きつける強い潮風に堪え、戦争を証言する力を持って、そこに存在し続けている。
その証言力は、把手の細部が拡大されるほど強力なものになる。
クローズアップの手法が使われるようになったのは、第一次大戦後で、ドイツの写真家へル マー・レルスキーの写真集「日常の顔」(1931)は、労働者の顔をクローズアップで撮影する ことにより、その労働者の苦痛と人間像をとりだすことに成功した。クローズアップは、人間 を見るときの常識的な空間の観念をこわし、対象との距離を廃棄することによって、その人間 のうちにかくされている感情や思想を記録する
ことができる。被写体は人間の顔に限らない。
写真家土門挙は、作品「どしゃぶり」(1956)
で、地面にたたきっける雨だけをクローズアッ プでとらえ、雨そのものの持つ激しさと空しさ とを鋭くとりだしている。クローズアップは、
物そのものから、その物の質感を前面にとりだ す力を持っている。
この視点が、生徒の文章表現に強く影響する。
生徒は、関心の対象になった物(例えばわらぞ うり)を執拗に追求し、それを文章に書くこと に強い意欲を持つようになる。クローズアップ の映像は、文章を書くときの着眼点を教える。
クローズアップには、見なれたものへの新しい 発見があり、その発見にたいするおどろきが生 徒の目を開く。
3.人物映像の存在感。 人の顔のクローズアップは、その人の内面 スライド「城が島」では、島の子供が多く出 を表現している。その人の生命力、気分など てくるが、その子供たちに何のコメントをっけ をよくあらわしている0
なくても、子供の表情やしぐさがスクリーンに登場するだけで、その子供の存在感が迫ってき て、生徒は自分もまた島の子供に関心を持とうとするようになる。そして、実際に、島の分校 の子供と話し合ったことを文章に書いている。その行動と視点もまた映像があたえたものと言 える。
言葉は概念をあらわす。言葉による人物の描写も、生徒の人間認識を育てるが、存在感その もので迫る映像の方が、実感をこめての人間認識に大きな影響をあたえる。そこでは映像を見 せるだけでじゅうぶんで、言葉による指示はいらない。表情の微妙なところまでをとらえきっ た映像は、それを見るものの内面に、まっすぐにとびこんでいく。そして、人間へのインタレ ストを強くいだくようになる。
4.国語の理解領域におけるジャンルと映像の関係。
文章表現に映像が有効に作用することは、すでに述べた通りであるが、理解領域の諸ジャン
ルの場合については、かなり注意深い配慮が必要である。原則的に言えることは、形象の美的
性格が強く求められているジャンルについては、その内容を映像におきかえていくことは、極 力、避けた方がいい。たとえば斎藤茂吉の短歌「死に近き母に添ひ寝のしんしんと遠田のかは づ天に聞こゆる」の天は、映像で示すことはできないし、かりに、現地の空の風景を映像で示 したとしても、それは、「天」ではない。「天」と「空」とでは、概念がちがう。空は撮影で きても、天は撮影できない。また佐々木信綱の「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひと ひらの雲」を鑑賞する場合、その塔は、裳層のついた三重の塔であり、凍れる音楽と言われて いるほどの美しい形であることを、必ずしも厳密に知らなくてもいい。とにかく、漠然と、自 分の好きな塔のイメージを思いうかべて味わえばいい。そのさい、薬師寺の塔を示す映像はい らないのである。美的形象が生命になっているジャンルでは、言葉からよびおこされるイメー ジを尊重する。自分がその言葉からえがいたイメージが絶対であり、そこに文学の鑑賞という 行為が成立するとみる。もしそこに映像を持ち込むと、映像がイメージを限定するという強い 批判を受けることになる。詩、短歌、俳句、小説、物語などのジャンルは、いずれも、形象に 美的要素が強く要求されているから、映像を使う場合は、とくに細心の注意をはらう必要があ
る。
これに対し、評論、ノンフィクション、説明文などのジャンルでは、その素材になっている もの、事実としてとりあげられているものを映像で示しても、けっして、イメージを限定する から有害であるという批判は受けない。たとえば、評論家の亀井勝一郎は、唐招提寺の円柱につ いて、ギリシャの神殿の円柱などとちがって木造だから、月の光を反射することなく、静かにす いこむといった指摘を「大和古寺風物誌」のなかに書いている。この文章の理解を深めるとき、
木造の円柱の写真、とくにその表面のクローズアップの映像は、少しも理解のさまたげになら ない。野尻湖における象の化石の発掘は、小学校5年(日本書籍)の読書教材にもなっている が、発掘現場のようすや、象の化石の映像が、その絵本をよむさいの障害になるという論は、
どこからも出てこない。小学校5年の教材に「サロマ湖の変化」(教育出版)があるが、この 説明文のために、教科書のとびらのところに、サロマ湖の広さを感じさせるカラー写真が出て いる。説明文の場合、映像は、その内容の理解を深める方向にしか働かない。
言葉と映像のかかわり方は、ジャンルによって、このようにちがってくる。国語教育におけ る映像の役割を一括して論じる従来の方法は、根本的にあらためられなければならない。
(Ⅳ)結論・今後の課題
半切版に拡大した提示写真、スライド、8ミリ、ビデオなどの教材は、子供の表現能力を育 てるのに、有効な働きをする。それらは、対象への切り込み方、その内部のとりだし方、その 特徴のみつけ方についての目を開き、書く意欲をおこさせる。子供は、その映像のみちびきに よって、何を書いていいかに気づくようになる。そのさい、クローズアップの映像は、とくに 影響力がある。
理解教材の文章をあっかうときは、ジャンル別に、その特質をよく考えたうえで、注意深く、
映像を利用する。形象の美的要素がとくに問われない文章の場合は、映像をいくら使ってもか まわない。その映像が、言葉からのイメージづくりを助ける。「映像は言葉からの自由なイメ ージを限定してしまうからよくない」という批判は、ここまでは追いかけてこない。
今後の課題として考えられることは、次の2点である。
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