ISSN 0389-5254
操縦士協会のめざすもの
(第204回理事会決議) 1. 私達の活動の目的は、 定款に定められた通り 「航空技術の向上を図り、 航空の安全確保 につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究を行い、 もって我が国航空の健全な発展を促 進する」 ことです。 2. 私達は、 定款の目的を踏まえ、 将来のあるべき姿として 「安全で誰からも信頼され、 愛 される航空を実現する」 というビジョンを描いています。 3. 私達は、 目的・ビジョンを達成するために下記を基本的指針に掲げて活動して行きます。 航空の安全文化を構築する。 (組織と個人が安全を最優先する気風や習慣を育て、 社会全体で安全意識を高めて行くこと) 地球環境と航空の発展との調和を図る。 航空に携わるものどうしが心を通わせ共存共栄を図る。第43期 (平成19年度) 重点施策
各種講習会・研究会等の実施 ヒューマン・ファクターの理解促進の具体化 安全情報の提供に対応したシステム整備 運航環境整備への積極的な参画 航空事故防止に資する取組 適切な航空医学適性の維持 協会の見解を発信していく責務 活動の活性化を図る取組 ・公益事業の推進 ・会員に対する広報・啓蒙活動等の充実 (活動への参加) ・委員会活動・支部活動の活性化 (人材の育成) ・交流の促進 (共存共栄) ・自発的安全報告制度の活性化等 協会組織運営体制の強化 ・協会の事業運営のあり方に対する継続した検討 ・会員状況の確実な把握 ・事務局体制の強化 ・規程の遵守、 理事の役割分担にもとづく効率的な組織運営 ・確実な協会監査体制の充実 ・情報管理体制の改善・強化 ・人材育成の促進を図る 専門知識を育むための海外派遣操
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協会の会員は、 下記のように分かれます。 正 会 員;協会の目的に賛同して入会された方で、 原則として操縦士技能証明をお持ちの方です。 賛助会員;協会の事業を賛助するため入会した個人または法人です。 個人賛助会員は、 満16歳以上の操 縦士技能証明を持たない方で、 法人賛助会員の資格は、 特に定めはありません。 正会員の会費;60歳未満:月額 1,700円 (内訳1,500円:協会運営費、 200円:共済費) 60歳以上:月額 1,500円:協会運営費 個人賛助会員; 月額 1,500円:協会運営費 法人賛助会員: 一口年額 50,000円:協会運営費 皆 様 の ご 入 会 を お 待 ち 致 し て お り ま す !社団法人 日本航空機操縦士協会 JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOSIATION TEL03-3501-0433 FAX03-3501-0435 E-Mail [email protected]
Home page URL http://www.japa.or.jp/
お申し込みは別途 「入会申込書」 をお送り致しますので、 事務局までご連絡下さい。 JAPAは公益法人として国土交通大臣の認可を受けた日本唯一の操縦士団体です。 目的 本協会は、 航空技術の向上を図り、 航空の安全確保につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究を 行い、 もってわが国航空の健全な発展を促進することを目的とする。 入会すると? ①協会機関誌 (AIM・PILOT誌など) の無償入手 ②航空関連商品 (書籍等) の割引購入 ③会員向け、 空港施設見学や講習会への参加 ④協会契約割引施設の利用
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●航空会館 ●JTB 日石三菱● ● 三 井 住 友 三 菱 東 京 U F J 銀 行 ● 日 本 酸 素 ● ● 森 ビ ル 20 ● 八 洲 電 気 烏森通り 至銀座 ■ 汽 車 NTTドコモ 赤 レ ン ガ 通 り 烏森口 ニ ュ ー 新 橋 ビ ル キムラヤ● 至品川 そ ば や ● カ フ ェ ・ ベ ロ ー チ ェ ● 西 高 楼 飯 店 至虎ノ門 入 口 は こ ち ら 側 に あ り ま す小
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社団日本航空機操縦士協会
4 今、 「セピア色の昭和」 を想う 副会長 増田 奉和 6 特集 シニア・パイロットのエピソード (第18回) パイロットの真打、講談師になる! 第2次大戦の 「語り部」 として生きる 塚越 朝紀 14 JAPA・航空4社主催の1982年 国際航空シンポジウムの講演録再掲 2000年以降の、 新しい航空機と燃料の可能性 ウイリス M. ホーキンス 25 寄稿 モンゴルの航空事情 山本 輝雄 31 航空機運航と地球環境問題座談会 第1回 運航技術委員会地球環境問題分科会 42 GA:ジェネアビ情報 小型機の運航費用 奥貫 博48 World Safety Report
CALLBACK Number225 56 航空安全講習会の実施状況について 吉田 徹 62 航空医学適性のQ&A 健康管理について考えてみよう! 第5回 かぜ薬・花粉症の薬は飲んでも大丈夫 ですか? 三浦 靖彦 66 そらのみちくさ ―雑食性パイロットの飛行カバンから― 湧井カレン
No.307 2008 No.2 MAR
69 航空史曼陀羅 その22. 関東大震災と航空支援活動 徳田 忠成 75 パイロットへの道 日本とフランスの違い ドゥゴベール・アラン 77 空の交差点 パイロットのはなし 念のため ③ 寝坊パイロット 79 地球環境問題関連用語の解説 15 80 FAI ニュース 奥貫 博 81 開催予告 オーストラリア、 ジェネラル・アビエーション (G/A) 視察旅行 82 わが国のジェネラル・アビエーションを 考える 84 JAPA 通信 87 JAPA SHOP 88 オススメ!情報ボックス 書籍 & Goods 紹介 89 JAPA で飛行訓練を! JAPA のシミュレーター Flight Training Device
FTD 訓練室
90 JAPA Aerial Photo Exhibition 92 編集後記
「日本航空機操縦士協会の目指すもの」 の基 本方針に、 地球環境と航空の発展との調和を図 る、 があります。 最近、 あらゆる産業において、 航空界は勿論、 地球環境への対応が求められています。 日本の 航空界が飛躍的に発展したのは昭和になってか らです。 私の昭和時代を、 当時の環境を今一度思い出 しながら……。 徒然草序文に、“つれづれなるままに、 日ぐ らし硯にむかひて∼”、 とありますが、 今回は 専門分野を離れ、 心に移りゆく子供の頃の疎開 先のお話でもと、 筆をとりました。 巻頭言とし てのかたちにはなりにくい内容ですがご容赦い ただき、 一服時にでも、 目を通していただけれ ばと思います。 その昔、 祖父は都内で町工場を経営しており、 隼戦闘機のエンジンの部品を造っていたらしい。 工場敷地に隣接して我が家はあったが、 昭和20 年3月の東京大空襲前に蒸気機関車で上野から 1時間ほどの郊外、 現在の千葉県我孫子市へ一 族で脱出、 疎開である。 二歳にもならない私には、 もとよりそのあた りの記憶は一切ないが、 以来、 この地に20年ほ ど住むことになる。 我孫子には、 周囲の地形から一段低くなって いるところに、 広大で自然豊かな湖沼、 手賀沼 が在る。 メダカなど小魚が生息する多くの小川 の水が、 沼に注ぎ込まれている。 周辺には田畑が広がり、 茅葺屋根の農家が点 在、 静寂に包まれた水田地帯の一角に水神様を 祭った神社がひっそりと佇んでいる。 当時、 童謡に歌われていた田園風景そのもの が沼周辺にはあった。 手賀沼の漁はコイ、 フナ、 それに佃煮にされ る雑魚を主としていた。 張網 (定置網の一種) と船曳網漁が多い。 湖岸は隙間なく葦で埋め尽 くされている。 その一角を刈り込んでつくった船溜まりには、 竹竿を湖底に差して漕ぐ小振りの木造船が繋い である。 水深は平均で2メートルほどであったろうか、 少し浅いところでは底の砂地が見え、 透明度は 悪くない。 夏場はこの船を無断借用することが多い。 湖底を足で探れば、 通称“たまっけ”(カラ ス貝) がつま先にあたる。 長径20cm を越えるのもある。 食したことは ないが、 貝の内側全面が光沢ある美しい真珠色 をしている。 そこに絵の具で風景などを描き、 紐を通し壁 に掛けると上等なインテリアの出来上がりとな る。 水中に潜って魚を見つけたり、 水面の水鳥の 親子を追いかけては遊ぶ。 四つ手網や手作りの投網で魚を捕り、 フナや ウナギ釣りにも熱中。 強風が吹き、 湖底の砂や土が舞上がって湖面 が茶色に濁ってくると、 岸辺からもウナギがよ く釣れる。 日が暮れるとカーバイトを焚いた照明を持っ て田に入り、 柄に数十本の針が付いた道具でド ジョウを刺して捕る。 今は柳川鍋として珍重されているが、 当時は おもしろいほどよく捕れた。 豊富に捕れたエビ ガニ (アメリカザリガニ) などと共に、 農薬使
副 会 長
増
田
奉
和
今、 「セピア色の昭和」を想う
用がなかった時代の、 安全で美味しい自然の恵 みである。 ボート屋の息子である友人とヨットで一日か けて沼を往復したこともある。 冬には、 沼全域が結氷、 場所によっては氷の 厚さが2センチにもなる年がある。 砕氷船よろしく沖に漕ぎ出したはいいが、 氷 との衝撃でボートの底が壊れて浸水が始まり、 必死で岸にたどり着いたことがある。 湖岸から畦道を歩き、 やがて広くなった坂道 を登りつめると一面の雑木林にでる。 ワラビ、 ゼンマイ、 キノコなどの山菜もよく 採れ、 高い木々の間をムササビが行き来してい るのが観察でき、 自然満載のエリアだ。 当時の手賀沼は東西十数キロ、 南北の幅は広 いところで一キロほどあり、 沼というより湖の 様相を呈していた。 その後、 東部地域の干拓工事が進み、 沼は半 分以下の面積になっていると聞く。 1970年代に、 高度成長での宅地開発が急速に 進み、 農地や山林の減少に伴い、 生活排水、 産 業排水が入り込むことによる水質汚染が進んだ。 以降、 27年間にわたり、 全国の湖沼での水質汚 濁ワーストワンという、 ありがたくないレッテ ルが張られる。 行政と市民の連携で水質改善に力を注いでき た結果、 平成18年にはワースト11位まで順位を 上げている。 自然を一度壊してしまうと、 回復には多大な 時間と費用を要するということが実感される。 かつて、 我孫子は北の鎌倉と称され、 手賀沼 を望む場所には、 志賀直哉や武者小路実篤など が住んでいた文人ゆかりの地である。 志賀直哉は大正4年から8年ほど居住し、 い くつかの短編、 中編小説、 それと暗夜行路の前 編を執筆している。 降るような星空の下で蛍をとりに行った時、 叔父が星座を教えてくれ、 その美しさに感動。 後年、 コックピットで夜空を眺めた時、 あらた めて星空に魅了された。 以来、 車に望遠鏡とキャンプ用具を積み、 家 族や仲間と流星群や、 21年前にはハレー彗星を 観に行った。 好きな登山で、 山頂から見る星に仲間が言っ た。 これがまさにマウンテン=満天の星だと。 このことが、 ダジャレに染まった原因かもし れない?。 しばらく、 グループ会社に出向したことがあ る。 本体に戻るときに仲間からハガキやメモをい ただいた。 「ダジャレが楽しかった」。 「もう少 し頑張ればもっと受けますよ」 など。 それはそれで嬉しかったのだが……みなさん が 「仕事が楽しくできました」 と締めくくって あったので、 これはこれで是であろうと。 現代の大量生産、 大量消費、 大量廃棄の社会 経済活動や生活様式を見直そうと、 地球環境の 改善努力が世界規模で実践され始めている。 日本がステアリングをとり環境改善の牽引役 になることが望ましいと思う。 自然に対抗し続けることによる発展は、 どこ かで負の形で戻ってくるようだ。 昔を懐かしがっているわけではないが、 自然 との共生は、 私たちが取り組んでいかなければ ならない最重要課題の一つとなっている。 昔も よかったが、 今はもっといいなという時代にし ていければと思う。 いま当操縦士協会では、 運航技術委員会等々 で航空界を取り巻く地球環境問題について取組 んでいますが、 私が経験したセピア色の昭和時 代に想いを馳せつつ、 環境の世紀といわれる21 世 紀 の 持 続 的 発 展 (Sustainability Develop-ment) のために、 それぞれで今話題となって いる CO2削減への努力が求められています。
徳田:塚越さんの履歴を拝見しますと、 正に戦 前戦後を逞しく生き抜かれたパイロットの典型 ですね。 まずパイロットになられた動機からお 聞かせ下さい。 塚越:昭和12年4月の神風号の亜欧連絡飛行の 成功(注1) は、 日本中を沸かせましたが、 その時 に飯沼飛行士と同乗した塚越賢爾機関士は、 同 郷群馬県で私の遠い親戚です。 私もわが事のよ うに嬉しかったですね。 満開の桜の中で号外の鈴を聞いたことを、 今 でも鮮明に覚えています。 当時、 旧制中学の5 年でしたがね、 この時“オレも飛行機乗りにな ろう”と決心しました。 徳田:神風号の2人は英雄でしたからね。 全国 の青少年が大いに刺激されて、 空への道を志し たと聞いています。 塚越:それで熟慮の末、 陸軍士官学校を受験し て幸いに合格し、 市谷の予科を経て陸軍航空士 官学校(注2) へ行くことができたのです。 バタ (注:陸軍歩兵の蔑称) だけはなりたくないと 願っていましたが、 幸い希望どおりでした。 陸 士55期は2,346名でしたが、 この内、 636名が空 へ行き、 操縦が340名で他は適性などで技術、 通信へいきました。 さらに340名のうち戦闘機が140名でした。 そ して士官学校卒業後の戦闘機要員は明野陸軍飛 行学校(注3) へ行きました。 有名な軍神・加藤隼 戦闘隊長も学んだところです。 徳田:航空士官学校と明野での訓練機種を教え てください。 塚越:最初から350馬力の95式型中間練習機 (キ9)、 俗に 「赤とんぼ」 でした。 我々の後か ら150馬力エンジン装備の95式型 (キ17) が 初級練習機として投入されたのです。 この頃の パイロットは全員これで練習しましたね。 これ を修了後、 99高等練習機 (キ55) とノモンハン で活躍した97戦 (キ27) をやって明野へ行きま した。 ここでは半年間、 97戦での実戦を模した 訓練でした。 徳田:明野を昭和17年9月にご卒業の後、 いよ いよ実戦部隊へ赴任されたのですね。 丁度、 ミッ ドウェイ海戦で敗退し、 ソロモン諸島で激戦が 展開されている頃ですか。 塚越:私は関東軍が展開している満州のチチハ ルの北・竜鎮の飛行第77戦隊へ赴任しました。 同日付で飛行第26戦隊へ移りました。 飛行機は 97戦です。 この戦隊は軽爆2個中隊との混成戦 隊で、 チチハルで戦闘訓練をやって前線へ出て いったのです。 クラーク、 マニラ、 パレンバン、 ハノイ、 アンダマン、 マニラなどを転戦し、 終 戦までの2年10ヶ月間を南方で暮らしました。 その多くは地域防空と練成訓練に明け暮れま した。 何回か敵機と相対し、 敵艦攻撃や飛行場 攻撃をやって、 部隊としては相当の戦果をあげ ることが出来たのですが、 私個人としては、 確 実な戦果はありません。 ですから明野で徹底し
神風号に刺激されて
陸軍航空士官学校から明野へ
レイテ海戦に出撃
特 集
昭和40年、 44歳 2007年11月、 87歳パイロットの真打、講談師になる!
第2次大戦の
「語り部」 として生きる
塚
塚越
越
朝
朝紀
紀
(
(第
第1
18
8回
回)
)
て学んだ 「不惜身命、 見敵必殺」 ではないので すよ。 只、 19年秋のレイテは激しかった。 徳田:レイテ海戦(注4) で日本陸海軍は壊滅的打 撃を受けましたね。 塚越:そうだね。 このとき私は、 フィリピン中 部のネグロス島ファブリカから数回に亘って出 撃し、 飛行場や船舶を攻撃しました。 この時は 隼1機でグラマン F6F ヘルキャット12機と対 戦、 操縦桿の根元に被弾して、 昇降舵と補助翼 がまったく利かなくなり、 方向舵だけになった のです。 機は大きな弧を描きながら勝手に降下 しだしたが、 敵は容赦なく撃ってくる。 それで 方向舵だけで、 懸命に機体を横滑りさせて射弾 を回避しました。 そして高度300mで落下傘降 下したのです。 よく助かったと思っています。 2ヶ月のレイテ海戦で戦隊は数機を残すのみ となったのですが、 この間に挙げた戦果は、 空 中戦と飛行場攻撃で百機を超えています。 そし て26戦隊は戦力回復のために明野へ引き揚げま した。 新戦隊長を迎え、 補充パイロットは特 操(注5) の1期、 飛行機は隼型で再びシンガポー ルへ進出しました。 先ず戦隊長以下の主力が先 発、 しかし、 飛行機の生産が間に合わず、 私以 下8機が1ヶ月遅れて出発、 その途上、 上海で 8飛行師団への転属命令が下り、 台湾の花蓮港 と台東に着任、 直ちに練成訓練に入ったのです。 20年3月末でした。 7月にはシンガポールにい た本隊も花蓮港に集結しました。 そして、 ここ で防空と沖縄攻撃に任じたのです。 徳田:まさに緊張の渦中にあったのですが、 毎 日が生きるか死ぬかの壮絶な日々の思い出をお 聞かせください。 塚越:この時期には多くの戦友を失いました。 とくに記憶に鮮明な特攻の始まりの話をしましょ う。 26戦隊はパレンバンに展開していました。 そして私以下5機が派遣されてハノイの防空、 それからアンダマンのポートプレアで防空にあ たっていました。 19年4月14日のことでした。 ポートプレア港に入港する松川丸、 それに駆逐 艇1隻、 掃海艇2隻の船団護衛を命ぜられまし た。 松川丸は約4,000トンの優秀船で、 兵員 1,300名と武器・弾薬・食料・資材を満載し、 シンガポールからマラッカ海峡を経てこの日正 午、 ポートプレアに入港する予定でした。 幸いに天気晴朗、 早朝より1時間交替で50キ ロ爆弾を装備した隼1機で監視護衛にあたって いたのです。 私が一番手で哨戒、 そして1時間 が過ぎ、 次の石川曹長と任務を交替、 着陸して ピストで一服していると、 海岸の監視哨から 「飛行機が墜落!」 と電話があり、 直ちに私は 離陸して現場に急行しました。 上空からの船団 は無事だったが、 「の」 の字の回避運動をして いる。 魚雷攻撃を受けたらしいが、 石川機が見 えない。 事情が飲み込めぬまま引き返したので す。 幸いに船団は、 無事にポートプレア港に入 港したので、 そこからの情報を待っていました。 ややあってピストに黄色い旗を付けた将官の 乗用車が止まり、 旅団長らしき人が降りてくる なり、 いきなり 「有難う、 有難う。 お陰で全員 無事、 現在資材揚陸中である」 と言われたので す。 事情を聞いて、 石川曹長の壮絶な死が分か りました。 松川丸がポートプレア港に近づき、 もう大丈夫と思われた頃、 魚雷3発が松川丸へ 向かってきたらしい。 松川丸は取舵一杯で甲板上の物が転げ落ちる ほどの急旋回をして回避操作をしたが、 魚雷の 一発が必中と見えた。 その時に石川曹長は魚雷 に体当たりして、 この危機を救ったのです。 も し、 その場に僕がいたら、 はたして石川曹長の
石川清雄曹長の殊勲
レイテ海戦後の明野陸軍飛行学校にて (前列左端が 塚越さん、 昭和20年1月)ような行動がとれただろうかと忸怩たるものが ありました。 彼は2階級特進して少尉に任ぜら れました。 徳田:まだ特攻が組織的に開始される前の話で すね。 このような話は決して風化させてはいけ ないと思いますが、 残念ながら半年後の捷1号 作戦(注6) 、 つまりレイテ海戦で特攻が始動され ましたね。 塚越:、 戦争末期、 花蓮港の飛行第26戦隊から、 沖縄へ向けて特攻4機を出すことになりました。 私がその誘導・援護・戦果確認の役を買って出 まして、 5機編隊の長機として出発しました。 ところが特攻機4機のうち2機に故障発生、 加 えて、 途上に熱帯性低気圧らしきものが発生し て雷雲の帯です。 私の判断で引き返し、 爆弾を 洋上に棄てて着陸しました。 戦争末期の昭和20 年8月10日のことでした。 徳田:その5日後に終戦になりました。 塚越:残念でした。 しかし、 幸いに場所が台湾 でしたから治安もよかったのですが、 何時帰国 できるか分からないので、 9ヶ月間は自活すべ く農地を開拓して農業をやって過ごしました。 そして翌21年5月に復員、 鹿児島に上陸して群 馬へ帰ったのです。 徳田:終戦後の日本は何処でも大変な生活苦で したが、 郷里は如何でしたか。 塚越:公職追放の最中で生活は困窮し大変でし た。 地元の農業開拓に従事しました。 榛名山々 麓の標高600mもの山地の開墾です。 国の政策 によるもので、 慣れない筋肉労働を5年半ほど やったのですが、 生活は楽にならない。 それで 思い切って東京に出て、 しばらくニコヨン(注7) をやりました。 ある時、 道端でフンドシ一つで水道管の埋設 工事をやっていたら、 通りすがりの子連れの母 親が 「見なさい、 勉強しないと、 あんな風にな るのよ、 可哀想だね」 と言うのが聞こえてきて 流石に愕然としたね、 ハッハハ……。 これを2 ヶ月間ほどやって、 もう少しましな仕事はない ものかと、 職業安定所の職員に相談したところ、 “軍隊の経験があるんでしたら、 こんな募集が ありますよ”という訳で、 米第5空軍立川基地 憲兵隊へ応募し、 勤務するようになったのです。 徳田:当時の立川基地は FEMCOM (極東空 軍資材司令部) があり、 米第5空軍の輸送部隊 が展開していましたね。 塚 越 : そ う そ う 。 そ の 輸 送 部 隊 の Security Guard (SG)、 つまり基地の警備員をしました。 独身寮は完備しており、 衣服は支給されて生活 は安定していたし、 おまけに英語は実地に勉強 できる環境で具合がよかった。 面白いこともあったよ。 カービン銃射撃競技 大会があってね、 在日米 ARMY 代表、 警察予 備隊(注8) 代表、 全 SG 代表が競って、 入賞した こともある。 予備隊からはオリンピック選手も 出ていたね。 その内、 朝鮮戦争が勃発してね、 立川は朝鮮 への資材補給や傷病兵や遺体後送などの兵站空 輸基地になり、 飛行機の整備の助っ人の公募が あったのです。 私は整備の経験などなかったけ れど、 ゼロということはないので、 これに応募 しました。 40人ほどが受験して、 かなりの整備 のベテランがいたようだけど、 筆記試験の結果、 9人合格して私が一番だった。 30問の〇×式で 性能、 装備、 空気力学、 気象など航空全般の問 題だったことが幸いしたようです。 それで班長になって働いたのですが、 年末の ある寒い日、 点検に入ったダグラス C-124 「グ ローブマスター」 (注:日本名 「地球の主」 で、 当時、 世界最大の輸送機) の主車輪を外すのに、 米兵の整備員どもが手こずっているのを、 見か ねた私は隊長に 「我々日本人にやらせたら外し てやる」 と引き受けたことがあったのです。 外 れない原因は、 車輪のグリスが凍り付いている からだと判断したんだね。 それで皆で取り掛か
台湾の花蓮港で終戦
山地開墾の日々
米第5空軍立川基地勤務の思い出
り、 熱風を当ててグリスを溶かして外すのに成 功した。 不安げに見守っていた隊長たち整備兵 は大喜びでね、 100ドルずつボーナスを貰った ことがある。 整備の助っ人は約2年間やりまし た。 徳田:その後、 いよいよ日航へ入社される訳で すか。 塚越:それから、 その隊長と懇意になって自宅 へ招待されたこともあります。 丁度その頃、 日 航のパイロット経験者の募集があってね。 隊長 にこの話をしたら喜んでくれて、“是非、 受け なさい”と言って、 分厚い C-54 (注:民間型 は DC-4) の Maintenance Manual を見せてく れた。 日航は DC-4 を使用していたから、 これ は具合がいいと思い、 その General を借りて きて予備知識を蓄えて日航を受験したのです。 徳田:日航入社後、 およそ9年ぶりに宮崎の航 空大学校で操縦桿を握られたのですね。 塚越:そうです。 専修科として半年ほど再訓練 をしました。 昔を思い出しながらね。 それまで の日航は旧大日本航空出身者を採用していまし たが、 我々のときに初めて戦前の経験者の一般 公募をしたのです。 そこで試験を受けて、 最後 に新橋にあった日航本社で役員面接がありまし た。 松尾専務から 「戦闘機の機長と旅客機の機長 はどう違うと思うかね?」 と質問された時はチョッ ト戸惑った。 想定してなかったものでね。 それ で咄嗟に 「戦闘機の場合は、 異常事態になった 時は、 人事を尽くして最後は自爆するように教 わりました。 しかし、 旅客機の場合は、 人事を 尽くすことは同じでも、 乗客のために、 例え飛 行場ではなくても、 とにかく安全に地上に降り なければならない。 ですから戦闘機のパイロッ トよりも厳しいと思います」 と言ったのだけど、 正解だったと思う。 それで合格して29年2月に入社、 パイロット 4期生として航空大学校の専修科を経て、 先ず DC-4 の F/O か ら 始 ま っ て DC-6 、 DC-7 、 CV-880、 DC-8 の機長、 教育、 訓練、 審査を担 当したのです。 昭和49年に南西航空 (後、 JTA;Japan Trans Ocean に社名変更) へ技術担当役員と して出向しました。 それまで YS-11で運航し ていたものをジェット化するためです。 以来、 約11年間を沖縄で暮らしました。 機種 の選定から始まって、 53年には B737-200型機 が那覇−宮古島に無事に就航しました。 代表取 締役専務から引き続き常勤顧問をやり、 平成元 年、 68歳で退職したのです。 忙しかったけれど、 温かいので居心地がよかったですね。 好きな魚 釣りでは大物も釣り上げました。 徳田:乗務中のエピソードが沢山おありと思い ますが。 塚越:DC-4の頃で飛行中、 「赤ちゃんが泣いて 泣いて仕様がないから、 何とかなりませんか」 とスチュワーデスが困惑顔でコックピットへ入っ てきてね、 周囲のお客さんも迷惑そうな顔をし ているという。“赤ちゃんをあやすことなど出 来ない”と思ったのだけど、 とにかく後ろへ行っ て見たんだね。 若いお母さんがほとほと困った 顔をしていた。 その凄い泣き方を見て私はピン ときたね。 「お母さん、 一緒にトイレへ行って 赤ちゃんを裸にしてごらんなさい」。 それで裸 にしたところ、 お母さんのヘヤピンが赤ちゃん の胸に刺さっていた。 僕の勘が当たって、 それ
戦闘機と旅客機の操縦の違いは?
赤ちゃんが泣く原因?
藤沢飛行場で訓練中の塚越さん (左端、 昭29年5月)を取ったらケロッと泣き止んだ。 もう一つ思いで話をしましょう。 CV-880の 機長として乗務中、 香港から米国行きの中国人 難民を乗せていた時だった。 飛行半ばで困惑顔 のパーサーがコックピットに入ってきて、 「す べてのトイレが詰まってしまいました」 と、 嘆 いているんだね。 後ろへ行って見たら、 なるほ ど全トイレが流れない。“ははーん、 これは何 も知らない乗客が、 ペーパー・タオルやおしぼ りを入れてしまったのが原因だな”と思ったの です。 たまたま出先での余暇に魚釣りをやるた めに、 釣り道具を携帯していた。 それを引っ張 り出して、 釣り糸に針を付けて便器の中へ入れ て、 おしぼりを釣り上げたら途端に流れだした。 スチュワーデスたちにも同じことをやらせて、 全部直ってしまったよ。 徳田:戦時の戦闘機パイロットとしての日常は 別にして、 日航でのヒヤリハットをお聞かせく ださい。 塚越:私が CV-880の主席兼教官をやっていた 昭和40年頃だったね。 数名の機長昇格訓練を集 中的におこなうため、 機体をロスアンゼルス空 港に置き、 整備を UAL に委託して訓練をして いた。 場所はベイカーズフィールドの東側、 近 くには航空ショーでおなじみのモハベ砂漠やエ ドワーズ空軍基地のあるところです。 訓練生A 君が機長席、 私が右席、 B君はオブザーブ席で、 標高約8,000ft の山岳地帯上空、 高度14,500ft で Air Work を 開 始 し た の で す 。 Yaw Damper は Off、 Landing Configuration での Approach to Stall で ね 、 ご 存 知 の よ う に Buffet がくるまで高度維持が必要なんだけど、 ここでA君はずるずるっと200ft 下がってしまっ た。 私が 「高度っ!」 と注意すると、 A君はあわ て て 操 縦 輪 を 引 い た た め 、 「 ド ッ ド ッ 」 と Complete Stall に 入 っ た 。 A 君 は 直 ち に 「Gear Up、 Flap30°」 と Order、 私が操作し ながら右手を伸ばして全エンジンを全開にした。 ところが機体はユックリと右に Roll し始めま した。 ヒョッと見ると NO.4 エンジンの Lever が残っている。 私は 「離せっ!」 と言いながら Control を Take Over し、 All Engine Lever を Idle として Yaw Damper SW を ON、 この 時すでに機体は背面に近かったね。 Rolling を 止 め る た め に 、 咄 嗟 の 思 い つ き で NO.4 Engine Lever を一瞬ふかしたのです。
Roll は 元 に 戻 っ た も の の 、 今 度 は 30 ° の Dive 姿勢である。 すぐさま左手を伸ばして Speed Brake (Spoiler) を 全 開 に し 、 Flap 30°時の制限速度230kts を守りながら、 ゆっ くりと機首を上げて水平姿勢に戻しました。 続 いて通常の上昇出力で元の14,500ft に戻ったの
大型輸送機 CV880でアクロバット
CV-880型機を背景に (日航の宣伝用) CV-880型機教官時代 (左側は松井巌さん)です。 この時、 高度は4,000ft 位下がったと思 います。 山岳地帯の松林が近くに見えたね。 A 君もB君も F/E も放心状態で、 私も我に返っ てゾーッとしました。 後から考えて、 これほど手際よくやることが 出来たのは、 かつて戦闘機乗りでアクロバット のような異常姿勢は、 まったく気にしない世界 に生きていたからだと思いますね。 徳田:くも膜下出血で倒れられてからの、 正に 起死回生の生き様をお聞かせください。 塚越:沖縄から緑区にある終の住 すみ 処 か へ帰ってき て、 気ままに好きな釣りや家庭菜園などをやっ ていたのです。 そして突然、 平成5年9月17日 に倒れました。 緊急入院して開頭手術し、 九死 に一生を得たものの言語障害が残ったのです。 72歳の時だった。 今から考えると現役を退いたあとは、 なまじっ か体に自信があるものだから、 まったく自分か ら定期的に身体検査をやることもなかったとこ ろ、 いつの間にか血圧が180にもなっていたの です。 健康を過信していたのだね。 言語障害で悩んでいたところ、 知り合いの医 者が、 「その程度の病状だったらリハビリで良 く な り ま す よ 」 と 言 わ れ て 、 彼 が 提 示 し た Know How を懸命に続けました。 簡単にいう と、 興味のある本を繰り返し読んで頭に入れる。 次に原稿用紙6枚にまとめて、 それを10分間で 人に話す。 つまり読む・書く・話すの連鎖が、 脳の活性化になるという訳です。 半年ほど忠実 にやったら殆ど完治しました。 そうしたら今度 は欲が出て、 第2作、 第3作と続けることになっ たのです。 徳田:いよいよ 「語り部」 の道を進まれるので すね。 塚越:話せば結構長いのだがね。 首都圏明野会 (注:明野陸軍飛行学校出身者の会) という親 睦会があって、 10年程前までは毎年1回の親睦 で飲み食いや懇談をしていたのだけど、 これで は勿体無い、 諸先輩の実戦談、 いわゆる“語り 部の会”を興そうじゃないかと提案したのです。 これが大好評で、 今では年に3回、 延べ40回程 になりました。 それで一つ自ら実践して、 終戦直前に経験し た特攻の話等を、 講談師になったつもりで自己 流で、 あちこちでやっていたのです。 ところが ある時、 僕の話を聞いていた不思議な老人が寄っ てきて、 「君の講談は自己流だね」、 ムッとした 僕は 「そうだが、 これでよいと思っている」 「うーむ、 貴方はパイロットだったそうだが、 飛行機は自己流じゃ操縦できないだろう。 芸事 だって同じだよ、 基本から勉強しなさい」 と言っ て、 さっさと行ってしまった。 これにはこたえたね。“なるほど”と思い、 縁あって神田紅師匠の勉強会に入会したのです。 師匠のお父さんは陸士57期でねぇ、 徹底して
くも膜下出血後の格闘
語り部として講談師への道
講談師として講談中の塚越さん 演題 「特攻悠久隊」 を熱演講談の勉強をしました。 そして演台を叩く張り 扇とか、 飛行機紋入りの着物などの七つ道具を 用意してね、 それで一通りの勉強をして遂に芸 名まで創った。 航 (紅) 雲亭飛僧 (こううんて いとぶぞう) と、 師匠の名前までもらって今は、 かつての私自身の経験も交えて、 主に 「特攻悠 久隊」 という演題で講釈しています。 若い人に “特攻の話をするから聞きに来い”と言っても、 誰も来ない。 それで講談という形で、 風化させ てはいけない壮絶無比な特攻の話をしているの です。 それに老人ホームなどを訪問し、 自分で研究 した手品を披露したり、 尾崎紅葉の“寛一お宮” の素人芝居を面白おかしくやったりして、 皆さ んに喜んでもらっています。 徳田:塚越さんの人生は今日まで、 大車輪で生 きておられる迫力を感じます。 パイロットとし ての交友とか座右の銘があったらお教え下さい。 塚越:これまで28組の仲人をやりました。 頼ま れ仲人だけどね。 今では孫が50数人にもなりま すよ、 ハハハハ……。 座右の銘は、 戦争中は 「莫妄想」、 つまり“思い悩むな”でしたが、 今 は明朗快活ではなく 「明老戒滑」 ということに している。“老いて明るく、 転んだり滑らない ように気をつける”という意味です。 徳田:今日は示唆に富んだ多くを学びました。 お疲れのところ本当に有難うございました。
座右の銘は 「明老戒滑」
注1 三菱が製作した高速偵察連絡機 (キ15) 2号 機を、 朝日新聞が長距離用に改造、 亜欧連絡 飛行に成功した。 所要時間94時間17分56秒で FAI 国際記録として公認された。 注2 大量の航空士官養成の必要から、 昭和13年5 月に埼玉県豊岡市に設立された。 陸士生徒は 予科1年修了後、 希望により適性検査に合格 した者が入校、 終戦までに約4,200名の陸鷲が 卒業した。 俗に修武台といわれたが、 現在は 航空自衛隊入間基地となっている。 注3 大正13年5月、 陸軍飛行学校令により、 所沢、 明野、 下志津の三箇所に陸軍飛行学校が設立 された。 以来、 明野は戦闘機操縦者錬成のメッ カとして終戦まで続いた。 注4 世界最大の海戦といわれ、 日本海軍の総力が 投入されたが、 戦艦3隻、 空母4隻、 巡洋艦 10隻など計28隻を喪失し、 事実上、 日本海軍 連合艦隊は壊滅した。 注5 特別操縦見習士官で昭和18年秋からの学徒出 陣の産物である。 その多くが特攻に殉じた。 注6 連合艦隊司令部によって発動された捷1号作 戦は、 フィリピン方面の防衛に全力を傾注す ることであったが、 この直後に特攻隊が編成 されて恒常化していった。 注7 戦後、 しばらく1日240円が支払われた筋肉 労働者を 「ニコヨン」 と呼んでいた。 注8 警察予備隊は、 朝鮮戦争勃発直後の1950年7 月に創設された。 この組織は1954年8月に陸・ 海・空自衛隊が創設されて発展的に解消した。 老人ホームでの名演技塚越朝紀氏略歴: 大正10年9月3日台湾生 群馬県高崎市出身 昭和13年12月 陸軍予科士官学校入校 (55期) 昭和14年11月−17年3月 陸軍航空士官学校在 校 昭和17年4月−9月 明野陸軍飛行学校在校 昭和17年10月 満州・関東軍飛行第77戦隊着任 後、 飛行第26戦隊に転属 フィリピン、 パレンバン、 ハノ イ、 アンダマンを、 主に97戦と 1式戦 「隼」 で転戦、 昭和19年 10からのレイテ海戦では、 フィ リピンのネグロス島から数回に 亘って出撃、 終戦直前、 台湾の 花蓮港基地から特攻出撃するも 機材故障で引き返す 昭和21年5月 復員して鹿児島に上陸、 群馬県 へ帰郷 昭和21年6月−26年12月 地元の開拓農業に従 事 昭和27年1−29年1月 米第5空軍立川基地に 勤務 昭和29年2月−56年9月 日本航空在籍 DC-4、 -6、 -7、 CV880、 DC8 を機長、 教官、 訓練部長として 乗務 昭和48年12月 技術担当役員として南西航空へ 出向 昭和62年5月 代表取締役専務を退任、 常勤顧 問に就任 平成元年6月 南西航空退職 平成5年9月 クモ膜下出血で開頭手術、 言語 障害をリハビリで完治、 講談師 の道へ進み、 86歳の現在に至っ てなお高座に座る 約30機種の離着陸経験、 飛行時間約13,000時間 取材を終えて:3時間半におよぶ長丁場の取 材で、 途中、 休憩することなく滔々とお話く ださったエネルギーは、 一体、 何処からかも し出されるのだろう。 とても86歳とは思えな い。 熱く語られる瞳は少年のように輝いてい た。 只々、 頭が下がる。 陸軍航空士官学校卒 業後、 陸軍戦闘機パイロット養成のメッカ、 三重県明野陸軍飛行学校卒業の生粋の戦闘機 乗りは、 1式戦 「隼」 を駆って、 戦場を縦横 無尽に暴れまわった。 54期生2,346名、 この 内、 636名が航空士官学校へ、 そして選ばれ た140名が明野の戦闘機課程へ進んだ。 有名 な加藤隼戦闘隊長も学んだ所で、 まさにエリー ト中のエリートであった。 しかし、 壮絶な空戦に明け暮れる戦場は、 パイロットの墓場でしかない。 陸軍パイロッ トのほとんどが南の空に消え、 同期生の多く が殉職した。 文中にあるように、 終戦末期、 台湾の花蓮港から特攻出撃したが、 天候に遮 られて帰還、 幸いに命をながらえた。 終戦時 の生き残りは僅かに32名、 まさに地獄からの 生還である。 終戦直後の日本人は、 誰しも生きるために 必死であったが、 郷里へ復員した塚越さんも 例外ではない。 だが超人的なバイタリティに よって、 幾多の苦難を乗り切った。 そして日 航パイロットへの道、 しかし、 塚越さんにとっ て日航在籍は、 単なる人生の過程でしかなかっ た。 南西航空の常勤顧問を最後に現役引退、 くも膜下出血による言語障害をも克服した。 72歳のときである。 しかも話すことが商売の 講談師への道を進まれたことは、 凡人の想像 を絶する。 そして今日なお、 かつて特攻で散っ た仲間たちの慰霊顕彰と、 特攻の実像につい て、 壮絶無比な第二次大戦の 「語り部」 とし て、 ご活躍されている。 ご高齢にもかかわらず、 自らの経験を交え た演題 「特攻悠久隊」 を語るべく、 各地で講 談をされていると同時に、 老人ホームなどへ お出かけになり、 自前で工夫した手品や寸劇 などを披露して、 ほとんど年齢差のない人々 を相手に慰労されている話は、 私としても多 くを学んだひと時であった。 老いてますます ご壮健な塚越さんに幸あれ!! 徳田 記
はじめに 採算のとれる新しい輸送機の開発は、 自国の 経済だけでなく、 考えられる輸送機のタイプや 大きさ次第では (世界のある) 特定の地域だけ を対象に力を入れるにしても、 世界経済の予測 に大きく依存している。 この予測は大変難しい が、 採用しようとする最新技術の進歩の程度、 即ち国家的な支援企画または軍用開発の実証に 基づいた新技術の採用の程度などによる。 更に 今日では、 開発しようとする新しい輸送機が使 用されるであろう期間に必要とする燃料の取得 の可能性や種類など、 新しい多くの要因を考え なければならなくなっている。 この新しい発想 に基づく輸送機の開発計画を1985年に開始した としても、 最初の実運航に就航できるのは2050 年頃になるであろうということを考えると、 こ れらの予測は更に複雑となる。 ここでは前述の ような開発に関するエネルギー情勢を中心に、 有望な代替燃料である液体水素についてお話し をする。 液体水素の利点と問題を説明するために、 軍 用機と民間機の両方で可能性があると考えられ る設計を数例ご紹介し、 最後にこの将来の燃料 を実現しようとするに当ってとるべき第一歩に ついての概要を、 多少お話ししたいと思う。 エネルギー情勢 自国の天然資源の埋蔵量やその国の指導者の 構想の下で、 各国は種々の方法でエネルギーの 将来に対する計画と支援に着手してきた。 石炭 や天然ガス、 石油の埋蔵量が豊富な国は、 将来 のエネルギー使用に対する考え方として、 短期 的には単位エネルギー当りのコストは高いとは いうものの、 切替えは可能とする方向で調査し ており、 その国の GNP (国民総生産) の割に はそれほど積極的ではないようである。 従って、 革新的なことや真に独創的なエネル ギー計画は、 天然エネルギー資源を持っていな い国から起こってくるのではないかと思われる。 そのような国は、 大量の石油資源を支配してい る国に依存して受けた打撃を経験してからは、 新規の外国エネルギー源に依存したがらなくなっ ているとみられる。 各国に新エネルギー開発の兆しがあり、 これ らの中にはそのものずばりの対応と、 主に政治 的意向から出された計画とがある。 フランス、 日本及びカナダは、 原子力発電所の建設決定か ら稼動までの期間が約5年であり、 広範な原子 力計画とその利用の面で明らかに他をしのいで きた。 これと比較すると、 不面目ながら、 米国 の能力は同じことに約12年もかかり、 それが更 に長期化している。 私 の 目 に と ま っ た も の で は 、 Thomas Lefevre 指導のカナダ政府で行なわれたすばら しい研究 (参考文献−1) があるが、 それ以外 にも優れたエネルギー計画に関する国際的な実 例が数多くあることは確かである。 カナダの研 究では、 石炭を使用することによって生ずる環 境公害の抑制とともに、 炭鉱作業員の危険性な ど数多くの問題が考慮されている。 この最終的 な結論には、 国家の将来のエネルギーを水素と する、 究極的な展望が入れてある。 この研究で は、 原子力、 太陽、 水力、 潮流など多様なエネ ルギー源を再生して、 そのエネルギーを配給、
Senior Adviser, Lockheed Corp. USA
ウイリス M. ホーキンス
2000年以降の、
新しい航空機と燃料の可能性
THE POTENTIAL FOR NEW AIRCRAFT
AND NEW FUELS AFTER THE YEAR 2000
貯蔵、 使用する手段として水素の利点も認めら れている。 この種の進んだ考えは、 米国内のエネルギー 開発計画者には影響を与えなかった。 従って、 将来の航空機開発に対する私達の計画は、 国の 政策によって如何なる制限が課されても、 それ に対応できるようでなければならない。 図1は、 米国エネルギー情報局が2020年を見 越して、 自国のエネルギーの将来を予測した概 要である (参考文献−2)。 この予測から、 将 来はそのほとんど全部を石炭に依存しているこ とがお分りになると思う。 また原子力の増加が 僅かであることもお分りになると思う。 レーガ ン政権は前政権に比べ、 原子力に対して積極的 な姿勢ではあるが、 これでさえも楽観的だと思 われる。 今日、 計画された原子力発電所が中止 される数は、 国の発注数とほぼ同数である。 図1には、 1985年に着手する新しい航空機に 対する時系列に沿う将来の天然石油使用量の予 測がプロットされている。 また、 2020年以降の 米国における航空輸送エネルギー需要の見積予 測も示されている。 新しい輸送機の燃料供給が 如何に苦しいかは明白である。 この新しい輸送 機は2020年以降に就航するとみられるが、 その
時点で使用可能な天然石油の約50パーセントに 相当するエネルギーを輸送機が消費することに なるので、 代替燃料の計画を立てることが必須 である。 同様に、 現時点で輸送機の青写真を作 成し、 それをユーザーに理解させ、 1985年の開 発着手に見合う技術基盤の準備をすることが、 現時点で必要であるという事実も明らかである。 これは数世代あとの問題ではないのである。 ロッキード社では、 代替燃料の使用について 長年研究してきた。 1950年代初期に水素エンジ ン装備の超音速偵察機を設計し、 ある程度十分 な開発を行なった。 エンジンも運転し、 燃料系 統及び燃料タンクを製作して、 試験とデモンス トレーションを行なった。 併せて敵の攻撃に対 する弱点の評価も行なった。 しかし、 この計画 は、 選定燃料またはその使用に関する技術的可 能性以外の理由で、 中止された。 過去10年間、 ロッキード社並びに他の企業が 民間資金及び NASA の後援で、 代替燃料のよ り進んだ利用を丹念に研究してきた。 後者の研 究において、 代替燃料として使われるのは、 Jet A (石炭またはオイルシェルから作り出す として)、 液体メタン及び液体水素であった。 図2は、 これら燃料の特性のうち重要なものの 概略である。 それぞれの燃料の相対的な特質を よくみると、 水素の利用はその有望性と問題の 両面にわたっていることが明白に分る。 液体水 素は、 他の代替燃料と比較して、 単位重量当り 約3倍のエネルギーを出す。 航空機は使用エネ ルギーの全部を搭載して運ばなければならない ため、 これが航空機に対する水素の根本的な利 点である。 これと同時に、 水素航空機の実用化には難し い設計作業がかなりあることも明らかである。 水素は密度が小さいので、 同一条件の飛行に約 4倍の容積が必要であり、 温度 (20°K、 即ち −423°F以下) を一定に保たなければならない ので、 高度の断熱を必要とする。 タンクの重量を最小にするには、 球形もしく は円筒形のタンクにするのが望ましい。 水素ほ ど容積は要らないが、 液体メタンも貯蔵温度は 112°K、 即ち−258°F以下なので同様の低温処 理が必要である。 航空機に対する水素研究の経緯 化学処理工程や燃料精製工程の中の元素とし て、 工場で使われているだけでなく、 多くの実 験研究で水素が使われている。 その豊富な研究 および使用経験は世間一般には明らかになって いない。 水素研究の経緯のほとんどは、 国際水
図2 Selected Properties of Alternative Fuels
Hydrogen Methane Synjet**
Nominal Composition H2 CH4 CH1.93
Molecular Weight 2.016 16.04 ∼168 Heat of Combustion (low), k J/g 120 50.0 42.8 Liquid Density, g/cm3at 283K 0.071* 0.423* ∼0.811
Boiling Point, K (at 1 Atmosphere) 20.27 112 440 to 539
Freezing Point, K 14.4 91 233
Specific Heat*, J/g K 9.69 3.50 1.98
Heat of Vaporization, J/g
(at 1 Atmosphere) 446 510 360
* At Normal Boiling Point
NTP=Normal Temperature and Pressure
** For simplification, synjet is assumed herein to have properties identical to conventional avia-tion-grade kerosene (Jet A)
素エネルギー協会の公式機関誌 International Journal of Hydrogen Energy に報告されてい る (参考文献−3)。 この下地がなかったら、 航空機の燃料として水素を考えるのは、 実質的 に更に難しかったとみられる。 アトラス、 セン トール、 アポロ、 そして今日のスペース・シャ トルに至る宇宙計画で開発してきた経験の基礎 は、 この理論と実践が合体されたものである。 軍事分野でのロッキード社の初期の開発につ いては既に述べたところであるが、 これと同年 代に、 NASA が B-57爆撃機のエンジン1基を 水素エンジンに換装して、 低温貯蔵の翼端タン クを使い、 一連の徹底的な飛行試験を行なった ことには触れなかったが、 この計画は完璧な成 功をおさめた。 その時以来、 NASA はロッキード社が分担 した一連の設計研究を後援してきた。 これらの 中には、 亜音速機及び超音速機ばかりでなく極 超音速旅客機の設計研究も入っていた。 これら の研究に付随して、 空港における燃料貯蔵配給 装置の徹底的な費用調査を含む、 液体水素の製 造費用の分析も行なわれた。 要するに、 航空輸 送システムに液体水素を応用する考え方の素地 は進展してきたのである。 同時に、 これら三種の代替燃料について、 達 成可能な安全水準の探究に膨大な努力が払われ てきた。 水素の安全性に対する一般の人々の考 え方は、 周知のヒンデンブルク号惨事の写真に 影響を受けている。 あの歴史的な事件は、 正し い見方で見るべきだと私は考える。 航空機に使 える可能性がある燃料の中で、 水素は非常に広 範囲の燃料−空気混合比で燃焼し、 着火しやす いことを、 先ず記憶しておかなければならない。 これが、 あらゆる種類のエンジンで水素が優位 性を持つ所以であり、 水素を使う全体のシステ ムを考案する際には、 このことを考慮に入れな ければならない。 ヒンデンブルク号では水素は 薄い絹状の嚢に入れてあり、 船体のこれら巨大 なガス嚢の間には空気が入っていたので、 その 設計者は特に慎重にならざるを得なかった。 従っ て、 どの嚢から水素ガスが漏れても、 その中間 にある空気は、 ほとんどの場合に可燃混合比に なった。 この漏れた水素ガスは丹念に排出され たが、 これを完全になくすのが難しかったのは 確かである。 それにも拘らず、 ヒンデンブルク 号は多くの世界的規模の航行を無事に果した。 あの大惨事が起きた夜は、 97人が搭乗してい た。 また繋留作業援助のため、 飛行船の下には 約250人がいたと推定されている。 これら約350 人のうち36人だけが死亡した。 その中の35人は、 飛行船の客室が、 地上に十分に近づかないうち に跳び降りて死亡した。 6人の遺体だけが焼死 で、 その中の5人は漏れたディーゼル油の火で 焼死した。 6人目の焼死体は、 その人の担当場 所ではない、 後方の2個の水素ガス嚢の間にい た乗組員であった。 そこが発火源であったので、 事故の原因は破壊行為ではなかったかとする憶 測もあった。 NASA は 、 Jet A 、 液 体 メ タ ン 及 び LH2 (液体水素) を使用する航空機に事故が発生し た場合の、 生存性、 並びに一般社会に与える影 響の評価という総合的な面からの代替燃料に関 する研究をこのほど完了した。 NASA とは別に、 この種の研究がロッキー ド社 (参考文献−8) 及び Arthur D. Little によっても行なわれ、 LH2は他の代替燃料と同 程度に確実に安全であり、 実質的にはより安全 とみる結論が出ている。 水素の炎には輻射熱が なく、 持続時間も他の燃料の10分の1である特 徴から、 炎にさらされる影響が小さく、 その時 間も短い。 気体が軽いので、 炎または燃えない 水素の霧は空に上昇する。 これらの要因すべて が、 生存乗客及び周辺住民の危険を更に少くす る。 次にテレビでヒンデンブルク号の事故を見 る機会があれば、 水素の炎が真っ直ぐに上昇し て、 一瞬にしてなくなる特徴を確認していただ きたい。 以上の解析を確かめるには、 更に、 実 験によらなければならないことは多い。 NASA は、 LH2の漏洩実験を既に行なって、 漏洩後の 目に見える水素の霧の動きを明らかにしている。 図3は、 その霧状の雲 (凍結した水蒸気及び空 気) の動きを示す典型的な試験の写真である。 この種の試験は、 LH2用に設計された航空機の タンクで、 衝撃破壊状況を模して繰り返し実施
しなければならない。 同様の試験は他の代替燃 料でも当然行なわなければならないが、 我々の これまでの経験は、 合成ジェット燃料の Jet A に対する危険性の説明に、 そのまま置き換える ことができる。 LH2あるいは液体メタン用の低 温タンクの中には、 酸素は入っていないので可 燃混合気はないことを銘記しなければならない。 これが、 タンク内に空気があり、 燃料の混合気 を外気へ排出する必要がある普通の輸送機の燃 料タンクと、 大幅に違う環境である。 有望な設計構想の例 400人乗りの亜音速機 その詳細は参考文献−4にあるが、 NASA の最も重要な研究の一つとして、 Jet A、 液体 メタン及び液体水素を燃料として設計した、 最 新の広胴機にほぼ匹敵する輸送機の比較が行な われている。 図4は、 LH2タンクの場所と大き さを描いた LH2改造機の全体図である。 液体
図3 Hydrogen Vapor Cloud Dispersion Experiment 1500 Gallon Liquid Hydrogen Spill, 8mph Wind
メタン航空機は、 タンクが短くなり、 主翼が大 きくなり、 同一条件の運航に供するにはエンジ ン出力が大きくなる以外は、 液体水素と同じで ある。 Jet A 飛行機は主翼の中に燃料を入れる ので全く従来通りである。 乗客400人を10,000 km 運ぶのに、 離陸重量は Jet A 機で232,060 kg、 液体メタン機で225,570kg、 LH2機ではな んと168,830kg という重量でよいことが分る。 LH2機は同じ運航条件で Jet A 機より63,000 kg 強も離陸重量が少く、 それによってエンジ ン必要出力や空港周辺騒音、 経費が減少する。 冷却する時の負荷の抗力を減らすことができ る強力な新技術が、 低温の LH2燃料の冷却を 可能にしたのである。 液体メタン及び液体水素 は、 オイル、 機内の空気及び各種電気系統の冷 却にも使える。 LH2だけは、 巡航高度で翼の層 流境界層を保つのに適した、 翼表面冷却の能力 も有している (参考文献−9参照)。 これは簡 単な装置ではないが、 我々が長年開発に努めて きた吹出し装置や吸込み装置より、 更に実用的 なものである。 図5は、 代表的な輸送機の主翼 に、 この装置がどのように適用されるかを示し た 図 で あ る 。 CO2が 空 気 中 で 凍 結 す る 温 度 (195°K) 以上に翼表面の温度を保持するため に、 LH2の冷却能力を翼表面に伝達する二次的 な装置が必要となる。 これによる劇的な重量軽 減と燃料節減が、 図5に示されている。 図6は、 究極的に航空会社の業績に係わる指 標となる座席・キロ当りの経費の概要である。 上の3本の線が、 基本となる Jet A 機と、 比 較用の液体メタン機及び液体水素機の線である。 お分りのように、 燃料のギガジュール (19°ジュー ル:238,900Kcal) 当りの価格 (ドル) 対して、 座席・マイル当りの経費がプロットされている。 このグラフから、 それぞれの燃料の価格に関す る、 如何なる人の意見も反映して、 航空機の比 較ができる。 図の上部の符号で示したものは National Academy of Engineering の1979年 の報告書を引用したものである。 これを基準に して比較すると、 LH2が他の燃料より30%高く 見積ってあるにも拘らず、 座席・キロ当りの経 費は全部の飛行機がほぼ同等である。 これより 後 の 研 究 ( 参 考 文 献 − 6 ) で は 、 LH2は 6 $ / GJ (ギガジュール当り6ドル) で生産で きるので、 座席・マイル当りの費用は他の代替 燃料の75%に下がると予測されている。 最も劇的なのが、 図6にも示した“Wing Cooled (翼面冷却)”型の性能面からくる経済 性である。 燃料の製造費を同じ6 $ / GJ とする と、 座席・マイル当りの費用は合成 Jet A を 使った飛行機の60%以下である。 水素を作るにはエネルギーが必要で、 それを 液化するには更にエネルギーが要るという人が 多い。 忘れられていることは、 如何なる合成燃 料の製造にもエネルギーが要るという事実であ る。 これら三機種の最後の比較として、 それぞ れの合成燃料を製造するのに石炭が選ばれた場 合の、 石炭の必要トン数が計算された。 最大有 償荷重運航距離を同一にして、 Jet A 機では 256トン、 メタン機では202トンの石炭が必要で あったが、 LH2機ではなんと187トンの石炭 (翼面冷却なしで) しか要らなかった。 これこ
そ本当のエネルギー使用量の比較であると我々 は考えている。 革新貨物輸送機 ロッキード・ジョージア社はC−5の経験に 基づいた計算で、 貨物輸送用の厚い翼を用いる ことに対象を絞り、 更に大型の輸送機さえも研 究してきた。 これらは Span Loader (翼内搭 載) と呼ばれている。 この種の飛行機に液体水 素を応用してみたところ、 LH2を用いた“All Wing (全翼)”飛行機の興味ある特徴がいく つか出てきた。 図7は、 在来の輸送機用の空港 で使うように設計された、 その種の飛行機の一 例である。 この飛行機は7,750km の距離で255 トンの貨物、 あるいは17,200km の距離で97ト ンの貨物を輸送する。 注目される特色は、 短距 離運航に対する重量が、 長距離運航に対する重 量より91トン大きいことである。 航空機は容積 に限界があり、 燃料が貨物より単位体積当りの 重量が本質的に軽いため、 最大燃料を搭載した 飛行機は、 短距離用の燃料と最大貨物を搭載し た航空機より軽いことが、 その理由である。 この研究には、 胴体に LH2燃料を搭載して 主翼内の空間を主として貨物用に使った、 更に 重々量の機体の設計も追加された。 図8が、 こ の航空機である。 この重量 (965トン) は極く 普通の空港の設計荷重を超え、 降着装置の幅が 普通の滑走路幅を超えることから、 飛行艇が提 案されている。 この航空機は、 小さな国へ給油 なしで往復運航するのに十分な、 21,200km の 距離で230トンの有償荷重を輸送する。 これに より、 その種の国に主要施設を建設する費用が 削減できる。 どの貨物機の設計にも、 翼面冷却 の利点は組入れていない。
図7 Liquid Hydrogen Cargo Airplane 図8 Liquid Hydrogen Cargo Seaplane
高速機 初期の NASA 後援の研究には、 Jet A 超音 速機と LH2超音速機の比較研究が入っていた。 図9は、 LH2機の全体図である。 これらはマッ ハ2.7、 7,780km の距離で234人の乗客を輸送す るように設計されていた。 LH2機の全備重量は 179,130kg で、 Jet A 機より166,590kg 軽く、 空港の低い騒音基準の適合も容易に達成できた。 しかし、 両機とも衝撃波を引きずっていく問題 と、 それに伴なう騒音があった。 従って、 両機 とも超音速飛行は、 必然的に洋上に制限される ことになろう。 図10に示したような飛行機は、 種々の理由で、 21世紀には更に興味を惹くものとなる。 この設 計巡航速度はマッハ6であり、 この種の超音速 で生ずる高温から機体表面と気流導管構造を保 護するには、 大幅な冷却が必要となる。 この設 計構想は、 燃料として LH2を使わなければ実 現できない。 また、 9,250km の距離で200人の 乗客を輸送するには、 283,000kg の離陸重量が 必要とされた。 離陸と上昇専用のエンジンは巡 航中は使用されないので、 このエンジンは空港 騒音を軽減するように設計できるはずである。 最後に、 巡航におけるラムジェットについては、 その高度 (30,500m) と衝撃波の円錐角度から みて、 地上での音波は住居地域上空を飛行でき る程度に十分低いと考えられる。 今後の成功の鍵 2年前、 DFVLR (ドイツ航空宇宙研究所)、 DGLR (ドイツ航空宇宙協会) 並びに AIAA (アメリカ航空宇宙協会) の後援によるシンポ ジウムに、 多数の国から125人が西ドイツのシュ ツットガルトに集まって、 LH2技術の現状と燃 料を使う民間機の開発の展望について討論を行 なった。 一週間の討論で、 その将来性は有望で あり、 このシンポジウムでその計画の大筋は十 分知らされた、 との結論に達した。 次のステッ プはどんなことが有益かを決める、 特別執行委 員会という名称の非公式な委員会が設置された。 この特別執行委員会には、 最初の段階の研究計 画をまとめる作業部会を作り、 新しい飛行機の 設計に自信を持って着手できるようにするため、 それに必要な作業をこの部会に含めることにし た。 この作業が進められ、 その報告書 (参考文 献−7) が出されて、 その概要のコピーがシン ポジウムの出席者に配布された。 更に特別執行 委員会から、 このコピーが各委員の国の研究指 導者へも配布された。 LH2を、 在来のものと類 似する燃料と競合する位置に据える、 技術基盤 の確立というこの計画の骨格になる要素は、 数 か国によって達成できると期待された。 この計 画が完了すれば、 LH2が採用されることになる ときに不可欠と、 我々の多くが信じている次の ステップへの基礎として、 即ち LH2の使用適 合性の実質的な証明にも役立つものと思われる。 航空会社、 燃料関係及び飛行機の開発に携わる 技術者の多くは、 過半数に満たないとしても、 その種の実証は必要ないと感じていることを認 識しておかなければならない。 大きな変革は最 先進国で起きたが、 大きな危険性に対する拒絶 も先進国に起きたことを、 誰もが認めた。 従っ て、 政略がらみの政治家、 将来の災害の思惑を 唱える報道関係などを静めるには、 何か説得力 のあるデモンストレーションは必要であろうと 認められる。 シンポジウムでも、 特別執行委員 会でも、 その種のデモンストレーションを提唱 してきた。 ロッキード社での研究では、 次の提 案がメリットがあるとみられる。 最新の輸送機の改造 新しい飛行機を研究した際、 ロッキード社は
それに長距離機 L-1011-500の改造を含めた。 図11が、 この研究から生まれた飛行機である。 水素タンクのスペースを胴体の前方及び後方に 設けるため、 胴体を18m強延長している。 これ らのタンクには、 標準型 L-1011-500の運航距 離に見合う十分な燃料が入る。 この飛行機は、 必要以上に翼面積や推力が大きいなど最適なも のではないが、 それにも拘らず通常の Jet A 機よりも約54,500kg 軽い全備重量で、 同等の 長距離運航に、 同等の有償荷重を搭載して離陸 することに注目されたい。 LH2は、 あらゆる運航距離に対して設計した 飛行機に、 有利となることが分っていたので、 今度は全備重量を変えずに最大運航可能距離を 得る、 支路線用の改造機を研究した。 ここでの 我々の研究は、 中間寄港地での停留時間を短縮 するため無給油で終日運航ができる、 支路線用 機の可能性を探ることであった。 この改造は、 燃料の容積が大きくなることから、 図12でも分 る通り、 かなり厄介なものである。 しかし、 普 通の支路線タイプの短距離航程で、 無給油の終 日運航は不可能ではない。 実現の可能性を実証する手法として、 軍事面 での開発を提案してきた人も多かった。 軍事利 用によっても、 頑固な懐疑論者には説得力がな いことも考えられるが、 燃料取扱要領、 地上支 援及び飛行機のハードウェアに対する確固たる 経験の基礎は、 確実に備わると考えられる。 そ こで、 利点が大きくかつ作戦を支援する部隊施 設が最少となる任務を、 我々は探した。 対潜哨 戒機、 即ち陸上を基地とする哨戒機が、 前述の 要求に適合する。 図13は、 ロッキードP-3ASW (対潜作戦) 機の大改造案である。 操縦室と尾 部の間の胴体は原型機の床から上を新しく作り、 図13 LH2−Fueled P-3
図11 Lockheed L-1011 Freighter Converted, To