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ハ ウプ トマ ンとマ ンの関係 を探 る

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(1)

ハ ウプ トマ ンとマ ンの関係 を探 る

鈴 木 将 史

ゲルハル ト・ハ ウプ トマ ンと トーマス ・マン。 この二人の ドイツ人作家が,一方は戯 曲におい て,他方は小説 において,近 ・現代 ドイツを代表す る文学者であることに異論 を差 し挟 む ものは いるまい。 これだけの 「国民的」作家同志 となると, その間に公的な関係が生 じるのは必然であ るが, それ以外の私的な交流 もハ ウプ トマ ン40歳,マン

28

歳である

1 903

年か ら存在 していた。

特 にマ ンが

1 929

年 にノーベル文学賞 を受賞 した際には,1

7

年前 に同賞 を授与 されていたハ ウプ トマンの口添 えが大 きく物 を言 った とされていることか らも,両者の密接 な関係が推察 され よう。

ところが,両作家それぞれに関 しては,移 しい数のモノグラフィーが出版 されているにも拘 らず, 二人 の関係 につ いて取 り上 げた考 察 は,僅 か に

S. D. St i r k

l)

, H. Ⅴ. Br e s c i us

2),及 び

H. ‑ D.

Ts c hG r t ne r

の論文3)が見当たるに過 ぎない。しか も,これ らの論文 とて

,( Br e s c i us

はやや広範 に 論 じているものの)ハ ウプ トマ ン並びにマン研究者 のみな らず,現代 ドイツ文学界 において も非 常 に有名 な,所謂 「ペ‑ベルコルン・スキャンダル」 (マ ンの長編小説 『魔 の山』の第

7

章 に登場 し,最後 には自殺 を遂 げるオランダ人金満実業家ベーター ・ペ‑ベル コル ンのモデルが,他 なら ぬハ ウプ トマンであるとい う噂が広 まり,マ ンがハ ウプ トマ ンについには謝罪す るに至 った文学 事件)に焦点 を絞 った ものである。従 って,両者の関係や両文学の比較 を包括的に行 った研究 は, 未だ もって存在 しない とい うのが現状 なのである。 これ は如何 なる理 由か らなのだろうか。

その理 由 としてまず挙 げたいのが,二人 は本当の意味で 「友人」ではなかった という点である。

ハ ウプ トマ ンは友人 とい うのではなかった」と,マ ンの長男 クラウスはその回想録の中で述べて いるが4),ハ ウプ トマ ン,マ ン共 に,時代 による若干の変化 はあるものの,相手 に対 してつかず離 れず といったデ リケー トな距離 を保 ち続 けた0両作家共 に文壇で様々な交遊関係 を築 き上 げたが, 二人 の共通の友人 とい うと,彼等の初期作品群 を一手 に出版 した出版業者

S.

フィッシャーは脇 に 置 くとして,その他 には

,H.

ライジガ‑ とか

H.

オイレンベルク とか

M

ノ\イマ ンといった作家の 名が挙が る程度の ものだろうか。1

933

年以降マンが母国を去 ることもあって,両作家の交遊範囲 の人的接点 は,上の例 にも見 る通 り,驚 くほど少ない。 この原因 は, どち らか というと,ハ ウプ トマ ンに求 めるべ きであろう。功な り名 を遂 げた後の彼 は,故郷 シュレジェ ン地方のアグネ‑チ ン ドル フや,北 ドイツの避暑地 ヒデンゼ‑島,或いは北 イタ リアの保養地 ラバ ロに引 きこもり, 懇意の仲間達 に終始取 り巻かれてはいた ものの, 自らの交遊 をそれ以上広 げようとはしなかった のである

。P.

ヒンデ ンプル クや

W.

ラーテナウや C.エーベル トといった政治家達 との親交が厚 かったの もハ ウプ トマ ンの交際の特徴で, ワイマール共和国大統領候補の声 もかかった彼 らしい ものだが,マ ンと比較すると

,「 20

世紀のゲーテ」として ドイツ文壇 に君臨す る彼 には,本質的に

盟友」 と形容 し得 る友人 はいなかったのではないだろうか。 (敢 えて 「対等の立場での」彼の親 友 を探せば,それは演劇評論家オ ッ トー・ブラ‑ムであろうが,彼 は

1 91 2

年 に既 に他界 している。) ハ ウプ トマ ンという作家 は, 自然主義的作品でデビュー した ものの,当時

( 18 87

年頃)の自然主 義文学研究会

" Dur c h!

〝や,文学者集団 「フリー ドリヒスハ‑ゲン・グループ (B.ヴィレや

W.

ルシェやハ/レト兄弟等 を中心 にしてベル リン郊外 フ リー ドリヒスハーグ ンに移住 した作家集団

)」

(2)

に対 しては,決 して中心的役割 を担わず,客分 として常 に一定の距離 を置 いていた。若 きハ ウプ トマ ンも当時ベル リン郊外 に移住 したのだが,何故か フリー ドリヒスハ‑ゲ ンよりも更 にべ/レリ ンか ら一駅離れたエルクナ一に居 を構 えたのである。更 に自然主義か ら世紀転換期文学へ転身す る一種のそつのなさや,ナチス政権 に対する暖味な態度 を鑑みると,彼 は現代作家の中で も,そ の真意 を容易 に表 にあ らわさぬ一人 として,研究者の前 に今尚立 ちはだかっている。ハ ウプ トマ ンを計 りかね る似た様 な苛立 ちは,マ ンも抱いていたふ しが見受 けられる。ナチスが政権 を奪取 した ことにより,プロシア芸術 アカデ ミー文学部門の会員達が進退 を迫 られた際,マンは

A.

デー プ リー ン (共 に脱退)にこの件 に関 し相談 した手紙

( 1 9 3 3

2 月 2 6

日付)の中で,「ゲルハル ト ハ ウプ トマンは,察す るに態度 を決 めてお らず,決める気 もないだろうか ら,彼の意見 は,今の

ところ問題ではない」 (ハ ウプ トマ ンは結局アカデ ミーに残留す る) と述べているS)0

次に考 えられ ることは,両作家の生み出 した文学の相違性である。劇作家 として一家 をな した ハ ウプ トマンと,生来の小説家であったマ ンの文学の間には,当然の話であるが,本質的な差異 が存在する。無論,両文学の差異 を考究することが本稿 の目的ではない し, このテーマについて の本格的な分析 に着手す るとなると,それ は大部 な研究 に発展す ることだろう。 しか し, ともか く,誤解 を恐れずに敢 えて述べ るな らば,ハ ウプ トマンとゾラやハ ウプ トマ ンとイプセ ン,或い はマ ンと兄ハインリヒ,又 はマ ンとヘ ッセな どの文学 を比較する方が,遥かに取 り組み易い研究 であると思われる。 この 「と」 とい う接続詞 に関 しては,他 な らぬマ ン自身がその講演 『ゲーテ と トルス トイ』の中で,「と」で結びつけられることによって生み出される作家間の本質的相関性 の成立 について,付言的に (或いは少 し戯れ言 めか して)言及 しているが6),ゲーテ とトルス トイ な らまだ しも,ハ ウプ トマ ンとマ ンの間に相関性が成立するな どとも思 えない。 もっ とも,水 と 油 ほども文学性の異なる作家の組 み合わせな ど, それ こそ無数 に考 え得 る訳 なのだが,ハ ウプ ト マ ンとマ ンの場合で注 目すべ きことは,両者が しばしば類似 したテーマを取 り扱 った作品を残 し ている点 なのである。そのひ とつが,ゲーテであ り, また芸術生活 と市民生活の葛藤 も,彼等の 重要なテーマであった。 この点 については, それ こそ, これか ら腰 を据 えて考察 してゆかねばな るまいが,中期以降, シュレジェ ン神秘主義の影響 を深 く留 めつつ,院想的で霊感的なインスピ レーシ ョンに溢れ る創作へ と傾倒 していったハ ウプ トマ ンと,時には顕学的 とまで指摘 され る程, 思想的装飾 を絢欄豪華 に施 した主知主義的な色合 いの濃いマンの文学では,肌合いが余 りにも違 いす ぎて,同 じ土俵で論 じるには少なか らずため らいを禁 じ得ないの も実感であろう。ゲーテひ とつを取 り上 げてみて も,マ ンの目は文学研究者 としてゲーテへの畏敬の念 を常 ににじませなが らも,その多面的な文学 を時に冷徹 に分析 しているのに対 し,ハ ウプ トマ ンのゲーテ論 は, この 大文豪 を,真善美のひ とつの規範 として自らの姿 に対略 させなが ら, そのあるべ き受容 を模索 し た,言わば作家の信条告 白とも解釈 し得 るのである。(ゲーテに限 らず,マ ンの評論や講演録 には, 豊富な二次文献 を渉猟 した形跡が鮮やかだが,ハ ウプ トマ ンについては,著名作家のそれ を除い て,研究論文 に接 した痕跡 というのは希薄である。)考察が深 まらぬ内に,軽率な判断を下す こと は避 けたいが,両者のゲーテ解釈の相違点 として,現今で筆者の注意 を強 く引 く点がひ とつある。

それ は晩年の両者 についてなのだが,マンがゲーテに 「生 をい とお しむ人間の姿」 を通 して高次 の民主主義 を認 めた一万7),ハ ウプ トマンはゲーテの許 に「ドイツ民族が団結 し,平和 を実現する べ き」であると説 いた8)Oナチス独裁下の ドイツを追われ,再 び母国に定住す ることはなかったマ ンと, ドイツ残留 を選んだ ものの,その晩年 を戦火 に脅かされ続 け,戦後 は郷里 シュレジェ ンが ポーラン ドに割譲 され るとい う辛酸 を嘗めきったハ ウプ トマンとの相違が, この解釈の背景 を形

‑ 6 8‑

(3)

成 しているもの と考 えられ よう。

さて,両者の接点 を探 る上で最後 に立 ちふさが る障害 は, また最大の もので もあるのだが,そ れは文献資料 に関 してである。ハ ウプ トマ ン,マン共 に, ドイツ文学者の中では多作家 として群 を抜いてお り,ハ ウプ トマ ンのツェンテナー (生誕

1 0 0

周年記念)版全集

1

1巻9)ち,マンのフラ ンクフル ト版分冊式全集

2 0

10)ち,大変 な分量 を有する個人全集 となっている。(前者の

1

1巻 は

" Si nndr u c k‑ Aus ga be

[極上紙版]であるため巻数が後者の約半数 となっているが,総頁数 は

1 万 3

〜 4

千頁で,両者共 に大差 はない。)しか し,両者の桁外れな執筆量 は,戯曲や小説な どの完 成作品以外でその真価 を発揮す るのである。ハ ウプ トマンは,詩や 自伝や評論 な どを除いた,戯 曲 と小説の未完作品だけで も

9 8

に上 り

,7 4

を数 える完成作品をはるかに凌 ぐ。妙な言い方だが, 彼 は ドイツ最大の 「断片作家」のひ とりで もあった訳である。 また,マンについては全集の他 に,

1 8 5 1

頁にもなるエ ッセイ集全

6

巻が刊行 されている(全集 との重複部分 も存在する)。そして,作 家達の交流 を知 る上で最 も重要な資料 となる日記 と書簡が これ らに付 け加わるのだが,両者 はこ のジャンルにおいて も,類稀 な量の文献 を残 しているのである。ハ ウプ トマンの遺稿 は,現在ベ ル リンの州立図書館 に,プロシア文化財 として保管 されているが,その主体 は

,7 7 4

点 に上 るノー トや ファイルか らなっている。 この中で過半 を占める日記類で整理 ・公刊 された ものは, 目下の ところ『メモ付 きカレンダー

1 8 8 9 ‑1 8 9 1

』を始 め として僅か

6

冊 に過 ぎない.現在 は

1 9 1 8

年 まで 刊行が進んだ状態だが

,3・4

年 に一冊出され る進度で,膨大 な手記共々

1 9 4 6

年 までの日記が全 て刊行 されるには, この先 どれほどの歳月 を待たねばな らないのか,皆 目見当 もつかないのが現 状である。

ハ ウプ トマンの情勢 に比較すると,マンの遺稿 はかな り整理が進んでいるといえよう。先 に挙 げたエ ッセイ集 に加 えて

,1 9 9 5

年 には,待望久 しかった 日記全

1 0

( 1 9 1 8 ‑1 9 5 5 )

が完結 した。

マ ン日記 は作家個人の生活 ・創作記録のみな らず,激動する

2 0

世紀前半の欧米 を,文化 ・社会批 評 も交 えて克明に記録 した,第一級の文学的・歴史的資料であ り, その刊行 は

,1 9 8 0

年代か ら

9 0

年代 にかけての ドイツ文学出版界 において も,最大の トピックのひ とつに数 えられ るものであろ

う。 ところが,完結成 った この 日記 にも,致命的な欠陥があるのは周知の ことである。即ち,年 代 を上述 した通 り

,1 9 1 8

年以前 と,加 えて

1 9 2 2

年か ら

3 2

年 までの

1 0

年間が, この 日記か らは すっぽ りと抜 け落 ちて しまっているのである。これはマ ン自身

,1 9 4 5

5

2 1

日の日記 に「以前 か ら抱 いていた決意 を実行 に移すべ く古い日記 を処分す る」11)と簡潔 に記 している様 に,作家本 人が当時のカ リフォルニアの自宅で該当す る過去の 日記 を焼却 した結果である。ただ

,1 9 1 8

年か

1 9 2 1

年の日記 は,執筆中であった『ファウス トウス博士』の参照用 にと,破棄 を免れたのであっ たOマ ンに 「決意」た らしめた要因 は何であったのか.彼 は

1 8 9 6

年にも,それ まで書 き溜めた 日 記 をいともあっさ りと焼 き捨てているのだが12),ギムナジウム時代か ら偏執的 とさえいえる程事 細かに日記 をつけ, またそれを自らの創作 ノー トとして も活用 していた彼が, 日記 とい うメディ アをどの様 に解釈 していたのかは,今 となっては推察する他 はない。とにか く,途中

1 0

年間の欠 落 は,ハ ウプ トマンとマンの関係 を探 る上 において,非常な打撃である。何故な ら

,1 9 2 2

年か ら

3 2

年 までの

1 0

年間 とは,ハ ウプ トマン

6 0

回誕生記念祭か ら

7 0

回記念祭 までの期間であ り,彼の 名声が国家的 ・歴史的な ものへ と飛躍 し,マ ンがその飛躍の渦の中へ と否応 な く巻 き込 まれてい く時期 と符合するか らである。 そして,先 に述べた 「ペ‑ペJt,コ/レン・スキャンダル」 は

,2 4

末 に生 じた出来事であ り,顛末 も含めて この事件全体が 日記の欠落期間に包含 されて しまうので ある。

(4)

日記資料 その ものが未整理ではな く消失 して しまっている以上, これか らの研究 は, この期間 を如何 に他の資料で補 うかにかかって くるが, その点で大いに期待 されるのが書簡資料であるQ ドイツ一流の「市民」であることを自負 し,亡命の身 にあって自分の文学の反響 に殊更敏感であっ たマ ンは,ひ とつの礼儀 として, また外界 と自らを繋 ぐパイプ として,手紙 のや り取 りをこよな く愛 した。彼が生涯 に執筆 した書簡 は

, 3

万通にまで達す ると見積 もられているが,その整理 ・ 公刊の進捗 は思 うに任せず,今 まで出された

1 0

数冊の書簡集 を合計 してみて も

,5

千通程度 にし かなるまい。現在でさえ,最 も引用され る書簡集が

,1 9 6 5

年発行 のエ リカ ・マ ン編集 による

3

13)であるとは些か残念だが,87年 に

1

4

千通の内容 を要約 ・整理 した 『トーマス ・マ ン書簡 」14)が出され,マ ン研究 にとっては心強い助力 となっている。一方,ハ ウプ トマ ンの書簡 に関 し ては,近年マンとの往復書簡が部分的に整理 されたが

1 5

),他 には数名の作家・評論家 との往復書簡 集が公刊 されている程度で,整理がそれほ ど進んだ とはいえない。彼が一体 どれほ どの手紙 を出 したかさえ,定かではないのが現状 である。ベル リン州立図書館の彼の遺品には

, 6

万通 もの彼 宛の書簡が含 まれていることか ら推 して も,彼が相当数の手紙 を物 した ことに疑 いはないだろう。

ただ, ブラ‑ムや フィッシャー との往復書簡か ら明 らかになることは,彼が,マ ンの様 に,手紙 の中でひ とつのテーマについて掘 り下げた議論 を展開す ることは滅多 になかった とい う事実であ る。いや,そ もそも日記で もそうなのだが,ハ ウプ トマ ンには縦横無尽 な帰納 ・演樺 による自説 の論理的展開な どは無縁であった。彼の表現 は,直観的な言説 により構成 されていたのであって, 作品では, この表現法が時 に深遠な文学性 を生 み出す源 となったのだが, 日記 ・書簡 も含 めた日 常的な言動では, しばしば 「支離滅裂」な印象 さえ伴 ったのである。従 って,「記録」として評価 した際のハ ウプ トマ ンの日記 ・書簡 は,マンのそれに比較すると,やや妥当性 に欠 けるとするの が,筆者の見解である。

かつて丸 山匠氏が,「マ ンとハ ウプ トマンの関係 を調べてみた ことがあるが,その時は,信懲性 のあるハ ウプ トマン側の資料が乏 しく,途中で放棄 してしまった」 旨の発言 をされた ことがあっ 16)。マン側 の資料 はその当時か ら大分充実 してきているものの,ハ ウプ トマン側 の資料不足 は, 中々 これ といった改善 を見せはしない。つ まり,両者の相手 に関する発言 としては,マ ン側の発 言が ます ます明 らかになって きている訳であ り,資料的には,黙 して語 らぬハ ウプ トマンに対 し, マ ンが一方的に述べたてる構図 となっているのである。或いは,ハ ウプ トマンは本当にマンに対

して多 くを語 らず, また記 しもしなかったのか も知れないが,その数少ない言動の端々か らは, マンに対す る彼の特別 な感情が見 え隠れす る。マ ンにして も,「民衆の王, (ワイマール)共和国 の王」17)とハ ウプ トマンを持 ち上 げ,懸葱な鏡舌 をい くら労 した ところで,老作家に対す る複雑 な 思いを審晦 しきれるものではない。つ まり,両者の間に横たわる,えも言われぬ微妙 なしこりは, ペ‑ベル コル ン事件のみでは説明 し尽 くせない,著名作家 としての彼等の関係内で こそ発生 し得 た,一種 の 「癖」 と捉 えられ るのではないだろうか。彼等の複線的な関係 を究明する試みには, 資料的障害 と,当代一流の ミイスティカーであるハ ウプ トマ ン及びイロニカーのマ ンの真意 を分 析するという困難 さが付 きまとうが,作家間関係の新たな一形態 を提示する意味で も,意義 ある 研究 といえるだろう。

1)St i r k, S. D.

,

" Ge r ha r tHa upt mannandMynhe e rPe e pe r kor n"i n:Ge r manl i f e& l e t t e r s . Ne w s e r ie s

,

‑ 7 0‑

(5)

1 9 5 2 ,p. 1 6 2 ‑ 1 7 5 .

2)Br e s c i us , Hansv. ," Ne u e svol ュMynhe e rPe e pe r ko r n"i n二Ne uede u t s c heHe f t e ,J g. 2 1 ,H. 1 ,1 9 7 4 ,S. 3 4 ‑

51.

3)Ts c hb r t ne r , He i nz ‑ Di e t e r ,Ge r ha r tHa upt ma nnundThomasMa nn. Ve r s uc he i ne rDa r s t e l l un gi hr e r Be z i e hunge n,i n:Di eNa t i o n1 0( 1 9 6 0 )

,

H

.

9 ,S. 7 1 5 ‑ 7 2 8 .

4

)クラウス ・マン

,

転回点‑マ ン家の人々』 (小栗浩他訳),晶文社

1 9 8 6 ,1 0 6

貢。

5)Di eBr i e f eThoma sMannsBd. 1 ,be ar b. u. hr s g. V. H. Bur g in/ 0. Ma ye r ,Fr a nkf ur ta. M.1 9 7 6 ,S. 6 8 9 . 6)Th. M. , Le i de nundGr t i L 3 ede rMe i s t e r ,Fr ankf ur ta. M.1 9 8 2 ,S. 3 2 ‑ 3 3 .

7)Th. M"Goe t heunddi eDe mokr a t i e ,i n:i bi d.S. 3 3 6 1 3 6 3 .

8)GH. , Goe t heunddi eVol ks s e e

l

e ,i n:S去mt l i c heWe r keCA Bd. 6 ,1 9 6 5 ,S. 7 3 6 ‑ 7 3 9 .

9

)ノ、ウプ トマン全集 は

,6 0

歳 と

8 0

歳の誕生 日を記念 して,それぞれ

1 9 2 2

年 と

4 2

年に

1 2

巻及び

1 7

巻揃 えで フィッシャー社か ら刊行 されたが

,1 9 6 2

年か ら

7 4

年にかけてプロビレーエ ン社か ら出されたツェンテナー版 は,質 ・量共 に旧版 を遥かに凌 ぐ。 このセ ットの完成度には定評があ り, それは,刊行 より四半世紀が経過 し た現在 も尚,絶版 とはなっていない点に窺 えよう。

1 0 )

マンの全集 としては

,1 9 5 5

年に

8 0

歳記念版 として出されたアウフバ ウ版が,ドイツ国内版 としては最初であ る.その後

,1 2

巻揃 えである記念版

Tho ma sMann, Ge s amme l t eWe r kei n1 2Ban de n

,1 9 6 0

年 にフィッ シャー社 よ り出され (後年別巻補遺がつ き

,1 3

巻揃 えとなる),本文中で挙 げた分冊版全集 よりも,概ね高い権 威 を有 しているのだが,既 に絶版 となっている。 この状況 を受 けて,本年

( 1 9 9 8 )

か ら,決定版 ともいえる批 評版 (現時点で全巻数は未定。)の刊行が開始 される

l l )Th. M. , Tage bi i c he r1 9 4 4‑ 1 9 4 6 ,Fr ankf ur ta. M.1 9 8 6 ,S. 2 0 8 .

1 2 )1 8 9 6

2

1 7

日付 けの級友 0

.

グラウ トフに宛てたマンの手紙 に,全ての 日記 を焼却 した とある

。 /Ann.

14,S.

1 5 .

13)この書簡集は,約

1 4 0 0

通 を収録する

O /Th. M , Br i e f e , hr s g. V. Er i kaMann, 3Band e , Fr a nkf ur ta. M. 1 9 6 1 ‑ 6 5 .

1 4 )Di eBr i e f eThoma sManns ,be a r b. u. hr s g. unt e rMi t ar b. V.G. He i ne / Y. Sc hm i dl i nv.H. Bi i r g inu.H. ‑ 0.

Ma ye r ,5Ba nde,Fr a nkf u r ta. M.1 9 7 6 ‑ 1 9 8 7 .

1 5 )De rBr i e f we c hs e lz wi s c he nThomasMa nnundGe r ha r tHaupt mann,Te i H:Ei nf t i hr ung,Br i e f e1 91 2 ‑ 1 9 2 4 / Te i l

I

l l .Br i e f e1 9 2 4 ‑ 1 9 3 5 ,Dokume nt at i o nundVe r z ei c hni s s e ,hr s g. V.H. Wc ys l i ng/ C. Be r ni ni ,i n:

Thoma sMannJ a hr buc h6( 1 9 9 3 ) ,S. 2 4 5 ‑ 2 8 2 / 7( 1 9 9 4 ) ,S. 2 5 6 ‑ 2 9 1

.

1 6 )

丸 山 匠,『マンとハ ウプ トマン

』(

『トーマス ・マン全集 月報(

8 )

, 3‑ 4

頁),新潮社

1 9

72 。

1 7 )

ハウプ トマン第

6 0

回誕生 日記念講演 『ドイツ共和国について』 より

C /Th.

M.,Yon D

e ut s

c h e r R e p ubl

i k,

Fr

a

nkf ur ta. M.1 9 8 4 ,S. 1 1 9 .

参照

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