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中部高地の縄文前期集落の展開

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Academic year: 2021

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(1)

著者 小松 隆史

雑誌名 金大考古

50

ページ 12‑18

発行年 2005‑08‑15

URL http://hdl.handle.net/2297/2978

(2)

1 はじめに

 “ 縄文文化 ” と一言で片付けることができないほど、

列島の文化は多様だ。狭い日本ではあるけれど、地域 と時期によって文化の内容にはそれぞれの特色があ る。それは、こんにちの方言程度の差異かもしれない し、あるいはもっと根本的な違いもあるのかもしれな い。いずれにしてもそのような文化の一つ一つを明ら かにしていくには、まだ多くの時間と地道な作業が必 要となることだろう。

 そのような多様な文化の一つに、「井戸尻文化」が ある。井戸尻文化は、もう 30 年以上も前に、現在明 治大学名誉教授の戸沢充則さんが提唱され、近年再び 見直されつつある。その定義についてここに詳しく記 すことはしないが、縄文時代中期に中部高地から西南 関東にかけて広がっていた、石器組成や土器文様の様 相(生業基盤や精神構造と言い換えても良いかもしれ ない)を同じくする文化を指す。その指標となるのが、

藤内・井戸尻式の土器の広がりである。

 この広がりを印したものが図1である。その結果、

この文化の中心といえる場所が、八ヶ岳西南麓を中心 とした松本盆地南縁から笛吹川左岸(甲府盆地東南縁)

までの、およそ 100 ㎞の地域であることが知られるこ ととなった。これによれば、縄文時代中期の初頭より 営まれ、中期の後半期まで千年間継続する集落がこの 地域に圧倒的に多く、伊那谷や西南関東では、中期中 葉の藤内式期に一気に拡散した様子が見て取れる。つ まり、これまで漠然と「縄文王国」などといわれてき た地域が、王国であるかどうかは別として、単なるイ メージの問題ではなく、実際に重要な地域であること が明らかとなったのである。

 しかし、来館されるお客様からもっとも頻繁に投げ かけられる「これほどの土器を遺した文化の中心が、

なにゆえにこの地なのか?そして人々はどこへ去って いったのか?」という疑問に、十分に答えられている とは言い難い。私たち井戸尻考古館のスタッフは、昨 年の建館三〇周年記念イベントの中で開催された座談 会において、縄文時代前期から後期まで、大きな流れ として各地域の集落の消長と文化の変容をとらえ、こ の疑問に答える仮説を立てようとした。その中で私が

中部高地の縄文前期集落の展開 小松 隆史

図1 中期前半の主要遺跡分布 ◎は初頭から継続する集落

(3)

担当したのが、この前期集落の展開、という部分であ る。

 この前提となるデータの一部は、すでに 2004 年に 刊行された発掘調査報告書『坂平』(1)にまとめられて いる。そこで私たちは、「縄文中期の繁栄の基盤は、縄 文前期初頭に中部高地に成立した中越文化の成立まで たどれるのではないか」と考えるに至った。本稿では、

この『坂平』での知見を一つのステップとして、特に 今回は前期集落の展開に焦点をあて、この地域に縄文 中期の繁栄をもたらした道筋をたどってみることにし よう。

2 前期集落の様相

 縄文前期を大きく3時期にわけて、その区分に基づ き、中期に近い前期末から時間をさかのぼる形で、各 時期の集落の様相をまとめておくことにする(図2)。

区分は、まず前期末として、諸磯c式期から前期最終 末にかけての時期をまとめる。この時期には、地域毎 に集落のあり方に差がある。

 続いて諸磯a、b式期。本稿で対象とする地域の内 と外とで大きな文化的差異が認められない時期ではあ るが、中部高地においては八ヶ岳の西麓と南麓を境に して集落の消長に違いがみとめられる。

 最後に前期初頭から中葉にかけての時期を一つとす る。中部高地では中越文化という、地域色の強い文化 が成立した時期でもある。

 なお、各集落の消長について表にまとめたが、ペー ジの都合上、主要な集落のみに限定して掲載すること

とした(表1)。

2­① 前期末

 諸磯 c 式期から、関東では十三菩提式、中部高地で は籠畑式期にかけてである。関東では「幻の縄文土器 の時代」(2)などとも呼ばれるほど遺跡が少ないばかり か、当該期の遺物そのものが極めて少ない時期だと認 識されている。また、遺跡の立地についてもそれ以前 とは大きく異なり、台地の平坦部ではなく、山間部や 外洋に面した場所を選んで小規模な集落を形成してい (3)

 一方中部高地では、必ずしも遺跡や遺物が極端に少 ないということはない。むしろ後述する諸磯a、b式 期に比べれば多いとさえいえるかもしれない。

図2 前期の時期区分

図3 前期末の斜面集落の調査(机原三本松遺跡)

(4)

表1 前期主要集落の消長

(5)

 集落立地という点については、それ以前、ま たこれ以降とは大きく異なった様相を見せてい る。斜面集落、あるいは斜面住居などと表現 されるように、住居が(集落が)、かなりの傾 斜角度の斜面に築かれるという特徴がある(図 3)。これは関東とも共通するが、尾根頂部に は広い平坦面があるにもかかわらず、である。

関東と中部山岳地帯の地形ではその趣は大きく 異なっているから、周辺環境も含めた集落の立 地はずいぶん異なるものであろう。しかし住居 を構築する場の選定については共通性がみとめ られる(4)

 続いて中部地方の遺跡分布を見てみよう。前 段階(諸磯a、b式期)と比べて目立った変化 がみとめられるのは松本盆地南縁と諏訪盆地、

八ヶ岳西麓であり、これらの地域に多くの集落 が営まれる。伊那谷には、南部の黒田大 明 神 原以外、目立った集落がない。松本盆地南縁で は白神場や女夫山ノ神、諏訪盆地では諏訪湖北 岸の扇平と武居林、霧ヶ峰南麓から八ヶ岳西麓 では高風呂や大田苅、北山菖蒲沢、梨ノ木など が主要な集落である。

 一方で八ヶ岳南麓と笛吹川左岸の集落数は、

それ以前と大きな変化はない(図4)。八ヶ 岳南麓では机原三本松、籠畑、日向、天神、

甲ッ原などがあり、笛吹川左岸には上の平、

花鳥山、桂野などがある。

 集落の規模はけして大きくはないが、関東地 方のような極端な遺跡減少はみられない。そし て最大の特徴は前述のように、斜面に集落を形 成するという点にある。

2­② 前期中葉〜後葉(諸磯a、b式期)

 諸磯文化は非常に広範な広がりをもち、北関 東などには大規模な集落もみられる。中部地方 では伊那谷、松本盆地、諏訪盆地、八ヶ岳西麓 には、各地域に核となる集落は点々とあるもの の、あまり多くはない。特に諏訪盆地と八ヶ岳 西麓では、それぞれ十二ノ后、阿久という大集 落が形成される以外、目立った集落は見られな い。あたかもこの2遺跡にすべてが集約されて いるかのようでもある。しかもこの両遺跡とも に、前期初頭から継続し、地域内では拠点的な 意味合いを持つと思われるのに、諸磯b式期で 集落の営みは終わってしまうのである。八ヶ岳 南麓から笛吹川左岸地帯では、中期とほとんど 変わらない集落立地がみとめられる(図5)。

 伊那谷から八ヶ岳西麓にかけては前述の十二

図4 前期末の主要集落

図5 諸磯a、b式期の主要集落

(6)

ノ后、阿久のほか、松本盆地の 舅 屋敷に代表さ れるような、諸磯b式期で終わる遺跡がほとん どである。その一方で八ヶ岳南麓から笛吹川左 岸では、日向、天神、酒呑場、寺前、花鳥山な ど、諸磯b式期から始まる集落がいくつかあり、

これらはいずれも諸磯c式期まで継続する集落 となる(表1)。

2­③ 前期初頭〜中葉(中越式〜黒浜並行期)

 早期末葉から前期初頭にかけての中部高地に は、三つの異なる土器文化が混在する様子が認 められる。伊那谷から松本盆地には東海系の木 島式、ないしは中越式の古段階の土器を主とす る文化がひろがる。この中越式古段階の土器は、

あるいは “ 在地化した木島式土器 ” といっても 良いかもしれない(5)。八ヶ岳西南麓から笛吹川 左岸にかけては関東系の下吉井式と、在地化し た下吉井式の土器文化がある。そして諏訪盆地 の北岸と霧ヶ峰の南麓には、八ヶ岳や和田峠を 越え、北関東系の花積下層式の文化が流入して いる(6)

 そしてこれらが融合し、中越という文化が誕 生した。住居の構造や土器の形は在地の木島式 の流れを受けつつ、土器に繊維を混ぜるなど、

下吉井式の特徴をそのまま活かしている。

 この時期の集落は、地域ごとに一定の距離を 置いて、住居が十数〜百数十軒を超える “ 拠点 ” 的集落が誕生する。伊那谷南部の伊久間原、北 部の中越、松本盆地南縁には矢口や剣ノ宮、諏 訪盆地の武居、十二ノ后がある。霧ヶ峰南麓か

ら八ヶ岳西麓には駒形、高風呂、阿久、阿 久 尻 図6 前期初頭〜中葉の主要集落 など。八ヶ岳南麓には坂平、上北田や寺前。甲府盆地

縁辺に長田口、釈迦堂などがある。とくに矢口から剣 ノ宮、十二ノ后、阿久・阿久尻、坂平、上北田、長田 口と、フォッサマグナの西縁に沿うように点々と集落 が営まれている。そしてその周辺に、2〜3軒程度の 小規模な集落が散在する様相を見て取ることができる

(図6)。

3 前期から中期へ

 つづいて今まとめてきた各時期の様相を、早期の末 葉から中期へたどってみることにしよう。今回は集落 に焦点を当てていることから、人々の動きをイメージ しながらまとめてみたい。

 早期後葉 1〜2軒程度の居住(留)地が各地に 散在する。中部高地でも関東地方の土器が多く出土し ていることからみても、それなりに大きな人の動きは

あったようだが、集落を形成するにはいたらない。八ヶ 岳南麓の井戸尻遺跡では早期後半期の環状集石が発掘 されているから(7)、ある程度場所を定めているとおも われるが、そこで生活をする時間はさほど長いもので はなかったように思える。

 早期末葉 中部高地には数軒から十数軒のまとまり を持つ集落が現れる。そしてこの集落から出土する遺 物から見ると、おおよそ3方向からの文化の伝播が認 められる。伊那谷、諏訪盆地、松本盆地へは、天竜川 伝いに東海地方から木島式の文化が、甲府盆地、八ヶ 岳西南麓へは関東地方から下吉井式の文化が流入して 在地化する。さらに諏訪湖北岸と霧ヶ峰南麓へは、和 田峠や麦草峠を越えて、八ヶ岳の東、北関東から花積 下層式およびその在地化した文化が入ってくる。

 この文化の流入には、実は大きな要因が絡んでいる。

一つには、このころにピークを迎える縄文海進の影響

(7)

が考えられる。上昇した海水面はやがて関東地方の平 野部をのみこみ、内陸の奥深くまで進入する。これに 追われるように、関東平野の早期人たちは内陸を目指 したのだろう。

 二つめには、鬼界ヶ島の大噴火によって吹き上げら れた大量の火山灰が降下したことによって、日本列島 の、特に西日本の太平洋岸では大きな打撃を受けた事 が知られている。今からおよそ 6,300 年前のアカホヤ の降下は、東海地方の早期文化を壊滅させたといわれ ている(8)。海と空から攻められた東海地方の早期人た ちも、天竜川や木曽川、長良川の源流を目指し、内陸 へ向かった。その一群が天竜伝いに諏訪盆地へたどり 着いたに違いない。

 なぜ諏訪湖を目指したのか。海から遠く離れた山間 の湖。そこから水は流れ、人はそれをたどる。またそ の一方で、彼らにとって魅力的なもの、黒曜石があっ たことも忘れてはならない。花積下層文化の民は北関 東から浅間山麓に腰を下ろし、在地化する。そこから 山々を越え、諏訪湖の北岸や霧ヶ峰の南麓に至るルー ト、和田峠も、麦草峠も、いずれも黒曜石の原産地で ある。古くから、縄文時代の遙か以前から、人々が行 き来した道なのである。

 前期初頭〜前葉 このように中部高地に展開した3 つの土器文化が入り交じり、融合して中越という独自 の文化を形成する。住居の形態は在地化した木島系な がら、花積下層系の流入が見られる諏訪盆地や霧ヶ峰 南麓、八ヶ岳西麓には小型の石囲い炉が採用されてい る住居もある(9)

 土器のスタイルは在地化した木島系のものが主流を なすが、胎土に繊維をまぜた尖底の土器は下吉井式の 伝統を引き継いだ。さらに、ここでは詳述できないが 石器群の様相は、明らかに3者が混在した様子を示し ている。一例を挙げれば、五角形の石鏃や礫端叩き石 は東海から木島式に、粗刃礫器は下吉井式に、中期的 な使用面を持つ磨りうす(石皿)や砥石は花積下層式 に伴って中部高地へ入ってきたものと考えられる(10)  前期前葉に広がった中越文化には大規模な “ 拠点 ” 的集落が一定の距離を置いて営まれる。またこのころ より環状集落の形成も始まるようだ。また住居も企画 性が強く、整っている(図7)。さらに中越文化に固 有な形態の建物が出現するが(図6)、阿久、阿久尻、

坂平など、ある程度規模の大きな、限られた集落にの み作られていることも注意を要するだろう。

 黒浜並行期から諸磯式期 集落数はやや減少傾向と なる。伊那谷では中越など、中越期にあった集落は姿 を消す。同様に諏訪盆地および八ヶ岳西麓では、まと

図7 前期初頭の住居址(坂平遺跡)

まった集落は十二ノ后、阿久に限られるといって良い ほどになり、かつ両遺跡とも諸磯b式期で終わり、そ の後へは継続しない。

 一方で八ヶ岳南麓から笛吹川左岸は中期と同じ遺跡 立地がとられ、集落数も安定している。ただその中で 釈迦堂は十二ノ后、阿久と同様に諸磯b式期でいった ん跡切れる集落である。さらに八ヶ岳南麓では諸磯b 式期からはじまる集落もあり、これらは諸磯c式期(前 期末)へと継続する集落となる。

 なおこの時期、大町、白馬方面では集落が増加する という(11)。滑石や蛇紋岩製品が中部高地にも多数流入 する時期であり、このようなものとの関連が推察され る。のちにヒスイが運ばれる、いわゆる jade route で ある。

 前期末 諸磯a、b式期にあれほど集落がなかった 諏訪盆地、八ヶ岳西麓、それに松本盆地南縁に忽然と、

ふつふつと水が湧き出るように集落が急増する。近年 の調査によれば、和田峠や星ヶ塔では、黒曜石の採掘 がはじまったのは諸磯c式期だといわれている(12)。そ のような資源の積極的な活用が始まり、急速に各地に 広まっていった事も、ここに人が集まる一因になって いる可能性は否定できない。

 ここに八ヶ岳南麓と、少しとんで笛吹川左岸を加え た地域に、集中して集落が形成される様子が見て取れ る。これらの集落は斜面を選んで営まれるが、その真 の理由ははっきりしない。いずれにしてもこの地域を 中心に中期初頭にかけて集落が増加していく。この様 子は、極端な遺跡の減少傾向を示す関東地方とは、全 く様相を異にしている。繰り返すようだが、松本盆 地南縁から笛吹川左岸までの、直線距離にしておよそ 100 ㎞の地域、この場所こそが、井戸尻文化の心臓部 なのである。

 そして中期へ 前期末、斜面に家を建てていた人々

(8)

は、やがて台地や尾根の平坦部に進出して集落を形成 する。石鍬や石庖丁、磨り石類を石器組成の中心とす る、中期の、井戸尻文化の始まりである。そして隆盛 期である藤内式期になると、伊那谷、関東地方へ広く、

急速に拡散していく(13)。そのような広まりは集落の消 長からみれば、中越という文化の成立を背景に、拠点 的な大規模集落がこの地に形成された、前期初頭にそ の淵源をたどることができるといってよいのではない だろうか。

4 おわりに

 では改めて、なぜこの地であったのか。本稿でまと めた集落の様子のみからでは、その真の理由を説明す ることは難しい。私たちが知りえる集落の消長は、あ くまでも人の動向の結果にすぎないからだ。黒曜石の 流通のような物質的側面だけではなく、火山や天竜川 の源である諏訪湖の存在など、ある意味では精神的要 因も大きいのではないかと考えているが、客観的に証 明することは極めて困難といわざるを得ない。

 しかし中期の隆盛はいきなりそこからはじまったも のではなく、前期の初頭まで、その道筋はたどりうる ということができる。そして、たしかに出土する石器 や土器は、人々や文化の動きを物語っているが、本稿 の内容にも詳細な検証を必要とする点は山のように残 されている。個々のテーマにも、興味を引かれるもの が少なくない。しかし今回は、広く大きな視点から前 期集落の展開を捉えることにより、一つの方向性、手 がかりを提示できたものと思う。今後地域を広げてい くこととともに、より細部を検証しながら、最終的に は地域における文化の成立と発展を捉えていきたい。

 そうは言っても、井戸尻考古館に来館されたお客様 の疑問に答えられるようになるには、まだまだずいぶ んと時間がかかりそうである。

 (本稿は 2005 年 6 月 11 日に金沢大学で開催された 考古学大会での発表をまとめたものである。)

1 『坂平』 2004 長野県富士見町教育委員会

2 1996 年に横浜市歴史博物館で開催された企画展「幻の縄文 土器の時代」による。

 『幻の縄文土器の時代­都筑区桜並遺跡の発掘調査の成果­』 

 1996 横浜市歴史博物館

3 今村啓爾 1992 「縄文前期末の関東における人口減少とそ れに関連する諸現象」『武蔵野の考古学 吉田格先生古稀記念論 文集』

4 樋口昇一 2002 「Ⅵまとめ」『女夫山ノ神・牛売沢・鳶ヶ 沢遺跡』長野県塩尻市教育委員会

5 前掲書 註1

6 ここで「文化」と表現しているのは、土器だけが動いてい るのではなく、石器群の様相や住居、遺構など生活様式全般に わたって、諸要素の広がりが認められるためである。

7 『井戸尻遺跡』 1994 長野県富士見町教育委員会

8 神奈川考古同人会主催のシンポジウム「縄文時代早期末・

前期初頭の諸問題」において山下勝年氏が報告している。

 『神奈川考古』18 1984 

 また近年、アカホヤの降下や海進などの現象が当時の生活に 与えた影響について考察する論考も散見される。

 坂野俊哉 2005 「楠廻間貝塚を取り巻く諸環境」『楠廻間貝  塚』知多市教育委員会 など

9 下諏訪町武居遺跡 11 号住居址、茅野市広井出遺跡 5 号住居 址などがその好例。

 『武居遺跡』 1997 長野県下諏訪町教育委員会  『広井出遺跡』 1995 茅野市教育委員会 10 前掲書 註1

11 長野県大町市教育委員会の島田哲男氏のご教示による。

12 長野県下諏訪町教育委員会で黒曜石原産地遺跡の調査を進 められている宮坂清氏のご教示による。

13 島田哲男・五味一郎・長崎元廣・小林公明・樋口誠司・小 松隆史

 「座談会 井戸尻文化の時代 ­その黎明と展開と変容­」より  『井戸尻考古館建館三十周年記念 講演録集』 2005 井戸尻  考古館・富士見町教育委員会

参照

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