【学位論文審査の要旨】
1 研究の目的
本学位論文の目的は,いくつかの重要な例に対する研究に基づき可積分系(積分可能な 偏微分方程式系)の代数的な構造の解明に寄与することである.可積分系の多くは無限の 対称性をもった非線形偏微分方程式である.それらを直接的に解くことは難しい,もしく は不可能であるが,対称性によりそれらの解は極めて特殊な構造をもつ.無限次元対称群 の存在などにより,多くの場合これらの対称性は代数的な性質をもつ.この代数的な特徴 からは,解の明示的な表示が得られる場合があり,また解に対する間接的な情報が得られ る場合もある.本学位論文では特にKdV方程式とtt*戸田方程式に注目し,次の2つの目 的で研究を行った.
(1) KdV方程式を含む古典的な可積分系の階層に対して,D加群理論の視点からの解釈を 与えること.
(2) M. Guest, A. Its, C.-S. Linによって研究が行われたtt*戸田方程式の解について,その 代数的性質をより詳細に解明すること.
2 研究の方法と結果
Horocholynはこれまでに,次にあげる重要な可積分系について研究を行った.
(i) Frobenius 多様体のポテンシャルに対するWitten-Dijgraaf-Verlinde-Verlinde方程式
(WDVV 方程式),特に 2 次元複素射影空間𝐂𝐂P2の量子コホモロジーから得られる Frobenius多様体に対するWDVV方程式
(ii) KdV方程式とn-KdV方程式のD加群による定式化
(iii) tt*戸田方程式,これはCecotti-Vafaによるtopological-antitopological fusion equation
(tt*方程式)の特別な場合になる.特に,tt*戸田方程式は𝐂𝐂Pnのような多様体の量子 コホモロジーの実構造を記述する.
(iv) 平面曲線のフローから得られる変形KdV方程式(mKdV方程式)の幾何学的な表示
最も重要な結果は (ii) と (iii) に対して得られたものであり,それぞれ本学位論文の前半と 後半において解説されている.
論文の前半はKdV方程式に関する研究内容である.KdV方程式はよく知られた可積分系 であるが,豊かで新しい性質・現象が現在でも発見され続けている.その代数的な性質に ついては1970年代から研究が始められており,特にLax方程式および(擬)微分作用素の なす環との関係については当初から研究が行われていた.一方で,"From quantum cohomology to integrable systems" (M. Guest, Oxford University Press, 2008)では量子コ ホモロジーの理論に動機付けられ,D 加群理論からの新しい観点が見出された.特に,新 しい側面はD加群が有限階数であるということであった.本学位論文では,このD加群理 論の観点からKdV階層の理論に対する新しいアプローチを与えている.このために,代数 的微分方程式の理論における"eigenring"の概念を用いている.Horocholyn は,KdV 階層
に対する多くの古典的理論を学び,いくつかの良く知られた手法は新しい観点からより概 念的に解釈できることを発見した.たとえば,Lagrange恒等式はD加群理論を用いて記述 され,それはKdV階層の構成を理解する上で有益であることを実証している.本学位論文 では,さらにこれをより一般のn-KdV階層の場合に拡張している.本学位論文で与えられ たD 加群理論からのアプローチは,可積分系の階層に関する研究のさらなる発展のために 有用であると期待される.
後半はM. Guest, A. Its, and C.-S. Linによって発見されたtt*戸田方程式に関する内容で ある.tt*戸田方程式は 2次元戸田格子(戸田場方程式)の特殊な場合である.2 次元戸田 格子は関数w0, … , wnに関する非線形楕円型偏微分方程式として知られている.1990年代に Cecotti-Vafaにより𝐂𝐂 − {0}上での解の存在が予想され,2010年代になりGuest-Its-Linに よりこの予想が正しいことが証明された.tt*戸田方程式にはアイソモノドロミー変形の特 性がある.すなわち,この非線形偏微分方程式はモノドロミー・データが一定であるよう な有理型常微分方程式の族として記述される.このモノドロミー・データは有理型常微分 方程式のある Stokes 行列Sに帰着され,解空間のパラメータ表示を与える.物理学的な考 察(超対称量子場理論において期待された変形の性質)に基づき,Cecotti-VafaはこのStokes 行列に対して豊富な代数的性質を予想し,実際それらの予想のいくつかはGuest-Its-Linに より解決された.本学位論文の主結果の一つは対称化されたStokes 行列S + STが正定値に なるための条件に関するものである.この条件は Cecotti-Vafa の研究において重要な役割 を果たしており,事実として,行列S + STが正定値ならば,モノドロミー行列M(S)の固有値 の絶対値はすべて1となり,そのような行列はtt*戸田方程式の解に対応していることが知 られている.したがって,モノドロミー行列M(S)の固有値の絶対値が全て 1 であり,かつ
S + STが正定値であるような行列S全体の集合を明示的に記述することが問題となる.
Horocholynはこの問題に対して完全な解答を与えた.これは本質的には代数的な問題であ
るが,得られた結論は驚くべきものである.行列S + STが正定値であるための必要十分条件 は関連したモノドロミー行列M′(S)の固有値が1の(n + 1)乗根の組み合わせとなることであ る.これによりS + STが正定値であるようなStokes行列S全体の集合はある凸多面体の内部 と集合同値となることを示した.この条件は Beukers-Heckman による超幾何微分方程式 に関する研究でも現れた.この理由と関連性を探ることは今後の課題となる.Horocholyn の得た結果と彼の理論はtt*戸田方程式の今後の研究において有用であると期待される.
3 審査の結果
学位論文の前半で扱ったKdV方程式に関しては長い研究の歴史があり,膨大で詳細な文 献が存在している.Horocholynは標準的な方法とは異なり,D加群理論からアプローチす ることができる適切な問題と設定を探すことを目指した.ソリトン理論の創成期である 1970年代に立ち戻り,幅広い文献から知識を修得した.本学位論文にはこの分野における 彼の研究成果の一部が含まれている.Horocholynは複数の異なる方向性で研究を進展させ
ており,そのいくつかは今後の課題として研究を続けることになると思われるが,本学位
論文ではn-KdV階層のD加群の側面に注力している.このn-KdV階層に関する研究成果
は,論文として現在学術雑誌に投稿中である.一方で、後半の内容の研究においては,WDVV 方程式や tt*戸田方程式のような比較的新しい方程式に関して詳しい文献がなかったため,
研究の背景を理解するために,たくさんの最新の論文を読むことが必要であった.これに
よりHorocholynは自身の研究により高度な技術と概念を取り入れることができ,特にtt*
戸田方程式の研究においては,優れた技術的な能力を発揮した.この内容に関する研究成 果は学術論文としてTokyo Journal of Mathemaicsに掲載が決定しており,既に学会・研 究集会等で口頭発表を行っている.
Horocholynは博士課程在学中の研究を通して非常に真剣に研究を続けた.カナダの大学
の学部では物理学を専攻していたため,大学院に進学してから数学の研究課題に取り組む までに,幾何学や可積分系に関する多くの基本的な知識と概念を学ぶ必要があった.一方
で,Horocholyn は高度な数学的技能と計算能力をもっており,これまでの研究を通して,
自身のアイデアに基づき,独立した研究ができることを証明している.以上の理由により,
本学位論文は博士(理学)の学位に十分値するものと判断する.
4 最終試験の結果
最終試験として,2016年7月20日に学位論文公聴会を開き,学位論文の内容に関 する発表と論文審査委員および数理情報科学専攻の教員による質疑応答を行った.その結 果,申請論文が博士の学位論文としてふさわしく,かつ申請者が自身の専門および関連分 野に関して十分な学力を有するものと認め,合格と判定した.