冷戦後における国連平和維持活動の変容
ー国際組織における組織文化とリーダーシップの役割1
秋 山 卓 哉
はじめに
一 先行研究の整理
二 組織文化としてのPKΩ二原則
三 第二次世界大戦後の人権・人道規範の発展
四 変化の阻害要因としてのPKΩ二原則とアナン事務総長のリーダーシップ
おわりに −
唱
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 二九九
三〇〇
はじめに
冷戦後︑国連平和維持活動︵PKO︶は大きな変容を遂げた︒多くのPKOが設置され︑規模も拡大し任務の内容も
著しく多様になった︒冷戦期のPKOは軍の撤退や停戦監視︑兵力引離しなど限定的な任務を主とし︑その役割も紛
争の根本解決というよりは︑PKOが介在することで紛争を一時的に停止し︑他の主体による紛争の根本的解決をお
膳立てするというものであった︒こうした任務を担うPKOはしばしば伝統的PKOと呼ばれる︒冷戦後のPKOは
選挙・民主化支援︑DDR︵動員解除︑武装解除︑社会への再統合︶︑難民・避難民の帰還支援︑人権の普及・促進︑
経済再建︑警察機構の再建を行うようになり︑時にはPKOが受入国の行政を肩代わりして暫定統治を行うまでに ︵1︶ ︵2︶ なった︵PKOの複合化現象︶︒それにも増して重要なのが︑国連憲章第七章とPKOが結合し︑PKOが平和強制を ︵3︶ 担う事例が現れたことである︵平和強制との結合現象︶︒PKOは伝統的に非強制的活動であった︒以下で詳しく述
べるが︑PKOは紛争当事者の同意に基づいて設置され︑特定の政治的解決を強制せず︑現地に展開したPKOも自
衛以上の武力を行使することはしない︒軍隊を伴うという点ではPKOと集団安全保障は共通するが︑集団安全保障
は平和の破壊や侵略行為を強制力や制裁によって平和の維持︑回復を目指していることから︑強制的な平和維持方式
︵4︶ といえる︒PKOと憲章第七章が結合することはPKOの性格が根本的に変容することを意昧する︒第二次国連ソマ
リア活動︵UNOSOMH︶は国連の下で行われた初の平和強制活動である︒また旧ユーゴスラビアに展開した国連保
護軍︵UNPROFOR︶は︑派遣当初は伝統的PKOであったが︑現地情勢が悪化する中で任務が拡大し︑憲章第七章
に基づく武力行使が認められ︑事実上平和強制活動へと移行した︒PKOによって平和強制を実施することは野心的
な試みであったが︑UNOSOMHは現地武装勢力との武力衝突に陥りソマリア紛争の解決に貢献することなくソマリ
アから撤退し︑旧ユーゴにおいてもUNPROFORは一九九五年七月に発生したスレブレニツァの虐殺を目前で許す
という屈辱を味わった︒ソマリアの失敗によって国連はPKOによって平和強制を行うことを諦め︑伝統的なPKO
に回帰することを選択する︒一九九三年にルワンダに派遣された国連ルワンダ支援団︵UNAMIR︶は︑伝統的
なPKOであった︒しかし︑UNAMIRは一九九四年に発生したジェノサイドに何ら効果的な手段を講ずることもで
きず︑PKOが展開する中で虐殺が繰り広げられた︒これら一九九〇年代前半のPKOの失敗によってPKOおよび
国連の権威は完全に失墜した︒一九九〇年代後半もPKOは新設されるものの︑一九九〇年代前半のような大規模で
野心的な任務を担う長︒が新設される︸﹂とはなかつ垣
しかし︑二〇〇〇年前後︑特にブラヒミ報告書が作成された二〇〇〇年以降になるとこの傾向が逆転する︒一九九九年
一〇月に国連シエラレオネ・ミッション︵UNAMSIL︶が設置されると︑その後も国連コンゴ民主共和国ミッショ
ン︵MONUC︶や国連リベリア・ミッション︵UNMIL︶︑国連コートジボア寸ル活動︵UNOCI︶など多くのPKO
が新設された︒これらのPKOの特徴は︑その多くに憲章第七章が援用される点である︒これらのPKOは平和強制
ではないとされるものの︑規模も大きく︵数千から二万人程度︶︑武器の使用基準も伝統的PKOより緩和されてい
る︒伝統的にPKOが武力を行使できるのは自身を守るという狭い範囲での自衛の場合だけであった︒しかし︑ブラ
ヒミ報告書以後のPKOは︑人道援助機関や治安維持︑DDRの実施︑そして一般市民の保護のために一定の範囲で
武力を行使することが憲章第七章によって認められているのである︒このような大規模で任務遂行のために従来に比
較して緩やかな基準で武力行使を認められているPKOを強化された︵80已ω﹇︶PKOと呼ぶことがある︒憲章第七 章を根拠として一般市民保護等のために武力行使が認められる傾向はほぼ定着したといってよい︒初のPKOが創設
されてから六〇年以上が経過したが︑冷戦期のPKOと今日のPKOに大きな違いが存在するだけでなく︑ポスト冷
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三〇一
三〇二
戦期だけを見てもPKOは様々な変化を経験しているのである︒本論文はこうした変化をもたらす要因を明らかにす
ることを目的としている︒
今日のPKOの変化はブラヒミ報告書を基に行われており︑そのブラヒミ報告書は主にルワンダとスレブレニツァ
におけるPKOの失敗の反省に基づいて作成されたものである︒ブラヒミ報告書はPKO三原則の再解釈を促し︑人
道危機に対応するためにPKOを強化することを提言する︒しかし︑ルワンダ︑スレブレニツァの失敗がすぐにPKO
の強化を促したわけではなかった︒国際環境は人道危機に対して一定の対応をPKOに要求していたが︑PKOがそ
のような方向に直線的に変容してきたわけではない︒ソマリアの失敗はPKOを伝統的なものに回帰させる結果をも
たらしたが︑伝統的PKO回帰の方向はルワンダやスレブレニツァの悲劇を受けてもすぐに変化しなかったのである︒
このことは国際環境の変化が直接にPKOの性格を決定付けるわけではないこと︑及び失敗経験がすぐにPKOの改
革につながらないことを示している︒したがって何がPKOの変化をもたらす要因となるのかを改めて問い直す必要
があるのである︒
本論文の構成だが︑まず第一節においてPKOの変容に関する先行研究を概観しその問題点を明らかにする︒第二
節では︑PKOの基本原則である三原則の概要とPKO三原則が組織文化としての性格を持つようになったことを説
明する︒第三節で人権・人道規範が第二次世界大戦後の国際社会の重要な規範となってきたことと︑冷戦後国内紛争
の解決を求める声が高まってきたことを示す︒第四節では︑ルワンダの事例から︑国際環境がPKOに人道的な対応
を要求していたにも関わらず︑PKOが必ずしもその要求に応えてこなかったことを指摘する︒確かにPKOは能力
不足という深刻な問題を抱えていたが︑問題はPKOの能力不足だけではなくPKO三原則を尊重するという国連事
務局の態度にもあった︒また︑ルワンダの事例は二〇〇〇年以降のPKOの改革に大きな影響を与えるが︑本論文で
はルワンダの事例がすぐにPKO改革につながったわけではないことを示す︒ルワンダの失敗経験の抜本的な見直し
が行われたのは︑国連事務総長がガリからアナンに変わってからであった︒国際環境は人道的介入を支持する方向に
徐々に変化していたが︑PKOが国際環境の変化に対応するまでには事務総長の交代等のイベントが必要だったので
ある︒最後に国際政治学におけるリーダーシップや組織文化の研究の重要性を指摘して本論文の締めくくりとする︒
一.
謐s研究の整理
本論文は︑PKOに変化をもたらす要因を明らかにすることを目的としている︒では︑先行研究においてPKOの
変化はどのように理解されてきたのだろうか︒大きく二つの立場に分けることができるように思われる︒一つは国際
秩序や国際規範の変化をもってPKOの変化を説明する立場︒もう一つが︑国連事務局等の実務家が過去のPKOの
教訓をもとに改革を行ってきたとする立場である︒ ︑
まず︑前者の立場の研究を取り上げる︒バーネット︵言⇔冨Φ一ヒ⇔自ロ⑦巳は国家主権概念が変容したことがPKO
の変化をもたらしたとする︒第二次世界大戦後の国家主権観は法的主権︵冒ユ合6巴︒・︒<2虫ひq口昌︶に基づく主権観で
あり︑国内問題と国際の平和と安全の問題を結びつける発想は希薄であった︒そのような主権観のもとでのPKOは︑
新興独立国の法的主権と領域的一体性を促進すること︑および超大国が地域紛争に関与することを防ぎ︑超大国間の 対立を弱めることが目的となったのである︒冷戦が終結すると主権観は経験的主権観︵o日O日6巴吻o<Φ旦管q︶へと
変化し︑国家の正当性の要件として民主主義が重要視されるようになった︒経験的主権観のもとでは︑国内の脅威が
国家および国際秩序に影響すると理解されるようになり︑PKOの任務も主権観の変化に伴い国内の治安や秩序に関
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三〇三
三〇四
与するものが含まれるようになった︒選挙や民主化支援が任務に加わり︑内戦から民主的社会への移行支援や︑人権 ︵8︶ 規範を普及することがPKOの任務となったのである︒
ベラミー︵≧o×ロ①=①日く︶らも国際秩序の変容からPKOの変化を説明する︒彼らによれば国際秩序はウェスト
ファリア的なものからポスト・ウェストファリア的なものへと変容し︑それによってPKOもウェストファリア的な
ものからポスト・ウェストファリア的なものへと変容したとする︒ウェストファリア的秩序では︑国家主権尊重原則
と内政不干渉原則が中心的な価値であり︑内政不干渉原則を守ることが国際の平和と安全につながると考えられた︒
PKOもそのような秩序の性格を反映し︑国家間紛争の解決が中心的役割となり︑紛争当事者の同意の確保と内政不 ︵9︶ 干渉がPKOの基本原則となる︒伝統的PKOはウェストファリア的PKOの典型例である︒対して︑ポスト・ウェ
ストファリア的秩序とは自由民主主義的な価値に基づく秩序である︒国内の政治体制が当該国家の国際場裏における
行動に連関しており︑リベラルな国家間関係の安定のためには︑国内の政治体制が自由民主主義的なものでなければ
ならないとされる︒そのため︑ポスト・ウェストファリア的秩序において︑PKOは︑単に国家間の関係に対処するだ
けではなく︑国内の平和と安全の任務を負い︑紛争後の国内社会を自由民主主義的なものに再建することがその目的
とされるのである︒歴史はウェストファリア的秩序からポスト・ウェストファリア的秩序へと移行しており︑PKO
はポスト・ウェストファリア的秩序の維持に貢献するために実施されるのである︒
続いて世界政体論を取り入れたパリス︵国o■邑霊叶﹂ω︶の研究を挙げる︒世界政体論は︑世界を一つの社会と捉え︑
国際社会生活を規律するフォーマルまたはインフォーマルなルールによって構成されるグローバルな文化が存在する
︵10︶ と考える︒また︑パリスによれば︑PKO活動は紛争解決のための合理的計算だけに基づくのではなく︑ある政策を
正当化するグローバルな規範に基づいて行われている︒冷戦後のPKOは︑迅速な民主化や自由化が平和につながる
というグローバルな文化に依拠して行われている︒また︑長期的な信託統治のように紛争解決に有効であっても規 ロ 範に反する戦略は排除されてしまう︒このようにPKO活動は有効性よりも規範的に正当な原則に基づいて実施され
ているのである︒
次に国連事務局や実務家に注目した研究を取り上げる︒ダーチ︵ぐく法一①日一︶︹ROず︶らは︑ブラヒミ報告書以降のPK
Oの改革状況を評価し︑強化されたPKOが多く設立されるようになったこと︑国連事務局の情報収集・分析能力の
強化が進んでいないこと︑PKO待機軍制度の強化が進んでいないこと等を指摘する︒彼らは国連事務局のみに注目
しているわけではないが︑PKOの変化や改革の進展︵もしくは停滞︶に関する実務家の努力に焦点を当てていると ロ いってよい︒また︑実務家の学習に注目する研究としてフォズディック︵﹄﹁コO① ヴOo◎ユ一〇犀︶がある︒彼女は学習を学習
の欠如︑誤った学習︑学習の成功に分類し︑一九九〇年代初頭のPKOの経験から実務家が何を学びそれがどのよう
な変化に結びついているかを検証している︒国連事務局に関しては︑♂国連事務局内の組織改革︵平和維持活動局
︵DPKO︶や政務局︵DPA︶︑人道問題局の設立︶が行われたことや︑教訓ユニットの設立などのDPKOの強化が学 ︵14︶ 習の具体的成果として指摘されている︒
以上︑先行研究を二つの立場に分けて説明してきたが︑両者とも不十分な点を抱えている︒国際秩序や規範の変化
からPKOの変化を説明する立場であるが︑確かにPKOは国際秩序や規範から大きな影響を受け︑冷戦後のPKO
もポスト冷戦期の秩序や規範に合致する方向で発展してきたといえるだろう︒しかし︑秩序や規範の変化が自動的に
PKOの変化をもたらすわけではないし︑変化が起こるとしても直線的に秩序や規範に合致する方向で変化するとは
限らない︒人権・人道規範は冷戦が終わるとますます普及し︑武力紛争で苦しむ一般市民を救うための武力行使を求
める声も強まった︒それにも関わらずPKOはソマリアの失敗によって︑PKOは内戦に介入することに消極的にな
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三〇五
三〇六
った︒UNAMIRはルワンダの虐殺に対して無力であったとされるが︑UNAMIRが効果的な対応をできなかった要
因は能力不足というだけでなく︑国連事務局内部に人道危機に対応することを妨げる信条が存在していたためである︒
そしてガリ事務総長期には︑ルワンダやスレブレニツァの虐殺にも関わらずこうした人道危機に対応するためにPK
Oを改革する動きは見られなかったのである︒PKOの変化が起きたのはガリ事務総長が任期を終え︑コフィ・アナ
ンが事務総長に就任してからであった︒事務局内部の教訓の蓄積からPKOの改革を説明する立場は︑組織の側の反
応を指摘しているものの︑説明が記述的であり︑組織の変化を促進︑もしくは阻害する要因やメカニズムを十分に解
明できていないという問題を抱えている︒PKO改革における学習の重要性を指摘するフォズディックにしても︑学
習の分類と具体的な組織改革との間の因果関係が明確ではない︒すなわち︑事務局の改革が学習の欠如︑誤った学習︑
学習の成功のどれに基づいて行われたかが明らかでないのである︒本論文では︑事務局に注目し︑変化を促進︑もし ︵16︶ くは妨げる要因を明らかにする︒
国連事務局がPKOの変容に果たした役割を考察するうえで︑本論文では組織文化という概念を用いる︒組織文化
を研究するシャインによれば︑組織文化とは﹁ある特定のグループが外部への適応や内部統合の問題に対処する際に ︵17︶ 学習した︑グループ自身によって︑創られ︑発見され︑または︑発展させられた基本的仮定のパターン﹂として定義
されるものである︒言い換えれば︑組織文化とは︑組織のメンバーの間で共有された価値や信念︑習慣の束であり︑ ︵18︶ 何が重要で何がそうでないかの基準を与え︑組織の認識や行動を方向付ける機能がある︒組織文化は︑組織が問題
を含んだ状況に直面し︑問題解決のための努力の中で形成される︒文化として根付くのは︑その当該問題の解決に成
功した行動であり︑問題解決策として機能するものである︒そして問題解決の成功が繰り返されることによって一つ ︵19︶ の信念や行動様式として確立するのである︒
一般に目標達成の失敗等の失敗体験や環境の激変は組織に変化をもたらすと考えられがちであり︑変化しないこと
は非合理的であると思われるだろう︒しかし︑現実には失敗経験がただちに組織に変化をもたらすわけではない︒組
織文化はしばしば組織変革の障害と理解される︒文化の機能障害は確かに組織変革︵組織文化の変革︶の契機となる︒
しかし︑失敗経験がかえって既存のやり方に対するコミットメントを増加させることも多い︒特に組織が目標達成に
失敗し︑環境からの脅威を認識した場合︑新しい対応策を考えるよりもこれまで慣れ親しんできたやり方を選択する
傾向がある.組織が強いストレス下にあるからこそ経験を積み重ねてきたやり方に頼ろうとするのであ︵摯単に失
敗や環境の変化があるだけでは組織変革を引き起こすには不十分であり︑変革を起こすには変革を牽引するリーダー
の存在が不可欠である︒既存の組織文化が機能障害を起こしていることを認識し︑変革の方向性を示せるリーダーが
いなければ組織変革は困難であるか・もしくは不+分な変革しかなされないであろ︵蓼
このように組織文化は組織の成功体験の蓄積により生成および強化されるものである︒それは組織の行動を規定し︑
そしてしばしば組織変革の障害となるのである︒
もしPKOに関する組織文化が存在するとすれば︑たとえ国際環境の変化やPKOの失敗があってもただちにPKO
が変化しない可能性が考えられるだろう︒そしてPKOが変化するためには国連内部にPKOの変革をリードする存
在が必要になる︒以上のことから︑国際秩序や規範の変化だけではなく組織内部の力学を考察する必要があると考え
るのである︒次節ではPKO三原則がPKOに関する組織文化であることと︑PKO三原則がPKOの組織文化とし
て確立するまでの過程を明らかにする︒
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三〇七
三〇八
二.組織文化としてのPKO三原則
前節で︑組織の側の力学を分析するうえで組織文化が重要であることを指摘したが︑PKOに関して組織文化に該
当すると考えられるのがPKO三原則である︒長〇三原則はPKOの基本原則であり︑それはPKOの経験の蓄積に
よって明確になり尊重されるようになった規範である︒以下︑PKOの成功および失敗の経験から組織文化としての
PKO三原則が確立される過程を明らかにする︒
PKO三原則は︑同意原則︑中立・不偏不党性原則︑自衛原則によって構成される︒同意原則とは︑PKOが現地 の に展開して活動を実施するためには紛争当事者からその旨の同意を得ることが必要であるという原則である︒同意
原則はPKOを強制活動と区別するための重要なメルクマールであり︑そのため同意原則は﹁平和維持活動の全過程 お を貫く根幹的な原則﹂であるとされる︒
中立・不偏不党性原則は︑PKOは﹁公平な第三者的役割﹂として振る舞い︑当事者の一方に肩入れし︑特定の政
治的解決を強制してはならないという原則である︒また︑受入国政府当局の機能と分離して活動し︑国内問題に介入 ︵24︶ ︵25︶ することは禁止される︒常任理事国や利害関係国の排除もこの原則に由来している︒中立・不偏不党性原則におけ
る中立性とは厳格なものが要求され︑道義的に国際社会から非難されている紛争当事者に対しても差別的でない通常 ︵26︶ の関係を維持することが求められる︒ ︵27︶ 自衛原則とは︑PKOが武力を行使できるのは自衛目的に限定されるという原則である︒武力行使は最終手段であっ
て︑PKOが武力行使のイニシアチブをとってはならない︒PKOは非強制的な活動であるため︑自衛を超える武力
を行使してしまえばPKOと戦争を区別することは困難となる︒したがって自衛原則もPKOを強制行動と区別する
ためのメルクマールである︒
PKO三原則はなぜ生まれたのか︒第一に挙げられる理由として︑国際法上の必要性があったことを指摘できるだ
ろう︒初のPKOは一九四八年にパレスチナ戦争の停戦監視のために設置された国連休戦監視機構︵UNTSO︶であ ︵28︶ るが︑制度として確立する契機となったのは一九五六年に設置された第一次国連緊急軍︵UNEFI︶であった︒一
九五六年︑エジプトのナセル大統領はスエズ運河会社の国有化を発表したが︑それに反発したイギリスとフランスお
よびイスラエルはエジプトに侵攻し︑スエズ動乱︵第二次中東戦争︶が発生する︒三力国思惑とは反対に︑アメリカ
は三力国の行動を非難し︑撤兵を要求する︒ソ連も軍事介入をちらつかせながら三力国に圧力をかけた︒アメリカは
安全保障理事会の開催を要求し︑停戦のための決議案を提出したが︑イギリスとフランスの拒否権行使により決議案
は否決される︒常任理事国のイギリスとフランスが紛争当事国であったため安保理での解決は期待できず︑ユーゴス ︵29︶ ラビアの提案により﹁平和のための結集﹂決議の手続に基づき︑緊急特別総会が開催された︒緊急特別総会でカナ
ダ外相ピアソンは︑中東和平のために国連のプレゼンスが必要であると訴え︑国際的な平和警察軍の設置を主張した︒
カナダの主張をもとに総会決議九九八が採択され︑ハマーショルド事務総長に国際軍の計画立案を要請した︒ハマー
ショルドの計画案を受けて︑総会決議一〇〇〇によりUNEFIが誕生したのである︒
UNEFIの設置が総会決議によって認められた点が重要である︒安保理決議と異なり総会決議には法的拘束力が
なく︑あくまで勧告の効果しかもたない︒そのため国連憲章第七章以外の国連の軍事活動には︑一般国際法上の原則 ︵30︶ から紛争当事者の同意が必要となるのである︒UNEFIの経験をもとにハマーショルド事務総長は一九五八年に事
務総長報告書﹁UNEFの設置および活動に基づく経験の研究摘要︵以下︑研究摘要︶﹂を総会に提出した︒研究摘要
はPKOの制度化を意図して作成された事務総長報告書であり︑PKOの基本原則はこの報告書によって確立したと
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三〇九
三一〇
いってよいだろう︒研究摘要の一五段落で︑ハマーショルド事務総長は﹁緊急軍の設置を決定した最初の緊急特別総
会は︑﹃平和のための結集﹄決議に基づいて要請された︒したがって︑一般に認められた国際法から当事者の同意が ︵31︶ 必要であるという点で︑UNEFの活動は必然的に制限されるのである﹂と述べ︑一五五段落でも︑﹁本報告書におい
て議論の対象となるのは︑憲章第七章で予定されていた型の軍隊ではないため︑国際法上および憲章上︑国連は当該
政府の同意なしに加盟国の領域で部隊を駐留させ活動を実施することはできない︒︵中略︶これらの原則は近年の中 ︵32︶ 東における国連の活動で遵守された︒これらの原則は当然︑将来の同様の活動全てに対して妥当する﹂と指摘する︒
このように同意原則は国際法および憲章上の必要性から生まれたものといえる︒
しかし︑同時にPKO三原則はPKO成功のための条件として理解されている︒一九八六年から一九九三年まで特
別政治問題担当国連事務次長を務め︑事務局のDPKO創設にも尽力したグールディング︵呂曽冨900ロ巨R︶は︑
同意原則が存在することによって︑紛争当事者がPKOを脅威と認識しないためPKOが受け入れやすくなり︑結果 ︵33︶ としてPKOの成功可能性を高めると評価する︒中立・不偏不党性原則に関しても︑PKOがひとたび中立性を放棄し
てしまうと紛争当事者の信頼を失い︑最悪の場合紛争当事者から敵と認識されてしまい︑PKOの失敗につながって
しまう︒また︑旧ユーゴでPKOに携わり︑後に事務局の広報局担当事務次長に就任したタルール︵Q力①oカゴ一 ぺ﹃口①﹁OO﹁︶
は︑中立・不偏不党性原則を﹁PKOの酸素﹂とし︑PKOが機能する唯一の方法は紛争当事者から信頼されること ︵34︶ であるとして︑中立・不偏不党性原則の重要性を評価する︒PKO三原則をPKO成功のための必要条件と捉える見
方はPKO活動の蓄積を通じて強化されてきた︒次に初期のPKOの事例から認識形成の過程を追うことにする︒
前述のUNEFIは一般に成功したと評価されている︒UNEFIはエジプトの同意撤回によって活動を終了したが︑ ︵35︶ 直後に第三次中東戦争が勃発したことから︑UNEFIの撤退が第三次中東戦争をもたらしたという非難はある︒しか
し︑UNEFIが任務遂行を通じて中東地域の安定に貢献したことは疑いなく︑ウ・タント事務総長もUNEFIを ︵36︶ ﹁驚くべき成功︵①斡日o江一9昌︒︒ロロ8°・︒・︶﹂と称賛している︒研究摘要がUNEFの経験をもとに作成されていること
が示すとおり︑UNEFIはPKO三原則に従って活動を展開していた︒
しかし︑研究摘要が発表されてからわずか二年後︑PKO三原則を逸脱したPKOが実施されることになる︒一九
六〇年に設置されたコンゴ国連軍︵ONUC︶である︒コンゴ共和国︵後にザイール共和国に国名変更︒現在のコン
ゴ民主共和国︶は一九六〇年に独立を果たすが︑直後に暴動が発生し︑ベルギー軍が自国民保護および現地の治安回
復を理由に軍事介入した︒コンゴ政府は事務総長に国連の援助を要請し︑ハマーショルドはコンゴ政府の要請を受け
て安保理に国連の介入を提案した︒安保理は﹁軍事援助﹂という表現で事務総長の提案を支持し︑同年七月︑ONUC
がコンゴに派遣された︒当初のONUCの任務はベルギー軍の撤退を促進するというもので︑任務も限定的であり伝
統的なPKOであった︒しかし︑モブツ参謀長のクーデターや︑ルムンバ派の反乱︑ヵタンガ州の分離独立問題など︑
コンゴの現地情勢は急速に悪化し︑それに伴いONUCの任務も拡大した︒安保理は決議一六一でコンゴの事態が国
際の平和と安定に対する脅威であると認め︑停戦合意や軍事活動の停止︑衝突の防止等のためにONUCに武力行使
を含むあらゆる適切な措置をとることを認めた︒カタンガ州の分離独立運動に対抗してONUCは積極的な作戦行動
を実施したが︑それに伴いONUCの犠牲者も増加していった︒積極的な作戦行動にもかかわらずカタンガ州分離独
立問題は解決せず︑停戦交渉に赴いたハマーショルド事務総長も途上の飛行機事故で殉職する︒最終的に ONUC
がカタンガ州の諸拠点を制圧したことでカタンガ州分離独立運動は解決し︑コンゴの法と秩序の維持というONUC
の目的は達成された︒当初は伝統的PKOとして始まったONUCであったが︑現地情勢の悪化に伴い自衛以上の武
力行使が認められ︑今日で言うところの平和強制に変容した︒ONUCは決して失敗に終わったわけではなく︑目的
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三二
三一二
︵37︶ を達成したPKOである︒しかし︑ハマーショルド事務総長の殉職をはじめとして多大な犠牲を払うことになり︑
ONUCには否定的な評価が与えられることになる︒
ONUC後の展開としては︑ONUCの教訓を踏まえONUC型PKOを改良していく方向と︑ONUCのような
PKOを放棄しそのようなPKOを二度と行わないという二つの方向が考えられる︒選択されたのは後者であった︒
コンゴの経験は国連にとってトラウマであり︑内戦に介入することおよび強制活動を行うことに対する拒否感が高ま ︵38︶ り︑ONUCのようなPKOは二度とあってはならないとされた︒積極的な武力行使は紛争当事者の同意や国連の中
立性を損なう結果となり︑PKOが武力紛争の一当事者になりかねない︒ONUCは最終的に目的を果たしたものの︑
大きな犠牲を伴うものであったため︑ONUCのようなPKOは忌避されるようになったのである︒実際ONUC後
のPKOのほとんどが停戦監視や兵力引離しなどを担う典型的な伝統的PKOであり︑自衛以上の武力行使が認めら
れたPKOはなく︑内戦に介入する場合でもPKO三原則を遵守することが求められた︒
国連キプロス平和維持軍︵UNFICYP︶は︑一九六三年に発生したギリシャ系住民とトルコ系住民との武力衝突
を受けて設置されたPKOである︒ONUCが活動を終えた一九六四年に活動を開始したUNFICYPは︑コンゴ同様
内戦に派遣されたPKOであった︒そのこともあり︑ウ・タント事務総長はコンゴの二の舞を避けるために事務総長
報告書﹁キプロス国連平和維持軍の機能および諸活動に関する若干の問題についての覚書﹂を提出し︑同意原則︑中 ︵39︶ 立・不偏不党性原則︑自衛原則の再確認を行っている︒特に自衛原則に関しては︑武器を使用できる条件を列挙し
て︑自衛原則が拡大し過剰防衛に陥ることを防こうとしている︒例えば︑武力衝突が生じたときでも︑PKOが紛争
当事者の間に介在しても効果が定かでないなら︑そのようなことをすべきでないとする︒なぜならPKOと紛争当事
者間の武力衝突に発展する可能性があるからであり︑覚書はPKOが武力紛争に巻き込まれることを避けるようPKO
の武力行使に制限を課すのである︒このようにウ・タント事務総長はPKO三原則を遵守することによって︑PKO
と紛争当事者間で武力衝突が発生する可能性を極力排除しようと努力している︒
ONUC以後のPKOは︑任務が停戦監視や兵力引き離しに限定された伝統的PKOがほとんどであり︑これら
のPKOの全てでPKO三原則が遵守されている︒ONUCのように自衛を超える武力行使を行ったPKOは存在しない︒
そしてONUC以後のPKOのほとんどは任務達成に成功しているか︑少なくともONUCのような犠牲を伴うPKOは
ない︒もちろんUNFICYPのように設置から四〇年以上も活動を展開しているにも関わらず紛争解決に至らない ︵40︶ PKOも存在する︒そのようなPKOに対しては伝統的PKOでは紛争の根本解決は図れないという批判もなされよう︒
とはいえUNFICYPはONUC同様内戦に派遣されながら︑ONUCのように武力紛争の当事者となることもなければ︑
PKO要員に多大な犠牲が発生することもなかったし︑少なくとも紛争の再発を防ぐという最低限の役割は果たして
いる︒こうしてPKOの成功例が蓄積されることによって︑PKO三原則がPKOの任務遂行に有用であるという認識
は高まった︒問題解決に成功した行動やルールが組織文化になるとすれば︑PKO三原則は成功例の蓄積によって組 ︵41︶ 織文化となり︑ルールの適用例が蓄積されることによって組織文化はさらに強化されたのである︒
PKO三原則は国際法および国連憲章上の必要から生まれたものであったが︑同時にPKO成功のための必要条件
という意味を持っている︒PKO三原則を遵守したPKOの成功および三原則を逸脱したONUCの失敗という事例の
蓄積により︑PKO三原則がPKOの成功には欠かせないという認識が強化されることになり︑PKO三原則は組織文
化として確立されたのである︒
本節ではPKO三原則が組織文化であることを説明してきたが︑次節では︑PKOを取り巻く外部環境の一つとし
て人権・人道規範を取り上げ︑第二次世界大戦後および冷戦後の人権・人道規範の発展を概観することにする︒
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十ー二︶ 三二二
三一四
三.第一一次世界大戦後の人権・人道規範の発展
人権・人道規範は第二次世界大戦以降最も発展した規範である︒国連憲章前文は﹁基本的人権と人間の尊厳及び価
値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し﹂と述べ︑第一条第三項が﹁経済的︑社会的︑文化的又
は人道的性質を有する国際問題を解決することについて︑並びに人種︑性︑言語又は宗教による差別なくすべての者
のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて︑国際協力を達成すること﹂と規定するな
ど︑人権の擁護︑向上︑普及は国連の目的の一つである︒国連憲章以降も人権に関する条約は多数採択されてきた︒一
九四八年に世界人権宣言が国連総会で採択されたことを皮切りに︑その後も国際人権規約や難民条約︑女子差別撤廃
条約︑拷問等禁止条約︑児童の権利に関する条約などが締結され︑人権をめぐる国際法規範は飛躍的に発展した︒同
じく国際人道法もジェノサイド条約やジュネーブ諸条約および同追加議定書の成立など︑第二次世界大戦後大きく発
展してきた︒そもそも﹁国際人道法﹂という表現そのものが国際人道法規範の発展を示すものであろう︒国際人道法
は従来﹁戦争法﹂もしくは﹁武力紛争法﹂と呼ばれており︑戦争違法化の時代に入っても戦争法という呼称が用いら
れていた︒国際人道法という表現が一般的になったのは一九七〇年代以降のことであり︑この呼称が普及した背景に ︵42︶ は︑戦争が残虐になり︑人間の基本的な権利を根本的に脅かすようになったからである︒第二次世界大戦後の国際
人道法の発展のほとんどが戦時下の一般市民の保護など人道面に向けられたことからも︑人権・人道規範の伸長を読
み取ることができるだろう︒
人権・人道規範の発展は冷戦終結後も続いており︑むしろ冷戦が終結することでより加速しているともいえる︒
一九九三年にはウィーンにおいて世界人権会議が開催され︑この世界会議を受けて国連人権高等弁務官 ︵UNH
CHR︶ポストが設置された︒国連事務局に人道問題局︵現在の人道問題調整事務所⁚OCHA︶が設けられ︑二〇〇
六年には経済社会理事会の人権委員会が人権理事会へと改組転換されるなど︑人権・人道規範の発展は国連の組織構
造にも大きな変化をもたらしている︒一九九四年に国連開発計画︵UNDP︶が﹁人間の安全保障﹂概念を打ち出し︑ ︵43︶ 国家中心の安全保障観からの転換を訴えた︒国際人道法領域においては︑国際刑事裁判制度の発展が特筆されよう︒
旧ユーゴおよびルワンダの内戦で行われた戦争犯罪を裁くために︑安保理決議によって旧ユーゴ国際刑事裁判所とル
ワンダ国際刑事裁判所という二つのアドホックな国際裁判所が設置された︒そして一九九八年には国際刑事裁判所
︵ICC︶規定が採択され︑二〇〇二年国際刑事裁判所が発足した︒ICCは集団殺害罪︑人道に対する罪︑戦争犯罪︑
侵略の罪を裁くことに関して管轄権を有する︒人道に対する罪に関しては︑武力紛争時に限らず平時においてなされ
た行為に対しても適用されるなど︑ICCの誕生は人権・人道規範の発展を示す象徴的な出来事であろう︒
先述の人間の安全保障は国家中心の安全保障観の転換を訴えるが︑必ずしも国家主権概念や国家安全保障と矛盾す
るわけではない︒しかし︑人間ひとりひとりの安全が最優先されるという理念を追求したとき︑他国で繰り広げられ
る大規模な人権侵害や大量殺毅およびジェノサイドに対して国際社会が何らかの措置を講ずるべきであるという主張
が出てくるのは当然といえる︒すなわち人道的介入の問題である︒人道的介入とは︑﹁ある国において︑住民に対し
て大規模に苦痛や死がもたらされているとき︑それを止めることを目的として︑その国の同意なしに軍事力をもって ︵44︶ ︵45︶ 介入すること﹂である︒人道的介入の国際法上の合法性に関しては賛否両論であり︑各国の態度も一致していると
はいいがたい︒むしろ伝統的には人権保護と国家主権が対立した場合︑国家主権が優先されてきたといえるだろう︒
一九七〇年代には︑インドのバングラデシュに対する介入︑タンザニアのウガンダに対する介入︑ベトナムのカンボ
ジアに対する介入など︑人道的介入の事例と認められても不思議でない事例が現れた︒しかしこれらの当事国は自国
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十ー二︶ 三一五
三一六
の軍事行動を人道的介入による正当化ではなく自衛権によって正当化したし︑インドが行った人道的考慮に基づく主 ︵46︶ 張も国際社会がそれを受け入れることはなかった︒このように伝統的に国際社会において人道的介入は受け入れら
れてこなかったのである︒
しかし︑未だ賛否両論とはいえ︑人道的介入は次第に受け入れられるようになってきている︒一九九九年に行われ
たNATO軍によるセルビアに対する空爆は人道的介入の代表例とされる︒NATOの空爆に関しても︑それが国際法
上合法か否か︑真に人道的介入であったかどうかは議論の余地があろうが︑﹁コソボに関する独立国際委員会﹂が空 ︵47︶ 爆を﹁違法だが正当﹂と評価したように︑NATOの空爆は欧米諸国を中心に受け入れられた︒二〇〇一年にはカナ
ダ政府が設立した﹁介入と国家主権に関する国際委員会︵ICISS︶﹂が報告書を作成し︑その中で﹁保護する責任 ︵48︶ ︵間而゜︒Oo5﹂亘庄蔓9勺﹁oけ①6吟︶﹂という概念を提唱した︒ICISSによれば︑国家は自国民を保護する責任を負うが︑
もし内戦や抑圧︑国家破綻等によって自国民が深刻な被害を被っているにもかかわらず当該国家がそれを除去する能
力や意思を持たない場合︑国際社会に保護する責任が移るとする︒その際︑当該国家の内政不干渉原則は否定される
ことになる︒人権の保護と国家主権はしばしば対立し国家主権が伝統的に優先されてきたが︑国家主権の絶対性を否
定し︑人権保護を誠実に果たさない国家に対して国際社会が介入することを肯定的に捉えるようになったことが近年
の傾向といえるだろう︒﹁保護する責任﹂はアナン事務総長が設立したハイレベル・パネルの報告書﹁より安全な自
由ーわれわれが共有する責任︑脅威︑挑戦︑変化に関する国連事務総長ハイレベル・パネル報告﹂に取り入れられ ︵49︶ たことをはじめ︑様々な国連文書に盛り込まれている︒
このように第二次世界大戦後︑人権・人道規範は飛躍的に発展し︑今日では人道的介入も支持されるようになって
きた︒こうした国際規範の変容は当然に国連︑そしてPKOに影響を与えると考えられるが︑実際にPKOは国際環
境の変化に対応するように変化してきたのだろうか︒次に︑冷戦後のPKOの変化に注目して︑国際規範の変化と事
務局内の力学との関係を見ていきたい︒
四.変化の阻害要因としてのPKO三原則とアナン事務総長のリーダーシップ
冷戦の終結はPKOの活性化をもたらした︒冷戦の終結は国連が機能するための障害を取り除いたと受け止められ︑
多国籍軍という変則的なかたちではあったが︑湾岸戦争は集団安全保障制度によって解決されたという認識が広まっ
た︒冷戦後の世界では国連が国際の平和と安全の維持に主導的役割を果たすことが期待され︑その期待に応えるよう
に数多くのPKOが創設された︒冷戦後のPKOは選挙支援や国家の統治能力の再建を担うようになり︑ナミビアや
カンボジア︑中南米に派遣されたPKOは概ね成功したと評価されている︒もう一つの特徴に紛争の継続中にPKO
が派遣され︑しばしば人道救援活動を支援したり︑一般市民の保護が求められるようになったことがある︒冷戦期か
ら内戦は頻繁に発生していたが︑冷戦が終結することで内戦に対する注目度が高まり︑さらに内戦の多くが民族浄化
やジェノサイドが伴ったことから︑国連に何らかの対応を要求する声が高まった︒前節で述べたように︑人権・人道
規範の発展によって人道危機に国際的な対応が求められるようになったのである︒しかし︑PKOによる人道危機へ
の対応は一貫したものではなかった︒ソマリアに派遣されたUNOSOMHが失敗に終わると︑PKOは内戦に積極
的に介入し断固たる措置をとることに消極的になる︒結果ルワンダで発生したジェノサイドを阻止することに失敗し
たのである︒このように国際規範は大規模人権侵害やジェノサイドに対応することを国連に求めるようになってきた
にもかかわらず︑国連は常にそうした要求に応えてきたわけではなかった︒
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三一七
三一八
なぜ︑PKOは人道危機への対応に失敗したのだろうか︒最大の要因はPKOの能力不足であろう︒数々の報告書 ︵50︶ で指摘されているとおり︑能力不足はPKOが抱える慢性的な課題である︒安保理でPKOに自衛以上の武力行使を
認めるマンデートを付与しても︑それを実施するための能力を加盟国が提供しなかったり︑そうする政治的意思をも
たなかったりすることが多い︒しかし︑PKOが抱えていた問題は能力不足だけではない︒欧米諸国がルワンダへの
介入に消極的であったことは広く知られているが︑内戦への介入に消極的であったのは欧米諸国だけでなく事務局も
同様であった︒本節では︑ソマリアとルワンダの事例から人道危機に対するPKOの対応を概観し︑PKOの変化が
国際環境の変化のみで決まるわけではなく︑事務局内の組織的要因もPKOの変化に大きな影響を及ぼしていること
を明らかにする︒
ソマリアはアフリカには珍しい単一民族の国家であるが︑数多くの氏族に分かれており氏族間の対立が激しい︒一
九六九年にクーデターにより政権の座についたシアド・バーレも出身氏族を重用したため他の氏族の反発を招いた︒
バーレ政権と反政府勢力統一ソマリア会議との間に内戦が発生し︑一九九〇年一二月にバーレ政権は崩壊した︒しか
し︑統一ソマリア会議内で内部抗争が発生し︑アリ・マハディ派とアイディード派の武力衝突により内戦状態が継続 ︵51︶ した︒内戦および大規模な干ばつによる影響で飢饅が拡大し︑一日推定三〇〇〇人が餓死するまでに事態は悪化した︒
この事態を受けて︑第一次国連ソマリア活動︵UNOSOMI︶が設置されたが︑事態は好転せず︑国連はアメリカ軍
を中心とする多国籍軍の派遣を決定する︵安保理決議七九四︶︒多国籍軍の後を受けて︑第二次国連ソマリア活動
︵UNOSOMH︶が設置される︒UNOSOMHには︑停戦監視や︑難民・避難民の帰還︑地雷除去︑さらには政府機
能の再構築︑警察訓練や司法システムの改革などの任務が含まれる︒そして強制的な武装解除が認められるなど︑
UNOSOMHはガリ事務総長が提唱した﹁平和強制﹂を実現したものと評価された︒このように広範な任務と強制行
動が認められたUNOSOMHであったが︑一九九三年六月にUNOSOMnに参加していたパキスタン兵がアイディ
ード派によって殺害されたことをきっかけにUNOSOMHはアイディード派との戦闘状態に突入する︒しかし同年
一〇月にUNOSOMnと並行して活動を展開していたアメリカ軍特殊部隊がアイディード派との戦闘の末殺害され
るという事件が発生し︑議会および国内世論の反発からクリントン政権はアメリカ軍の撤退を発表する︒軍事活動面
でアメリカ軍に依存していたUNOSOMnも活動の縮小を余儀なくされ︑ソマリア内戦の解決にほとんど寄与する
ことなく一九九五年三月撤退に追い込まれた︒
ソマリアの失敗は事務局にPKO三原則の重要性を再認識させた︒PKO三原則の再評価を咀確に示すのが一九九
五年に発表された国連事務総長報告書﹁平和への課題⁝補遺﹂である︒﹁平和への課題⁚補遺﹂において︑ガリ事務総
長は以下のように述べる︒﹁ここ数年︑平和維持のいくつかの基本的原則の尊重がその成功に不可欠であることを確
認している︒三つの特に重要な原則とは︑当事者の同意︑公平性︑そして自衛以外の武力の非行使である︒最近の成
功と失敗に関する分析は︑成功した場合はみなこれらの原則が尊重されており︑あまり成功しなかった活動では尊重 ︵52︶ されていないことを示している﹂とし︑また﹁国連が解決するよう求められている紛争は通常︑深い根があり︑他者
の平和創造努力を拒んできたものである︒その解決は︑辛抱強い外交と︑信頼の構築と積年の差異の交渉による解決
を長期的に可能にする政治過程の確立を要求している︒そのような過程はしばしば不満と後退に遭遇し︑ほとんど必
然的に希望したよりも長くかかる︒それをスピードアップするために軍事力を行使したいという誘惑に耐える必要が
︵53︶
ある﹂とする︒また︑UNOSOMの教訓をまとめた﹁国連ソマリア活動の教訓に関する包括的報告書﹂も︑国連には ︵54︶ 強制行動を指揮・管理する能力がないことを認め︑紛争当事者が和解への政治的意思を示さないなら︑PKOは紛争 ︵55︶ 地域に入るべきではないとした︒また︑ソマリアでアイディード派に対して行ったような強制的な武装解除はPKO
冷戦後における国連平和維持活動の変容 ︵都法五十−二︶ 三一九
三二〇
︵56︶ に不向きであると結論した︒﹁平和への課題補遺﹂は一九九五年に出された報告書であるが︑このような認識はソ ︵57︶ マリアの失敗後比較的すぐに強まっていた︒第二のソマリアをつくらないことが事務局にとって重要な課題となり︑
伝統的PKOに回帰することでその課題に対応したのであった︒しかし︑伝統的PKOへの回帰はPKOの成功をも
たらさなかった︒PKO三原則に固執したことでルワンダの虐殺にPKOは効果的な対応ができなかったのである︒ ︵58︶ ルワンダ内戦は一九九〇年に発生した︒ハビャリマナ大統領率いるフツ族政権とツチ族主体の反政府組織ルワン
ダ愛国戦線︵RPF︶の間で武力衝突が発生したが︑一九九三年八月タンザニアのアルーシャにおいて和平合意が成
立した︒アルーシャ和平合意を受けて国連ルワンダ支援団︵UNAMIR︶の設置が安保理決議八七二によって決定した︒
UNAMIRは伝統的な非強制型のPKOであり︑当初からルワンダはPKOが成功する典型的なケースとみなされてい
た︒しかし現地に展開したUNAMIRはすぐに情勢の悪化に直面することになる︒一九九四年一月にはUNAMIRの
司令官であったダレールが事務局本部にツチ族虐殺のために武器が集められているという情報を報告し︑強制的な武
器の押収を許可するよう要請した︒しかし︑事務局本部は情報の信遇性を疑問視し︑さらに強制的な武器の押収はマ
ンデートの範囲を超えるとしてダレールの要請を却下した︒ダレールは武器の押収をマンデートの範囲内と解釈した
が︑事務局本部のアナンやリザ︵59一空塁︶などはマンデートの範囲外と解釈した︒こうした解釈の相違の背景に
は︑事務局本部が武器の強制的な押収がUNAMIRと現地の武装勢力との武力衝突に発展することを恐れたことがあ
︵59︶