[書評] 大橋昭一・奥田幸助・奥林康司著『経営参 加の思想』(有斐閣新書,1979年6月刊)
その他のタイトル [Book Review] Shoichi Ohashi, Kosuke Okuda and Koji Okubayashi "Thought of Workers'
Participation"
著者 川崎 文治
雑誌名 關西大學商學論集
巻 24
号 5
ページ 454‑470
発行年 1979‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00020930
関西大学商学論集第泌巻 号 年 月)
書 評
大橋昭ー・奥田幸助・奥林康司著
『経営参加の思想」
(有斐閣新書, 1979年
6
月刊)川 崎
文 治
序
本書のカバーには,「世界的な規模で拡がりつつある<経営参加>は,はた して働く人ぴとに生がいを与え,新しい労使関係を創り出すことができるだ ろうか」という問いかけがある。そして本書はこの「生がい」と「新しい労使関 係」への回答を,次のような構成すなわち,序章経営参加とは何か(奥林 ー以下敬称略)第1部 経 営 参 加 思 想 の 潮 流 第1章行動科学的参画管理 の思想(奥田) 第 2章労資平等的参加の思想(大橋),第 3章 労 働 者 自 主管理参加の思想(奥林),第I部経営参加の制度と問題,第 4章 経 営 参加の形態(大橋),第5章成果参加と所有参加(奥田),第6章 経 営 権 と労働組合の責任(奥林), 第 7章 日本の経営参加(奥田) として準備す る。そしてその回答は,総休的に言って肯定的のものとなっている。さて本 書を「評」するについて,元来「書評」における「評」には, 「評価」とし てメリットの方の確認と,「批評」あるいは「批判」という二つの意味が含 まれていると思われる。そしてこれを程よく組合わせることが評者の面目と いうことになるのであろう。ところで本書における前者ずなわちメリットに ついては,このコンバクトな新書のなかに, 「経営参加」に関する世界的な
書評「経営参加の思想」(川崎) (455)71 潮流を,その歴史的経緯をふまえつつ現状にいたって紹述し,その裏づけと
ともに,理論的に類型化ないし潮流として類別し,最後に日本での問題に及 ぶという大変な努力が,適確かつ要領よくまとめられている点にあるが,こ のメリットの質的また量的大きさは,本書の啓蒙書的性格とも相侯って,書 評としての後者すなわち「批判」ということをきわめて困難ならしめているの である。しかしながら敢えて勇を鼓して「評」を試みねばならない。そこで これを先ず全休をつうじて二つの基本的な問題の視点に絞ってみることにし たい。基本的な問題視点の第ーは,本書のテーマである「経営参加」におけ る「経営」概念の確定に関するものである。換言すれば, 企業, 資本, 経 営,管理,労働という基本的要素的諸概念と相互の関連,そこにおける「経 営」の位置づけの上で「参加」の意味や内容が一層明らかになるであろうと いうことである。 第二は, はじめにもふれておいたように, 本書を貫ぬく
「思想」的態度として, 「経営参加」による「生がい」と「新しい労使関 係」への肯定的ないし積極的姿勢がとられていると解される点についてであ る。これは換言すれば,資本の論理,搾取の論理や協調論と参加論との本質 的かかわりいかんということになる。後者を求めるのは本書の趣旨からして 無理なことかもしれないが,重要と思われるところを指摘しておきたいと思
うのである。
1
いわゆる「経営参加」という表現は,学界でもマスコミの世界でも慣用語 になっている。そしてそれは直赦的には「経営」に「参加」すること,詳し くいえば, 「労働者がなんらかの機構をつうじて経営の意思決定に直接的に 影響を与えること」 (p. 7以下ページ数は本書のページをさす)と解される。 と ころでここでの問題は,本書における設定でいえば, 「(1)だれが, (2)何に, (3)いかに,(4)なぜ,影響をあたえるか」(p.7)(因に「どこで」というレベ ルの問題と,「いつ」つまり日常的にか, 特定時点においてかの問題は,(2) に包含されている)という 4点のうち,(2)の「何に」という参加の対象,内
容,レベルに主としてかかわることになる。ここでわれわれの結論から先に いえば,資本,経営,管理,労働の各要素範疇と,それらを統合したものと しての企業範疇を先ず明確に区分し,それぞれの要素範疇が,属性的に,主 休,実休,機能,成果,機関の各範疇において展開すると考え,これを次表 のようにまとめている。これ自体なお問題点も含まれているかと思うが,少 なくとも体制原理の下で生起する参加の問題については,たとえば資本主義 経済体制の下における経営,管理,労働そして企業範疇の特性と関連の認識 が必要と思うのである。これは同じ「参加」ということを異る体制をつうじ
ていえるかという問題にもなるが,これは後にふれよう。
基 礎 範 疇 表
{属ご 性
│
資 本 1経 営 1管 理 1労 働 1企 業主 休 資 本 家 経 営 者 管 理 者 労 働 者 企 業 実 体 資 本 事 業 職 務 労 働 力 組 織 システム
機 能 所有(支配) 経 営 管 理 労 働 再 生 産 成 果 利 潤 報 酬 給料賃金 賃 金 付加価値 機 関 株資本主家総集会団 取監締査役会役 労働組合 Relations
Unit
(参照J1.川崎文治「企業・経営論の基礎範疇について一支配論序説(1)一」,「経営 研究」28/6,'78年6月。
2.同「合理化における即自と対自ー「経営参加」・「自主管理」論のために ー,「経営研究」29/3,'78年9月。本稿のためにはとくに2.をみられた
ぃ
。
そこでもう一つわれわれの結論をいっておくと,資本主義休制の下では,
資本範疇が経営範疇と管理範疇とを包みこんで労働範疇に対特するという企 業構造となるが,実は人間社会での集団労働における管理範疇は,本源的即 自的には労働範疇と一体のものであること,したがって管理範疇での指導権
書評「経営参加の思想」(川崎) (457)73 をめぐる資本一経営範疇と労働範疇との間の存在関連(闘争,協調,参加な ど)こそが重要なボイントになると考えるのである。この観点からすると,
まさに「参加」の「何に」ということは核心的なことになってくるのである。
そこでこの問題を以下本書の内容に即して洗い出して行くことにしよう。
ところでそれについて二つのことを整理しておかねばならない。それは,
日 はしがきにもあるように,「公企業や官庁など」 (p.i) における「経営」
と,したがって「参加」は, 「私企業」におけるそれと同列に扱われてよい かという問題である。とくに官庁会計における予算管理体系と業務管理体系 のなかに,いわゆる「経営」領域はどう位置づけられるのか,,それは次の社 会主義企業会計にも類緑することであるが,むしろ「管理」を本質とする休 系ではなかろうか。⇔は,社会主義体制の下における企業での「経営参加の 問題」 (p.5)における体制的特性を弁別しておく必要はないかということで ある。 110がこれに関して催した1974年オスロにおける国際シンボジウム に,なるほど社会主義国の参加はあったにしても,そのことは休制的本質の 蓮いを解消するものではないし, 「社会主義国においては勤労者大衆の自発 的創造的イニシアチプを発揮させる方策として経営参加が注目されている」
(p. 5)のも,その体制的本質の上である。.したがってユーゴスラビアで「国
. . . . . . . . . . . .
家的所有形態のもとでも命令者と執行者の間の対立をなくしえないことを認 め,国家権力あるいは官僚制に対抗しうる労働者の力として労働者の自主管 理制度」 (p.20傍点川崎)が承認されたとし、う場合でも,「命令者と執行者の 間の対立」の問題は,端的に「管理」の問題といってよいし,•それがさらに 資本主義的意味での「経営」範疇をも包含するところに自主「管理」制度と いわれるゆえんを考えうるのであって, ちょうど資本主義的には, 「経営」
範疇が「管理」範疇を支配的に包摂するのと逆方向にあることは,先にもわ れわれの結論としてふれたとおりである。因にこれを「経営内の労働者自治 を達成する手段として経営参加が正当化される」 (p.28)問題としてみる場 合は,「経営内」は「企業内」と解せられるし,その意味での「経営参加」と いうことはできるであろう。しかしそれにしても「自治」と「参加」とは本
第 巻 第 5 号
質的に矛盾しないことであろうかとも思われる。これはユーゴスラビアにお いて,「労働者の経営参加制度として自主管理制度」 (p.15傍点川崎)が導入 されるということ,また3‑1図 (p.102)では,「ソ連企業内部における管理 参加の諸Jレート」(傍点川崎)とあり, 「企業管理部」が最高機関となってい る(p.104では「経営管理部」とある)ことにも関連することであろう。さて以 上二つの問題点を指摘しておいて,ここでは以下太宗と思われる資本主義的 私企業を中心におくことにする。
先ず「序章」について。この章は問題と要点の叙述においてきわめてすぐ れた概観を示しており,入門的にとどまらず学ぶところも多いが,当面の 問題に関していえば, 「経営参加」に関する 1967年の ILOの規定のうち
"undertaking"が「経営」 とされているが一そしてこれは一般的でもある ようだが一これは正確には「企業」とすべきで,そこにおける「意思決定」
というのが資本主義的「経営」事項となり,それに「影響をおよぽす」かぎ りでの「参加」となると解すべきであろう。そして問題は,ここでの「意思 決定」が「経営」事項か「管理」事項か,にかかってくる。たとえば「意思 決定への直接参加」について, 「労働者の代表あるいは労働者自身が経営政 策の決定や管理決定を経営者とならんで直接に担当する」 (p.23傍点川崎)
際の,「経営」と「管理」概念は範疇的に同一なのか, 階層的なのかという ことがある。しかしすぐに「これらの意思決定は経営者の機能であり,労働 者の執行機能とは厳密に区別されていた」 (p.23)とされることからみれば,
前者すなわち同一範疇に属すると解されるが,少なくともそのなかでの階層 性は区分しなければなるまい。後の参加レペルや対象の問題になってくると このことが重要になるし,われわれの趣旨からすると,むしろこの「管理決 定」での力を「経営政策」決定にまで充実しなければならない問題であると 考えるのである。これはしかし「トップ・レペルの参加制度」は,「むしろ 労働者の日々の臓場活動における管理への関心・仕事への責任感・労働への 没頭を前提としてはじめて成功しうる」 (p.25傍点川崎)ということとストレ ートに同じではない。含まれている両要因にまたがるべきことは間遮いない
書評「経営参加の思想」(川崎) (459)75 が,問題は後者の要因が資本主義体制の下でどこまで「前提」となりうるか にかかっているといえよう。
続いて第1部 経 営 参 加 思 想 の 潮 流 第1章「行動科学的参画管理」では 近時の行動科学という潮流をふまえた参加論として,これを「参画管理」と 称するユニークな紹述がなされている。しかしすべてユニークなものが負う といってよい問題点も伴われている。これまでの脈絡でみると,経営参加一 組合代表一組合員間接,職場管理(運営)ー全従業員一従業員直接というシ
エーマ (p.35)のなかで,後者が「参画(的)管理」として注目されること になる。すなわち「行動科学的参画管理」とは, 「職場における仕事上の改 善や仕事に影響をおよぼす諸原因にたいして,従業員みずからが統制を加え るもの」 (p.37)であり,全員の「直接参加」が重点となる。そしてこの「参 画管理」の中心は仕事をとおして自己実現することにあり,自己実現のため には自己統制とそれを職場で統合した全従業員による直接参加,直接統制に よるというわけである。ここで直ちに疑問となることは,「参画」と「管理」
との関係である。あるいは「参画」と「参加」と「管理」の関係いかんとい ってもよい。序章にみられたように,いわゆる「経営参加」の前提となるの か,こちらの方が核となるぺきなのか, 「自己実硯」は「参画」をとおして も,組合活動を通じても可能な筈であり, 「参加」と「参画」の重層ないし ウエイトの関係が今一つ明らかでないうらみがある。さらにわれわれが問題 としている範疇の問題についていえば,「経営」参加と「職場の管理(運―
営)」への参加とわけた場合の後者を「参画」といってよいのであろうか。
もしそうとするならば,「管理参加」といってもよいわけであるが,「管理参 加」でも「管理参画」でもない「参画管理」という場合,そしてその「管理」
の対象が仕事をとおしての「自己実現」であるとした場合:,その「仕事」の 体系の設定から「自己実現」の方法まですべてにわたって全従業員で直接参 加しうる制度というものは困難なことではあるまいか。挙げられている事例 からもわかるように,全従業員も先ず職場単位に区分されることになるが,
この職場の全企業内の休系的組織化は誰が主導権をもつことになるのであろ
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うか。職場においてはまさに「管理」機能が展開されるが,その上位には「経 営」機能が存するといわねばならない。「自己実硯」もじつはこの上位の「経 営」機能への統制権をもつことによって十全的なものとなるのではなかろう か。資本主義企業体制における資本と経営の原理的支配権限の問題と切り離
された「自己実硯」のむしろ危険性なきにしもあらずと思えるのである。換 言すれば, 「仕事を日常担当するのは職場における従業員であって, 労働組 合の代表者ではない」し,職場で自己を生かすには「従業員全員による職場 での直接参加」 (p.42)が必要とされるわけであるが,日常すでに仕事を「担 当」していることを「参画」としての「担当」に変えるための「直接参加」
という点はわかるけれども,「従業員全員」といういい方や,「仕事」や「職 場」の一般概念で「自己実硯」を重視して行く過程では,行動科学における 心理学的,社会学的特性が表に出てそれに了ってしまう可能性があるのであ る。われわれは社会科学の問題として「参画」を考える場合,「仕事」や「職 場」のもつ資本主義企業経営としての約束のなかで「自己実硯」を論じるペ きであろうと思う。本章のおわりで, 「安定した環境のもとでは, 古典学派 の管理論が適合する傾向をもつのにたいして,人間関係論や行動科学の考え 方は,動態的な状況にこそあてはまるのである。行動科学的な参画論も,条 件しだいである」 (p.61)といわれる「条件」を,われわれは上の様に考え たいのである。
第2章「労資平等的参加の思想」は,長いドイツ経営経済学の研究をふま えた味のあるまとめである。ここでも先ず同じ脈絡での問題にかぎってみよ う。われわれが資本,経営,管理,労働そして企業として範疇区分する立場 からいえば,ここにかぎらず一般的なことでもあるが,先ず「労資平等」に おける「労資」と「労使」の概念区分にかかわる問題となる。すなわちはじ めに「労資平等的参加論」として,「労働・労働者と資本・経営者との同等,
同権,対等,平等」をなんらかの形で主張するもの (p.66)とされているが そこでの基本的なこととして, 「労働・労働者」と「資本・経営者」との対 置の仕方が一寸気になるところである。すなわちこれは分解すれば,「労働」
書評「経営参加の思想」(川崎) (461)77 と「資本」,「労働者」と「経営者」との双極的対置となり,その双極間の
「同等,同権,対等,平等」ということになろう。ところで「労働」と「資 本」とは,機能と実体の範疇にまたがる点はあるが,経済学的にも定着して いると考えられる (経営学的には生産要素と解されたりするが)。 しかしこ こで「同等,同権,対等,平等」ということを,機能的ないし実体的な「労 働」と「資本」との間で考えることは困難ではなかろうか。これが第一。次 に,,Paritat" とか,,Gleichbere~htigung" とかドイツで用いられる言葉に ついては,その具休的に展開される制度的内容に即して理解しなければなら ないが,とくに「同等,同権」と「対等」とは異なるのではないか。すなわ ち「対等」とは労働権と経営権とが同等,同権ではない場合でも,労使開係 上の主体的,機能的価値関係として「対等」であると解されるし(わが国労 働法における「労使対等の原則」など),「平等」概念は前三者とまた範疇を 異にする,いわば人間一般次元に関するものではないかと考えられる。かん たんに換言すれば,この「同等, 同権, 対等, 平等」の使いわけの中に,
「労資関係」と「労使関係」とがかかわってくるということができよう。以 上のことは,「労資パートナー思想」についての「労働・労働者・労働組合」
と「資本・企業・経営者」とのパートナー関係 (p.89)においても, その要 素的対応,対置について考えられるところである。
第3章「労働者自主管理的参加の思想」では,ソ連とユーゴスラピアを対 極とする「自主管理的参加」の幅のなかで,イギリスのギルド社会主義とフ
ランスの労働者自主管理思想を位置づけるという興味ある構想となってい る。しかしこの構想自体の問題については残念ながら今全面的にカバーする 能力をもたぬので,ここでの問題は,既に序章までで扱ったところに譲って 次に進もうと思う。
第lI部 経 営 参 加 の 制 度 と 問 題 第 4章「経営参加の形態」においては,
最後の「職場における経営参加」に注目したい。 ここで「職場レベルの参 加」,「職場参加」とは, 「労働者が自己の職場での仕事や職場の運営につい ての決定に, 個人あるいはグループをつくって参加すること」 (p.141)であ
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り「直接参加」の形態であるが,われわれの考えからすれば,いわゆる「管 理」範疇を労働者主体がどこまでコントロールしうるかということで基本的 な意味をもつと考えられる。したがってそれも「材料や設備や生産方法など 職場での仕事に関係する根本的事項が多くは上層部で決定され,職場参加の 対象とならない」 (p.144)とすれば無意味となる。すなわちここでの「上層 部」での決定ということを,上級管理範疇を含めて「経営」範疇にかかわる ものとすれば,まさに「企業(およびその他の)レベルでの強力なる団体交 渉・共同決定なしに戦場での共同決定は有名無実である」 (p.145)といわれ るとおりである。そうでなければ「職場参加」といっても, 「経営参加」は もちろん「管理参加」でさえないことにもなりかねないのである。総じて先 の行動科学的「参画管理」論がバラ色の感が強いのにたいして,ここで経営 経済学的には逆に厳しさが強調されていることのなかに,われわれからすれ ばおのずから,企業,経営,管理の範疇関係の認識の必要性を明らかにして いるものと思うのである。
第5章「成果参加」と「所有参加」。 ここでも重要で興味ある問題が多い が,関連的にいえば,「所有参加」における「所有」概念は, 範疇的には実 体か機能かの問題がある。実休的には「資本」範疇とすれば, 「所有参加」
はすなわち「資本参加」と考えられる。本書における「従業員持株制」はそ れにあたる。また「所有」を機能的にとらえるといわゆる「支配」機能の展 開としての経営・管理権限と結びつく。しかし「所有参加」でこの方面は触 れられていない。むしろ「所有」は「成果」(資本範疇的には利潤, 企業範 疇的には付加価値)への参加と結びつくものとなっている。しかし「経営」,
「管理」範疇の問題を抜きにした「所有」ー「成果」参加だけでは片手落ちで はなかろうか,後段でまたふれて行きたい。
第6章「経営権と労働組合の責任」も従来の「経営参加」論議では必らず しも十分でなかった面(法律問題ともふれ合うからでもあろうが)にふれて おり,範疇論に次ぐわれわれの全体的な第二の問題である「参加」に関する イデオロギー論にもかかわるものとなっている。ここでは範疇諭としてとり
書評「経営参加の思想」(川崎) (463)79 上げると,先ず「資本家による私的な決定を法的に保障するのが経営権であ
る」 (p.178)ということがある。そして「経営権」の根拠として,法的,機 能的根拠があげられる。前者は私的所有権によるものとも解されよう。とこ ろで法的にはこの「経営権」の執行者は「経営者」であり,彼は「事業の所 有者」(「事業」の所有ということに注目したい)から「事業経営の責任と 権限」 (p.180)を委任されると解されるわけであるが, これはまさに「資本 家」主体から「事業」という経営実体を「経営」する機能が「経営者」主体 に委譲されるという範疇的関係をあらわしている。この意味では次の機能的 根拠とも交わることになる。そして参加による「経営権」侵害か否かの問題 は,範疇的には資本範疇にかかわることになることによって fatalな問題と なるのである。すなわち主休としての資本家,実休としての資本,機能とし ての所有(支配), 成果としての利潤, 機関としての所有ないし貸付資本家 集団にまたがる資本範疇への,経営範疇としての「経営権」の執行範囲が攻 守の対象となると解することによって,一層関係論が明らかになると思われ
るのである。
最後に第7章「日本の経営参加」における範疇確定の必要についていえば おわりの「経営参加の展望」に際して,「団体交渉から経営参加」のうちで,
「経営と労働との間の関係」 (p.220)とあるが, もし主体関係論とすると,
「経営者と労働者」ということになるであろうし,この意味での労使関係と 別に「資本家と労働者」との関係としての労資関係との先の第 2章でみた問 題にかかわることになってくる。最後に「社会的存在としての経営」として
「参加をうけ入れる余地がすでに企業には存在する」 (p.222傍点川崎) とい う表硯があるが,「企業」概念と「経営」概念は等置しうるかの問題がある。
それは範疇を異にすると解すべきで,「経営」参加はただちに「企業」参加 とはいいえないことからも明らかであろう。われわれは先にもいったよう に,企業範疇は,資本,経営,管理,労働の各要素範疇を統合して構成さ れ,それが属性的に,主休(法人, entityあるいは担税主体など), 実休,
機能,成果,機関の各範疇において展開すると考えるもので, 「参加」概念
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がまさに,だれが,何に, いかに, なぜ (p.7)において考えられねばなら ぬとすれば,以上にみてきた諸範疇の確定の上でなされることが,議論をよ
り明確にすることになるのではあるまいか。
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われわれの基本的問題の第二に移ろう。本書の「経営参加の思想」のうち にみられる「生がい」と「新しい労使関係」への積極的とみられる姿勢をめ ぐる問題について要点的にふれて行きたい。 それは簡単にいえば, 「経営参 加」による「新しい労使関係」のもつ協調的性格と「生がい」論と,体制原 理ないし資本の論理とのかかわりの問塵となる。
先ず「序章」でそれは,「だれが」という「参加の主体」の問題として出 てくる。そしてここでは「労働者が参加の主体」 (p.7)とされることから,
「職場における自律的作業集団は重要な参加形態の一つ」(同)となる。こ の場合の「労働者」は「賃労働者」のみではなく「資本主義の国営企業」や
「社会主義国」にあっても「広く使用者と雇用関係にあり,使用者の命令に したがわざるをえない従業員の地位にある」 (pp.7‑8)ものをさす。他方
「労働組合は労働者の代表機関であり,労働者の参加を保障する機関であ る」 (p.7)として,「労働組合」よりも「労働者」の方にウエイトがおかれて いると解される。そこで問題は二つ。一つは「労働者」に重点がおかれるこ とによって, 逆に「労働組合」 として機関としての参加の問題が後退し,
「労働者」から一般的な「従業員」に落ちてしまう危険がないかという点で ある。なるほど「生がい」は「労働組合」としてではなく「労働者」個人の 問題である。しかしそれは「作業集団」をつうじてそのなかにおいて実現さ れるものである。そしてその「作業集団」における「自律的」性格という場 合,資本主義企業における「作業集団」の組織,編成原理を無視するわけに はいかず,その企業的組織原理の展開に対侍するものは「労働組合」という 組織的機関を抜きにして「労働者」のたんなる集団的自律性だけでは搾取原 理に対抗することは不可能であろう。搾取原理は資本と労働との生産関係の
「経営参加の1思想」(川崎) (465)81 なかにあるのであって,その労働の階級性は機関的に代表されるものであ る。 そのことはまさに別のところで, 「労働者は人間としての自律性と賃労 働者としての他律性の矛盾のなかに存在している」 (p.15)といわれること の本質にかかわるものであろう。
二つには,今引用した箇所にも関係するが, 「賃労働者」を「国営企業」
や「社会主義国」における生産手段の所有関係の異なるものと一緒に括って 一般的に論じるのではなくて,これはそれぞれの企業形態の本質とともに分 別する必要があるということである。そうでなければ,一方では「賃労働 者」における搾取論抜きの「生がい」論になったり,他方でソ連型にせよユ ーゴスラビア型にせよ,社会主義国における「参加」の質的差遮が葬られる おそれもある。まさにわれわれにとっても,自律性と他律性の矛盾の止揚に いかに取組むべきかが問題であり,われわれはそれを,自律性の圏を即自的 管理範疇から対自的経営範疇にまで拡げること,そしてそのプロセス自体の 自律性のなかには,協調原理とともに闘争原理もこめられているものである ことを基本的に考えねばならぬと思うのである。このことは「参画的管理の 思想」が,「参加を労務管理の一形態としてとらえ」 (pp.26‑27)られて展開 されているとき, はたしてこの上からの「参加」の形態が定着しているの か, それが可能なのかという問題を抱かせることにもなる。 こうして第1
章「行動科学的参画管理」は,全体としていわばパラ色に包まれた感を禁じ えないのである。そしてこの章での問題は既述のものと重なっているので,
次の第2章「労資平等的参加の思想」に移ろう。
ここでは先ず評論家氏の言となっている「企業は労資のゲマインシャフト になるよう努力すべきだ」 (p.65)ということは,一般的な要請の紹介なの か,著者の主張なのかに迷う。問題はしかしいずれにせよ,企業を「労資の ゲマインシャフト」と思考しうるためには,資本主義的経済原理一私的最大 利潤を追求することを規定的動機とする支配・監督体制一の展開のなかで,
基本的枠組みを相当に犠牲にしなければならないのではないかという点にあ る。パートナーシャフトにせよ共同休論にせよ, ドイツ的思考の特性は理解
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できるが,いわゆる「産業民主主義」思想とゲマインシャフト論とは,それ こそ範疇的に距離があるのではなかろうか。著者もそれについて,「労働者」
の「責任を強調するパートナーシャフトの思想」にたいして, 「労働者の権 利を主張する」 (p.87)ところを対極的とされるが,「統合か改良か変革か」
(p. 89 ff.)という重要なテーマについては, そのいずれかをはじめから目的 的に措定するというのではなく,硯実の矛盾止揚のプロセスのなかには,と にかく資本主義的に闘争必然性が内蔵されておることの認識が基本となるべ きであろう。その基本が状況のなかで,戦略化し戦術化して行くものと考え る。なおついでながら, フィッシャーにおける独特の等式について, 「資本
+労働=資産+労働=生産物」 (p.73)と集約されているが, これは「資本
+労働1=資産」,「資産+労働2=生産物」として, 労働11:2を分けた方が正 確となろう。
第3章「労働者自主管理的参加思想」についてはまことに要領をえた紹述 であるが,問題についてはこれも既述のところに譲る。
第4章「経営参加の形態」のなかで,わが国の労使協議制の対象事項と参 加程度についての4‑1表 (p.135)が紹介されているが, 問題はここにおけ る諸事項で何がfatalなものであるか,あるいは投資など財務的諸問題,利 益処分項目などがなぜ入らないのか,それでよいのか,団体交渉との関係な ど今一つ資本主義企業体制の壁への肉迫が望まれるところである。ただ先に もふれたように, 「企業(およびその他の) レベルでの強力なる団体交渉・
共同決定なしに職場での共同決定は有名無実である」 (p.145) ことを著者の
「強調」と考えうれば幸いである。
第5章「成果参加と所有参加」について,先ず扉の対話のおわり「経営者 C」のこたえ,「硯在の自由企業体制」倒壊の「危機を回避し」それを「維 持•発展させるのに,成果参加や所有参加はすくなからず役だつと思」うし それらによって「富のかたよりが直り,労使関係が協調的となり,失業も少 なくなる」 (p.149)というのは,いささか妙薬過ぎるのではないか。 もちろ ん「所有参加,とくに成果にたいする参加を含んでこそはじめて,完全な意
「経営参加の思想」(川崎) (467)83 味での経営参加となる」 (p.150)ということは基本的にはわれわれも同じで ある。ただ「所有参加」が「従業員持株制」を主要な柱とすることや,「成 果参加」がアメリカにおける各種分配制度を前提とすることで,資本主義的
「所有」への参加,資本主義企業活動の「成果」への完全な参加となりうる かどうかについては疑問が残らざるをえない。「所有参加」につい、ての疑問 には,引用されている故市原季ー教授のウルブリッヒの所有参加にたいする.
批判 (p.172)をわれわれも支持したい。 ここでは「成果参加」について考 えてみよう。
「成果参加」ということについては,先ず「成果」とは,資本主義企業が 資本主義的経済法則の支配する世界で収益性原理に則って活動してえられた 結果であること,そして基本的には生産手段の所有権にもとずく優先的配分 原理が「支配」といわれるものの重要な本質部分をなしていることを考える と, 「労働者の賃金をも含めたものを経営目標と考え, それを成果とする必 要がある」 (p.160)としても, それはたんなる発想の転換だけでは不可能な ことであり,本質的には体制的,制度的枠組の変更を迫るものである。しか もその本質的意味はこの「成果」(あるいは「付加価値」)が,創造価値とし てひとえに労働の成果であることから出てくるものである。この意味では
「経営に参加する労働組合は, この価値創造の一翼をになう」 (p.221)とい うのは硯象的にすぎない。この本質隠識を「参加」概念のなかで獲得するこ とは容易なことではない。むしろそれが現実的,硯象的には分配原理(具休 的には分配率の設定)によって実現されるというかぎりでは, 「参加」とい う範疇よりも分配闘争的本質を考えるべきではなかろうか。所有から生産に いたる資本運動の全過程への「参加」と切り離された分配率決定ということ で「経営」「参加」が完うされるとはいい難い。 スキャンロン・プランにお ける「基準労務比率」や「実際給与金額」 (p.160)の問題,「ラッカー生産 分配の法則」 (p.163 ff.)における生産性基準原理,そしてそれも「この分配 率は」「非恣意的, 非人間的な方策で算定された生産価値の分配率である」
(p. 164:)ことなどの問題への基本的全面的参加の必要性は, 39.395彩という
第 4 巻 第 5 号
分配率の至上性によって不要となるのであろうか。それほど資本主義的生産 関係のスタビライザーとしてビルト・インされているものであろうか,とい
う疑念が残るのである。
第6章「経営権と労働組合の責任」については既述のところを要約するこ とになるが,「経営権」の問題については, やはり「資本」と「経営」の分 離論,われわれの範疇でいえば,主体的には「資本家」と「経営者」の分離 と,機能的に「所有」と「経営」の分離の問題が下敷にされる必要があると 思う。「経営参加」を主とする本書ではあるが, 「資本」の問題は,「資本参 加」(「所有参加」)として「経営参加」にむしろ包摂されているけれども,
「資本」とその支配の問題は「参加」を根底的に支える問題であろう。搾取 の根源は経営の論理にあるのではない。
第7章「日本の経営参加」についても既述のところに譲り,残りは次に整 理したい。
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以上われわれは「経営参加」論のために,先ず資本主義企業・経営に関す る基本的範疇の確定の必要性と,次には本書にみられる「経営参加の思想」
的態度のなかに,総体的に資本の論理の問題とのかかわりの薄いことを敢え て指摘してきたが,最後に本書におけるその他の問題点を(ここではすでに 摘記するにとどめねばならないが)指摘しておこう。編成順による。
序章一1.「経営参加」が「いくつかの大企業において」 (p.4)導入される ほどになったことは事実であるが,素朴ながら,その際の内容が問題で,ま た大企業の問題にとどまりがちであることもおさえる必要があろう。
2. 1974年の ILOの国際シンボジウムの一端の紹介がほしい。 ECの思 考 (p.18)についても同じ。
3. 「精神労働」と「肉休労働」の主体は,それぞれ「資本家」と「労働 者」と割切れるであろうか。
4. 「今日の経営参加制度は…団体交渉制度の原理をこえたところにその
「経営参加の思想」(川崎) (469)85 新しさがある」 (p.25)というのは, 大問題に火をつけている。
第1章一1.「ローレンス・ローシュの説が正しいとする」 (p.61)保証は どこにもとめられるのか。ケース・バイ・ケースか,ボルボやパジャマ業は どうなのか。
2. 「古典学派の管理論」と「人間関係論や行動科学」の展開局面(p.61) はしかくかぎられるものであろうか。
第2章ー1.「部分」も「全体の一環となってはじめて価値が出てくる」
(p. 71)というパートナーシャフト原理では,「部分」としての人間価値のほ かに, 「全体の一曝」としての仕事と組織上の価値とを分けているのであろ
うか。そうとすれば矛盾をはらまないか。
2. 「クレッグの思想」のなかで,第三の「社会主義国の体制に反対のも のとなる」 (p.86)論理が今一つほしいところ。
第3章ー1.「自主管理された経済全体」 (p.112)は, 市場体制か計画体制 か。
第 4章ー1.「労使協議制と団体交渉の関係」 (pp.134‑135)の三類型のほ かに,地銀連傘下の例として,ベース・アップ(総額賃金)は団体交渉で,
その後個人配分は労使協議制でというところがあった。これは同じ賃金問題 にしても,ベース・アップと配分の問題の質的差遮をあらわすものとも考え られる。
2. 西ドイツにおける共同決定28年の歴史的要約がほしい (p.140)。 3. 「二重忠誠義務」とその監査役と取締役での遮いは?
4. 「経営参加」の広狭四義の区分認識 (pp.127‑129)は重要である。
第5章ー1.「成果」は「付加価値に類似のもの」 (p.160)で, 同じではな いのか。
2. 「経営権」が「質的にも強化」 (p.162) されることのデメリットはな いのか。この裏面として「団体交渉が変質する」 (p.168)という実態はどう なのか。
第6章ー1.経営権の「機能的根拠」について, 「迅速な意思決定」のみが
「同質性」 (p.180)を要求するのであろうか。「質」とは何であろうか。
2. 「単一の権限」 (p.180)はどうして「経営権」と結びつかねばならな いのか。
第7章ー1.序章でもみたように,解説者氏のいう 90% の 普 及 (p.199)と いうことも規模別にみる必要がある。「労使協議制の普及状況」について,
5千人以上の大企業で92.6%, 100人〜299人の企業で54.7%,労働組合のな い企業で40.3%(日本経済新聞, 79・8・28)という数字もある。
2. 「総評」の批判的態度 (p.202) も最近変化して, 麗用確保や定年延 長を課題として,「企業に従属したり,労働組合の機能が弱体化しないよう」
注意した上で, 「総評型経営参加」のアイディアを練るため,西ドイツヘ調 査団を派遣するという(日本経済新聞, 79• 7 • 19)。
3. 「各種審議会」への参加のウエイトは強調されるに値しよう。
4. 「同盟」の「自主管理」観について,「あいいれない」 (p.214)立場と,
「自主管理を肯定する」(p.215)論理との関係はどうなるのであろうか。
む す び
以上本書『経営参加の思想』について本当に敢えて評を加えてきたが,
はじめにもいったとおり,本書はそのコンパクトなポリュームにもかかわら ず,三者よく調整され,入門的,啓蒙的役割以上のものをもっている。この ボリュームのなかにそれぞれ担当のテーマについての要点を盛りこむために は,恐らく多くの文献,資料が褒打ちされ,また述べたいところも相当にカ ットされているであろうと思われる。そのカットの部分に,思わぬ読みこみ 不足も交わりながら,敢えて注文をつけたような評になり,多くのメリット をすべて挙げることのできなかった非礼を,各執筆者に詫びるとともに,本 書がその評価を実力的にかちとるものであることを信じ,共著者各位の一層 の健闘を祈ってやまないものである。
7. 0kt. 1979