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一 立憲政治における徳義

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(1)

        明治立憲政と徳義

・       1合川正道と陸掲南の立憲政治構想.1・      −

山辺春彦  ︑ −

 目 次 はじめに

一 立憲政治における徳義

二 法律と徳義

三 イギリス憲政論の受容        −

四 立憲政治構想とイギリス憲政論の変容     い 五立讃治の困難性      ︐     .   〆 ・

おわりに   明治立憲政と徳義       ︵都法四十五−一︶ 三七一       −

(2)

三七二

はじめに

 本稿は︑日本で立憲政が開始されるに際して︑立憲政の円滑な運用とその十全な政治的帰結を確保するという問題       あいかわまさみち︵−︶くがかつなん︵2︶ に︑政治における徳義という観点から取り組んだ合川正道と陸掲南の議論を検討し︑その政治思想史的意義を明ら

かにすることを目的とする︒

 ﹁権利の保障が確保されず︑権力の分立が規定されていないすべての社会は︑憲法をもつものではない﹂︵フランス       ヨ  人権宣言第一六条︶といわれるように︑権力の分立は︑権利の保障とならんで近代憲法の本質的要素であるとされる︒

しかし︑権力分立の規定は︑国政の停滞を来さないために︑分割された権力を何らかの方法で協働させ一定の方向づ       べ けを与える手段の必要性を必然的に惹起するであろう︒ほとんどすべての近代憲法が諸統治機関に対して︑固有の権        限や自律権のほかに他の機関に対する﹁交渉的権限﹂を付与しているのは︑そのひとつの現れである︒ただ︑実際に

諸機関の協働を可能にする規範は︑権限を規定する明文の規範のみに限られるわけではない︒この役割を果たす不文

の非法的規範への着目がまずなされたのは︑早くから権力分立が実現していながら成文憲法典をもたなかったイギリ

スにおいてである︒

  ブリテンの国制においては︑主権の三つの同格的構成要素の各々に権力が与えられていて︑それらの権力は︑もし完全に行使

  されるならば︑各要素がその権力によって︑統治機構の全体を停止させることもできるであろう︒したがって︑名目上は各々

  は︑他を妨害し邪魔するための同等の権力を与えられていて︑もし︑三つのうちのどれかが︑その権力をふるうことによって︑

  地位を高めることをのぞみえたならば︑人の世の通常の経過から考えて︑その権力が行使されただろうことを︑われわれは疑

(3)

  いえない︒︵中略︶では同じその権力が︑攻撃的に用いられることを防ぐものはなにか︒それは国制の不文の格率︵巨§葺op

 ・∋巨∋°︒o︷Oo当゜・葺巨o田︶︑換言すれば︑この国の実定的政治道徳︵Uo乙︒巨く①bo巨︒巴日o﹃①馨司︶であり︑−そして︑この実定的政

  治道徳は︑国制における真の最高権力がだれに帰属しているかを知りたければ︑注目しなければならないものなのである︒

  冨巨⁝±心︒﹈       ︐      ︐

後に詳しく論じるが︑ミルによってはじめて指摘されたこの規範は︑バジョットおよびフリーマンをへて︑ダイシー

によって﹁憲法的習律﹂︵OOつくO口古一〇﹃Poり O﹃ けゴ0 60口o力古一﹇已﹇一〇﹁P︶として定式化され︑イギリス憲法の原理の一つとされるに至

る︒もちろん成文憲法典をもつ国においても非法的規範は重要な役割を果たしており︑憲法典が用意した交渉的権限

に代位する機能をもつ事例が数多く存在する︒たとえば︑フランス第三共和政憲法は大統領に議会解散権を与えてい

たが︑一八七七年の五月一六日事件以降大統領はこれを行使できなくなり︑また憲法上規定された存在ではない首相

が実質的に行政権の担当者となることで︑議会優位の議院内閣制が成立した︒そして︑フランス憲法学は﹁憲法慣習﹂

︵OO⊆ひξPΦOO白ooひ一口﹂﹇﹂O日O已O︶という観念を用いてこの事態を説明したのである︵樋口一九六四参照︶︒

 この非法的規範の重要性は︑単に消極的に諸機関の衝突を回避させるだけに止まるものではない︒それは︑各機関

の活動を一定の方向へ整序する機能︑いいかえれば国政全体を貫く原理にしたがった協働をもたらす︒

  実際︑習律︵⇔oつくΦコけδ白゜︒︶は︑統治権力が種々の人々や組織に与えられている所  換言すれば︑混合国制が存在する所で

  はどこででも常に発達するにちがいない︒︵中略︶習律的規範は︑国制の種々の部分の活動︑その相互間および被治者との関

  係を規制するために不可避的に生じる︒そして︑習律はそうした状況において生じるだけでなく︑常に二つの共通する特徴を

  有する︒第一に︑国制が実際に機能する仕方を発見しようとするならば︑我々が着目しなければならないのはこうした習律で

  ある︒習律は︑それが前提とする法的諸規範が適用される方法を決定するため︑実際上︑国制の原動力なのである︒第二に︑

   明治立憲政と徳義      ・      ︵都法四十五1一︶ 三七三

(4)

三七四

  こうした習律は︑国制がその時の有力な国制理論と実際に一致して機能することを保障する傾向を常にもっている︒テユー

  ダー期の習律は︑国王の政治的優越の保障を指向していた︒一八世紀の習律は︑権力分割および抑制と均衡の体系の維持を指

  向していた︒一九.二〇世紀の習律は︑庶民院の政治的優越の保障を指向していた︒冨o置乙︒≦o昌︐⁝一ΦNl宗c︒﹈

つまり︑不文ゆえの柔軟性を有する憲法的習律は︑支配的な政治理論を国制の運用の仕方に反映させる手段でもあ

る︒憲法改正や新憲法典の制定によって諸統治機関の構成や権限を変更しなくとも︑習律を変化させることで国制の

あり方そのものを変えることができるのである︒ミルが︑庶民院の優越を本質的特徴とする代議政治を実質的に確保

している規範として﹁実定的政治道徳﹂への注意を促したのは︑まさにそれゆえであった冒巨三︾︒ト︒﹈︒

 もちろん︑諸種の交渉的権限を明文化することなどによってこうした機瀧を憲法にもたせることも可能であり︑多

くの憲法典はそれを試みている︒しかし︑成文憲法典をもつ国であっても︑憲法上の規定が現実と適合しなかったり

憲法典のみによっては一義的な運用が導かれない場合には︑非法的規範が介在する余地は大きくなり︑その内容が現

実政治にとって大きな重要性を帯びることになる︒そして本稿の前提となる明治憲法は︑大臣の任免権と責任対象を

天皇に限定し︑第六七条等により行政機関の存立を保障するなど︑ドイツ系の諸憲法と同じく行政部の自律性を尊重

する傾向が強かった︒このように諸機関が統合される形態を確定しない憲法下では︑各機関が他機関に対する交渉的         権限を実際にどう運用するか︵そして多くの場合︑どの機関が主導的役割を果たすか︶によって政治のあり方が大きく規   ・

定される︒この点を詳細に検討したのが︑佐々木隆氏の研究︵佐々木一九九二︶である︒佐々木氏は︑天皇の法律不裁

可権や第六七条︵議会側からの六七条費目廃滅同意要求手続︑政府の原案執行権など︶の運用に関する慣習が初期議会期に

いかに形成されたかを当事者の意図に即して跡づけており︑明治憲法下での政府・議会関係の解明はこれにより大き

く前進した︒他方︑先のホールズワースのことばでいえば当時の﹁有力な国制理論﹂の対立構図を明らかにしたのが︑

(5)

坂野潤治氏の研究︵坂野一九九六︶である︒坂野氏は︑明治憲法の解釈として現れた﹁政治体制構想﹂を﹁大権政治﹂   .

 ﹁内閣政治﹂﹁民本政治﹂の三つに類型化し︑その﹁相剋の過程﹂として憲法施行後の政治史を描いた︒このように︑

個々の交渉的権限の運用様態についても︑またそれを全体として支える国制構想についても︑近年の研究の進展に

よってより明確な見取り図を手にすることができるようになっていゐ︒しかし︑これまでの研究では︑両者の結節点        ︑

となる非法的規範の役割を把握するという視角が必ずしも意識的に採用されているとは言い難かったため︑ともすれ

ば両者の連関の解明は不十分なままに止まっていると思われる︒それはひとつには︑研究者のみならず当時の多くの

思想家・政治家もまた憲法的習律のような非法的規範の役割にそれほど留意しておらず︑ある程度重視する論者にお        ︑    ︑       v︵7︶ いても権力分立という新たな状況下でそれがもつ意味が十分に自覚されていなかったことに起因する︒本稿は︑合川

正道と陸掲南という例外的に非法的規範を強調した人物を取り上げることによって︑従来の立憲政・立憲政論研究の ︑

        コ       ェ 不備を補うとともに︑日本の立憲政治が当初有していた可能性を汲み上げることを試みる︒彼らは現実の政治過程に

おいても立憲思想の流れにおいても傍流的存在であったが︑政治における人間の内面的要素を重視した結果として立

.憲政を支える非法的規範に着目することができた点で︑彼らの議論に考察を加えることには思想史的意義が十分存す

ると考える︒以下では︑まず陸掲南の徳義論を中心に立憲政治における徳義の位相を概観し︵一︶︑次に合川正道の

立憲政構想の形成過程を追うことを通じてその徳義論の性質を明らかにする︒そこでは︑法律の関連でなされた徳義

の意味づけに検討を加え︵二︶︑−それを前提としてなされたイギリス憲政論の受容を跡づけ︵三︶︑それが咀噌された

結果生まれた独自の立憲政治構想の特質を明らかにする︵四︶︒最後に︑彼らの構想が抱えていた困難とその後の展−

開可能性を見ることにしたい︵五︶︒

明治立憲政と徳義  ︑       ︵都法四十五−一︶ 三七五

(6)

三七六

一 立憲政治における徳義

 立憲政開始期において政治と徳義の関連を説く議論を追った研究として最も重要なものは︑山室信一氏の業績であ

る︵山室一九八一︶︒山室氏はここで︑立憲政構想段階から優勢だった﹁法典に規定した諸関係を作り出していくとい

う響導的性格を帯び﹂﹇二一﹈る法典化を押し進める﹁法規優越主義﹂に対し︑﹁形成された制度を的確に解釈し︑運

用していく人間﹂二五﹈とその徳義のあり方を重視する立場が少数ながら存在したことを指摘し︑その主張の意義

を明らかにしようと試みている︒前者は政府の法制官僚や小野梓・矢野龍渓ら改進党系の思想家に見られ︑後者は井

上毅や陸掲南の徳義論︑そして合川正道の﹁政治徳義﹂論などがそれにあたるとされる︒ただし︑山室氏のいう徳義

は︑それが選挙腐敗を批判する吉野作造などの主張に引き継がれていったとすることからも了解されるように﹇七三

−八〇﹈︑諸機関を協働させ方向づけるというよりは︑ある権限・権利をその創設目的の実現のために適切に用いる倫

理として理解されていると考えられる︒したがって︑山室氏の分析は井上毅の徳義論の把握としては適切であるとし

ても︑掲南や合川に関してはなお部分的には再検討の余地が残されていると思われる︒そこでまず︑二つの徳義論の

差異を明確にするために︑井上毅の議論から考察することにしたい︒

 井上は︑有能な法制官僚でありながら法律の力を万能視していなかっただけでなく︑﹁法律の世﹂から﹁哲学の世﹂

への変遷を予期し待望していた特異な存在である︒その理想とする﹁哲学の世﹂とは︑﹁仁政の主義を唱へ務めて貴

族門葉の風俗を節倹ならしめ以て下等貧民を救済するの道徳政事﹂がなされる世界とされる﹇一八八一年?﹁経世論﹂

1③五〇二﹈︒﹁欧洲の法律政治は既に末運に属し﹂ているという認識をもっていた井上は︑立憲政体を﹁新に挙行せ

(7)

んとする﹂日本も︑コ家の主義を確立し以て後世に行ふへきの標準とする﹂べきことを説く﹇五Ω三︒井上が抹消

部分で仁徳天皇の故事などを引いて﹁専制政治の精神は外は武力を主とし内は強を抑へ弱を扶け務めて窮民を皿み以

て一般の人心を牢絡するに在り﹂と述べていることから明らかであるが︑﹁道徳政事﹂とは実は過去において行われ

ていた﹁専制政治の精神﹂.であり︑彼が発見したコ家の主義﹂とは︑﹃古事記﹄に見られる﹁しらす﹂という統治

     様式を意味した︒こうして井上は︑﹁道徳政事﹂の実現という課題を打ち出すことで︑立憲政治下でも天皇と行政部

の主導性を弁証しようとしたのである︒たとえば︑﹁君位君職に付いての経費は全国に割負せて人民の義務として納

むること﹂を﹁しらす﹂型統治の﹁めでたき結果﹂とすることで﹇九五年﹁言霊﹂1③六四六.・六四四﹈︑﹁夫人民︑政

府に対して租税を払うの義務ある者は︑乃ち其政府の事を与知可否するの権理を有す﹂﹇江村⁚六七﹈という﹁民撰議

院設立建白書﹂に見られる論理を封じようとする︒そして﹁内閣執政をして 天子の選任に属せしめ国会の為に左右

せられざ﹂るための第三の方策として︑﹁現行の租税は将来に其効を有すべし﹂というプロイセン憲法第一〇九条と

同じ規定を設けるべきという﹇八一年﹁憲法意見︵第二︶﹂1①二二八−二二九﹈b永久税主義の採用により︑政府が議会

に従属することを避けようとしたのである︒もちろん︑井上がレースラーなどに抗して議会の予算議定権を行政部の

機能を損なわない限りで確保しよう試みていたことも忘れられてはならない︵坂井﹇九八三第三章参照︶︒財政でも権

・力分立を追求していた井上を︑単純にドイツ学流の君主政原理の信奉者とみなすことはできない︒

 では︑井上にとって立憲政治における徳義はいかなる役割を果たすのであろうか︒憲法発布直後の﹁立憲施政意

見﹂において︑彼は憲法を﹁専徳義に依て成立する者﹂と捉え︑﹁立憲の美果﹂を収めるため︑特に﹁輔相の徳義﹂

を重視した﹇1②八三﹈︒井上のいう﹁輔相の徳義﹂とは︑﹁憲法の精神を維持する事﹂︑﹁君主の為に責に任する事﹂︑

そして﹁内閣の一致及機密﹂を保持することであった︒しかし︑その二番目の﹁君主の為に責に任する﹂とは︑君主

   明治立憲政と徳義       ︵都法四十五ー一︶ 三七七

(8)

三七八

のために議会に対して責任を負うことを意味していたのではない︒井上は﹁善政美事は之を君主に帰し過失は之を己

に帰し身を以て責に任する﹂ことを﹁内閣の憲法上の義務﹂とし︑﹁大臣の君主に於ける関係は其の事の採用せらる・

と否とを問はす君主の特別の許可を得るに非されは議会及他の人民に向て宣言することを許さ﹂ないことを︑立憲国

の﹁貴重なる徳義﹂と考えていた﹇1②八四﹈︒また第三の内閣の一致と機密の保持も︑内閣が﹁同心一致君徳を輔翼

する﹂ために必要とされた徳義であった︒君主の実質的な大権行使を立憲政治の中心に据えたため︑大臣の徳義も君

主を輔弼するという職務を適切に遂行するために必要なものという性格を帯びたのである︒

 ただし︑一八九一年には﹁立憲の政は官民相譲るの徳義を以て精神とするものにして決して単純なる法律的の作用

を以て視るへからず﹂とも述べており︑十分には展開されていないものの︑・権力分立下での徳義による行政部と立法

部の協働も志向されていた﹇﹁冗費節約意見案﹂1②二二八﹈︒しかしその際にも︑﹁道徳政事﹂論の特色が維持されてい

る︒すなわち︑﹁官民相譲るの際此れ主となりて彼れ客となり政府は先んして人を制するの地に立ち其の大柄を失は

ざる﹂ことが肝要であるとしたのである︒井上の﹁民﹂に対する﹁官﹂の優位という主張は︑一四年政変で﹁大隈意

見書﹂に具体化されたイギリス型立憲政治をめざす一派を駆逐し︑憲法起草のモデルをプロイセンとする原動力と

なった︒彼がプロイセンを選択したのは︑イギリスでは﹁国王は自ら政治を行はずして︑専ら内閣宰相責任せしめ内

閣宰相は︑即ち議院多数の進退する所﹂であるのに対し︑プロイセンでは国王が﹁国政を理し﹂︑﹁議院政党の多少に

拘らずして其宰相執政を撰任する﹂ことで﹁官﹂の優位が保たれていると認識していたことが大きく影響している﹇八

一年﹁憲法意見︵第一︶﹂1①二二六﹈︒井上にとって﹁政党内閣即ち議院内閣制﹂は︑﹁我国固有の国体に乖離﹂するも

のであった﹇九二年﹁非議院制内閣論﹂1③六二二﹈︒そのため︑内閣は君主に対してのみ責任を負い︑議会に対する責

任は否定され︑行政部に対する議会のコントロールは︑立法や予算の議定などを通じた間接的なものに止まったので

(9)

    ある︒つまり井上のいう﹁官民相譲るの徳義﹂とは︑天皇・行政部優位での憲法運用を担保する非法的規範であった

    と解釈することができよう︒

     それでも︑明治憲法がドイツ学の知見をとりいれて行政部の独立性と立法部に対する優位を保障しており︑それを   .

    支える権限の確立に井上が心血を注いだことは周知の通りであって︑彼がみずからの政治構想を防衛するための法的

    規定を︵彼の考える権力分立と両立しうる範囲で︶準備していたことは明らかである︒そして︑この点を鋭く別挟したの

    が陸掲南であった︒少し後になるが︑一八九六年に掲南は﹁憲法範囲内に於て専制政治を行ふの秘法﹂という論説を

    発表し︑議会を無視あるいは無力化する手段を行政部に留保しているため︑−明治憲法自体が行政部による実質的な専

    制を許容する構造をもつことを示したのである﹇K⑨四七ニー四七七﹈︒彼によれば︑﹁議会の一院殆ど政府の反対党を

    以て成る﹂場合でも︑﹁政府は憲法及法律の文面に抵触する無くして︑優に専制主義の実を行ふの秘法﹂があるとい

    う︒まず最も重要なものとして議会に対する﹁大臣無責任の論﹂があり︑これによって﹁政府として殆ど至らざる所

    なきの専権をも亦た是認せざるべからず︒而して帝国議会は唯だ行政の諮詞府と為りて巳まんのみ﹂ということにな

     る︒加えて憲法第六条の緊急勅令と第七〇条の緊急財政処分という﹁積極的秘法﹂とい法律不裁可︑第六七条︑第七

     一条の前年度予算施行︑解散権の無制限行使︑そして授爵や勅選などを用いて貴族院を政府に隷属させることなどの

     ﹁消極的秘法﹂がある︒これに第六三条の永久税主義を加えれば︑すべて行政部に対する議会の干渉を排し︑行政部    ︑

︑    の主導権を最大限確保するために用意された手段にほかならない︒そして掲南は︑政府の専制が﹁吾が憲法を其の文

    章の上より冷淡に解釈す﹂る﹁法治論﹂によって可能になることを指摘し︑徳義の必要性を強調する︒

      ⁝夫の刑法すら人間一切の悪事を予防する能はざるが如く︑憲法固より当路政治家の所為を尽く律すべきにあらざるなり︒此

      に於てか立憲政体亦た幾分の徳義を必要とす︒憲法や本と大綱を規定するもの︑少なくとも之が細月を解釈するには︑法理の

        明治立憲政ど徳義       ︐   ° ︵都法四十五−一︶ 三七九

×

(10)

三八〇

  外又た別に徳義の参酌を要す︒立憲政体は法治政体なり︑徳義の参酌は必要にあらずと為さば︑吾が帝国憲法の如きは唯だ政

  府の専権に多少の煩累を与ふるに過ぎずして︑専権を抑制することは到底為し能はざるものと謂はざるべからず︒﹇四七三﹈

もっとも︑掲南は当初から立憲政治には徳義が不可欠であるとしていたわけではない︒憲法発布当時に三権を﹁調

和﹂させる役割が期待されたのは︑天皇であった︒      ︐

 掲南の憲法観と権力分立・調和に関する考えを知る上で逸することができないのは︑主著の一つである﹃近時憲法

考﹄︵一八八八ー八九年︶である︒この中で彼は︑成典に限らず﹁人民の公権利又は国家の大権力に関して主権者より

公布したる文章﹂すべてを憲法とみなし﹇K①三﹈︑﹁近世憲法の大要は公権利の担保と政権力の分割とに外ならず﹂

と述べる﹇=﹈︒そして︑﹁国家の大権力﹂に関する規定の中で最も重要な位置を与えられたのが︑権力分立であっ

た︒なぜなら︑﹁権力分立の事は自由政体の要素にして︑各人の権利を担保し︑政権の放恣を防禦するに必要なる条

件﹂だったからである﹇九﹈︒しかし同時に︑﹁謬見の極は三権揆離相ひ衝突するの制を生じ︑彼れ我れを侵されば

我れ必ず彼を侵し︑互に侵奪抑制して毫も統一する所なく︑終には無政府の弊制と為﹂ってしまったフランスの轍を

       メカニ ク        オルガニ ク 踏むことは避けなけばならない﹇二六﹈︒ここで有名な﹁器械的﹂国家と﹁機関的﹂国家の対比が用いられ︑﹁主権の

下に三権力分立して相ひ調和するものは機関的組成なれども︑三権力鼎立し互に侵圧して主権たらんと欲するものは        ︵10︶ 器械的組成なり﹂とされる︒そして︑﹁日本の立憲政体に於ける権力組成は所謂る機関的国家にして最も進歩せるも        の﹂といわれる︒そこでは﹁執中権力﹂である天皇大権が規定されていたからである︒

  天皇の大権は第一に最上権力たりと難も執中権力なりと云ふべし︒︵中略︶夫れ天皇の統治権は高く立法権︑行法権︑司法権

  の上に超然表出して︑一方には此の三権交互の関係を調裁し︑他の一方には此の三権︵即ち国家権力︶と臣民権利との関係を

  調裁するものなり︒﹇二ニー二三﹈

(11)

これに対応して︑彼の徳義論には方向こぞ異なるものの︑︑井上の﹁輔相の徳義﹂に近い性格すち見出される︒たとえ ば︑掲南の徳義論を論じる際には必ず引用される一八九一年の﹁誠心﹂には︑次のような考えが見られる︒

   吾輩は政事家に向つて孔孟の道を講ずるにあらず︑又た基督の教を説くにあらず︒吾輩の今日政事家に向つて言ふ所の道徳と

  −は唯だ﹁の誠心是れなり︒﹇③八﹈

   吾輩は必ずしも官民の軋礫を非とせざるなり︑必ずしも政府と議会との激謹を非とせざるなり︒非とせざるのみならず︑時あ

   りてか其の反て要用なることを信ずるものなり︒然りと錐ども︑誠心なくして相接し詐謀陥濟互に競ふことは吾輩の最も非と

  する所なり︒荷くも誠心なければ其の争ひ固より非なり︑其の和合亦た最も非なり︒蓋し誠心なきの争は其の争ふ所の点唯だ

  政権に在りて政道にあらず︒誠心なきの和は其の和する点唯だ私利に在りて国利に在らず︒.是を以て其の争は以て国を害する

   に足り︑其の和は最も以て世を誤るに足る︒而して無誠心にして官民相和することは遂に立憲政体をして有名無実たらしむる

   に至らんとす︒﹇九﹈

  政府にして誠心に乏しければ必ず議会の為に侵凌せらる︑議会にして誠心に乏しければ必ず政府の為に擾乱せらる︒而して立

  法行政の二権は忽ち合して一と為らん︒若し政府及び議会共に誠心に乏しき乎︑則ち世の権謀家の為に利用せられ国家の権力

  は遂に功利の孤注と為らん︒三〇﹈

 ﹁誠心﹂は﹁政治上の節操﹂ともいいかえられ︑議員においてそれは﹁国家の為めと信ずる所を執りて以て真摯且謹

重に言論を為す﹂ごとにあり︑大臣については﹁内閣の一致を失ひて大臣各々其の親しむ所に阿附するの不可﹂が主        ロ 張されている﹇九﹈︒つまりここでの徳義は︑井上のいうそれと同じく︑権力をそれが創設されその機関に付与され

た目的の実現のために誠実に行使する内面的規範を意味しており︑個々の権力担当者がこの徳義をもつことが権力分

立の前提条件と捉えられている︒おそらく掲南は︑各機関め構成員が﹁国利﹂と信じる所は異なることが多いと考え

    明治立憲政と徳義       ︑     ︑      ︵都法四十五ー一︶ 三八一

(12)

三八二

ており︑そこに権力分立の意味が見出されたのである︒

 再三述べてきたように︑権力が分立する場合には︑各機関がみずからの意志の貫徹を望むことで対立が発生するた

め︑機関間の調和という要請が強まることになる︒彼もまた︑分立する諸権力は衝突を回避して調和すべきという立

場をとっており︑初期議会における︵民党が多数を占めた︶衆議院と政府の対立についても︑﹁和衷協同﹂を求めた︒

ただしその手段として提起されたのは︑もはや天皇の執中権ではなく徳義であった︒﹃原政﹄二八九三年︶での徳義

論は・この側面からも把握されなければならな四・醤によれば︑立憲政治とはもともと次のような﹁進歩主義﹂の

﹁兄弟の献立に係るもの﹂﹇K①一三〇﹈である︒

   犬は肉の在る所に赴きて棒の在る所を避く︒経済上の誘披は肉の在る所を示すにありて︑法律上の制裁は棒の在る所を示す    ︑

  にあり︒自由主義若しくは進歩主義︑又或は法治主義といふものは︑実に人類の此の動物的秘密を穿ち得て之を利用せんと欲

  するに外ならず︒﹇二二四﹈

そして︑﹁徳義上の関係は動物的眼孔よりすれば最も解すべからざるもの﹂﹇一三〇﹈であったから︑﹁徳義の神は政界

より放逐せられたるや久し﹂三三六﹈い︒しかし︑

  国家は人類最高の団体にして政府は此の団体の代表なりとせば︑従つて之に対する尊敬も亦た最も大ならざるべからず︒最大

  の尊敬に酬ゆるには最大の慎重を要し︑最大の慎重に酬ゆるには亦た最大の尊敬を要す︒官民間に於ける吾国固有の関係は斯

  の如きのみ︒此の関係を保ちて立憲政体は始て用あり︒﹇一四二﹈

掲南は︑﹁徳義の神﹂を呼び戻すことによって﹁政府と議院との衝突﹂﹇一二五﹈を調停しようと試みたのであり︑こ

の徳義は﹁誠心﹂でのそれとは明らかに異なるのである︒

 二つの徳義をより明確に分節化したのは︑合川正道であった︒合川はまず︑﹁従来単純なる機関もて処理せしを︑

(13)

新たに複雑なる機関もて︑処理することに改むるに当りては︑是れ迄感せさりし必要を感する﹂と述べ︑それは﹁新     

︑設の複雑機関をセ︑健康な幡作用を致さしむる﹂ために︑﹁円滑﹂すなわち﹁其複雑なる儘に諸部の作用か︑和合  −

一致﹂することであるという﹇A⑯一八−一九﹈︒これは政治にも当てはまりパ政治機関が単純な﹁専制の時期を離れ

て立憲の時期に遷り︑将に方に複雑なる政治機関に依て︑国家の政を挙けんと﹂している現在︑﹁此政治機関の作用

をして︑円滑ならしむることを以て第一の目的となさ・る可らさる﹂のである︒そのための方策が︑政治家が備える

べき徳であった︒

  抑︑政治の円滑を致す其道あり︑而して其道たるや固より法文を以て之を規定し︑威九を以て之を履行せしむることを得るの

  限りに在らす︑即ち之を政治家の酪徳良能に向て︑求めさる可らさるなり︑要するに政治の円滑を致すには︑機関の運用者た

  る政治家︑進取と遜譲との︑一︑一徳を兼備するを緊要とす︑敢為の気象を盛にし︑権力を維持拡張するを勤むる︑之を政治家進

  取の徳と謂ふ︑温和自克の節を養ひ︑其権力を使用するに当り︑常に中庸の義を失せす以て和衷協同の実を致す之を政治家遜       マこ   譲の徳と謂ふ︑此三徳たるや人間万事に関し︑必須欠く可らさる所の者なり︑例へは吾人か朋友と相交際するの一.事に於ても・

  右二徳に依るの必要を見る︑則ち進取の徳薄弱ならん乎︑我か独立を保つこと固より難し︑又た遜譲の徳欠乏せん乎︑則ち交       ゆロ   友の道を全ふする能はす︑讃に孤立の人にして止まん耳︑故に人進取遜譲の二徳を完備して︑始めて交際の円滑を期すへく︑

  交際円滑にして始めて他と共同して︑事業を成就することを得へきなり﹇一九−二〇﹈

合川は掲南と同じく︑権力分立を羅持するものと諸権力の協働をもたらすものに徳義を区別していた︒また︑徳義の    −

必要性が朋友間の交際によって例示されたことも注目さ塞・

 ただ︑既に触れたように︑この非法的規範は国制の機能を有力な国制理論に一致させる働きをすることにも注意し

なければならない︒それは彼らの場合︑﹁近世憲法の大要﹂である﹁公権利の担保﹂を実現する試みの一帰結という

  ︐明治立憲政と徳義  ㌧   ﹁       .    ︵都法四十五ー一︶ 三八三

(14)

三八四

べき︑民選議院の開設がもつ意味とかかわってくる︒憲法上の機関間の関係だけでなく統治機関と被治者との関係に

まで視野を広げるならば︑権力分立の結果誕生した民選議院が立法権の担い手であると同時に﹁輿論の機関﹂三八

九〇年﹁議会論﹂K②七六二﹈でもあったことは︑立憲政治構想においてそれが占める位置を特殊なものとする︒

 ﹁成れば則ち功を君に帰し︑敗るれば則ち過ちを身に負ふ﹂という﹁古来支那に於て称する賢相忠臣の道﹂が遵守

されていれば︑そもそも憲法は無用である﹇九一年﹁夜須味録﹂K③一五八﹈︒しかし︑﹁庸人凡夫が私利の心より斯る

君臣の道を忽にする者多きが故に︑已むを得ずして憲法を以て之を律する﹂ことが必要となる二五八ー一五九﹈︒つ

まり︑井上のいう﹁輔相の徳義﹂は現実には依拠できないということが︑掲南の立憲政構想の出発点であった︒

   国法を畏れて私曲怠慢を避くるは最下等なり︒民言を揮りて私曲怠慢を避くるは中等なり︒国法民言の如何に拘らず︑自己

  の良心に詞ひて私曲怠慢を避くるは最上等なり︒今の政界は固より最上等を以て責むべからざるのみならず︑恐らくは其の中

  等ならんことを望むも亦た甚だ難からん︒︵中略︶

   法律の制裁は限ありて政事家の行為は極なし︒是に於てか民言の制裁を要す︒即ち所謂る輿論の監察なるものは必要なり︒

  今の政界は下等なりと錐ども︑政府は猶ほ民言を揮るの状あり︒是れ実に不幸中の幸にして︑帝国政界の前途に望を繋ぐの一

  縷線は唯だ此に存す︒︵中略︶

   政府を攻撃するのみは議会の職掌にあらずといふと難ども︑議会なるものは国の民言を取り次ぎて以て法律以外の制裁を政

  府に加ふることを怠るべからざるなり︒三八九三年﹁好間題を求めよ﹂K④二九九﹈

ゆえに︑﹁自己の良心に詞﹂うことを期待する﹁輔相の徳義﹂論は︑次善の策である﹁民言を揮﹂ることにもとつく

徳義論によって代位されなければならない︒ただし︑掲南にとって輿論とは︑制裁だけでなく政治の目的である公益       ︵15︶ を示すものでもあったため︑輿論が大臣の進退を決定することで輿論にそった政治がなされると考えられていた︒そ

(15)

のため︑輿論の求めるものを実現し︑かつ輿論に従って進退することが新たな﹁輔相の徳義﹂となる︒

  立憲政治と共に生出する大臣責任論は︑恐らくは重もに人民に対する責任を指称するなり︒﹇九三年﹁大臣責任論﹂④三九八﹈

  ︹大臣の︺進退の自由は君主に制限せられずと難も輿論衆議には譲る所なかるべからず︒是れ徳義の問題なり︒﹇三九九﹈        ︐

この大臣と人民.輿論との関係は︑﹁民言を取り次﹂ぐ議会に媒介されることで行政部と立法部という機関間の関係

へと転化させられ︑大臣の﹁私曲怠慢﹂を抑制する現実的方策を獲得する︒掲南にとっては︑このことが立憲政体の

強みだったのであり︑権力分立論の意味もこの視座から捉えかえされなければならない︒ただしそれを可能にするの        ︵16︶ は︑大臣の進退を議会の意志に従属させることなどによって議会と政府を一致させる諸権力調和のための徳義のみで

あり︑﹁進歩主義﹂には不可能である︒

  進歩主義は法律上より﹃既得権﹄といふ思想を播布し︑又た経済上より﹃専売業﹄.といふ思想を播布す︒︵中略︶

  例へば︑薩長党は戊辰戦争の功労に因ての専売業既得権なりといひ︑隈板党は民権主唱の功労に因ての専売業既得権なりとい

  ひ︑以て政府を掌握するあらば︑彼等が至らざる所なき手段を以て之を保守するは自然なり︒政界慨に斯る思想を以て周旋すパ

  如何にして政権授受の円滑なるべきや︒如何にして英国政事家風の退譲は行はるべきゃ︒其大衝突を来すは勢なり︒輿論に従

  へとは攻者の言のみ︒﹇﹃原政﹄K①一三七﹈

法律のような物理的制裁を伴わない以上︑輿論に従うことも内摂の﹁徳義的感想﹂﹇K①一四二﹈に根拠をもたずには

なされえないのであり︑問題は徳義論に包摂されるのである︒

 以上見てきたように︑掲南と合川のいう徳義には︑権力分立と各機関の適切な活動を確保するだけでなく︑諸権力︑

を調和させるというもう一つの役割が期待されている︒そして︑議員が﹁誠心﹂.の徳義を遵守する︵っまり誠実に民言

を取り次ぐ︶ことで議会は人民の意志を国政に反映させる機関となり︑﹁調和﹂の徳義の効果により議会に対し大臣が

   明治立憲政と徳義    .       ︑       ︵都法四十五−一︶ 三八五

(16)

三八六

責任を負い︑議会が大臣の進退を決定するという過程が円滑に行われ︑いわば輿論によって国政が方向づけられるよ

うになる︒これを政府・大臣の側から見れば︑輿論に従いつつ国民の利益をめざして権力を行使するという﹁誠心﹂

の徳義は︑輿論を体現する機関である議会の主導権の承認をもたらし︑議会優位の協働を担保することが﹁調和﹂の

徳義の特質となるわけである︒彼らの立憲政治構想において︑徳義はこのように枢要な位置づけを与えられていた︒

そして︑その際主に参照されたのは︑イギリスにおける立憲政治の経験であった︒次に︑合川の思想形成過程に即し

てこの徳義論が負っていた思想史的背景の解明を試みるが︑まず次節では︑法律と徳義が峻別される様相を︑輿論と

の関係に留意しつつ考察したい︒

二 法律と徳義

 明治前半期の立憲政論は︑イギリスを立憲政体の祖国として︑またそれによって大きな成功を収めた国として︑し

ばしば最良の模範と位置づけていた︒それを具体的な政体構想に結実させたのが︑いわゆる﹁大隈意見書﹂や交詞社

の﹁私擬憲法案﹂などの私擬憲法であった︒

 しかし︑前述のようにイギリスには成文憲法典は存在せず︑憲法的習律という非法的規範が立憲政治の運用におい

て非常に重要な役割を果たしていた︒したがって︑イギリスに範をとる立憲政体構想が﹁成典﹂として提示されたこ

とは︑イギリスの経験からの大きな飛躍であったことは否定できない︒それは︑小野梓が述べたように︑﹁自由の制      ︑

度を布くに晩るるものの如きは︑勢ひ英国の凡例を継続し悠然として其憲法の成長を待つに邊あらざる﹂以上︑やむ

を得ないことと捉えられていた三八八二ー八五年﹃国憲汎論﹄0①五六二﹈︒小野の現状認識は︑﹁天下今ま恐くは保守

(17)

  すべきものな﹂く︑﹁吾人今時の人民は自から改良前進の主義を操持し新秩序を作為すべきの秋﹂であるというもの

  であった﹇八二年﹁勤王論﹂0③二〇四﹈︒そのため︑たとえば﹁今の時に当て新に一国の憲法を建て以て其政治の運行

  を善くせんと欲せば︑須らく内閣の条項を設け明に之を憲法の成文に掲げその職務の所在責任の所帰を明示すべきな

  り﹂と主張したのである﹇﹃国憲汎論﹄0①三六六﹈︒     ︑

   こうしたイギリス派の立憲政治構想を真正面から批判したのが井上毅である︒彼の批判は次の二点に集約できる︒

  すなわち︑立法による急激な現状変更は危険であり︑彼らがモデルとしたイギリスでも立憲政治は徐々に習慣として

  形成されたこと︑そして日本の実情に即して立憲政治を行なおうとするならば︑イギリスよりもプロイセンに準拠す

  る方が無難だということである﹇一八九一年﹃非議院制内閣論﹄1③六二三・八一年﹁憲法意見︵第一︶﹂1①二一﹈五⊥ご︐一

  八﹈︒合川は第一の主張を井上と共有しながら︑イギリス立憲政治を高く評価する点で井上と分岐することになっ

  た︒以下ではまず︑八四年の﹃講法余論﹄に現れた合川の法律観を︑小野と対比させつつ見ることにしたい︒

   興味深いことに︑二人の法思想はその出発点では違いが見られない︒法を定義する際に︑両者ともオースティンの        オ スチン   法命令説を基礎としているのである︒小野は﹁︹民刑︺二法の真理﹂を﹁填斯陳の所謂る普通の法理なり﹂とし﹇七

  六年﹁民刑二法実理﹂0③四四九﹈︑﹁法制は命令なり︒主治者の命令なり﹂と規定している﹇八四年﹃民法之骨﹄0②二四

  〇﹈︒そして合川も︑﹁ヲースチン氏か法律は其効力を政権者即ち立法者より得故に人民は其法律の道徳に合ふと否と

  を問はす皆之を遵守すへきものなりと云へるは固に精確不動なる説にして法理上実に間然する所なし﹂と高く評価し      ロ ・ ている﹇A③一五﹈︒しかしそのすぐあとで︑法命令説は法律の﹁名の立つ所以﹂であり︑﹁単に此説に是拠り以て政

      ママ    治上に社会上に人間万端の事に処せんとせは必偏狭に流れ膠柱鼓琴の答を免かれさる.へし﹂と批判する﹇一五−一

  六﹈︒彼によれば︑﹁法律は道徳の為に其効力を制せらる・と云ふは則其実の立つ所以﹂なのである﹇一七﹈︒

     明治立憲政と徳義    .      ︵都法四十五−一︶ 三八七

(18)

三八八

オースティンにあっても・齢が実質的に法律︵実定法菖く量︶に対して影響を及ぼすことは否定されない︒        む  しかし︑それはあくまでも法を制定する主権者が道徳的要請を考慮するという形で承認されるのみである﹇八木一九

七七⁚=○﹈︒道徳と法は論理的に異なるルールであり︑その内容および両者の一致不一致はそれぞれの効力とは無

関係とされる﹇﹀=ooけヨ 一QoΦ1一co⑩﹈︒道徳が法的拘束力をもつこと︵すなわち法的制裁により強制されること︶も法の効力を

左右することもありえず︑道徳に反する法も法としての効力をもつ︒法命令説に立つ限り︑主権者の命令ではない道        徳によってそれと矛盾する法に服従する義務が解除されることは承認されない︒道徳は﹁主権者に対する制約原理と

して︑また国民の主権者に対する批判・抵抗原理として機能する﹂だけなのである﹇八木一九八九二三五﹈︒

 小野梓は︑みずからの立憲政構想を﹃国憲汎論﹄として構築するに際して︑一方でベンサムの﹃憲法典﹄を基礎と

嘉とともに・他方でベンサムに欠けていた自由権論をソバあ﹃畠自治論﹄から組み入れたとされる︵山±

九六九・一九七八参照︶︒小野の法思想という面から注目されるのは︑後者の過程で﹁法律の無上﹂︵切葛8ヨ9望︒二§︶

という原則が受容されたことである︒﹁法律の無上﹂とは︑﹁必らず当然の順序を履み事に先て既定したる法律を以て

之を治め︑臨時随便の措置を以て之を乱らず︑法律に非らざれば民人之を遵守せず官府之を施行せざるを謂﹂う﹇﹃国

憲汎論﹄0①一〇一﹈︒﹁成法﹂の安定を通じて自由と秩序を確保しようとするこの原則は︑直接にはリーバーに由来す

るものの︑法律固有の効力を維持する法命令説と適合的であった︒同時に︑先に触れた法律による改革という小野の

実践的意図とも矛盾するものではない︒なぜなら︑法律を凌駕する規範や力が存在しないとすれば︑論理的には現状        お       を変更する力を法律に与えることが可能となるからである︒こうして小野は︑﹁改良﹂の響導と﹁作為﹂された﹁新

秩序﹂を安定させるという二つの役割を法律に求めたのであった︒

 合川もまた法の安定化機能を重視していたが︑むしろそれゆえに小野とは逆に︑﹁秩序守護の重器たる法律を尊重

(19)

し狸に之を変更せす法律をして社会の進歩に後る・も寧変更頻繁の弊を避けんことを勤むへき﹂であるという﹇A③

三九﹈︒﹁社会は活物﹂であるのに対し﹁法律は死物﹂であって︑﹁社会は自ら進み法律は人の之を進むるを待つもの

なり故に法律と社会と常に其進歩の度を等ふする能はさる﹂のは当然である﹇三九−四〇﹈︒そして︑﹁法律は畢寛社

会の疾病を治する薬石たるに過きすして社会の健康を進むるに至りては其効能梢≧薄弱なる者なり﹂とし︑﹁法律の

効能を盲信﹂して﹁法律に依れは何事も為し得へきか如く考へ﹂る人々を批判するのである﹇四五−四六﹈︒とはいえ︑

﹁法律の社会の状態と合格することは人類の幸福を進むるに於て必須欠く可らさる条件﹂であり︑何らかの方法に

よって両者が乖離し法律が社会の進歩を阻害する事態を防がなければならない﹇二ニー二三﹈︒そこで合川が着目した

のは︑立法者による法律の改廃ではなく︑道徳によって﹁法律の実を制﹂することであり︑それを実現しているイギ        えいしゆく リスの状況であった︒合川によれば︑﹁道徳は社会の状態の反照にして之と与に倶に盈縮消長﹂するため︑﹁道徳あり

て能く法律の実を制し以て之をして社会の状態と合格調和せしめ社会一般の進遷をして円滑流暢たらしむ豊其れ亦美

ならすや﹂とされる︒そして︑﹁片言隻句の法律を須ひすして暗々裏に︹英国皇帝の有する法案否認の権のような︺       お  此至大至壮の帝権を廃弛に帰せし輿論︿即ち道徳﹀ρ勢力も亦盛なる哉﹂というイーマンのことばを引き︑﹁英国の

実例﹂への参照を促しているのである﹇一八−二〇﹈︒こうして合川は︑主権者の法改廃手続によらずに道徳が直接法

律の効力を否定し内容を改変することを積極的に承認し︑オースティンの法理論から一歩を踏み出したのである︒そ

れは同時に︑オースティンにおいては切り離されていたある法とあるべき法が︑いいかえれば法はなぜ妥当するかと

いう問題と法はいかなる内容をもつべきかという問題とが︑合川においては接合されたことを意味していた○

 ところで︑合川が引用しているイーマンの﹃統治論﹄の原文﹇ぺ8∋碧⁚ト︒誤−b︒ぺ﹈には︑﹁輿論﹂の原語である苫ぴ已6

0b巨oロが道徳と同一視されている箇所は見あたらず︑割注は合川によるものと考えられるパまた︑﹃講法余論﹄のこ

−  明治立憲政と徳義       ︵都法四十五ー一︶ 三八九

(20)

三九〇

の章の原型である﹁法律漫言第こ︵﹃明法志林﹄第七〇号︑八四年︶では︑﹁輿論即ち政治上の道徳﹂とされている﹇三

八七頁﹈︒ところが彼は﹃講法余論﹄とほぼ同時期の論説の中で︑﹁政治上の道徳﹂とは全く異なる規定を道徳に与え

ていた︒そこでは﹁道徳の奥義﹂は﹁誠意正心﹂であり︑その成果は﹁人皆賞爵を待たすして善を為し悪を慎む﹂こ

ととされる﹇A④三四﹈︒そして︑﹁道徳の本旨﹂を達するには﹁孟子の所謂四端を拡充﹂することが必要であり︑ベ

ンサムが﹁実利主義﹂︵功利主義︶を﹁道徳上に迄及ぼせるは過﹂だったという﹇三六﹈︒しかし合川の功利主義批判は

ここまでであり︑﹁其過たるや漢儒が正意の学を推して治国経世の事に及ほせるに比すれは小﹂であるにすぎない︒

なぜなら﹁ベンザム氏は法律と道徳との基礎を混したりと錐も尚ほ能く法律道徳二者の境界を弁知﹂していたからで

あり︑合川はその証拠として﹁人々各自其意を以て為せは善なる事も法律を以て之を令すること能はさる場合多し﹂

ということばをベンサムのものとして引用している︒逆に﹁漢儒﹂は次のように批判される︒

  漢儒流の如く道徳を以て万事を処するを得は是実に善美の極なり亦何んそ政府法律等を要せんや顧みるに今日は未た正心誠意

  の教独り国家を治むへき時に非らす故に法律の力を仮らさる可からす已に法律の力を用ゆる以上は乃ち其法律を立つるの道を

  正心誠意の外に向つて求めさる可からさるへし﹇三八﹈

﹁賞爵﹂に依存せず内面にのみ根拠をもつ﹁誠意正心﹂の道徳が法律と分離されている以上︑法律を改廃し法律に代

わる効力をもつこともある輿論と等置された﹁政治上の道徳﹂を︑これと同一視することはできない︒この﹁誠意正

心﹂の道徳と﹁政治上の道徳﹂との対比は︑前節で触れた﹁自己の良心に詞﹂うことと﹁民言を揮﹂ることを区別す

る掲南の議論を想起させるが︑掲南は決して輿論そのものを道徳としてはいなかった︒彼において輿論は︑国民の利

益の所在を示しそれを追求させるための制裁を与えるに止まり︑為政者の具体的行為に関しては沈黙している︒とこ

ろが︑﹁政治上の道徳﹂と等置された合川のいう輿論は︑為政者が服すべき特定の規範までも強制するものなのであ

(21)

る︒  しかし掲南の議論は︑・合川の﹁政治上の道徳﹂論の解明に手がかりを与える︒というのは︑道徳ということばが用

いられている以上︑単なる衆論追随ではなく︑輿論の示す規範をみずからが従うべき準則ぺと転化させる内面的過程

が存在するはずだからである︒それはおそちく︑権限をもつゆえに人民と特殊な関係に立つ公人に課せられる態度で

あり︑イギリス国王の法案否認権の例のように︑彼らが輿論を考慮して自己の権限の行使様態を決定することが想定

されていたように思われる○法命令説によれば主権者は道徳に抗して自己の意志を法として強制できるが︑その権限

行使は常に被治者の服従可能性によって限界づけられているからである︒とすれば︑輿論つまり﹁政治上の道徳﹂と        は︑権限保有者にとっては︑その地位に随伴する責務と考えられた内在的服従根拠を有する規範と規定できる︒

 ただし︑この時点での彼の徳義論は︑来るべき立憲政治の枠組の中でなされたものではなかった︒次に︑権力分立

状況に徳義を位置づけ︑輿論をより効果的に反映させるための示唆を与えたイギリス憲政論の受容を︑ダイシーの

﹃憲法序説﹄を中心に検討したい︒

三 イギリス憲政論の受容

 合川正道は東京大学を卒業した一八八一年七月︑°最初の著作である﹃憲法原則﹄を執筆している︒本書を発見した

家永三郎氏が紹介しているように︵家永一九六七︶︑そこで合川は︑憲法がめざすべき目的とそのために必要な内容を

理論的・抽象的に提示し︑その基礎として人民主権論を展開している︒しかし︑次に残されている憲法関係の著作で.

     お  ある﹃憲法﹄︵英吉利法律学校における八七年度の講義録とされる︶以降になると︑イギリス憲法.憲政︵論︶へのコミッ     ︑

   明治立憲政と徳義     ︐       ︵都法四十五ー一︶ 三九一 へ ︐

(22)

三九二

トメントが顕著になる︒以下では︑明治憲法発布までの著作と講義録を中心に︑彼の立憲政治構想においてイギリス

憲法・憲政論がもった意義の解明を試みる︒

 ﹃憲法講義﹄の﹁序論﹂において合川は︑﹁余は憲法を有する政体即立憲政体の本家本元たる英国の憲法を講せん

とす﹂と宣言する﹇A⑧二﹈︒その理由は︑それが﹁自然に発達せる不文法﹂であるため︑﹁英国憲法の講義は之を条

章の註解説明に過きさる米国憲法の講義に比すれは其規模広大﹂だったからである︒彼がこの講義の主な典拠とした

のは︑一八八五年に初版が刊行されたダイシーの﹃憲法序説﹄であった︒八四年のオックスフォードでの講義をもと

に著わされた本書は︑イギリス憲法原理の明確な概念化と高い説明能力によって︑生前に八版を重ねるという好評を

博し︑﹁ダイシー伝統﹂と呼ばれる強固な影響力を残すことになった︒初版刊行からわずか二年後に本書にもとつく          ︵26︶ 講義が行なわれていることは興味深いが︑それは単にその名声のためだけではなく︑より内在的な理由が存していた

と思われる︒すなわち合川は︑﹃憲法序説﹄で国会主権・法の支配とならんでイギリス憲法の﹁指導原理﹂︵σ・巨ξb旨−

︒営Φ︶とされた﹁憲法的習律﹂冒8巳鍵﹈に︑輿論の反映という以前からの課題を立憲政治構想において具体化する

鍵を見出したのである︒

 合川はまず憲法について︑ダイシーの下した﹁憲法とは一国に於ける主権の分配及其使用を直接又は間接に支配す

    ル ルス る諸般の条規なり﹂という定義を﹁最も完約なるもの﹂と評価し︑さらにこの﹁条規﹂を法律と道徳︵﹁モラリチー﹂︶

とに分類する﹇A⑧三〇﹈︒憲法の﹁法律条規﹂には︑たとえば﹁皇帝は神聖犯す可らす或は皇帝は悪事をなす能はす

と云ふ条規﹂が属し︑﹁徳義︹道徳︺条規﹂には﹁議院に於て反対党の説多数を占むるときは其宰相は議院の信用を

失ふものとして或ひは議院を解散し或ひは其職を辞するの慣例﹂﹇三一三や︑﹁一度上下院を通過したる議案は皇帝必

す之を批準認可するの例﹂﹇四四﹈などがあてはまるという︒彼によれば︑この二つの﹁条規﹂は﹁司法の職に当る

(23)

裁判所の認むる処﹂となるかどうかによって識別される﹇三四﹈︒後者は︑裁判所が裁判において準拠し強行できる

という意味での法とはいえないことから︑徳義という名を冠されたのである︒

 合川によるこの﹁法律条規﹂と﹁徳義条規﹂という区分は︑その叙述の流れからいっても︑.﹃憲法序説﹄の序論﹁憲       ︵27︶ 法の真の性質﹂でなされた﹁憲法律﹂︵一③<<OS吟プΦ OO⇒oo已吟ζ江O口︶と﹁憲法的習律﹂︵8づく︒昌︒59誓︒8⇒°︒法巨85︶の区別

を基礎としていることは間違いない冒8巳N㍗No﹈︒ダイシーが両者を分かつ基準とするのは︑﹁裁判所によって強

制される規範であるという理由によって︑厳格な意味で﹁法﹂である﹂かどうかということであった︒彼は︑法を裁

判所によって強制される規範と規定し︑裁判所によつて直接強制されないにもかかわらず﹁主権的権力のいくつかの

構成者︑大臣や他の官吏の行為を規制﹂し︑イギリス憲法の重要な部分を構成している規範︵﹃巳OO︶を︑法ではない

﹁憲法的習律﹂に分類したのである︒ダイシーの法概念は︑オーステインにはじまる分析法学の伝統を受け継いで法

を強制される規範とみなし︑力点を主権者の命令から裁判所による強制へ変更しただけのものであったから﹇高柳⁚

三五八−三六二︑オースティンの法命令説によって法を定義していた合川にとって︑ダイシーのこの分類は受け入れ

やすかったと思われる︒

 このように︑合川が﹃憲法序説﹄に注目した最大の理由は︑憲法的習律をイギリス憲法の指導原理の一つとしたこ

とにあった︒アメリカ憲法のような﹁制定憲法﹂は︑﹁時勢の変遷に通応し其宜きに協ふの力薄﹂い゜ため︑進歩した

社会の状況と乖離し﹁社会の勢と撞着﹂して︑﹁其極や維持せんと欲する社会の安寧をして却て之を撹乱せしめ﹂て

しまう危険がある﹇A⑫=九﹈︒この欠点はイギリス憲法の﹁法律条規﹂にもあてはまる︒法のこの弊害を救うこと

ができるのは︑立法よりも﹁徳義条規﹂なのであった︒  ・        ︑       コ   政治をして能く時勢に適合せしめ主治者被治者の関係をして円滑和便ならしむる者は道徳的条規︵即ち政治道徳︶の作用重き

   明治立憲政と徳義       ︵都法四十五ー一︶ 三九三

(24)

三九四

  に居るものとす﹇A⑨七八﹈

しかも﹁政治徳義﹂は︑それを立法のように急激にではなく漸進的に行うため︑﹁秩序を失はすして能く改進するの

徳﹂と呼ばれる﹇A⑤=六﹈︒というのは第一に︑それは﹁先例旧慣の漸積して知らす識らすの間に法律と同一の効

力を有するに至﹂ったものであり︑法律の代わりとなりながら法律にはない柔軟性をもっているからである﹇A⑱一

四〇﹈︒   余は疑ふ凡そ政治に関する重要の条規は悉皆之を網羅して成文律と為すことを得へきやを縦令一歩を譲りて之を為し得へしと

  するも尚ほ成文律たらしむるよりは寧ろ道徳的条規たらしむる方利便なる者多かるへし﹇A⑨七七﹈

第二に︑﹁政治徳義﹂はもはや社会の進歩にとって障害でしかなくなった法律を失効・改変することができる︒﹁道徳

的条規﹂が﹁往々法律の定むる所を圧倒﹂し︑﹁理論と実際と相違する事﹂こそイギリスの﹁政治の美なる実相を致

す所以﹂であった﹇A⑨七六﹈︒﹁政治組織は社会の進化に伴ふて変遷する﹂ため︑﹁憲法は其成文律たると不文律たる

とを問はす必す渾融円通にして事物と共に遷化するの徳を要する﹂ものである﹇A⑤六一二ー六四﹈︒ゆえに成文憲法典

を制定する際には︑﹁憲法には只に大政の綱目を掲け勉めて煩苛を避け而て緯緯の余裕を存せさる可らす﹂とされる

﹇A⑬一八〇﹈︒これが︑﹁英国にて道徳的条規として行はる・所の者は之を成文律と為し得へく則ち政治の真相に関

する重要の条規は必す道徳的たらさる可らさるの理なけれはなり﹂という疑問への一つの答えであった﹇A⑨七七﹈︒

 以上のように︑﹁政治徳義﹂は﹃講法余論﹄における道徳と同じ役割を期待されていた︒しかも﹃憲法序説﹄との

出会いにより︑その射程は法律から政治全体へと拡大されることになったのである︒ただし合川の﹁政治徳義﹂論は︑

ダイシーにのみ依拠したのではなかった︒彼の﹁政治徳義﹂論を最もまとまった形で窺うことができる一八八八年の       ふ  ﹃憲法要義﹄という著作において︑﹁政治徳義﹂の説明のために援用されたのは︑フリーマンの﹃イギリス国制の発

(25)

 展﹄であった︒実はダイシーの憲法的習律論もまたフリーマンの分析を基礎としており︵㊥匡霧一⑩ΦO参照︶︑﹁近代

 イギリスの憲法的道徳を構成する諸了解の顕著な特徴︑いわば外的側面は︑フリーマン氏のことばより以上によく記

 述されることはほとんどありえない﹂冒§巳賠︒︒﹈と述べ︑﹃イギリス国制の発展﹄第三版から﹁公人たちを導く政治

 道徳﹂︵bO巨葺6③一∋O﹃芦百×︶について説明した文章﹇写︒⑦∋自⁝一忘−巳㎝﹈を引用した上で議論を展開している︒そして合川

 も︑ダイシーが引用した箇所を含む部分を同書から引きバ憲法の﹁道徳的条規﹂すなわち﹁政治道徳﹂の﹁慨質を知

 るに足らん﹂と評価している﹇A⑨七五﹈︒その結果︑習律の内容に関して三人は多くの点で一致することとなった︒

  ﹁政治道徳﹂の説明においてフリーマンがあげている例は︑メルバーン内閣に対するピールの不信任動議と︑それ

︑に続くピール内閣への政権交代の過程である︒一八四一年五月七日に砂糖関税改革が挫折すると︑五月二七日に野党

 保守党の党首ピールは内閣不信任動議を提出し︑その理由として内閣が庶民院の信任を保持しておらず︑このまま在

 職することは憲法の精神に違背することをあげた︒この動議が可決されるとメルバーン首相は解散に踏み切ったが︑       ︵30︶  総選挙でホイッグを中心とする与党連合が敗北したため︑新議会でメルバーンは辞職し︑多数を占めた保守党を基盤       ︵31︶  としてピールが新内閣を組織した︒この一連の出来事がもつ歴史的意義は︑名誉革命によって主権を獲得した国会に

 おける国王︵葺日5昌昌Φ昌︶の内部において実質的な権力が庶民院に集中される過程が完成段階に近づいており︑

 内閣制度におけるその最終的表現である庶民院︵の多数︶による内閣の進退の決定︑つまり議院内閣制が成立しつつ        ︵32︶ ︑あることを少なくとも予示した点にあった︒       °     ︐

       ︵33︶   議会の多数の不信任により首相︵および内閣︶は辞職し︑代わりに多数が信任する者が新内閣を組織するという原

 則の定着は︑議院内閣制確立の重要な指標であり︑それは国民の意志︵特に選挙において現れた意志︶が議員パ政党を

 媒介として内閣を組織するという実質を政治に与える︒しかし︑殊に後継首相の選定に関しては現実的基盤を欠いた

    明治立憲政と徳義     ゜      ︵都法四十五ー一︶ 三九五

参照

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