密 教 文 化
高
野
山
の
石
造
記
念
物
亀
位
公
昭
目 次 第 一 章 高 野 山 に 於 け る 石 造 記 念 物 の 成 立 と、 そ の 変 蓬 に つ い て の 概 説 第 二 章 主 な 石 造 記 念 物 そ の 一 組 立 五 輪 塔 そ の 二 一 石 彫 成 五 輪 塔 そ の 三 柱 状 五 輪 塔 そ の 四 板 碑 そ の 五 そ の 他 第 三 章 結 語 附 記 参 考 文 献 第 二 章 高 野 山 に 於 け る 石 造 記 念 物 の 成 立 と、 そ の 変 遷 に 就 て の 概 説 こ の 山 に あ る 石 造 遺 物 は、 奥 院 参 道 を 初 め と し て 随 所 に 見 ら れ、 全 山 墓 地 で あ る か の 如 き 感 じ を 受 け る。 然 し な が ら こ の 様 な 多 量 の 記 念 物 が、 何 時 の 頃、 如 何 に し て 造 立 せ ら れ 今 日 の 盛 観 を 見 る に 至 つ た か と い う 考 証 資 料 は 少 い。 嘗 て 水 原 発 栄 師 が、 そ の 著 ﹁ 高 野 山 金 石 図 説 ﹂ の 一 節 ﹁ 墓 碑 創 建 の 時 期 ﹂ に 力 説 さ れ た 結 論 は ﹁ 真 に 建 設 の 起 源 と 思 わ れ る も の は、 町 石 卒 都 婆 で あ る ﹂ と い う 事 で あ つ た。 又 事 実 ﹁ 書 に 記 さ れ た る も の と、 現 存 の 碑 と を 比 較 考 証 ﹂ し、 町 石 が 古 い 紀 年 銘 を 明 確 に 有 し て い る 点 を 考 え 合 せ る な ら ば、 私が 知 る 限 り に 於 て も、 町 石 以 前 の 遺 品 は な い。 尚、 水 原 師 が こ の 一 節 の 中 で、 御 廟 内 を 除 く 石 造 々 立 の 古 い 記 文 を 諸 書 の 中 か ら 抽 出 し て 述 べ ら れ て い る 到 達 点 は、 私 の 試 み に 於 て も ほ ぼ 同 じ 様 で あ つ た。 即 ち そ の 第 一 が、 ﹁高 野 春 秋 第 二 巻 承 和 九 年 ( A ・ D 八 四 二 ) ﹂ の 部 分 で あ る が、 こ の 記 文 か ら は 伝 説 と 思 わ れ る 要 素 が 多 分 に 感 じ ら れ、 こ の 遺 品 が 当 山 に な い 事 は 勿 論、 全 国 的 に も こ の 頃 の も の は な い と さ れ て い る。 次 に は ﹁ 紀 伊 続 風 土 記 第 五 輯 高 野 山 部 総 分 法 巻 第 四 ﹂ に あ る 記 文 で、 こ こ で は 位 置 形 状 迄 明 ら か に さ れ て い る が、 遺 物 の な い こ と に 変 り は な く ﹁ 延 喜 年 中 ( A ・ D 九 〇 一こ 九 二 二 ) 西 院 谷 西 方 院 開 基 峯 教 阿 閣 梨 建 立 ﹂ と 細 字 に あ る の は、 ﹁ 宝 形 六 角 六 方 に 仏 像 あ り 高 さ 四 尺 ﹂ と い う 記 文 と び つ た り し な い 部 分 が 多 分 に あ る。 こ の 様 な 疑 問 は、 こ こ か ら 容 易 に 推 断 さ れ る 種 類 の も の が、 六 面 石 瞳 で あ る と い う 事 に 起 因 す る 。 何 故 な ら ば 我 国 最 古 の 在 銘 遺 品 が ﹁ 保 月 六 面 石 瞳 ﹂ で あ り、 無 銘 の も の で も ﹁ 伝 奇 然 墓 ﹂ と 称 さ れ る 八 面 石 瞳 や、 奈 良 市 十 輪 院 六 面 石 瞳 二 基、 京 都 市 岩 倉 大 雲 寺 ﹁ 伝 智 弁 大 師 墓 ﹂ と い う 八 面 石 橦、 八 塩 山 普 賢 院 に あ る 六 地 蔵 石 瞳、 及 び 日 吉 神 社 参 道 渡 辺 邸 庭 園 内 の 六 地 蔵 石 瞳 等、 い ず れ も 鎌 倉 時 代 の 造 立 に な る 事 が 推 定 さ れ 得 惹 遺 品 と し て も、 こ の 時 代 を 遡 る 遺 物 が 現 存 し な い と い う 事 実 は、 何 と し て も 大 き な 障 害 を 物 語 る か ら で あ る。 又 ﹁ 多 田 満 仲 墓 ﹂ に 就 て も、 お よ そ 同 じ 様 な 結 果 を み る 様 で あ る 。 こ の 種 の 記 文 は 以 上 に 留 ま ら な い が、 こ こ に 至 つ て 問 題 と な る の は ﹁ 源 三 代 将 軍 墓 ﹂ と 伝 え ら れ る も の の 年 代 考 証 で あ ろ う。 後 述 の 如 く、 私 は こ の 遺 品 を 鎌 倉 時 代 初 期 と す る 推 察 を 妥 当 だ と 考 え る か ら、 そ の 結 果 は と り も な お さ ず、 鎌 倉 時 代 後 期 ﹁ 文 永 ﹂ の 銘 を 持 つ ﹁ 町 石 墓 碑 創 建 説 ﹂ に 疑 を 挿 む 事 を 意 味 す る。 そ れ に し て も 当 時 の 国 難 逼 迫 の 折 に も 拘 ら ず、 山 上 山 下 合 計 一 二 二 基 の 町 石 建 立 が 物 語 る 価 値 は、 如 何 に し て も 捨 て 難 い。 さ て、 墓 石 が ど の 様 に し て 高 野 山 に 建 て ら れ る 様 に な つ た か と い う 事 柄 に 就 て 大 き な 役 割 を 果 す の は、 何 と し て も 当 時 の 民 間 信 仰 内 容 と 密 接 に 結 び つ く も の で あ る、 と い う 考 え の 起 る の は 当 然 で あ ろ う。 今 ﹁ 紀 伊 続 風 土 記 第 四 輯 ﹂ に 引 用 さ れ て い る 記 文 を こ こ に 抽 出 し て、 若 干 の 説 明 を 試 み よ う と 思 う。 先 ず ﹁ 骨 堂 ﹂ の 一 項 に は ﹁ 塔 嚢 紗 に 大 師 の 記 文 を 載 せ て ﹂ 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 と し て 亡 者 之 舎 利 我 毎 日 以 三 密 加 持 力 送 安 養 宝 刹 当 来 我 山 又 、 ﹁慈 尊 院 説 法 之 聴 衆 菩 薩 釈 書 ﹂ の 一 節 を あ げ て ﹁ 此 等 の 記 文 に 拠 て 古 入 此 納 骨 堂 を 創 草 す る な ら ん ﹂ と 述 べ 、 更 に は ﹁ 平 家 物 語 ﹂ の 本 三 位 中 将 重 衡 卿 表 切 給 事 ( 中 略 ) 骨 を ひ ろ い 高 野 へ 墓 を ば 日 野 に 立 て ら れ け る と い う 記 文 等 を 引 用 し て お り 、 興 味 深 い 。 次 に ﹁ 墓 石 の 由 来 ﹂ の 項 に は 、 ﹁ 当 山 に 石 塔 を 建 立 す る こ と 貴 賎 口 碑 し て 厭 事 絶 さ る も 不 思 議 と い う へ し ﹂ と 述 べ 、 ﹁金 剛 峯 寺 建 立 修 行 縁 起 に 貞 観 僧 正 の 山 図 記 を 載 て ﹂ と あ り 霊 欲 詣 者 可 悦 往 因 黙 而 止 者 可 恨 前 業 更 に ﹁ 東 山 信 禅 師 の 詞 を 載 て ﹂ と し て 日 域 仏 土 者 定 是 南 山 也 若 有 思 者 必 可 膀 彼 地 近 者 大 師 懇 心 志 深 彼 終 入 定 遠 者 百 仏 聖 跡 我 昇 彼 峯 拝 先 跡 云 々 又 、 宝 簡 集 御 祈 祷 , 大 塔 立 願 巻 , 巻 ・ 東 鑑 の 大 塔 に 於 け る ﹁ 保 元 以 来 戦 場 損 命 之 輩 ﹂ の 法 要 の 記 文 を 引 用 し 、 ﹁ 此 等 は 当 山 を 捻 し て 追 福 の 勝 場 と し 抜 苦 の 法 会 を 開 か し む ﹂ と 述 べ て い る 。 更 に は 砂 石 集 の ﹁ 有 縁 ノ 亡 魂 ノ 遺 骨 ヲ 彼 山 二 納 ル 事 貴 賎 ヲ イ 八 ス 花 夷 ヲ 論 セ ス 年 々 随 テ サ カ リ ナ ﹂ 等 の 記 文 を あ げ て い る の が 見 ら れ る 。 こ の 事 は 高 野 山 古 図 ( 霊 宝 舘 蔵 ) や 、 平 治 ( 一 、 一 五 九 ) 以 後 鎌 倉 時 代 初 め 頃 迄 の 絵 図 で あ る と い わ れ る 元 金 剛 三 昧 院 屏 風 絵 図 ( 堂 本 印 象 蔵 ) 、 並 に 奥 院 御 所 芝 発 掘 の 弘 安 十 年 ( 一 、 二 八 七 ) 在 銘 金 銅 宝篋 印 塔 等 と 考 え 合 せ る 時 、 少 な く と も 町 石 造 立 時 前 後 の 民 間 信 仰 内 容 推 察 を 相 当 明 瞭 に 画 き 出 す 事 を 許 す 様 で あ る 。 一 方 、 高 野 山 へ 遺 骨 を 納 め 、 墓 を 建 て る 風 習 を 高 潮 し た 媒 介 物 が 何 で あ つ た か と い う 問 題 に 就 て の 究 明 は 、 又 充 分 な 必 要 性 を 有 す る と 考 え ら れ る 。 こ の 事 柄 に 就 て は 、 種 々 の 分 野 か ら の 考 察 が 為 さ れ な け れ ば な ら な い が 、 今 考 慮 さ れ る 事 は 、 浄 土 信 仰 に 因 縁 深 い 長 谷 寺 観 音 の 夢 告 に よ つ て 、 高 野 山 に 登 つ た と い う 祈 親 上 人 の 住 山 で あ る 。 上 人 は 長 和 五 年 ( 一 、 〇 二 ハ ) 三 月 に 登 山 し た と 伝 え ら れ る が 、 そ れ は 又 、 当 時 既 に こ の 山 の 浄 土 信 仰 が 芽 生 え て い た と い う 暗 示 へ 導 く 一 資 料 と な る 。 治 安 三 年 ( 一 、 〇 二 三 ) 八 月 十 九 日 法 成 寺 入 道 殿 下 道 長 公 の 高 野 登 拝 や 、 万 寿 三 年 ( 一 、 〇 二 六 ) 正 月 上 東 門 院 の ﹁ 令 三 御 髪 納 二 奥 院 御 店 前 一﹂ が 行 わ れ た の は 、 こ れ よ り 間 も な く で あ つ た 。 又 、 上 人 は 高
野 山 史 上 に 残 す 足 蹟 も さ る 事 な が ら、 高 野 聖 と い う 課 題 に 関 与 し て も、 恐 ら く 省 略 す る 事 の 許 さ れ な い 人 材 で あ ろ う。 東 寺 長 者 深 覚 大 僧 正 が ﹁ 籠 二 居 干 当 山 一。 入 二 念 仏 三 昧 一。 ﹂ と い つ て い た の は こ の 頃 で あ り、 そ の 後、 明 遍 上 人 や 西 行 法 師 が 高 野 山 に 住 し た の は、 鎌 倉 時 代 も 極 め て 初 期 の 頃 で あ つ た。 又、 俊 乗 坊 重 源 上 人 が 真 別 処 に 入 寂 し た の は、 建 永 元 年 ( 一、 二 〇 六 ) 夏 六 月 で あ る と 伝 え ら れ る 。 他 方、 天 慶 八 年 ( 九 四 五 ) に 起 源 す る 阿 且 川 庄 の 高 野 山 納 米 は、 根 来 寺 領 慈 尊 院 近 辺 等 の 寺 田 と 共 に、 平 安 朝 未 期 頃 よ り 漸 次 増 加 し た 住 山 僧 の 物 質 的 な 基 盤 と な つ た で あ ろ う 事 は、 容 易 に 窺 わ れ る 所 で あ る。 さ て、 昭 和 に な る 迄 交 通 の 不 便 で あ つ た こ の 山 に と つ て、 町 石 造 立 の 意 義 は、 道 程 と い う 限 ら れ た 範 囲 に 於 て も、 重 要 な 役 割 を 果 し た と 考 え ら れ る が、 覚 轍 上 人 の 発 願 文 最 後 の 部 分 に ﹁ 為 奉 朝 為 世 為 人 為 法 勧 而 不 為 身 之 勧 也 ﹂ と あ る の は、 町 石 が 道 標 で あ り な が ら、 道 標 を 越 え た 意 図 を 含 む も の で あ る 事 が 知 ら れ る。 更 に 供 養 文 を 見 る な ら ば、 そ れ が 直 ち に 金 剛 界 三 七 尊、 胎 蔵 界 一 。 八 尊 の 座 位 で あ る と い う、 他 の 遺 品 に は 何 処 に も 決 し て 見 ら れ な い、 浄 土 観 念 の 宏 大 さ が 思 わ れ る。 又、 ﹁ 高 野 春 秋 巻 第 十 正 和 二 発 丑 年 ( 一、 三 二 三 ) 後 宇 多 法 皇 御 幸 山 ﹂ の 項 に、 細 字 に て ﹁ 御 歩 行 ﹂ 又 ﹁御 念 調 毎 町 卒 都 婆 ﹂ と あ る の か ら み て も、 そ れ が 外 な ら ぬ 高 野 山 の 浄 土 思 想 を 如 実 に 物 語 る も の で あ る 事 が 解 る。 こ の 様 に 町 石 の 占 め る 位 置 は 重 要 で あ る が、 私 が こ こ で 言 い た い の は、 町 石 を ﹁ 墓 碑 創 建 説 ﹂ の 遺 品 と す る の で は な く て、 そ れ が 高 野 山 墓 碑 創 建 の 気 運 を 盛 り 上 げ る べ き 重 大 な 素 因 を 為 し た と い う 考 察 が、 一 層 妥 当 で は な か ろ う か、 と い う 事 で あ る。 町 石 建 立 以 前 の 遺 品 と し て は、 現 在 私 の 知 る 限 り に 於 て 確 か に 二 基 で あ る が、 こ れ か ら も 発 見 さ れ る 可 能 性 は 無 い と は い え な い。 そ し て、 こ う い う 期 待 の 実 現 は、 私 が 主 張 し た い 考 察 を 一 段 と 有 力 な も の に す る で あ ろ う。 次 に、 高 野 山 の 石 造 遺 物 上 特 色 あ る 五 輪 塔 と 板 碑 に 就 て 略 述 し よ う と 思 う。 先 ず 五 輪 塔 に 関 し て の 問 題 で あ る が、 こ の 造 塔 形 式 の 成 立 史 は 他 聞 に 洩 れ ず、 従 来 よ り 種 々 の 説 が と な え ら れ て い る。 然 し な が ら 兎 も 角 も、 五 輪 塔 が 密 教 に よ つ て 創 造 さ れ た 事 に 異 論 は な く、 こ れ に 関 し て の 諸 経 典 及 び 儀 軌 も 早 く か ら あ る。 今 こ こ に、 こ う い う 事 柄 を 探 求 列 挙 し、 或 い は 味 い 研 究 す る 事 も 重 要 で は あ る が、 そ れ よ り も 十 二 世 紀 初 頭 か ら そ ろ 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 そ ろ み ら れ る 遺 品 を 背 景 に 出 世 し た 覚 鍵 ( 一、 〇 九 五 こ 一、 一 四 三 ) と、 彼 が 顕 し た ﹁ 五 輪 九 字 明 秘 密 釈 一 巻 ﹂ に 注 目 し た い。 国 史 上 五 輪 塔 形 式 の 現 わ れ た 古 い 例 と し て 先 ず あ げ ら れ る の が 醍 醐 寺 彩 色 五 輪 塔 で、 こ れ は 応 徳 二 年 ( 一、 ○ 八 五 ) 刻 銘 の 石 櫃 中 に 入 つ て 発 掘 さ れ た も の で あ る。 も し こ の 塔 を 応 徳 二 年 だ と す る な ら ば、 覚 銀 出 世 前 の 事 と な る が、 恐 ら く 彼 に よ つ て 五 輪 造 塔 思 想 が 大 成 さ れ、 そ の 形 式 的 固 定 化 を 平 安 時 代 末 葉 だ と す る 理 論 に、 終 極 的 な 打 撃 を 与 え る に は 足 ら な い。 次 に 知 ら れ て い る の は 京 都 市 岡 崎 法 勝 寺 趾 瓦 ( 推 定 西 紀 一、 二 一 二 年 )、 兵 庫 県 神 崎 郡 香 呂 村 須 賀 院 経 塚 出 土 の 瓦 製 五 輪 塔 (推 定 西 紀 一、 一 四 四 年 )、 旧 大 和 国 成 身 院 銅 鐘 内 面 に 鋳 造 さ れ た 五 輪 塔 ( 西 紀 一、一六 ハ 四 年 )、 又、 広 島 県 厳 島 神 社 平 家 納 経 筥 金 具 模 様 に あ る 五 輪 塔 ( 一、 二 六 七 )、 岩 手 県 中 尊 寺 釈 尊 院 五 輪 石 塔 ( 一、一六 九 )、 大 分 県 北 海 部 郡 南 都 留 村 中 尾 五 輪 塔 二 基 ( 一、 一 七 ○ と 一、 一 七 二 )、 福 島 県 石 川 郡 泉 村 岩 法 寺 五 輪 石 塔 ( 一、 一 八 二 等 が そ れ で、 西 紀 一、 一 四 三 年 迄 に ﹁ 五 輪 九 字 明 秘 密 釈 一 巻 ﹂ が 成 立 し て い る と い う 事 を 考 慮 す る 時、 実 に 興 味 深 い。 こ の 種 の 遺 品 は そ れ 以 後 全 国 各 地 で 多 数 造 立 せ ら れ る 様 に な つ た が、 高 野 山 に 於 て も 五 輪 塔 の 数 は 大 多 数 を 占 め、 そ の 石 造 遺 物 の 特 色 と な つ て い る の は 言 を 挨 た な い。 最 後 に 附 記 し な け れ ば な ら な い の は ﹁ 修 行 縁 起 ﹂ や、 ﹁ 奥 院 興 廃 記 ﹂ 弘 法 大 師 御 入 定 の 条 下 に ( 前 略 ) 畳 二 石 壇 一例 人 所 二 出 入 一 之 許 其 上 仰 二 石 匠 一安 二 置 五 輪 卒 都 婆 一入 二 種 々 梵 本 陀 羅 尼 一 其 上 更 亦 建 二 立 宝 塔 一安 二 置 仏 舎 利 輔 ( 後 略 ) と あ る 記 文 に 関 し て で あ る。 い う 迄 も な く 重 要 な の は こ の 地 点 に 就 て で あ る が、 今 一 つ の 場 所 が 立 入 禁 止 の 御 廟 で あ る と い う こ と で あ る。 ﹁ 弘 法 大 師 の 石 造 五 輪 塔 ﹂ と い う 課 題 は、 こ れ に よ つ て 更 に 浮 び 上 る 事 柄 で、 そ の 成 立 史 上 に 於 て も 殊 に 重 大 な 位 置 を 占 め る も の と し て 注 目 さ れ る が、 又、 こ の 御 廟 調 査 と い う 件 に 就 て は 私 個 人 と し て よ り も、 石 造 遺 物 に 興 味 あ る 人 々 の 切 望 す る 所 で は あ る。 然 し な が ら こ こ で 何 事 に も 触 れ 得 な い の は、 幸 で あ ろ う か。 は た 又、 不 幸 と い う べ き で あ ろ う か-。 次 に 初 め の 約 束 に 従 つ て、 板 碑 に 就 て の 記 述 を 為 さ ね ば な ら な い が、 こ こ で 終 始 す る 理 論 は、 ﹁康 永 の 仏 号 碑 ﹂ を 除 く
そ の 他 の 遺 品 の 形 式 を 、 何 に 求 め る か と い う 考 察 で あ る 。 説 明 は 高 野 山 行 入 や 、 長 床 衆 の 修 験 化 に 始 ま る 。 紀 伊 続 風 土 記 第 二 輯 ﹁ 山 臥 ﹂ の 項 に 当 山 行 人 僧 兼 ね て 修 験 の 業 を な す 事 其 初 詳 な ら ず 山 臥 に 本 山 当 山 の 別 あ り 本 山 の 祖 師 は 浄 蔵 な り と あ り 、 こ れ を 少 な か ら ず 裏 附 け る 記 文 と し て 、 高 野 春 秋 巻 第 四 康 保 元 年 ( 九 六 四 ) 冬 十 一 月 一 二 日 浄 蔵 入 寂 の 条 下 に 、 細 字 に て 二 時 浄 蔵 熊 野 参 詣 之 次 。 伝 二 峯 中 一 。 ﹂ と あ る の は 注 意 さ れ る 。 修 験 道 に 関 し て は 大 峰 山 に 就 て の 考 察 を 無 視 す る 訳 に は 行 か な い が 、 今 、 仏 教 考 古 学 講 座 第 五 巻 に 最 初 は 大 部 分 個 人 的 な 入 峰 練 行 で あ り 、 そ の 作 法 や 形 式 も 行 者 に よ つ て 区 々 た る を 免 れ な か つ た 。 又 行 尊 の 大 峰 入 は か か る 衆 を 率 い て の 集 団 的 入 峰 の 初 め で あ つ た と い わ れ る 。 と あ り 、 こ の 行 尊 に 就 て 、 高 野 春 秋 巻 第 六 天 承 元 年 ( 一 、 一 三 八 ) 夏 四 月 の 条 下 に 大 僧 正 行 尊 来 住 。 自 三 井 寺 来 。 隠 遁 住 山 。 赴 大 峯 。 等 と あ る の は 、 浄 蔵 と 共 に 高 野 山 に 因 縁 を も つ て い た と い う 考 察 へ 導 く 。 そ れ に し て も 佐 和 隆 研 氏 が ﹁ 大 師 が 入 唐 以 前 の 若 年 の 修 行 時 代 に 好 ん で 山 野 を 践 渉 し た と 、 自 筆 の 文 章 の 中 に 述 べ ら れ て い る が 云 々 ﹂ と い う 記 述 は 傾 聴 せ ね ば な ら な い 。 修 験 道 が 実 質 的 内 容 を 整 備 し た の は 、 鎌 倉 時 代 か ら 室 町 時 代 へ か け て で あ る と い わ れ る が 、 紀 伊 続 風 土 記 第 二 輯 ﹁ 山 臥 ﹂ の 項 に 永 仁 二 年 ( 一 、 二 九 四 ) の 文 書 に 山 臥 京 善 を 敵 方 よ り 殺 害 す 諸 衆 の 御 使 と し て 長 衆 山 臥 等 神 野 荘 に 下 向 す と あ る 記 文 は 、 当 時 既 に 相 当 の 統 制 的 勢 力 あ る 宗 派 の 形 態 を 成 し て い た ろ う と い う 推 察 に 供 す る 。 然 し て 大 峰 の 修 行 は 、 一 定 の 時 期 に 一 定 の 先 達 に 率 い ら れ て 集 団 入 峰 を 必 要 と す る 様 に な る が 、 同 書 同 項 に 山 臥 に 十 二 先 達 あ り 高 野 山 先 達 は 其 一 に し て 行 人 長 床 衆 の 役 な り 又 、 高 野 春 秋 巻 第 九 永 仁 元 年 ( 一 、 二 九 三 ) 夏 四 月 二 八 日 の 条 に 大 峰 先 達 幸 明 大 越 家 立 二 石 碑 於 天 野 宮 前 花 表 之 辺 一 。 毎 六 月 十 八 日 。 大 峰 。 葛 城 両 先 達 笈 渡 。 十 月 下 旬 念 仏 会 。 行 人 修 験 道 役 儀。 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 又、 同 書 同 巻 の 乾 元 々 年 ( 一、 三 〇 二 ) 夏 四 月 一 二 日 の 項 に 大 峰 某 立 二 石 隅 於 天 野 神 前 場 一。 二 橋 間 と あ り、 紀 伊 続 風 土 記 第 四 輯 ﹁ 天 野 社 之 上 ﹂ に も こ の 事 に 就 て、 ﹁ 按 に 今 葛 木 先 達 脇 宿 に 数 旬 籠 居 り て 峰 入 の 率 都 婆 を 建 つ る の 類 な る べ し ﹂ と 細 字 に あ る 。 さ て、 こ の 卒 都 婆 に 就 て そ の 形 状 に 大 き な 暗 示 を 与 え る も ひ で の は、 葛 川 明 王 院 (滋 賀 県 滋 賀 郡 堅 田 町 字 坊 ) に あ る ﹁ 碑 伝 ﹂ と 称 さ れ る 多 数 の 木 造 卒 都 婆 で あ ろ う。 又、 修 験 道 が 碑 伝 と 関 連 し て い る と い う 研 究 は、 仏 教 考 古 学 講 座 第 七 巻 ﹁ 修 験 道 の 行 事 作 法 ( 二 ) ﹂ 四 十 頁 に も 述 べ ら れ て い る 処 で あ り、 こ の 場 所 は 又、 修 験 道 の 入 峰 修 行 に あ る ﹁ 順 峰 ﹂ ﹁ 逆 峰 ﹂ の 二 つ の 道 程 に 関 与 す る。 然 し て 尚、 こ の 碑 伝 の 最 古 の も の が 元 久 年 間 ( 一、 二 〇 四 一、 二 ○ 五 ) に 迄 遡 る と い う 事 は、 興 味 を 倍 加 す る も の で し か な い ○ そ し て、 こ の 様 な 理 論 の 展 開 は、 ﹁ 板 碑 の 発 生 が 関 東 に あ つ た ﹂ と い う 説 に 全 面 的 な 賛 意 を 否 定 す る 方 向 へ と 進 む 。 高 野 山 に あ る 最 古 の 在 銘 板 碑 は 建 治 年 間 ( 一、 二 七 五 一、 二 七 七 ) の も の で 二 基 あ り、 慈 尊 院 下 乗 石 断 片 も 全 く こ の 碑 伝 と 同 様 の 形 状 を 呈 し て い る の は、 特 に 住 意 ざ れ る 処 で あ る。 か か る 考 察 に 基 づ い て 述 べ る な ら ば、 修 験 化 し た 高 野 山 行 入 や 長 床 衆 が、 明 王 院 碑 伝 の 高 野 山 導 入 に 力 あ つ た と す る 理 論 が 成 立 す る。 更 に 碑 伝 の 中 に は、 町 石 に み る 石 柱 頭 五 輪 の 塔 形 成 立 に 源 流 を な し た と 窺 い 得 る 形 状 を 充 分 に 備 え て い る も の の あ る の は、 殊 更 関 心 が 寄 せ ら れ る。 又 事 実、 文 永 よ り 年 時 は 遅 れ る が、 天 野 社 の 傍 に 正 応 六 年 ( 一、 二 九 三 ) 在 銘 の 石 柱 頭 五 輪 が あ る。 こ れ は 紀 伊 風 土 記 に も 集 録 さ れ て い る 処 で、 山 臥 の 信 仰 に 関 係 が あ る と い う 伝 説 が 殊 さ れ て い る。
第
二
章
主
な
石
造
紀
念
物
そ の 一 組 立 五 輪 塔 現 在 西 室 院 門 前 に あ る 鎌 倉 三 代 将 軍 の 墓 と 伝 え ら れ る 三 基 の 五 輪 塔 (図 一 二 三 ) は 殊 に 重 要 な 遺 品 で あ る。 ﹁ 高 野 山 名 所 図 絵 ﹂ に は 源 頼、 朝 頼 家、 実 朝 の 塚 な り。 実 朝 の 侍 臣 葛 山 五 郎 藤 原 景 倫 発 心 し て 登 山 し ( 承 久 元 年 ( 一、 一 二 九 ) 三 月 ) 名 を 願 性 と 改 め、 貞 暁 上 人 と 謀 り、 公 の 碑 を 建 て 菩 提 を 吊 う。 又、 高 野 春 秋 巻 第 八 貞 応 二 年 ( 一、 二 二 三 ) 二 月 の 条 下 に鎌 倉 法 印 貞 暁 師 奉 二 為 三 代 将 軍 追 薦 一。 経 二 営 阿 弥 陀 堂 及 三 基 五 輪 一。 と あ り、 尚 細 字 に て、 三 基 石 塔 者。 共 在 二 南 証 院 之 前 庭 一。 続 い て、 頃 年 院 主 移 二 曳 之 院 背 之 山 上 一。 と あ る の は 注 意 さ れ る。 高 野 春 秋 巻 第 八 承 久 元 年 の 条 に 葛 山 景 倫 所 二 以 発 心 入 道 而 不 一レ 帰 二 鎌 倉 一 也。 但 鎌 倉 大 変 伝 二 聞 貞 暁 上 人 之 許 噌。 所 三 以 上 人 立 二 三 代 将 軍 御 追 悼 之 三 石 塔 一也。 等 と あ る の は、 引 用 せ ぬ 訳 に は 行 か な い 。 三 基 は 共 に 花 闘 岩 製、 無 銘 の も の で あ り、 地 輪 は い ず れ も 低 い。 図 一 に 見 ら れ る 遺 品 は 右 側 に あ り、 鎌 倉 時 代 初 期 と い わ れ る 京 都 市 右 京 区 梅 ケ 畑 高 雄 町 神 護 寺 に あ る 文 覚 上 人 五 輪 塔 に 近 い 感 じ を 受 け る。 風 空 輪 は 比 較 的 大 き く、 屋 根 勾 配 は ゆ る や か で 好 も し い。 風 化 に よ る 為 で あ ろ う か、 地 輪 の 四 隅 は 幾 分 低 く 下 つ て い る。 火 輪 の 軒 反 り も 美 し い が、 後 部 一 角 を 欠 い て い る の は 恨 ま れ る。 一 三 八 糎 の 高 さ で あ る。 中 央 に あ る 一 基 ( 図 二 ) は 水 輪 が 下 膨 れ に な つ て い る。 然 し こ れ は 光 明 坊 五 輪 塔 ( 広 島 県 象 田 郡 南 生 口 村 ) に 見 た 例 も あ る が、 恐 ら く 逆 に 置 か れ て い る の で あ つ て、 古 き に 随 い 水 瓶 形 に し た 方 が 良 い だ ろ う。 高 さ 一 五 五 糎。 あ と 一 基 (図 三 ) の も の は、 二 五 二 糎 あ り、 左 側 に 立 つ。 水 輪 が 高 い 感 じ な の は そ れ と し て、 火 輪 は 実 に い い。 風 化 の 為 に 原 初 の 趣 は 再 現 さ れ な い が、 屋 根 勾 配 に 軒 反 り の 合 流 す る あ た り に は、 平 安 朝 へ の 臭 気 が あ る。 だ が、 全 体 的 に 見 る と、 各 部 の 組 合 せ が 何 処 と な く び つ た り し な い 不 安 を 覚 え る。 高 野 春 秋 の 記 文 に 見 た 第 一 回 目 の 廟 遷 と、 明 治 の 末 頃 当 時 の 西 室 院 住 職 南 観 阿 師 が、 現 金 輪 塔 左 後 方 の 山 際 か ら 今 あ る 所 へ 移 し た 事 実 を 考 え る な ら ば、 そ の 時 に 間 違 え て 積 み 重 ね た と し て も、 何 の 不 思 議 が あ ろ う。 図 二 に 見 る 火 輪 は、 鎌 倉 時 代 で も 中 期 を 思 わ せ る。 こ の 事 は、 三 基 が 同 時 に 造 ら れ た と い う 考 察 を 踏 み に じ り、 集 め ら れ た か も 知 れ な い と い う 推 定 に 導 く。 然 し な が ら そ う い う 問 題 は 別 に し て 置 こ う。 図 三 は、 図 一 と 共 に、 鎌 倉 初 期 と 思 わ れ る が、 一 層 古 い と 考 え ら れ る。 繰 り 返 す 迄 も な い が、 こ の 遺 品 が 物 語 る 処 は ﹁ 町 石 墓 碑 創 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 建 説 ﹂ を 大 き く ゆ さ ぶ る に 足 る 充 分 な 理 由 を 備 え て い る 事 で あ る 。 だ が 兎 も 角 も こ の 山 に あ る 多 数 の 石 造 遺 品 の 中 で 、 現 在 知 ら れ る 屈 指 の 古 い も の で あ る 点 に 於 て も 、 重 要 視 さ る べ き で あ ろ う 。 一 之 橋 を 入 つ て 二 丁 ば か り 、 参 道 右 側 に あ る ﹁ 多 田 満 仲 之 墓 ﹂ と い わ れ る 五 輪 塔 は 、 話 題 の 多 い 遺 品 で あ る 。 こ こ で 若 し 、 ﹁ 天 禄 元 年 ( 九 七 ○ ) 仲 光 公 建 立 ﹂ と い う 紀 伊 続 風 土 記 の 記 述 を 信 奉 す る な ら ば 、 我 国 最 古 の 紀 年 銘 を 有 す る 石 造 遺 品 と な る 事 は 勿 論 、 速 に 国 宝 認 定 の 手 続 き が 切 望 さ れ る 。 然 し な が ら 、 こ れ を 否 定 す る 人 の 多 い 事 は 残 念 で あ る 。 風 空 輪 や 水 輪 、 地 輪 等 か ら は 鎌 倉 時 代 後 期 を 下 ら な い 感 じ で あ る が 、 火 輪 の 細 部 に は 疑 問 が 残 る 。 地 輪 右 方 に ﹁ 右 大 臣 源 朝 臣 ﹂ 等 と 刻 ま れ て お り 、 そ の 外 に も 銘 は あ る 様 だ が ど う も 読 め な い 。 又 、 地 輪 に あ る べ き 種 子 が 見 当 ら ず 、 あ る 種 の 疑 を 懐 か せ る 。 □ 俄 ミ 奏 爽 と あ る か ら 、 恐 ら く 毅 と 刻 ま れ て い な け れ ば な ら ぬ と 思 う の だ が 。 花 闘 岩 製 二 一四 糎 、 但 し 下 部 に あ る 請 座 は ふ さ わ し く な い 。 私 は こ れ を 、 右 方 に 並 ぶ 一 〇 ○ 糎 ば か り の 一 基 と 共 に 、 南 北 朝 の 初 頭 あ た り に 推 定 年 代 を も つ て ゆ き た い 。 俗 称 ﹁ 常 照 上 入 墓 ﹂ と い わ れ る 五 輪 塔 は 、 奥 院 燈 籠 堂 脇 に あ る も の で 、 既 に 幾 度 か 紹 介 さ れ て い る 。 ﹁もたえ 素 狽 ﹂ の 書 体 、 彫 刻 手 法 は 鎌 倉 式 の 約 束 が 守 ら れ て い る 。 水 輪 が 少 し 小 さ い の で は な い か と い う 人 も あ る が 、 破 損 の 個 所 も な く 、 細 部 は 整 つ て い て 心 よ い 。 地 輪 左 方 に は 宗 我 部 助 政 嘉 嘉 元 二 年 五 月 日 ( 一 、 三 〇 四 ) と 二 行 に 銘 が あ り 、 当 山 最 初 の 組 立 五 輪 塔 在 銘 遺 品 あ る 事 を 意 味 し 、 ﹁ 常 照 上 入 墓 ﹂ 等 と 呼 ぶ の は 不 適 当 な の を 示 す 。 地 上 一 四 五 糎 あ る こ の も の か ら 、 先 に 述 べ た 源 三 代 将 軍 墓 を 思 え ば 、 前 者 に は 古 掘 の 趣 が 偲 ば れ る 。 ( 図 四 ) こ の 外 円 光 大 師 法 然 上 人 五 輪 塔 、 法 明 上 人 五 輪 塔 や 、 御 所 芝 上 に あ る 建 武 三 年 ( 一 、 三 三 六 ) 在 銘 五 輪 塔 、 正 平 七 年 ( 一 、 三 五 二 ) 在 銘 五 輪 塔 、 正 平 十 一 年 在 ( 一 、 三 五 六 ) 銘 五 輪 塔 等 は 、 比 較 的 重 要 な 遺 物 で は あ る が 、 一 度 書 か れ た 事 も あ る の で 今 は 詳 細 を さ し ひ か え よ う 。 さ て 曽 我 兄 弟 墓 と い い 古 さ れ て い る 五 輪 塔 は 、 一 ノ 橋 か ら 五 十 米 ば か り 左 側 山 の そ ば に あ る 。 三 基 並 ぶ 内 中 央 の も の は 一 八 ○ 糎 程 の 高 さ が あ り 、 当 山 に 於 け る 大 型 の 古 い 遺 品 と て
法 然 上 人 塔 と 土 六 に 注 意 さ れ る。 鎌 倉 時 代 の 様 式 が 各 所 に 受 け 継 が れ て い て、 南 北 朝 も 恐 ら く 中 頃 の も の で あ ろ う と 推 察 さ れ る が、 そ ろ そ ろ と 窺 わ れ る 退 化 の 兆 し は 押 し 穏 す 術 も な い。 写 真 五 に み る 火 輪 左 後 方 を 三 角 状 に 破 損 し て お り、 花 山岡 岩 製、 無 銘 の も の で あ る。 両 側 に あ る 二 基 (図 六 図 七 ) は 共 に よ く 似 て い る。 即 ち、 風 空 輪 が 借 り 物 の 砂 岩 で あ る 事、 約 一 ○ ○ 糎 の 高 さ で あ る 事、 花 崩 岩 製 無 銘 で あ る 事 等 々 で あ る。 図 七 の も の に つ い て 少 し の 問 題 が 出 て 来 る の で あ る が、 私 は 論 文 で こ の 遺 品 を 宝 塔 の 一 節 に 入 れ て ほ ぼ 次 の 様 に 述 べ た 。 一 見 五 輪 塔 の 如 く 見 ら れ る も の で、 恐 ら く 宝 塔 と す る に は 多 く の 難 点 が 指 摘 さ れ る が、 こ の ま ま で 五 輪 塔 と 云 い 得 な い の は 火 輪 に 当 る 部 分 の 軒 の 下 部 に 作 り 出 し が あ る、 と い う 事 で あ る。 塔 身 に 相 当 す る 処 は 五 輪 塔 に 於 け る 水 輪 と 同 様 で、 宝 塔 と し て あ る べ き 首 部 が な い 。 然 し こ の 部 分 を 全 体 か ら 見 る 時 に は、 比 重 は 普 通 の 場 合 よ り も 大 き い 感 じ を 受 け る。 又 屋 根 上 部 に は、 露 盤 が 作 り 出 さ れ る の が 宝 塔 造 塔 上 の 約 束 で あ る が、 こ れ に は そ れ も な い。 相 輪 が 置 か れ る 代 り に 宝 珠 が 見 ら れ る が、 借 り 物 と い う 疑 は 別 と し て、 例 え こ れ が 宝 珠 で あ つ て も、 さ し て 宝 塔 と し て の 不 都 合 は 論 じ ら れ な い。 次 に 考 え ら れ る の は、 こ れ を 五 輪 塔 と す る 為 に 火 輪 を 不 適 合 と す る 事 で あ る。 一 応 尤 も な 事 で は あ る が、 生 駒 鳴 川 千 光 寺 に あ る 宝 塔 や、 京 都 市 左 京 区 岩 倉 大 雲 寺 の 変 形 宝 塔 と で も 言 わ ね ば な ら ぬ 遺 品、 京 都 市 中 京 区 寺 町 通 り 竹 屋 町 華 堂 内 の 通 称 ﹁ 忌 明 塔 ﹂ と 呼 ば れ る 遺 物 等 が 存 在 す る 処 か ら、 屋 根 の 部 分 が 借 り も の だ と い う 説 明 を 打 破 る も の だ と し た。 そ し て 結 局 は、 今 俄 に こ れ を 宝 塔 と す る に は 賛 意 を 表 し 得 な い が、 五 輪 塔 と す る に も 同 様 で あ り、 先 ず は そ の 中 間 形 と し て ﹁ 五 輪 塔 変 種 宝 塔 ﹂ と で も 呼 ぶ、 と い う 妥 協 点 に 導 い た。 図 六 の 遺 品 と 共 に、 こ の 塔 を 南 北 朝、 恐 ら く 室 町 時 代 も 初 期 迄 と 推 定 す る の は 決 し て 無 理 で は な か ろ う。 奥 院 無 料 休 憩 所 右 横 の 墓 地 に、 文 正 二 年 ( 一、 四 六 七 ) 在 銘 の 小 さ な 五 輪 塔 が あ る。 写 真 八 か ら も 窺 わ れ る 様 に、 各 部 が 寄 せ 集 め ら れ た 感 じ が 強 い 。 地 輪 左 方 に あ る 銘 は 文 正 二 年 十 五 二 月 日 と あ り、 右 の 方 に も 戒 名 と お ぼ し き 刻 銘 が あ る が 明 瞭 で な い。 五 大 の 種 子 は 力 な く、 六 六 糎 の 大 き さ で、 室 町 時 代 全 国 一 般 に 小 型 の 遺 品 が 多 い 例 と 変 ら な い 。 そ れ に し て も 高 野 山 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 に 於 け る こ の 期 の も の が 極 め て 稀 で、 五 輪 塔 に 就 て も 然 り で あ る の は 大 き な 疑 問 で あ る。 桃 山 時 代 か ら 江 戸 時 代 に は、 巨 大 な 五 輪 塔 が 多 量 に 建 立 さ れ た が、 美 術 的 に 見 る も の の 少 な い の は こ の 山 に 限 つ た 訳 で は な い。 そ の 二 一 石 彫 成 五 輪 塔 平 安 後 期 と 推 定 さ れ る ﹁ 中 尾 五 輪 塔 ﹂ 二 基 は、 一 石 よ り 成 る 古 き 著 名 の 遺 品 で あ る。 鎌 倉 時 代 の こ の 種 の 遺 品 は、 現 在 の 研 究 範 囲 に 於 て は な い も の と さ れ て い る が、 幸 か 不 幸 か 高 野 山 に は、 こ の 時 代 の 造 立 に な る 事 が 殆 ん ど 動 か し 難 い と 推 定 さ れ る 石 造 物 が あ る。 西 南 院 境 内 地 に あ る 高 さ 一 ○ 五 糎 の も の ( 図 九 ) が そ の 一 つ で、 正 面 に 彫 ら れ た ﹁ 抵 盃 芝 改 鼓 ﹂ の 文 字 が 大 き く 勇 健 で、 薬 研 彫 り の 約 束 に 依 つ て い る と い う 事 か ら も、 鎌 倉 時 代 を 降 す に は 忍 び な い。 蛇 足 を 加 え る な ら ば、 こ れ 程 胸 の す く 様 な 文 字 の 施 さ れ て い る 遺 品 に 遭 遇 し 得 た 喜 こ び は、 決 し て 忘 れ ら れ ぬ だ ろ う。 地 輪 右 側 面 に 刻 銘 が あ る が、 相 当 磨 滅 風 化 は ひ ど く て 読 み 難 い。 刻 み が 浅 い の も こ れ を 手 伝 っ て い る の だ ろ う。 今 拓 本 を み る と ﹁ 弘 安 ﹂ と 僅 か に 判 読 さ れ、 西 市 院 先 師 過 去 帳 と も 一 致 す る。 即 ち 蓮 躰 房 摂 津 住 吉 人 泰 然 七 十 三 代 之 弘 安 の 頃 検 校 法 印 と あ り、 又 地 輪 の 銘 に ﹁ 奉 為 泰 然 ﹂ と あ る の と 合 致 し、 そ の 一 々 の 細 部 を み て も、 特 に そ の 時 代 の も の と し て 否 定 し 得 る と こ ろ は な い。 只 気 に な る の は、 火 輪 の 軒 の 厚 さ だ け で あ る。 風 輪 と 火 輪 の 継 ぎ は 組 立 の 場 合 と 趣 を 異 に す る が、 こ の 種 の も の に よ く 採 用 さ れ て い る 方 法 で あ る 。 保 存 は 全 く 完 全 で、 本 格 的 な 鎌 倉 風 の 組 立 五 輪 の 場 合 と 大 差 な い 美 し い 形 を 有 す る も の で あ り、 美 術 品 と し て も 珍 重 さ れ る 価 値 は 充 分 に あ る。 次 に 述 べ る も の は 第 十 図 に み る も の で、 西 南 院 境 内 墓 地 に あ る の が そ れ で あ る。 高 さ が 一 糎 少 な く、 軒 の 厚 さ に 少 し の 差 異 が あ る 程 度 で、 前 記 の も の に 酷 似 し て い る。 所 刻 の 種 子 は こ こ で は ﹁ 煮 俄 乏 蓄 寅 ﹂ と あ り、 泰 然 塔 に く ら べ る 場 合、 文 字 の 大 き さ に い さ さ か 不 満 を 覚 え る が、 鎌 倉 時 代 後 期 と す る 推 定 に 何 等 の 支 障 は な い。 地 輪 左 側 の 銘 は ﹁ 弘 安 ﹂ と 読 め
る 様 で あ る が、 再 度 の 調 査 が 必 要 で あ る。 一 石 彫 成 で な い 迄 も、 右 の 二 基 に 大 な る 指 針 を 表 示 す る も の は、 ﹁ 弘 安 七 年 十 一 月 ﹂ 在 銘 の 五 輪 塔 で あ る。 空。 風. 火 輪 を 一 石 で 作 り、 水 輪 地 輪 を 一 石 と し 都 合 二 石 に わ か れ る。 だ か ら 風 輪 と 火 輪 の 継 ぎ 目 の 手 法 は 先 の も の と 変 る 所 が な い。 正 面 に ﹁ 夷 欣 ミ ニ争 狽 ﹂ と 刻 み、 写 真 十 一 に 見 る の は 裏 面 で あ つ て 水 輪 の み に ﹁ ン薮 ﹂ と あ る の は 注 意 さ れ る。 弘 安 の 紀 年 銘 は こ の 右 側 面 地 輪 の 左 寄 り に あ る。 左 側 に は 光 明 真 言 か と 思 わ れ る 梵 字 が 五 行 に 亘 つ て あ り、 裏 面 に 於 て は 人 名 が 列 挙 さ れ て い る が、 今 は そ れ を 省 略 す る。 然 し な が ら、 こ の 遺 品 が あ る 事 は 一 段 と 興 味 を そ そ ら せ る。 も と 一 心 院 口 案 内 所 裏 山 の 崖 上 に あ る ﹁ 明 恵 上 人 墓 ﹂ と い わ れ る 一 石 五 輪 塔 は、 高 さ 一 〇 五 糎 あ り 花 歯 岩 製 で 細 長 い 感 じ の も の で あ る。 こ の 遺 品 で 注 目 さ れ る 手 法 は 火 輪 上 部 の 処 で、 一 石 五 輪 に よ く 見 ら れ る 様 式 と 趣 を 異 に す る こ と で あ る。 即 ち、 一 石 で あ り な が ら 組 立 の 場 合 に 近 い 風 輪 と の 界 線 を 偲 ば せ る 細 部 が 造 設 さ れ て い る か ら で あ る 。 こ の 種 の 造 り 出 し は 文 永 の 町 石 に も 屡 々 見 ら れ る 処 で、 こ の 無 銘 の 年 代 考 証 に 一 つ の 有 力 な 料 資 を 暗 示 す る 様 だ。 相 当 の 風 化 が 見 ら れ、 正 面 に は ﹁ 斑 硫 受 員 拭 ﹂ と 配 さ れ て い る。 ( 第 十 二 図 ) 私 が 知 る 限 り、 こ の 種 の 一 石 五 輪 塔 は 後 述 の 如 く あ と 四 基 あ る が、 そ れ ら の 全 部 と は い わ な い 迄 も、 こ れ ら を 町 石 の 頭 部 で あ ろ う と す る 見 解 が 起 り 得 る 可 能 性 は 充 分 に あ る。 三 宝 院 境 内 本 堂 前 に あ る 例 は、 最 も ﹁ 町 石 頭 部 論 ﹂ に 根 拠 と な る 遺 品 で あ る。 先 ず は 残 さ れ て い る 刻 銘 を 次 に あ げ よ う。 正 面 斑 訊 乏 亘 夷 右 側 地 輪 為 □ □ □ 文 永 十 一 三 月 十 四 裏 側 地 輪 金 剛 □ 左 側 地 輪 目 囲 十 二 □ と あ り、 明 ら か に そ の 続 き の あ る 事 を 暗 示 す る も の で、 以 前 町 石 の 頭 部 で あ つ た ろ う と い う 臭 気 が 強 い。 そ れ に 亦、 こ れ を 一 層 決 定 ず け る 為 に 役 立 つ も の は、 そ の 細 部 寸 法 で あ り、 石 質 が 花 商 岩 製 だ と い う 事 柄 で あ る。 然 し て こ れ を 町 石 の 頭 部 で あ る と す る な ら ば、 江 戸 時 代 に 行 わ れ た 数 度 の 再 興 が、 さ し づ め そ の 裏 附 け の 一 役 を 果 す で あ ろ う。 (第 十 三 図 ) 写 真 十 四 の 一 石 五 輪 塔 は、 こ れ 亦 前 に あ げ た 明 恵 上 人 塔 に 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 み る 手 法 を も つ 遺 品 で、 種 子 石 材 に 於 て も 同 じ 様 な 印 象 の 深 い も の で あ る。 亦、 火 輪 上 部 に こ の 手 法 の 認 め ら れ る も の は、 西 南 院 境 内 墓 地 に あ る あ と 一 つ の 遺 品 が そ れ だ。 高 さ 八 ○ 糎 で い さ さ か 小 型 で あ る が、 鎌 倉 調 を 示 す 好 個 の 資 料 で あ る。 正 面 に は 東 方 発 心 門 の 種 子 が 先 ず 先 ず 見 分 け ら れ る 程 度 に 風 化 し て あ る。 (第 十 五 図 ) こ れ ら の 一 石 五 輪 は、 恐 ら く 町 石 の 造 立 に 影 響 し て 建 立 せ ら れ た と 考 え ら れ る も の で、 そ の 年 代 を 降 る と し て も 南 北 朝 時 代 迄 に 入 れ た い 。 鎌 倉 時 代 の 一 石 彫 成 五 輪 塔 が 我 国 に 余 り 知 ら れ て い な い 今、 最 も 厳 密 に 記 述 す る と し て も 高 野 山 に 二 基 が 存 在 す る と い う 事 は、 石 造 遺 物 を 論 ず る 上 に 重 要 な 地 位 を 占 め る も の で あ ろ う。 更 に そ の 時 代 と 目 さ れ る 若 干 の 遺 品 が あ る 事 は、 益 々 興 味 を 誘 う。 御 廟 橋 近 辺 に あ る あ と 二 つ の も の を 紹 介 し よ う。 写 真 十 六 は 高 さ 六 ○ 糎 程 の 花 歯 岩 製 の も の。 水 輪 の 形 が 他 の も の に 比 し て 萎 縮 の 感 が あ る の は 時 代 考 証 に 関 与 す る 問 題 で あ る が、 室 町 時 代 と す る に は 少 々 躊 躇 さ れ る。 写 真 十 七 の 例 は 正 面 に ﹁ 斑 談 蔑 員 夷 ﹂ と あ り、 そ の 大 き さ 等 か ら は 町 石 に 見 ら れ る 様 な 感 じ が 除 か れ な い。 花 簡 岩 製 八 二 糎。 室 町 時 代 に 入 る と 二 尺 内 外 の 一 石 彫 成 五 輪 塔 が 流 行 す る が、 こ の 山 に は 数 え ら れ な い 程 各 所 に 桀散 在 し て い る。 特 に 奥 院 霊 域 に 多 い 事 は 勿 論 だ が、 中 で も 駿 河 大 納 言 の 一 番 石 の 傍 や、 御 廟 に 近 い 方 の 浅 野 家 墓 所 裏 手 に は そ れ ら が 山 積 さ れ て お り、 西 南 院 境 内 墓 地 や そ の 裏 山 の あ ち こ ち に 多 量 に 見 ら れ る。 こ の 外、 大 学 に 行 く 左 手 の 林 中、 右 方 の 平 地 に も 若 干、 亦 大 学 教 授 官 舎 の あ る 附 近 に も 窺 わ れ、 一 度 こ の 所 在 す る 場 所 に 就 て の 考 究 は 為 さ れ な け れ ば な ら な い 大 切 な 課 題 で あ る と 思 わ れ る。 そ し て ﹁ 峠 に こ れ が 多 い の は そ れ が 祖 霊 供 養 の 霊 場 だ か ら で あ る ﹂ と い う、 仏 教 民 俗 的 な 資 料 に も 役 立 つ で あ ろ う。 私 は 又、 天 野 に も、 慈 尊 院 に も 数 は 少 い が こ れ ら の 遺 品 を み た。 個 々 に 就 て の 掲 載 は 省 略 す る が、 室 町 時 代 の 石 造 々 立 は、 誇 張 し て い え ば こ の 種 の も の に 集 中 さ れ た 趣 が あ る。 そ の 三 柱 状 五 輪 塔 高 野 山 町 石 卒 都 婆 は こ の 種 の 古 い も の と し て は 著 名 で あ る。 町 石 は 文 永 二 年 三 月 廿 一 日 ( 一、 二 六 五 ) に 遍 照 光 院 覚 蝦
に 依 つ て 記 さ れ た 発 願 文 に 示 さ れ て い る 如 く、 弘 仁 七 年 ( 八 一 七 ) 宗 祖 大 師 の 建 て ら れ た 慈 尊 院 よ り 奥 院 に 至 る 木 造 率 都 婆 が 朽 損 し た 為 に、 石 造 再 興 を 志 し た 事 が 認 め ら れ る。 こ の 再 興 に 当 つ て は 皇 族 を 始 め、 秋 田 城 介、 公 家、 武 家、 僧 俗 有 縁 の 助 力 を 得 て、 弘 安 八 年 ( 一、 二 八 五 ) 十 一 月 廿 一 日 に 落 慶 法 要 が 営 ま れ た 事 は、 そ の 供 養 文 の 語 る 所 で あ る。 里 程 率 都 婆 を 含 め て 合 計 一 二 二 基 あ る 町 石 の 内、 壇 上 か ら 御 廟 迄 の 三 七 本 に 金 剛 界 三 七 尊 の 各 種 子 を 配 し、 又、 慈 尊 院 に 至 る 一 八 ○ 本 に は 胎 蔵 界 一 八 ○ 尊 の 種 子 を 刻 ん で い る 。 町 石 に 於 て そ の 町 数 の 上 に 仏 菩 薩 の 種 子 を 現 わ す の は よ く 見 ら れ る 処 で あ る が、 高 野 山 町 石 の 様 な 意 図 を む つ も の は な い。 第 一 章 に も 少 し く 触 れ た 如 く、 大 部 分 の 石 造 遺 物 が 逆 修、 追 善 の 供 養 塔 と い う 小 さ な 範 疇 に 限 ら れ て 造 立 さ れ た の に 較 べ る と、 そ の ま ま 金 剛 界、 胎 蔵 界 に 結 び つ け ら れ て 建 立 さ れ た 意 義 は、 密 教 霊 山 の 雰 囲 気 を 一 層 高 揚 し た と い う 意 味 に 於 て、 は な は だ 注 意 さ れ る 事 で あ る。 こ の 二 一 二 基 の 町 石 は 大 部 分 現 存 す る が、 処 々 破 損 の あ る も の、 又 そ れ の ひ ど い も の、 さ て は そ の 痕 跡 さ え も 認 め ら れ な い も の の あ る の は 誠 に 惜 し ま れ る。 今、 水 原 尭 栄 師 の 説 に 従 う な ら ば、 四 十 二 基 が 六 度 の 再 建 を 経 て 現 在 に 至 つ て い る。 即 ち 天 正 十 八 年 ( 一、 五 九 ○ ) に 一 基、 明 和 六 年 ( 一、 七 六 九 ) よ り 同 八 年 の 間 に 五 基、 安 永 二 年 ( 一、 七 七 三 ) よ り 同 七 年 の 間 に 九 基、 寛 政 三 年 ( 一、 七 九 一 ) の 一 基、 そ れ に 大 正 二 年 ( 一、 九 一 四 ) の 二 十 六 基 で あ る。 奥 院 燈 籠 堂 に 至 る 石 段 の 左 側 に あ る 一 つ は、 多 く の 町 石 の 内 最 古 の 年 代 が 刻 ま れ て い る も の で 文 永 三 年 踊 十 二 月 廿 八 日 ( 一、 三 ハ 六 ) と 読 ま れ る。 こ の 事 は 同 時 に 高 野 山 に 於 け る 最 古 の 在 銘 石 造 遺 物 で あ る 事 を 意 味 す る。 ﹁ 頻 教 差 夷 ﹂ の 種 子 は 町 石 に 於 て 必 ず 各 輪 に 配 さ れ て お り、 そ の 下 に 続 く 長 方 形 の 塔 身 正 面 に 哉 三 十 五 町 比 丘 尼 意 阿 と あ る 。 原 則 と し て こ の 種 の も の は 一 石 彫 成 と な つ て お り、 火 輪 の 上 部 は 明 恵 上 人 塔 等 に 窺 わ れ た 手 法 の 源 泉 と も 思 わ れ る 様 式 が 顕 著 で、 既 述 の 如 く 一 石 彫 成 五 輪 塔 の 年 代 考 証 に 一 つ の 鍵 を 提 供 す る。 空 輪 の 丸 味 は 殊 に 好 ま し く、 高 野 山 石 造 遺 物 の 逸 品 と し て 推 賞 す る に 足 る。 ( 図 十 八 ) 大 門 よ り 十 九 町 目 に あ る 町 石 は 文 永 七 年 ( 一、 二 七 ○ ) の 銘 を 有 し ﹁ 権 少 僧 都 覚 済 ﹂ と あ る 処 か ら、 京 都 市 東 山 区 醍 醐 山 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 上 に あ る 町 石 笠 塔 婆 の 年 代 決 定 に 力 あ つ た 遺 物 で あ る が、 散 逸 し て し ま つ た の か、 兎 も 角 見 ら れ な い 事 は 惜 し ま れ る 。 高 野 春 秋 巻 第 九、 紀 伊 続 風 土 記 第 四 輯 巻 廿 二 等 に ﹁ 町 石 率 都 婆 が 建 治 三 年 に 大 成 し た ﹂ と い う 記 文 が あ る が、 弘 安 の 紀 年 銘 を 有 す る 町 石 が 二 基 あ る と い う 事 は ど う い う 理 由 で あ ろ う か。 供 養 会 の 執 行 さ れ た の が 弘 安 八 年 ( 一、 二 八 五 ) 十 一 月 廿 日 で あ る か ら、 さ し て 不 都 合 は な い。 然 し な が ら、 二 二 一 基 の 町 石 が 総 て 紀 年 銘 を 有 す る も の で な い か ら、 ﹁ 建 治 三 年 大 成 ﹂ の 記 文 は す つ き り し な い。 ま し て 再 興 だ と い い 得 な い。 そ の 四 板 碑 名 号 板 碑 と い わ れ る 遺 品 は、 奥 院 参 道 左 側 秀 康 公 石 廟 の 一 〇 米 程 手 前 に あ る 。 石 材 は 阿 波 に 多 い 緑 泥 片 岩 に よ り、 関 東 形 式 を 連 想 さ せ る。 只 高 さ 地 上 一 八 一 糎 に 対 し 巾 八 ○ 糎 あ る か ら、 巾 広 い 外 観 を 呈 し て い る 。 頭 部 を 三 角 状 と し 内 方 に 二 段 の 切 込 み が あ り、 そ の 下 に 身 部 が 続 い て い る。 こ の 遺 品 は 集 古 十 種 に も 集 録 さ れ て い る 処 で、 銘 に よ れ ば ﹁ 阿 州 国 府 住 入 沙 弥 覚 仏 ﹂ が 康 永 三 年 ( 一、 三 四 四 ) に 建 立 し た こ と が 知 ら れ る。 大 日 本 金 石 史 に は ﹁ 名 東 郡 国 府 村 の 人 々 が、 わ ざ わ ざ 高 野 山 に 運 ん で 立 て た ﹂ と 述 べ て い る が、 今 の 処、 こ の 考 察 を く つ が え す 研 究 は 何 も な い。 第 十 九 図 の も の が そ れ で、 関 東 形 式 の 如 実 に 窺 わ れ る 遺 品 と し て は、 い さ さ か 孤 立 し た 感 じ が あ る。 奥 院 御 供 所 横 か ら 参 道 を そ れ、 公 園 墓 地 の 方 へ 行 く べ く 橋 を 渡 る と す ぐ 右 に あ る 石 碑 群 の 中 に、 関 東 式 板 碑 に 碑 伝 型 が 加 味 さ れ た と 思 わ れ る 形 状 の 板 碑 が あ る。 頭 部 は 三 角 状 に て 二 段 の 切 込 み、 そ し て 額 部 の 突 出 が 五 ・ 五 糎、 次 に 身 部 が 続 き 根 部 の 突 出 も あ る。 磨 滅 は さ し て 認 め ら れ な い が、 身 部 に あ る べ き 銘 が な い の は ど う い う 理 由 に よ る の で あ ろ う か。 こ の 碑 を 吉 野 朝 後 期 と 推 察 す る の は 当 を 得 て い な い の で あ ろ う か。 (第 二 十 図 ) 奥 院 玉 川 河 畔 根 津 家 墓 所 裏 に あ る 建 治 二 年 ( 一、 二 七 六 ) 在 銘 の 遺 品 は、 先 に 問 題 と し た 碑 伝 型 の 様 式 を そ の ま ま 石 造 化 し た と さ え 思 わ れ る 形 状 を 呈 し て い る。 右 側 為 先 師 二 親 及 法 界 正 面 負 阿 闇 梨 勝 秀 左 側 高 祖 十 四 代 資
裏 側 建 治 二 年 霜 月 十 六 日 銘 文 は 右 の 如 く 四 面 に 亘 つ て 薬 研 彫 り 手 法 で 大 書 す る。 地 上 一 七 ○ 糎 あ り 殆 ど 柱 状 に 近 い 花 歯 岩 製 の も の で あ る。 本 格 的 な 形 式 を 備 え、 頂 は 三 角 に 造 り、 二 段 の 切 込 み は 側 面 に も 及 ぼ さ れ、 額 部 の 著 し く 突 出 し て い る あ た り 等、 他 に そ の 類 を 見 な い。 現 在 高 野 山 上 に 於 る 在 銘 の 板 碑 と し て は、 最 古 の 遺 品 で あ る。 (第 二 十 一 図 ) 天 野 神 社 か ら 慈 尊 院 へ ゆ く 町 石 道 へ の 道 を 登 り 切 る と、 そ こ に 今 述 べ た ば か り の 板 碑 と 同 形 の 遺 品 が あ る。 こ の 場 所 は 又、 二 二 六 町 と 二 二 七 町 の 町 石 の 中 間 に 当 る。 地 上 約 二 六 〇 糎 あ つ て、 山 上 で 見 た そ れ よ り も は る か に 大 き く 立 派 で あ つ た。 銘 は 三 方 に あ り 裏 面 に は な い。 集 古 十 種 に も 収 録 さ れ て い る も の で、 早 く か ら 知 ら れ て い た 遺 品 で あ る。 右 側 建 治 二 年 十 一 月 日 正 面 友 奉 為 前 大 僧 正 聖 基 左 側 天 野 路 法 眼 泰 勝 と あ り、 前 記 の も の と そ の 年 月 が 同 一 で あ る の は 注 意 さ れ る 。 石 材 も 同 質 の 花 闘 岩 で 細 部 手 法 に 於 て も 亦、 全 く 同 様 で あ つ た。 下 部 に 修 補 の 跡 が み ら れ る の は、 水 原 発 栄 師 も 述 べ て お ら れ る。 (第 二 十 二 図 ) 高 野 山 金 石 図 説 に ﹁ 形 式 の 異 な れ る 碑 ﹂ と し て、 後 述 の ﹁ 正 和 の 板 碑 ﹂ も 紹 介 さ れ た 処 で あ る が、 こ の 三 基 の 外 最 近 発 見 さ れ た ﹁ 慈 尊 院 下 乗 石 断 片 ﹂ が あ る 。 石 質 手 法 共 に 前 記 二 基 の 例 に な ら い、 先 ず は 同 時 代 の 造 立 に な る 事 が 推 察 さ れ る の は 当 然 で あ る が、 残 念 な 事 に は 下 部 が な い。 正 面 に 大 き く ﹁ 下 ﹂ の 字 が あ る だ け で、 そ の す ぐ 下 か ら 折 れ て い る。 従 つ て 根 部 等 は 見 ら れ ず、 申 途 か ら 埋 も れ て い る 様 で 一 抹 の 不 満 を 禁 じ 得 な い。 然 し な が ら こ の 石 が 慈 尊 院 に あ る と い う 事 実 は、 こ の 種 の 板 碑 を 修 験 道 の も の と 関 連 づ け 様 と す る 考 察 に、 殊 更 貴 重 と な つ て 来 る。 正 和 元 年 ( 一、 三 二 一) 在 銘 の 板 碑 は 奥 院 玉 川 畔 に あ り、 現 在 地 上 一 九 六 糎 と 見 ら れ る が、 金 石 図 説 に 一 丈 一 尺 と 記 さ れ て い る 如 く、 相 当 大 き な も の で あ る と い う 推 察 は 容 易 で あ る。 建 治 碑 に 比 す る と、 細 部 の 手 法 に は 少 し ば か り 相 違 が 見 出 さ れ る 。 即 ち 側 面 の 二 段 の 切 込 み は 省 略 さ れ て お り、 頭 部 の 三 角 状 に 於 て も、 内 側 に 湾 曲 し た 反 り が 側 面 か ら 見 て 目 に つ く 点 で あ る。 そ の 他 に は 余 り の 違 い は な い が、 年 代 が 降 る だ け そ の 美 し さ は 少 し く 劣 る 様 で あ る。 然 し な が う 重 要 な 遺 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 品 で あ る 事 は 前 記 の 例 と 変 り な い。 銘 文 は さ し ひ か え る が、 め ず ら し い 四 方 仏 の 配 列 を 紹 介 し て 置 こ う。 即 ち、 正 面 に ﹁讃 ﹂ と あ る か ら 西 向 き に 建 て ら れ て い た と し て、 東 方 に ﹁急 ﹂ 字、 南 方 に ﹁ 舜 ﹂ 字、 北 方 に は ﹁ 挙 ﹂ 字 と あ る。 正 面 禽 字 の 上 に あ る 顔 ﹂ 字 は、 造 立 意 図 に 就 て の 暗 示 を 偲 ば せ る も の で あ る。 換 言 す る な ら ば、 塔 自 体 を 大 日 如 来 と 観 じ て い た の で は な か ろ う か と い う 推 論 が、﹁ 遺 ﹂ の 意 味 に 就 て の 解 釈 に 一 つ の 妥 当 性 を 提 供 す る。 ( 第 二 十 三 図 ) さ て 年 代 か ら い う と、 先 に 述 べ た 康 永 の 仏 号 碑 が こ の 遺 品 の 後 で 造 立 さ れ た 事 に な る。 又 次 に 書 い た 無 銘 の 板 碑 を 私 は 南 北 朝 時 代 と し た が、 そ れ も 康 永 の 板 碑 成 立 後 の も の と 考 え た い。 即 ち 既 述 の 如 く、 そ の 形 式 が 関 東 式 と 碑 伝 型 の 様 式 を 共 に 備 え 持 つ て い る と い う 理 由 に 拠 る 処 が 多 い。 室 町 時 代 に 入 る と、 板 碑 に 於 て も 遺 品 は 少 く 僅 に 二 基 に そ の 片 鱗 を 偲 ぶ の み で あ る。 天 文 十 四 年 ( 一、 五 四 五 ) 在 銘 の 百 万 遍 念 仏 名 号 碑 は 玉 川 畔 に あ る。 頂 上 を 三 角 状 と し 二 本 の 帯 状 の 線 条 が 施 さ れ て い る。 中 央 に 弥 陀 の 種 子 を 刻 し 右 に 日 天 像、 左 に 月 天 像 を 配 し て お り、 こ の 日 月 の 陽 刻 を 施 す の は こ の 時 代 以 降 よ く 見 受 け ら れ る 所 で あ る。 高 さ 一 四 九 糎 あ り、 花崗 岩 作 り の も の で、 裏 は 自 然 石 の ま ま と な つ て い る。 様 式 手 法 の 退 化 は 記 す 迄 も な い が、 関 東 式 に 碑 伝 形 を 加 味 し た と 思 わ れ る 終 末 的 な 要 素 を 窺 い 得 る も の で あ る。 ( 第 二 十 四 図 ) 奥 院 無 料 休 憩 所 北 側 の 石 碑 群 の 中 に 永 禄 七 年 ( 一、 五 六 四 ) 在 銘 の 板 碑 が あ る。 上 部 右 方 を 三 角 状 に 欠 損 し て い る が、 頂 上 を 三 角 形 と し て い た 事、 又 額 部 に 三 日 月 形 が 浮 彫 ら れ て い る 所 か ら、 今 は な い 部 分 に も 恐 ら く 天 文 の 先 例 に み た 如 く、 日 天 像 に 相 当 す る も の が 浮 彫 ら れ て い た と 推 定 す る 事 は 決 し て 無 理 で な い。 中 央 に 猟 看 改 夷 と あ り 右 に 一 行 □ 口 住 人 前 朝 倉 太 郎 左 衛 門 尉 景 境 一 生 年 三 十 九 歳 永 禄 七 年 押 九 月 二 日 逝 去 と あ り 左 に も 一 行 に 次 の 如 く あ る 法 名 □ 日 峰 宗 慧 禅 定 門 為 頓 証菩 提 同 九 年 刀丙 九 月 二 日 造 妾 家 ※ 僕 等 敬 白 (第 二 十 五 図 ) ( 注 ) ※ ﹁ 刀 ﹂ と あ る の は ﹁ 寅 ﹂ で あ る べ き と 思 う。 根 津 家 墓 所 裏 に は 既 に 紹 介 さ れ た 二 三 の 遺 品 も あ る が、 江 戸 時 代 の 造 立 に な る 興 味 深 い 若 干 の 遺 品 も み ら れ る。 そ れ ら
は 全 く 放 置 さ れ た 趣 で、 い く ら か は 整 然 と し て お き た い も の だ と 希 望 す る。 慶 長 四 年 ( 一、 五 九 九 ) の 島 津 氏 の ﹁敵 味 方 供 養 笠 塔 婆 ﹂ と 共 に、 高 麗 陣 に 関 し て の 一 基、 地 輪 の 広 さ 八 畳 敷 を 誇 る 崇 源 院 殿 五 輪 塔 に 関 与 す る 一 基 等 で、 こ れ ら は 石 造 遺 物 と し て よ り も、 金 石 文 と し て の 興 味 の 方 が 大 き い。 ﹁ 玉 川 歌 碑 ﹂ や ﹁ 石 清 水 歌 碑 ﹂ は、 歌 を 刻 ん だ 風 流 な 板 碑 と し て お も し ろ く、 又 珍 し い。 そ の 五 そ の 他 一 石 一 尊 式 に よ る 舟 型 背 光 の 石 仏 は、 当 山 で は 注 目 さ れ る 遺 品 で、 そ の 量 に 於 て も 相 当 数 に の ぼ り、 室 町 時 代 か ら 桃 山 ・ 江 戸 時 代 に か け て 盛 ん で あ つ た 地 蔵 信 仰 の 片 鱗 が、 こ こ で も 窺 え る。 御 廟 橋 を 渡 り、 参 道 右 側 に 立 ち 並 ぶ 中 に 第 二 五 図 の 遺 品 が あ る。 為 月 甫 冥 源 禅 定 門 十 三 年 忌 天 文 廿 一 年 四 月 廿 三 日 ( 以 上 右 一 行 ) ( 中 央 半 肉 彫 地 蔵 菩 薩 ) 道 □﹁妙﹂﹁ 阿﹂宗 円 道 音 宗 福 宗 慶 妙 喜 浄 徳 白 啓 ( 以 上 左 一 行 ) と 刻 ま れ て あ り、 室 町 末 期 の も の で あ る こ と が 知 ら れ る。 花 山岡 岩 製 で 眉 の 下 の 落 込 み も 多 少 認 め ら れ、 衣 文 の 形 式 化 も 了 承 さ れ る が、 私 が み た 中 で は、 全 体 的 に う れ し い も の の 一 つ で あ る。 私 が 倉 敷 市 連 島 町 の 三 宅 千 秋 氏 を 知 つ た の は、 卒 業 問 も な い 頃 で あ る が、 そ の 因 縁 で 知 つ た 文 亀 三 年 ( 一、 五 〇 三 ) 銘 の 舟 型 背 光 の 地 蔵 石 仏 は、 奥 院 無 料 休 憩 所 横 の 自 動 車 駐 車 場 近 く に あ る。 陽 刻 さ れ た 地 蔵 尊 は 天 文 の 例 に み る よ り は ず つ と 出 張 つ て 浮 出 て い る。 光 背 の 上 部 を 破 損 散 逸 し て い る の は 誠 に 惜 し い が、 こ の も の が 探 し 出 さ れ た 喜 び は 大 き い。 ﹁ 岡 山 春 秋 ﹂ と い う 何 月 号 か の 雑 誌 に、 氏 が 詳 し く 紹 介 さ れ て お ら れ る の で、 こ こ に は そ の 写 真 の み を 掲 載 す る こ と に し た。 (第 二 十 七 図 ) 御 所 芝 上 右 側 に あ る 二 笠 塔 婆 型 地 蔵 陽 刻 石 仏 ﹂ と で も 云 わ ね ば な ら な い 遺 品 は、 恐 ら く 室 町 時 代 も 初 期 の も の で は な い か と 推 定 さ れ る 貴 重 な 美 術 品 で あ る 。 花 崩 岩 製 で 塔 身 に 変 型 の 八 角 形 の 部 分 を 彫 り 込 ん で、 こ の 内 部 に 地 蔵 一 体 を 陽 刻 し て お り、 石 室 の 如 き 意 図 も 含 ま れ て い る 様 で あ る。 屋 根 上 部 に 露 盤 の 如 き 造 設 が 為 さ れ て お り、 宝 珠 が 置 か れ て い る が、 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 こ の 屋 根、 宝 珠 に は 前 代 の 名 残 り が 感 じ ら れ て 好 ま し い。 高 さ 地 上 二 ○ 糎 あ り、 尊 像 の 像 容 も 又 よ く、 高 野 山 に こ の 美 術 品 が あ つ た こ と は、 私 の 喜 び で あ り 慰 さ み と な つ た。 ( 第 二 十 八 図 ) 御 所 芝 と い え ば 鎌 倉 時 代 の 宝 簾 印 塔 が 二 基 あ る が、 金 石 図 説 で 一 度 書 か れ た 事 も あ る の で、 こ こ で は 詳 細 を 省 略 す る。 然 し な が ら 一 こ と 附 言 し て 置 き た い と 思 う の は、 そ の い ず れ も が 完 全 に 組 み 合 さ れ て い な い 点 で あ る。 ば ら ば ら の 感 じ が 強 い 二 基 や、 附 近 に 散 在 し て い る 断 片 等 か ら は あ と 一 基 の、 少 な く と も 南 北 朝 程 度 の も の が 出 来 上 る と 考 え ら れ る。 自 然 な 形 に 復 元 し た い と 希 う の は、 私 ば か り で は あ る ま い。 室 町 時 代 の 美 術 品 が ど の 種 の も の に 就 て も 少 い こ の 山 で、 遍 照 光 院 裏 庭 に あ る 九 重 の 層 塔 は 嬉 し い 存 在 で あ る。 御 所 芝 に あ る ﹁ 伝 後 亀 山 天 皇 層 塔 ﹂ や、 ﹁ 後 村 上 天 皇 層 塔 ﹂ に 比 較 し て 高 さ 地 上 二 九 〇 糎、 花崗 岩 製 の こ の 塔 は 保 存 も よ く、 只 相 輪 部 に 少 し の 難 点 を 残 す の み で あ る。 塔 身 に は 四 方 仏 が 種 子 を 以 て 月 輪 内 に 刻 ま れ て い る。 梵 字 を 読 む と 奈 良 時 代 に 端 を 発 す る 顕 教 の 四 仏 に 類 す る 様 に 思 わ れ る。 即 ち、 今 北 方 に パ ヰ キ リ ク パ ク は 薬 師 ﹁ 説 し が 配 さ れ、 南 方 に 弥 陀 ﹁ 讃 ﹂、 東 方 に 釈 迦 ﹁ 鴛 ﹂ ユ ク ユ ヤ 西 方 に ﹁ 婆 ﹂ 字 が 認 め ら れ る。 西 方 に は 通 常 ﹁ 軋 ﹂ ﹁以 ﹂ ﹁ 改 ﹂ ユ 字 が 配 さ れ、 特 に ﹁ 望 ﹂ が 代 表 的 で 弥 勒 を 表 示 す る の で あ る ク ユ が、 も し ﹁蔓 ﹂ を 以 て 弥 勒 を 示 し た も の と す る な ら ば、 恐 ら く 我 国 で も 珍 ら し い 配 置 と な ろ う。 然 し な が ら 北 方 の 薬 師 は 東 方 と せ ね ば な ら な い。 そ う す る と 南 方 に 釈 迦、 西 方 に 弥 陀、 北 方 に 弥 勒 と な つ て 極 め て 自 然 な 配 置 に な る。 尤 も 平 安 末 期 後 の も の で 北 方 と 南 方 と が 逆 に な つ て い る 例 は あ る が、 東 方 は や は り 薬 師 で あ る。 だ か ら こ の 遺 品 で は、 積 み 違 え ら れ た と 解 す る の が 一 番 無 難 で あ ろ う。 多 分 も と は こ こ に な か つ た と 思 わ れ る。 又、 基 礎 に は 関 西 式 の 格 狭 間 が あ る 様 に 窺 え る が、 全 部 は 知 ら れ な い。 相 輪 部 に は 九 輪 は 約 束 通 り あ る が、 下 部 の 請 花 が 省 略 さ れ て い る 様 で あ る。 又 最 上 部 を 宝 珠 と す る と、 上 部 の 請 花 も な い と い う 事 に な る。 全 体 的 に み て 鎌 倉 式 を 踏 襲 し て い る が、 屋 根 の 手 法 や 軒 口 の 厚 味 等 か ら も 退 歩 の 色 が 見 ら れ る。 先 ず は 室 町 時 代 中 頃 の 作 品 と 見 る べ き で あ ろ う。 ( 第 二 十 九 図 ) 江 戸 時 代 の 作 品 で 高 野 山 に あ る 誇 る べ き 美 術 品 は、 ﹁ 徳 川 家 康 及 び 同 生 母 長 勝 院 石 廟 二 棟 ﹂ で あ る が、 本 誌 上、 天 岸 正 雄 氏 の 発 表 せ ら れ た 処 で は あ り、 今 は そ の 略 述 も さ し ひ か え
よ う と 思 う。 第 一二 立早 結 語 高 野 山 の 石 造 遺 物 を 考 察 す る 時、 最 も 重 要 だ と 思 わ れ る 遺 品 に つ い て の 大 略 の 概 念 を 書 き 綴 つ た 心 算 で あ る が、 さ て 幾 十 万 と あ る 石 造 記 念 物 を 通 観 す る 時、 町 石 の 石 造 化 と い う 意 義 は 何 に も 増 し て 重 要 で あ つ た。 然 し な が ら こ れ を ﹁ 高 野 山 石 造 記 念 物 創 建 の 始 め ﹂ と 考 え る の は、 最 早 や 無 理 だ と い う ほ か は な い。 一 方、 町 石 が 高 野 山 に の み 現 存 す る 鎌 倉 時 代 の 一 石 彫 成 五 輪 塔 と 考 え 合 せ ら る べ き 余 地 を 有 す る の は、 認 め ら れ な け れ ば な ら ぬ 新 ら し い 価 値 で あ ろ う。 板 碑 の 造 立 が こ れ に 次 で 為 さ れ た が、 そ の 形 式 が 行 入 及 び 長 床 衆 の 修 験 化 に 密 接 に つ な が る も の で あ る こ と に 就 て は、 注 意 し な け れ ば な ら ぬ 。 こ の 山 に 於 け る 鎌 倉 時 代 の 造 立 に な る も の に は、 宝 簾 印 塔 が 前 記 の 外 に 加 え ら れ る の で あ る が、 全 国 的 に い え ば 既 に こ の 時 代 に、 総 て の 種 類 の 石 造 美 術 が 出 揃 つ た に も 拘 ず、 多 く の 遺 物 を 包 蔵 す る 高 野 山 で は、 江 戸 時 代 を 待 た ね ば な ら な か つ た と い う 事 に 就 て は、 私 が 一 切 触 れ な か つ た 問 題 で あ る。 何 故 か と い う 時、 地 理 的 不 便 は さ る 事 な が ら、 新 た な る 発 見 の 可 能 性 を 比 較 的 明 る く 推 察 し た い か ら で あ る。 高 野 山 浄 土 思 想 の 源 泉 は 古 く 平 安 朝 に 遡 る こ と が 出 来 る と し て も、 期 せ ず し て 町 石 の 上 に 現 わ れ た そ れ は、 動 か ざ る 事 実 を 証 明 す る も の で あ る 事 に、 挿 む べ き 疑 念 の 余 地 は な い。 こ の 信 仰 内 容 が 何 は と も あ れ 高 野 山 に か か る 石 造 記 念 物 を 成 立 せ し め る 原 動 力 と な つ た と 考 え ら れ る。 町 石 が ﹁ 墓 碑 創 建 ﹂ の 妥 当 性 を 裏 附 け る 気 運 に 拍 車 を か け た の で あ る。 高 野 聖 の 全 国 行 脚 の 業 蹟 は 又、 こ の 浄 土 思 想 を 盛 な ら し め る 為 の 背 景 を、 充 分 に 果 す と は 考 え ら れ る 処 で あ る が、 こ こ で は い さ さ か 取 り 残 さ れ た 感 じ が あ る 様 だ。 そ れ ぞ れ の 時 代 の 経 済 的 な 観 念 も 又 然 り で、 こ れ ら が 高 野 山 の 石 造 記 念 物 の 上 に 何 を も た ら し た か と い う 新 ら し い 研 究 は、 今 後 の 課 題 と し よ つ。 こ こ に ま だ 触 れ 得 な か つ た 数 々 の 事 柄 は あ る が、 高 野 山 行 人 や 長 床 衆 の 修 験 化 と い う 問 題 と 共 に、 尚 興 味 あ る 理 論 を 成 立 せ し む る で あ ろ う 事 を 書 き 添 え て、 こ の 小 論 を 終 り た い。 附 記 水 原 尭 栄 大 僧 正 狙 下 初 め 山 本 智 教 高 野 山 大 学 教 授、 大 谷 大 学 教 授 高 野 山 の 石 造 紀 念 物
密 教 文 化 五 来 重 先 生、 高 野 山 西 南 院 住 職 和 田 有 玄 師 に は 卒 業 論 文 を 書 く に 当 つ て. 多 大 の 御 指 導、 御 援 助 の 栄 誉 を 賜 り、 こ こ に 謹 し ん で 御 礼 申 し 上 げ る と 共 に、 至 ら な か つ た 多 く の 点 を 衷 心 よ り 御 詫 び し、 尚 又 今 後 の 御 愛 顧 を 伏 し て 御 願 い 致 す 次 第 で す。 一 方 当 時 在 学 の 岡 山 県 高 梁 市 玉 川 町 遠 藤 法 眼 君 に は、 貴 重 な 多 く の 時 間 を 割 い て の 実 地 調 査 に、 無 償 の 協 力 を 恭 く し た 事 は、 た だ た だ 感 謝 の 外 は な い。 高 野 山 大 学 密 教 学 科 教 授 の 諸 先 生 方、 天 岸 正 男 氏 の 御 助 言 に 敬 意 を 表 し、 少 し で も 早 く 知 り 得 た ら と 遺 憾 で あ つ た 斎 藤 彦 松 氏 の 御 厚 清 に 対 し て は、 お 返 し す べ き 言 葉 も 知 ら ぬ 。 こ の 紙 面 を 借 り て、 さ さ や か な が ら 御 礼 申 し 上 げ、 投 筆 し た い 。 参 考 文 献 高 野 山 金 石 図 説 ( 水 原 発 栄 著 )、 高 野 春 秋 ( 大 日 本 仏 教 全 書 )、 紀 伊 続 風 土 記 第 四、 第 五 輯、 石 造 美 術 ( 川 勝 政 太 郎 )、 板 碑 概 説 ( 服 部 清 五 郎 )、 史 蹟 と 美 術 (雑 誌 )、 聖 愛 ( 雑 誌 )、 仏 教 考 古 学 講 座 ( 雄 山 閣 発 行 )、 五 輪 九 字 明 秘 密 釈 一 巻 ( 覚 鍵 )、 大 日 経 疏、 修 行 縁 起、 奥 院 興 廃 記、 密 教 文 化 ( 雑 誌 )、 高 野 山 ( 佐 和 隆 研 著 )、 奈 良 県 報 告 書 ( 天 沼 博 士 )、 仏 教 民 俗 (雑 誌 )、 醍 醐 寺 新 要 縁 三、 高 野 山 名 所 図 絵、 集 古 十 種、 塔 婆 の 研 究 ( 夢 殿 編 纂 所 )、 我 国 に 於 け る 塔 形 の 種 類 と そ の 系 統 (石 田 茂 作 博 士 )、 京 都 美 術 大 観、 大 日 本 金 石 史
第 一 図 第 二 図 第 三 図 第 四 図 第 五 図 第 六 図 第 七 図 第 八 図 第 九 図
第 十 図 第 十 一 図 第 十 二 図 第 十 三 図 第 十 四 図 第 十 五 図 第 十 六 図 第 十 七 図 第 十 八 図
第 十 九 図 第 二 十 図 第二 十 一 図 第 二 十 二 図 第 二 十 三 図 第 二 十 四 図 第二 十 五 図 第 二 十 六 図 第 二 十 七 図 第 二 十 八 図 第 二 十 九 図