蓮
上
院
頼
逞
と
そ
の
生
家
山
陰
加
春
夫
は
じ
め
に
中
世
、
高
野
山
金
剛
峯
寺
の
僧
侶
は
、
ど
の
よ
う
な
地
域
の
ど
の
よ
う
な
家
を
、
そ
の
生
家
と
し
て
い
た
の
で
あ
ろ
う
か
。
ま
た
、
そ
の
こ
と
は
、
当
該
時
期
の
当
寺
の
荘
園
経
営
に
、
ど
の
よ
う
な
影
響
を
与
え
た
の
で
あ
ろ
う
か
。
こ
れ
ら
の
点
に
つ
い
て
、
す
で
に
和
多
昭
夫
(
秀
乗
)
氏
は
、
﹁
平
安
時
代
以
来
、
高
野
山
の
僧
侶
に
は
寺
領
や
近
辺
の
出
身
者
が
要
職
に
つ
い
て
い
る
場
合
が
極
め
て
多
﹂
く(﹁
特
に
豪
族
の
出
身
者
が
多
く
﹂
)
、
﹁
こ
の
こ
と
が
近
世
に
至
る
迄
、
高
野
山
の
寺
領
支
配
が
極
( 1) め て 円 滑 に 行 わ れ た 理 由 の 一 つ で あ る ﹂ 、 と の 注 目 す べ き 指 摘 を 行 わ れ て い る 。 筆 老 も 、 か つ て 、 先 学 の 騨 尾 に 付 し ( 2)て
、
同
様
の
こ
と
を
不
十
分
な
が
ら
述
べ
た
こ
と
が
あ
る
。
本
稿
は
、
冒
頭
に
述
べ
た
課
題
の
う
ち
、
と
く
に
前
者
の
点
を
、
で
き
る
か
ぎ
り
同
時
代
の
確
か
な
史
料
に
基
づ
い
て
、
更
に
具
体
的
に
明
ら
か
に
す
る
こ
と
を
目
的
と
し
て
、
比
較
的
関
係
史
料
の
豊
富
な
蓮
上
院
頼
逞
の
場
合
を
取
り
上
げ
、
こ
れ
を
検
討
す
る
も
の
で
あ
( 3) る 。 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家密 教 文 化
一
蓮
上
院
頼
逞
(4 ) 蓮 上 院 頼 逞 は 、 ﹁ 高 野 山 検 校 帳 ﹂ に 、 延 文 五 庚 子 治 山 出 入 五 年 (渥 ) 第 百 十 頼 濯 惣 仙 房 、 蓮 上 院 、 尾 崎 名 手 人 也 、 治 山 四 ケ 年 、 代 宣 秀 、 成 観 房 、 三 宝 院 、 ( 滅 )拝
堂
正
平
十
五
庚 子 八 月 日 、 建 徳 二 十 月 廿 二 入 ー 、 ( 5 )と
み
え
、
正
平
十
五
年
(
延
文
五
、
一
三
六
○)か
ら
足
掛
け
五
年
間
、
高
野
山
金
剛
峯
寺
の
第
百
十
代
検
校
を
務
め
た
人
物
と
し
て
知
ら
れ
る
。
同
帳
に
よ
れ
ば
、
字
は
惣
仙
房
、
住
坊
は
蓮
上
院
、
﹁
尾
崎
名
手
﹂
の
出
身
で
、
建
徳
二
年
(
一
三
七
一
)
十
月
二
十
二
日
に
入
滅
し
て
い
る
。
さ
て
、
ま
ず
本
節
で
は
、
彼
の
金
剛
峯
寺
衆
徒
交
入
後
の
寺
内
で
の
足
跡
を
確
か
め
て
お
く
こ
と
に
し
よ
う
。
( 6 )頼
逞
が
﹁
金
剛
峯
寺
衆
徒
一
味
契
状
﹂
類
に
同
寺
衆
徒
正
員
と
し
て
初
め
て
そ
の
姿
を
現
わ
す
の
は
、
嘉
元
二
年
(
一
三○四
)
四
月
の
( 7) ( 8) ( 9 ) こ と で あ る 。 同 年 七 月 に は 大 法 師 位 (衆 分 ) 第 一 七 八 鶉 と し て 、 貞 和 四 年 ( 一 三 四 八 ) 三 月 に は 阿 闊 梨 位 第 四 三 蕩 と し ( 10) (11) ( 12) て 、 観 応 二 年 ( 一 三 五 一 ) 二 月 十 二 日 に は 同 位 第 三 五 繭 と し て 、 そ の 名 が み え る 。 ( 13 ) ま た 、 頼 逞 が 発 行 し た ﹁ 御 影 堂 陀 羅 尼 田 寄 進 状 ﹂ ・ ﹁ 田 地 充 行 状 ﹂ 類 に よ れ ば 、 彼 は 、 少 な く と も 嘉 暦 三 年 ( 一 三 二 八 ) 十 二 月 か ら 延 元 二 年 ( 一 三 三 七 ) 六 月 ま で の 間 、 入 寺 位 に 在 っ た こ と が わ か る 。 ( 14)さ
ら
に
、
寛
文
二
年
(
一
六
六
二
)
八
月
十
二
日
の
﹁
御
影
堂
大
師
御
影
修
復
記
録
﹂
所
引
﹁
正
平
十
五
年
七
月
記
﹂
・
正
平
十
七
年
( 15 ) ( 16 )
(
一
三
六
二
)
十
二
月
一
蓮
華
乗
院
五
辻
斎
院
国
忌
請
定
﹂・
同
十
八
年
八
月
三
日﹁
図
書
頭
貞
秀
奉
書
﹂
に
よ
れ
ば
、
彼
は
、
少
な
く
と
( 17 )も
正
平
十
五
年
(
一
三
六
〇
)
六
月
か
ら
同
十
八
年
(
一
三
六
三
)
八
月
ま
で
の
間
、
検
校
を
務
め
た
こ
と
が
窺
え
る
。
つ
ま
り
同
時
代
の
史
料
に
よ
っ
て
、
頼
逞
は
、
嘉
元
二
年
(
一
三
〇
四
)
四
月
ま
で
に
金
剛
峯
寺
の
衆
徒
正
員
と
な
り
、
嘉
暦
三
年
(
一
三
二
八
)
十
二
月
ま
で
に
は
入
寺
位
に
、
延
元
二
年
(
一
三
三
七
)
六
月
か
ら
貞
和
四
年
(
一
三
四
八
)
三
月
ま
で
の
間
に
は
阿
閣
梨
位
に
、
そ
れ
ぞ
れ
昇
進
し
、
少
な
く
と
も
正
平
十
七
年
(
一
三
六
二
)
十
二
月
か
ら
同
十
八
年
八
月
ま
で
の
間
は
検
校
を
務
め
、
同
二
十
年
( 18 ) ( 一 三 六 五 ) ま で に は 同 職 を 辞 し て い る ︹ 註 ( 17 ) 参 照 ︺ こ と 、 な ど の こ と が 確 か め ら れ る の で あ る 。 ( 19)彼
が
い
つ
蓮
上
院
の
住
持
と
な
っ
た
か
は
明
ら
か
で
な
い
。
史
料
的
に
は
、
康
永
四
年
(
一
三
四
五
)
二
月
頃
の
も
の
と
推
定
さ
れ
る
文
( 20) 書 に 、 ﹁ 蓮 上 院 惣 仙 房 ﹂ と み え る の が 早 い 。彼
の
修
学
上
の
事
績
に
つ
い
て
も
未
詳
の
点
が
多
い
。
た
だ
、
応
永
十
年
(
一
四
〇
三
)
四
月
二
日
に
高
野
山
宝
性
院
宥
快
が
著
わ
し
た
( 21)﹁
伝
法
灌
頂
授与記﹂二巻に
、
﹁
玄
海
法
印
御
房
被
授
蓮
上
院
頼
逞之時﹂云々、の
ご
と
き
文
言
が
み
え
、
ま
た
同
記
に
、
そ
の
際
(22)の
記
録
で
あ
る
﹁
玄
海
法
印
授
頼
逞
之
時
記
﹂
の
内
容
が
し
ば
し
ば
具
体
的
に
引
用
さ
れ
て
い
る
こ
と
か
ら
考
え
れ
ば
、
頼
逞
が
宝
性
院
( 23)玄
海
か
ら
伝
法
灌
頂
の
職
位
を
授
け
ら
れ
た
こ
と
だ
け
は
確
か
で
あ
ろ
う
。
二
蓮
上
院
頼
逞
の
生
家
1 つ ぎ に 本 節 で は 、 頼 逞 が 、 ど の よ う な 地 域 の ど の よ う な 家 を 、 そ の 生 家 と し て い た か 、 と い う 点 に つ い て 検 討 し よ う 。 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家密
教
文
化
そ
の
た
め
に
、
以
下
に
三
通
の
文
書
を
掲
げ
る
。
( 24 )(ア)﹁
大
法
師
宗
秀
田
地
充
行
状
﹂
(端 裏 書 ) ﹁ 惣 仙 房 寄 進 法 音田﹂宛
行
田
地
新
放
券
文
事
合
壱
段
者
在
金
剛
峯
寺
領
名
手
庄
西
村
之
内
四
至
限 東 道 限 西 持 蓮 領 限 南 蓮 光 領 限 北 能 福 領右
件
田
地
者
、
自
故
現
生
房
之
手
、
先
師
滝
浄
房
阿
閣
梨
所
買
取
実
也
、
領
知
年
尚
、
敢
無
他
妨
、
而
依
為
年
来
之
弟
子
、
自
在
生
之
時
、
被
宛
行
能
福
畢
、
依
之
任
彼
意
趣
、
放
賜
宛
文
者
也
、
但
於
本
券
文
者
、
本
坊
摩
尼
殊
院
炎
上
之
時
、
建
長
四
年
二
月
九
日
夜
寅
時
○同
焼
失
畢
、
後
日
於
称
有
証
文
輩
者
、
可
処
盗
人
者
也
、
傍
為
後
日
沙
汰
、
新
放
券
文
状
如
件
、
文
永
弐
年
乙 丑潤
四
月
十
日
大
法
師
宗
秀
(
花
押
)
( 25)(イ)﹁
法
立旦
房
田
地
譲
状
﹂
(別 筆 ) ﹁ 惣 仙 房 寄 進 法 音田﹂宛
行
田
地
新
放
券
文
事
合
壱
段
者
在
金
剛
峯
寺
領
名
手
庄
西
村
之
内
四
至
有
本
券
(蔵 人 殿 ) (嫡 子 ) (宮 松 御 前 ) 右 件 田 地 者 、 法 土 旦 房 先 祖 私 領 也 、 而 今 源 く ら う と と の 、 ち や く し ミ や ま つ こ せ に 、 限 永 代 、 本 券 一 通 あ ひ そ え て 、 ゆ つ り ま い ら る 事 実 也 、 無 他 妨 り や う ち せ さ セ 給 へ き も の 、 為 後 日 、 放 新 券 之 状 如 件 、 弘 安 十 年 二 月 十 四 日 法 音 ( 略 押 ) ( 26)(ウ)﹁
入
寺
頼
逞
御
影
堂
陀
羅
尼
田
寄
進
状
﹂
( 端 裏 書 ) ﹁ 惣 仙 房 随 羅 尼 田 寄 進 状 法 音田﹂奉
寄
進
御
影
堂
陥
羅
尼
田
事
合
壱
段
在 金 剛 峯 寺 御 領 紀 伊 国 那 賀 郡 名 手 庄 西 村 之 内四
至
在
本
券
(副
)
右
件
田
地
者
、
頼
逞
先
祖
相
伝
之
私
領
也
、
而
為
先
批
聖
霊
証
大
菩
提
、
乃
至
法
界
平
等
抜
済
、
相
制
本
券
弐
通
、
尽
未
来
際
、
所
奉
寄
進
之
状
如
件
、
嘉
暦
四
年
己 巳 三 月 十 一 日 入 寺 頼 逞 ( 花 押 ) 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家密 教 文 化 ( 27 ) 一 見 し て 、 こ れ ら 三 通 の 文 書 が ﹁ 手 継 券 文 レ で あ る こ と が わ か る 。 (ア)( イ) は 、(ウ) に 添 え ら れ た ﹁ 本 券 ( も と の 証 文 ) 弐 通 ﹂ な の で あ る 。 さ て 、 こ こ で 注 目 し た い こ と は 、 右 の 三 通 の 文 書 か ら 窺 わ れ る ﹁ 法 音 田 ﹂ な る 田 地 の 権 利 者 の 変 遷 で あ る 。 は じ め に 、 文 書 毎 に そ の 変 遷 を 追 っ て み よ う 。 (ア)。金 剛 峯 寺 領 紀 伊 国 名 手 荘 西 村 の う ち に あ っ た 田 地 一 段 ( の ち に ﹁ 法 音 田 ﹂ と 呼 ば れ る ) は 、 も と 現 生 房 の も の で あ っ た 。 大 法 師 宗 秀 の 先 師 滝 浄 房 阿 闇 梨 は 、 こ れ を 買 い 取 り 、 久 し く 無 事 に 領 知 し た 。 在 世 中 の あ る 時 、 彼 は ﹁ 年 来 ( 28) 之 弟 子 ﹂ 能 福 に こ の 地 を 充 行 っ た 。 け れ ど も 、 建 長 四 年 ( 一 二 五 二 ) 二 月 九 日 夜 の ﹁ 本 坊 ﹂ 摩 尼 珠 院 炎 上 の 際 に 、 こ の 地 の ﹁ 本 券 文 ﹂ も ま た 焼 失 し た 。 文 永 二 年 ( 一 二 六 五 ) 閏 四 月 二 十 日 、 宗 秀 は 、 先 師 の 意 向 に 従 っ て 新 た に ﹁ 宛 文 ﹂ を 作 成 し 、 改 め て こ の 地 を 能 福 に 充 行 っ た の で あ る 。 (イ)。弘 安 十 年 ( 一 二 八 七 ) 二 月 当 時 、 こ の 地 は 法 音 の も の で あ っ た 。 彼 は こ の 地 の 由 緒 に つ い て ﹁ 法 土 旦 房 先 祖 私 領 ( 29) (30) 也 ﹂ と 述 べ て い る 。 同 月 二 十 四 日 、 法 音 は 、 源 蔵 人 殿 の 嫡 子 宮 松 御 前 に 、(( ア) を 添 え て ) こ の 地 を 譲 っ た 。 (ウ)。嘉 暦 四 年 ( 一 三 二 九 ) 三 月 当 時 、 こ の 地 は 入 寺 頼 逞 の も の で あ っ た 。 彼 は こ の 地 の 由 緒 に つ い て ﹁ 頼 逞 先 祖 相 伝 ( 31)
之
私
領
也
﹂
と
述
べ
て
い
る
。
同
月
二
十
一
日
、
頼
逞
は
、
﹁
先
批
聖
霊
証
大
菩
提
、
乃
至
法
界
平
等
抜
済
﹂
の
た
め
に
、
高
野
山
御
影
( 32)堂
に
﹁
陀
羅
尼
田
﹂
と
し
て
、
(
(ア)
(イ)
を
添
え
て
)
こ
の
地
を
寄
進
し
た
。
つ
づ
い
て
、
右
に
記
し
た
﹁
法
音
田
﹂
な
る
田
地
の
権
利
者
の
変
遷
か
ら
、
頼
逞
の
生
家
を
見
つ
け
よ
う
。
注
目
す
べ
き
は
、(イ)
の
被
譲
渡
者
と(ア)
の
寄
進
者
と
の
関
係
で
あ
る
。(イ)
が(ア)
に
添
え
ら
れ
た
﹁
手
継﹂で
あ
る
こ
と
を
考
慮
す
る
な
ら
ば
、
頼
逞
が
源
蔵
人
殿
の
嫡
子
宮
松
御
前
そ
の
人
で
あ
っ
た
か
、
あ
る
い
は
、
宮
松
御
前
と
頼
逞
と
が
極
め
て
近
し
い
血
縁
関
係
に
あ
(33) っ た か 、 の ど ち ら か で あ っ た 可 能 性 が 極 め て 高 い の で あ る 。 2 頼 逞 が 源 蔵 人 殿 の 家 を そ の 生 家 と し た 可 能 性 が 極 め て 高 い こ と は 、 1 に 述 べ た と お り で あ る 。 そ れ で は 、 源 蔵 人 殿 の 家 と は 、 ど の よ う な 地 域 の ど の よ う な 家 で あ っ た の で あ ろ う か 。 以 下 、 こ の 点 に つ い て 考 察 し よ う 。 は じ め に 頼 逞 の 生 地 を 推 定 す る 。 (34)
頼
逞
が
発
行
し
た
﹁
御
影
堂
陀
羅
尼
田
寄
進
状
﹂
・
﹁
田
地
充
行
状
﹂
類
は
管
見
の
限
り
四
通
現
存
す
る
。
い
ず
れ
も
対
象
地
が
高
野
山
金
剛
峯
寺
領
紀
伊
国
那
賀
郡
名
手
荘
内
の
地
で
あ
る
こ
と
が
注
目
さ
れ
る
。
こ
の
う
ち
、
と
く
に
注
意
を
引
く
の
は
、
嘉
暦
三
年
(
一
三
二
八
)
十
二
月
と
翌
年
三
月
の
両
﹁
寄
進
状
﹂
で
あ
る
。
前
者
に
は
、
寄
進
事
由
は
﹁
為
母
儀
幽
霊
出
離
得
脱
証
大
菩
提
﹂
(傍
点
筆
者
、
以
下
同
様
)
、
対
象
地
は
﹁
在
高
野
山
御
領
名
手
庄
西
村
字
湯
屋
北
﹂
、
な
ど
と
記
さ
れ
、
後
者
(前
掲
(ウ))に
は
、
寄
進
事
由
は
﹁
為
先
批
聖
霊
証
大
菩
提
、
乃
至
法
界
平
等
抜
済
﹂
、
対
象
地
は
﹁
在
金
剛
峯
寺
御
領
紀
伊
国
那
賀
郡
名
手
庄
西
村
之
内
﹂
、
対
象
地
の
由
緒
は
﹁
頼
逞
先
祖
相
伝
之
私
領
也
﹂
、
な
ど
と
載
せ
ら
れ
て
い
る
の
で
あ
る
。
こ
れ
ら
の
こ
と
は
、
頼
逞
の
生
地
が
高
野
山
金
剛
峯
寺
領
紀
伊
国
名
(35)手
荘
西
村
で
あ
っ
た
可
能
性
が
あ
る
こ
と
を
示
し
て
い
よ
う
。
つ
づ
い
て
頼
逞
の
生
家
を
特
定
す
る
。
(36) 中 世 、 名 手 荘 内 に は ﹁ 源 蔵 人 殿 ﹂ と 呼 ば れ る 家 が 、 少 な く と も 二 つ あ っ た 。 宇 野 氏 と 名 手 氏 で あ る 。 ま ず 宇 野 氏 に つ い て 見 よ う 。名
手
荘
に
蠕
鋸
し
た
宇
野
氏
に
つ
い
て
は
、
﹃
新 訂 増 補国
史
大
系
・尊
卑
分
豚
﹄
第
三
篇
﹁
清
和
源
氏
宇
野
﹂
の
項
に
、
そ
の
系
図
が
載
っ
て い る 。 図 1 は そ の 抜 粋 で あ る ( 人 物 名 の 右 傍 の 線 ・ 左 傍 の 数 字 は 筆 者 ) 。 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家密 教 文 化
図
1
の
う
ち
、
右
傍
に
線
を
引
き
左
傍
に
数
字
を
付
し
た
人
物
が
、
同
時
代
の
史
料
上
に
登
場
す
る
。
( 37)(1)光
治
。
光
治
は
、
元
暦
元
年
(
一
一
八
四
)
六
月
の
﹁
源
頼
朝
袖
判
下
文
﹂
に
、
﹁
字
丹
生
屋
八
郎
光
治
﹂
と
み
え
る
人
物
で
あ
る
。
同
下
文
に
お
い
て
、
彼
は
、
宰
相
中
将
(
藤
原
泰
通
)
家
領
紀
伊
国
那
賀
郡
神
野
真
国
荘
を
押
妨
し
た
人
物
と
し
て
あ
ら
わ
れ
、
頼
朝
に
、
( 38 )﹁
件
光
治
、
非
指
奉
公
勲
功
者
、
暗
施
私
威
之
条
、
次
第
所
行
甚
以
不当也﹂と糾弾
さ
れ
て
い
る
。
( 39)(2)義
治
。
義
治
は
、
仁
治
二
年
(
一
二
四
一
)
七
月
の
﹁
金
剛
峯
寺
衆
徒
陳
状
案
﹂
に
、
椎
尾
山
の
﹁
地
主
義
治
入
道
﹂
と
み
え
る
人
物
(40 ) で あ る 。 椎 尾 山 は 、 名 手 荘 と 粉 河 寺 領 ( 粉 河 荘 ) 丹 生 屋 村 と の 境 界 で あ る ﹁ 水 無 河 ﹂ ( 現 在 の 名 手 川 ) の 上 流 に あ り 、 当 時 、 両 荘 の 係 争 地 で あ っ た 。 彼 は ま た 、 同 文 書 に 、 ﹁ 名 手 庄 官 ﹂ と み え る が 、 と く に 暦 仁 元 年 ( 一 二 三 八 ) 頃 か ら 丹図1
宇野氏略 系図
生
屋
村
側
に
与
し
て
金
剛
峯
寺
に
敵
対
し
た
揚
句
(な
お
彼
は
丹
生
屋
村
に
自
田
を
有
し
て
い
た
)
、
庄
官
職
を
解
か
れ
、
仁
治
二
年
七
月
ま
(41) で に 病 死 し て い る 。 (42) (43) と こ ろ で 、 義 治 の 外 祖 父 は 僧 琳 宗 な る 人 物 で あ っ た 。 彼 は 、 承 安 二 年 ( 一 一 七 二 ) 二 月 二 十 八 日 の ﹁ 粉 河 寺 牒 ﹂ に は ﹁ 当 庄 (粉 河 荘)住人﹂とみえ 、 前 掲 ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 陳状案﹂には椎 尾 山 の も と の ﹁地主﹂として あ ら わ れ て い る 。 (44)ま
た
、
建
長
三
年
(
一
二
五
一
)
二
月
十
六
日
の
義
治
の
子
朝
治
・
基
治
の
﹁
申
状
﹂
に
、
﹁
以
丹
生
屋
村
、
令
寄
附
干
粉
河
寺
候
事
者
、
( 45)朝
治
等
之
外
戚
先
祖
之
所
為
候
者
也
﹂
と
み
え
る
こ
と
か
ら
、
僧
琳
宗
は
、
丹
生
屋
村
の
開
発
領
主
丹
生
屋
氏
の
一
族
で
あ
っ
た
と
推
定
( 46) さ れ る 。(4)朝
治
。
朝
治
は
、
前
掲
﹁
金
剛
峯
寺
衆
徒
陳
状
案
﹂
に
、
義
治
の
嫡
男
で
、
﹁
名
手
庄
官
﹂
と
み
え
る
人
物
で
あ
る
。
同
文
書
に
よ
れ
ば
、
彼
も
ま
た
﹁
親
父
之
悪
行
﹂
に
与
し
て
金
剛
峯
寺
に
敵
対
し
、
庄
官
職
を
解
か
れ
た
。
そ
し
て
仁
治
元
年
七
月
当
時
は
、
丹
生
屋
村 に わ ず か に 居 住 し て い た の で あ る 。 け れ ど も 、 前 掲 ﹁ 源 朝 治 ・ 基 治 申 状 ﹂ に よ れ ば 、 建 長 三 年 ( 一 二 五 一 ) 二 月 頃 か ら 、 彼 は 、 兄 弟 の 基 治 と と も に 、 金 剛 峯 寺 と の 関 係 修 復 に 努 め て い る こ と が わ か る 。 (5) 基 治 。 基 治 は 、 前 掲 ﹁ 源 朝 治 ・ 基 治 申 状 ﹂ に 、 義 治 の 子 ﹁ 源 基 治 ﹂ と み え る 人 物 で あ る 。 ( 47) (48) (3) 宗 治 。 宗 治 は 、 弘 長 元 年 ( 一 二 六 こ 十 月 二 日 一 高 野 山 目 代 田 地 充 行 状 ﹂ 、 同 二 年 二 月 六 日 ﹁ 公 文 源 宗 治 田 地 売 券 ﹂ (49)に
、
名
手
荘
﹁
公
文
宗
治
﹂
、
﹁
源
宗
治
﹂
と
み
え
る
人
物
で
あ
る
。
弘
長
三
年
(
一
二
六
三
)
七
月
十
二
日
の
﹁
沙
弥
智
眼
書
状
案
レ
に
よ
( 50)れ
ば
、
当
時
、
彼
も
ま
た
、
名
手
荘
.
丹
生
屋
村
堺
・
用
水
柞
論
に
関
係
し
て
公
文
職
を
解
か
れ
て
い
た
。
け
れ
ど
も
文
永
八
年
(
一
二
( 51)七
こ
に
は
許
さ
れ
て
公
文
職
に
復
帰
し
て
い
る
、
( 52) (7)頼 基 、 (8)貞 治 。 正 応 四 年 ( 一 二 九 こ 十 月 十 七 日 の ﹁ 名 手 荘 官 請 文 ﹂ に よ れ ば 、 当 時 、 頼 基 は 名 手 荘 下 司 、 源 定 治 蓮 上 院 頼 遙 と そ の 生 家密
教
文
化
は
同
荘
惣
追
捕
使
で
あ
っ
た
。
な
お
、
同
文
書
に
、
沙
弥
仏
道
(
公
文
ヵ)、
刀
称
源
為
治
の
名
が
み
え
る
が
、
彼
ら
は
﹃
尊
卑
分
豚
﹄
の
宇
野
氏
系
図
に
は
載
っ
て
い
な
い
。
(53) (54)(6)仲
治
。
仲
治
の
名
は
、
正
和
四
年
(
一
三
一
五
)
頃
の
文
書
、
年
未
詳
八
月
二
日
の
﹁
源
仲
治
請
文
﹂
に
み
え
る
。
ま
た
、
﹃
尊
卑
分
豚
﹄
の
宇
野
氏
系
図
で
は
も
は
や
確
か
め
る
こ
と
が
で
き
な
い
が
、
南
北
朝
時
代
の
名
手
荘
・
丹
生
屋
村
用
水
相
論
(55)関
係
史
料
に
同
氏
と
み
ら
れ
る
人
物
が
散
見
す
る
。
貞
和
二
年
(
一
三
四
六
)
の
史
料
に
み
え
る
﹁
名
手
庄
公
文
源
蔵
人
入
道
﹂
と
至
徳
三
(56)年
(
一
三
八
六
)
の
文
書
に
み
え
る
﹁
名
手
公
文
宇
野
入
道
覚
義
﹂
と
で
あ
る
。
総
じ
て
、
名
手
荘
に
蠕
鋸
し
た
宇
野
氏
(大
和
源
氏
宇
野
氏
庶
流
)
は
、
鎌
倉
時
代
初
頭
ま
で
に
隣
荘
粉
河
寺
領
丹
生
屋
村
の
開
発
領
主
丹
生
屋
氏
と
姻
戚
関
係
を
結
び
、
ま
た
、
少
な
く
と
も
鎌
倉
時
代
中
期
か
ら
南
北
朝
時
代
末
期
に
か
け
て
、
代
々
名
手
荘
の
荘
官
職
(と
(57)く
に
公
文
職
)
を
継
承
し
た
一
族
で
あ
っ
た
。
こ
の
一
族
は
、
水
無
川
(名
手
川
)
か
ら
取
水
す
る
用
水
の
確
保
を
、
代
々
の
使
命
と
す
る
一 族 で も あ っ た の で あ る 。 ( 58)な
お
、
﹃
那
賀
町
史
﹄
本
文
編
の
永
享
四
年
(
一
四
三
二)﹁
名
手
荘
検
注
帳
﹂
類
に
つ
い
て
の
叙
述
を
参
照
す
る
な
ら
ば
、
当
時
、
こ
( 59)の
一
族
は
宇
野
殿
と
呼
ば
れ
る
殿
原
層
で
、
西
村
を
本
拠
地
と
し
た
小
領
主
的
な
存
在
で
あ
っ
た
こ
と
が
わ
か
る
。
つ
ぎ
に
名
手
氏
に
つ
い
て
見
よ
う
。
名
手
氏
は
、
当
荘
の
開
発
領
主
と
考
え
ら
れ
て
い
る
が
、
同
氏
関
係
史
料
は
極
め
て
乏
し
く
、
そ
の
初
見
は
、
建
武
四
年
(
一
三
三
七
)
( 60)二
月
三
日
の
﹁
日
根
野
盛
治
軍
忠
状
﹂
ま
で
降
る
。
同
文
書
に
は
、
﹁
紀
伊
名
手
源
蔵
人
教
治
以
下
凶
徒
等
数
百
人
、
楯
籠
日
根
庄
大
木
村
之
間
﹂
云
々
、
と
あ
っ
て
、
当
時
、
南
朝
方
に
味
方
す
る
武
士
団
で
あ
っ
た
こ
と
が
わ
か
る
。
( 61)つ
づ
い
て
登
場
す
る
の
は
、
年
月
日
未
詳
一
諸
供
領
膓
次
番
付
書
﹂
の
三
一
八
膓
の
項
に
み
え
る
一
名
手
修
理
介
信
治
﹂
で
あ
る
。
同
項
に
よ
れ
ば
、
彼
は
、
﹁
名
手
庄
内
野
上
村
字
於
検
校
田
定
田
七
斗
﹂
を
高
野
山
御
影
堂
に
﹁
陀
羅
尼
田
﹂
と
し
て
寄
進
し
て
い
る
の
で
( 62)あ
る
が
、
同
史
料
の
記
載
順
序
を
考
え
れ
ば
、
そ
の
寄
進
は
暦
応
四
年
(
一
三
四
一
)
の
閏
四
月-七
月
頃
で
あ
っ
た
と
推
定
さ
れ
る
。
( 63)南
北
朝
時
代
ま
で
の
名
手
氏
に
つ
い
て
の
明
白
な
所
見
は
、
以
上
で
尽
き
る
。
( 64)な
お
、
名
手
氏
に
つ
い
て
も
、
﹃
那
賀
町
史
﹄
本
文
編
の
永
享
四
年
﹁
名
手
荘
検
注
帳
﹂
類
に
関
す
る
叙
述
を
参
照
す
る
な
ら
ば
、
当
時
、
同
氏
は
名
手
殿
と
呼
ば
れ
る
殿
原
層
で
、
江
川
村
に
三
段
二
一
〇
歩
、
馬
宿
村
に
二
段
五
〇
歩
、
西
村
に
一
段
三
二
〇
歩
、
の
地
主
職
を
有
し
て
い
た-馬
宿
村
分
の
う
ち
一
段
二
六
〇
歩
は
作
職
を
併
有
、
な
お
、
野
上
村
分
は
不
明-こ
と
が
わ
か
る
。
同
氏
の
本
拠
地
は
明
ら
か
で
な
い
。
け
れ
ど
も
、
同
氏
が
名
手
荘
の
開
発
領
土
で
あ
っ
た
こ
と
を
考
え
れ
ば
、
中
世
前
期
の
名
手
荘
の
( 65) 中 心 的 な 村 落 で 、 か な り 古 く か ら 開 発 が 進 ん で い た 野 上 村 ・ 馬 宿 村 あ た り を 、 そ の 本 拠 地 と し て い た と 見 な す こ と も (66) で き よ う 。 小 山 靖 憲 氏 は 、 同 氏 に つ い て 、 次 の よ う に 述 べ て お ら れ る 。 ( 同 氏 ) も ま た 源 姓 で あ り 、 庄 名 を 称 す る こ と か ら 考 え て 、 こ の 地 の 開 発 領 主 で あ る と 考 え ら れ る が 、 ﹁ 治 ﹂ と い う 通 字 に よ っ て 、 宇 野 氏 と 同 族 化 し て い る よ う に も 思 え る ( 67 ) と。以
上
、
宇
野
氏
と
名
手
氏
に
つ
い
て
、
史
料
上
知
り
得
た
点
を
記
し
た
。
推
定
し
た
両
氏
の
本
拠
地
を
考
慮
す
る
な
ら
ば
、
頼
逞
は
宇
(68 )野
氏
の
出
身
で
あ
っ
た
可
能
性
が
大
き
い
の
で
は
あ
る
ま
い
か
。
蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家密 教 文 化
お
わ
り
に
以
上
、
二
節
に
わ
た
っ
て
、
蓮
上
院
頼
逞
と
そ
の
生
家
に
つ
い
て
、
冗
長
な
考
察
を
行
っ
た
。
と
こ
ろ
で
、
第
二
節
で
の
推
定
が
、
さ
(69)ほ
ど
的
は
ず
れ
で
も
な
い
こ
と
を
示
す
史
料
が
あ
る
。
次
の
﹁
賢
俊
日
記
﹂
貞
和
二
年
五
月
十
三
日
条
裏
書
で
あ
る
。
光
清
(屋
力
)
十
三
日
、
武
家
使
者
来
臨
、
富
部
周
防
守
、
申
云
、
御
家
人
品
河
三
郎
申
、
紀
伊
国
丹
生
庄
用
水
相
論
事
、
高
野
山
衆
徒
惣
仙
房
、
同
寺
領
同
国
名
手
庄
公
文
源
蔵
人
入
道
等
、
可
令
召
給
由
申
之
、
即
持
来
光
清
之
申
状
之
間
、
可
令
下
知
高
野
山
之
由
返
答
了
、
(70)頼
逞
は
、
自
分
な
り
の
仕
方
で
、
宇
野
一
族
に
課
せ
ら
れ
た
使
命
を
果
た
そ
う
と
し
て
い
た
の
で
あ
る
。
註 ( 1 ) 同 氏 ﹁ 中 世 高 野 山 教 団 の 組 織 と 伝 道 ﹂ ( ﹃ 日 本 宗 教 史 研 究 -組 織 と 伝 道 ﹄ 所 収 ) 七 七-七 八 ペ ー ジ 。 ( 2 ) 拙稿﹁高 野 山 と 膝 下 荘 園 荘 官 層 ﹂ ( ﹃ 高 野 山 史 研 究 ﹄ 創 刊号)・﹁ 南 北 朝 内 乱 期 の 領 主 と 農 民 ﹂ (﹃ 日 本 史 研 究 ﹄ 二 五 九 号 ) 四 〇 ペ ー ジ 註 ( 36 ) 。 ( 3 ) 中 世 高 野 山 の 僧 侶 の 出 自 は 、 後 世 の 伝 記 ・ 記 録 等 に 多 く 記 さ れ て い る が 、 同 時 代 の 確 か な 史 料 に よ っ て そ れ を 検 証 で き る 例 は 、 ま だ ほ と ん ど 発 見 さ れ て い な い 。 し か し な が ら 、 冒 頭 に 述 べ た 課 題 の う ち の 後 者 の 点 を よ り 具 体 的 に 解 明 す る た め に も 、 そ の 豊 か な 検 証 が 必 要 で あ る 。 な お 、 本 稿 は 、 和 多 氏 前 掲 論 文 、 な ら び に ﹃ 那 賀 町 史 ﹄ 本 文 編 第 三 、 四 章 ( 小 山 靖 憲 、 渡 辺 広 両 氏 執 筆 部 分 ) か ら 、 極 め て 多 く の こ 啓 示 を 戴 い て い る 。 記 し て 厚 く お 礼 申 し 上 げ る 次 第 で あ る 。 ( 4)﹃ 大 日 本 古 文 書 ・ 高 野 山 文 書 ﹄ 之 七 、 又 続 宝 簡 集 九 十 四 、 一 六 六 一 号-以 下 、 ﹃ 高 ﹄ 之 七 、 又 続 宝 九 四 ー 一 六 六 一 、 の よ う に 記 す ー 。 ( 5 ) 同 帳 に よ れ ば 、 次 の 第 百 十 一 代 検 校 、 一 乗 院 長 芸 の ﹁拝堂﹂は、正平 十 九 年 ( 一 三 六 四 ) 二 月 九 日 で あ っ た 。 ( 6 ) 当 該 時 期 の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 一 味 契 状 ﹂ の 史 料 的 性 格 に つ い て は 、 拙 稿 ﹁ 中 世 高 野 山 教 団 組 織 小 考 ー そ の二 南 北 朝 時 代 の 金 剛 峯 寺 衆 徒 一覧-﹂(﹃高 野 山 大 学 論 叢 ﹄ 第 十 九 巻 ) 一 〇 七-一 〇 八 ペ ー ジ 参 照 。 ( 7)﹃ 高 ﹄ 之 八 、 又 続 宝 一 二 ニ ー 一 八 八 八 。 ち な み に 、 弘 安 九 年 ( 一 二 八 六 ) 八 月 の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 契 状 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 三 、 続 宝 五 ニ ー 四 八 一 ) に 頼 逞 の 名 は み え な い 。 彼 が 同 寺 の 衆 徒 正 員 と な る の は 、 弘 安 九 年 八 月 よ り 後 の こ と と 考 え ら れ る 。 ( 8 ) 嘉 元 二 年 七 月 当 時 の 金 剛 峯 寺 衆 徒 正 員 の 階 位 順 、 階 位 別 人 数 は 次 の と お り 。 検 校 執 行 権 少 僧 都 ( 一 名 ) ← 権 律 師 ( 一 名 ) ←法 橋 上 人 位 ( 一 名 ) ←阿 闇 梨 ( 八 五 名 ) ←入 寺 ( 七 四 名 ) ←三 昧 ( 六 名 ) ←大 法 師 ( 二 四 八 名 ) 、 総 計 四 一 六 名 。 ま た 、 観 応 二 年 ( 一 三 五 一 ) 二 月 当 時 の そ れ ら は 次 の と お り 。 検 校 執 行 法 印 大 和 尚 位 ( 一 名 ) ←権 少 僧 都 法 眼 和 尚 位 ( 一 名 ) ←権 律 師 ( 一 名 ) ←法 橋 上 人 位 ( 一 名 ) ←阿 闇 梨 ( 八 六 名 ) ←入 寺 ( 七 三 名 ) ←入 昧 ( 六 名 ) ←大 法 師 ( 三 四 二 名 ) 、 総 計 五 一 一 名 。 ︹ 以 上 、 後 掲 註 ( 9 ) ( 11 ) 所 引 文 書 に よ る 。 ︺ な お 、 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 八 月 を 嗜 矢 と し て 、 当 寺 検 校 は 法 印 に 叙 せ ら れ る よ う に な っ た-同 五 年 ( 一 三 一 六 ) 十 二 月 に は 、 こ の 旨 を 載 せ た ﹁ 永 宣 旨 ﹂ が 下 さ れ た-。︹以 上 、 正 和 二 年 九 月 ﹁ 後 宇 多 法 皇 高 野 御 幸 記 ﹂ ( ﹃ 続 群 書 類 従 ﹄ 第 四 輯 上 ) 、 嘉 元 三 年 八 月 ﹁ 金 剛 峯 寺 御 影 堂 奉 納 御 物 文 書 新 定 目 録 上 ﹂ (﹃ 高 ﹄ 之 三 、 続 宝 六 ニ ー 五 一 二 ) 、 ﹁ 高 野 山 検 校 帳 ﹂ (前 掲 ) 参 照 。 ︺ ( 9)﹃ 高 ﹄ 之 三 、 続 宝 七 〇 一 八 二 〇 。 ( 10)﹁ 金 剛 峯 寺 文 書 ﹂ 乾 (東 大 影 写 本 ) 。 ( 11)﹃ 高 ﹄ 之 二 、 続 宝 二 四 一 三 一 三 。 ( 12 ) ち な み に 、 正 平 二 十 二 年 ( 一 三 六 七 ) 五 月 九 日 の ﹁ 高 野 山 衆 徒 一 味契状﹂(﹃高﹄之八 、 又 続 宝 一 二 一 -一 八 八 七 ) に 頼 逞 の 名 は み え な い 。 こ の こ と は 、 こ の 時 す で に 彼 は 同 寺 の 衆 徒 正 員 で は な く な っ て い た こ と を 示 す 。 ( 13 ) 嘉 暦 三 年 十 二 月 十 八 日 ・ 同 四 年 三 月 二 十 一 日 ・ 延 元 二 年 六 月 二 十 一 日 ﹁ 入 寺 頼 逞 御 影 堂 陀 羅 尼 田 寄 進 状 ﹂ (﹃ 高 ﹄ 之 二 、 続 宝 三 -二 三 ・ 続 宝 七 -一 七 九 ・ 続 宝 六 -二 二 八 ) 、 延 元 二 年 六 月 二 十 一 日 ﹁ 入 寺 頼 逞 田 地 充 行 状 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 四 、 又 続 宝 三 五-四 八 六 ) 。 ( 14)﹃ 高 ﹄ 之 六 、 又 続 宝 六 七-一 二 三 二 。 ( 15)﹃ 高 ﹄ 之 四 、 又 続 宝 三 一 -二 〇 六 。 ( 16)﹃ 高 ﹄ 之 一 、 宝 三 〇-四 〇 六 。 ( 17)﹁ 二 季 最 勝 講 所 談 注 文 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 八 、 又 続 宝 一 二 六 -一 九 〇 一 ) 正 平 十 四 年 ( 一 三 五 九 ) 六 月 の 項 、 お よ び 正 平 二 十 年 ( 二 二 六 五 ) 七 月 二 十 一 日 ﹁ 弘 法 大 師 筆 十 諦 律 奉 納 記 文 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 二 、 続 宝 八 -二 一 〇 ) の 記 載 に よ っ て 、 頼 逞 の 検 校 就 任 は 正 平 十 四 年 六 月 よ り 後 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家
密 教 文 化 で 、 辞 任 は 同 二 十 年 七 月 よ り 前 で あ る こ と が わ か る 。 ( 18 ) 彼 の 字 ( 仮 名 ) が 惣 仙 房 で あ っ た こ と は 、 嘉 暦 三 年 十 二 月 十 八 日 ・ 同 四 年 三 月 二 十 一 日 ﹁ 入 寺 頼 逞 御 影 堂 陀 羅 尼 田 寄 進 状 ﹂ ( 前 掲 ) に よ っ て 確 か め ら れ る 。 ( 19 ) 蓮 上 院 は 高 野 山 上 の 子 院 の 一 。 開 基 未 詳 。 当 院 の 名 は 、 和 歌 山 県 伊 都 郡 高 野 口 町 上 中 に あ る ﹁ 弘 法 寺 鐘 追 銘 ﹂ ( 坪 井 良 平 氏 著 ﹃ 日 本 古 鐘 銘 集 成 ﹄ 二 六 ・ 一 号 ) に 、 金 剛 峰 寺 蓮 上 院 鐘 ( 一 二 二 三 ) 貞 応 二 年 癸 未四 月 日 と み え る の が 早 い 。 高 野 山 宝 寿 院 の 聖 教 ﹁ 起 信 造 時 事 ﹂ 一 帖 の 奥 書 に は 、 ﹁ 文 安 五 年 二 月 十 一 日 於 高 野 山 西 院 之 内 蓮 上 院 ﹂ 云 々 と あ り ︹ 山 本 智 教 氏 ﹁ 宝 寿 院 の 聖 教 ( 第 二 部 ) ﹂ ( ﹃ 密 教 学 会 報 ﹄ 第 十 五 号 ) 二 〇 ペ ー ジ ︺ 、 文 安 五 年 ( 一 四 四 八 ) 当 時 、 当 山 西 院 谷 に あ っ た 子 院 で あ る こ と が わ か る 。 文 禄 元 年 ( 一 五 九 二 ) 十 月 ま で に 当 院 は 南 北 両 院 に 別 れ た ︹ 同 月 五 日 ﹁ 興 山 上 人 応 其 書 状 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 三 、 続 宝 五 〇 1 四 〇 〇 ) ︺ 。 慶 長 十 五 年 ( 一 六 一 〇 ) 正 月 十 六 日 の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 中 院 領 諸 供 領 目 録 ﹂ ( 総 本 山 金 剛 峯 寺 編 ﹃ 高 野 山 文 書 ﹄ 第 一 巻 ﹁ 勧 学 院 文 書 ﹂ 一 五 六 号 ) に は 、 衆 徒 方 上 通 ( A ク ラ ス ) の 子 院 と し て 、 ﹁ 南 蓮 上 院 ﹂ ・ ﹁ 北 蓮 上 院 ﹂ 両 院 の 名 が み え て い る 。 そ の 後 、 江 戸 時 代 を 通 じ て 、 両 院 い ず れ も 西 院 谷 に 存 続 し た ー な お 、 南 蓮 上 院 は 単 に 蓮 上 院 と も 、 北 蓮 上 院 は 増 長 院 と も 呼 ば れ る こ と が あ っ た ー ( 日 野 西 真 定 氏 編 著 ﹃ 高 野 山 古 絵 図 集 成 ﹄ 所 収 ﹁ 高 野 全 山 絵 図 ﹂ 類 参 照 ) 。 現 在 、 蓮 上 院 (南 蓮 上 院 ) の 名 跡 は 小 田 原 谷 の 高 室 院 が 、 増 長 院 ( 北 蓮 上 院 ) の 名 跡 は 往 生 院 谷 の 三 宝 院 が 、 そ れ ぞ れ 持 つ 。 蓮 上 院 の 本 尊 は ﹁ 帆 揚 (帆 掛 ) 不 動 尊 ﹂ ( 鎌 倉 後 期 作 ) 、 増 長 院 の 本 尊 は ﹁ 舳 の 不 動 尊 ﹂ ( 造 像 年 代 未 詳 ) で あ る 。 ( 20 ) 同 月 十 八 日 ﹁ 畠 山 国 清 下 知 状 案 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 四 、 又 続 宝 三 四 ー 三 八 九 ) 附 載 、 年 月 日 未 詳 文 書 。 ( 21)﹃ 真 言 宗 全 書 ﹄ 27 所 収 。 (22) 大 山 公 淳 師 は 、 そ の 著 ﹃ 新 訂 高 野 山 学 修 灌 頂 並 に 勧 学 会 記 ﹄ 三 ペ ー ジ に お い て 、 こ の 記 録 が 現 存 す る 旨 を 述 べ ら れ て い る (筆 者 未 見 ) 。 大 山 師 に よ る と 、 こ の 記 録 は 、 ﹁ 蓮 上 院 伝 法 灌 頂 目 録 ﹂ ( 一 巻 ) と 呼 ば れ る も の で 、 康 永 四 年 ( 一 三 四 五 ) に 、 ﹁ 蓮 上 院 に お い て 玄 海 法 印 が 頼 逞 阿 闇 梨 の た め に 伝 法 灌 頂 を 授 け ら れ た 。 そ の 時 の 記 録 で 玄 海 法 印 七 十 九 歳 の と き と さ れ る ﹂ と い う 。 こ の 点 、 甲 田 宥 件 氏 の ご 教 示 に よ る 。 記 し て 厚 く お 礼 申 し 上 げ た い 。 ( 23 ) 高 野 八 傑 の 一 人 と し て 著 名 な 宝 性 院 玄 海 に つ い て は 、 さ し あ た り 、 年 月 日 未 詳 ﹁ 宝 性 院 玄 海 法 印 伝 写 ﹂
( ﹃ 高 ﹄ 之 五 、 又 続 宝 四 一 -七 二 一 ) を 参 照 の こ と ー こ の 写 の 筆 者 宥 信 が 高 野 山 如 意 輪 寺 行 厳 房 宥 信 で あ る な ら ば 、 こ の 史 料 の 成 立 年 代 は 南 北 朝 時 代 末 期-室 町 時 代 初 期 と な る 。 ち な み に 、 如 意 輪 寺 宥 信 は 、 応 永 三 十 一 年 ( 一 四 二 四 ) 正 月 十 九 日 の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 一 味 起 請 契 状 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 二 、 続 宝 二 五 -三 一 四 ) に 阿 闇 梨 位 第 一 〇 繭 と し て 、 ﹁ 高 野 山 検 校 帳 ﹂ (前 掲 ) に 第 百 三 十 八 代 検 校 と し て 、 そ の 名 の み え る 僧 で あ る 。 こ の 写 で 玄 海 は 和 泉 国 大 鳥 郡 の (御 家 人 ) 高 志 氏 の 出 身 と い わ れ て い る 。 な お 、 玄 海 は 、 弘 安 九 年 ( 一 二 八 六 ) 八 月 の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 契 状 ﹂ (前 掲 ) に は 大 法 師 位 の 僧 と し て 、 貞 和 二 年 ( 一 三 四 六 ) 六 月 十 日 の ﹁ 同 寺 衆 徒 一 味 契 状 ﹂ ( ﹁ 勧 学 院 文 書 ﹂ 、 東 大 影 写 本 ) に は 阿 閣 梨 位 第 三 繭 と し て 、 そ の 名 が み え て い る 。 ま た 、 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 九 月 の ﹁ 後 宇 多 法 皇 高 野 御 幸 記 ﹂ (前 掲 ) に は 、 ( 正 和 二 年 八 月 ) 自 十 二 日 至 十 四 日 、 限 三 箇 日 、 点 未 刻 、 於 蓮 華 乗 院 会 堂 、 有 即 身 義 御 講 談 、 兼 堂 内 西 方 飾 御 座 、 上 皇 御 簾 内 ニ シ テ 有 御 聴 聞 、 大 衆 各 立 庭 上 、 初 日 講 談 、 宝 性 院 真 乗 房 玄 海 、 論 議 六 識 発 心 八 識 発 心 歎 課 也 、 ( 傍 点 筆 者 ) と あ り 、 康 永 四 年 ( 一 三 四 五 ) 正 月 二 十 一 日 の ﹁僧 道 戒 弘 法 大 師 筆 梵 網 経 寄 進 状 ﹂ ( ﹃ 高 ﹄ 之 二 、 続 宝 九-二 三 三 ) に は 、 ﹁ 左 学 頭 権 大 僧 都 玄 海 ﹂ と み え る 。 ( 24)﹃高 ﹄ 之 二 、 続 宝 五 -七 五 。 ( 25)﹃ 高 ﹂ 之 四 、 又 続 宝 三 五 -四 四 六 。 ( 26 ) 前 掲 註 ( 13 ) 所 引 文 書 。 ( 27)﹁ 手 継 券 文 ﹂ に つ い て は 、 佐 藤 進 一 氏 著 ﹃ 古 文 書 学 入 門 ﹄ 二 〇 ペ ー ジ 参 照 。 ( 28 ) 摩 尼 珠 院 。 文 明 五 年 ( 一 四 七 三 ) 二 月 二 十 八 日 の ﹁高 野 山 諸 院家帳﹂(日野西 氏 前 掲 書 一 七-二 三 ペ ー ジ 所 収 ) の ﹁ 千 手 院 ﹂ の 項 に 、 ﹁ 摩 尼 珠 院 真 我 建 立 ﹂ と あ り 、 当 時 、 当 山 千 手 院 谷 に あ っ た 子 院 で あ る こ と が わ か る が 、 正 保 三 年 ( 一 六 四 六 ) 三 月 の ﹁ 高 野 山 絵 図 之 帳 ﹂ (同 氏 前 掲 書 七 〇-八 九 ペ ー ジ 所 載 ) に は 、 も は や そ の 名 は み え な い 。 ( 29 ) 嫡 子 。 家 督 相 続 者 の こ と 。 ( 30 ) 御 前 。 ﹁ 人 を 表 わ す 名 詞 に 付 け て 、 そ の 人 に 対 す る 尊 敬 の 意 を 添 え る 。 男 女 い ず れ に も 用 い た ﹂ (﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ ) 。 ( 31 ) 頼 遅 の 母 の 死 去 は 、 嘉 暦 三 年 ( 一 三 二 八 ) 十 二 月 十 八 日 以 前 (前 掲 同 日 ﹁ 入 寺 頼 逞 御 影 堂 陀 羅 尼 田 寄 進 状 ﹂ ) 。 ( 32 ) 年 月 日 未 詳 ﹁ 諸 供 領 蕩 次 番 付 書 ﹂ (﹃ 高 ﹄ 之 八 、 又 続 宝 一 三 七 -一 九 三 〇 ) に お い て 、 こ の 地 は 二 一 六 繭 に 配 さ れ 、 当 該 繭 次 の 筒 所 に は 、 ﹁ 名 手 庄 西 村 内 法 音 田 蓮 上 院 頼 逞 と そ の 生 家