216 (1) 『熊本県立大学大学院文学研究科論集』 12号.2019.9.30 序
山田
﹃元始天尊説生天得道経﹂と﹁佛道圏文碑﹂﹁雹習墓瞳﹂
ー宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー
﹃道蔵﹄﹁洞慎部・本文類﹂に収録される﹃元始天尊説生天得道経﹄︵以下﹃生天得道経﹄と略す︶は唐代撰と目される短篇 の道典である。北宋初期の石刻資料﹁佛道圏文碑﹂が本経を引用し、清・牛誠修編﹃定襄金石孜﹄が収録する金・承安五 年 ( ︱ 二 0 0 ) の石刻資料﹁霧習墓瞳﹂が冒頭で﹁元始天尊説生天得道経﹂に言及していることから、九0
0
年代後期の北宋、 ︱ 二0
0
年代の金朝に於いて本経が受け入れられていたことが確認される。本論は、こうした﹃生天得道経﹄に対する基 礎的考察を行い、併せて宋金元三朝道教の地域性と歴史性に就いて考察するものである。 一 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ ( -︶ 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹂ の 内 容 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹂ は 、 ﹃ 道 蔵 ﹄ 本 の 他 に 、 ﹃ 道 蔵 輯 要 ﹄ 本 、 柳 守 元 ﹃ 道 門 功 課 ﹄ ﹁ 晩 壇 切 課 ﹂ 所 収 経 文 ︵ ﹃ 道 蔵 輯 要 ﹂ 所 収 ︶ 、 ﹃ 太俊
「元始天尊説生天得道経」と「佛道圏文碑」「雹習墓幡」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題一 (2) 215 上玄門晩壇功課経﹂﹁太上玄門晩壇功課﹂所収経文︵﹃道蔵輯要﹂所収︶、超然子﹃生天経頌解﹄ の 経 文 部 分 ︵ ﹃ 道 蔵 ﹄ 所 収 ︶ 等 一方、﹁佛道圏文碑﹂が引く経文と伝世テクストとの間には少なからざる文字上の 違いが確認される。 先ず、﹁道蔵﹄本に基づいて、簡単に﹃生天得道経﹄の内容を見ておこう。﹃生天得道経﹄はその冒頭で、元始天尊が大 お さ ひ ら あ き ら 羅天玉京山で諸天仙衆のために﹁身心を略め啓き︵略啓身心︶﹂、﹁道要を明かに宣べ︵明宣道要︶﹂ることで、十方の得道神 仙 は ﹁ 微 奥 ﹂ を 得 た と す る ︵ ﹃ 生 天 得 道 経 ﹂ O l a / 0 6 ) 。大羅天玉京山の語、衆生のために当該経典の秘奥が説き明かされると いう書き出し等は、何れも六朝ー唐の道典に多く見られる常套表現である。 その﹁微奥﹂とは、 一切の有為を超える渡し場であり、真理への路を明らかにすることだ。こう した真理を体得すれば、本経を受持することが可能となり、様々な迷いの原因を退け、永遠に執着を断つことが出来 るのだ。こうして、︵迷いの原因となる︶雑念が外界から入ることはなくなり、意識が内面から外界へと出て行くこ ともなくなる。この様な正念の状態では、五臓はさっぱりとし、六腑は整い安定し、三百六十の骨節の様々な滞り、 十悪の行い、百八十の煩悩の行い、多くの苦悩を生み出す罪の源などが全てきれいに取り除かれるのだ﹂︵善男子善女人、 依 憑 齋 戒 、 作 是 津 梁 一 切 有 為 、 顕 諸 箕 路 。 罷 此 法 相 、 乃 可 受 持 、 能 屏 衆 縁 、 永 除 染 著 。 外 想 不 入 、 内 想 不 出 。 於 正 念 中 、 皆 得 五 臓 清 涼 、 六 腑 調 泰 、 三 百 六 十 骨 節 之 間 、 有 諸 滞 凝 、 十 悪 之 業 、 百 八 十 煩 悩 之 業 、 衆 苦 罪 源 、 悉 皆 除 蕩 ︶ ︵ ﹃ 同 ﹂ O l b / 0 1 ) ﹁齋戒﹂を修めることは﹁一切有為﹂を超える﹁津梁﹂であり、真理への﹁路﹂を明らかに開くことでもある。こうした し ん り ま よ い の げ ん い ん し ゅ う ち ゃ く ﹁法相﹂を体得することで、本経を伝授されることが許され、その教えに基づくことで様々な﹁縁﹂を退け、﹁染著﹂を永 遠に取り除くことが可能となる。こうして、﹁外想は入らず、内想は出ず﹂と言われる﹁正念﹂の境地に到り、この﹁正念﹂ ﹁善男子善女人よ、斎戒を行うことは、 が有り、何れも文字上の違いは無い。
214(3) の維持によって、五臓六腑は健康裡に調い、身体的苦痛と﹁十悪の業、百八十煩悩の業、衆苦の罪源﹂等の心の迷いの双 とを内観する。道は明らかに輝いているが、それはかすかであり、 O l b / 0 6 ) 天尊が﹃生天得道経﹄ 一 切 が 無 で 、 ﹁そこで、太和の真困を導いて身の丹田や五臓六腑に注いで潤し、心目によって真困が清らかな耀きを放っているこ た だ ほのかに暗い。正しく無為に到達 し、時間を超越し、清らかな意識を常に維持することで、修道者は悟得するのである。ここに至ると道の力が助け支 し ん り え、法の薬が助けるが、更に飲食を節制すれば、鬼戸を駆除し、六根を静かに安寧とさせ、八識を清らかに照らし 出し、五蘊が実は空であると悟り、三元を奥深く悟り、得道成真を完成して、自然と飛昇得度するのだ﹂︵即引太和員 柔、注潤身田・五臓六腑、心目内観、奨柔所有、清静光明。虚白朗耀、杏杏冥冥、内外無事、昏昏黙黙。正達無為、古今常存、穂持浮 念、従翠解悟。道力資扶、法葉相助、伯節飲食、騒遣鬼 P 、安寂六根、浮照八識、空其五蓋、證妙三元、得道成奨、自然昇度︶︵﹃同﹄ この段階で次に具体的に修めるべきは、﹁太和慎柔﹂を導いて身体の丹田と五臓六腑に導き潤し、﹁心目﹂に依ってその口県孟﹂ が﹁清静﹂な光を放っていることを﹁内観﹂することである。明暗・有無を超越した﹁道﹂の様を理解することで、修道 者は﹁浮念﹂のみを維持し悟得する。この﹁浮念﹂は先に見た﹁正念﹂に相当しよう。この境地に到達すると、﹁道力﹂﹁法 葉﹂が常に修道者を助け、加えて﹁飲食を節﹂することで﹁鬼戸﹂を駆除し、﹁六根﹂を安寧させ、﹁八識﹂を迷いの無い ものとして照らし出し、﹁五蘊﹂の全てを空と観じ、﹁三元﹂を悟り、﹁得道成員﹂を完成することになる。こうして元始 の教えを説き終えると、﹁諸天仙衆﹂は、この様な﹁大乗経典﹂に出会うことが出来、自身の﹁道 果が圃明﹂となったことへの謝辞を述べ、﹁傷﹂を説いて、その無為の境地を表明して本経は終わる︵﹃同﹄ 0 2 a / 0 2 -) 0 一巻という短い経典でありながら首尾の体裁が整い、仏教の空思想の影響を受け、外界との関わりを断つことで内面を 方が全て解消されるのである。
『元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑」「霜習墓帷」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題一 (4)213 維持する事が重視され、心身両面の得道、内観、﹁鬼戸﹂の駆除などが言われる等、六朝\唐の道教思想で議論された内 容を含んでおり、先行研究が本経を唐代の撰と見倣すのは一先ずは妥当な見解と思われる。 ( 1 ) 、誦経対象としての﹃生天得道経﹄ 本経を唐代頃の撰と見倣す従来の見解が妥当であろうことを確認したのだが、しかし、唐代道教の様々な類書、北宋・ 真宗の天蒻年間 ( 1 0 一 七
s
I 0 1 ︱-︶に編集された﹃雲笈七簸﹄等には本経への言及は見られず、撰述直後に歓迎された 後世の道教文献が本経に言及する場合には二種の事例が窺える。 ︱つは、科儀等に於ける誦経の対象である。北宋末\ 南宋初に畜全箕・王契慎が整理したとされる﹃上清霊賓大法﹄は﹁一請道士看誦﹂として﹁太上洞玄霊賓元量度人上品妙 経若干巻、太上洞玄震賓九天自然生神章経若干巻、太上洞玄霊賓九慎妙戒金録度命妙経若干巻、太上霊賓天尊説救苦妙経 若 干 巻 、 太 上 元 始 天 尊 説 生 天 得 道 経 若 干 巻 ﹂ ︵ ﹃ 上 清 震 賓 大 法 ﹄ 6 6 / l l b / 0 9 ) 等の経典を列挙し、﹁已上の功徳、並びに用いて資薦し、 六 道 四 生 、 孤 魂 滞 暁 、 各 の 苦 を 離 れ 、 同 じ く 生 成 を 遂 げ る ︵ 已 上 功 徳 、 並 用 資 薦 、 六 道 四 生 、 孤 魂 滞 暁 、 各 離 苦 、 同 遂 生 成 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 6 6 / 1 2 b / 1 0 ) と、これら諸経を読誦することで死者の魂が救済されると述べる。同様の事例は、南宋\元初に審全員・林霊 箕等が整理した﹃霊賓領教清度金書﹄ ( 3 0 8 / 2 0 a / 0 6 ) 、南宋・呂元素が集成し胡湘龍が編校した﹃道門定制﹄ ( 0 5 / 0 7 b / 0 3 ) 、南 宋十三世紀頃の整理とされる蒋叔輿﹃元上黄録大齋立成儀﹄ ( 1 2 / 0 2 b / 0 3 ) 等でも誦経対象の経典の一っに﹃生天得道経﹄を 挙げている。こうした状況は明朝十四世紀頃の撰とされる宋宗演﹃大明玄教立成齋酷儀範﹄ ( O l b / 0 3 ) でも同様であり、現 代の道観での﹁晩課﹂で唱えられる経典に﹃生天得道経﹄が含まれるに至る。要するに、本経は短篇であるが故に読誦が 痕跡は窺えない。 ( ︱ -︶ 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ の受容に就いて212 (5) 容易であり、科儀に於ける幾つかの道典と共に誦経の対象とされていたのである。本論後段で見る﹁佛道圏文碑﹂は、そ の碑陰に﹁陰符経、太上老君常清騨経、太上昇元消宍護命経、太上天尊説生天得道経﹂等を併せて刻しており、これも又 同様の背景を持つものであろう。更に言えば、﹁佛道圏文碑﹂の状況が特殊事情とは考えにくいことから、﹃生天得道経﹄ が幾つかの道典と共に読誦されることは、遅くとも北宋初期までには広く行われていたと考えられる。 た全真教道士とされ、﹃頌解﹄ 超然子王吉昌﹃生天経頌解﹄︵﹃道蔵﹄所収。以下﹃頌解﹄と略す︶は本経の唯一の注釈である。王吉昌は金末元初に活動し は十三世紀前半の撰と見倣されている。﹃頌解﹄は﹃生天得道経﹄の各旬に﹁頌﹂の形式で 注釈を付け、その立場は煉丹︵内丹︶を主とする。例えば、経文﹁明開道要﹂に対して﹁道要は玄微にして有無に非ず、 無中に有形の躯を生就す。有中に無形の罷を錬出し、自在に逍遥して物外に居る︵道要玄微非有無、無中生就有形躯。有中錬 出 無 形 罷 、 自 在 逍 遥 物 外 居 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 頌 解 ﹄ 02 芝 0 2 ) と、有無を超越した﹁道要﹂の立場から﹁無形の罷﹂を﹁錬出﹂することで、﹁物外﹂ に﹁逍遥﹂する境地を目指すと解釈し、又、﹁外想不入、内想不出﹂に対して﹁六門は長く閉ざされ緊<牢開し、三戸を ほ し い ま ま ゆ る す して恣に往還するを縦ことなし。︱一物は調和し賓鼎に収められ、一條の銀は毘山より焔出す︵六門長閉緊牢闊、莫縦三戸恣往還。 二 物 調 和 収 賓 鼎 、 一 條 銀 焙 出 貞 山 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 03 芝 0 3 ) と、﹁外想不入﹂を﹁六門﹂を堅く閉ざすことで﹁三戸﹂を身体の内外を自 由に往来させないことと解釈し、﹁内想不出﹂を﹁二物﹂即ち陰陽を﹁調和﹂させて体内の﹁賓鼎﹂に収めるという煉丹 の完成と解釈する。又、﹁乃得五臓清涼、六腑調泰﹂に対して﹁青龍は火裏に寒霧を噴き、白虎は澤中に赤煙を吐く︵青 龍 火 裏 噴 寒 霧 、 白 虎 澤 中 吐 赤 煙 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 0 3 a / 0 7 ) と、﹁青龍・白虎﹂による丹の錬成と解釈し、﹁百八十煩悩之業﹂を解消した 二つ目は、本経の内容が注目された事例である。 ( 2 ) 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ の内容に就いて
『元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑」「霧習墓帷」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題一 (6)211 境地を﹁極陽無相の罷を錬就し、自然と煩悩は相干せず︵錬就極陽無相證、自然煩悩不相干︶﹂︵﹃同﹄ 0 3 b / 0 3 ) と、﹁煩樅﹂から 自由となった﹁極陽﹂即ち純陽の﹁無相腫﹂の錬成と解釈する。そして﹁得道成慎自然昇度﹂という最終境地を﹁金丹は 煉就され長生を保ち、玉性は玲瀧として萬法は空なり︵金丹煉就保長生、玉性玲瀧萬法空︶﹂︵﹃同﹄ 05 芝 0 8) と﹁金丹﹂の完成 による﹁長生﹂の達成と、﹁萬法が空﹂であることの得悟と解釈する。﹃頌解﹄は 完成による﹁長生﹂の達成と﹁萬法空﹂の得悟を説く経典として解釈するのであり、全真教徒がその教理に即して読み込 んだ一例と言えよう。 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ 南宋の鄭思肖︵︱二四一ーニニ︱八︶﹃太極祭錬内法﹄︵﹃道蔵﹂所収︶の﹁序﹂は次の様に述べる。 の内容を一貰して内丹の 太極祭錬内法とは、葛仙公の祭鬼の法である。人が死ぬと魂が上昇し睫が下降するのが正常な在り方である。変則的 な場合、魂塊の上昇下降が不可能となり、昏冥の中に堕ち沈み、飢渇に対する欲望、暗闇に対する意識などが絶えず、 果てしなく暗い夜から救われることは永遠に無い。葛仙公はこれらを憐れみ、その教えの中に祭煉の道を用意した。 ﹁祭﹂とは飲食を設けて飢渇を救うことである。﹁錬﹂とは︵祭鬼の法を行う者の︶精神によってその暗黒を切り開い てやることだ。こうして、暗黒世界に堕ちた者達は、氷が溶ける様にその迷いから解消され、本来の在り方に復帰する、 こ の 様 に こ の 法 は 偉 大 な の だ ︵ 太 極 祭 錬 内 法 者 、 葛 仙 公 祭 鬼 之 法 也 。 人 死 魂 升 而 晩 降 、 是 其 常 也 。 其 嬰 也 、 則 有 魂 魂 不 能 升 降 、 而 淮 滞 於 昏 冥 之 中 、 其 飢 渇 之 慾 、 幽 暗 之 識 、 茫 茫 長 夜 、 元 有 已 時 。 是 以 仙 翁 憫 之 、 在 法 中 有 祭 煉 之 道 。 所 謂 祭 者 設 飲 食 以 破 其 飢 渇 也 。 所 謂 錬 者 以 精 神 而 開 其 幽 暗 也 。 至 使 浦 滞 之 徒 、 繹 然 如 沐 消 凍 解 、 以 復 其 本 慎 、 則 其 法 大 突 ︶ ︵ ﹃ 太 極 祭 錬 内 法 ﹂ 序 [ 0 3 b / 0 4 ) ﹁魃仙公﹂が創設した﹁太極祭錬内法﹂とは﹁祭鬼の法﹂であり、死後の魂睫が分かれてそれぞれ天に昇り地に下ること が出来ず、初復い苦しむものを救済する方法とされる。具体的には﹁設飲食﹂によって﹁飢渇﹂から救い、﹁精神﹂によ って﹁幽暗﹂から救うとされる。この﹁祭錬内法﹂の実施に在っては、﹁我の祭錬、専ら深静の域を主とす︵我之祭錬、専
210(7) 主 於 深 静 之 域 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 下 / 1 2 a / 0 2 ) と﹁深静﹂なる場所を必要とし、﹁祭錬の時、 一 小 孟 水 ⋮ ⋮ ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 下 [ 1 2 b 忌︶と﹁静室﹂に於いて﹁孟飯﹂等を 孟 水 を 置 き ⋮ ⋮ ︵ 祭 錬 時 、 闘 一 静 室 、 置 一 浮 几 、 小 小 一 孟 飯 、 設置し、﹁方に静かに打坐すること一更許り、乃ち行持作用し、純に是れ我が一圃の精神を以て、幽冥を祭錬す。登に獨 り鬼神の清われるを得るのみならんや、我の精神も亦た齢然と清爽たり︵方静打坐一更許、乃行持作用、純是以我一園精神、祭 錬 幽 冥 。 登 獨 鬼 神 得 清 、 我 之 精 神 亦 黙 然 清 爽 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 下 [ 1 2 b / 0 6 ) と、﹁打坐﹂して自身の﹁精神﹂を用いて﹁幽冥を祭錬﹂する ことで、﹁鬼神﹂が救われるだけではなく、自身の﹁精神﹂を﹁齢然清爽﹂とすることが出来るとされる。従って、﹁祭錬﹂ の遂行と自身の﹁精神﹂の安定とは密接に対応していることになる。それに関しては、﹁凡そ太上の一切経、 な人身中の至妙の造化を説く。今人、盪な言語を作して之を誦う、惜しいかな。静坐の得る所、生天得道経の所説と同旨 な り ︵ 凡 太 上 一 切 経 、 一 切 呪 、 皆 説 人 身 中 至 妙 造 化 。 今 人 霊 作 言 語 誦 之 、 惜 哉 。 静 坐 所 得 、 輿 生 天 得 道 経 所 説 同 旨 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹂ 下 [ 1 5 a / 0 6 ) と 、 ﹁ 太 上﹂が説く一切の教えは、その文字表記に捉われるのではなく、修道者の﹁人身中﹂に於ける﹁至妙の造化﹂であると理 解しなければならない。即ち、修道者側の身体の在り方がこれらの教えでは説かれており、そのあるべき在り方は﹁静坐﹂ をすることで獲得され、それは﹁生天得道経﹂が説くものと同主旨とされている。そして、 一切呪、皆 細かく丁寧に、念じながら無念であり、一心が不動であれば、その百脈は根源へと立ち戻る。自然と火が降り水が昇り、 煕は定まり神は清らかとなり、泰宇は発光し、虚室は白を生じる。上は天界に徹し、下は地獄を打破し、空空洞洞と、 その光明は無限である。︵祭鬼の法を︶勤めて怠らなく、長く維持し続ければ、鬼神の境界の様も完全に見聞するこ さ ま か な め とが出来よう。飲食によって冥界の魂を救済することと錬成によって生まれ変わることの様を見るに、それらの要が 我が心目に在ることは明らかなのである。これが通冥の法なのだ︵綿綿密密、念而無念、一心不動、百詠蹄源。自然火降水升、 孟 定 神 清 、 泰 宇 登 光 、 虚 室 生 白 。 上 透 天 界 、 下 破 地 獄 、 空 空 洞 洞 、 光 明 無 邊 。 勤 而 無 間 、 久 而 不 替 、 鬼 神 境 界 、 洞 視 徹 聞 。 見 其 飲 食 得 ひら 一 静 室 を 闘 き 、 一浮几、小小一孟飯、 小
『元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑J「霧習墓瞳」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題一 胃塞死戸﹂に対する注釈で以下の様に述べる。 清 之 情 、 輿 夫 受 錬 更 生 之 状 、 瞭 然 在 吾 心 目 間 。 此 通 冥 之 法 也 ︶ ︵ ﹃ 同 ﹄ 下 / 1 5 b / O ! ) と、この在り方が達成されることは、﹁無念﹂﹁一心不動﹂であると同時に、﹁火降水升﹂と内丹が完成することを意味し、 ものであろう。このことで、天界、修道者、地獄は一貫することになり、これが魂醜の救済が﹁吾心目間﹂に在るという﹁通 冥之法﹂とされている。﹃生天得道経﹄自体には﹁静坐﹂の語は見られないが、﹁屏衆縁、永除染著、外想不入、内想不出、 於正念中、皆得五臓清涼、六腑調泰﹂等の句を﹁静坐﹂を意味するものと解釈した上で、鄭思肖が言う﹁太極祭錬内法﹂ 清 霊 賓 大 法 ﹄ の説明に導入したと言えよう。﹁太極祭錬内法﹂が﹁祭鬼﹂のために﹃生天得道経﹂を重視していたことは、上述した﹃上 ( 8 ) の冥魂救済と共通するものである。南宋の﹃生天得道経﹄を巡る共通認識であったと言うことが出来る。 撰者自身による至大三年(-三 0 九︶の﹁進経表﹂が附された、元・衛旗註﹃玉清元極穂慎文昌大洞仙経﹄は、経文の﹁守 胃を守り死戸を塞ぐ[死戸とは、そこからの侵入を恐れる部位である o 精煕は物となりヽ遊魂は変じヽ変じれば化し てしまう。こうなると、どうして再生することが有ろうか。離れたものが再び︱つになることはなく、慎まねばなら ない。谷童が胃院を守り、死戸を遮り塞ぐと、飲食は既に消え、人の道に生まれ変わるのだ。﹁得道経﹂は﹁飲食を 節 制 し 、
P
鬼を駆除する⋮⋮﹂と言う]︵守胃塞死戸[匹門人所憫入也 o 精 柔 為 物 ヽ 遊 魂 為 繹 竺 諏 萄 則 化 突 o 安 能 復 生 o 離 者 不 可 復 合 、 可 不 憧 欺 。 谷 童 守 胃 院 、 過 塞 死 戸 、 飲 食 既 消 、 則 人 道 生 突 。 得 道 経 云 、 伯 節 飲 食 、 祇 遣 P 鬼 、 云 云 ] ) ︵ ﹃ 韮 清 元 極 穂 慎 文 昌 大 洞 仙 経 ﹄ 0 7 / 2 5 a / 0 9 ) ﹁飲食﹂を節制することが﹁死戸を塞ぐ﹂という養生の要であるとして﹁得道経﹂を引き、﹃生天得道経﹄ 釉遣戸鬼﹂の句に着目している。又、﹁太清八景観﹂に対する注釈では、 その様が﹁泰宇登光、虚室生白﹂と描写されている。これは﹃生天得道経﹄ の ﹁ 伯 節 飲 食 、 の﹁清静光明、虚白朗耀﹂の旬が意識された (8) 209208 (9) 太清八景観[妙行観門とは︵観の字は全て去声である)三玩”八景を内観することだ o 太清は下丹田のことである o ﹃ 生 天経﹄は﹁即ち太和の真煕を導き、丹田に注ぐ﹂と言う、 いると思われる。衛瑣は﹃生天得道経﹄ 元代頃の撰述と推測される ︱ ︱ 一 部 八 景 は 心 目 に 在 る ] ︵ 太 清 八 景 観 [ 妙 行 観 門 ヽ 皆 去 繋 o 内 観 三 部 八 景 也 。 太 清 下 田 是 也 。 生 天 経 云 、 即 引 太 和 奨 柔 、 注 想 丹 田 、 一 孟 一 部 八 景 則 在 心 目 ] ) ︵ ﹃ 同 ﹄ 0 9 / 1 3 a / 0 5) と言い、﹁下田﹂にある﹁太清﹂を﹁内観﹂することに関して﹁生天経﹂の﹁即引太和慎忠、注想丹田﹂の句を引く。引 用文中には含まれていないが、﹁︱︱一部八景、則在心目﹂という表現から﹃生天得道経﹄ の養生の面に注目していると言えよう。 の﹁心目内観﹂の句も意識されて ﹃霊賓五経提綱﹄は、﹁洞玄霊賓九天生神章経、太上老君説常清静妙経、麻上玉皇心印妙経、 太上洞玄救苦抜罪妙経、太上生天得道箕経﹂等を読誦することの意義と、個々の経典の内容について概説している。﹃生 ﹁太上生天得道箕経﹂は、元始天尊が一切天人のために明らかに示した修行の近道である。道の奥妙を伝えるのは有 言に始まり無言に終わり、天福を修めるのは有為に始まり無為に終わるのだ。この経典は、頓・漸の二つの門を開き、 始・終の理の全てが述べられており、誠に得道への手段であり、昇天への梯子なのだ︵仰惟太上生天得道慎経、乃元始天 尊 為 一 切 天 人 顕 示 修 行 之 捷 径 也 。 夫 偉 道 妙 者 、 始 於 有 言 、 終 於 無 言 、 修 天 福 者 、 始 於 有 為 、 終 於 無 焉 。 若 此 経 者 、 頓 漸 之 門 雙 啓 、 始 終 之 理 畢 陳 、 賓 得 道 之 答 蹄 、 昇 天 之 梯 級 也 ︶ ︵ ﹃ 霊 賓 五 経 提 綱 ﹄ 0 0 0 b / 0 2 ) と、本経を﹁修行之捷裡﹂とし、﹁有為﹂に始まり﹁無為﹂に終わる教であり、﹁頓漸之門﹂﹁始終之理﹂の全てが明かさ れているとする。﹁有為・無為﹂の表現は、﹃生天得道経﹄が﹁飲食﹂の節制を説くことから始まり、最終的に空無の境地 の得悟を述べることを指すものであろう。こうした理解を踏まえて、﹃生天得道経﹄ るに、用力工夫に、凡そ六節入道の初有り︵推尋経意、用力工夫、凡有六節入道之初︶﹂︵﹃同﹄ 0 8 b / 0 8 ) と、﹁入道之初﹂には六 天得道経﹄に就いては、 の内容全体に就いて﹁経意を推尋す
「元始天尊説生天得道経」と「佛道圏文碑」「雹習墓帷」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題-(10)207 種の段階が有るとする。﹁齋戒﹂、﹁廣建福田、精修妙行﹂による﹁衆縁﹂からの解放、﹁内想不出、外想不入﹂という﹁正 念﹂に拠って﹁煩悩業障﹂を取り除く、﹁真柔﹂を養い﹁太和﹂を充実させる、﹁飲食﹂の節制に拠って﹁慎元﹂を養い﹁鬼 戸﹂を駆除し﹁嗜慾﹂を断つ、﹁六根﹂を清め﹁五蘊﹂を空とし﹁虚妙﹂の境地に至る、の六種である。本経の内容をこ の様な具体的な修養の段階を示すものと理解した上で、 この六を信じて実践出来るならば、心は集中し形は解放され、骨肉は一っとなり、太虚へと至り、万物の変化を自在 に見ることが可能となる。その後、道の本体の完全さと真心の不可思議さを目にする。有為に始まり無為に終わる、 ここに至って自然と無言の裡に知ることになるのだ︵信能行此六者、則心凝形繹、骨肉都融、可以遊行太虚、縦観萬化。然後 見 道 骰 之 全 、 慎 心 之 妙 。 始 於 有 為 而 終 於 無 為 、 至 此 而 自 然 黙 識 也 ︶ ︵ ﹃ 同 ﹄ 0 8 b / 0 8 ) と、この過程を経ることで、﹁心骨﹂が一体と化し、﹁太虚﹂の境地へと至り、万物の変化を知り尽くすことが出来る。そ して、﹁道橙之全、慎心之妙﹂を得悟し、﹁無為﹂へと至るとされている。﹃霊賓五経提綱﹄は﹃生天得道経﹂ 確且つコンパクトに整理したものと言えよう。 ﹃ 北 斗 本 命 延 生 経 ﹂ の全体を正 の注釈の一っ玄元慎人註﹃太上玄霊北斗本命延生慎経註解﹄は、その撰述時期に定論が無く、南宋 以降、或は元・明の間の撰述等と推測されている。本注は﹁虔誠猷種、種種香花、時新五果⋮⋮念此大聖北斗七元箕君名琥、 嘗得罪業消除、災衰洗蕩、福壽資命、善果辣身﹂︵﹃太上玄霊北斗本命延生慎経註解﹄上 / 1 9 b / 0 1 ) の注文に於いて、衆生の賢愚 の差異は明確に区別されており、そのために﹁太上﹂の教えは﹁賢者をして善に進めしめ、愚者をして其の悪を戒めしむ、 是 を 以 て 方 便 も て 機 に 随 い て 教 化 す ︵ 伸 賢 者 進 於 善 、 使 愚 者 戒 其 悪 、 是 以 方 便 随 機 教 化 ︶ ﹂ ︵ ﹁ 同 ﹂ 上 / 2 0 a / 0 9 ) と、それぞれの機根 に応じた異なったものとして教化されなければならないと述べる。そのため、﹁太上﹂の教化は無限の内容を持つものと され、その具体的内容は誰にも詳細に解き明かすことは出来ない。だから、﹁故に生天得道経は云う、﹁杏杏冥冥たる清静
206(11) らの連想で﹃生天得道経﹄に言及したものと思われる。 ﹁ 道 蔵 ﹄ の道、昏昏獣欺たる太虚の樅゜罷性は湛然として無所住、色心は都な寂として慎宗に一たり﹄と是れなり︵故生天得道経云、 杏 杏 冥 冥 清 静 道 、 昏 昏 獣 獣 太 虚 樅 。 謄 性 湛 然 無 所 住 、 色 心 都 寂 一 慎 宗 是 也 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 上 ] 2 0 b / 0 5 ) と、﹃生天得道経﹄がその立場をこの 明の伍希徳・伍守虚﹃仙佛合宗語録﹄︵﹃道蔵輯要﹄所収︶は、﹁祠家﹂の﹁播心寂滅﹂に言及した個所の注釈で﹃生天得道経﹄ の﹁心目内観慎柔、⋮・:自然修度﹂の句を引いた上で、﹁佛経の言う所の佛理、皆な此と同じ︵佛経所言佛理、皆輿此同︶﹂ 佛 合 宗 語 録 ﹄ 2 l b / 0 7 ) と仏典に説かれる道理と同じであると見倣す。この﹁描心寂滅﹂の﹁大用﹂を説明する本文に﹁答え もち て曰く、古に云う、自ずから天然の箕火候有りて、柴炭及び吹嘘を須いず、と︵答曰、古云、自有天然虞火候、不須柴炭及吹畦︶﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ 2 l b / 0 7 ) と﹁天然慎火候﹂と有ることから、この﹁大用﹂自体が内丹的観点から理解されていることが窺え、そこか 最後に、撰述時期不明の文献ではあるが、『震賓大錬内旨行持機要』は、本経を九度唱えながら「完~」を丹田に導くとし、 ( 1 0 ) 本経の読誦とそれによる煉功とを一体視している︵﹃霊賓大錬内旨行持機要﹂ O l a / 0 2 )。 こ の 様 に 、 冗 生 天 得 道 経 ﹄ の内容が注目されている場合では、内丹的観点、死者の魂塊の救済の観点、飲食の節制等の 養生の観点、仏教との共通性の観点等が確認される。そして、これらは、現在確認される資料から言えば、概ね金・南宋 以降に限られていると言える。全真教の場合もその中に含まれていたのである。 ( -︱ -︶ 、 ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 所 引 経 文 に 就 い て ( 1 1 ) 次に﹁佛道圏文碑﹂所引経文について検討する。長安国子監から出たとされる本﹁碑﹂には北宋太平興国五年︵九八 0 ) の記述が有り、程章燦氏に由って﹁佛道圏文碑﹂と命名されたものだが、本﹁碑﹂が引く﹃生天得道経﹄経文は 様に表現しているのだとする。 ﹃ 仙
『元始天尊説生天得道経』と「佛道岡文碑」「霧習墓瞳」ー宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題-(12)205 昏 昏 黙 黙 、 政 以 無 為 、 古 今 都 忘 ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ と 、 ﹃ 道 蔵 ﹄ 本 で は ﹁ 虚 白 ( 1 1 道︶﹂が﹁古今﹂を超越して常存することを述べているのに対し、﹁佛道圏文碑﹂本では、その﹁古 今﹂を忘れ去るべきことが言われている点にも窺える。又、﹃道蔵﹄本の、 善男子善女人、依憑齋戒、作是津梁一切有為、顕諸慎路︵﹃道蔵﹂本︶ と些か読みにくい﹁作是津梁一切有為﹂という個所が、﹁佛道圏文碑﹂本では、 乞 作 強 縁 一 切 有 為 ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ 昏昏黙黙、正達無為、古今常存︵﹃道蔵﹄本︶ ︶ と は 、 本と大きく異なる。こうした石刻資料と伝世資料との間に違いが見られるのは奇異なことではないが、﹁佛道圏文碑﹂の 場合、併せて刻されている﹃太上老君常清静経﹄﹃太上昇元消災護命経﹄が﹃道蔵﹄所収テクストとほぼ一致することか ら す れ ば 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ のみが杜撰な作業であったとは考えにくい。恐らくは﹁佛道圏文碑﹂が収録した様な内容の﹃生 以下、細かい字旬の異同は措き、比較的大きな違いを見るならば、 即引太和慎煕、注潤身田・五臓六腑、心目内観、慎煕所有︵﹃道蔵﹄本︶ 則引太和清浮道氣、令入身心、則以心眼内観、空無有物︵﹁佛道圏文碑﹂本︶
『道蔵』本では「太和慎煕」を「身田・五臓六腑」へと注ぎ、その「箕完~」の有り様を「内観」すると有るが、「佛道圏文碑」
一切が空であることを﹁内観﹂するとされている。即ち、﹃道蔵﹄本は より身体論的記述になっているのに対し、﹁佛道圏文碑﹂本では万物を空と見る姿勢が強く出ていると思われる。同様の 本では、﹁清浮道氣﹂を﹁身心﹂へと導くことで、 天得道経﹄が流通していたと考えられる。204 (13) 能屏衆縁、永除染著、外想不入、内想不出︵﹃道蔵﹄本︶ 更 に 、 な な か となっている点にも窺える。﹁乞﹂の字は﹁勿﹂と推測されるが、この推測が誤りでなければ、﹁強縁一切有為を作す勿れ﹂ と有為的行為の否定と読めるであろう。又、 皆得五臓清涼、六腑調泰、三百六十骨節之間、有諸滞凝、十悪之業、百八十煩悩之業、衆苦罪源、悉皆除蕩︵﹃道蔵﹄本︶ ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ ︱一毛孔中、出諸生滅業、十悪業、百八煩悩業、計諸一根細細出氣、令諸罪根一時遠送 この個所は、五臓六腑を整えて、心身から煩悩業等を取り去ることを言う点では同様だが、﹁佛道圏文碑﹂本は、 つの﹁毛孔﹂からそれを排出することが強調されている。これは、例えば暦の道教経典に﹁一︱毛孔放大光明﹂︵﹃道蔵﹄ 所 収 ﹃ 無 上 内 秘 慎 蔵 経 ﹄ ﹁ 恵 澤 品 ﹂ 0 2 / 0 9 a / 0 7 ) 等 i と 見られる表現である。又、 初 節 飲 食 、 駆 遣 鬼 戸 ︵ ﹃ 道 蔵 ﹄ 本 ︶ 須 節 五 穀 、 必 去 ︱ ︱ ︱ 戸 ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ ﹃華巌経﹄を踏まえた表現として見られる様に、六朝\磨の道典にしばしば とある個所は﹁佛道圏文碑﹂本の方が、五穀の節制による﹁三
P
﹂の除去という、より直接的な表現となっている。 この様に、有為を否定して空無を重んじる立場、仏典に基づく表現、道教技法のより素朴な表現等から見ると、﹁佛道 圏文碑﹂がより早期のテクストを保持しているのではないかと思われる。空無を重んじている点では、共に刻されている ﹃太上老君常清静経﹄﹃太上昇元消災護命経﹄が何れも空無を重んじる内容であることから、より一貫性が高いと言えよう。 内 除 妄 想 、 外 想 不 入 、 内 想 不 出 ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ 従五蔵六腑、三百六十骨節、︱ っ
『元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑」「霜習墓瞳」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー (14)203 と有る個所は﹃道蔵﹄本の方が字旬が整っている様に思われ、 空 期 五 蘊 、 證 取 三 乗 ︵ ﹁ 佛 道 圏 文 碑 ﹂ 本 ︶ と、﹁佛道園文碑﹂本の、空の境地に至った後の﹁證取三乗﹂という、些か意味を解しにくい個所は、﹃道蔵﹂本では﹁證 妙三元﹂と﹁三元﹂と置き換えてられている。これ等からも、﹃道蔵﹄本が整理を経たものである可能性が窺えよう。 以上の推測に誤りが無ければ、﹁佛道圏文碑﹂本がより早期のテクスト内容を保持しており、﹃道蔵﹄本は修改を経た後 のものと推測される。この修改は或は近世に至る読誦テクストとして採用される過程で進められたものかとも推測されよ う 。 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ ﹃定襄金石孜﹄巻一は金朝﹁承安五年四月(︱二 0 0 ) ﹂ の 記 述 の あ る 石 刻 資 料 ﹁ 霧 習 墓 瞳 ﹂ を 収 録 す る ︵ 以 下 ﹁ 墓 幡 ﹂ 略 す ︶ 。 ﹃ 生 天 経 頌 解 ﹄ の変遷と地域的伝播に関して、﹁佛道圏文碑﹂は看過出来ない情報を提供していると言える。 の撰述よりも早い時期に立石された可能性を残す資料である。﹃定襄金石孜﹄ の解説は﹁元始天尊﹂の図 像を含む本﹁墓瞳﹂は﹁東霧村南﹂に在るとする。﹁東霧村﹂は現在の山西省析州市定襄県南王郷東糧村に相当し、金朝 ︱ ︱
1
0
0
年当時は河東北路析州市定襄県に属していた。即ち、本﹁墓帷﹂は当時の北方金朝山西地区に於いて﹃生天得道 ( 1 2 ) 経﹄が受容されていたことを示す具体的資料と言える。 ﹁墓瞳﹂は冒頭で﹁元始天尊説生天得道経[経文不録ごと述べた上で、﹁手徳公﹂に関する記述を始める o 公の姓は霧、諒は習、字は倣臣、古襄東霧里の出身である。祖の名は興、父の名は春、何れも農業・養蚕を家業とし 家財は豊かであった。公は祖父の仕事を受け継ぎ、家業をよく治め、蓄財は益々増えていった。公の性格は高潔で正直、 ︵ 四 ︶ 、 ﹁ 霧 習 墓 瞳 ﹂ に 就 い て 空 其 五 蘊 、 證 妙 ︱ ︱ ︱ 元 ︵ ﹃ 道 蔵 ﹄ 本 ︶202 (15) の り 行いも規を外れることはなく、物言いも正しかった。家庭内では父兄によく仕え、外では目上に仕え、霧一族からそ の孝を称えられ、郷党からその悌を称えられていた。友人との付き合いには忠信を心がけ、金銭のやり取りを持ち込 むことはなかった。近くに独身者で因っている者がいれば、常に穀物・絹布などを施していた。そして、太原府の天 慶観の三宝元壇下で太一法録を授かり、守澄と道号した。寺観を修復したり、新たに廟宇を建立するなどを率先して 行った。公は董氏を姿った。胡里の董常の次女である。彼女は貞潔で、舅姑に孝を尽くし、又た道教を崇拝したので、 郷里の人々は皆な﹁積善の家には、必ず余慶が有るものだ﹂と言った。⋮⋮公の享年は六十四歳、病により寝室で逝 去した。その子は棺桶死衣装を用意し、蒙山の麓に送り届け埋葬した。又、年月が過ぎ去るのを恐れ、父の行いを記 して石に刻み著そうと思い、私を訪ね、その文を著すことで父の善行を顕彰することを求めた。私は親しくしていた ので、断るのは不義理と思い、序録した上で銘を撰述した。その銘には、⋮⋮。南王里郷貢進士外甥の邪孝が撰した。 承安伍年四月 □ □ 日、次男霧汝貞が建てる︵公姓霧、緯習、字倣臣、古襄東霧里人也。祖日興、父曰春、皆呂農桑為務而致富足。 公紹祖父之業、居家能理、由是蓄積愈増。公性高直、行不踊方、言不失正。内能事其父兄、外能事其長上、遂使宗族稲其孝、郷黛稲其 悌 。 輿 朋 友 交 、 莫 不 呂 忠 信 為 心 、 未 官 以 財 賄 為 念 。 口 隣 里 有 鰊 寡 不 得 其 所 者 、 常 目 粟 用 遺 之 。 又 於 太 原 府 天 慶 観 三 賓 元 壇 下 、 授 太 一 法 録 、 道琥日守澄。至於修飾寺観、啓建廟宇、靡不為首。公姿董氏、酒胡里董常之次女也。志慕貞潔、孝承舅姑、抑又欽崇道教、伸郷人咸曰 積善之家、必有餘慶。⋮⋮享年六十有四、因病而歿於寝室。其子為之棺諄衣袋、哀以送之於蒙山之下、而窄措之。又恐歳月這遠、志其 父之行事、欲目刻石著紀、故就於僕、呂求其文、用彰蕨善。僕目至親、義不敢辟、諏巳次序録之、而後為之銘。銘日、⋮⋮。南王里郷 ( 1 3 ) 貢進士外甥邪孝撰。承安伍年四月 □ □ 日 、 次 男 霧 汝 貞 建 ︶ 。 霧習は当初家業である養蚕に勤しみ、勤勉な性格が幸いして家計も豊かであった。友人との交わりは﹁忠信﹂を心がけ、 独り身で困窮している者があれば備蓄を進んで放出していた。﹁太原府天慶観三賓元壇下﹂で﹁太一法録﹂を授かり、﹁守
「元始天尊説生天得道経」と「佛道圏文碑」「霧習墓瞳J一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー (16)201 p . 1 1 9 4 ) 。そして、﹃山西通志﹄によれば、﹁州署 天慶観に在り︵州 十四人所贈の詩有り。碑 雹習が﹁太一法録﹂を伝授された太原府天慶観だが、 山 西 通 志 ﹂ 巻 五 十 七 ﹁ 古 蹟 一 ・ 太 原 府 ・ 太 原 縣 ﹂ 。 華 文 書 局 、 澄﹂と道号した。そして、寺観の修復、廟宇の建立を率先して行った。妻の董氏もまた貞潔に努め舅姑に尽くし、﹁道教﹂ を信仰していた。以下は一族が繁栄したことを述べ、霧習は病により六十四歳で逝去したと有る。本﹁墓瞳﹂は、冒頭で 言及される﹃生天得道経﹄との関わりに就いては述べていない。しかし、本論上段で確認した様な﹃生天得道経﹄ 状況を踏まえるならば、太原府天慶観で誦経されていた、或いは、﹁太一法録﹂の伝授の際に伝授誦経された、或いは少 なくとも、霧習の日常的信仰活動に於いて身近な経典であったこと等が推測される。 ―― 100 年当時の太原府には、陽曲・大谷•平晋•清原・楡次・ ( 1 4 ) 訪・文水・交城・孟.壽陽・徐溝の十一県が属しており、金朝各地に建立された天慶観の何れが太原府天慶観であるの か特定は出来ないが、例えば、﹁宋那昂墓詩碑。西南十里晋祠奉聖院南。原と上に宋相寇準・文彦博・陳発佐・サ追仲滝等 陽 曲 縣 天 慶 観 中 に 在 り ︵ 宋 邪 昂 墓 詩 碑 。 西 南 十 里 晋 祠 、 奉 聖 院 南 。 原 上 有 宋 相 寇 準 ・ 文 彦 博 ・ 陳 鹿 佐 ・ ザ 池 仲 滝 等 十 四 人 所 贈 詩 。 碑 在 陽 曲 縣 天 慶 観 中 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 中 國 省 志 彙 之 十 ︱ ︱ ︱ 年 。 p . 1 1 1 1 上︶と、太原府陽曲県に天慶観があったことは間違い無い。 の 受 容 一方、そもそも東霧村の在る析州市定襄県には、元 好問﹁折州天慶観重建功徳記﹂︵︱二五0年︶に依れば、唐代に七聖観と称され、後に白鶴観と改称され、北宋・大中祥符 ︱一年の道教制度の整備により天慶観とされた道観が有ると言う︵周烈孫・王斌︵校注︶﹃元遺山文集校注﹄。巴蜀書社、二 0 一 三 年 。 東門街宣化坊に在り。明洪武初に建てらる。/道正司 署 在 東 門 街 宣 化 坊 。 明 洪 武 初 建 / 道 正 司 在 天 慶 観 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 光 緒 山 西 通 志 ﹂ 巻 三 十 八 ﹁ 公 署 ニ ・ 祈 州 ﹂ 。 p . 7 7 7 下︶と、道正司が後にこの天 慶観に設置されることになる。即ち、霧習の出身地である東雹村近辺は一定程度の道教が整備されていた地区であること が推察される。それにも関わらず、太原府天慶観で﹁太一法録﹂を授かったというのは、当時の授録制度との関係に由る ものであろう。 一 九 六 九
200(17) ﹃ 定 襄 金 石 孜 ﹄ 期 と 言 え る 。 ( 1 5 ) の解説は続けて、承安四年の﹁高忠墓瞳﹂に拠ると、高忠と妻の李氏も﹁ i 粛慎人壇下﹂で﹁太一法録﹂ を授かったとあり、近隣地区の同時期の入道であることから授かった法録や教えも同じものであり、「前置~人」は天慶観 これら資料に見られる﹁太一法録﹂に就いては、この時期の北方で活動していた太一道の﹁太一三元法録﹂が直ちに想 起される所であろう。太一道に就いては不明な点が多いが、陳垣、窪徳忠、卿希泰各氏の研究により、そのあらましは解 ( 1 6 ) 明されている。これ等に拠れば、開祖ふ粛抱珍から五祖・篇居壽の間に河南・河北を中心に信仰活動を拡大していた太一 道 は 、 金 朝 一 ︱
-0
0
年当時は三祖. i 粛志沖の時代に相当する。この時期は、泰和五年(-︱ 1 0 五︶に金・章宗が嘔州太清 宮で再度の祈皇嗣を行い、その後、粛志沖に中都太極宮の主持を命じている。又、泰和七年(︱二 0 七︶に簾志沖は穣鰹 災を執り行い、道教提点に任ぜられ、元通大師の号を賜っている。即ち、太一道が一定程度の公的活動を確保していた時 太一教は﹁太一三元法録﹂を以って知られる符録派とされるが、この﹁太一︱二元法録﹂は一般人が修習出来るものではなく、 一般的斎戒科儀に於ける符録とは異なり秘密裡に伝授されるもので、教主以外は知り得ないとする見解がある。これは﹁太 一三元法録﹂を伝嗣の﹁衣鉢﹂と見る立場であろう。しかし、太一道に関連する諸文献に見られる﹁録﹂には、所謂﹁衣 鉢﹂を意味するものから、在俗信者に授けられるものまで、様々な性質のものが混在しており、陳垣氏の解釈にも幅が見 ( 1 8 ) られる。従って、﹁墓瞳﹂に見られる﹁太一法録﹂が太一道で伝授される一般的法録である可能性を完全に否定すること は出来ないのだが、当時の太一道の活動地区が主として河南•河北に限られ、山酉地区での活動が確認されていないことと、 天慶観主師が﹁癖箕人﹂と癖姓とされているが、太一道で癖姓を名乗るのは祖師に限られており、この﹁癖慎人﹂が太一 道祖師とは無関係とすべきであろうこと等から、霧習・高忠等の在俗信者夫婦が太一道の法録を伝授されたとは考えにく 主師であろうか、と推測している ( p . 9 2 2 )。「元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑」「雹習墓帷」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題一・(18)199 この時、元始天尊は玉清聖境の清微天宮の鬱羅篇台の森羅浄私の上で、虚無自然でありながら有為の真聖の姿を現し、 ﹃得道了身経﹄冒頭は次の様に始まる。 用 す る に 留 ま る 。 いであろう。残る可能性は、﹁太一法録﹂の語が旧来の道教の法録の略称であることである。例えば、唐代の撰とされる﹁太 上三五正一盟威録﹂には、﹁太一正一童子一将軍録品第一、太一正一童子十将軍録品第二﹂以下、﹁太一正一﹂の語を冠す る録が多数列挙されている。こうした録の何等かの総称或は略称が﹁太一法録﹂であったとするならば、金帝室が全真教 を初めとする新出の道教との関わりを深めつつあった大きな流れの中で、山西地区では旧来の道教の伝録も依然として維 持されていた、ということになり、﹃生天得道経﹄はこうした旧来の道教の継承の中で重視されていたことが窺えるので 以上の検討に大過が無いとすれば、﹁生天得道経﹄は南宋以降、旧来の道教から重視されると同時に、金朝領土内でも 受容されており、新出の全真教も着目していたことが窺える。そして、本経の撰述時期は北宋九八
0
年以前であることは 間違い無いが、こうした受容状況と諸文献の引用状況から推測すれば、九八0
年をさ程遡ることの無い時期と推測される。 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹂ は ﹃ 道 蔵 ﹄ に は ﹃ 元 始 天 尊 説 得 道 了 身 経 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 得 道 了 身 経 ﹂ と 略 す ︶ と ﹁ 二 経 同 巻 ﹂ と し て 収 録 さ れ て い る が 、 ( 1 9 ) 両経の撰述時期は異なるとされる。﹃生天得道経﹄とは異なり、現行﹃道蔵﹂所収文献で﹃得道了身経﹄に言及するもの はほとんど確認されない。僅かに﹃道蔵輯要﹄所収の明・伍希徳著、伍守虚校注﹃仙佛合宗語録﹄の﹁吉王朱太和十九問﹂﹁長 沙王朱星垣二問﹂、同﹃天仙正理直論増註﹂﹁火候経第四﹂﹁煉己直論第五﹂﹁胎息直論第九﹂等が現行本と一致する文を引 あ る 。 結語に代えて198 (19) ﹃得道了身経﹄にはその他の道教文献と一致する内容を確認することも出来る。先ず、上記冒頭に続く個所は、﹃太上老 ( 2 0 ) 君内日用妙経﹄︵﹃道蔵﹄所収。以下﹃日用経﹂と略す︶と多く一致する。両文献の冒頭は﹁夫修錬了身、飲食有則﹂︵﹃得道了慎 経 ﹄ O l a / 0 7 ) 、 ﹁ 夫 日 用 者 、 飲 食 則 定 ﹂ ︵ ﹃ 日 用 経 ﹄ O l a /0 2 ) と、それぞれの経題に沿う書き出しとなっているが、何れも﹁飲食﹂ の節制を重視する。﹁飲食﹂の節制に就いては、﹃生天得道経﹄を引く後世の幾つかの文献が重視していた事例を確認した。 即ち、﹃日用経﹄と﹃得道了慎経﹄ ﹃日用経﹄と﹃得道了慎経﹄ 想入らず、内想出ず、 の撰述自体が﹃生天得道経﹄ の撰述時期の前後関係は明白ではない。﹃得道了身経﹄は、﹁飲食﹂の節制から始まり、﹁外 一 念 を 起 こ す こ と な く 、 萬 事 倶 に 忘 ︵ 外 想 不 入 、 内 想 不 出 、 莫 起 一 念 、 萬 事 倶 忘 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 得 道 了 身 経 ﹄ ︱ o l 芝 l o ) れ る 段 階 を 経 て ﹁ 性 の 定 ま り 命 の 住 ま り 、 性 命 雙 全 、 形 神 倶 妙 、 道 と 慎 を 合 す ︵ 性 定 命 住 、 性 命 雙 全 、 形 神 倶 妙 、 典 道 合 慎 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹄ l b / 0 3 ) る段階へと展開することを言い、その過程で﹁心火は下降し、腎水は上昇す︵心火下降、腎水上昇︶﹂︵﹃同﹂ O l b / 0 8 ) る 内丹を言う。﹁三千日﹂の煉成を経て﹁箕身﹂を完成し、﹁生死を脱離﹂した結呆、﹁全員道果﹂を達成する︵﹃同﹂ 0 2 a / 0 2 ) 。 は﹃生天得道経﹄を踏まえていると考えられる。 元始の無極大道を広め、混沌が分かれる前の先天の奥深い真理を説き明かし、清静無為の全真大道を論じた。諸天仙 衆のために、この﹁生天得道全慎了身経﹂を説いたのだ︵爾時元始天尊、在玉清聖境清微天宮、鬱羅篇豪之中、森羅浮弘之上、 現 虚 無 自 然 有 為 箕 聖 相 、 恢 元 始 無 極 大 道 、 間 揚 混 沌 未 分 先 天 慎 奥 妙 、 論 清 静 無 為 全 奨 大 道 。 為 諸 天 仙 衆 、 説 此 生 天 得 道 全 演 了 身 経 ︶ ︵ ﹃ 得 道 了 身 経 ﹄ O l a / 0 2 ) ﹁元始天尊﹂が当該経典の名を﹁生天得道全慎了身経﹂と述べているのは、明らかに﹃生天得道経﹄を踏まえていると思われる。 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ の﹁略啓身心﹂と言う経旨が﹁生天得道全慎了身経﹂という経題に見て取れる。又、﹃得道了身経﹄に︱一度 見られる﹁外想不入、内想不出﹂の語も﹃生天得道経﹄に見られた。即ち、撰述時期・背景は異なるものの、﹃得道了身経﹄ の受容の下で行われていた可能性が窺える。
「元始天尊説生天得道経」と「佛道圏文碑」「霧習墓帷」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー (20)197 そして、﹁慎神仙胎﹂の完成のために﹁飲食﹂の節制が必要であること、逆に﹁飲食を不節制﹂すると﹁聖胎﹂は完成し な い こ と が 再 確 認 さ れ る ︵ ﹃ 同 ﹄ 0 2 b / 0 6 ) 。﹃得道了慎経﹂のこれ以後は具体的な煉丹用語が列挙され、﹃日用経﹄とは一致し なくなる。﹁日用経﹄は後半に進むほど個条書き的な記述が目立ち、文としての纏まりが弱くなる。例えば、﹁得観内境、 神 自 言 語 ⋮ ⋮ 妙 哉 、 玄 之 又 玄 ﹂ ︵ ﹃ 日 用 経 ﹂ O l b / 0 4 ) の部分は、前後の文意の繋がりが必ずしも明確ではなく、何らかの文献 次に、元・李道純︵︱二八八 i -︱︱10六頃︶の﹃中和集﹄巻三﹁問答語録﹂にも﹃得道了慎経﹄と類似の内容が見られる。 ﹃得道了身経﹄は、上述した様に﹁聖胎﹂の達成のための具体的方法を論じているのに対し、﹁中和集﹄は弟子に対する李 道純の説明として、﹁身心﹂を比喩する﹁種種異名﹂を列挙する内容となっているが、両者は明らかに共通の内容を含む。 特に留意されるのは、﹃得道了身経﹄の﹁中宮胎意為黄婆、金情木性為夫婦。⋮⋮一性掻情、為金木併。陰陽還返、為水火交。 火興木同源、雨性一家。南二東三同成五、南二心神火也、東三肝木性也、此是火生於木也。水輿金同源、雨性一家、北一 西四同成五、北一腎精水也、西四肺金情也、此是水生於金也。中五屡土、土者意也﹂︵﹃得道了身経﹄ 0 3 b / 0 7 ) の 部 分 で あ る 。 ほ ぽ 同 様 の 内 容 が ﹃ 中 和 集 ﹄ に も 見 ら れ ︵ ﹁ 中 和 集 ﹄ 0 3 / 2 0 a / 1 0 以 下 ︶ 、 ﹃ 中 和 集 ﹄ の こ の 部 分 は 孫 功 進 氏 の 一 連 の 研 究 に 拠 る と 、 ﹃周易参同契﹄の﹁三五輿こ﹁三物一家﹂説と﹃悟慎篇﹄の﹁三家相見﹂説に基づいて李道純が整理した煉丹思想とされ ( 2 1 ) る。現存資料に拠る限り、これらの説は李道純撰述文献にしか見られないことから、﹃得道了身経﹂の撰述は李道純以降 と言うことになろう。即ち、﹃得道了身経﹄は十三\十四世紀にかけて李道純によって整理された内丹説を踏まえて撰述 この様に見ると、﹃得道了身経﹄という文献は、﹃生天得道経﹂を踏まえ、﹃日用経﹄と共通の内容を含み、李道純が整 理した煉丹思想を踏まえるなど、幾つかの先行文献・思想を踏まえ、﹁性命雙全、形神倶妙﹂﹁全 i 県道果﹂という全真教の さ れ た こ と に な る 。 から必要個所のみを抜粋して列挙したかの様な印象すら受ける。
196 (21) る 。 遂 行 と い う 観 点 か ら 纏 め ら れ た も の と 言 う こ と に な る 。 こ の こ と は 、 ﹃ 生 天 得 道 経 ﹄ が 、 読 誦 の 対 象 と し て 広 く 受 容 さ れ る 一 方 、 思 想 的 材 料 と し て も そ の 後 の 道 典 に 影 響 を 与 え 、 全 真 教 も そ れ を 重 視 し て い た と い う こ と を 意 味 し て い る の で あ ︵ 注 ︶ ( l ) 任卿愈王編﹃道蔵提要︵修訂版︶﹄︵中國社會科學出版社、一九九一年︶は﹃生天得道経﹄の撰述時期を明言していない ( p . 2 4 ) 。 ぞ i s t o f e r S c h i p p e r & F r a n c i s c u s V e r e l l e n , J ! i 逗 宰 成 耳 坦 芸 1 ' T h e T a o i s t C a n o n : A H i s t o r i c a l C o m p a n i o n t o t h e D a o z a n g , T h e U n i v e r s i t y o f C h i c a g o P r e s s , 2 0 0 4 は﹃金石茉編﹄巻︱二五が収録する﹁大宋太平興匿五年﹂刻碑文が﹃生天得道経﹄に言及し、宋の﹃秘書省日録﹄に言 及が見られ、宋代の科儀書に引用が見られることから、唐代の撰とする ( p p . 5 5 5 , 556) 。丁培仁﹃増注新修道蔵目録﹄︵巴蜀書社、 二 0 0 七年︶は唐の撰とする ( p . 1 2 3 ) 。一方、濯雨廷﹃濯雨廷著作集道蔵書目提要﹄︵上海古籍出版社、一︱ 0 0 三年︶は﹃生天得 道経﹄を唐以後の撰と推測しつつも ( p . 1 3 0 ) 、本論後段で見る﹃得道了身経﹄を﹃生天得道経﹄と同一作者の撰とし、宋代頃に一︱ つに分かれたと推測する ( p . 1 3 1 ) 。唐以降、恐らくは宋代に於いて撰述された本経が何らかの理由で二経に分割された、という見 解であろう。簾登福﹃正統道蔵継目提要﹄︵文津出版社有限公司、二 0 1 ︱年︶は大略唐代の撰とする ( p . 3 6 ) 。 ( 2 ) 拙著﹃唐初道教思想史研究ー﹃太玄慎一本際経﹄の成立と思想ー﹄﹁第四章﹃本際経﹄の体裁について﹂︵平築寺書店、一九九九 年 ︶ を 参 照 。 ( 3 ) 道家道教思想に於ける内外の関わりに就いては、拙著﹃宋代道家思想史研究﹄︵汲古書院‘︱ 1 0 ︱ 二 年 。 p . 2 3 以 下 ︶ を 参 照 。 ( 4 ) 張凱﹁白雲観道士一日﹂︵﹃世界宗教文化﹄︱ 1 0 0 0 年第四期︶、甘紹成﹁青城山道教科儀演禍程序輿音築安排﹂︵﹃中國音築︵季 刊 ︶ ﹄ ‘ ︱ 1 0 0 三年第四期︶等を参照。 ( 5 ) ﹁佛道圏文碑﹂に就いての詳細な紹介は、程章燦﹁宋代石刻刻工輯補﹂︵﹃文猷﹄一九九四年第四期︶、李恥﹁闘於九六八年京兆府 國子監裡的﹃佛道圏文碑﹄﹂︵﹃考古典文物﹄二 0 ︱一年第三期︶等を参照。これらに拠れば、﹁陰符経﹂が乾徳六年︵九六八︶に、 ﹁太上老君常清静経、太上昇元消災護命経、太上天尊説生天得道経﹂が太平興国五年︵九八 0 ) 二月から三月にかけて刻されたとさ れ る 。
「元始天尊説生天得道経jと「佛道圏文碑」「霜習墓瞳」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー (22)195 (6)柳存仁﹁五代到南宋時的道赦齋醜﹂︵﹃和風堂文集中﹄所収。上海古籍出版社、一九九一年︶は、遅くとも南宋に至るまでに齋 礁法事を執り行う者が念誦する道教経典には﹃度人経﹄﹃洞玄霊賓自然九天生神玉章経﹄﹃太上洞玄霙賓救苦抜罪妙経﹄﹃太上九慎妙 戒金録度命抜罪妙経﹄﹃元始天尊説生天得道経﹄等が含まれ、霊宝系経典の勢力が強いことは明らかであると述べているが ( p p . 7 5 5 , 7 5 6 ) 、その時期は若干早めることが出来よう。 (7)﹁洞元虚静大師申公提勁墓誌銘﹂は、申志貞が﹁超然子王君﹂と活動をともにした時期を一︱一四 0 年以前のことと記す︵﹃甘水仙 源 録 ﹄ 8 / 2 6 b / 0 3 )
。
(8)﹃太極祭錬内法﹄に就いては、横手裕﹁一人で行う亡魂救済ー鄭思肖の太極祭錬内法﹂︵﹃アジア遊学﹄︱ 1 0 号 ‘ ︱ 1 0 0 八年︶を 参照。又、劉陶﹁﹃太上洞玄霙賓浮妙経﹄考察﹂︵﹃宗教學研究﹄︱ 1 0 一九年第一期︵穂第一︱︱︱一期︶︶は、唐代の撰と目される﹃太 上洞玄霊賓淫妙経﹄の思想を﹃太極祭錬内法﹄の原型とする。 (9)﹃北斗本命延生経﹄に就いては、拙稿﹁明昌一一年碑文﹃太上玄霊北斗本命延生経﹄について﹂︵﹃文彩﹄第十四号、︱ 1 0 一 八 年︶を参照。尚、鄭志明﹁﹃太上玄震賓北斗本命延生慎経﹄的星斗崇拝﹂︵濯崇賢・梁発主編﹃道教輿星斗信仰﹄所収。斉魯書社、 ︱ 1 0 一四年︶は玄元慎人註を元 1 明の撰、李建徳﹁﹁北斗経﹄注本之生命哲學探析ー上﹂︵﹃武廟﹄十二。︱ 1 0 一七年︶は宋代の撰 ( p p . 1 7 , 1 9 )、三浦國雄﹁若杉家本﹃北斗本命延生経﹄について﹂︵﹁東方宗教﹄︱二三号、二 0 一四年︶は南宋以降の撰、簾登福﹃正 統道蔵穂目提要﹄は宋代の撰 ( p . 7 2 7 ) と す る 。 ( 1 0 ) その他、元末の部栴・章希賢﹃道法宗旨圏術義﹄にも﹁元始生天得道経日 1 ﹂(﹃道法宗旨圏術義﹄下[ O l b / 0 1 ) と引用が見られる。 (II)﹁佛道圏文碑﹂は北京図書館金石組編﹃北京圏書館蔵中國歴代石刻拓本彙編第三十七冊北宋﹄︵中州古籍出版社、一九九 0 年 ︶ 収 録 に 拠 る 。 ( 1 2 ) 本石刻史料に就いては、王新英﹁金代喪葬證俗學要ー以金大石刻資料為中心﹂︵﹃遼寧省博物館館刊﹄二 0 一三年︶に言及が有る。 ( 1 3 ) ﹃定襄金石孜﹄巻一所収。﹃遼金元石刻全編︱-﹄所録に依る︵北京圏書館出版社、二 0 0 三 年 。 p p . 9 2 1 , 9 2 2 ) 。 ( 1 4 ) 李昌憲﹃金代行政幅劃史﹄︵上海古籍出版社、︱ 1 0 一 五 年 。 p p . 3 3 1 , 3 3 3 ) を 参 照 。 ( 1 5 ) ﹁ 高 忠 墓 ﹂ 自 体 は 未 確 認 で あ る 。 (16)陳垣﹃南宋河北新道教考﹄﹁巻四太一篇﹂︵中華書局、一九八九年版。 p . 1 1 0 以下︶、窪徳忠﹃道教史﹄﹁第五章 2 、太一教と真 大道教﹂︵山川出版社、一九八三年版︶、卿希泰﹃中國道教史第三巻︵修定版︶﹄﹁第八章道教在金輿南宋的登展・改革及道派文 化﹂﹁第一節癖抱珍輿太一赦的創立。太一教的基本特徴及其在金代的発展﹂︵四川人民出版社、一九九六年︶。194(23) ( 1 7 ) 宋福利﹁太一赦︱一代教主嗣教及赦派分合考證﹂︵﹃新郷學院學報﹄第三三巻第一期、︱ 1 0 一 六 年 ︶ 。 ( 1 8 ) 例えば、王若虚﹁清虚太師侯公墓硯﹂、同﹁太一三代度師諧公墓表﹂に拠る﹃南宋初河北新道教考﹄の見解 ( P ・ 1 1 2 、 P ・ 1 2 1 ) 等 。 尚、太一道の根幹を占める﹁太一三元法録﹂の実態は不明だが、卿希泰は﹁太一神﹂を呼び出し制御する﹁符録﹂と﹁天、地、水 三官﹂の﹁神﹂であろうと推測する︵﹃中國道赦史第三巻﹄ p . 4、 p . 5 ) 。一方、劉仲宇は﹃三元布経﹄に由来する﹁検天・検仙・検 地﹂と推測する︵﹃道教授録制度研究﹄﹁第三章授録制度在古代社會中的演髪︵下︶﹂。中國社會科學出版社、︱ 1 0 一 四 年 。 p . 1 2 7 以 下 ︶ 。 ( 1 9 ) ﹃道蔵提要﹄は﹃得道了身経﹄の撰述時期を金元の際の全真教の撰とし ( p . 2 5 ) 、 ﹁ 性 命 雙 修 ﹂ 、 ﹁ 全 i 県 道 果 ﹂ 、 ﹁ 全 澳 無 為 ﹂ 、 ﹁ 神 全 無 欠為全慎﹂等の語が見られることをその根拠とする ( p . 2 5 ) 。﹃道蔵通考﹄は﹃得道了身経﹄に就いては撰述時期を明言していない が 、 ﹁ 3 ・ B . 9 T h e Q u a n z h e n O r d e r ﹂に分類している以上、全真教文献と見倣していることは間違い無い。﹃増注新修道蔵目録﹄は﹁得 道了身経﹄を金元の際の全真教経典とする。﹃道蔵書目提要﹄の見解に就いては注 ( l ) を参照。﹃正統道蔵総目提要﹄は撰者を金 元の間の全真教道士とする ( p . 3 6 ) 。 ( 2 0 ) ﹃道蔵通考﹄は﹃日用経﹄を全真教文献と見倣し、撰述時期については言及していないが、元末明初の董漠醇﹃群仙要語纂集﹄と 一部一致すると指摘する。﹃道蔵提要﹄は撰述時期に就いては言及していないが、本経の﹁姉妹篇﹂とする﹃太上老君外日用妙経﹄ に就いて宋元の間の撰と推測する ( p . 4 6 2 ) 。しかし、﹃外日用妙経﹄は全体が三字旬からなり、明らかに読誦を念頭に於いた撰述で あり、題目の類似性以外には﹃日用妙経﹄との共通点は無い様に思われる。呉保春・蓋建民﹁道教建築意境輿道教罷道行法闘係範 式考論—以龍虎山天師府為中心」(『世界宗教研究』― 10 一七年第三期)は、根拠は示していないが『日用経』を唐代頃の撰とする ( p . 9 1 、注⑤︶。﹃増注新修道蔵目録﹄は、曾悔﹃道櫃﹄﹁甲庚篇﹂が誤って﹁太上内日月経﹂と引くものが﹃日用経﹄に相当するこ とから、﹃日用経﹄を北宋の撰とする ( p . 1 3 7 ) 。しかし、﹃道櫃]﹁甲庚篇﹂が引く﹁太上内日月経﹂の内容は現行﹃日用経﹄とは一 致しないため、丁氏の見解は保留としたい。﹃正統道蔵穂目提要﹄は社会道徳が強調されていた北宋時代の撰とする ( p . 6 3 3 ) 。 ( 2 1 ) 孫功進﹁李道純丹道易學思想浅探﹂︵﹃周易研究﹄︱ 1 0 0 九年第一一期︶、同﹁李道純内丹思想的特色﹂︵﹃聯城大學學報︵社會科學 版 ︶ ﹄ ︱ 1 0 0 九年第一期︶、同﹁李道純内丹性命思想探析﹂︵﹃集美大學學報︵哲学社會科學版︶﹄第一︱一巻第三期、二 0 0 九 年 ︶ 、 同 ﹁李道純易學視野下的内丹煉養論﹂︵﹃東岳論叢﹄第三五巻第二期、二 0 一四年︶等。又、婉頸﹃李道純道敦思想研究﹄︵﹃中展學術 思 想 研 究 輯 刊 ﹄ ︱ 一 編 第 二 八 冊 ‘ ︱ 1 0 0 八年︶は、李道純がその﹁漸法三乗﹂思想と張伯端の﹁三五圃局説﹂を融合した結果と見る ( p . 1 0 3 ) 。
[元始天尊説生天得道経』と「佛道圏文碑」「霧習墓幡」一宋金元三朝道教の歴史性と地域性問題ー (24)193 ※本稿は﹁中國哲學史的多元書窃疸式蛭紀念爾楚父先生逝世十周年學術研討會﹂︵二 0 一八年十月十︱\十︱-日、於武漢大学︶に於け る口頭報告原稿﹁︽元始天尊説生天得道経︾与︿佛道圏文碑﹀、︿霧習墓瞳﹀ー宋金元三朝道教的歴史性輿地域性的問題ー﹂︵中国語︶を 翻訳修正したものである。