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異宗連合事曾研究紀要
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︵ 重 文 ︶ プ又 メIミ 上4 県 下 市 滝 上 寺 蔵入高僧像︵重文︶ 奈良県下市 滝上寺蔵 主ロ導和尚・源空聖人・親驚聖人・性信上人・釈願性・釈善明・釈 思附・釈聖空の八高僧を描いた連坐像。聖空は滝上寺の祖である。 また愚附は近江瓜生浮の人、弘誓寺の祖。木辺錦織寺の系譜は愚附 の法脈をうけた慈空︵愚附の弟と伝える︶へとつづく。存覚の﹃袖 日記﹄に、この連坐像について次のような記録がある。 一、応安二年配二月廿八日白木部帰洛之後、仙空房真空房以下数 輩来時、往古真影修復之本尊 c 誹 銘 文 、 今 彼 一 義 書 之 、 光 明 寺 大 師 里 山 谷 本 願 寺 性 信 願 性 善 明 愚 附 聖 空 也 其 銘 文 上六行初行光明寺普導和尚言今五行、一三一口市無者ノ文ヲ八字 ツツニ主円也第六行ハ往生ノ二字也 下九行黒谷源空聖人日一行口知生死之家ノ文ヲ八字ツツニ 書 也 最 末 行 四 字 也 伯 四 行 親驚聖人偏日一行観彼如来偏七言ツツヲ四行主也 也 己 上 九 行
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諸仏を課題とする﹁諸仏称名之願﹂の意義・
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真宗教学における正像末和讃の地位・:::
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江戸時代における大乗非仏説の批判
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ー真宗学匠潮音の思想|経典生成の論理
ー特に真宗の立場から|山
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初期真宗の動向と錦織寺::
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学 会 役 員 名 簿 会 持ι 寸ー 規 約諸仏を課題とする﹁諸仏称名之願﹂
の意義
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︵ 同 朋 大 学 ︶ 古来諸仏称名之願は念仏往生之願と相望して いわゆる行信論の焦点として論ぜられているところではあるが、 し、 まこの願にみる﹁諸仏しに考察の焦点をおいて、この願がもっ意義を改めて確認したいと思うのである。 ① いうまでもなく当願は﹁名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたり﹂といわれる如く、第十二・十三願の光寿 無量をその本質とする名号を、十方諸仏に称揚せられんという願である。 ざれば何故にかかる称揚を誓願せられたか が、まづ当然問われねばならぬであろう。 いま﹃行巻﹄にみる願名、就中標挙の﹁諸仏称名﹂においてその意趣から 窺ってゆくこととしよう。 従来諸仏称名の﹁称名﹂について、 ト ス ニ ス ル ノ ヲ @ ﹃ 六 要 ﹄ に コ 一 = ロ ニ 称 名 一 者 此 非 ニ 称 念 一 今 称 ニ 揚 彼 名 号 一 義 也 ﹂ と い っ て い ら れ る の ③ これが否定的にみられているようである。しかし﹃六要﹄の を、称名より称念の意を否定することは出来ぬとして、 意趣が、これが願文のつ容嵯称我名しより名づけられたものであるという前提における立論であるかぎり、称名より 諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 義諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 義 称念の意を除く意味ではなく、むしろ称名の根源的意義を顕わされたものというべきでなかろうか。従っていま﹁称﹂ @ は﹁称揚﹂の意味であり、また称揚は﹁答瑳 L であり、それは慌輿が﹁在者讃也監者嘆也 L といい、宗祖がこれを @ ﹁盗嵯とまふすはよろづの仏にほめられたてまつるとまふす御ことなり L といっていられる如く、讃嘆を意味するも のである。故に称は蓋し称讃の意であって、しかもその称讃が名によってなされるものであるか、ぎり﹁称名﹂となる。 ﹂こに諸仏称揚・諸仏称名・諸仏容睦の願名は、 ﹁復﹂の字が意味する如く復重の義として畢寛同意とみていいであ ろう。されば宗祖がその称名を表顕するに、 ﹃ 品 調 ﹄ 塁間註﹄の讃嘆門を以てせられていることには、それが根本的に は称名即讃嘆なることを意表するものであることを忘れてはならぬであろう。故に宗祖は﹁称彼如来名﹂の﹁称﹂に つ き 、 坂 東 本 の 上 欄 に ﹁ 称 字 削 慨 一 眼 一 龍 一 唯 一 臨 融 制 服 馳 蹴 馳 等 也 山 と い い 、 ﹃ 一 多 文 意 ﹄ 九 日 称ははかりといふこ L ろなり、はかりといふはものほどをさだむるなり、名号を称すること、とこゑひとこゑきく ひとうたがふこ L ろ一念もなければ実報土へむまるとまふすこ L ろ な り − 一 ス m m 唱 といって、称がいわゆる称量の意であることを示されている。もとより讃嘆門には﹁云何讃嘆口業讃嘆﹂とあり、今 の文にも﹁とこゑひとこゑ﹂等とある如く、 口称念仏の意のあることはいうまでもない。 しかしいまそれを否定する のではなく、それは口業を以て象徴せられているのであって、その根源的意義は称念ということよりも称揚!称量、 即ち名の徳をはかることというべきであろう。 かくの如く﹃六要﹄の意底をさぐって﹁称名 L をみるとき、それが名において仏徳をはかることを意味するもので あるかぎり、真に称名しうるものは﹁諸仏 L でなければならない。何故ならば﹃大経﹄下巻東方偏に﹁如来智慧海深
@ 広無↓一涯底二一乗非レ所レ測唯仏独明了﹂とある如く、仏徳を真にはかりうるものは仏のみだからである。それ故に宗祖 ト ハ ス ヤ ト サ ノ ノ ヲ ニ ャ l h ノ ノ ノ ヲ ニ ニ ハ ク ⑮ ﹁ 願 海 者 不 レ 宿 一 一 二 乗 雑 善 中 下 屍 骸 一 何 況 宿 一 一 人 天 虚 仮 邪 偽 善 業 雑 毒 雑 心 屍 骸 一 乎 故 大 本 言 ﹂ は﹃行巻 L 一 一 来 海 釈 下 に 、 といって、この経説を引証せられているのであって、まことにこの経説こそは、第十七願開顕の本質的意義を一不すも ⑪ のとみられうるのである。思うに、第十七願成就文に﹁皆共潰ニ嘆無量寿仏威神功徳不可思議ことある﹁不可思議﹂ ⑫ とは、まさに智慧段に出づる﹁仏智不思議符不可称智大乗広智無等無倫最上勝智 L であって、それはまさしく﹁誓願 ⑬ ⑬ ⑬ 一仏乗﹂といわれるつ名号不思議﹂であり、善導が﹁如米特慧海﹂を﹁弥陀智願海﹂といっている如く、また﹁誓願 ⑮ ⑫ 不思議しであり、それ故にこそ﹁唯仏独明了しであり、﹁唯仏与仏の符見﹂なのである。ここにこそ﹁諸仏称名﹂と いわれることの根本的理由がなければならない。 かくみてくるとき、法然が寸選択集﹄に善導教学を相承して﹁衆生 称念必得往生﹂の音却を高調されているけれども、その﹁衆生称念 L の純粋意義を顕わすものこそ﹁教行信証﹂の﹁諸 仏称名﹂にほかならない。何故ならば、衆生が真に称名しうるならば、 それは衆生にしてすでに諸仏といわるべき分 際であるからである。ざれば唯仏独明了の﹁諸仏称名﹂の意において、名義相応如実修行の念仏なることがあらわで ある。即ち真に仏徳を讃嘆しうることはまさしく﹁信 L の 事 実 で あ り 、 ⑮ 碍光如来名こと信界における如実の称名であることを明かされる所以である。 それ故に讃嘆門を相承して﹁大行者則称 4丞 ⋮ かくてここに諸仏称名の事実は、 ⑫ まさしく﹁証誠しの意義をもつことが知れるのである。即ち﹃愚禿紗﹄によれば ﹃ 大 ﹄ ﹁観﹄二経は﹁選択﹂をその特徴とされているに対し、第十七願成就意を明かす﹃小経 L はっ勧信・証誠・護 人中山・護嘆し等を挙げられている。これを以て推求するに、讃嘆は即ち証誠の意であって、弥陀と諸仏は相互証明の関 係にあ一ることが明らかである。即ち請仏は弥陀によって諸仏たらしめられ、弥陀は諸仏によって弥陀たらしめられる の で あ る 。 何 故 な ら ば 、 まづ弥陀によって諸仏たらしめられた諸仏こそ、諸仏たらしめた弥陀をはじめて称讃しうる 諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 義
諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 義 四 のであって、もしそうでないならば真の称讃はなされ得ないこと道理必然であり、 またかかる事実こそは、そのまま 弥陀の本願成就を意味するものにはかならぬからである。ここに諸仏称名を誓願する仏意の所在がなければならない。 ⑩ ﹁わがなをほめられむとなへられむとちかしい給うことは、弥陀が自らで自らを成就するのではなく、諸仏 思 う に 、 弥 陀 で あ る 。 を媒介として自らを成就せしめられんとの仏意にほかならない。故に諸仏を否定して弥陀ではなく、諸仏をまっての @ さればこそ﹁諸仏の護念証誠は悲願成就のゆへ﹂であり、本願自らを歴史的事実として、また普遍の大 道として成就していることを物語るものである。 以上の如き諸仏称名の意義において、宗祖はこれを往相廻向、選択称名之願といって、それが衆生往生に対する関 タ リ ヨ リ ノ ⑫ 係的意義を明らかにされたのである。即ちこの二名の意において﹁斯行者出レ於ニ大悲願一﹂ 衆生往生の行 たる大行の廻向成就の顕であることが開顕せられたのである。思うに、大行の廻向成就とは南無阿弥陀仏の本願が、 南無阿弥陀仏の行となることであって、それは本願の名が諸仏によってはじめて行となることを意味している。 @ 信紗文意﹄に第十七願意を述べる﹁五会法事讃﹄の﹁十方世界普流行﹂を と い っ て 、 ﹃ 唯 北日はあまねくひろくきわなしといふ、流行は十方微塵世界にあまねくひろまりです L め行ぜしめたまふなり と い っ て い ら れ る の は 、 まさにこの意を示すものであろう。この普流行の事実は﹃行巻﹄に第十七願文に続いて引用 @ 、 せられている重誓偏の文、就中その要たる﹁名声超一一十方一究寛牒レ所レ聞﹂が示す如く、衆生の聞名を顕わすのであっ て、諸仏称名と衆生閲名が相即するところに大行の廻向成就の願といわれる所以がなければならない、 きればこの大 行の廻向成就に衆生往生の因果たる教行信証の四法が摂尽されるから往相廻向之顕であり、 またそれが第十八選択本 願の念仏そのものであるところに選択称名之願といわれうるのである。 まさに如来の大悲はこの大行の廻向成就にか けられているからこそ いわゆる総即別名して大悲願といわれる所以である。
前上、諸仏称名の意義において諸仏称名を誓願せられた仏意の所在を窺って米たのであるが、 ﹂ こ に 改 め て そ の 諸 仏の何たるかを問うことによって諸仏称名之願意がより具体的に確認せられるであろう。しかしこれについては、ま ノ ノ づ﹁十方世界無量一諸仏﹂という世界形態における表現が注意されるのである。これは諸仏思想が常にとる表現形態で あって、この点が明らかにされるためには、その思想的背景として仏教の世界観が顧慮せられねばならないであろう し、またそれが大乗仏教思想の根幹をなす仏陀観の展開と共に形成せられ来ったものである限りその点も併せ考慮せ ら れ ね ば な ら な い し 、 およそ諸仏思想の意義を明らかにするには、そういった基礎的手続きが必要ではあるけれども、 いまその点について論述している余裕がないから別の機会に譲ることとして、直接当面の課題を考えてゆきたい。 凡 そ 仏 と い え ば 、 そのもと釈迦一仏であったのが遂に幾百千億の諸仏が説かれ、釈迦も諸仏の一員として十方無量 の諸仏を等しく展開しているところに、大乗経典の特質があるといっていいであろう。然らば十方の諸仏がかく広説 @ せられることは、何を意味するのであろうか。ここに曇一橋が﹃略論安楽浄土義﹂に無量の諸仏を説く所以を示す論述 が注意せしめられる。即ち 一 者 若 使 下 無 二 第 二 仏 一 乃 至 無 中 阿 僧 抵 恒 沙 諸 仏 上 者 仏 便 不 レ 能 レ 度 一 一 一 切 衆 生 一 以 = 一 実 能 度 ニ 一 切 衆 生 一 故 則 有 一 一 十 方 無 量諸仏一無量諸仏即是前仏所レ度衆生 かかる釈義を一貫して意表せられているものは、無量の諸仏は無量の衆生に 対応して説かれるものということである。それは例えば﹃大集会正法ぬ﹄に 等と五義に亘って論ずるものであるが、 諸仏出世為欲令諸衆生乃至令悉了知勝妙楽処故令於一切勝妙法門通達趣入故 諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 議 五
諸仏を課題とする﹁諸仏称名之願 L の意義 @ と説き、守大智度論﹄に ム ノ、 摩 詞 術 論 中 種 種 因 縁 説 三 世 十 方 仏 何 以 故 十 方 世 界 有 三 一 老 病 死 姪 訟 痴 等 諸 苦 悩 一 以 是 故 仏 応 レ 出 ニ 其 国 一 といっていることと照応するものであろう。 しかしそれが根本的には、 ﹁度二切衆生一故則有二十方無量諸仏ことあ る点に留意せねばならぬであろう。何故ならば、 それは仏が釈迦一仏から成仏の道が普遍的に思惟きれ来った思想史 展 開 、 つまり釈迦をして仏陀たらしめた永遠普遍の正法が、真に万人に公開せられるに至ったことに基づくものとい わねばならぬからである。それ故にこそ﹁無量諸仏即是前仏所レ度衆生﹂と、 その原態を切言せられている所以であ る。さればこの意味において、十方無量の衆生成仏の保証的意義を顕わすものであるところに、十方無量の諸仏が説 そして諸仏といわれ得るところに前掲の経論の文が一不す如く、 かれることの根本的意趣がなければならない。 ﹁ 諸 の衆生をして悉く勝妙の楽処を了知せしめんため﹂という利他教化の﹁教﹂の位に立っところに無量の諸仏の現在的 @ 意義が存するのである。而してつ諸仏所証平等是ごとして十方諸仏国の世界観を形成しているものにちがいない。 まことにそれは釈尊入滅以来仏弟子達にとって求められてきた釈尊正覚の本質的意義であり、 それをいま過去の思想 史的展開を承けて、等しく大乗経典に説く世界観をふまえて、真に仏仏平等、 一切皆成仏の課題に答えんとする歴史 的意義をもつものが﹁大無量寿経﹄であるといっていいのである。 かくていま、十方諸仏は十方衆生に対応するものとして思惟せられねばならぬことが指向せられたけれども、それ は第十七・十八二願の深い関係において、確認せしめられるのである。即ちいうまでもなく第十八願成就文にみえる ﹁ 其 L と は い わ ゆ る 五 願 開 示 の 場 合 、 まさしく直前の第十七願成就を承けるものであって、 それによって二願の不 離的関係が一小されているのである。従ってそれはそのまま前者に﹁衆生﹂とあり、後者に﹁諸仏﹂とある二者の不離 性を意表するものであって、 それは直ちに本願によって覚醒せる十方衆生が十方詰仏であることを語るものである。
何 故 な ら ば 、 まさしく行信を課題とする二願の関係にほかな らぬからである。さきに一言した称名と聞名の関係即ちこれである。いうまでもなく、﹁六要﹄が﹁行所行法信是能 ナ リ 圏 、 信﹂といっている如く、諸仏の称名は所行の法︵第十七願︶であり、衆生の聞名は能信の機︿第十八願︶であり、それ が﹁行信能所機法一@﹂として、一念仏行の廻向成就にほかならぬかぎり、衆生が﹁自力の三心ひるがへし如来利他の @ 信心に通入せ﹂しめられるところに、すでに諸仏称名に召されるのであり、従って諸仏称名は常に衆生の聞名のとこ @ かくて宗祖が かかる不離的関係の現行的具体的態を示すものこそ、 ろに実現するものである。ここにこそ諸仏称名が本願成就を意味する所以があるのである。 第十七の願に十方無量の諸仏にほめとなへられむとおほせられて候、 また願成就の文に十方恒沙の諸仏とおほせら れて候は信心の人とこ L ろえて候 と具説せられていることから推求して、 まさに本願によって誕生せる十方の諸覚者こそ、十方諸仏にほかならぬこと が 明 ら か で あ る 。
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きれば十方諸仏は覚者であることにおいて、弥陀ともとより﹁所証平等是ごであるけれども、しばらく主伴の別 において、弥陀を絶対というならば、それは諸仏といわれうることにおいて相対といわるべきであろう。そこに弥陀 に対して相対であり、衆生に対しても相対である。そしてこの相対と絶対が交互成就の関係にあることの意義を顕わ すものが第十七願にほかならぬのであって、ここに両者の関係が改めて推求せられねばならぬのである。 いま絶対と相対という表現を用いたけれども、それが関係がもし絶対が相対の無限の延長上に目標視されるならば、 それはいわゆる理想主義であり、 また両者聞に一線を画するならば、絶対は相対の他者となるであろう。従って前者 諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 義 七諸仏を課題とする﹁諸仏称名之願 L の意義 /\、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 においては相対から絶対へとなり、後者においては絶対から相対へとなる。 しかしいまは相対のほかに絶対はないと いう意でなければならない。即ち絶対は理想でもなければ他者でもなく﹁即﹂なのである。といっても、それはいわ ゆる相対が絶対の中に没入する意ではない。それならばいわゆる神秘主義に顛落するであろうし、 また絶対が相対に 投入し、相対も絶対もなく、相対のままが絶対であるというならば、これまたいわゆる人間主義におち入るよりない であろう。従っていま即と表現することの意味は、十方諸仏という相対を以て絶対の弥陀を信知するならば、相対そ のままが絶対の実現であるということにほかならぬのである。﹃行巻﹄に第十七願の成就を示す文が二ケ所引用せら ⑮ 一 一 れていること。即ち一はまさしく願成就文であり、いま一つは東方偏直前の文である。前者には﹁皆共讃ニ嘆無量寿 仏威神功徳不可思議ことあり、後者には﹁無量無辺不可思議諸仏如来莫レ不亘称一一歎於彼ことあって、﹁不可思議﹂の @ 語がさきには弥陀を表現する言葉となり、後は称讃する諸仏を表わす言葉となっている。またさきに指摘した第十七 願意を顕わす証文としての重誓備の文に、﹁常於ニ大衆中一説法師子肌﹂とあり、後に引証せられる﹃大阿弥陀経 L に ν テ ノ ニ カ は ﹁ 令 下 諸 仏 各 於 ニ 比 丘 僧 大 衆 中 一 説 中 我 功 徳 国 土 之 善 と と あ る こ と 。 即ち前者の偏文の当面においては、 法蔵が仏道 成就するに至って大衆の中で説法師子肌せんとの意であるけれども、後者はそれが諸仏と顕わされて、諸仏をして説 法師子肌せしめんとの意となっている。 かかる引証文における左右こそは、両者の相即的関係の深義を明証して余り あ る も の が あ る 。 かくの如き意味において第十七願の十方諸仏こそは、 @ あり、そこに宗祖の十方諸仏観が まさに弥陀の実現態として十方衆生救済願の具現的最先端で 一如よりかたちをあらわして方便法身とまふす御すがたをしめして法蔵比丘となのりたまひて不思議の大誓願をお こしてあらわれたまふ御かたちおば世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり、この如来を報身と
まふす乃至この報 2 身より応化等の無量無数の身全あらはして微塵世界に無碍の科慧光をはたしめたまふ 一 組 という弥陀仏身の展開態として受けとめられている所以である。そして更に守弥陀如来名号徳﹄に至つては この弥陀の御ひかりはものにさえられずして、 よろづの有情をてらしたまふゆへに、無碍光仏とまふすなり。有情 の煩悩悪業のこ tふろにさえられずましますによりて、無碍光仏とまふすなり。無碍光の徳ましまさざらましかはい か ど し 候 は ま し 。 かの極楽世界とこの裟婆世界とのあひだに、十万低の三千大千世界をへだてたりととけり。その 一一の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり、 たかさ須弥山とひとし。次に少千界をめぐれる鉄囲山あり。 fこ かさ第六天にいたる。次に中千界をめぐれる鉄間山あり、 たかさ色界の初禅にいたる。次に大千界をめぐれる鉄囲 山 あ り 、 た か さ 第 二 禅 に い た れ り 。 しかればすなわち、もし無碍光仏にてましまさずば、 一世界をすらとほるべか ら ず 。 いかにいはむや十万億の世界おや。 か の 無 碍 光 仏 の 光 明 、 か L る不可思議のやまを徹照して、この念仏衆生 を 摂 取 し た ま ふ に 、 さわることましまさぬゆへに無碍光とまふすなり と、ズバリ世界形態に即して十方世界普流行の事実が意表せられており、実にこれ弥陀仏身の展開にほかならぬ宗祖 の十方諸仏国観が最高調に表現せられている。 @ ﹃ 六 要 ﹄ こ れ を 凡 於 ニ 四 十 八 願 之 中 一 此 願 至 要 若 鉱 山 ニ 此 願 一 名 号 之 徳 何 間 二 十 方 一 間 市 信 行 此 願 之 力 若 無 ニ 此 願 一 超 世 願 意 諸 仏 何 証 依 レ 証 立 レ 信 又 此 願 恩 也 かくてこそ第十七願諸仏称名において大行の廻向成就が確認され、 と切言せられる所以である。 ① 註 ﹃ 西 方 指 南 紗 ﹄ 親 全 、 輯 録 篇 1 三 四 頁 諮仏を課題とする﹁諮仏称名之願﹂の意義 九
諸 仏 を 課 題 と す る ﹁ 諸 仏 称 名 之 願 ﹂ の 意 議
。
⑧ ⑫ ⑧ ⑫ ⑫ ⑧ ⑧ ⑬ ⑬ ⑫ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑪ ⑬ ③ ③ ① ③ ③ ① ③ ② ﹃ 六 会 ﹄ 二 、 四 a 近くは寺倉裏師﹃同期学報﹄第八・九合併号五三頁、勿論師は称名の実践的意義を強調せられんとするものであるが豆
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二 、 四 a 所 引 ﹁ 一 念 多 念 文 意 ﹄ 親 全 、 和 文 篇 一 四O
頁 ﹃ 行 巻 ﹄ 親 全 、 教 行 信 証 1 三 五 頁 ﹃ 一 念 多 念 文 意 ﹄ 親 全 、 和 文 篇 一 五 一 一 良 ﹃ 論 註 ﹄ 親 全 、 加 点 篇 2 七 三 頁 ﹃ 科 本 ﹄ 大 経 下 、 八 aE
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三 、 三O
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曾 我 量 深 師 ﹃ 教 行 信 − 証 信 の 巻 聴 記 ﹄ 三 九 六 頁 ﹃ 科 本 ﹄ 大 経 下 、 四 九 a ﹃ 大 会 ﹄ 三 、 二 八 a ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ 親 全 、 和 讃 篇 五 一 頁 ﹃ 往 生 礼 讃 ﹄ 親 全 、 加 点 篇 4 一 七 五 頁 ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ 親 全 、 和 讃 篇 三 頁 ﹃ 高 僧 和 讃 ﹄ M H M H 八 一 頁 ﹃ ム ハ ム 一 再 開 ﹄ 一 一 、 一 一 a 親 全 、 漢 文 篇 六 ! 八 頁 ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ 親 全 、 和 文 篇 一 六 二 頁 ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ 親 全 、 和 讃 篇 五 二 頁 ﹃ ム ハ ム 耳 ﹄ 一 一 、 一 一 a 親 全 、 和 文 篇 一 五 七 頁 ﹃ 六 会 ﹄ 二 、 四 a ﹃ 略 論 安 楽 浄 土 義 ﹄ 八 b 大 正 蔵 二 二 、 九 八 八 下⑫ ⑧ ⑩ ⑬ ⑧ ③ 大正蔵二五、九三中 ﹁ 往 生 礼 設 ﹄ 親 全 、 加 点 満 4 一 一 ハ 一 五 ﹃ 六 九 五 ﹄ 一 、 九 a 同 二 、 七 b ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ 籾 全 、 和 議 篇 五
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瓦 ﹃ 真 店 h i H 簡﹄親全、書簡筋二七瓦 ここに行信の衆生は﹁活仏とひとし﹂である。 ﹁ 六 会 ﹄ 二 、 五 b ・ 六 b 同 二 、 四 b ・ 九 a ﹃ 唯 信 紗 文 志 ﹄ 親 全 和 文 篇 一 七 一 頁 親全、和文信二二六頁 ﹁ 六 会 ﹄ 二 、 一 b ⑨ ⑧ ⑩ ⑧ ⑧ 諸仏を課題とする﹁諸仏称名之願﹂の意義教如上人と難波別院
教
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上
人
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謙
澄
︵ 大 谷 派 ︶ 元 亀 元 年 ︵ 一 五 七O
︶ 九 月 の 石 山 合 戦 の 発 端 か ら 、 天 正 八 年 ︵ 一 五 八O
︶四月顕如上人が、否、同年八月教如上人が 大坂本願寺を退去されるまで戦争は続くのであるが、石山合戦を想うにつけて忘れられないことは、十一年の長きに わたり本願寺が文字通り善戦したことである。さて、本願寺対織田信長のこの長期にわたる戦争について朝廷は和議 成立を御考慮し給うた。天正七年十二月二十五日には、正親町天皇の勅使、庭田重保、勧修寺晴豊の両人大坂に下向、 叡慮の程を顕如上人に伝達、翌天正八年一月十八日には勧修寺晴豊、安土に下向、聖旨を信長に伝えた。同八年三月 十七日には、信長は覚書に血判の起請文を副え、朝廷に呈上、これを捧じて前関白近衛前久が大坂に下向、本願寺側 にあっても、天正八年間三月五日、顕如教如両上人の誓詞を朝廷に呈上、かくして信長、本願寺、双方誓詞を禁裏に 呈上して、長年にわたる石山合戦はここに和議成立を見たのである。 顕如上人は大坂を退去すベく、祖像を奉じて天正八年四月九日大坂本願寺を出発、翌四月十日、紀州雑賀鷺森の坊 舎に移られたのである。しかしながら嫡子教如上人は断然大坂本願寺に留ま灼信長に対抗して居られた。教如上人は、天 正 八 年 間 三 月 五 日 、 父顕如上人と共に、朝廷に誓詞を進上しておられる程であるから和睦には反対して居られない 様に見えるが、教如上人の内心は、信長の陰険、大坂を奪い取らんとすることを甚だ残念に想われた。もともと顕如 上人も本願寺を他に移転しないで、すなわち退城しないで和睦することを願うて居られた。 しかし信長は退去しない ならば、叡慮の程を断ると強く退去を主張、顕如上人も寒に苦慮されたわけだが、漸次退去して和睦することに心が 傾 い た の で あ る 。 ﹂ れ に 対 し て 教 如 上 人 は 、 寺地を現地より他に移転しての和睦には あくまで反対されたのであ る。ここに和議成立前後より顕如上人と教如上人との間には溝が生じ円滑を欠く有様になったのである。顕如上人は 退城派であり教如上人は龍城派であるが、家臣、門徒の中にあっても和解派と強硬派の二つに分れるのである。ーー 顕如上人と教如上人父子の聞の対立は、天正十年六月二日、信長が本能寺に死去して以後間もなく勅を蒙って和解し た の で あ る が 、 一度生じた溝は完全に消えなかったものの如く、後日遂に教如上人が嫡子でありながら本願寺寵守職 の譲状を受けることが出来なく、東本願寺を別立されることとなった遠閏と考えられるのである。 かくして教如上人 は、顕如上人が天正八年四月九日大坂本願寺を退去された以後も、尚大坂に留まり、長年祖像のましましたこの大坂 本願寺に於いて、命が果てても満足であるとして最後まで戦うべく決意し、信長に対抗されたのである。信長は再龍 城の教如上人の態度を見て、天正八年七月十五日、 五箇条の和睦条件に血判の起請文を副え、同年八月十日までに退 去することを教如上人に強く要求したのである。教如上人側にあっても再龍城も意の如く進まなかった折である。既 に叡慮により和議成立した上であり、門徒も和解派と強硬派の対立あり、漸く内部統一が乱れ初めた際である。教如 上人も寒に苦慮されたが||内部の不統一に加うるに退去後の寺内町々民の生活問題についての憂慮もあって
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遂 に意を決し、大坂本願寺を退去することにされた。愈々天正八年八月二日に大坂本願寺を退去、紀州雑賀に移られた のであるが、本願寺は﹁渡テ後ヤクル様ニ用意シケルヵ、無残二日一夜、明一二日マデ三官々焼了﹂︵多聞院日記︶したの 教如上人と難波別院教如上人と難波別院 四 である。ここに豪勢を誇った大坂本願寺は灰虚に帰して了ったのである。蓮如上人が大坂坊舎を創立されてから八十 五年、証如上人の時大坂坊舎が一宗の本山となってから四十九年、顕如上人、教如上人、准如上人、この大坂の地に 生 誕 さ れ て 、 それぞれ、三十八年、二十三年、 四 年 の 時 の こ と で あ る 。 天正八年四月二日、顕如上人が祖像を奉じて大坂本願寺より紀州雑賀鷺森に移転されてより三年目、即ち天正十一 年七月四日、本願寺は鷺森より泉州貝塚に移り、吏に豊一臣秀吉の寺地寄進を受けて、天正十三年八月三十日、本願寺 は貝塚より摂津天満の地に移った。次いで本願寺は天正十九年八月六日、京都に移ることになった。即ち天正十九年 間正月五日、秀吉は顕如上人に京都七条坊門堀河に寺地十余万坪を寄進、 そこで御影堂は摂津天満の建物を移築し、 同年八月六日、祖像は天満より京都に移られたのである。 ついで同年十一月三日、阿弥陀堂の工事に若手し、 翌 年 七 月初めにその完成を見たのである。 し か し こ の 阿 弥 陀 堂 の 完 成 を 見 た 天 正 二 十 年 ︵ 一 五 九 八 、 十 二 月 八 日 改 元 文 禄 一 克 年 ︶ の十一月二十四日、顕如上人は齢 五十にして示寂せられたのである。顕如上人の計音、朝鮮との戦いの為、 肥前名護屋にあった秀吉に同くや、秀吉は、 文禄元年十二月十二日付の朱印状を送って、教如上人に木願寺の法般を相続することを命じたのである。翌文禄二年 八月三日、秀頼が生れると、秀吉は、秀頼と淀君の逗留する有馬に帰着、 その時は八月二十五日である。顕如上人の 室如春尼は、准如上人を連れて、有馬に秀吉をたずね、顕如上人の意士山を尊重して、間如上人の存命中、即ち天正十 五年極月六日に認められた顕如上人の譲状の旨に依り、顕如上人の三男︵末子︶准如上人に本願寺の法慨を相続せし める様、申出をされたのである 1 1 出如上人には、教如、女子、女子、顕尊、准如とつづく五人のお子達があり、天 正十五年と言えば教如上人は三十歳、准如上人は十一歳で未だ得度も済んでいない||ここに如春厄と教如上人との 対立は愈々明瞭となったのである。文ほ二年間九月七日秀吉は大坂に帰り、教如上人及び家老等の来坂を命じ、同月
十五日には、教如上人に対して、今後十年間本願寺を相続し、 その後、准如上人に本願寺を相続させてはという間停 案を示したのである。教如上人は調停案を承諾、家老等は、 その譲状について不審を申立て、秀吉の示した調停案に 反対した。それがかえって秀吉を怒らぜて、遂に調停ならず、 た だ ち に 、 本 願 寺 第 十 二 代 の 一 法 燈 は 、 如 春 尼 の 一 不 さ れ た顕如上人の譲状の如く准如上人が継承されることになったのである。 かくて如春尼と准如上人は御本殿に居住せら れ、教如上人は本願寺東北隅所謂一一方に隠退せられて、波湖を極めた相続問題は解決したのである。文禄二年間九月 十五日、秀吉により失職を告げられた教如上人であるが、それ以前に於いて、教如上人自身、嫡子として、 また本願 土寸の法嗣としての自覚を堅持して積極的に行動せられた。そのことをはっきりと示すものとして教如上人の御影の下 附がある。私の現在知るところを年代順に列挙すれば、 ︵ 註 1 ︶ る証如上人御影一幅。倒岐阜県郡上郡八幡町安養寺所蔵、天正九年三月二日の一一書ある伝狩野山楽筆親問聖人絵伝四 幅 。
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同 安 養 寺 所 蔵 、 天 正 九 年 十 二 月 廿 三 日 の 一 一 書 あ る 伝 狩 野 山 楽 筆 太 子 七 高 祖 御 影 二 幅 ︵ 天 正 九 年 と い え ば 先 述 す る 如 く 凶愛知県岡崎市願照寺所蔵、天正九年二月廿三日の裏書あ 顕如上人と教如上人の対立中である︶倒京都市泉龍寺所蔵、天正十五年三月廿八日の裏書ある親驚聖人御影一幅。倒兵庫 県尼崎市浄正寺所蔵、天正十六年四月十三日の一一書ある蓮如上人御影一幅。間島根県浜田市光西寺所蔵、天正十八年 十月廿四日の一一書ある証如上人御影一幅じ似福井県小浜市証明寺所蔵、文禄二年二月八日の一一書ある伝狩野山楽筆親驚 聖人絵伝四幅。刷奈良県大和高田市正行寺所蔵、 文 禄 二 年 五 月 十 三 日 の 一 事 訳 書 あ る 親 驚 聖 人 御 影 一 幅 ︵ 側 側 は 教 如 上 人 が 木 願 寺 第 十 二 代 と し て 就 職 中 の も の ︶i
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倒刷叫には﹁釈教如﹂刷倒的には﹁本願寺釈教如﹂凶倒には﹁大谷本願寺釈教 如 ﹂ の 署 名 が あ る 。 かくの如く、教如上人自身本願寺の法嗣としての強い自覚をもって行動され、顕如上人も教如上 人 に 対 し て 新 門 主 と 呼 び 、 また当時の公卿武士門徒も教如上人を新門様と呼んでいたのにも拘らず、教如上人は遂に 失職されなければならなかったのである。翻って想うに、先述した如く大坂本願寺退去につき、石山合戦和議成立前 教 如 上 人 と 難 波 別 院 一 五教 如 上 人 と 難 波 別 院 一 六 後より顕如上人と教如上人の聞には意見の対立あり||和解派と強硬派、即ち開城派と寵城派
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この不和は天正十 年六月二日信長が死去して間もなく、勅を捜部って和解したが、 一度生じた溝はその後も完全に消えなかったものの 如く、教如上人は嫡子でありながら遂に本願寺の法燈を継ぐことが出来ず、本願寺の法燈は、顕如上人の末子准如上 人が継承されることになったのである。 そのほか、顕如上人側と教如上人側の家臣の対立の問題、 また如春尼と教如 上人の室教寿院との関係も考えられる、が、大坂本願寺退去につき、和議成立前後よりの父子の意見の相異による対立 がなかったならば、あるいは真宗東西分派もなかったかも知れない。 また想う。文禄二年閤九月十五日、教如上人に 対して、今後十年間本願寺を相続し、 その後准如上人に本願寺を相続させてはという、秀吉の示した調停案を教如上 人側が、すなおに受諾していたならば、真宗の康史の流れもあるいは変っていたかも知れない。何故ならば、文禄二 年から十年も経過していない慶長三年、 その年の一月十六日には如春尼が、同年八月十八日には秀吉、か、それぞれ死 去 し て い る か ら 。 さて真宗東西分派は徳川家康が教如上人に対して好意を一爪す以前、既に早くも文禄二年間九月十五日、秀吉が教如 上人に失職を告げた時に初まったと考えることが出来る。先述せる如く、 ﹂の時教如上人は京都堀河七条本願寺東北 隅所謂裏万に隠退されることになったが、教如上人はこの時より、慶長七年、徳川家康から寄進された京都烏丸六条 の地に堂宇を興し、慶長八年正月三日関東厩橋の妙安寺より祖像を迎えて、教如上人自身独立の態度を明確にされる ま で 、 秀 吉 に 対 し 、 恭 順 を 一 不 し 隠 居 の 立 場 を 守 り 、 ひたすら謹慎して居られたであろうか。 しからずと言いたいので ある。教如上人は留守職譲状を受けることは出来なかった。 しかしながら、表面はともかく、教如上人の心裡には、 あくまで大谷本願寺の正統なる継承者としての立場の堅持があり、自覚があったと言わねばならぬ。このことを最も 積極的に示すものが、パけ大坂に於いて、大谷本願寺の建立︵現在の難波別院︶である。そのほか、ω
﹁ 大 谷 本 願 寺 釈 教如﹂の署名にて御影の下附。日開﹁正信偏・和讃﹂四帖の開板。帥﹁御文﹂の下附。国﹁本願寺代々御連座御銘﹂など を挙げることが出来る。ハ円本願寺の法燈を継承することが出来なくなった教如上人は、因縁寒に深き大坂の地に注目 し、文禄五年︵一五九六、十二月八日改元慶長元年︶渡辺の地に大谷本願寺を建立されたのである。現在難波別院に存す る 大 究 鐘 の 銘 に は 、 ﹁ 大 谷 本 願 寺 、 文 禄 五 丙 申 暦 林 鐘 下 旬 第 四 日 、 大 工 我 孫 子 杉 本 、 藤 原 朝 臣 仏 善 左 衛 門 尉 家 次 ﹂ と あ る 。 究鐘の頗る大なるを以て見ても、当時の伽藍の規模広大なることを推知出来る。本願寺継職問題が一応解決を見て、 教 如 上 人 が 隠 退 せ ら れ た 文 禄 二 年 よ り 僅 か コ 一 年 の 後 、 大 坂 に 大 谷 本 願 寺 が 建 立 さ れ 、 か か る 大 究 鐘 の 鋳 造 を 見 た こ と は 、 教如上人の積極的精神と、大坂の地に教如上人を支援すろ門徒の多かったことが考えられる。この教如上人建立にか ︵ 註
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﹀ かる大谷本願寺は、難波別院の記録によれば、文禄五年より僅か二年の後、当地の町の革整のため、これを難波の地 ︵ 現 、 東 区 北 久 太 郎 町 四 丁 目 ︶ に移したのである。しかして慶長五年の関原合戦前後より積極的に徳川家康に接近された 教如上人であるが、その教如上人は先述する如く、慶長七年家康から寄進された京都烏丸の地に堂宇を興し、慶長入 年正月三日厩橋妙安寺から祖像を迎え、そこを本山とされたため︵東本願寺の創立︶大坂難波の大谷本願寺は別院とな ったわけである。烏丸本願寺が輿立されて以後、大坂難波の大谷本願寺は、大坂本願寺、難波御堂、大坂御堂等の名称 を以て呼ばれることになった。かくの如く難波別院の前身大谷本願寺は、教如上人が、京都烏丸の地に本願寺を輿立 されるに先立って創立されており、吾々に取って忘れてならないものと言わねばならぬ。尚慶長三年渡辺の地より難 波の地に移った大谷本願寺は、その翌年二月より工事に着手、慶長八年三月に至って十五間四面の本堂落成し、同月 二十四日落慶法要を勤修したのである。次に、同﹁大谷本願寺釈教如﹂の署名にて御影の下附について述べなければ ならぬ。私の現在知るところを年代願に列挙すれば、ω
真宗大谷派小松教区保管、文禄四年八月廿︹U
の裏書ある顕 ︵ 註 3 ﹀ 如 上 人 御 影 一 幅 。ω
向上保管、文禄四年十月十九日の裏書ある親鷺聖人御影一幅。ω
福 井 県 吉 田 郡 藤 島 村 諦 聴 寺 所 蔵 、 教如上人と難波別院 七教如上人と難波別院 /\、 文禄五年四月十八日の裏書ある親驚聖人御影一幅。判大阪府堺市浄得寺所蔵、慶長二年五月十日の一一書ある親驚聖人 御影一幅。例愛知県岡崎市安受寺所蔵、慶長二年八月十三日の裏書ある顕如上人御影一幅。制愛知県西尾町聖運寺所 蔵、慶長三年四月廿一日の裏書ある親驚聖人御影一幅。的大阪市住吉区妙琳坊所蔵、慶長三年六月廿六日の一一書ある 親 驚 聖 人 御 影 一 幅 。
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奈良県大和郡山市常念寺所蔵、慶長三年十月廿八日の裏書ある親鷺聖人御影一幅。的岐阜県高 山市真宗大谷派高山別院照蓮寺所蔵、伝狩野山楽筆親驚聖人絵伝四幅。高山別院照蓮寺と岐阜県大野郡荘川村中野の 照蓮寺︵、タム区域内︶との関係は周知の如くであるが、特にこの絵伝の裏書の全文を示せば﹁親驚聖人伝絵、大谷本願寺 釈教如︵花押︶、慶長四己亥正月廿八日、飛弾国白川郷中野照蓮寺、願主釈順了 L である。制岐阜県神戸町信願寺所蔵、 慶長四年四月十五日の一一書ある顕如上人御影一幅。制滋賀県長浜市浄琳寺所蔵、慶長六年二月廿八日の裏書ある顕如 上人御影一幅。同法賀県浅井町満徳寺所蔵、慶長六年四月十五日の一一書ある教如上人寿像こ帽。帥石川県金沢市上宮 寺所蔵、慶長六年十一月門川U
の 裏 書 あ る 教 如 上 人 寿 像 一 一 帽 等 で あ る 。 かくの如き御影の下附に於いて考えられるこ とは、教如上人の心裡には法燈の伝持者としての立場の堅持があり、隠居の意識にあったと言うのでは決してないと いうことである。同教如上人が慶長四年霜月につ正信偏・和讃﹂四帖を開板されたことは有名である。これはその刊 記によって知られる如く、文明五年の蓮如上人の開版本によって、初めての覆刻木をつくられたのであ一るが、このこと も ま た 、ω
に於いて述べたと同様の意味があると考えなければならぬ。制﹁御文 L の 一 下 附 に つ い て 。 福 井 県 小 浜 市 証 明寺には、教如上人一証刊の﹁御文﹂が所蔵されている。このつ御文﹂は寺伝によれば、慶長七年の下附というのであ る。もしそうとすれば、これもまた前述同様の意味があると考えなければならない。国﹁本願寺代々御連座御銘 L に ついて。現在、大阪市住吉区妙琳坊には、間違いもなく、教如上人御染筆になる﹁本願寺代々御連座御銘﹂なる一幅 が所蔵されている。それは本紙、縦一米五粍、横三十九糎五粍であり、親鴬聖人より教如上人に至る本願寺歴代御名を三行に書してある。残念に想うことは、それを書された年記がないことである。 し か し な が ら 、 かくの如く教如上 人みずから墨書されたということは、教如上人が自分こそ本願寺の正統なる継承者であると言うことを、強く示され たのであり、教如上人の自覚と御信念の程を考察する上に、見逃してはならないものと言わなければならぬ。 文禄二年間九月十五日、秀吉により失職を告げられた教如上人であったが、表面はともかく、内心に於いては、 そ れ以前の信念と変ることなく、本願寺の正統なる継承者として、着々と行動を進められた偉大なる教如上人であった。 就中、文禄五年難波別院の建立は、教如上人が京都烏丸の地に本願寺を興立されるに先立ってのことである。真宗大 谷派だけでなく、真宗史の上に忘れてはならないものと言わねばならない。尚、終りに一言すべきことがある。豊臣 秀吉は隠居の身である教如上人に対して、大阪城の眼前に大谷本願寺の建立を沈黙の裡に許容し、徳川家康は、家康 に積極的に接近された教如上人に対して、自然の勢いであるとはいえ、隠居の身と知りながら、堀河本願寺の眼前に 烏丸本願寺の寺地を与えたのは何故であろうか。この辺の事情を適確に示す資料に恵まれないのであるが、なお考う べきものあるを想うのである。 註 ①ここに示す裏書中
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は ﹁ 岡 崎 市 史 、 矢 作 史 料 編 ﹂ ︵ 昭 和 三 十 六 年 ︶ に よ る 。 ③ 難 波 別 院 は 昭 和 二 十 年 三 月 十 三 日 夜 の 空 襲 に よ り 悉 く 焼 失 。 難 波 別 院 に 関 す る も の と し て は 、 同 別 院 発 行 の ﹁ 難 波 別 院 由 緒 記 ﹂ ︵ 大 正 二 年 ︶ ﹁ 難 波 別 院 誌 要 ﹂ ︵ 昭 和 七 年 ︶ が あ り 、 今 は そ れ に よ っ た 。 戦 後 同 別 院 発 行 の も の と し て は 、 ﹁ 難 波 別 院 略 史 ﹂ ︵ 昭 和 三 十 一 年 ﹀ ﹁ 再 建 記 念 写 真 帖 ﹂ ︵ 昭 和 三 十 六 年 ﹀ が あ る 。 ③ こ こ に 一 示 す 裏 書 中ω ω ω
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帥 は 、 藤 島 達 朗 先 生 の ﹁ 真 宗 東 西 分 派 の 一 視 点 ﹂ ﹁ 岡 崎 市 史 、 矢 作 史 料 編 ﹂ に 、ω
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は 柏 原 祐 泉 学 兄 の 御 教 示 に よ る 。 ︵ ﹁ 大 谷 史 学 ﹂ 第 六 号 、 昭 和 三 十 二 年 ﹀ に 、 同 は 追 記O
小 稿 に 於 い て 、 順 序 と し て 石 山 合 戦 和 議 成 立 前 後 よ り 筆 を 進 め た が 、 冗 長 と 煩 雑 を 避 け る た め 、 ま た 紙 幅 の 都 合 で 史 料 等 の 引 用 教 如 上 人 と 難 波 別 院 九教如上人と難波別院 二 O を避けたことである。辻善之助博士﹁日本仏教史﹂︵近世編之一︶に負うところ多く、更には、谷下一夢師の﹁真宗史の諸研究﹂ 同師編﹁顕如上人伝﹂真宗木願寺派史料編纂所編纂の﹁本願寺史﹂等も参考としたこと、そして、続真宗大系第十六巻所収の関 係史料、及び史籍位指覧第二十五問所収﹁駒井日記﹂等によったことを明記して置く。また、御影、御絵伝等の寺宝の拝観調査に 御理解下され、種々御配慮を戴いた御住職の方々に厚く御礼申し上げる次第である。
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﹂ の 小 稿 に 於 い て 示 し た 寺 伝 狩 野 山 楽 筆 の 御 影 及 び 御 絵 伝 佳 子 の 数 々 は 、 東 本 願 寺 と 山 楽 の 密 接 な る 関 係 を 一 示 す も の と 言 わ ね ば な らぬ。私は昭和十八年京都市真宗大谷派浄慶寺に於いて、過去帖を発見し同寺が山楽の菩提寺であることを知り、土居次義先生 に報告したところ早速そのことを紹介された。︵同先生﹁山楽と山雪﹂︺東本願寺系統の寺院には山楽筆の親驚聖人絵伝があって 然るべきことと考えられるので、この小稿の論旨には関係ないことであるが、この機会に大方諸賢の御教示を仰、ぎたく御願い申 し 上 げ る 次 第 で あ る 。高等学校
﹃
倫
理
・
社
会
﹄
における
親驚思想の扱い方についての一私見
大
友
久
︵ 仏 光 寺由
派文部省の扱い方について
川従来の﹁社会科・社会﹂では、 およそ三単位︵週 3 時 間 ︶ で 、 ﹁ 政 治 ・ 経 済 ・ 労 働 問 題 ・ 倫 理 ﹂ を 扱 い 、 倫理の単 一万では西洋思想の比重が大きく、東洋及び日本の思想においても、仏教思想は殆んど扱われていなかった。 ﹂ の 上 向 山 で 今度︵昭和三十八年︶の改定において、文部省が﹁倫理・社会﹂を独立させて必修科目とし、特に﹁日本 の考え方﹂の項を設けることを﹁指導要領﹂で示し、 ﹁ 指 導 計 画 の 留 意 事 項 ﹂ の 中 で も 、 ﹁日本の代表的な宗教思想 家や学者﹂を選ぶよう指示しているのは望ましい傾向といい得る。 伸 し か し 、 ﹁倫理・社会﹂にあてられている週に二i
コ 一 時 間 ︵ 普 通 課 程 で は 三 時 間 を 実 施 し 得 る が 、 大 抵 は 二 時 間 ︶ で は 、 古今東西の思想内容を一学年度で教授することは到底不可能である。年間指導計画で全体を七0
時 間 と し て 、 ﹁ 世 界 観・人生観﹂に最大四0
時 間 を と っ て も 、 ﹁日本思想﹂で約七時間、親驚思想にあて得る時間は、凡そ一1
一 ・ 五 時 高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 驚 思 怨 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見高 等 学 校 ﹁ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 驚 思 想 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見 間 ︵ 一 時 間 H 五 十 分 ︶ に す ぎ な い 。 制次に指導計画作成の場合、 ﹁ 西 洋 の 考 え 方 ﹂ ﹁東洋の考え方﹂の指導については、思想家の人名が具体例として あ げ ら れ て い る が 、 ﹁日本の考え方﹂では ﹁日本の代表的な思想家や学者などを適宜選んで﹂とあるだけで、具体 例をあげていないため、現在検定済教科書一六冊の中でも親鷲を扱っていないものもある。従って、将来新教科書が 出版されたり、現在の教科書が改定される場合、この点は親鷺思想採択如何の決定の場合の当
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] 百 円 三 で あ ろ う 。 教 科 書 の 扱 い 万 に つ い てω
現在検定済教科書二ハ冊のうち、 一 五 冊 は 、 ﹁日本の考え方﹂の部分で親鰐の思想が一扱っている。そして、その 大部分が﹃歎具紗﹂を中心に展開している。これをさらに分類すると、第一章︵二冊︶第二章︵凹冊︶第三章︵十五附︶ 第四章︵なし︶第五章︵二冊︶第六章︵二冊﹀第七章︵一冊︶第二ニ章︵五冊︶第十六章︵二冊︶で、この分類は、ある章 全体を引用しているものもあり、各章から部分的に引用しているものもあるので重復しているわけであるが、殆んど ︵ 十 五 川 間 ︶ が 、 第 三 章 の ﹁ 悪 人 正 機 説 ﹂ を 中 心 に 展 開 し て い る と い い 得 る 。ω
このように﹁忠人正機説 L を中心に展開することの可否は暫くおき、私はこれら一五冊の教科書の﹁悪人正機 説﹂の扱い方を次の一三つの類型に分類できると思う。 ︵ i ︶宗教的には、人聞はすべて悪人である。すなわち、善を行なおうとして行ない得ず、従って弥陀の慈悲に頼る よりほか救われる途がない。 ︵ − U ︶ここにいう忠人は、自己の一無力︵円力︶に絶望し、自己の罪業を深く自覚した人である。 勿論、この場合の悪は仏教でいう悪で、これは煩悩・我執または業に由来する。このような向己の罪業を深く白覚し、慢心や我執を捨てた人は、弥陀の慈悲にすがる心を起し易い。 ︵⋮山︶戒律を守れない人︵具体的には武士・漁夫・猟師・向人等︶が悪人であるが、弥陀の願いは、 いわゆる戒を守 れないこのような忠人を救おうとするものであ一る。 以上三つの類型について、若干の批評を試み ﹁悪人正機説しの扱い方についての問題点を引き出してみようと思 う 先ず、最初の﹁宗教的には人間はすべて悪人である﹂という説明について、これは道徳的悪と宗教的思︵罪︶とを 区別した説明であって 守 歎 豆 ︵ 紗 ﹄ の 宗 教 的 性 格 を 把 握 し て は い る が ﹂れは何も親驚の思想に限ったことはないの で、キリスト教の原罪と神の恩寵による救いの思想と比較しても、殆んどその差は認められない。即ちここには親鴬 思想の特色が十分に表現されていないと思う。第二の説明は、 かなり仏教的で恵についても、これを煩悩や我執、或 いは業に由来するという点で他の宗教とは異った仏教思想の特色を示している。 しかしここにもなお、私は仏教全体 と浄土教との関係が十分に一不されていないように思われる。 第三の﹁戒律を守れない人﹂を悪人とすみ説明は ﹁歎異紗﹂第二二章たも合めた説明であろうが、戒律の問題に ついては、法然と親驚の生活態度や思想上の相違が当然問題になるであろう。 そこで私は、ここから三つの問題を引き出そうと思う。 第 ﹁西洋の宗教・倫理思想との比較し 第 ﹁仏教全体と浄土教との関係 L 第 ﹁ 浄 土 門 に お け あ 法 然 と 親 日 明 の 関 係 ﹂ これらの問題を理解することが、親鷺思想を扱う場合、教授者として必要であると思うのであるが、 いずれも大間 高 等 学 校 守 倫 理 ・ 社 会 ﹂ に お け る 親 鷲 思 怨 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見
高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 鷺 思 想 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見 二 四 題であって、ここで詳細に論ずる余裕も力量も私にはないのであるが、 ただ極く常識的な私見をのベて諸賢の御批判 と 御 教 示 を 仰 ぎ た い と 思 う 。
私
見
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﹃歎異紗﹄の扱い方について ﹃歎異紗﹄は、浄土真宗の内外を問わず、従来非常に注目されて来た書物であるが、それだけに、所謂﹁造悪無碍﹂ 或いは﹁宿命論的解釈﹂など、多くの誤解を生じた事実も否めない。従ってこれを教材として扱う場合、 かなり慎重 な配慮を必要とすると思われる。 特にこの書が親驚自身の真意を伝えたものであるか否かについて、 内外の厳しい 批判のある今日では一層のことであろう。そして一見したところ、これらの問題の焦点は、 や は り 、 ﹁ 悪 人 正 機 説 ﹂ ︵ 三 章 ︶ ﹁ 法 然 と 親 驚 と の 関 係 L ︵ 二 章 ︶ ﹁ 宿 業 の 問 題 ﹂ ︵ 一 一 一 一 章 ﹀ な ど に あ る よ う で あ る 。 し か し 私 は こ れ ら の 問 題 は 、 その表現こそ異なれ、親驚自身の著述にもみられるものであり、 ﹃歎異紗﹂の著者の独断的見解といい切ることはで き な い と 思 う 。 尤も﹁悪人正機説﹂は、長井真琴博士も御指摘のように︵﹁大法輪﹂昭三十七年八月号﹀第十八願の﹁唯除五逆誹詩正 法 L の 文 意 や 、 ﹁ 御 消 息 L にみられる造悪無碍に対する戒めの言葉とも矛盾するが、家永三郎博士も指摘されている ど ん け に ん ぐ ん も う く さ い ひ ように︵﹁中世仏教史研究﹂7頁︶﹁教行信証﹄総序には﹁権化の仁、ひとしく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさし ぎ や く ほ う せ ん だ い お く し く逆諒闇提をめぐまんとおぼす﹂とあるので、私は信巻の終りにのべられているように、これを﹁抑止﹂と﹁摂取﹂ の矛盾的統一として理解すべきではないかと思う。 さ ら に ﹁ 宿 業 ﹂ の 問 題 に つ い て も 、 宿業を宿命の意味にとれば ロ 旦 耳 目 百 山 田55
ハ 法 定 論 ︶ と 変 ら な い と も 思 わ れ 、 深 浦 正 文 博 士 も 述 べ て お ら れ る よ う に ︵ ﹁ 業 の 問 題 ﹂ 七 六 J 七 八 頁 ﹀宿業を宿命と同一視することはできないのであって、このように誤解されるのは﹃歎異紗﹄ ︵ 十 一 一 一 章 ﹀ の 表 現 が 、 ﹁ 本 願ぼこり﹂の弁護に急なるあまり、﹁造悪無碍の戒め﹂に対して消極的であるためであろう。﹁法然と親驚との関係﹂ については後にのべることにして、要するに、﹁歎具紗﹄は、その文体︵
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o ︶ に お い て も 、 信仰告白の切実な点で も、私はすぐれた書物であると思うし‘これを教材として扱うこと自体には異存はないが、これを部分的に取り上げ て、その一部分だけを親驚の思想全体であるかのように扱うならば、 やはり誤解を招き易く危険であると思うのであ る 。 勿論、教科書の親驚思想にあて得る限られた頁数と少ない授業時間、さらに生徒の理解力を考えれば、﹃教行信証 L のような難解な書物を引用することは無理ではあろうが、教授者としては、 やはり親驚の他の著述についても相当の 関心と理解をもつことが必要であろう。 ︶ 。 , “ ︵ 仏教全体と浄土教との関係 次に各教科書の日本仏教を扱でている部分を概観すると、大抵の教科書が、聖徳太子から最澄空海と平安仏教を概 観し、次に法然・親驚・道元・日蓮と鎌倉仏教に及び、総花的に、 しかも他力・自力︵聖道・浄土、難行・易行︶と 』 ま その特徴を類型的に扱っているものが多い。日本仏教史の概観であればこれも当然であろうが、この程度の叙述なら ゆ だ ﹁日本史﹂に委ねてなるべく重複を避け、日本仏教の代表としては、やはり鎌倉仏教に重点をおくべきで、その 場合浄土教を扱う以上は、 やはり中国浄土教との関連、 さらに仏教全体と浄土教との関係をぬきにしては、浄土教の 何たるかを正しく生徒に理解させることはできないであろう。 ︵勿論、法然・親驚に与えた源信の﹃往生要集 L の 影 響、平安末期の社会的混乱と末法思想、親驚の聖徳太子奉讃も見逃すことのできない事実ではあるが︶。 尤も﹃歎星︵紗﹄︵一一章﹀には弥陀←釈尊←善導←法然←親驚の思想的系譜が叙述され、善導・法然の立場に絶対の信 高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 驚 思 想 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見 二 五高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 驚 思 想 の 扱 い 万 に つ い て の 一 私 見 一 一 六 頼をよせていた親驚の言葉がのせられている。 しかし﹃教行信証﹄や﹁高僧和讃 L にみられるように、龍樹・天親か ら始まり、曇驚・道紳・善導と中国浄土教を経て、源信・源空と所謂七高僧の系譜を重んじ、中でも曇驚今﹃論註﹄ の影響を強くうけたと思われる親鷲の思想を理解するためには、 やはり中国浄土教、及びその根源となる印度の大乗 仏教との関係を教授者としては一応考慮に入れておくべきであろうと思うのである。
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法 然 と 親 皆 川 の 関 係 に つ い て この浄土教の系譜と関連して、最後に最も重要で、 しかも困難な問題は、師の法然と親鷺との思想ト一の関係である が、大抵の教科書はその師弟関係の歴史的事情を略述した後で、﹁親驚は法然の教えをさらに深めしとか﹁徹底して L とか述べているが、両者の思想上の差を明らかに示したものは少ない。勿論、 ﹃ 歎 異 紗 ﹄ ︵ 三 章 ︶ の よ う に 、 ﹁ 親 驚 に おきでは、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおほぜをかふりて信ずるほか別の子細なきなり﹂ という表現、或いは親驚白身に新しく一宗を創立する意志はなく、法然を﹁浄土真宗の太祖﹂と仰いだ事実からすれ ば、両者の思想上の差は問題にならぬかもしれない。 し か し 、 わざわざ師の教えを﹁深め﹂というからには、当然、 ﹁ 何 を 如 何 に L 深めたかの説明がなされなければならないと思うのである。この点について、﹃歎異紗﹂︵二一章︶の﹁善 人なをもて往生をとぐ、 いはんや悪人をや﹂と﹃和語燈録﹄や﹁西方指南抄﹄にもでている法然のつ罪人なをうまる、 いはんや善人をや L ︵ ﹁ 親 驚 聖 人 全 集 ﹂ 輯 緑 篇 二 、 二 九 五 瓦 ︶ という二つの相対した文が二応引き合いに出される。尤もこ の二つの文章をめぐって、学者間に異論があるようであるが︵家永三郎著﹁中世仏教思想研究﹂︶、ここで法然と親驚の立 場をはっきり対立したものとみれば、 ﹁ 歎 具 妙 ﹄ 合 一 章 ︶ の 文 意 と も 、 また親驚白身の法然に対する絶対信順の態度と も矛盾を生ずるし、逆に両者を全く同一の立場とみれば、規鰐の思想史上の独自性は全く認められないというアポリ アに陥いる。治も宗学の上では﹁三願転入し﹁一一隻四重﹂﹁信心為本﹂﹁如来廻向﹂﹁不来迎﹂など、親日鰐独自の解釈が従来研究されているし これを徹底的に窮明することも勿論大切なことである。 しかし、高校生を対象としてこれら の難しい宗学上の理論を取り上げることや、専門外の教授者にこれらの理解を要求することも無理であろうと思う。 じ ね ん 親驚の窮極的な立場と思われる﹁自然﹂の思 そ こ で 私 は ︵ 一 部 の 教 科 書 も ﹁ 歎 異 抄 ︶ ﹂ ︵ 十 六 章 ︶ を 通 じ て 扱 っ て い る が ﹀ 想を取り上げて、ある程度簡明に、これらの問題を解決する努力を試みたいのであるが、ここで十分に論ずる余裕も 力量もないので、単に問題点を指摘するに止める。 判自然法爾について 周知の如く、親驚の著述には 口 ね ん ﹁自然﹂についての解釈が多い。﹃尊号真像銘文﹄にも﹃一念多念文意﹄にも、﹁唯 信紗文意﹄にもみられるし、 さ ら に ﹁ 歎 異 紗 ﹄ ︵ 十 六 章 ︶ も こ れ を の せ て い る 。 しかし親驚には別に、普通﹃自然法爾 章﹄と呼ばれている短文があることは周知の事実である。尤もこの文章は、 守正像末和讃﹄の終りにのせられている 、 も の ん ﹂ 、 ﹁顕智の聞き書しとして専修寺に伝わっているものと、 ﹃末灯抄﹄の第五章にのっているものと三種類ある ょうであって、これら三種の成立事情と相互関係については、私は未だ十分な研究をしていないが、少し表現に違い の あ る ほ か 、 内 容 上 の 一 大 差 は な い も の と 思 わ れ る 。 私はこの﹁自然法爾章﹄で親驚は簡明に、 しかも含蓄の深い表現を用いて、白己の思想を表わしていると思うので あ る 。 さ て こ の 文 中 に 、 っ自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり、弥陀仏の御ちかひのもとより行 者のはからひにあらずして南無阿弥陀仏とたのませたまひでむかへんとはからせたまひたるによりて 行者のよから んともあしからんともおもはぬを自然とはまふすぞとききてさふらふ﹂ ︵ ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ に よ る ︶ と あ る 。 この最後の﹁ききてきふらふ﹂とあるのは、すでに先学者達が指摘されているように、 ﹂ の 思 想 は 親 驚 が 師 の 法 然 、 或いは浄土門の他の先覚からうけついだものであることを語る言葉であろう。これについて先学者達がその根拠とさ 高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 驚 思 湿 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見 七
高 等 学 校 ﹃ 倫 理 ・ 社 会 ﹄ に お け る 親 鷺 思 想 の 扱 い 方 に つ い て の 一 私 見 二 八 れているものに、法然の﹁法爾﹂についての法語がある。対比のため再度引用しよう。 ﹁法爾道理と云ふ事あり。炎は空に登り、水は下りさまに流る。菓子の中にすきものありあまきものあり、此等は 皆法爾の道理也。阿弥陀仏の本願は名号を以て罪悪の衆生を導かんと誓玉ひたれば、只念仏だに申せば仏の来迎は法 爾の道理にて備はるべき也。 L ︵ ﹁ 和 語 灯 録 ﹂ 巻 五 、 浜 口 恵 埠 氏 ﹁ 自 法 法 爾 章 ﹂ よ り 再 引 用 ︶ じ ね ん ここにのべられている法然の﹁法爾﹂の思想は他力往生を説く点で、親鷺の﹁自然 L と殆んど変らないようである。 古 田 紹 欽 教 授 も 、 ﹁法然が法爾の道理としているところを親驚は自然と云い換え﹂ たにすぎないとのべておられる ハ ﹁ 理 想 ﹂ 三 四