――目次――
1,
再び円頓戒について,常磐大定,Daizyō TOKIWA,pp.1-26.
2,
神と命による神代史の資料批判,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.27-45.
3,
般若小品の訳出者について,林屋友次郎,Tomojirō HAYASHIYA,pp.46-63.
4,
慶元条法事類の道釈門(上),宗代宗教法制の一資料,牧野巽,Tatsumi MAKINO,pp.64-84.
5,
宗教における理性と想像との人間的解釈,田淵正範,Masanori TABUCHI,pp.85-103.
6,
英米における宗教哲学の現状,大島豊,Yutaka ŌSHIMA,pp.104-114.
7,
聖サヰエルが日本伝道の機縁,比屋根安定,Antei HIYANE,pp.115-125.
8,
空と常楽我浄の意味,藤本智董,Chitō FUJIMOTO,pp.126-141.
9,
『基督時代』,三枝義夫氏著『基督時代の基督教』について,森敬之,Takayuki MORI,pp.142-147.
10,
伽耶及び仏陀伽耶の史的研究,田中於莵弥,Otoya TANAKA,pp.148-153.
11,
禅学及びその研究法について,岡田宣法師の『禅学研究法と其資料』を読みて,柴田道賢,Dōken
SHIBATA,pp.154-166.
12,
新刊紹介,pp.167-176.
Posted in 1932
(昭和7)年
て南條の主張とその反響
自分が.南都の戒壇を論じ、借款の閻頃戒を蕊じ、而して登眞を論じ、遣確を論じた意趣には一次の南條の王 領があつて、絶えずこの雨意趣と敲癒しつ1−之を行ったのであつた。即ち一は遣確の華厳斡と辟とが行表を通 再び昔戎について再び固頓戒に つ い て
自分は、昭和三年四月費行の﹁性相﹂に﹁商都戒嶋盃﹂を革L、同五月費行の﹁宗教研究﹂に﹁倦教の蘭岐 戒を給す﹂を革L、同八月費行の﹁寧欒﹂lニ﹁倍数大師の法敵濾塘り日本件数如上に於けろ位置を湘 明†﹂皇軍し、先是、同亡く﹁寧欒﹂に﹁嬰泉和倫き日本の文化﹂一ど草L㌔之l=野して、昭和四年二月 弊行の﹁大正大半々報﹂に、二宮守人氏の﹁常盤博士の卸頓戒論を謹みて﹂が現ほれ、更にそれl=野し て、同年八月の﹁宗教研究﹂に捕超慧日氏の﹁圃頓成に就与て﹂が出で、昭和五年四月にこの固成論ミ 必然の開係わろ問題を取り扱つわ拙著﹁彿性の研究﹂が出で、昭和六年十二月り﹁山家単軸﹂に、扁田 尭劇氏の﹁卸戒の正依法撃、傍俵梵綱紀にこ就て﹂、硲忠弘氏の﹁顔戎論の比蘇自然智私考﹂が出で、猶 まわ昭和七年一月の﹁宗教研究﹂lこ久野芳陣氏の﹁臥頓成瀬流論﹂が出で㌔予の胤岨戒論の拙稿が 斯くまでに内外多敬の堆老−こ注目ぜられ、論議の好度目ミ光つた事lェ、望外り光煮でぁる。昨年二 月脊綱に遭準し、可なり長日月に亘つて沓射lこ盛ざかつ吾が、寄鍋後年しく一周年を迎へ米今月、 常堺者よりこの間成につきて、更に一文を草ぜよの指令を籍t。斯くまでに論議ぜられた後でぁる から、更に之を諭すろにつきては、相宮中準備が無けねばならねが、今や撃年末l=際Lて、事志l= 沌l‡拍。寺門実の耽を見ろに、自分の論旨がよだ能く理解ぜられて居らねミ思ふので、此際従前の 併耽に野して補足を加へ、かねて諾凍り訣l=鍋祝・し、後日更に縞を新にぜん事を期する。 ︵昭和七年二月十八日︶ 常盤 大 定
加β再び刷喧癒たついて
二
して、停敦の風頃の託悟となつたもので、停敦の生命ば、この茫悟で無けねばならぬ。借款を見んには、その宗
と畢とを拓別するの要がある。その拳の方面に於ては.璧眞に承けた併.賞に多いのであるが.然し宗に至って は道蒋に得たのであるから、この髄を明丁に認識せんでは.その本質に解れぬ事となるといふ事を力説したので あつた。二は南都の戒は、三束の形式を有する壌伽戒であつて.その律儀戒の中に川分戒を塙し、その擁書法戒の中に焚網戒を擁したのであつ冤同じく梵綱戒であつても、四分戒と伴ふものは、言は羞義網戒であり・之
に射する侍教の梵綱戒は、全く阿分戒を離れたものであるから、言はゞ不共梵網戒であつ冤南都の威を斯く見
てこそ、すべての疑問が滑りなく解け得るといふ事をカ訳したのであつた。然し常初に在っては、南都の或は・
戒伽戒であらうと気づいたが.まだ十分練れて居なんだが楚に、その叙述の中に不十分な粘もあり・言ひ足らぬ 鮎もあつたから、直に阿噴戒論を草して.意のある肝を重さんとした。前後に於て・多少の乱酔があつたら、彼 のものを以て本旨とすべきは三−一Pふまでも無い。この南意趣は.全く斬らしかつたのであらう。二宮氏の如き専門の聾者の聞から、痛烈な反響が起った。こは、素より政則せる肝であつた。さて自分は一道痔を倍数の先駆と
するにつきて、法租とは言ふたが感に﹁天台宗租﹂といふ名将を避けたのは、理由のある串であつた。﹁個教の天台
宗﹂とで皇昆ゞ、或は綴謬が幾分避けられると思ふが、天台宗といふ語の中には・多くの倦統がある。自分は
倖統を多分に含む語を通して之を見たので無く、雨着の内証の方面から見たのであつた。若し停統を含む天台宗
といふ上からせば、璧眞の方に組師と仰がねばならぬ理由がより多くある。而も俸敦自身その印宗血腹の中に・
登眞を加へて無い靡からすれば、そこに三顧せねばならぬ問題がある。何は究もあれ、倍数を見るにつきての中
2ク∂心は.その画境の詮悟であつて、これが彼をして血の出る揆な三一棟寛の評あらしめ、又、不共園戎の主張あら
しめたのである。この許悟を外にして、停敦を見んとする時はーその正鵠を得ぬ事となる。而してこの許倍は、
必ずや行表を通して道瑠に承けたもので無けねばならぬ。その敦単に、華族畢の色彩の著しく見らる1のは、之が悠であるといふ厭から、自分は特に天台宗といふ名稀を避けたのであつた。然るに二宮氏の批評は、璧眞を外
にして、遣環を天台索敵としたといふ方角蓮ひの立脚飽からしたから、頗る妙な論議となり、枝未の事に力こぶ
を入れる事となつたが、要するに自分の時に注意した鮎に関しては、何等の理解をも有せず、随って自分の主張tに謝する意見は捕捉しがたい。察するに天台宗絶としては、道蒋よりも要眞の方を重要とすべしといふにあら
う。若し然らば、俸敦の内証も璧眞より承けたといふのであるか、それを明丁に承りたいのである。天台拳を翌
異系に仰いだといふ事は、自分が障屏に言つて居るのであるからーこの事を以て租師とするの意ならば、今更氏
に聞くまでも無い。況んや遣循と璧眞の軽重論の如きは.いよく以て横道である。また第二の塊伽戒の鮎に於ても、二宮氏の論旨は﹂至って捕捉しにくい。或は﹁四分或は何とでも相通する﹂といひ、或は﹁梵網戒の事など
は、南都に任せて置けばよい﹂といふてあるが、何の事やら一向に分らぬ。停敦の熱血の凝れる﹁顛戒鎗﹂の一兵
を開いたゞ竹でも、斬る事の言はる1筈が無い。四分・梵納の事は、この篇の中に繰り返して出るから、こ1には立ち入らぬ事とする。氏は、随分輩を極めて免語を連蓉してあるが、要するに拙稿の意の存する併を了解せぬ
に基づいて居る。
二宮氏の文に勤してl棋超拳士の批評があらはれた。捕粧しがたき文意を汲み取って、キビ/\しく文を行つ 再び減額戒ドゥいて β07\ 再び弼頑戒について 四 て居る。その他旨が通徹して居るが、今は之にも立ち入る事を避ける。新に現れた久野拳士の緻据な研究は、如 何にも掌徒に相普せるものである。その結論だけを見るに、第一の樽敦の詮悟を遣砺に求めた鮎に牌しては、﹁妥 昔である﹂と言ひ、第二の鮎に就いては、南都は解輝上磯伽中心であり、璧典は梵綱と四分待とを井設したもので あらうと言.ってある。殆んど自分の二つの主張を承認したものである。自分は、よし如何に反射論があつても、 必ずや終局に於て賛成者があると自信して居た、今久野率土が、その細密な研究に於て.殆んど承認するまでの 域忙至った串に封して、自分は知己を得たの感がある。たゞ少し違ふ師は、癒伽戒を嬰眞にまで遡らぬ新にあ る。率土はこ1に年代較を押入して居らぬが、南都といふのは、何時代よりの事であらうか。哲競に﹁主として 最澄渡文以前の奈良朗彿敦を考察す﹂とある以上は、少くも件数時代までを包含せしめての事であらう。若し然 らば窃眞から僅竺一世しか陥って居ない。どの時代から琉伽中心の肺癌転下したといふ事になるのであらうか。 聖典上り件数までの開に於て、南都の戒律減に大なる持回を偏せる律師ありとせば、そは、法進とか豊安とかで あらうから、是等の人が、梵網・−四分を統一せんが娼忙、この節梓を娼したといふのであらうか、或は南都の六 統が、侍故に射して、四分律む擁護せんが弱に、この解将を施したといふのであらうか。久野氏の意は.蓋、後 者セあらう。﹁螢典の解粋が如何であつたかは、史控の徹すべきものが無い盛め不明である﹂と言つてあるのは、 皐徒として頗る無雑の意見であるが、然し物足らぬ。自分の出費粘は、璧眞が同一戒壇に於て、梵桐と四分とを井 接した肝に、疑問を起したのであつた。軍に之を便利とのみ見ては、如何であらう。況んや上に多賀塔を載せて あるが、之をも単なる俵慮とのみ見ては鎗りに都合がよいといふ排に出費し、多少の材料を集めて、之を結論し 2α9
たのであつた。氏の結論では、失張この疑問が持される事となる。之に関しては、支那の南山以前の戒律史、特 に南山の戒律論老練席的に取り調べねばならぬが、これはかねて希望しっ1、今宿懸菓のま1に残されて居るの である。 〓、比蘇の自然智と、邁確 硲氏の﹁斡戒論の比蘇自然智私考﹂なる論文は、比載自然智を以て、法相宗の紳叡なりと論じたもので、秩序あ ゎ∴興味のあるものである。これは直接に園頓戒についてのものでは無いが、この比蘇自然智が∵氏の主張の如 く、果して法相宗の紳叡でありとせば.道稽と借款との相承掬係が破顔せられて、障って囲顧戒論の上に東大な ■■一 幾化を来す事となるから、之について大に研討する必要がある。氏の論定の根撼は左の二條にある。 昔今併葵詫誤之事、東レ見轟州︰不忠之詞、若嬬畠遽州牌畢失︰何況比蘇、自然智也︵﹁顕戒論﹂、中巻︶ 苦言詑蘇及義現自然智宗、無レ併レ稟︵﹁法華秀句﹂巻上末︶ 氏は、最俊に、﹁自然智を以て、稚封智の意味なりとするも、無師燭悟の意味なりとするも.比蘇の紳叡である事 の史的事箕に於ては、恐らくは些の動烙をも来すものでなからう﹂といふ首倍を以て蓉表したのである。立論の 閃灯些の間隙を許さぬまでに、整然たるものがあつて、奥へられたる材料よりのみ見る時は.何人も異説を唱へ 得ぬ底の好論文である。然しそれで以て、遣確を比蘇の自然智と悠した、古来の確定詮を覆へし得らる1であら うか。之に館して、自分の見る併を述べて見る。 ﹁依恐天台宗﹂は、侍敦が天台を宗とする依憑を集蝕したもので、倖敦が新京を創喝するにつきて、極めて重要 再び叫囁痕lニついて 五 20ク
なものである。その序の中に、次の文句がある。
00000000
最澄南唐之後感慧糀〓泰東康之訓廟森戒疏東面珠於海西顧■連城於海束可
000000 南庸といふのは、言ふまでもなく、道瑠の事であつて、俸敦妊この道稽に謝して−1此一宗を稟く﹂とまで渇仰して居るのである。束庸といふのは、これまた言ふまでもなく、潜進の事であつて、倖敦は一法遊の﹁梵綱経疏﹂
に、天台の拳を承けたと言ふのである。件数の宗と畢との院別は、斯る肝に見られねばならぬe若しこれを封等 に見て.いづれからも−天台宗を承けたといふては、綱格が立たぬ事となる。いづれも停敦の恩人であるがー然しその生命がいづれに得られたかに注目する必要がある。偉敦の道碍勧を知らしむる文献として、鰐一着に之を
知って置かねばならぬ。又、同書の中に、次の文句がある。
0000
00000
呼乎賢哉、生知者上、畢知者攻唾言有白也。不由l門戸天下可知崖察倖哉。此間在■l比蘇天居間天台可 此間在元締一の句中にある比蘇は、何人を指すのであらうか。こ1には自然智の語がないけれど・生知者上・不 出■門戸天下可誌と言って居ふのは、無師猫悟とも見らるべく−更竺歩を進めて紹封智の意味を含んで居るとも見らるべく、横言すれば自然智の事である。﹁日本に於ては比鮮寺に在少、支那にあつては、天台山に聞いた﹂
とまでに式台山に封著せらるる比蘇は東して唯諸家の紳叡の事であらうか。若し之を唯識家の紳叡とせば、序
の中に件数が著有法相宗者、非−−僕陽之蹄依密■青龍之制経︼とまでに、唯詩家を批評した趣旨を授却する事となる。 こ1は.何としても道環の事であらねばならぬ。之を道確としてこそ、前掲の序の文句とも相應する事となる。 更に停敦作﹁天台付法線起﹂の文として、﹁博通線勉﹂の中に引許せらる1ものに・次の如き文字がある。 再び脚相成について 且伯0000000000 0000 大箱律師、先入和国︰乃倖−画明︰利恵有情︰白塔檜統、後遊白木恋席面義↓開工彿知見り所以大安贋律、琵誠経於比蘇︰ 00 東大恰統、往き梵網於庸院︰両聖用y心、弘天台義︰群生同欽一l天上甘琴 大前律師といふも、大安唐待といふも、道稽の事である。白塔侭統といふも、東大伶統といふも、法進の事であ る。こ1にも停敦は、遣確を比蘇に閲聯せしめて居り、而して道塘・法進の二人に、両聖の最敬語を加へて居る。 二宮氏は借款の二聖といふのは、どこにあつても、聖徳太子と過海和上とを指すのであると言ふが、そんな事が いへるものでなく、前後の文勢によつて判断せねばならぬ事の例経として、この一文は最も遠雷なものである。 00 00 猶、また﹁上鰯戒論表﹂の中の己嫌轟州道且信−−比蘇文は鞭醤兎州︰無傾庇琴の比疎も、停敦の用例から推して、 適確とするのが、穏健であると思ふ。 斯の如く種々の文献から、件数の比蘇を集め来る時は、■いつも道瑠を指す事を看取する事が招乗る。前掲の﹁顛 戒盆﹂及び﹁法華秀句﹂の比蘇も.また同じく道確であらう。黙らすば、その用例がくづれて仕舞ふ。若し単なる 此蘇は道噂で、比蘇自然智は紳叡であるといふならば、﹁依憑天台張﹂の生知者上の比蘇を何と解すべきである か。要するに紳叔にも自然智の名があつたらうが、道痔もまた自然智として自他共に公認して居たに相克ない。 然らずんば、借款が斯くまでに道砺を出す筈が無い。斯くて事歴不明の紳叡を出して来るよりも.古来の定説の 如くに、之を道痴とする辛がすべての事例を滞りなく説明し得る。場合によつて、或は紳喀とし、或は道痔とす る事は、如何あらうか。因に、自然智なる語は、﹁法華経﹂嘗喩品にある一切智、彿智、自然智、無師智から来た ものであらう。嘉群は﹁義疏﹂の中に之を解して、一切智とは峯智であ少.彿智とは有智である、自然智とは是等 再び鵬額癒lこついて 七 2ノヱ
再び脚幌成について
八
二智を合せて、任蓮に容有の二墳を照す無功用智であり、無師智とは是等三智の師より得ざるをいふと言って居
る。悪思の﹁玄蟄﹂も、殆んど同様に解して居る。天台は、﹁文句﹂の中に、辟支彿の自然憲を解して、彿天人の肝
作にあらざる自然の十二縁門より入るが蛋とし、文化より聞かざる断ともして居る。斯くして自然智には無師濁
悟の意味もあ少.また無功用智の意味もある。停敦が比蘇を自然智と言つたのは、恐らくは是等の解輝を汲想す二 宗の人にまかせる事が出来た﹂と言はれる。斯くの如くに大師を見ては、﹁顛戒論﹂撰者の趣旨が全く没却せられ
るものであつて、華道痔に封する大なる艶美である。讃美は、同時に信向の表白で無けねばならぬ。
三、不共梵網戒と共梵網戒
停教の晩年に於ける大活動は、梵嗣戒を戒相とする閏戒を南都戒以外に猫立せしめ、これによつて出家得度せ
しめんとするにあつた事は、今更言ふの要が無いまでに明白な事と思って居たが、大師の宗を組述する二宮氏の
如き畢者が、大師の活動は、﹁梵綱だ戒伽だといふ様な呑気な問題ではない、倖敦は梵駒を読むだけの事なら・律
るから.先づ之に開して数言を加へる必要を感する。先づ試みに、﹁論﹂の開巻第一に載せられてあるー六統表に 加へた倖敬の麓躍を見ても、梵綱戒に射する停敦の悪度が、明了に見らる1では無いか。その孜数利数、良在一法 つ0 王あ語に放しては、梵網之教、利数巌制、撃重合那.寧不一法事也と言ひ、非法王敬重以伝受一の語に麓しては、心 0つつCつつ 地囲璃千彿大戒、除・闘野外、誰不宿学也と言ひ、彿自制巌、非垂薩撃の語に殺しては、五十八戒、舎那自制也、騎非一小彿制︰況夢菩薩撃也と言ひ、入店拳壁道照道慈寺⋮天竺菩提、盾瑚翳眞等⋮穂高■敵陣如辞典議一の文を押して
OeOつ は、是等諸檜の時には、猶未だ文殊上座の制が無つたから、異議が起らなんだのであるとてー上座之制、克典鹿 2Jβ0 圃三方南恕、何有夷議迦といひ.只雅趣州由便濁水、今私歩式といふを膵じては.和上︵遣避︶薄悲、一心二痕、停−− ︹C 於〓真書薩園戒、授敵至信一として、園戒の相承を運べ、南都の誠に射して此式を造れるを述べては、今此上式意 0000 者璃添加戒一喝封趣螢此武一と言ひ、而して南都の誠と全然流れを輿にすべきを‡張しては、天台智者、帖≒釆
0ウnC
ウOqO 旨定一一洞教師誠二算数建一二彿粟︰六度有如、戒匪何問、受法不向、威儀登園哉と言ひ、大小別巻、玉石野草受戒爽 000 添.清濁分誌と言ひ、六統の挙げたる玄筆先押の所見併閲をまで、自己に奪って、玄突飛挿、各造一⋮記伴︰大小別 畢、具載−.両邸と言つて居る。無い六統の上奏に加へたる筏又は膵は、その数十六に及んで居るが、その中に於 て、閻戒運動の圭張も方針も、悉く現はれて居る。.件数は斯くまでに熱血をこめて、樺に射して川戎を主張し− ・人小の別寺別拳を‡張せるに、氏が、﹁我南都彿教の四分なるものは.決して畢なる小薬経ではなくー梵網・漁伽 何にてもあれ.庶大桐備に包臨するものである﹂といふに至っては.唯果然たるのみであるゥ大師の流一望汲む聾 者の中に、斯くの如き川分律胞のあるのは.何ともA‖鮎が行かぬが.之を一考するに、恐らくは温く反射せんが 盟に、語気を強めて打った結果、いつの問にか斯る始末になつたのではあるまいか。氏はまた南都の人々が.梵 網戒を奉絆する串を忌避しない例として、法並等の梵約研究を挙げ、﹁南都或は瑞伽戒だけ♪断じられぬ﹂と言っ て居るが、これで見ると、氏は梵納戒と琉伽誠と一班正反射のもの、授交渉のものとし、而して予が南都に梵網戒 が触⋮いと‡張したと見て居るらしい。道理こそあれ、氏の給既に頗る理解しにくい節々が随所にあるのは、この 根本的間恕に於て.既に予の‡張を見誤って㍍るからである。自分は、摘伽或は、川分と梵網とを調和せしめた ものである串を、振り返し︿論述してあるのに、氏は如何にして斯くも取り遼へて居るだらう。 再び以囁娘lニついて 九 乱ほ再び圃碩戎1こついて
一〇
以上の前置きを焉せば、こ⊥に不共梵網戒と共梵網戒との問缶に説き入る事が、頗る順序よくなる。不共梵網
戒といふのは四分戒を離れたものをいひ、共梵網戒とは四分戒を件ふものを意味するのである。言ふまでもな
く、不共は件数の主張せるもの、共は南都の梵網戒である。自分が南都の或は塊伽戒なりといふ見嘗をつけたの
は、葦にこの共焚網戒よりしたのである。共梵網戒といふのは、換言すれば滴伽戒中に統一せられた梵網戎とい
ふの意である。確伽戎といふにつきて、後に一言するとして.こ1に共・不共の梵嗣誠に航する文献を見る事とする。さて﹁梵納経﹂は、勿論樽敦大師以前より行はれ、道痔と聖典も之を顛揚したのであつた。然し要具のは四
分戒と共にしたのであつた、件数の主張は.これにあらすして不共梵網誠にあつたのである。第一著にこの鮎を明丁に膵別して置き、梵網の、名辞さへあれば、直に之を同一成してはならぬ。之を魔別せぬ併に、曳多の錯誤が
起るのである。件数の不共梵網或は、既に前掲に於ても明白で、今更之を立証するまでもないとは思ふが、然し
専門家の中にさへ之を明丁砿認識せぬものもあるから、少しく之に閲する文献を尋ねる事とする。
0000000000 夫此十重戒、雉克体技姦但有表名三役騨其義毒以得レ弾奏停真義壷。然泰解l一風義l故、猶琴小儀表。︵﹁穎 戒論﹂、中︶十壷戒といふものは、梵網の十重禁戒をいふのであつて、先に小俄に共して停授した十重戒といふのは、いづこ
に誰が膚したものであるか。南都の戒壇にあらすして、いづこに之を求め得べきぞ。
護命伶統跡奏にいふ、又大乗戒倖来久夫。大店高徳、此土名喝相尋嘩授至み不詣と。之に射して、係数は論じてい
ふ、
2J塵000000000
梵網之蝿維尭代体感間受へ界解■一園意所以用垂聞律儀南衰綱威儀宕同毎聞儀荷以制二念り此幽名徳.弾受一︼ 大乗戒宋短大安居亦雄大発布琴不麺哀受戒︰泰置夷殊之上座東海加園之威儀り︵﹁顕戒論J、中︶件教が、啓開律義に同ぜる梵網威儀とは、何人がいづこに行へるものであるか。南都に共梵網戒ありしと見すん
ば、如何に之を解挿すべきか。共梵綱戒とは、四分戒と共に授受せらる1ものにして、予の所謂壌伽戒に統一せられた梵桐戒に外ならぬではないか。
又相続が﹁今新に停流すといふは.これ何等の戒にして、而も停流すべきぞ.高始の停ふる屏、何を以てか戒に非ずして、下流の授くる併、何を以てかこれ戒なる﹂と・いへるに謝して、停教は論じていふ、
荷茅歴帰梵網劇戒、分備歯先徳︰準引一同根ご戸和国戒圃臓園戒同郷風慧非天台輝藤村藤説包含尚徳原嶽、
非画律儀宇続伸旛、非三郷献儀室岡旨可ぬ哉。︵﹁如戒諭﹂中︶これ肘掛等が、﹁梵網或は既に早くより此地に於て弘俸せられた。停敦は、何を伴んとするぞ。倖敦の‡張のみが
梵網誠にして、此地のものが梵鯛誠にあらすといふは、何故ぞ﹂と間へるに射して、停敦は﹁自己の圭張するはー
梵納の聞戒で、天台の将によらざれば、成立せざるものである﹂とて、南都の梵網戒を繍准儀とまで蛇したの
である。同じく梵網戒でありながら、いづこに斯の如きまでの差があるか。不共と共との差に之を求むるより他
に、之を解決し得べきでは無い。
不共梵網裁と共好網戒との厩別を知れば、高大乗寺と大小兼行寺との瞑別が、直に明了となる。借款は、彿
寺に一向大牢一向小雫大小粂行の三種を認め.而して一向大乗寺を以て、初修業の菩薩伶の併任−大小発行寺 再び押収戒について 乱持再び脚頓成−ニついて
三
を以て.久修業の菩薩宿の併任と規定し.初修業の葦薩何が二十二年の修練を経て.得業しての後ならば・憤りに小戒を受けて、綴りに発行寺に任すを符しむとして居る併から見れば、発行寺に任するを以って・貿に不容
易の事と茄したのである。然るに菩薩偲を以て任する一般のものは、漠然として発行寺に任して居る。これ件数の
捕恨串とする肝であつた。是に於てか、伴教は、共菩薩戒を奉する∵預言すれば川分戒を必須とする大小兼行寺
にあらすして、不共菩硬誠による、横言すれば、四分戒を敗れたる一向大乗寺を建立せんとしたのである。不共
菩薩戒を外にして.一向大乗寺を雄正する基捷を.何起に求め得べきか。不共菩薩戒を外にして、一向大乗寺を建立せんとするは、内容なき墨名に過ぎぬ。而して樽敦は、一向大乗寺が自己の創意にあらざるを証せんとてー唯
講宗組の撰に成れる﹁大店西域記﹂中より、頼はしきまでに醸例を求めたれど、こは南都の論鋒を封ぜんが岱の方
法で、梯教の一向大兼寺は、名は印度のに等しいけれど、その内容を異にするのである。停教は速く之を印度に
求めたるのみならす、また近く円本にもその例む求めて、行基芋薩の囲十九院を以て之に擬し、而も是等が繋眞
以後川分戎を受くる串によつて、今や一向大乗の寺に非るを論じて居る。行基菩薩の川十九院が、一向大乗寺た
るは、東大寺操律師の論に依れるものであるから、この一例のみでも、日己の主張に射して、有力なる保詑とな
る。棟数蛙、葦磋桁にして、聾周の別解脱を受けたるものをー比丘菩薩と呼んで揺る。比丘菩薩とは、琴梵網
戒に川分戒を東ぬるもので無けねばならぬ。比丘菩薩の任する等を、大小乗わ寺といふ。件数は斯の如くにし
て、小律儀に同する半鐘と、同ぜぎる菩薩とを陥別した。小律儀に同ぜる菩薩とは一党伽誠によれるものに非す
して何ぞやである。
βJβ四、梵網戒観の攣蓮と停教 件数が不同小律儀の菩薩を高潮せる根按としての経典に、賢に︻法華経﹂であつた。論じていふ﹁寺房を共にせ ざるの制は、分明に彿経に載す。何を以てか法華の制に順ぜすして、更に野間の小律儀を聾す一〇や﹂と。﹁法華の 制﹂といふは、﹁掛戒論﹂に、商店の注経を引証せる中に見らるる。貪藩小粟三蔵垂者、不−興共任一とあるのが、そ ︶ れである。南庸の托経に、﹁菩薩たるもの、啓開戒の律儀を聾するを得るか﹂の問題に謝して、一﹁法華耗﹂による大 ′...11 ヽt■′′ ︶ ︶ 小相隔、二﹁維摩経﹂による以大斥小、三調伏括受小乗、川﹁法華﹂﹁浬葬﹂南経による開小人大の叩鶉を以て、之 ︵︵︵ を料簡せる中よ少、席数は初二義を取りて、﹁天台法華宗は、二経の意によつて、十二年間相隔って燈せしむ﹂と 言つて居る。南府道ギには四義の料簡があつたが、停教はその中より痔に相隔の義を取り、以て﹁法華経﹂に立っ て小律儀を交へざらんを主張したのである。停教のこの主張は、その思想的根城を、常時の大陸彿教に窺うて屠 るのである。これは電大なる問題であるから、他日詳論する磁曾があらうが、これには梵網戒戟の襲遥といふ問 題もあり、大小雨戒の交渉といふ問題もあり、之を分析し行く時は、頗る面倒な事となるが.唯その一般を叙す る事とする. 梵納戒は、経典の上にあつては、﹁項洛﹂の三受門中、律儀戒の中に十重として琉められ、﹁地持﹂・﹁苦戒﹂・﹁塊 伽﹂の三種戒中、兢書法の中に.またこの十藍が臨められてある。この中に、梵網戒の取扱が、律儀戒より善法 戒に変ったのを見る。而して又支那の聾者の中にあつては、賛の等光は.四分律の聾者で、﹁大乗律義尊﹂の著が あり、陳の智文は十詞律の畢着で、﹁菩薩戒疏﹂両巻の著があり▼、陥の道成は空た十詞律の壌着で、菩薩戒を講じ 再び蹴頓戒について βJ7
再び脚岨成について
一四
た。是等の大乗律や、菩薩戚は、何乍あるか分らぬ。臓の浮影は﹁地持﹂の三栄戒のみを菩薩戒として、梵嗣戒に
は放き入らず、而して小魂法中には畢灯律依のみ、他の二米滋しと言つて居る。以てその戒律観が、三莱戒を大
乗とし、律儀戒を小乗とするを知るべきである。これには大小の区別が見られるが、而も大乗戎なるものは、﹁地
持﹂の三栄戒に外ならなんだ。隋の天台は.﹁梵経戒疏﹂の中に≡来戒は地特に出るもので三蔵に通ぜすとし、而 して地持戒を別園二敦の戒たらしめて居る。.これ﹁地持﹂が﹁漁伽﹂の別讃なる事が.まだ分明ならざる時代である から、﹁地持﹂と﹁理洛﹂.﹁梵網﹂との間に、浅沈の分別をせなんだのである。またその﹁玄義﹂の中にはー一腰は戒の鹿妙を区別して居るが、三乗に別衆なしの尭堤より、戒通菩薩と別国書薩とを握別するは、待免の上の併談の
み、もし免を関して妙を顕はす時は、鹿妙の隔てがなく、三師五戒十善土百五十、皆これ摩討街である。之を紀
勢妙戒と名付くと言って居る。天台が.一方には均持戒を別囲背薩のものとし、他方には、一切の小戒を大戒とせるは、いづれも開合思想・閲敵思想の上から禿たものやある。又その中に、梵網につきて、他がこれを菩醗戒と
いへるを引いて、別に菩薩衆なしの立場より■、戒の上に相異のあるぺからざるをいへるは、大いに注意すべきであ
る。天台のこの梵網戒鶴・大小二戒交渉我が.樽敦の大小柏隔と輯化せるは、何といふ重大な醍化であるか。軽軽に天台宗の相乗左口にすべからざるは、この一片鱗を見たゞけでも、肯背せらる’併であらう。
この重大なる特化につきては、横転拳士が嘗て綾香に研究した。その結論だけをいへば、店の賢付は新興唯識
拳に刺乾せられて、三外一乗の高唱によつて、之を超越した。この不共一乗の思想は−やがて戒律親の上にも反 映せねばならぬ。即ちその﹁梵網戒疏﹂は.この不共一乗の思想によりて解輝せられたものである。臍の剃渓は、 βj∂四敦に各三末戒あ少と言ひ、梵網戒を以て別囲不共の菩薩戒なりとした。この時代は:−地持﹂や﹁善戒﹂が、﹁線 伽﹂の別本なる事の明了となつた障で、その三未申の律義に七衆を含む折から.この共律儀を以て三東共通の菩薩 戎とし、これによつて、小乗にも三乗戒ありと言つたのである。その後を承けた明嫉は、別教書薩は漸具で、園 敦菩薩は頓具なりといふ域にまで達し、逸に三乗戒中の琉律儀戒を以て、梵綱の五十八戒とするに至った。是に .t 扱には、経典の上に於て、人師の上に於て、以上の如き華北があつたのである。 至って風教濁特の梵網内容の三乗戒が成立したものである。これ賓に不共梵綱戒で無けねばならぬ。梵綱戒の取 停敦の不共梵網戒なるものは、一カは遺循を通せる撃取拳より兼少、他方は明瞭剃漠の梵納戒蹴より衆たもの と察せらる1。さはれ、賓肯にあれ、荊瑛忙あれ、明瞭にあれ、そは思想としてに止まつた事は、義眞が囲清寺 に於て啓開の具足戒を受け、遺遮和何の肝に大乗菩薩戒を受けた事によつて知られる。これを貨行にまで移した 併に、樺敦の彿敦史上に於ける重大性があり.日本沸教の誇りがある。倦敦をしてこの大勝を敢行せしめた横扱 として.必ずや閏清寺に於てすら、具或を受けねば大戒を受け得ぬにつきての痛感もあつたらう、叡山にて痩せ るものゝ大牢が、他に奪はれし痛感もあつたらう。然しその中軸をなすものは、何としても徳一との間に交摸せ られた論評に見らる1︼乗の思想である。更に刻賓すれば、一乗思想の背後に横はる国境の詮悟である。園戒濁 立超勤と同時に起った.かの三一棟箕の論争が、この運動に関係なしなどいふ妊、停教整一重人格に見るもので ある。知と行とを別々の範疇に置く概念的の見方である.知日と行足との合一するに非んば.いかでかの彼大活 動が出凍やう。こ1で≡一棟蜜の開放、特に彿性問題を出さねばならぬのであるが、そは﹁併任の研究﹂に委越し 再び潮境浪lこついて βJク
て居るから、こ1には之に立ち入らず﹂唯園戒問題と表裏して居る事をいふに止むる。 徳一の名がこ1に出たから、言を添へる。自分は﹁併任の研究﹂の中に於lし、1囲界章﹂の中に曾津煤の佐和上 といへるを引証し、又、﹁団界草﹂が弘仁九年の探なるをいうてあるから−此年には徳一の曾津にあるのが首然な
るに閲はらす、同畠の中に、倖教の寂後二年にして東国に諭せられたと言つたのは、明白に誤りである。七十四
歳の高齢の徳一が、件数の入寂時.洛南都ぬ鹿存したといふ二行は、茸は革芸問に追加したものである。この 時、自意日華下着常陸囲、年七十六、云云の文の伊澤に於て−不園・窓口寺が南都にあるものと思惟した折か ら、この誤算を伸したのであつた。其後之に気ヴきて.時機を待ちつ1ある間に、伏見邦英侯の骨津行の記事を関して、意日寺が曾津に現存するを知り、望外の快を感じー早速侯にその喜びと誤りとを紙面した事であつた。
﹁山家拳報﹂の中に載せられた盤入氏の綿衝なる徳一考に謝してーその畢者的磨度に敬服した。中に拙著に附して
言せられてあるが、前掲の通す.既に自ら気づきつ、1あつた事を、この横倉にーこ1打二言する。事の序を以 て、猶、道喀行衆との園係につきても、誤りを襲うて居た事を、こ1に追加する。1元亨梓書﹂にも、1本朝高僧 停1にも共に誤って居る併のもので、恐らくは多く之に迷はさる1だらうと思ふ。そは行表が七十三衰の時にー自分より年下の道瘡に重ねて戒法を受けた時に、道蒋は大に感じて、如来蹄を授けたといふ記事である。こは腐
る痛快膏のであるが、琴延膵十三年の居室帳の文を誤読したが偏に、斯る誰が起ったもので・彼の文は、樽
燈大法師位行表、年七十三、臓五十二﹄、﹃以天平十五年三月二十九日、於興病寺北倉院受戒﹄との二段に分けねばな
らぬものであつた。率戯之に射する時は、受戒時の行表の年が七十三となるが、之を引用せる停教の﹁血脈譜﹂を
再び脚頓戒について 2即讃み行く時は、和上延暦十六年、春秋七十有飴.道化於大安寺西唐院とある.ので、七十三といふのは、娃暦十三 年の年齢なのである。これより推算する時は、行表は天平十五年、二十二歳にして受戒し、其後十七年を経て、 三十九歳の時に、その師道喀が入寂した事となるを知り得るのである。﹁本朝高伶條﹂の如きは、同じ誤りを倖へ て.百聞十歳入寂として居る。不問した事から、大なる誤りが起るものである。といへばとて、敢て自分の失を 梓護するのでは無い。他より指摘せらる上刑忙、自ら之を訂正して置かんが馬に外ならぬ。 五、間戒と場数ゐ精鋼 大小相編の凧戒の根撼を﹁法華経﹂に求めた偉敦は、同じく﹁顛戒論﹂の中に、大乗の受戒作法は﹁軌曹貿経﹂に上 って㍉輝迦牟旭彿を和上とし.文殊師利及び常魔の粥勤を阿常梨とし、十方の諸彿を以て証明者とすべきを論じ . 経を信すること、彼が如くなる借款が、この信力成就の文に着眼せぬ筈が無い。自分は停教の園戒に.借入の意 といふぺきであらう。作法を求めた﹁甘聖経﹂の中に自誓法があ少、又信カによる五分法身成就の文がある。﹁法華 雪戟曹資経﹂に求めた以上は、﹁戒相﹂を梵粥に取ったまでで、そ を叙して居る。椒捷を﹁法撃経﹂に求めた不共梵網戒に、園義を輿へたのは、天台の揮で.而して叉その受戒作法 て居少.﹁天台法華宗年分庭番回小向大式﹂の中にも、大乗の受戒は、﹁叡智餐経﹂に依って、三師澄等を講ふぺき 義ありしを信ぜんとするものである。 倦敦は﹁斯戒論﹂ に於て、﹁法華﹂の汝等併行、是菩薩道の文と、﹁最膠王経﹂の欲求阿縛菩提、雷行啓聞燭螢之 道の文とを封立して、前者を頓悟の苔欝とし、後者を漸悟の菩薩行とし、而して、古来の度者毎年十人なる 再び閻囁戒lこついて 2クJ
再び脚峨戒lこついて
一入
に.先帝が南口を新加せるは.専ら画境の戎定慧を博授せんが鰯なるむ論じて居る。而して又囲戒の如何なるも のなるかを論じて.﹁大集月蔵経﹂を引許して.第一義六度、坐臥山林中い一切起急時、悉令画清一也と徹底し.更に ﹁諸法無行軽﹂を引託して.菩薩比丘の草根と、比丘法師にして菩薩行を行ぜる膠意とを封宜して、園戒の箕相を 示さんとて、長々しく経文を引証し.以て自証に代へて居る。聖教量に訴へた論法忙、無限の力がこもる。菩薩比丘といふのは、不共梵桐誠にょれる人であ牛菩薩行の比丘法師といふのは・共梵網戒によれる人である事は
云ふまでもない。件数はょつて以つて菩薩比丘書取を以て自ら任じ.南都の相続等を以て、比丘法師勝意に擬したのである。寄根法彿は、質直端正にして√威儀を遠せざれども、世法を捨てず・少欲知足を稀讃せずして・人
に敦ふるに.たゞ諸法案相を以てし.三寺の牲はこれ諸法の性なりといひ、能くその教化の目的を達した。然る 些膠意比丘は.禁戒を護持して.十二頭陀を行じ.居士子の前に於て、寄根法師の過失を詮いた。これ勝意比丘 が人音撃法門を率せざるが楚に.彿の青草を聞きては乱び、外道の音響を聞きては喋るによつたのであるq書根菩薩は、この比丘の必ず降職の罪業を起すべきを念ひ、偏に探法を説かんとて、衆伶の前に於て・
食欲是捏繋 患擬亦如是 如是三事中有無畳彿適 若有人分別 食欲嗅念靡 是人去彿道 管如天奥地
を初とする長偽を説いた。即時に地裂けて.膠意比丘は.大地獄に堕したといふのが・この﹁無行軽﹂の詮である。借款は簡単に結語としていふ。
明知叡山被読者惑去兼併抱、何不迦白菜吏恨▲地縁来︰顧得一今身償栄ぇ恵道東也
﹁今南都に誹誘せらる1は、宿業の然らしむる靡.他を恨むべきで無い.此宿業を今身に償ひ、以て悪道に入るな ク8βからん﹂といふのである。之を反面上りいふ時は.南都の付統等が.菩薩法師の過を説くは一入音琴法門を拳せ
ざるが食で、やがて膠意比丘の併席にならふもの、必ず障碍の罪業を起して大地獄に堕すべしといふにある。全
く経文によつて立論し、碗曲の輩を以って相続等の心に迫って居る併に、停教の熱血が・最高潮に注せるを見る。
この﹁諸法漉行経﹂は、賢者が項数と判ぜるもので、序数は之を探って漸戒の箕相を説くの質料とし−後の囲戒 を諭するもの.悉く之を引証せぬは無い。諸法箕相上り進んで.三等郎悌道と徹せる倍数の園或は、その骨髄に於て、﹁一心金刷戒際秘訣﹂と共沌の歩調を有する。自分は、風戎の箕相を説かんが悠に、一歩を進めて、倖教の
本地の風光を説かんが悠に.﹁顛戒論﹂﹁畢生式﹂﹁畢生式問答﹂等を第一質料とし、﹁一心金剛戚鰹秘訣﹂﹁一心金 剛戒鰹﹂﹁一心戒文L﹁臓揚大戒論﹂﹁普通廣帝﹂等を第二資料とし、中に於て、﹁秘訣﹂と1戒鰹﹂とには一挙者の 間に議静のある事を随所に言及しつ1.而もあの活動ならしめた椒砥としての・本地の風光を伺はしむるものと して、之に加ふるものが無いといふ斯から、可なゎに細心の注意を彿ひつ\立論したのであつた。償蹟といへば、直に償値が無いかに思惟せしむる文献畢風に満足するを得ぬが感である。単に文献拳にのみ走って、その骨
髄をつかむを忘れ.その将帥に爛れる事を忘れたなら、輝隼の沸教−天台の沸教の如きは、どんなものになるだ らう。﹁華厳経﹂が.樺告の菩梶を開放せるもの、塵挙が天台の彿敦を穎揚せるものなるを倍ずる自分は・1秘訣﹂や﹁戒鰹﹂にも、俸教の本地の風光が存する事を信するものである。況んや主要な綱紡が、その真部中に見
らるゝに於てをやである。少くとも自分は、串者の僑撰といふものを通して、停教の面目に接した心がせらるゝ
ので.此中には借款の筆がある、大に後世の加筆があらうとも.その骨膀を焉す園戒救に於て、借款の異能に解 再び圃頃戒豆ついて β23再び圃頃娘について
二〇
れて居るに相達ないと信する新に於て、今も猶煙りが無い。この意趣を全く泥却して、無條件に樽教の眞撰とし
たといふ、二宮氏の筆は、他を誕ふるものである。藤田老師は、﹁畢生武関答﹂は、後世の撰であるが、法華戒を
立てる哲日に於ては、停教の意を得て居るといはれる。聾者として穏健の難度である。﹁秘訣﹂や﹁戒鰹﹂について
も、董∵同様な事が言はれはしまいか。
三毒郎彿遣の嘗相戦に立つ凰戒は、不捨世法の眞俗一貫に徹底せすんば止まぬ運命を有する。但l不捨世法などいふ事は、容易に言はるべきで無い。件数が之について、先決問題として、布山十二年の久修業を必須として
居る事を忘れてはならぬ。而も在山十二年、得業の後に、綴りに小戒を受けて、初めて大小兼行寺に偶りに任す
る事を認めたのである。l一宮氏が件数の一乗は、眞俗一貫を目標としたといふに就きては、誰も異存はあるま い。然しこの一乗は、支那彿敦史の三一躍賢の寧など1捜交渉のものである。その一向大乗といふは、梵嗣戒や 塊伽戒などの撃とは没交渉.のものであるといふのは、合鮎のゆかぬ事である。眞俗一貫は、大乗菩薩の常道で無いか。﹁雑陛﹂を見ても、﹁膵ぎを見ても、菩薩大乗の終局は、常に之を目標として居る。中にはー彿魔一如をし
も祝いて居る経典があるでは無いか。﹁梵網だ輸伽だといふ撲な呑気な悶挺ではない﹂と強調した意地の那遽にあ
るかを、自分は興味を以てながめたが、﹁山家畢報﹂の﹁日本天台用語に於ける一乗の意義﹂を舘むに至って−1ハ、これ皇屈んが悠であつたか﹂と、今に至つて知るを得た。然し前掲の﹁諸法無行撃一巻を見ても、眞俗一貫とい
ふだけには、自分は新味を感ぜぬを遺憾とする。停教の停敬たる併は、一乗の思があ少、画境の澄悟があ少、之
を筆打に移さんが偏に、不共梵親戚による一向大乗寺を建設し、初修業の菩薩を擁取してl在山十二年間、囲種 22≠の三昧の箕修あらしめんと要した肝にありと宿する。久修業の結果が、大乗菩薩の常道たる眞俗一貫となるにせ
よーその主張主義の骨髄は、大小相隔の厳粛にあり、而も猛然として之を賛行に移した併にありと断言したい。
自分からすれば、眞俗一貫を徒に口にするこそ、呑気な沙汰で、倍数の熱涙をくみ得ぬものだと言ひたいのであ
る。氏は特に﹁日本天台用語の一乗﹂として、日永天台の形容詞を用ひて居るが、こ1に大問題があるのである。この日奉天台の根砥が、何にあるかを窮めてほしい。また何人忙得たかを尋ねてほしい。是に来らば、道痴璧眞
の軽重論の如きは、雲散落滑するであらう。自分が天台宗組なる譜を避けたのは、そこにある。猶氏は、﹁併任の
研究﹂にも言及して、自分が、南都の二面家や、撃腋家の、山家の論旨と共調した所に、山門に於ては大なる味
方を得た心がせられたらうと言ったのを冷評して、見営造ひの甚しいものと言つて居るが、氏は恐らくは拙著の
僅少の部分を讃盲れたものではなからうか、願はく竺少部分に滞らすに、全鰹に関する十分の批判を得たいも
のであ㌢試みに是等諸家の論旨と山家のそれとを封照して見られよ。全くそのま1に襲用して居るのが知れるだらう。然し三論豪は三諭家であり、撃勝家は華厳家であるからーその間にはぎ洞の差はあらうが、山家の論旨
を襲用した肝腎明白に見られる。是に至って、孤猫無援であつた山家を顧み来る時は、今昔の感に堪へぬもの
がある。これ.に勤して、山門に喜びがあつたと推想するのがー如何にして見嘗蓮であるか。又、遣詮が俸教同時 の後輩なるは・明白な事であるがlその容有の論評を・≡問題の初費と見た先哲があるから、自分は之に随ったのである。前後が明丁であるなら・之を明白にして戴きたい。然し畢者には畢者の鰻があらうから、粗語の陳
列だけは、遠慮したいものである。
再び胤頓戒lニついて g25三栄戒の目は、天台大師に擦れば、方等﹁地持﹂に初まつたものであるが、その内容は時代によつて、頗る菱遷
して居る。その中に於て、最も寵要なものに南系がある。一は﹁地持﹂ニ轟戒﹂、﹁漁伽﹂等の所謂塊伽戒で、この
三乗戒はその律燐戎を以て七衆戎とし、稿善法戒の中に梵納戒を含める。二は名を之に取るが・その内容を異に
した、刑演明瞭等のもので、これはその律儀戒を以て梵綱戒とし、全く七衆戒を除き去って居る。共量産戎で
はあるが梵網戒よりいふ時は、前者は共梵網戒であり、後者は不共梵網戒である。前者は南都の俵憑・後者は倖
敦の俵憑である事は、既に之を説き蒸した。前者よりいふ時は、飽くまで﹁普戒痙﹂の指針に従ひ一便婆塞より沙
蒲誠に入り、沙弗戒より比丘誠に入り、丘比戒より菩薩誠に入るの約束を守るので.支那の出家はーいづれもこの約束を殿守したのであつた。囲清寺に於て、義兵が大乗戎を受けんが焉に、先づ具戒を受けたが如きは、その
適例である。南都の単著が、出家に具戒の必然む要求したのは、支那彿敦の立場からは至梅最である。然し刑渓
明瞭の流を汲んだ件数からする時は.梵網戒を律儀戒とする事によつて、具戒を出家に必須とせなんだのであ る。但.件数は初修業と久修業とを分けて、初修業のものは、梵綱戒によつて出家し、決して具戒を顧みてはな らぬが、在山十二年の修練の後に至らば、利他の男に憤りに小成を受けてもよしとて−久修業のものに具戒を受 くることを許した。その行き方が.前者と正反射である。彼は塊伽戒の規定を守つて.小戒より大戒への順序であるが、これは大戒より小戒への腑序を取ったのである。
以上は南都のを強伽戎と見ての解梓であつて、而して塊伽たるの証明として・﹁位相﹂の中に・種々の資料を拳
再び脚悦戒について 大、南都の玲伽戒 βββげたが、まだ撒威せぬ憾みがあるから.猶一應.こ1に重要と思ふ資料をまとめて見る。 Cつ〇 一、安然の﹁普通席梓﹂の搾道場の中に、我日本観勝野十六年、大府磐典和上、於東大寺大仰前﹂筆大戒壇完皇大 000 后.授泰陳誠一といひ、之に次ぎて、倖教和上.大唐台州凶清寺西廊下、愛妻薩大伶戒菰仁皇帝、途於東山重大戒噌− と言って居る。両者に大戒壇と言って居るのは.大乗誠壇の意味でなくてはならぬ。前者を﹁大きな戒増﹂とし.■ 後者宅大乗戒地﹂と解しては、傲りに随意である。さて、璧兵のが大戒壇と耕せらる1理由如何。単なる四分戒 のみでは、如何に分邁大粛の解繹を加へても、落も付かぬと思ふ。囲今戒と共に菩破戒を搾けたからとせば、両 或は如何なる関係に於てせられたか。叉四分戒が如何にして大戒地に於て授受せられたか。たゞ之を四分戒と梵 網戒とを統︼した塊伽の三荒城と解樗してのみ、初めて明丁となるであらう。 二−同番の示師相の煉下に、椰相に三ありとて.一に諸彿︰⋮・是如梵網戎本⋮⋮文如地持戒本とし、その次に
0000000000〇
二菩薩鮎⋮:・是如塊伽決揮分菩薩鱒::・玄莫西入乗員正法戒↓今則弘道門人併執誠是也と言って居る。節一が、天 台系を指す峰明丁である。中に地持戒本︵蜜は虎伽戎︶を加へて居るのは、天台大師の節制に従ったものである。 00 第二の塊伽誠の下に、今則弘道門人併軌誠と言つてあるのは、腔瓢の撃でかつて、どこゐを指すのであるか。現 に弘道しっ1ある稔伽戒とは、南都のものでなければなちぬ。 是等の二例は、安然時代に於て、南都のを璃伽戒と見た定跡として、十分であらうと思ふ。この桐格を演に置 いて見ねば、すべてが混乱に落ち入るがーさて、之を通して停教を見る時は、如何なるか。 三−停教が久修業の後に憧りに小戒を受くるを許すといへるに憤れる相続等は、凡そ受戒なるものは上品殊勝 再び咄喧戒にづいて β27再び餌蛸戒−こついて 二凹 の怖求を璧起して.方に得戒するものであるぐ既に畷受と知らば、誰かそれに戒を受けんやと奏した。傾受など といふものには、断じて受戒を許さぬといふのである。之に封して、停敦は論じた。
っっっっCOつつつつ
つつつつ〇つ○ 論、日歩利他故、攣起上品殊勝怖求謹大乗律師、不換感受耶。⋮⋮而侶受者不話者、蒙不二向小乗律師蔑。 倍数の惹は、利他の男に嬰心せんに、之に授戒せぎる大乗律師あらんや。若し之を琴亡ずば、一向小棒師では 無いかと逆襲したのであるJこの論理は、南都が大廉律師を以て自任して居らぬ限りは、何の敢果も無いので あるが、大乗律師を以て自任して居るから、次の一向小乗律師の批評が、頗る殺果的となるのである。さて南都 が、大乗律師を以て自任したのを、如何に説明すべきか。梵網戒を取り扱ふからといへば、それでよいが、然ら ば大乗律師が如何にして小戎を取り扱ふか。それは出家となる約束だから、大小以外又は大小以上であると言ふ 位では、収まりがつかぬ。何としても川分戒を必須のものとする旅伽戒に於てのみ.初めて成立すべLといはぎ この使にて、停敦は、四分宗武宮大乗の義を解せる慈和の﹁記﹂の、三晶の発心々明す中に、云何上品要言我, 今発心受迦、夢成−主栄戒−故、趣≒腹門義求誌恒巣上といへるを引証註して居る。戒壇の三重は、もと三察を表す る。これに二衰戒の意味があるや否やといふ事が、畢者の問題となつて居るが、慈和が南山の分通大乗を説明せ. んが盛に、≡兼戒によつて三脱門に趣くといへる肝に、両者の意味を含まして居る事が看取せらる1。而して又この藩和の﹁記﹂に、四分戒が三兼戒申に琉せられた茫跡とも見得られて、頗る興味ある資料となるのである。斯
くて南都が、四分戒を菩薩戒中のものとして取り扱った事が見られる。然し樽教は、断乎として、之に抗論を下
るを得ぬ。 2つ8して、明知其律奉公塑泰足魚エjE義扁執ホ儀︼以夢園儀一也といつて居る。つまりー南都の四分戒に封する解鰐を 斥けて、之を純小乗戒と渇したのであつて、件数のこの決搾は.律儀誠を梵約戒のみとするに基くものである。 川、同じ ﹁掛戒諭﹂の中に、棟数が仏法準経宗交一■小律儀︼といへるに反射して.附統等が此観の比丘は小黒を 求むるなしと奏せるに勤して、件数は反駁した。 此団之比丘、元錐−無.求工小異求転向威儀︰社則求一一小国︰寧不巨同‘小果︰ 此の方の比丘の小黒を求むるなきは、冊統も件数も共に認むる併である。小英を求めぬとは.菩磋心の謂であ る。啓開戒を持して.而も菩薩たる理由を、いづこに求め得べきか。斯るものこそ.自分は塊伽戒なりと主張す るのである。 件数が梵網の十衷誠について、﹁先に樽捜して居たが、たゞその名があるのム、未だその義を停へなんだ﹂と て、その即由を、未−師−同率と獅華一小依一との二偶に置いて居るのも、また梵網の十軍戒を、その抜善法戒中に 収め.その紳儀戒に七衆戒を収めた璃伽戒を通して眺めてこそ、初めて通徹する。同様に、明知梵納所隷書薩借 ヽ 不兵曹閲小紺燐由といふのも、亦南都が梵納戒と小戒とを、必須的に交渉せしめて居た併に起った破斥である。 練り返していふが.四分戒と梵網戒とを、井改して㍍るといふだけでは、この破斥の赦果は無い。その間に必須 的の踊係を附して、﹁苧戒絃﹂の如く、之を段階的に見た併に起らねばならぬのである。 方.﹁緋誠論紘起﹂の巾に見ゆる大政官符に、印業二人に証して、井全レ讃売約経、菜摘伽啓開誠一とあり、而して 受戒の後に先づ必ず二部の戎本を訝諭せしめ、﹁四分紳妙﹂を暗果せしむとある。蔵伽草間戒とあるのは、明白に. 叫び州岨戒lこついて ββク
再び脚碩戒七ついて
二六
昔時漁伽戎があつた事を語る。而も受戒の後に四分戒太を譜盲しむとあるから、必ずや三乗戒として先づ之を通 愛せしめて後、その律儀裁としての国分戎本に練熟せしめたもので無くてはならぬ。 六、以上の如くに見て来る時には、時代は下るが.凝然が南都の戒壇のlニ重を以て、三乗戒を梼するものと言 ったのは、至抽常然の事となる。単にこれのみでは.疑問が起るけれども.之を保綬すべき茸料はー前掲のにて 十分と思ふ。瑠提寺の無感が、二百五十の別解挽戒は、醸伽華薩戒中の輌律偶戒で.これにょらずんば、大比丘 たるを符ぺからず、之を小成といふは誤りの甚しきものなりとて、噂教以来、北嶺が十重四十八によつてー比丘 何となるに反卸して居るのも、至持崩常な材料となつて来る。 斯の如くにして、南都の戒が塊伽戎であるといふ事が、種々の材料から立許せられたと思ふ。この事は怜歓呼 代まで言ひ得る。件数より鷲鼻までの閃に、大なる年代の偏りが無く、且つその間の戒律に藍大なる発化のあつ た事が考へられぬ。然らば件後時代のものを、そのま1璧兵略代に邁富せしめて、何の諦椎も無いだらうと思ふ。
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日本の古代賓料を取扱ふに昔り、誰しも托意するのは.、そこに表はれる紳名乃至は人名に、﹁紳﹂と﹁奪﹂又は ﹁命︼と云ふ字の添加されてをることである。この﹁かみ﹂及び﹁みこと﹂といふ語の原義並びに相互の関係について は、これまで多くの人々の所詮もあるが、これに閲する吾々の考は別の機禽に述べること1する。而してその原 義の如何に拘らず、記録の上では多くの場合、これを取り換へることが根来るものであるだけに、両者の関係を ,▲ 明かにすること咤、古代日本人の紳概念を明かにする上に重要なことでもあるが、今はそれらの問題に解れるの では無い。 こ1ではかく取り換へても差支へない此の﹁紳﹂と﹁命﹂との使用例によつて紳代史の賛料批判に封する一案を提 出するにある。少くとも古代資料特に蕃紀古事記に於ける紳代記事には、この﹁紳﹂と﹁命﹂とは多くは混周文比流 用されること無く、偶令多少の例外はあるにしても、その使用には一定の法則があるので、それに則ってその資 料を眺めるとき.何れに於いても全鰹は虎個かの部分に応分することが出来、更にその間に織りなされる紳名の 紳亡命ミによる紳代史り資料批列紳と命とによる神代史の資料批判
原 田 敏 明
β3J表現によつて、日本古史紳繭の構成の一端が鴇はれるやうに思ふのである。
以下運べるところは、恰かも背約六書の資料批判に於けるヤーべ一文書とエロヒム文書との鋸係に近いもので
あるが、或は吾々の見雷と調査とに何等かの大なる紋隋と不行届とが無いとも限らない。倍ほ且つ高富本章料を
持ち合せないための誤謬も壁することを恐れるがー唯だ古史賃料批判の一策としてこ1に提出し、細大に拘らす ′ 諸方面の高教−鑑仰いで、再槍討に賛したいと希望する次第である。先づ叙述の便宜と必要のために、吾々の使用する朋審と記渋とを示せば、古事記は図史大系本、書紀は同改訂
版に依るのであるが、その隋分をするには、便宜のため出来るだけ古事記倖及び日本書紀通辞の分段による。但
し書紀に於いては日本雷紀通将によつてA章票早:⋮・とするが、たゞ紳代七代章の後年︵系訂一ノ三−川通繹一 ノ七三参照︶を封輩とし、更にその川紳揖1岬章節ニー書の後年︵通祥一ノー七三参照︶を本文︵E系訂一ノ一一︶と し、それに頼く謙一部をD輩の各一番に引輯き節二二部より第十一一書︵E。誓⋮⋮莞︶に至り、これを凡てⅩ章 ︵四卿机他輩出︶とする。かくて各章をA章空車よりK輩に至るまでとし、特にその本文をA資料、一昔をAl資料 A2資料といふやうに名けておく。伶ほ古事記書紀を﹁紳﹂文書と﹁みこと﹂文書とに依って障介する場合、特に古 事記には節を朋ひ.書紀には部を用ひて、その混同を避けること1する。〓
今弦に﹁紳﹂と﹁命﹂との使用例の貨際に脱して、先づ古事記に就いて見れば、古事記は﹁紳﹂と﹁命﹂とを用ひ、
命に勤して﹁奪﹂を塙ひることをしない。而して古事記の文はこれを幾個かに瞑介して見るとき・此の﹁紳﹂と﹁命﹂
紳亡命ミによる紳代史¢資料批舛 β3βとの使用に大いなる特徴が費見されるやうに思ふ。 今暫く、その陰分を左の如く五節として見る。 第二節、榊植七代まで︵系七ノ九1−一〇J 第二節、掛能碁呂息の殴より御月泊り段までハ系七ノー〇3・1ニーJ 第一二節.三種黄御子御事俵の段より天石屋戸の陛吏で︵系七ノニー5・−二八J ﹁命﹂ 第四節、勿佐之男命御破避の段より大開圭紳圃避の段までハ系七ノ二八5−五〇5︶﹁紳﹂ ﹁命﹂ 第五節、御孫命天降の段以下ハ系七ノ五〇汚以下︶。 この内、第一節では紳々に謝して凡て﹁帥﹂といふ字を用ひる。従って伊邪那岐伊邪那英二甜に就いても同様に ﹁紳﹂と記してある。︵但し九川の一ケ肝のみ︶ 然るに第二節になると、特に伊邪那岐伊邪那英二紳に就いては、多くは﹁命﹂と記されてある。 岐命1一〇守一〇モー〇い、二で二。り.一正2、一茄モ一六8、一七わ、︼七7、一八。:一八6、ニー巧凡十三ケ併 琴平⊥○誓一〇7、一〇川、二ぞ二C、−六7、一六り、−七じ、l八。、l八8凡十ケ所 但しその一.部分には、﹁帥﹂と記されたところもある。 第一節 1.岐紳、芙紳︵九川︶ 第二節 鼠 芙紳︵一四J一五J 3.岐大紳︵一九1︶ 第三節 4.岐大御神︵二二リー、二二1、︶ 岐大紳 5.︵二二J 紳ミ命ミlこよろ前代史の菅料批列 β33
躊ミ分立1こよる前代姐の資料批判 三〇 これに就いては既に本藍且長も注意と向け、上の段には﹁抑﹂とあるのを.ここより﹁命﹂といつてをるが一別意 ある辞でないとして居る。︵古事記伸糊、全集一ノ一九四︶。 此の岐英二紳以外は一般に﹁紳﹂と記されてあるが、併し一二の例外がある。 上 ′ 意富加串京菜命︵一八J 底博之男命︵二〇6二一〇J 中博之男命︵二〇8、二〇川︶ 上何之男命︵二〇8、二〇川︶ 宇郭志日金折合︵二〇J 月譜舟︵ニーl︶ 建速射佐之男命︵二一J 而して此の節では特にその最初の部分︵一〇。・・二ニ1︶はその他の部分と鱒妄の趣を異にし・特に大八洲の夫 夫に人格的な名前をつけてあるが、それに﹁抑﹂とも﹁命﹂ともないのは他の場所に無い特徴である。かくて吾々は 暫く此の節を分って回︵一〇3−一三1︶分び阿︵一三11ニー一︶とする。 第三節になると、一般正﹁命﹂を使ってあるが.倫旛〓二の特例がある。即ち岐紳は伊邪那岐大卸紳ともされ ︵既出︶、その他、 御倉疲琳之紳︵二︼7︶ 高柳慶巣日鋼︵二大7︶ 腺金紳︵二六丁︶ 2β4
大手力男翻ハニ七尺り、二八J が見える。伶ほ天照大紳は大都紳とあるが、これは此の部分のみならす、一般に通じて用ひられるところであ り、のみならず伊部那岐に就いても大部紳と云ってをる場合がある。 次に第四節になると、又一般に﹁紳﹂と云ふ文字が用ひられてある。併しこ1にも多少の例外がある。 須佐之男禽︵諸所︶ 御節英日御組合︵二八拍、四一8、五〇J 紳虔巣日之合︵三三鋤︶ 額努稚魚貿倉︵三田9.三八詣︶ 多紀増尾頭底︵四OJ 高比貿命︵四Og、四七1︶ 赤水下光比茸倉︵四〇J 新屋楯此安倉︵四〇3︶ 荘原世評男命ハ四一J 奥津比靖命︵四二J 天私怨耳舟︵些ニ9、四三?︶ この内でも須佐之男命は旋虎視はれるが、例外なく常に﹁命﹂とある。紳塵巣日は、此の外﹁紳﹂と記したところ が一ケ併︵囚07︶あるが、これと並立の腑係にある高卸産集日は一に高木柳とも柄せられ.何れの場合にも例外 なく﹁紳﹂とされるのと比較すれば.特に注意さるべきものであらう。葦原色許男については、これより以前には 紳亡命ミにこよる譜代凰の資料批如 235
紳亡命ごによる紳代史り資料批列
三二
既に﹁紳﹂とある所があり︵≡1。︶、書紀︵ⅡJでは特にこれを刷ってをるところから見ると何等かの特別な意味があるかも知れない。天窓穏耳命、多紀理昆官命は須佐之男命と共に、後にも述べる如く一天孫系の紳名として
他の場合と一致するものである。須勢理鹿妻命及び下光比覚命は他のところでは命とも紳とも記さない場合があ
而して此の節の特徴とするところは.書紀の本文にも一書にも見富らない物語が包含されてをることである。今それによつて更にこれを資料分けすれば大鰹次の五項となる。
臥ハ二八5−三二1︶須佐之男倉御報避の段より大国主調御組り段吏で。 h︵三二11由〓3︶相羽乗鬼の段より大国主調御未紳等の段よで。 nバ四二﹁由二J少名良市郵耐の投及び革攻寄魂の段。 孔︵四二6−四三7︶大年前羽山声調御子等の段。 、 又讐ニ8−五〇︶開平御議の投より大開圭糾問避の段まで。此の内、何と㈱とは古事記にのみあつて、書紀には全く見えない部分である。固より此の外の部分に於いては
如何なるものも書紀の物語竺致すると云ふのではない。唯だ櫻って介在して甘る鮎に特徴があることを指摘す
ればよい。今此の応分によづて、さきに挙げた例外のものを見ると:その多くは此の何と㈹との内に入るのである。
弟五節の天孫降措の段以下では、又・一般に﹁命﹂と云ふ字が使用されてをる。而して此の場合の例外として惑﹂
の字が用ひられるものは、
るが、高比実の如く凡て二同とも﹁命﹂とあるところには何等かの意味が存するのかも知れない。
\ ゑ,β高木紳︵五〇β、五〇9、五一3︶ 天宇受責紳︵五一J 潜世息金紳︵五一9.五一山︶ 手力男紳︵五一9、五二J 天石門別所︵五一9、五二1︶ 赤毛聯石忠紳亦名豊石悪所︵五二J 萱由宇魚紳︵五二1︶ 撰田見古紳︵五一8、五三4、五三7︶ 榎田風音之男前︵五三J ..援田鹿音大紳︵五三J 大山津見所︵五四1、五匝管玉四J 線権醐︵五六管玉六5︶ 組津見謝︵五六J 組津見大所︵五入8︶ 佐比持紳︵五九J がある。此の内、高木紳はとれまで︵四五8まで︶高御産柴日紳とあるのと同一紳とされるがーこの記鉄上の菱化 に就いては既に本居宣長も旋ひ.或は屏俵資料を異にした食めであらうとする。︵古事記倖十三、全集一ノ七三 一︶。併しこの紳名が日本書紀に全く見えないところには、何等かの別な意味があるのかも知れない。何れにして も﹁紳﹂の字を用ふる例外としては、思金紳及び手力男紳と共に、既に夢二節でも挙げられたところである。天字 紳ミ愈童にこよる網代史の資料枇列 2β7
となるのである。 以上古事記に就いて見にところ、或る部分、鮎も第一、二及び四節の如きは﹁称﹂の字を用ひるに射して、他の 部分即ち第三及び五節に於いては﹁命﹂を王とし、それらが組合さつて古事記神代記事の全脛系をなして居るので あるが、か1る各部分の相違があるにも拘らず、伶ほ爵る軽のものは.常に例外として全脛を通じて焚りなく記 されてある。 今この﹁紳﹂文書と﹁命﹂文書と、その相違した各節に亘つて、一貫して﹁紳﹂若くは﹁命﹂の一方のみを使つてある ものを挙げると、先づ如何なる節にも同じく﹁紳﹂と云ふ字を使ふものには、 高御座累日紳又は高水沖 天照大御耐 忍金紳 三四 紳亡命ミによろ紳代史の資料払列 受窯跡は一般には﹁命﹂︵五一7、五三。一、五三。︶とあるところから見れば、或は何らかの誤りであるかも知れい。 大隈以上の如く見て来ると、古事記の各節は、 問﹁紳﹂のみ。 脚立写して﹁耐﹂。 閏生写して﹁命﹂。 ㈹生写して﹁卵﹂。 脚立ミLて﹁命﹂。 開脚物語。 開閉物静の草薮。 天孫系の物語。 出雲系¢物蕗。 天頂亮の物語。 β3β