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元気なうちに できれば休暇のとれる年末にでも現地への墓参に連れていってあげたいと思うが 何とかその場所を特定することはできないだろうか というものだった 地名が異なるというのは 実はしばしばあることで 現地の発音を日本のカナ表記にした時の違いというのが一番多い 次いで以前の名称と今の名称の違い さら

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 1 <アジア諸国レポート>

戦後 70 年、未だに特定できない戦没地

フィリピン・北ルソンの旅

坂内 正

はじめに

今年 2015 年夏は、第 2 次大戦終結から 70 年ということで、新聞や TV だけで なく映画や書籍でも、これに合わせたさまざまな企画やイベントが組まれた。 この影響もあってか、戦争で亡くなった祖父母や親族 の足跡をたずねようという遺族も少なくなかった。 こうしたなかで、筆者もフィリピンに少しかかわっ ている縁で、何度か遺族訪比のサポートなどを頼まれ た。 そのなかの一つのケースは、戦死公報に亡くなった 日と亡くなった場所は書かれているものの、地図上に 該当する地名がどうしても見当たらないが、その場所 を何とか捜せないかというものであった。戦後 70 年 経った今になっても、身内の亡くなった場所も特定で きない遺族がいるという現実がここにあった。

まぼろしのボンナアン

この相談をしてきた佐藤さんという人からのあらましはこうだ。1947 年(昭 和 22)10 月 25 日付で母方の祖父の留守宅に届いた死亡通知書(公報)によれ ば、フィリピンで亡くなった祖父・塩田義春氏は 1945 年(昭和 20)1 月 27 日、 フィリピン・ルソン島 ラ ユニオン州のボンナアンに於いてマラリアにより戦 病死したとされている。フィリピンのラ ユニオン州は地図でわかったが、「ボ ンナアン」という場所がどう探しても見当たらない。両親も 70 代になっており

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 2 元気なうちに、できれば休暇のとれる年末にでも現地への墓参に連れていって あげたいと思うが、何とかその場所を特定することはできないだろうか、とい うものだった。 地名が異なるというのは、実はしばしばあることで、現地の発音を日本のカ ナ表記にした時の違いというのが一番多い。次いで以前の名称と今の名称の違 い、さらには転記時の誤記などというのもある。 ラ ユニオン州(ラ ウニオン州)というのは、首都マニラのあるフィリピン 最大の島・ルソン島の北部に位置する、日本の県にあたる単位で今もこの名前 のまま存在している。 マニラから約 200 ㎞、今なら車で 4~5 時間、西海岸リンガエン湾に面した地域 だ。リンガエン湾というのは、開戦当初、旧日本軍が上陸したところであり、 戦争末期、レイテ島で攻勢に立った米軍が南から北へ攻め上る一方で、日本軍 を挟み撃ちすべく上陸したところでもある。 話を聞いた当初は、現地の地図であたれば見つかるだろうと思っていたが、 いざ調べてみると容易ではなかった。

所属部隊からのアプローチ

あらためて詳細な地図であたると共に、現地代理店・アールスドリーム社に も協力してもらって、まず類似する地名を捜してみた。ボンナアンにピッタリ 一致する地名はなかったが、ラ ユニオン州には BAUAN(バウアン)(バワン)、 BALAOAN(バラオアン)、BACNO TAN(バクノタン)といった、似たような地名は いくつかリストアップできた。念のため、隣接するパンガシナン州にも拡げて 同様にあたってみたら、BONUAN(ボヌアン)、BOBONAN(ボボナン)といった地

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 3 名も出てきた。 もちろんこれだけで類推することはできないので、当時の塩田さんの所属し た日本陸軍の部隊の展開した足跡からもあたってみることにした。亡くなられ た塩田さんの所属部隊は、戦死公報によれば歩兵第 64 連隊とある。第 64 連隊 は、第 23 師団に属していた。

第 64 連隊と第 23 師団

ここで、旧日本軍の部隊配置と構成について簡単に記しておこう。まず最小 単位が小隊で概ね 50 人程度。この小隊が 3 ないし 4 個、概ね 250 人程度で中隊、 これが 3 個で大隊となる。大隊が 4 個で連隊となり、この連隊 3 個ほどに機械 化部隊などが加わったのが師団である。これが基本形で、このほか小隊よりさ らに小さい単位の分隊や、連隊と師団の中間の規模の旅団もある。 第 23 師団は、かつて鎮台と呼ばれた熊本に本部を置いた。ちなみに師団には 番号のほか、主に漢字一文字の「兵団文字符」という通称も付けられた。強そ うなものや、郷土から、烈とか鯨といった、いわばニックネームが付けられた。 ちなみに、第 64 連隊の所属した第 23 師団のそれは「旭(あさひ)」である。こ の旭こと第 23 師団は、さらに上級の第 14 方面軍・尚武集団に属した。司令官 は、2・26事件の青年将校と同じ皇道派と目され「左遷」されながらも、「マ レーの虎」で勇猛をはせた山下奉文(ともゆき)大将である。

戦史研究センターであたる

こうした戦没者の足跡をあたる場合、一般的には前述したような戦死公報、 次いで旧日本軍の部隊の記録、戦友会の記録さらには出征に参加した人の手記 などを調べる。これと並行して、市役所や現地の州の役所にあたったり、時に 当時を知る地元の古老に聞いたりするのだが、遺族や一個人がこれにあたるの は極めて難しい。特に現地については特別なツテでもないと、アプローチ自体 も不可能に近い。 塩田さんが召集された第 64 連隊は主に南九州から兵士を集めており、彼も宮 崎で召集された。そこで、図書館や資料館でフィリピン戦の記録や戦記物から 宮崎県史などにも目を通してみた。また、フィリピンで発行されている邦字紙・

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 4 まにら(マニラ)新聞の刊行物や米軍司令官・マッカーサーの大戦回顧録など にもあたってみた。 もう 1 つは、防衛省防衛研究所の戦史研究センターである。東京都目黒区・ JR 恵比寿駅から徒歩 5 分ほどのところにあるこのセンターには、戦後米国から 返還された文献や資料も数多く収蔵されている。しかもここは一般にも公開さ れており、師団や連隊の足跡を知るには、またとない貴重な場所だ。 ここでは、米軍の上陸を迎えて闘った旧日本軍の戦闘状況について記録した、 公刊戦史「捷号比島作戦(2)」という資料を中心に調べてみた。 その記録によれば、1945 年(昭和 20)1 月 6~9 日にかけて圧倒的な火力・兵 力で艦砲射撃を実施したうえで、リンガエン湾に上陸した米軍を迎え撃ったの が、旭兵団即ち第 23 師団である。塩田さんが所属した第 64 連隊は、そのなか でも米軍の主力が上陸したリンガエン湾の中央部・サンファビアンに対峙する 形で、しかも海岸線に並行する陣形で闘った。 しかし、兵力の差はいかんともしがたく、じりじりと後退を余儀なくされるな か、1 月 19 日には米軍主力からの背面攻撃を受け大損害を出した。 ここに至って司令部は 1 月 25 日夕刻、第 64 連隊に撤退を下達。1 月 27 日に 撤退を開始し、シソン、ボボナンを経て同 29 日には自陣営にたどり着いたとさ れている。塩田さんが亡くなられた、まさにその日である。自陣営側にたどり 着いたとされる人数は約 300 名、これが当初約 2,500 名を擁した第 64 連隊のこ の時点での生存者である。ほゞ全滅といわざるを得まい。 この第 64 連隊に対し、山下司令官は「1 月 9 日以来、優勢なる敵に対し連日 敵の猛攻を撃退し、軍の作戦遂行に甚大なる貢献を為せり」として感状を授与 している。 それにしても孤島でもないところで、いかに命令とはいえ、ほゞ玉砕に近い 闘いを何故第 64 連隊はせねばならなかったのだろうか。その背景の 1 つは、6 年前に遡る。

ノモンハンでの敗北

64 連隊が所属する第 23 師団・旭は、フィリピンに派遣される前は、中国東北 部(旧満洲)にあり、1939 年(昭和 14)のノモンハン事件ではソ連軍と闘って いた。 当時のソ連軍は、BT 級という、この頃の日本軍の戦車とは比較にならないほど の火力、防御力を備えた戦車を配備していた。何より物量でも優っていた。

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 5

97 式戦車と 38 式歩兵銃

よく知られているように、第 2 次大戦初頭、旧日本軍の先進的な技術として 誇ったのが、戦艦大和やゼロ戦である。同時に、この当時の武器のレベルとし て他国に比べて明らかに劣っていたものがある。戦車と歩兵銃である。 旧日本軍の主力戦車は、通称チハと呼ばれた 97 式中戦車である。97 というの は、当時神武天皇の即位を紀元前 660 年と比定し、そこから数えて 2597 年、つ まり 1937 年(昭和 12)制定だからである。ちなみに、ゼロ戦(零式艦上戦闘機) の制定は、紀元 2600 年(昭和 15)である。この 97 式だが戦車とは名ばかり、 陸の王者と呼ぶにはあまりにも貧弱で、正面の装甲も、最も厚いところで 2.5cm しかない。この時期、米軍の主力戦車・M4 シャーマンのそれは 7.5cm である。 主砲も勝負にならない。2.5cm の装甲でハネ返せるのは、せいぜい機関銃までで、 砲弾をかわす避弾傾斜という跳弾効果もない設計では、シャーマンの直撃を受 けるとひとたまりもなかった。対ソ連戦車とも同様であった。 歩兵の標準装備となっていた 38 式歩兵銃もしかりである。こちらは明治 38 年(1905)制定というから、他国の歩兵用ライフルに比べても時代遅れだった。 まだある。38 式は一度に 5 発装填できたが、しばしば弾倉が壊れて弾を送り出 すことができず、単発銃としての機能しか発揮できなかった。これを補うべく 99 式という銃も開発されたが、ノモンハンには間に合わなかったし、フィリピ ンの戦場にはまわらなかったのだ。 それでも、第 64 連隊をはじめとする第 23 師団は、しばらくは持ちこたえて 闘っていた。 しかし、その闘いの中心地の 1 つとなったフイ高地では、圧倒的なソ連軍の戦 車部隊に衆寡敵せず撤退した。この責任を問われ、この時の第 64 連隊長、第 72 連隊長、捜索第 23 連隊長、野砲第 13 連隊長らは、いずれも自決させられてい る。ちなみに、この時ノモンハンに動員された日本軍兵士約 16,000 人のうち、 戦死・不明者数 12,200 余名、全体の約 4 分の 3 が損耗したことになる。 当時、ソ連軍最高司令官・ジューコフ中将(のち元帥)をして「敵ながらあ っぱれ」と称えたというが、それは冷戦終結後、実はソ連側の損害も甚大であ ったことが明らかになり、その意味があらためてわかるようになった。しかし、 全て半世紀後のことである。 第 23 師団とこれに属する各連隊が、再び決戦の場に臨んで、ノモンハンの汚 名をそそごうとしたことは、容易に推察できよう。おそらく、塩田兵長もその 一人であったのだろう。 兵隊の階級で兵長というのは、下士官の伍長を主任とすれば、副主任といっ

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 6 たクラスである。塩田兵長も、文字通り米軍との最前線で最も過酷な任務に就 きながら、命を落とされたのであろう。 米軍の猛攻による極度の混乱のなか、マラリアにやられたという最期はどう だったのであろうか。野戦病院などもとよりない。撤退のさなか、重症者は置 き去りにされて、そのまま亡くなったのだろうか、それとも戦友らの手で埋葬 されたのだろうか。しかも、後退の最中はたして誰が、1 月 27 日に塩田兵長の 戦死を記録して持ち帰ったのだろうか。 近代に入り、戦場で死傷する兵士の多くが銃による銃創から、大砲などによ る砲創へと推移してきた。しかし、この戦争での日本兵の場合、これをはるか に上回る比率で餓死や病死が多数を占めることとなった。戦略・戦術も、そし て最も重要な武器や食糧、医薬品の補給がなかったからだ。直接の戦闘死より 餓死や病死の方が多いというのが、またやりきれない。想像すると、遺族なら ずとも切なくなってくる。

とんでもないリーダー達

第 64 連隊が事実上壊滅し、塩田兵長が死亡したとされる同じ日の 1945 年(昭 和 20)1 月 27 日、この地からそう遠くないフィリピンのマニラ郊外の飛行場で は、とんでもないことが起きていた。 あろうことか、現地司令官の一人が部下 6 万人を置き去りにしたまま、山下 司令官にも無断で、マニラから台湾へ航空機で逃亡したのだ。第 4 航空軍司令 官(中将)富永恭次である。陸軍特攻隊の現地最高指揮官として、若者を死地 に送り出しながらの敵前逃亡である。 実は、こうしたリーダー達のあきれるような行状は枚挙にいとまがない。本 論ではないが、付記しておこう。 まずは、前述したノモンハンで彼らの火力・兵力を無視した作戦を立案し、 第 23 師団・第 64 連隊を壊滅させただけでなく、後退した連隊長らに自決を強 要した参謀本部の辻政信と服部卓四郎の 2 人。この「とんでもコンビ」は、あ のガダルカナルでも多くの将兵を死に追いやった張本人である。まだいる。周 囲の反対を押し切ってインパール作戦を強行し、86,000 人の将兵の実に 8 割も の人たちを死に追いやった、第 15 軍司令官(中将)牟田口廉也である。このほ かにも、細菌による人体実験を実施した第 1 軍軍医部長(中将)石井四郎もい る。731 部隊の隊長といえば、知っている人も少なくあるまい。 もちろん陸軍だけではない。海軍にもとんでもない司令官は少なくないのだ

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 7 が、ここでは一人だけ名前をあげておこう。山本五十六長官亡きあと、連合艦 隊司令部をパラオからミンダナオ島ダバオに移すべく、首脳陣が飛行艇で移動 中、悪天候でセブ島に不時着し、フィリピンゲリラに捕えられた。連合艦隊参 謀長(中将)福留繁である。彼が持っていた鞄のなかに詳細な作戦計画書が入 っており、その鞄はゲリラの手に渡り、すぐさま米軍に伝わり、日本軍の作戦 から基地の配置までが明らかになった。彼はゲリラと日本軍との取引で釈放さ れたが、その後の事情聴取でも鞄のことは否定し続け、結局不問になった。「海 軍乙事件」という。その後富永は何と昇進した。この不祥事を隠すためである。 ここまでなら、あきれたリーダー達の例で、部下にはあれこれ厳しいことを 言いながら、いざとなると責任をとらない上司といった構図だ。今の社会にも ありそうな少し腹の立つ話ということになろうが、彼らの場合これにとどまら ないのである。他の軍人達よりも日頃の言動が「徹底抗戦」などと過激だった にもかかわらず、富永も辻も服部も牟田口も石井も、海軍の福留も戦時中も終 戦後も、戦犯として訴追されることも、いわんや自決することもなく生き延び たということである。そろいもそろって、それもかなり長く。「生きて虜囚の辱 (はずかしめ)を受けず」という昭和 16 年に示達された戦陣訓は、部下に強い るものであっても、こうしたリーダー達には無縁のものだったようだ。 かつて米海軍が、日本軍を「下士官たちは世界一優秀だが、士官は落第だ」 と評したというが、言い得て妙である。こうした問題を取り上げる時、その時 代背景や価値基準を無視して、今日的基準だけで一方的に断罪することは避け ねばならぬことは言うまでもない。しかし、そうした点を考慮したとしても、 彼らの行状は許されるものではあるまい。 かくして、多くの兵士達は、圧倒的な米軍の攻撃だけでなく、武器弾薬、食 料の不足に加えて抗日ゲリラという三重四重苦のなかで、ずさんな命令にあら がうこともなく、力尽き命を落としていったのである。

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 8

陣中日誌でたどる

少し横道にそれてしまったので、戦史研究センターに戻そう。 「捷号比島作戦(2)」という公刊戦史を重点的に調べたことは前述した。どう しても、もう少し調べたくなり、もう一度戻って第 64 連隊関連の資料カードを 調べてみた。そこに「歩兵第 64 連隊第 3 大隊陣中日誌 昭和 19 年 11 月 1 日~ 20 年 1 月 31 日」というのと「若林隊陣中日誌 昭和 20 年 1 月 1 日~20 年 1 月 30 日」という 2 冊の資料のあることがわかった。ずばり、第 64 連隊が米軍と闘 い、撤退した時期で、塩田兵長の亡くなった時期でもある。さっそく資料を閲 覧させてもらった。 どちらも、はじめのうちは几帳面な青インクの字で、キチンと日誌風に書か れている。 しまいには、数行それも鉛筆の乱れた文字が並ぶ。それでも、必要事項は必死 に書き記したのであろう。なかには、「本日 人馬ノ異動」などと兵士だけでは なく、馬の増減まで記録した痕跡さえある。そして、こうした記述と共に毎日 の人員の減少が記録されている。 1 月 26 日 本日人員 126 名 1 月 27 日 有馬一等兵、荒木二等兵戦死 本日人員 124 名 1 月 28 日 本日人員 124 名 1 月 29 日 本日人員 88 名(36 名生死不明) 1 月 30 日 本日人員 73 名(15 名野戦病院入院) 塩田兵長のご遺族である佐藤さんからは、祖父の所属した大隊、中隊等まで はわからないとのことだったので、この 2 冊に記載のある兵士の名前を一人ず つ追ってみた。もしかしたら、第 3 大隊に所属していたかも知れないと思った からである。ちなみに、若林隊というのも同じ第 3 大隊だが、そのなかの第 9 中隊である。しかし、いずれにも塩田兵長とおぼしき名前を見つけることはで きなかった。 それでも、2 等兵から馬まで極限状態のなかで記録されている中隊があること から、もしかしたら他の隊で記録されていたのかも知れないという、期待を込 めた暁光のようなものを感じたのも事実だ。

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いざ、現地・北ルソンへ

これから先となると、あとは現地であたるしかない。 実は、これまでも何度かフィリピンでの人捜しを頼まれることはあった。時 には、フィリピンに帰国した女性を捜して欲しいなどというのもあった。意外 に思われるかもしれないが、実はこの種のものの「発見率」は割に高い。ただ し、たっぷりの愛情とお金のあることが前提だが。ほとんどの場合、友人・知 人を紹介したり、現地代理店に頼んだりしてきた。まれに、こうした戦没者捜 しのプロともいえるガイドを雇ったりもした。 しかし、今回は方針を変えた。依頼者・佐藤さんの「両親が元気なうちに、 祖父の亡くなった地に連れていってあげたい」という思いにこたえてあげたい という気持ちが一番だが、それだけではない。戦後 70 年経ってもまだ遺骨はお ろか、亡くなった場所すら特定できない人が、まだたくさんいるのに、多少と もフィリピンにかかわってきた自分が何か役に立てないかという気持ちが、あ れこれ調査を進めるなかで高まってきたからだ。 調査の過程で読んだ、小川哲郎著「玉砕を禁ず」や 井口光雄著「激闘ルソ ン戦記」などからも多くの事実を知ることができた。また、旧友・高田憲治氏 にも資料収集や図書の閲覧等で支援していただいた。こうした力もまた筆者を フィリピン・北ルソンの地へ赴かせる原動力となった。 かくして、わずかばかりの侠気、貯え、好奇心を持ってフィリピンに向かう こととした。

「シニア調査団」を結成

マニラ空港に降り立ったら、女性ガイドが迎えに来てくれていた。最近は一 人で旅することが多いので、出迎えそれも女性というのは久しぶりだ。空港に 出迎える女性は美人と相場が決まっている。 今回の現地視察にあたっては、以前にもこの種のツアーでガイドを依頼した ことのある、中村英子さんにお願いした。その中村さんだ。さっそく車中で打 ち合わせ。彼女は、遺族会や政府関係の慰霊ツアーなども数多く手がけたベテ ランだ。フィリピン大使館勤務だったご主人と共にフィリピンに渡り、マニラ 在住は 40 年を超えるという。 これに今回は、強力な助っ人が二人加わってくれた。一人は北ルソン日本人

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 10 会会長の小国秀宣さん。これまでも、あれこれサポートをしてもらった人だ。 会社員時代に 1 年滞在した高原都市・バギオに魅せられて、早期リタイアし、 バギオに滞在すること 10 年余。今は、日本語教師をしながら、この地域の日本 人会のまとめ役をやっている。そしてもう一人は、斉木一(はじめ)さん。こ ちらは南国暮らしの会バギオ支部長で、今は麗のウルダネタに住み、ロングス テイを満喫している。フィリピン在住 16 年というから心強い。共に遺族会の墓 参団などが来訪するとサポートしたりしている。 向って左から小国さん、中村さん、斉木さん ラウニオン州とパンガシナン州の境を流れるプエド川

ボンナアンはボボナン

実は筆者も、訪問する前に現地からの情報や資料を調べるなどして、目星は つけておいた。 パンガシナン州の「ボボナン」だ。ただ、どうしてそれがラ ウニオン州のボ ンナアンでなくて、ここなのかを根拠も含めて確かめる必要があった。すぐに は行けないので、翌朝から車をチャーターしてマニラを出発し北上。車中で中 村さんの説明を聞きながらウルダネタをめざす。 ここで、小国さん、斉木さんとも合流し、さっそく打ち合わせ。強力なにわ か「シニア調査団」の結成だ。 まず、事前に資料から調べておいた第 64 連隊の撤退命令後の退路を確認した。 これに、かつて従軍し奇跡的に生還した池田さんという人が残した、当時の詳 細な部隊配置が記入された地図とも照らし合わせた。これで、第 64 連隊の主力・ 3 大隊がどこに配置されたかが、より詳細になった。司令部からの撤退命令を受 け、彼らがプエド川、ボボナン川を渡りボボナンというバランガイ(部落)を 経て、山手へ後退していったのが、塩田兵長が亡くなった、まさに 1 月 27 日か

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 11 ら 29 日にかけてだ。27 日は、ちょうどボボナンあたりだ。 では、どうして州名と地名を間違ったか。まず、日本軍の主力が上陸した地 点がリンガエン湾北部のラ ウニオン州の海岸だ。そこから、海岸に沿う形で南 北に配置され、艦砲射撃や空爆の後、上陸してきた米軍を迎え撃ったのが第 64 連隊だ。 ここまではラ ウニオン州だが、ボボナンのあるパンガシナン州とは前記のプ エド川が州境になっている。川といっても小川で、歩いて渡れるほどだから、 州を超えたという認識はおそらくなかったと思われる。当時は標識もなかった し、住民は日本軍を嫌っており、彼らに聞く状況にはなかった。そして、何よ りラ ウニオン州にそもそもボンナアンという地名は、当時も今も存在しないの だ。 かつて日・米両軍が激しく闘ったリンガエ湾の海岸では漁民が漁網の手入れをしていた ここまで進んだところで、戦没者遺族のサポートを経験してきたシニア調査 団の 3 人が声をそろえて曰く、「厚労省の資料や戦死公報の住所や地名が違って いて、その都度訂正したなんてことは、ごく普通のこと。今回はまだ手がかり がある方だ。」と。 どうやら 3 大隊の配置による多少の幅はあるが、第 64 連隊が 175 高地(アラ バ山)と当時呼ばれた麓からプエド川をはさんだ一帯が、ボンナアンことボボ ナンとみて間違いなさそうである。生存者による手がかりが、ほとんど残って いない第 64 連隊としてはここまでだ。

慰霊碑と補充兵

第 23 師団のうちでも、比較的生存者の割合の高かった第 71 連隊については

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intelligence & investigation 情報と調査 速報・解説 NO: 112 2015 年 10 月号 12 慰霊碑も建っている。また、「歩兵第 71 連隊史」や「原簿戦死者名簿」という 貴重な資料も残されている。この 2 冊については、斉木さんが保存しているも のを見せてもらい、念のため戦史研究センターでの資料閲覧を思い出しながら、 なかの名簿を追ってみた。 もしかして、混乱のなかで再編成されたりして、載っているのではないかと。 しかし、塩田兵長の名前はここでも見つけることはできなかった。 ほゞ全滅した第 64 連隊には、連隊史も慰霊碑も作られなかったのである。第 14 軍の山下司令官がこの部隊に対し、まるで葬送の辞のように異例の感状を授 与したゆえんでもあろう。 この戦争での闘いというと、真珠湾やミッドウェー、さらにはガダルカナル や沖縄戦などが想起されよう。しかし、戦死者数(戦病死を含む)で見る限り、 海外で亡くなった日本人約 240 万人のうちの 50 万人強は、このフィリピンで亡 くなっているのである。しかも、このうち遺骨が返ったのは約 15 万柱、全体の 3 割ほどだという。まだある。一般的にこの頃召集され編成された部隊は、当初 は 20 歳前後の若者が中心だった。それが途中の戦闘や海没による損耗を補うべ く補充を余儀なくされた。この補充兵の多くは総じて年齢が高く、なかには既 婚者も多かった。つまり、今の遺族といわれる人たちの多くは補充兵のそれな のだ。だとすると、戦争初期に亡くなった未婚或いは子供のいない若者たちに ついては、その遺骨を捜そうという遺族がさらに少ないといった、もう一つの 問題があるのも現実なのである。 「山下道」脇には戦没者を慰霊する十字架が建っている 急峻なベンゲット道路をバギオ側から見た

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バギオに吹く風

いかにも牧歌的なプエド川の流れや山々の連なりを見ていると、70 年前にこ こで激しい戦闘があったとは、とても思えない。こんな感傷にひたっていたら、 夕刻に近づいていた。 シニア調査団を解団し、ボボナンを辞しベンゲット道路(ケノン道路)とい う曲がりくねった道を上り、リンガエン湾も一望できるバギオに入った。ちな みにこの道路にはケノン道路という別称がついている。それは、大戦前にこの 日光いろは坂のような急な坂道の開通に2度失敗した後、米国のケノン少佐と いう人が日本の勤勉な労働者を招致して、ようやく開通させたとの由来による。 ここで働いた日本人の多くは、その後ミンダナオ島のダバオに渡り、日本人街 をつくるのに寄与したという。バギオは、サマーキャピタルとも呼ばれパイン ツリーの茂る高原都市で、当時の日本軍司令部が置かれたところでもある。 ここからさらに山下財宝ならぬ「山下道」と呼ぶバイパス道路が、最後の司 令部となった中部のキアンガンまで続いていた。この中部キアンガンの手前、 サンタフェやバレテ峠で最後の激戦が闘われ、やがて終戦を迎えた。 筆者が訪れた 10 月上旬、標高 1,500mのバギオから 21 ㎞の山下道のポイント には、ススキのような長い穂が爽やかな秋の風に吹かれて揺れていた。 これまで筆者が書いたことは、専ら日本サイドからの視点である。フィリピ ンに限っても、日本人だけでなく全く罪のないフィリピンの人たちが 100 万人 も亡くなったという重い現実がある。そうしたことに、きちんと向き合うこと も、また不可欠であることは論を待たない。 佐藤さんは、今年 2015 年末、73 歳になった父親と 72 歳の母親そして 16 歳に なる息子を連れて、祖父の終えんの地へ行く予定である。現地で親子4代のは じめての対面をめざす。両親への親孝行と祖父・塩田義春さんへのたくさんの 想いをこめて。 〈文・写真〉 Profile 坂内 正 ( ばんない ただし ) ファイナンシャルプランナー、総合旅行業務取扱管理者。 元政府系金融機関で中小企 業金融を担当。 退職後、旅行会社の経営に携わり、400回以上の渡航経験を持つ。 ロングステイ詐欺疑惑など、主にシニアのリタイアメントライフをめぐる数々のレポー トを著す。 著書に『年金&ロングステイ 海外生活 海外年金生活は可能か?』(世界 書院) 日本フィリピンボランティア協会(JPVA)相談役 ミンダナオ国際大学客員教授 『情報と調査』編集委員

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