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いつもフィールドに出ていたかった (フィールドワ ーク心得帖 第1回)

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いつもフィールドに出ていたかった (フィールドワ ーク心得帖 第1回)

著者 鈴木 均

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 アジ研ワールド・トレンド

巻 175

ページ 42‑43

発行年 2010‑04

出版者 日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00046461

(2)

アジ研ワールド・トレンド No.175 (2010. 4) 42

ਸ਼৚ؙ൝਽ؙ಑

★フィールドワークの夢と現実

  ありていに言えば︑大学にい

た頃の私の夢はイランに行くこ

と︑そしていつか恩師の大野盛

雄先生︵故人︑東京大学名誉教

授︶のように︑いつもフィール

ドに出てフィールドノートと小

さなカメラを手に調査を続ける

ことであった︒一年のうちの少

なくとも半分を交通や通信も及

ばない遠隔の農村社会や遊牧民

社会に身を投じ︑いつ果てると

も知らぬフィールドワーク調査

を延々と続けることが可能であ

ると勝手に思っていた︒

  フィールドワークは文字どお

り野 に出て人々と直接に交渉

し︑会話と観察と移動の積み重

ねの中から自分なりの地域像や

文化像を組み立てていく知的な

営みのことである︒フィールド

ワークには記録がつきものであ

り︑我々はノートやカメラ︑録

音機材などを持たずにフィール

ドに赴くことはあり得ない︒記 録はどのようなことがあってもその日のうちか数日中にノートにまとめ︑いずれにしてもその記録の蓄積が我々の調査・研究にとっての第一次資料となる

その意味ではそれはルポルター

ジュや旅行記にも近似している

が︑我々のフィールドノートに

記される記述は当初から極力個

人的な主観を排し︑当該社会に

ついての社会科学的な問題意識

に基づいた観察と証言によって

構成される︒

  だが一九八六年にアジア経済

研究所に入所し︑このようない

わば独りよがりに思い描いてい

たフィールドワーカーとしての

理想像は︑どんなに逆立ちして

も実現不可能であることを思い

知らされた︒まず研究所という

ところは研究者をそれ程長期間

現地に投入してはくれない︒せ

いぜい一年に数週間の現地調査

で﹁遠隔の農村社会や遊牧民社

会﹂をまともに継続調査するこ となど到底不可能である︒そしてイラン現地側の社会の実態としても

︑ そのような

﹁遠隔地﹂

はこの数十年の間に急速に消失

する過程を辿ってきた︒

★調査の出発点に立つまで

  一九八九年から二年間の最初

のイラン派遣で︑私は調査らし

い調査をすることが出来なかっ

た︒甘い見通しでイラン・イラ

ク戦争直後のイランへの滞在を

始めたものの︑最初の一年間は

ビザが発給されない状態で過ご

し︑この間はテヘランを離れて

自由に旅行することすら許され

なかったからである︒だがこの

間に私はペルシャ語の習得に時

間を割き

︑また基本的なペル

シャ語文献の収集を行った︒よ

うやくビザが発給された時には

語学の習得と文献収集が道半ば

であり︑これを何とかある程度

の区切りまで持ってくるまでの

間に滞在期間はそろそろ終わり

が近くなっていた︒

  二年間の派遣期間も終わりに

近くなって︑私はイランの国土

の背骨とも言えるザーグロス山

脈を一周する旅に出る計画を立

てた︒テヘランを九月一五日に

発ち︑西のガズヴィーンから順

次イラン国内の主要な都市を結 んで陸路車で移動していく︒北はタブリーズからクルディスターンを南下してアフワーズへ︑ブーシェフルからヤースージュへ︑シーラーズを経由して南はバンダル・アッバースまで︒

さらに北上してケルマーンから

ヤズドを通り︑一〇月四日にテ

ヘランに戻ってきた︒この旅行

を通じて私は東北のホラーサー

ン地方などを除くほぼ全ての地

域を駆け巡り︑イランの地方社

会についての大まかなイメージ

を得ることが出来た︒そしてこ

れが私にとってのイラン調査研

究の出発点となった︒

  だが出発点は所詮出発点でし

かない

︒私は自分の思い描く

フィールドワーク調査の入り口

に立ったところでイランから帰

国し︑その乏しい成果を抱えて

次の長期滞在に備えることに

なった︒テヘランでお会いした

ときに﹁私はペルシャ語を本格

的に習得する前にフィールド

ワークに出たことを今でも後悔

している﹂と仰ってくださった

大野先生の言葉だけがこの間の

私の秘かな支えであった︒

★フィールドワークの構想

  フィールドワーカーは何より

も自分が現場で直接見たこと

いつ も フ ィ ー ル ド に 出 て い た か った

アジア経済研究所は一九五八年の設立当初より発展途上国に研究者を長期に派遣︑現

地の人たちとの交流・協働︑一次データ・現地語文献の収集︑現地語の習得を途上国

研究の基本に据えてきました︒フィールドワークは所内では﹁現調﹂と呼ばれ研究活

動には欠かせないツールとなっています︒このシリーズでは︑各研究者なりのスタイル︑

心構え︑方法などフィールドワークについて様々な話題を提供してまいります︒

(3)

アジ研ワールド・トレンド No.175 (2010. 4)

43

聞いたことを第一に信用する

︒ 基本的に他人が書いたことや 言ったことは信じないのであ

る︒この態度は大規模なセンサ

スや統計調査︑文献研究に対し

ても同様であって︑それらを一

応読みはするが︑自らの議論の

最も根幹的な部分について根拠

と す る こ と は な い

︒ そ れ が

フィールドワーカーと他の社会

科学者︵とりわけ文献家や理論

家たち︶との最も大きな違いで

ある︒  大野先生のイランの農村社会

に関するフィールドワーク調査

の最初の成果は﹃ペルシアの農村  

むらの実態調査﹄

︵東京

大学出版会︑一九七一年︶に纏

められた︒これはイラン国内の

﹁典型的﹂とみなされる四つの

農村にそれぞれ一定期間住み込

んで︑各農村社会の社会構造に

関わる基本的なデータを提示し

ようとしたものである︒一九六

〇年代半ばの当時において︑こ

れが外国人︵日本人︶の個人の

研究者がイランの地方農村社会

の全体像としてフィールドワー

クの手法を用いて描き得る臨界

点であったことは明らかであ

る︒  私は一九九九年からの二年間

のイラン派遣に臨むに当たり

この調査を何らかの点でどうし

ても乗り越えたいと考えた︒そ

こで私が調査の計画段階から企

図したのは︑より厳密な意味に

おける広域的なフィールド調査

であった︒イランでも道路交通

網は一九六〇年代からは比較に

ならないほど行き渡っている

︒ これを利用することによって

数量的に当時では不可能なほど

の多数の地方社会を訪れること

ができるだろう︒ただしそれで

は比較的長期にわたる滞在型の

調査と比べて表面的な情報に終

始することになる︒

  こうして私は二回目のイラン

滞在中におけるフィールドワー

ク調査を二段階に分けるという

計画を立てた︒第一段階におい

ては可能な限りイランの全域に

おいて多数の地方都市を訪問

し︑町の発展の経緯を直接イン

タビューしてビデオに収める

そして第二段階においてはそれ

らの中から最も興味深い事例を

再訪し︑周辺地域との関係を含

めてよりきめ細かな調査を実施

する︒結局私は二年間で一六九

カ所の地方都市を訪問し︑その

中から三つの地域について継続

的に調査を行うことになった︒ ★文献研究の方へ

現在私はようやく調査の報告

書をまとめ︑出版の機会を待つ

ばかりになっている︒だがその

間にもイラン国内の変化は刻々

と進行し︑また私自身のイラン

社会に対する関心もすでに次の

テーマを模索する段階に入って

いる︒私が現在取り組みたいと

考えているテーマは広義のイラ

ン文化圏における家族意識の変

遷というものだが︑実はこのよ

うなテーマはフィールドワーク

という手法には馴染まないとこ

ろがある︒イランのような社会

において︑外国人の男性研究者

が垣間見ることのできる領域は

おのずと限られており︑そこは

膨大なペルシャ語の文献資料に

よって補わなければならないか

らである︒私はこうして現在初

めて文献研究の必要を痛感し

フィールドワークから距離を置

こうとしている︒

  だが同時に私がこれから取り

組もうとしている文献研究は

︑ こ れ ま で 自 分 が 行 っ て き た

フィールドワークと切っても切

れない関係に置かれることだろ

う︒文献研究といってもフィー

ルドワーカーにしか出来ない切

り口があるはずである︒そして

当然ながら

︑私はこれまでの

フィールドワークで出来た多く

のイラン人の知人との付き合い

を可能な限り続けていくだろ う

︒ それはかつてフィールド

ワーカーたらんとした者として

の最低限の義務であり︑また冥

利でもある︒

  二〇〇九年の六月一二日に行

われた大統領選挙をきっかけ

に︑イランは三〇年前の革命以

来最大の政治的な転換期を迎え

ている︒日々の政治的な情勢を

インターネットで追うことに忙

殺されていたある日︑イラン南

部のシャムサーバードから突然

国際電話が掛かってきた

︒﹁

ヘランじゃいろいろとあるらし

いが

︑こっちは何にもないよ

最近来ないじゃないか︑どうし

たんだい?  ところで︑以前話

していたシャムサーバードが市

に昇格するという話がようやく

実現しそうなんだ︒ついてはあ

んたが書いていたという例の報

告書だが︑役人との交渉で必要

になるかも知れないから一部 送ってくれないか

︒﹂どうやら

私は今度イランに行く機会があ

れば︑何をさし置いてもシャム

サーバードを訪ねることになり

そうな気配である︒

すずき ひとし/アジア経済研究所 国際関係・紛争研究グループ長代理

専門分野はイランおよびアフガニスタンの地域研究。フィールドワークの成果を基に、『現代 イランの農村都市』を現在刊行準備中。近著に井上順孝編『映画で学ぶ現代宗教』(共著、弘 文堂、2009年)、『アフガニスタンと周辺国――6年間の経験と復興への展望』(編著、アジア経 済研究所、2008年)。

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