1.はじめに
バーヴィヴェーカ(Bhāviveka, 490-570 頃)、ダルマキールティ(Dharmakīrti, 600-660)およびシャーンタラクシタ(Śāntarakṣita, 725-788)などは、識が前 世から来世へと存続することに基づいて輪廻の存在を論証している。 特に、ダルマキールティの影響をうけて Pramāṇaviniścaya, Nyāyabindu に 対する註釈を著したダルモーッタラ(Dharmottara, 740-810)は、『他世の論 証』Paralokasiddhi(PLS)において、後期仏教認識論に照らして輪廻説が 妥当であることを示す為に、他世(paraloka)の論証に取り組んでいる。つ まり、ダルモーッタラのその試みは、他世を認めない人々に識の相続―『量 評釈』Pramāṇavārttika(PV)においては“cittasantati”、『真実綱要難語釈』 Tattvasaṃgrahapan˜jikā(TSP)においては“cittapratibandha”―を通して他世の 存在を論証しようとするものなのである。したがって、本稿では、輪廻の妥当 性の根拠とされる識の相続がダルモーッタラによってどのように捉えられてい るかを PLS の中に探ってみたい。2.唯物論者の主張
一般にインドにおいては、Bārhaspatya、Lokāyata、Cārvāka が唯物論者と見 なされているが、残念なことに、それら唯物論者の文献はまとまった形では残 存していない。したがって、彼らの学説を研究する際には、他学派の諸々の論 書において「対論者の主張」(pūrvapakṣa)として設定されている記述を資料 としなければならない1 。識の相続について
―ダルモーッタラ著 Paralokasiddhi を中心として―
朴 美 正
1 唯物論者による輪廻の論証に関する PV の先行研究は木村[1970]、稲見[1986]、[1987]などがある。生井氏は PV, Chap.2 と TS 並びに TSP, Chap.22 Lokāyataparīkṣā におけ る輪廻の論証に関して多くの研究を発表しているが、最近のほとんどの研究論文は、
2.1 識は身体のみを所依とする
まず、仏教論理学の論書において唯物論者を批判する際に見られる唯物論者 の立場を見ておくことにしよう。 例 え ば、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の PV と そ の 註 釈 書 の 一 つ で あ る デ ー ヴ ェ ー ン ド ラ ブ ッ デ ィ(Devendrabuddhi, 630-690) に よ る『 量 評 釈 細 疏 』 Pramāṇavārttikapan˜jikā(PVP) Pramāṇasiddhi 章、シャーンタラクシタの『真実 綱要』Tattvasaṃgraha (TS)の Lokāyataparīkṣā とその註釈書であるカマラシー ラ(Kamalaśīla, 740-795)の TSP において、唯物論者が前世、今世そして来世 において存続する識を認めないことによって輪廻を否認していることが伝えら れている。 一般に、唯物論者によれば、四大種のみが一次的な存在すなわち実在であり、 識はその四大種の変異である身体から生じ、識は他ならぬ身体を所依とするも のである。翻って言えば、身体が無ければ識は存在することはなく、したがっ て死によって身体という所依を失った識が独立して存在することは有り得ない のである。唯物論者は、そのように死後における識の非存在を通して前世並び に来世を否定し、それによって輪廻そのものまでも否定するのである。2.2 識は自己と同一な原因より存続する
しかし、PLS では、先の「識は身体のみを所依とする」という唯物論者の主 張ではなく、「各瞬間の識も同一の流れに属する限り何らかの同一性を保つべ きである」という識の相続を前提とする唯物論者のもうひとつの主張が、下記 のように言及されている2 。 また、[Lokāyata は]次のように語る。すなわち、煙が立ち上がる最初の 刹那には火から生起を得るが、後々の刹那にはただ自らの相続だけから生 起を得るのと同様に、[識は]最初に[四]大種から識(shes pa)の性質 を得た後に、さらに、同類(rang gi rigs)のみから生じるのである。 このように、「煙は第一の刹那に火を原因として生じるが、第二の刹那以降 は煙自身と同類なものが相次いで存続するように、識もそれと同様な方法で相 生井[1996]に再録されている。2 PLS, 247a5 : yang ji ltar du ba ’phyur ba’i skad cig dang po me las skye ba thob la / skad
cig gzhan dang gzhan ni rang gi rgyun kho na las skyes pa thob pa ltar dang po ’byung ba chen po dag las* shes pa’i ngo bo thob pa ni phyis yang rang gi rigs kho na las ’byung bar gang smra ba [/] (*P : la)
続する」という Lokāyata の立場が示されている。これは、Steinkellner 博士に よって Lokāyata の「より新しい理論」(jüngeren Lehre)の第一の発展段階(die
erste Entwicklungsstufe)に相当すると指摘されているものであるが3、この記 述から「識も身体も最初は四大種より生起するが、次の刹那からは識と身体が 各々別々な自らの原因に従って成り立っている」という理解が読み取られる。 そして、この識と身体はそれぞれ異なる個別な存在として自己と同類の原因よ り存続するという Lokāyata の理解からは、身体が消滅した後にも識が身体に 代わって認識主体として存在し得ることが推測される。 以上のように、「身体が認識主体であり、識はその認識主体である身体に属 する」という Lokāyata の主張は、PV をはじめとして多くの論書に散見するこ とができる。しかし、それと異なった上記の「身体の存在の制約を受けること なく識の相続が存在し得る」という理解も Lokāyata に成立していたと考えら れる。そして、それは「識は一刹那前の識から生じた結果であり、身体が消滅 した後にも相続する」という仏教徒の理解と極めて類似するものと捉えること ができる。 このように、Lokāyata が、死後も存続することを可能とする、一刹那前の識 を前提とする「識の相続」を認めたことは、「輪廻からの解放は、現世の死以 外にない」という Lokāyata をはじめとする唯物論者独自の主張を放棄してま でも、仏教徒と同様に、彼らも識の相続を通して輪廻の可能性を論証しようと したことを意味すると考えられる。
3.ダルモーッタラの主張
Lokāyata は、上で触れたように、「各刹那における識は同類の原因によって 生じること」を前提として議論を構築しているのであるが、ダルモーッタラに よれば、あらゆる場合の識が同類の原因によって生じ相続するのではないから、 刹那ごとの識の同一性を前提とする Lokāyata の主張は妥当なものとはされな いのである。以下においては、このダルモーッタラによる Lokāyata 批判を考3 E. Steinkellner[1986] p.42, 註 13 参 照 : ... zu dieser die erste Entwicklungsstufe der
“jüngeren Lehre” vertretenden Schilderung der Lokāyata-Theorie vgl. die Einleitung p.10f. Ihrer Widerlegung ist der nun folgende Hauptteil von Dharmottaras Werk(3,4-8,7) gewidmet. 生井[1996] p.464
察してみることにしよう。 Lokāyata は、「後々の刹那にはただ自らの相続だけから生起を得る」という ことを主張するのであるが、正確にはそれが何を意味するかを確認する為に、 PLSにおける識の相続に関する議論を眺めてみることにする。 PLS では、識の相続については、[1]特定の原因から相続する識、[2]刹那 ごとに原因全体に依存して相続する識という、識に関する二つの設定を通して 考察がなされている4 。
3.1 一刹那のみ存在する識
3.1.1 同類の集合した原因に依存して生じる識
識の相続とは、一般に「識は直前に滅した識を原因として現刹那に生じる」 というように、一刹那前の識を原因とすることである。しかし、PLS では、一 刹那前の識を原因とするのではなく、例えば第二の刹那、第三の刹那などの識 のように、同類の集合したものを原因とする特殊な識が取り上げられている5 。 或る結果の顕現は、各々の刹那において同類の集合した[原因]に依存し て多様に(rgyas par)生じるのである。例えば、灯火が燃え上がること、 或いは眼などの認識(rnam par rig pa)の如くである。そして、このように各刹那に同類の集合したものを認識対象とする眼識など は各刹那に別異性をもって生じるのであるが、それらが一刹那前の識を原因と しないことついては、以下のような説明が加えられている6 。 それら(例の結果)は生起の所作であって、最初の刹那において、例えば、 4 PLSにおける二種類の因果のモデルの想定は、以下にあるように、ダルマキールティ の『ヘートゥ・ビンドゥ』Hetubindu に依拠している。
kāryadvaividhyaṃ ca shahakārisan˜janita viśeṣaparaṃparotpattidharmakam anyac cāṅkurādivad akṣepakārīndriyavijn˜ānavac ca kāryakāraṇayoḥ svabhāvabhedād (E.Steinkellner[1967] p.63.1-4)
結果は二種類である。(1) 諸共働因によって生ぜしめられた特殊性の連続より生じる もの、例えば、芽等と、(2) 以外のもの、例えば、直ちに機能する感官に基づく知(など) である。[両者それぞれの]因果の本質が異なるからである。(桂訳、桂[1983] p.100)
5 PLS, 247a7-247b1 : ’bras bu’i gsal ba kha cig ni skad cig re re la rigs mthun pa’i tshogs pa
la rag las nas rgyas par ’byung ba can yin1 te / dper na sgron me ’bar ba’am mig2 la sogs
pa’i rnam par rig pa lta bu’o // (1.D : omit. yin, 2.P,D : mi)
6 PLS, 247b1-247b2 : de dag ni skyed pa’i bya ba la ji ltar skad cig ma dang por me dang
/ snying po dang / mig dang / snang pa dang / yid la byed pa rnams nye ba la ltos pa de bzhin du skad cig ma gnyis pa la sogs pa rnams la yang ngo //
火とランプの芯、そして眼と顕現している[対象](snang pa)と意の作用(yid la byed pa)すべては近[在]している[一つの原因として集合した原因] に相待するのと同様に、第二の刹那などにおいても、[最初と同様に集合 した原因に依存するのである。] 例えば、眼識などの感官知は、同類の原因つまり感覚器官とその知に顕現し ている対象と意の作用というものが集合した原因に依存して生じる。すなわち、 感官知は最初の刹那のみならず、其の後の各刹那においても同類の集合した原 因を必要とするのである。そうした同類の集合した原因は相互に差別があるの であるが、同一の知を生ぜしめるためには、必ず対象の「近接」が要求される7 。 そして、集合した原因の中の一つの原因が滅したり或いは変化したりするこ とによって、その結果も滅したり、変化したりすることになる。それ故に、灯 火や感官知は集合した原因の中の一つの原因に相応して、存在或いは非存在に なるのである。 しかし、感官知は相続する識ではないと説明される一方で、感官知を相続す るものと認められているということから、その相続の原因が第六識である意識 に置かれていることが考えられる。 感官知などが相続する原因を意識としその相続を認めるならば、顕現してい る対象という原因が無くても、意識さえあれば感官知が相続することになって しまう。そこで想定されるのが、意識の対象が感官知と共に働いて意識を生じ させるというダルマキールティの説である8 。要するに、一刹那前に生じた感 官知が次の刹那に滅せず意識の対象と共に働いて意識を生じさせるということ によって感官知を相続するものとして置かれるということである。 しかし、ダルモーッタラにとって意識の対象と感官知が共に働くことは成り 立たないのである9。例えば、眼が働きを持つとき、すべての色の知は眼のみ
7 cf. PV, chap.3 k.46 : yā ’py abhedānugā buddhiḥ kācid vastudvayekṣaṇe | saṃketena vinā
sā ’rthapratyāsattinibandhanā || 二つの実有を知覚する場合、社会的約束なくして、[二つの実有の]無相違を随知す る何らかの知が生じるけれども、それ(知)は対象(二つの実有)の極近に基因する。 (戸崎訳、戸崎[1979] p.114) 8 戸崎[1979] pp.340-347, PV, chap.3 kk.239-248 9 ダルモーッタラは、Nyayabinduṭīkā において、感官が引き続き働きをなすときは感官 知のみが生起しつづけるのであり、感官がその働きを止めたときに初めて直接知覚と
に依存しているように、感官が働くならば感官に依存している感官知のみが生 じるのである。つまり、各刹那の感官知の働きが存続している限り、意識は生 じない。したがって、ダルモーッタラは感官知が意識を生じさせるというダル マキールティの説を否定しているので、感官知の相続する原因を第六識である 意識に置くことはできないのである。 ダルモーッタラにおける感官知の原因は、近在している感覚器官と対象、そ して意の作用というものが集合したものである。また、第一刹那に生じた感官 知は、第二刹那、第三刹那などに再び生じることはないので、感官知が意識を 生じさせることは認め難い。それ故に、感官知は刹那的な識にすぎないのである。 したがって、瞬間的な存在、つまり一刹那のみ存在する五つの感官知と灯火 は相続に従うことはできない。何故ならば、感官知は刹那ごとにそれと相応し た対象領域があるはずであって、現に知覚される限り存在するものとして、結 果である識の多様性はそれに起源を求めることはできないからである。
3.1.2 非実在によって生じる識
前段においては、灯火を例として、同類の集合した原因に依存して生じる感 官知が識の相続として不合理であることを確認したのであるが、ここでは分別 知(rnam par rtog paʼi shes pa, 概念知)に関するするダルモーッタラの理解を 見てみることにしよう。分別知の原因はどのようなものであるかについて、ダルモーッタラは以下の
ように述べられている10
。
それ故に、例えば、同一の相続に属している(kongs su gtogs pa)種子と 芽との二つのもの、すなわち異なる結果が、[各々相違する]原因に依存 しての意識が生じるという。(etac ca manovijn˜ānam uparatavyāpāre cakṣuṣi pratyakṣam iṣyate | vyāpāravati tu cakṣuṣi yad rūpajn˜ānaṃ tat sarvaṃ cakṣurāśritam eva | NBT(D), p.62.1-2) cf. 戸崎[1979] p.345
10 PLS, 247b6-248a2 : gang gi phyir ji1 ltar rgyun gcig2 gi khongs su gtogs pa’i sa bon dang
myu gu dag gam ’bras bu’i tha dad pa ni rgyu la rag las pa de bzhin du rgyud gcig3 gi
rnam par shes pa’i khongs su gtogs pa sngon po dang / mngar ba dang / gzugs la sogs pa’i snang ba dang rjes su ’brel pa’i sngon po snang ba’i rnam par rtog pa ni rgyu4 tha dad pa’i
phyir rgyu tha5 dad pa la ltos so // de la de’i rgyu yongs su rtog6 pa na ji ltar du ba’i rgyun
skye ba’i rgyu me yin pa de bzhin du sngon po’i snang ba7 dang rjes su ’brel ba’i rnam par
rtog pa de la ni rgyu cung zad kyang ma mthong ngo // (1. P,D : ’di, 2. P : cig. 3. P : cig, 4. E.Steinkellner[1986] : omit. rgyu, 5. P : omit. tha, 6. P : rtogs, 7. D : rnam pa)
するのと同様に、同一の相続の識に属している青と甘さと色などと青の顕 現するもの(対象)に従う(rjes su ʼbrel pa)分別[知]は原因が相違する が故に、[各々]相違する原因に依存する。
そこにおいて、それ(青の対象)の原因を分別する(yongs su rtog pa)場 合、例えば、煙の相続が生じる原因は火である。それと同様に、青の顕現 するものに従う分別[知の原因は青の顕現するものであるはずにもかか わらず、]そこ(分別知)においては、わずかな原因も知覚できない(ma mthong)。 ダルモーッタラにとっての分別知とは直接知覚によって認識されないもので ある。外界に顕現する対象を直接知覚するとき、そこではことばを超えた独自 相が把握される。しかし、知覚の直後に生じる知覚的判断つまり分別知は過去 に蓄積された習慣の働きによって生じるのであって、外界の対象に基づいて直 接に引き起こされるものではない11 。それにもかかわらず、我々は知覚の判断 が生じたとき、外界の対象を認識内の対象だと誤解する。したがって、我々は 知覚判断の対象に実在性を付与することはできないのである。 例えば、煙が火によって存続するように、青い分別知も青い対象によって存 続するはずである。しかし、青い分別知の原因であると見なされる対象は分別 知が生じたときには認識されず、青い分別知が存続しているように見られるの は想起(smṛti)にほかならない。何故ならば、把握されたことのないものを後 に想起することは有り得ないからである。それ故に、分別知においては、感官 知や灯火に見られるように、その相続に対する原因は見出されないのである。 ところが、分別知の原因を実際に顕現する外界の対象に置かないで、知のみ を原因として相続するというならば、青い分別知によって青い対象が現れるは ずである。しかし、それはあくまで認識内の対象にすぎないので、分別知の原 因を知のみに置くことはできない。それについてダルモーッタラは、以下のよ うに言及している12 。
11 cf. PV, chap.3. k.29 : tasyām rūpāvabhāso yas tattvenārthasya vā grahaḥ | bhrāntiḥ
sānādi-kālīnadarśanābhyāsanirmitā ||
それ(種)に、[或る一定の]相(自性)が顕現する[と述べたり]或いはまたそれ自体(種 の自性)として[対境]対象を把握することは、無始以来の見の繰り返しによって作 り出された迷乱である。(戸崎訳、戸崎[1979] p.94)
[もし前の刹那に]青として顕現するものより後[の刹那]に青として顕 現する[知]が生じると云うならば、青などの特徴を有する識(rnam par shes pa)も実在する原因と遍計される(yongs su brtag pa)ことはありえない。 何故ならば、[あたかも青などの特徴を有する識が]実在する原因と遍計 されたように、[識は]迷乱を有するものとして顕現するからである。す なわち、青という顕現するものの特徴を有する識(blo)の性質(ngo bo) が如何なる顕現するものより生じていると知覚する(mthong ba)ことま さにそれが、他の時に他の顕現するものと結合する識(shes pa)より生じ るならば、すべての相続の原因は迷乱を有するものとして知覚できない(ma mthong)のである。 知覚の直後に生じる「これは青である」という分別知の原因が外界の対象に よって生じるならば、知(識)と外界の対象は必ず同時に存在しなければなら ない。そこで当然予想されるのが、「青の知は青の対象から生じる」という反 論であろう。 知(識)と外界の対象は同時に存在することが前提となって、外界の対象が 原因としてその知(識)が生じるというならば、認識の過程において因果関係 を捉えている仏教徒の立場からすれば、それらが同時に存在することはない。 何故ならば、青の知(識)が生じるのはあくまで青の対象が顕現した後である ので、青の対象より青の知が生じることは有り得ないのである。 分別知も相続の原因をもつなら、青の知が青の対象以外の外界の如何なる対 象によって生じるのかという疑問が浮上してくる。それは「第一刹那において 生じた青の知は、第二の刹那に現れる赤の対象と結合しても、青の知と異なる 赤の知を断じて青の知が存続する」と言うことができ、要するに眼前に顕現す る実在は認められないということなのである13。そして、そのようであるならば、
sngon po la sogs pa’i khyad par can gyi rnam par shes pa yang rgyu’i dngos por yongs su brtag pa ma yin te / rgyu’i dngos por ji ltar brtags pa ltar ’khrul pa dang ldan par snang ba’i phyir ro // ’di ltar sngon po’i snang ba’i* khyad par can gyi blo’i ngo bo ni snang ba gang zhig las skye bzhin pa mthong ba de nyid gzhan gyi tshe snang ba gzhan dang ’brel ba’i shes pa las ’byung na / rgyun gyi rgyu rnams ni ’khrul pa can du ma mthong ngo // (*D : rnam pa’i)
13 cf., PV, chap.3 k.334 : yadi buddhis tadākārā sā ’sty ākāraviveśinī | sā bāhyād anyato veti
それはことばによる区別にすぎないのである。何故ならば、結果の区別は別異 と同一という原因を根拠として現れるにもかかわらず、青い対象に従わない赤 の知は原因を超えたものであることより、原因を外界に設定することはできな いからである。
3.2 相続としての識
以下においては、識の相続の原因がダルモーッタラによってどのように捉え られているかについて見ておくことにしたい。 ダルモーッタラは相続する識について、以下のように説明している14。 或る[結果(識)の顕現は]最初の刹那において相続の原因(rgyun gyi rgyu)から生起を得るが、わずかな時間に、自己と同類が後の刹那に依存 して生じるという本性(bdag nyid)をもつものとして存在する。例えば、 煙などという形象と同様である。 さらに、相続する識の特徴については、以下のように示している15 。 実際に、或る実在である原因は結果(識)を一刹那のみ存在させてしまう けれども、後の刹那の生起の所依として生じるのである。それ故に、特定 の原因よりわずかな相続を伴う結果が生じるのである。 このように、相続する結果は最初から特定の原因から生起を得て一刹那のみ 存在するが、後の時間からの生起は自己と同類のものに従って存続する。しか し、後の時間からの生起は最初の特定の原因を所依として存続するのである。 ダルモーッタラは相続する識の例として煙を挙げている。つまり、「煙があ るところには必ず火がある」という例である。それは「X が有るならば Y が有り、 Yがなければ X は無い」という因果関係を内容とする論理的結合関係に基づくものである。それは「必然的関係」(avinābhāva, med na mi ʼbyung ba)と呼ばれ、
Xによって Y の存在を推理するものである。
もし、知はそれ(対象)の形相をもつ[というならば、]特定の形相をもったそれ(知) は存在する[と認められる]。[しかし]、それ(特定の形相をもった知)は外境によ るのか、或いは他によるのか、これは吟味されるべきである。(戸崎訳、戸崎[1985] p.18)
14 PLS, 247a6-247a7 : kha cig ni skad cig dang po rgyun gyi rgyu dag las skye ba thob par
byed la / dus cung zad ni rang gi rigs kyi skad cig ma gzhan la rag las te skye ba’i bdag nyid can dag tu gnas te / dper na du ba la sogs pa’i rnam pa bzhin no //
15 PLS, 247a7-247b2 : rgyu’i dngos po ‘ga’ zhig ni dngos su ’bras bu skad cig tsam gnas par
byed du zin kyang skad cig ma gzhan skye ba’i rten* du skye bar byed do // de’i phyir rgyu’i khyad par las ’bras bu cung zad cig rgyun dang bcas pa ni ’byung ngo // (*D : don)
ここで注目しなければならないことは、火と煙の関係は直接知覚によって成 立しないということである。煙は火によって直接知覚されないが、結果である 煙を見て初めて原因である火が推理される。火によって非知覚なものである煙 が推理されるのであって、結果である煙の非存在によって原因である火は知覚 できないというこのような因果関係は知覚と非知覚によって理解される。ダ ルモーッタラはこのような因果関係を所証である原因に対する結果なる証因 (kāryahetu, ʼbras buʼi gtan tshigs)であると述べている16
。 さらに、ダルマキールティは火と煙との関係を普遍的な関係とし、「火の結 果である煙」は分別された因果関係を想起するので、実際に燃えている火は間 接的な因となると説明している17。すなわち、普遍的な煙によって火の顕現は 成り立たないが、我々は普遍的な火によって実際に燃えている火に到達できる ので間接的な因とされるのである。 そして、「煙があるところには必ず火がある」という例と同様に、相続する 識も最初から特定の原因によって生じるのである。言い換えれば、識は特定の 原因以外のものから生じないということである。 それでは、相続する識にとっての特定の原因とは一体何であろうか。 PLS では相続する識の原因については明示されてないが、識の相続が存続す るところに我執が存在するという関係が想定されている。我執によって自ら苦 を捨てて楽を得たいと望むことつまり、渇愛が生まれることが前提となって識 が存続するというのである。現世の識は前世の生に依存しているが、我執が無 ければ原因が無いので識相続もなく、後時における生の獲得もない。したがっ て、それによって輪廻から解脱することとなるのである。このように、識の相 続を通してその原因である我執・渇愛を認識する手掛かりになる。
4.結語
以上のように、ダルモーッタラは「火と煙」の例に基づいて「識の相続は特 定の原因から生じる」という理解を示した。Lokāyata などの唯物論者における 「他世の論証」との関わりで問題とされた識の相続は、現世の識という結果に 基づいてその原因が推理され、現世の識は前世の生に依存しているので前世は 16 NBT(D), p.164 17 PV, chap.3 kk.81-82, 戸崎[1979] pp.154-159証明されることとなる。そして、前世の生に関しては、我執と渇愛などがその 原因であることが推理され、それら我執と渇愛などによって衆生は次の他世へ と趣くので、それによって来世が証明されることとなる。これが、識の相続に 基づく他世の証明なのである。
【略号】
BBS : Bauddha Bhrati Series, Varanasi.
D : sDe dge edition.
NBT(D) : Nyāyabinduṭīkā of Dharmottara Paṇḍita Durveka Miśraʼs
Dharmottarapradīpa, ed. by Paṇḍita Dalsukhbhai Malvania. P : Peking(Beijing) edition
PLS : Paralokasiddhi.(D.No,4251)
PV : Pramāṇavārttika, ed.S. Dwarikadas Shatri, BBS No.3, Varanasi 1968.
TS : Tattvasaṅgraha.(D.No.4266)
TSP : Tattvasaṅgrahapan῀jikā, BBS Nos.1,2 Varanasi, 1968.(D.No,4267) WSTB : Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhismuskunde.
Arbeitskreis für Tibetische und Buddhistische Studien, Universität Wien.
【参考文献】 稲見正浩 1986 : 「ダルマキールティによる輪廻の論証(上)」『南都仏教』56 号 1987 : 「ダルマキールティによる輪廻の論証(下)」『南都仏教』57 号 1997 : 『プラマーナ・ヴァールティカ』プラマーナシッディ章の研究(6)『東京学芸大 学紀要』第 2 部門第 48 集 1998 : 『プラマーナ・ヴァールティカ』プラマーナシッディ章の研究(7)『東京学芸大 学紀要』第 2 部門第 49 集 桂 紹隆 1983 : 「ダルマキールティの因果論」『南都仏教』50 号 木村俊彦 1970 : 「ダルマキールティに拠る心相続説(1)―ローカーヤタ派との論争をめぐって―」、 『東北仏教研究会研究紀要』第 2 号 1981 : 『ダルマキールティ宗教哲学の原典研究』木耳社 戸崎宏正 1979 : 『仏教認識論の研究』上巻、大東出版社 1985 : 『仏教認識論の研究』下巻、大東出版社 中村 元 1981 : 「インド論理学の理解のためにⅠ、ダルマキールティ『論理学小論』(Nyāya-bindu)」 『法華文化研究』第 7 号
生井智紹
1996 : 『輪廻の論証―仏教論理学派による唯物論批判―』東方出版 E. Steinkellner
1967 : Dharmakīrti’s Hetubinduḥ, Teil, Tibetischer Text und reconstruierter Sanskrit-Text,
Wien.