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習 が 生 母 逝 き ま し て 滋 に 十 三 年 、 合 々 十 月 二 十 円 日 英 の 忌 日 に 相 常 り 、 認 し ん で 、 英 の 霊 前 に 在 り し 日 を 偲 ぶ と 共 に 、 常 夜 忽 キ と し て 上 洛 、 大 合 の 席 上 に 列 す 。 是 も 遠 慶 宿 縁 と 、 其 の 心 情 の ま h を 久 遠 の 母 の 御 前 に 奉 る 。 母 よ 来 。 受 け よ 。 要 !:::::話 日 七 六 五 四 三 二 a は L が き 。 岡 県 宗 史 阜 の 地 位 、 縦 横 の 関 係 、 卵 の 除 。 ﹁俸給﹂の編纂方針、上ノ問、入二段の意義、史究との閥係。 還俗阻流の傍澄、行雲流水の生活。 宗祖御往生地と L ての古来の一一一説、願智筆自然法爾章、長安洛陽の考泣、長安洛陽 t p ﹂ 扶 風 間 時 刻 と は 封 句 法 。 扶風四時刻の考詮、漢ノ三輔制度、宗施と善法院との閥係。 御 往 生 地 の 地 理 的 叙 漣 の 異 説 、 御 崎 昨 日 円 目 窺 紗 の 所 説 、 ロ 公 安 M W 均 の 解 制 作 。 ﹁ 親 日 開 口 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 て 一 三 五日 本 側 数 血 中 協 品 開 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 一 一 一 工 ハ 2 0九 八 御 崎 陣 件 処 銘 記 の 書 史 的 考 設 、 寛 永 本 、 扶 風 間 時 刻 の 着 限 の 先 覚 、 職 原 紗 ム ﹂ 俸 給 、 日 野 一 門 主 費 如 去 の 率 的 関 係 。 長安時情隊以京都の総名にも用ふ、地闘上よリ見にあ考詮、左京に該営すれば額智の叙遁’ t 俸給叙漣左合致ぜず。 御往生の一時説、未時設の典捺、午時設の有力な典接、俸給所設に設なし。 何れの宗教ぞ聞は十今日現存する宗教に於て‘夫々其の宗教史なるもの込存在せざるものはなし。其中特に脊 人の闘心の中心となるべき悌教史庫一\更に之ぞ極言するなれば、向車なる概念的綜合的なる偽救史撃にと Y まら守 して‘夫々白己の信傑を中心とする宗波史‘私の場合に於ては島宗史の史準的研究方法、並にその範園、或は其 の針象に就て明白なる論定のなき翻を呈するを遺憾とする。此の意味に於て本舎の古局者に於て、其の壊的討究 の端緒が提唱され、﹁仰敦史率的本質しと題されし課題の所以冶多とし‘従来の偽救出丸事的態度ぞ顧みて、同慶の 念禁令る能はぎるも
ω
が あ る 。 私 の 今 回 一ω
所論も其の課題に就てω
私見守呈して先哲り両判に供すゐ意味として 昆宗史撃としてω
一方法論として二三の研究を披涯せんとする。印ち鼻血不出に壊として第一に緒くべき﹁親殺聖人 俸給﹂に就て、其ω
具酷的事例を示して、私ω
小 見 を 具 陳 し 、 国 民 宗 史 曲 学ω
上に多少なりとも寄興する所あれば幸 甚ω
主 で あ る 。 4 ん も 悲 に 特 に 一 一 一 一 ロ 附 記 致 す べ き は 、 其 の 特 に 本 題 の 中 心 と 致 せ る ﹁ 親 驚 聖 人 の 往 生 地 の 研 究 ﹂ に 就 て の 見 解 が ‘ 会 く 偶 然 に も 既 に 私 が や 川 ﹁ 日 本 側 教 曲 学 協 曾 ﹂ の 大 舎 に 出 席 し . 此ω
小見を提唱し諸兄ω
高判を仰がん として‘講越を村けし以後半歳ω
中に、一篤蘭学者によって、略同様ω
高見を護表せられた事である。日記によって 私ω
小見が別筒ω
立場によってゆくりなくも同見に遭遇せし奇織と、見解ω
正時に一辺きかを息はすに愉快さを豊 ゆるもω
である。故に私は私・として猫自の立場によって其の論日を準めるもω
にして‘此等ω
論文の刺繍でもないことを先以て御断り申し上けておく。 先つ私的民京史
ω
史準的地位とは、勿論偽敦史的一部円であることは常然であって、井、の悌教史が一般の文化 史 と 如 何 な る 関 係 に あ る か と い へ ば 、 私 に 一 一 一 日 は す れ ば 明 ら か に 其ω
一部円であると思ふ。つまり島宗史は其の外 廓として仰教史とω
閥係伝有し、叉その外廓として一一般文化史との連絡を有してゐるものと信守るのである。故 に 一 般 文 化 史 の 立 場 か ら 一 五 へ ば 且 宗 史 は そ の 特 殊 史 阜 の 研 究 封 岡 山 と 云 ふ べ く ‘ 宗 汲 史 、 が か く 文 化 史 、 側 教 史 と 如 上ω
関係にある以上‘縦にはかミる関聯を見て行かねばならぬ、と同時に、横には夫々そω
宗祇史との関係をも 見て行かねばならぬと息ふ。その慌に見て行く事それが印ち悌教史撃の範園に属するものであるが、叉これを宗 汲史墜として等閑視せられない。故に縦に見て行くと同一時に横ω
この見方をも合せ準めて行く研究方法が宗汲史 め 正 鵠 な 史 皐 的 研 究 方 法 と 息 ふ 。 例 へ ば 五 日 が , H 具宗史に就ていへば,浮土宗史との関係、天台宗史、日蓮宗史、等 々 凡 ゆ る 倒 救 出 丸 と 一ω
相互樹係ぞ見て行く横の見方をも怠つてはならぬ。然し蕊に一躍附言すべきはこの宗汲史撃 の立場における横の見方は一つめ悌教史壊の役割にもなってゐるが、この悌歌史壊の範園が謹必すしも異なら品少 の言葉の如く、此れのみによって悌教史が匂踊完成されてゐるものでなく、側敦史は叉夫々の宗汲史の相互関係 の綜合的研究と、悌敦史壊は仰教史事としての猫自の範時かあるものであって、その外廓の一一般文化史との縦の見 方ぞ包むことは勿論である。要之異宗史皐の立場に於ては J 単に宗内に於ける歴史的事象ω
羅 列 の み に 非 守 し て 、 前蓮のそω
縦ω
見方と同時に、その横め見方をも等関税しては宗汲史の史劇学的研究め責そ十分に果したといへぬ。 cl ﹁ 親 鷲 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 ℃ 七日 本 併 設 皐 協 合 年 報 ︿ 第 九 年 ゾ 一 三 八 4 例へば呉宗史壊の上に於ける縦の見方としての重要性の示例として.石山本願寺の研究は買に此の最も著しき ものであることは周知の事買である。横の見方としては彼の蓮如上人の行置を研究するもの必かやその重要性そ 知 る で あ ら う 。 かくの如く宗汲史、今の場合同奥宗史の研究か横の他
ω
宗波史との連絡あるものへの関心と、並に倒敬全瞳の歴 史的動きを知る悌敬全瞳ω
綜合的研究にる悌救出弘、その外廓の一般文化史との関心たる縦の見方に就て、卑近な 例 で は あ る が 、 そ の 呉 宗 史 一ω
史接的研究方法の一つの見方として卵の時そ以て之が見られやう。印ち卵黄は卵白 に‘卵白は殻によって匂まれてゐる如く、叉黄味は叉カラザによっても支へられてゐる如く、国主不史は悌敦史 に、悌敦史は文化史にと相関係してゐるもω
である。それと同時に之等の卵の夫々が恰かも卵子守中心として、 卵子ありて其の生命があると同様.昼京史には且宗の歴史である以上、国具心不としての教義信傑を度外視しては、 何の殻呆も使命もあり得ない。それで民宗史なり一般ω
宗汲史はこω
内的外的相互関係そよく認識してこそ其の 宗波史皐の使命が達成し得らる。 此の意味に於て異宗史一の内容に於ては‘自らその教理史と救圏史との固満なる相互関係に於てなさるべきであ ら 、 フ 。 以上の史観的下に私は失の示例によってその見解成果守披揮して大方の御高判ぞ得ゃうとする。 各宗夫々其の開組聖人に閲しての緒起‘或は史俸は、夫々ω
立場日的によって創業せられてゐゐもω
であらうが 、 一 告 が 呉 京 の 開 組 親 驚 聖 人 の 史 俸 と し て 信 一 刈 さ る べ き ﹁ 規 驚 俸 締 ﹂ に 就 て . 如 上 の 史 観 に 基 い て 得 に 二 三 の 考 麗 を提供して‘従来一般に謀認せられてゐ
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. 此種的宗教的織起頒が史的債値ω
治 ん ど 認 め ら れ な い の と 同 調 刊 し 、 取扱はれてゐた蒙そ啓ぎ仁いと思ふのが、今回ω
念 願 で あ る 。 先 づ 此 の ﹁ 親 鷹 山 授 精 ﹂ 、 詳 し く は ﹁ 走 塁 人 檎 ﹂ ︵ 西 本 願 寺 本 ︶ 、 ﹁ 善 信 聖 人 鯛 俸 給 ﹂ ︵ 専 修 寺 本 ゴ ﹁ 本 願 寺 聖 人 槻 俸 精 ﹂ ︵東本願寺本︶等といふが、其の費加上人の墨蹟に闘する書史的研究は、既に同好の士の護去のありし事なれば略す るとして、費如上人が其の選惑の動機か、﹁俸糟﹂の奥舎に 右 縁 起 童 圃 之 士 山 、 偏 屈 純 一 ↑ 知 恩 報 徳 \ 不 レ 鍔 一 一 一 論 狂 言 − 。 剰 叉 決 一 紫 竜 一 拾 ニ 輪 林 一 、 其 瞳 右 拙 其 詞 是 初 、 付 ν冥 付 レ 顕 有 ν 浦 有 ι恥、雄 ν然 只 浩 一 後 見 賢 者 之 取 捨 一 、 無 し 顧 一 常 時 愚 案 之 批 謬 一 而 己 。 子 ν時 永 仁 第 三 暦 鹿 鍾 中 旬 第 二 天 ‘ 至 一 晴 時 一 終 − 一 草 書 之 篇 一 花 。 主 工 法 眼 浮 賀 ⋮ 説 と ﹁ 東 本 願 寺 本 ﹂ に 操 っ て 明 ら か な る 如 く 、 叉 ﹁ 慕 蹄 檎 詞 ﹂ や ‘ ﹁ 最 須 敬 重 槍 詞 ﹂ に 示 さ れ て ゐ る 加 く 、 知 恩 報 徳 て ふ 宗教的情操の縄に遭遇されし事貰より徴して.それ丈、宗祖聖人の教義詮揚が濃厚である事は常然のことであら う。其故にこの﹁俸精﹂上下雨巻十五段を遁じてみるに、それが本来車なる宗組親驚の俸記としての日的なれば編 年酷であるとか‘或る項目の下に例へは出生.出家、吉水入室、或は配流等と特定の項目の下じ、しかも時代順 に編纂さるミが普通であるのに、その年代の上下不順である組織は、つまり宗組親驚の行蹟を経とし、宗祖の教 義信傑を緯とせられてゐる貼に何人も首肯出来ゃう。これつまり前週の異宗史壊の正しき使命を最もよく果され た 選 述 方 法 と 一 五 ふ べ き で な か ら う か 。 故 に か の 土 谷 第 六 段 ﹁ 信 不 退 の 段 ﹂ 第 七 段 の ﹁ 信 心 一 異 の 評 論 の 段 ﹂ 等 は こ の 炉 0 ﹁ 親 驚 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 て 一 三 九日 本 悌 数 皐 協 命 U 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 問
。
宗教的人格表現そ表詮せんための記述であらねばならぬ。更に之の骨頂せる表詮は‘聖人ω
宗教的後櫨者乃至は 且弟の眼に映じたる宗組観そ取り入れて、親驚聖人の人格冶明白ならしめんとの配立によって、同じく上巻の第 四 段 ﹁ 蓮 位 夢 想ω
段 ﹂ 第 八 段 ル ﹁ 入 阿 夢 想ω
段一が編入されてゐる。こわい他の文化史と異なる特長ともいふべきもの で‘宗汲史壊の看過すべからざる使命を加味されたもω
で あ っ て ‘ 之 を 躍 な る 冷 徹 な る 一 般 科 曲 学 的 史 親 ゆ 倍 以 て 批 判すべきは.宗教史の本質を認識せぎる不見識の見方で、思想史上、宗教史上かミる精神生活のテ l ? に は 慎 重 を期すべきである o 本来宗組聖人の史俸として‘かミる門弟側からω
宗組観を編入するは、一つの補足的、蛇足的感じがしないで もなく、儲りに宗組の人格を評慣し過ぎはしないかとω
慮もあって、一時は﹁傍槍﹂の作者費如上人も、その初め には醇蹄せられてゐたらしいことが窺はれる。印ち西本願寺本には、上ノ四﹁蓮位夢想一ω
段 ﹂ を 鈍 き 、 専 修 寺 本 に は 、 こω
一 段 と 更 に 上 ノ 八 一 i 入両夢想の段﹂そも快いてゐる貼によって之を諮し得ゃうか。しかし乍らかミる門弟 か らω
宗組観.第三者からは儲りに詐償し渇ぎると息はれゃうとも、宗組ω
敦 化 、 そ 受 け し 門 侶 の 眼 に 映 ぜ る 宗 組 一暦宗祖の人格を問明にするもω
と考へられて、其後印ち東本願寺本以下はこの 観を採り入れることによって、 二 段 を 加 へ ら れ て ゐ る 。 其他的段は何れも可成り史宜に符合するもので.決して孟浪社撲のものでない事を保設して陣らないものがあ る 。 其 は 畳 如 上 人 が . そ れ 以 前 に 究 宗 憲 法 師 と 北 九 に 閥 東 に 下 向 し て 山 市 組 直 弟ω
口授口碑な参酌されし事、或は常 時 向 旧 制 知H
ω
如 品d k
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心ω
直 弟 山 下ω
存命せる貼からも‘勝手なもω
が作らるべきでない。其ω
文 献 い U 操るべきもω
は 操 り ︵ 上 ノ 三 、 上 ノ 五 、 下 ノ 一 等 ︶ 直 弟 に 聞 く べ 会 所 は 之 そ 附 い て 忠 貫 に そω
敬義信艇と開栴して編纂されてゐる。一 一 般 枇 曾 的 文 化 史 料 と
ω
閥係によっての剖検によって、決して史的債値の下 る も 仰 に 非 ざ る 必 示 し . 前 叩 兆 一ω
縦ω
見方ω
史 削 酬 を も 考 慮 さ わ て ゐ る こ と 守 提 唱 開 明 し て ‘ 本 ・ ﹁ 俸 精 ! 一 が 決 し て 一 斡 枕 すべから.ざる異宗史壊の史料たることそ友明せんとする。 故 − い 此 等 を 一 史 じ 前 辿ω
史朝ω
・ 巾 \ 四 既に上容第一段の俗姓に就ての開明は、故山田丈昭先生の﹁異宗山九一稿﹂に操て知らるグ如く史的一止鵠守得てゐる ことが指摘せられてゐるが‘今、下の一段聖人配流ω
段の如きは、﹁数行信誼﹂の後序並に﹁歎異紗 1一 の 後 肢 等 の 文 献によられたものであらう事は勿論であるが、か込る借儀を改めて姓名そ賜ひ遠流に慮せらるミ事は‘品目同時ω
宗 史 闘 係 凡 外 の 一 一 般 文 化 史ω
資料よりも徴誼し得ることを示して、此ω
事貰ω
重謹とせゃう J 印 ち ﹁ 平 家 物 語 し 巻 二 、 座主流の所に、同C
鎌倉期治求一元年五月天台座主明雲大僧正の遠流に成せらゐ二慨に、 一借を罪する習とて度縁を召返し、濯俗せさせたてまつり‘大納言的大輔、藤井の松枝と一五俗名をこそっけら れ け れ ! 一 と不思議にも同じく藤井の姓を賜ふてゐることに注意すべく‘藤井元彦、藤井普信‘藤井松枝と、なんと興味 のあることではないか。 さて‘宗組親瀧聖人が六十有蝕歳にして由あって御蹄洛遊ばされ、其後の御生活は専ら御聖款の御選蓮に御隠 棲的御行蹟ω
様であつに。一俸給 L 下ノ五に ﹁聖人、故郷に踊って往事をおもふに‘年々歳々夢のごとし、幻の如し。長安洛陽の柄も跡なとゾむるに蝦と 7 ﹁ 親 鴛 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 て ~~1日 本 傍 致 事 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 四 8 て、扶風鴻捌ところどころに移住し給ひき 01 一 とある行雲流水そのま土
ω
御 生 活 で あ っ た ゃ う で あ る 。 こ 一ω
御崎洛後の生活航態に就ては叉の機舎として、其 の 最 後 の 御 往 生 地 に 闘 し て 、 一 一 瞥 を 呉 れ ゃ う と す る も の で あ る 。五
﹁ 俸 給 ﹂ 下 ノ 六 に ﹁聖人、弘長二歳附仲冬下旬の候より‘いさミか不例の気まします。白爾以来、口に世事ぞまじへす、 仰恩のふかきことをのぷ、聾に蝕言のあらはさ今、もはら稿名にゆることぷし。しかうして同第八日午時過 頭北面西右脇に臥給て、つゐに念悌の息たえましノ\ぞはりぬ。子 v時頚齢九旬に満にまふ ο 稗房は長安鴇輔 の建醐勘九附糊なれば、はるかに河東の路冶歴て、洛陽東山の阿麓烏部野の南港、延仁寺に葬したてまつる o ﹂ とある宗組御往生の地貼に就て剖検を加へんとする。 従来宗組の御往生地としての説として共の三設あることは周知のことであらう D ︵一︶右京恒山ノ内角坊別院所在地之は本願寺汲め俸承せる設である。 合 己 松 原 遁 阿 洞 院 説 之 は 顕 誓 の ﹁ 反 古 一 品 全 日 ﹂ 所 説 。 ︵ 二 一 ︶ 柳 馬 場 三 傑 上 ル 虎 石 町 説 此 は 高 田 の ﹁ 正 統 傍 ー 一 等 に 見 ゆ る 所 設 で あ り 、 吾 が 大 谷 汲 の 俸 承 す る 設 で あ る 。 人 1 此等の三設の何れか正しきゃぞ科率的に剖検せんとする。 先 っ そω
動かすべからざる皆様として最も有力なものは、聖人山直郊であり、しかも聖人の御往生の際親しく御 六 日給 仕 申 し 上 け た 高 田 の 顕 知 口 一 屍 の 基 準 大 る ‘ ﹁ 獲 得 自 然 訟 爾 御 世 一 日 汁 略 栴 一 白 然 法 爾 章 一
ω
誠 一 詰 ﹁正嘉二歳戊午十二月日善法坊僧都御坊三傑トミノコウチノ御坊−一テ聖人ニアイマイラセテノキ、カキソノ トキ顕智コレヲカクナリ﹂ とある文殻であるが、是に先立ちて﹁俸給L
ω
そ れ に 一 蹄 房 は 長 安 鴻 捌 の 建 一 昨 吋 小 J 柳川一とある宗組親驚の御技生ω
地理的叙述について考麗せねばならぬ。 ﹁ 拾 芥 抄 ﹂ ぞ 披 見 す る と そ の 小 に 、 ﹁ 延 暦 十 二 年 正 月 甲 午 . 遣 − 使 於 山 背 闘 葛 野 郡 宇 太 村 地 一 鍔 一 遷 都 一 也 。 始 語 一 山 背 新 宮 間 下 叉 ﹂ 去 、 0 0 0 0 0 西 京 班 長 安 城 一 一F
﹂ 0 0 0 0 0 東 京 披 て 治 陽 城 一 、 と あ り 、 ﹁ 山 州 名 跡 士 山 ﹂ 叉 之 を 踏 襲 し て ゐ る 記 事 で 、 之 に よ る と 京 都 卒 安 城 ゆ 倍 、 大 内 裏 よ り 南 羅 城 ︵ 生 ︶ 門 に 遇 す る 朱雀大路︵今日の大蹴千太通︺在中心に東同一嗣京に分にれ、同京在長安、東京を洛陽と支那の名稽を以て斑してゐに ことがわかる。﹁歴代編年集成﹂にも ﹁ 延 暦 十 二 年 発 酉 正 月 十 五 日 始 卒 安 城 \ 東 京 愛 宕 郡 叉 謂 一 左 京 一 唐 名 洛 陽 。 西 京 宮 内 野 郡 叉 謂 一 一 右 京 一 唐 名 長 安 ﹂ とある。依之﹁傍精﹂下ノ五﹁長安治陽の栖も跡をとゾむるに掘とて一とは京中を東京両京とあちらこちらとさすら ひっミ念傍の生活ゆ守された史賓冶唐名によって表現されたものであるが、共の一扶風鴻捌ところどころに移住し 給ひき﹂の一何がその前の匂と封句法的な配置と思へてならぬω
に、従来あまりにあっさりと解稗されてゐる憾が あった。只此の扶風議期是吟味された先費としては一二にと v まるとく僅かの人によって法意せられに位である。 で共に私が之が針句法である事の再吟味守するであらう。 9 ﹁ 貌 鷲 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 て 一 四 三H 本 併 殺 事 協 命 保 ・ 報 ︵ 第 九 年 J 問 問 10
.
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.
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.
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.
,\ この扶風鴻捕の名帯も、間単なる形容詞でなく同じく支那名の襲用である。ことに剖口すべきである。私が嘗て 住田智見先生より﹁長安土砂﹂そ拝借して、ゆくりなくも此黙を明白にし得‘更に恩師那波利貞先生に此を質して愈 々此の正鵠を得、費如上人的﹁俸槍 1一 撰 述 の 接 的 態 度 に 感 銘 そ 深 く し た 究 第 で あ る 。 一 l 長 安 志 一 は 御 承 知ω
北宋ω
宋 敏 山 本ω
著で照率九年二O
七 六 ︺ 川 り もω
で あ る が 、 そ 的 中 に 引 用 さ れ て ゐ 九 ﹁ ・ 円 安 土 砂 圃 ﹂ 巻 上 の 漢 三 輔 固 に 右 扶 Jjえ 1王
長包 ヲ 卦1
己 2高 期 とあり.在一の綿叙之部に コ 二 輔 黄 国 日 武 帝 太 初 元 年 改 内 山 丸 一 矯 京 兆 壮 ノ 以 消 城 以 両 一 属 右 扶 風 一 、 長 安 以 東 風 一 示 兆 ? 長 陵 以 北 風 − 左 鴻 捌 一 以 輔 京 師 一 謂 一 一 之 三 輔 。 一 と あ っ て ‘ 漢 の 武 帝 太 初 一 万 年 三 O 同︶以後長女の管轄に封しコ一輔制度を立てゐゐるのである。之在地理的にその 配置法そ兄るに‘こω
前漢時代は京兆卦/の管轄にる鯨十二、定高槻勝二十川、右扶風牒二十一で、之そ略闘に示すと 大 睦 究
一 一 一 「 一 一 一
I詰
右 | 左 : -~.同
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| J己 反 扶 捌 I凪 後 漢 に 至 つ で も 多 少 其 の 管 轄 の 螺 に 出 入 が あ る が 、 大 睦 前 漢 と 同 一 様 で あ る 。 そ れ が 背 代 に 一 宇 一 つ て 可 成 り 品 質 化 必 致 し、唐代に至つては漢代の左議端、右扶風守出向京兆府に一枯して鯨の一部となって‘漢代の如き三輔制度ザ守備へ て ゐ な い 。 更 に ﹁ 長 安 士 山 L以 前 の 史 籍 、 ﹁ 漢 書 地 理 士 山 一 に 操 つ で も ‘ 漠 代 は 長 女 の 都 守 中 心 ’ と し て . そ の 左 京 よ り 郊 外を左官時期、右京より郊外ぞ右扶風と稽してゐるのであるが、宮際漢の長安では、朱雀大路なぎ錆.長安城は猫 立せしめ長安城の東郊.東南郊、東北郊の一定の地域を左様捌とし・長安城の西郊.西北郊‘阿南郊な右扶風と してゐる。そして長安城を京兆ヂといって所謂前辿の﹁長安志﹂記載の如く三輔と稽して、園都守中心とする特別 行政匝域としてゐる。 この長安、殊に唐の長安城を模して都市計道をなした京都平安京にては、左京在荷端、右京を扶風と帯したこ とが儲りないゃうで、全く壁加上人猫特の筆法でなからうかと思はれるのですが更に吟味ぞ要すると思ふ。要之 砦加上人は宗組御往産地を示すに﹁縄房は長安漏胡の建﹂と示し‘更にその割註として﹁押小路南.高里小路東﹂と 11 ﹁ 相 判 幣 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 ℃ 一 四 五日本側致皐協 A M U年 報 ︵ 第 九 年 ﹀ 一 四 六 12 明白に其の位置を示してゐる。 此の蹄房とは先づ何必指すのかといへば、頴智の昆蹟の前掲の﹁自然法爾孝﹂の識語に一善法坊僧都御坊三傑富 小 路 ﹂ で は な か ら う か 。 果 し て 然 ら ば 、 一 i 存 畳 一 期 記 ﹂ に 見 ゆ る ﹁ 上 人 御 合 品 川 尋 有 俗 都 者 東 出 H 者 法 院 坊 主 也 ﹂ と あ る 護 法 房 州 川 抑 叫 上人の御舎弟であり、﹁門品川交名牒﹂︵妙源寺本︶に専有と聖人師法後の直弟の中に一不さるミ通り、兄聖 人へ師依し給ふ仁囚織に基き、この寺有僧都の苔法院ケ恨住居とされたものであらうと考へられる。然し先きに 聖人御往生地設として従来の三訪中佐第けた第二一説松原遁両洞院設の出操としてゐるぺ五傑同洞院わたり一の勝地 也とて.しばらく居をしめたまふ﹂︵俸給下ノ五︶とある五傑凶洞院にある蹄房でなからうかと忠はれるが、此の 設の支持者は顕誓で‘彼の著﹁反故裏書﹂に、﹁五傑西洞院に住ませにまふ。これ御詑生の地なり﹂と断定してゐ る 、 然 し 之 は 借 り に 早 計 な 濁 断 で , 由 主 人 の 御 往 生 地 は 明 白 に つ 下 ノ 六 ﹂ に ﹁ 押 小 路 市 、 高 里 小 路 東 ﹂ と あ る の に 、 之 そ無視したことは奇怪至極といふべく、この﹁五傑西洞院わたり一五々﹂とはしばらく五傑西洞院に居住せられたに 過ぎなく‘曾ミその時平太郎が熊野参詣の逢弐お伺ひした貼守記載されにものである σ ﹁ 最 須 敬 兎 締 詞 一 一 立 ノ 一 七 に ﹁ 聖 人 五 傑 西 洞 院 の 鵡 房 一 五 々 ﹂ と あ る 記 事 も ‘ 強 ち 御 往 生 地 そ 一 不 す も の で な い 。 御 往 生 地 は な ん ・ と し て も 費 如 上 人 の 一 ー 俸 精 し の 地 理 的 叙 述 伝 家 重 せ ね ば な ら ぬ 。
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そこで聖人の御往生地に就ての地理的記載が‘ 一 は 壁 如 上 人 の ﹁ 俸 給 し に ﹁ 押 小 路 市 、 高 史 小 路 東 一 と あ り 、 −K
に 良 本 の ﹁ 正 統 傍 ー 一 に ﹁ 洛 陽 三 保 坊 門 の 北 側 、 宮 小 路 一 は 嬬 智 に よ っ て 三 一 傑 市 小 路 し の 寺 法 坊 で あ っ た ゃ う で あ り 、の 西 側 議 日 法 院 に お い て 濯 化 ー 工 ﹂ あ り ‘ 叉 一 つ の 示 唆 的 史 料 、 た が っ 正 統 体 後 集 一 に は 、 ﹁ 同 年 \ 主 持 二 年 ︶ 冬 、 三 篠 宮 小 路 議 日 法 院 ニ 於 テ 二 卜 一 通 ノ 口 訣 ア 俸 フ ー ど あ っ て 、 記 載 が 同 々 で あ り 心 。 ところで御成知の如く千安京は、 朱雀大路 な 中 心 に ‘ 米 両 耐 京 な 封 射 的 に 、 市 北 に 坊 滅 、 T:
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火 山 v u ‘猪限、堀川.油小路、 両 州 院 、 !Bf Jjl 室 ! 日I t y r − − L J F 心 泉 州 院 、 九 州 念 、 一 尚 里 小 路 . 百 小 路 、 京 傾 L 一大路が通じ工ゐにことであゐ︵平安鴻志参附︶。従て前述の地理 的 叙 述 、 か 左 京 、 ぜ 指 す の か ‘ 右京在さすのか判明しないやう冗が、誌に一俸給しに一樺房は長女鴻捌の建一とあるから 可 ︸ω
解蒋によって左京か右京かゾ決裁出来ると忠ふ。 さ て 前 九 州 一 の 一 t 拾 芥 抄 一 等 の 如 き 呼 栴 に よ っ て 、 左 京 が 洛 陽 、 右 京 が 一 一 犬 山 火 と す る な れ ば . こ の 下 ノ 六 の 御 往 生 地 の J 此 事 μ いなにがなんだかわけがわからない一ゃになる。何んとなれば長安は右京の立として、 、 ぬ 湖 以 左 京 在 栴 す 諾 で あるからお京の左京の遜といふ具合で辻棲のん日はぬこと込な P心 。 而 し て ↑ 1 俸 給 し の 他 の 叙 述 が 山 央 官 記 事 と し て 正 鵠 在得てゐるに鑑み、右の如き地理的矛盾の叙漣をなさるべくもなく、況んや外ならぬ宗組聖人の御往生の地に閥 し、更に割註に正確な地理的叙蓮が附されてゐる位古から、この叙述も外に何かの意味そ以て叙述されにものと 思 は ね ば な ら ぬ 。 此貼に閲して傾聴すべき高読として‘翠輔の一ー御傍鮮日窺紗しの誼守泉けたいのである。此書は一天明了未之春二 月下構﹂に記されたもので、それに 門 川 V 門 川 ︾ 円 以 内 ぜ 一長安治陽トハ東京ヲ洛陽ト云ヒ、西京ヲ長安トイフ。都/綿名ナリ一 といひ‘更に叉 13 0 9 0 0 C つ つ D コ ﹁ 長 安 治 陽 ハ 京 都 ノ 惣 名 ナ レ パ 、 人 寸 長 安 ノ 一 ヲ 率 一 一 ノ 都 ノ 綿 名 ト ス 3 鴻 捌 ハ 左 京 ナ リ 今 押 小 路 ハ 二 佼 一 週 り ヨ リ 一 ﹁ 親 料 品 侍 輸 相 ﹂ の 記 事 に 就 て 四 七日 本 油 開 設 阜 協 合 平 報 ハ 第 九 年 / 一 四 人 ]4 町下ナヮ。高里ノ小路トハ竪町 t7 ノ柳ノ馬場虎石町ナ J 。 滞 一 房 一 一 虎 彩 − 一 似 夕 、 三 上 ア ワ シ ヱ へ ニ 町 ノ 名 ト セ と あ っ て . 長 安 設 に 格 陽 を 京 都 の 綿 名 と も 見 て ゐ る 。 知 空 の 一 御 俸 照 蒙 記 ー 一 ︵ 寛 文 四 年 作 一 − や ‘ # 志 水 し の ﹁ 御 俸 純 聴 記 ﹂ 一 一 賓 永 一 万 年 作 ︶ に は ‘ 何 等 此 の 往 生 地 の 史 宜 の 考 設 も な く . 漸 く 廃 安 四 年 恵 雲 の ﹁ 檎 俸 捗 ー 一 に ﹁ 押 小 路 南 ‘ 高 里 小 路 東 者 月 一 隣 近 捷 一 之 、 ﹂ 一 色 傑 幼 門 北 顔 、 富 小 路 阿 顔 善 法 坊 是 也 。 或 哨 抗 議 口 法 院 一 。 弟 導 有 借 都 劫 合 也 ー 一 と . 顕 知 日 の ﹁ 自 然 法 爾 求 1 一の一識語じよられたものか、注目すべき地理的考誼が進められてゐる位である。然るにそ れ以前.芸峨によって長支洛陽の考誼は勿論.扶凪碍捌の考設すらなして前掲の如き結論をなしてゐる黙に敬服 せ 一 ざ る を 得 な い 。 此是聖人合 更に最近共の如 4 d 珍計一ヘ少くとも私には珍らしい文献として推唆するじ足ゐ一苫な閲覧するの機曾ケ得‘従て 之によって更に私の所論が準め得らる込こと込なった。 } そ の 玲 仙 台 と す る 古 代 日 以 ︵ 御 俸 漣 鈍 記 一 上 下 . . 径 の
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山 地 本 で あ る 。 本 廿 一 日 は 一 柳 知 成 師 が 、 泡 日 京 都 の 某 岳 障 に よ っ て 入 子 、 直 ち に 呉 宗 一 専 門 皐 校 の 岡E
館械に制した.本なのである。本書は何故悲に玲E
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一 瞬 す る か と い へ ば 、 一 谷 大 国 書 館 日 錯 し に も 一 能 大 同 書 日 銀 し に も . 私 の 調 官 じ た と ﹃ ︸ ろ で 以 人 1 の慮現存しないやうに忠はれるし、叉近頃 設問された︵山側主解説大辞典しにも.この書名、か記載されてない恥からすると蓋し私にとっては誠に珍らしい一本ぞ.ゆくりなくも閲覧するの品川冶得たわけで、一柳先生に満腔の謝意を表するわけである。 本 書 は 袋 綴 上 下 二 冊 よ り な り ‘ 上 巻 率 一 附 五 十 業 ‘ 下 山 佳 昭 一 虫 附 五 十 七 葉 よ り な っ て ゐ る 。 然 し 乍 ら そ の 内 容 か ら 見 て.中在的一本が快けてゐるものと推定せずるを得ない。その外題は﹁御俸建鋭記﹂︵本文と別禁︶とあり、内陸は ﹁本願寺聖人俸給定錦記﹂とある。その下につ江州金森弘誓寺しと朱印が掠印されて‘管ての所持者を示してゐる。 その序文の終に ﹁ 時 也 寛 永 乙 未 姑 洗 上 旬 敬 叙 ﹂ とあるから‘徳川初期のものとい寸︶とは大睦判明し、その紙 質 か ら も 間 違 ひ な い ゃ う で あ る 。 然 し 乍 ら 寛 永 年 聞 に は 乙 木 に か 川 る 年 披 が な く ‘ ホ 十 小 本 か 袖 ︵ 大 未 の 年 か 何 れ か で あ る から、恐らくその何れかの謀誌か、但しは乙光か乙亥の年の諜寝かも知れぬ。兎に角寛、水年聞の三月上旬に著作 されたものに相違ないが、前掲の莫専に入手された本書に‘かミる一十支の説のあゐ貼或は本文中俗姓の系聞の去 に‘経ヂの子範綱、賢業、有範の三子や拳けてゐるが、その中兄の置業とは正しく宗業の訣寝であることは、そ の 傍 註 の 一 式 部 大 輔 従 一 三 勘 解 山 長 官 ! 一 と あ る に よ っ て 諸 問 山 川 ・ 米 る つ か く の 如 く 年 就 の 説 寝 と い ひ 、 人 名 の 誤 認 と いひ.大切な筒慮に誤寝のあること等から見て、著者の原本でないことが推定出来る。つまり寛永の著者と蝕り 距らぬ時代に書寓された珪来日であることが推定出来る本書である。而してその原本の著者はとみるにその依操と すべきものがなく‘只後序の識認として蓬屋ノ曳轄とあるのみで、寡聞なる私としては誰の襲名ペンネーム か知るぞ得ない。巽くは大方の諸兄の御示殺を賜 hり た い 。 か ミ る 書 史 的 地 位 に あ る ﹁ 御 俸 鑑 鍾 記 し に 、 突の如く私の見解と同様の論判が‘既に天明の慧峨の﹁管窺紗﹂以前 15 寛永年間に下されてゐることに敬服せざるを得ないのである。 弓 Q q 3 ﹁ 毛 詩 正 義 日 漢 長 安 於 = 畿 内 一 立 一 三 郡 謂 − 一 之 一 一 一 輔 、 京 兆 在 レ 中 、 泊、言。
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百官表目、景清二年分 ﹁ 親 俸 給 駒 山 ﹂ の 記 事 に 就 て 問 九H 本仰致
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協 人 刊 紙 ・ 級 ︿ 第 九 年 ︶ 一 五 Or
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泣 一 左 内 史 、 じ れ 内 里 、 武 帝 太 初 一 五 年 一 史 名 一 京 抱 サ ノ 一 。 左 内 奥 名 一 一 持 制 朝 一 主 宮 中 尉 奈 官 掌 R M 刈 候 一 ‘ 景 帝 六 年 夏 名 一 宇 都 吋 一 、 武 帝 大 初 一 五 年 一 応 名 ∼ 七 扶 風 治 一 門 史 左 議 京 兆 ア 是 鍔 一 三 輔 也 巳 上 、 職 原 日 左 京 職 語 一 線 掌 − 京 市r u
一 、 昔 者 宅 地 以 下悉京職所 ν知 也 。 近 代 移 ﹁ 検 非 違 使 鹿 − 大 夫 一 人 晴 樹 鳩 山 一 問 下 四 位 己 上 任 v之 。 或 鋳 = 公 卿 粂 官 ” 右 京 職 一 山 田 一 版 、 今 所 謂 扶 風姉小路南在 z朱 雀 \ 宮 崎 捌 同 姉 小 路 北 在 自 朱 雀 一 也 L と記して、私のいふ漢の三輔制度の名稿の流用である事がこ誌にも認められるわけである。かく畳如上人は長安 洛陽と扶風宮崎捌と封句法として修辞されたに相違なからうが、この扶風鴻朔といふ漢名ぞ.どの文献を典操とし て襲用されたか不明である。或先費者より壁如上人は一小常﹁白氏支集 1 一 そ よ く 愛 護 さ れ に と 聞 い た か ら ﹁ 白 氏 支 集 ﹂ ぞ一覧したけれども.径七十に一 t 店碍捌鯨開園侯太原白居 H 勿 字 架 天 有 − 文 集 七 % 、 ︼ 合 六 十 七 巻 、 凡 三 千 四 百 八 十 七 首 民 間 娘 一 一 源 五 常 一 技 汲 六 義 一 一 去 、 之 と 漏 捌 牒 と 三 輔 制 度 を 慶 し て ‘ 京 兆 府 に 統 轄 さ れ た 唐 の 行 政 制 度 の 牒 名 で あ る か ら.﹁白氏支集﹂の影響でないことは首肯出来る。作ふに管如上人の一族印ち日野一族は平くから漢籍に親しまれ たことが容易であるこ片一は‘その一族より儒門に秀でたもの多く、文章博士のこの一族より山づるもの多きこと、 例 へ ば ﹁ 慕 師 給 詞 し に ﹁ 日 野 ハ 官 、 塑 ノ 両 刑 事 ヲ モ テ 顕 職 − 一 モ 居 シ 渦 官 ニ モ 浴 シ テ 身 ヲ タ ヅ ル 家 ナ リ ト イ フ コ ト ホ 、 サ キニミヘタレトモ、ヵ、千テハ和漢ノ断篇ヲモ相放テ骨シナ 2 ・ 公 宴 − 一 モ シ 告 カ フ 傑 ハ 代 々 ノ 芳 燭 ナ リ し と あ れ ば 、 其 他 ト 敬 荒 締 詞 1一等に見ゆる如く費如上人も漢絡に親しまれた事が容易に考へらるべく、其間﹁漢書地県志 1一 等 生 羽 ま れ た こ と の 影 響 か ’ と 忠 ふof
が 、 更にこの﹁遮鈍記﹂によって注目すべきニとは、﹁職原紗﹂に府名が記載されてゐ る こ と で あ る 。 ﹁ 定 鈍 記 ー に 叙 す る 前 い え は ﹁ 群 壮 一 日 銀 従 ? 一 第 四 輯 に 正 し く こ の 記 事 が 叙 さ れ て ゐ る 。 そ れ に よ る ム ! 一 だ い 爪 職そ一にお捌といったや、コで、右京職は左京臓に同じとあるは‘ つまり溺捌に封する扶風の立を記載するが常然である文句そ略して.﹁同左京﹂としたものか。してみると本書は北島親房卿が後村上天皇の興回二年頃に著はさ れたもので、永仁三年ょの遮る事四十六年ではあゐが、 大韓常時か λ る支那名そ流用することが或は一部の人々 に流行したもの h やうにも忠はれる。然し﹁職版紗 L は ↑ i 俸給﹂撰述より前述の如く後であるから‘魔如上人は︵職版 紗一に操られたものでないことは明白で かく殆んど同時代にかくの如き文例や見ることは英一花詑けすべきこと 二 問 山 ふ 。 長 女 治 協 は つ 拾 芥 抄 し 等 前 喝 の 諸 廿 一 日 じ 流 用 さ れ て ゐ る の に 、 扶 風 鴻 捌 の 文 例 は 殆 ん h p ﹂ 全 く 我 闘 で は 流 用 さ れてゐなかった闘があったのに. ゆ く り な く ち 迭 に ﹁ 御 傍 遅 鈍 記 ﹂
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閲見によって上述の如く、常時一部の人々の 聞にかJ
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唐名の流用することの慌 M H ω あった事が認められた。要之畳師としては儒門に同縁深き折柄、一漢書地 理志一等ω
閲 覧 影 響 で あ ら う が 、 か ミ る 慣 習 に 到 し て 一 段 的 注 目 。 そ 抑 は す に は そ れ ぬ こ と よ 山 山 ふ 。 此 貼 大 方 の 一 不 教と他日の何吟味ケ伐つことよゆる。 九 かくて長安治陽の呼稿並に扶風議捌の意味設にその典操或はその流用について可成り明白にする古宇佐得たと思 ふ が 、 扶 風 鴻 捌 が 右 京 左 京 の 漢 名 で あ っ し に こ と は 動 か な い ’ と し て も 、 長 ・ 安 洛 陽 が 右 京 左 京 の 別 稿 の み と 断 歩 る と き‘どうしても前述ω
如く・﹁滞日加は長安漏捌の建﹂の意味が了解出来ないこと誌なる。それでどうしても譲峨の 説の如く長安は京都の栂名に使用されたものと考へ.ざるを得ない。今日でも、市南、洛北といひ、京都に上ることそ 上 治 、 入 洛 と い ふ ご と く 、 藤 原 有 房 の 著 で あ る ﹁ 俸 槍 一 ム ︶ 略 同 時 代 の 作 た る ﹁ 野 守 鏡 ﹂ に は 一l 後烏貌院の御時、建仁寺いできてのち、モ法おとろへかの寺鵡院の洛陽に立てしは U め な り 一 、 17 ﹁ 親 鱈 俸 給 ﹂ の 記 事 に 就 て 五日 本 傍 敬 革 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 五 18 とある洛陽はその意味から平安京の綿名であり、龍谷大串岡書館に現存する了恵の一 l 無 量 蕎 経 紗 し の 奥 書 そ 見 る に 、 その一例として、巻四には 一 苅 亨 二 年 間 三 月 二 十 八 日 書 窮 皐 後見人必十返 3 0 浩 陽 三 傑 坊 円 高 倉 専 修 念 悌 院 日 疋 偏 鴬 法 界 衆 生 一 平 等 利 盆 也 a 南 無 阿 南 湖 陀 仰 校 畢 とあり、巻五には 山 域 圃 八 幡 宮 − 一 テ 書 官 叩 皐 執 筆 藤 原 粧 光 ハ マ ・ ﹀ 0 0 一克亨二年限潤五月二十一日山城岡帝都三傑坊門高倉専修念悌院一校皐 ム﹂‘其他巻二、には帝都とかき、容三には荷城、容七には王合城 L 1 一 記 し て ゐ る が 出 向 、 治 陽 と 共 に 京 都 の 綿 名 で あ る こと明白である︵龍谷大皐同書館設け本日銭︶。それと同様に長支も、一冗来平安京が唐の長安そ模して作れるもので あるから‘不安京在一名長支と栴せしこと何等不都合でなく、時代は下るが、蕪村め﹁許取巴蕉綜興起しにも此の 類 例 を 見 る 。 そ れ で ﹁ 俸 給 ﹂ の 一 長 女 鴻 胡
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建﹂とは、京都め左京的建といふことで、そω
克に詳しぎ地均的叙越が その割註であるわけである。同
白ー そこでこの﹁押小路市、高旦小路東﹂と、回開智の﹁三保広小路しとが地均的に遁確に一致すれば、正しく往生地が 確定するのである。 人 1 ‘ ﹁ 故 賢 叢 才 一 H L 所載の﹁京城略同しそ見ると、左京の恒域は究の如きものである。f 岨 FPEV 凡 川 之 に よ っ て み る と 二 俸 給 ﹂ の ﹁ 押 小 路 南 、 高 里 小 路 東 ? 一 と い ひ 、 ﹁ と い ひ 、 恵 雲 の 一 i 一 二 傑 対 一 門 北 顔 、 富 小 路 西 顔 ﹂ と い ふ も 、 同 じ 地 貼 や 一 雨 里 小 路 を 主 と し た か 、 富 小 路 を 主 と し た か 正 統 俸 ﹂ の ﹁ 洛 陽 三 傑 坊 門 の 北 側 富 小 路 の 西 側 ﹂ の相違で‘同じ地貼
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呼稀である。更に願智の﹁自然法爾宰 L の﹁三傑富小路﹂とは富小路の西とも束とも書い てないし、三傑とあって三傑坊門となってゐないから、直ちに論断は許されないが、 大 睦 同 一 一 地 動 そ 指 し た 略 栴 と 見 て 差 支 へ な い 。 之を更に論設する資料として、室町初期の﹁京師内外地国﹂な披 見すると‘之が判明する。印ち 19 ﹁親驚俸給﹂の記事に就て 一 五 三己o 日 本 側 荻 町 内 十 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶
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地 が 構 大 し 、 十 川 は 三 傑 通 h り 迄 及 ん で ゐ ゐ 。 印 ち二
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と い ふ 朕 態 で あ る 。 法に面白いことは今日河原町三傑上ル所にある高田波の別院の前身たる高田寺が、この親驚上人の土地にある ことである。是れ顕智の上人御臨末に御給仕出し上け‘それより此地に彼等の坊舎が高田寺と稽せられて今日に 及びしものなるべく、是に依ても.此地が聖人の御往生地たるべきこと明徴であらう。 斯 く 見 来 る と 最 近 で は 出 向 尼 救 順 氏 の ﹁ 親 驚 聖 人 の 御 往 生 地 考 ﹂ ︵ 嬬 鼠 壊 報 第 二 銃 一 円O
瓦 下 段 ︶ に お け る 苦 し い 曾 通 も 、 加 藤 哲 勝 氏 の ﹁ 親 驚 聖 人 御 往 生 地 考 一 ︵ 4 4 4 A し 川 頁 ︶ の 所 説 も 更 に 一 段 の 吟 味 が 欲 し か っ た 。 何 ん と な れ ば 、 若 し之ぞ左京の立場に常て λ み る な れ ば ︾ 21 ﹁貌鷲俸給しの記事に就℃ 五 五日 本 悌 致 事 協 九 百 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 一 五 六 上 国 の 如 く に な っ て ベ 押 小 路 南 ‘ 宮 内 里 小 路 東 ﹂ と い ふ 地 貼 と 、 ﹁ 三 傑 富 小 路 ﹂ と 。 ' ) “d
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= 斗 二 二 三 二 二 二 一 ネ や み 江 々 J i'寺、 A 、y p t v ド有﹄ F d 寸ロ 1 ・4 J いふ富小路と大分距って之は全く地理 的に合致せないことになる。依て遺憾 乍ら今日角ノ御坊はどうかと息ふ究第 で あ る 。 依て諸に第三説の大谷汲の俸承する 柳 馬 場 一 二 傑 上 ル の 虎 石 町 建 h り が 、 その
史的事賓のものと信ぜざるぞ得ないコ 悶 み に ﹁ 俸 給 ﹂ の 著 者 畳 如 上 人 が ﹁ 文 、 水 七 年 十 二 月 二 十 八 日 三 保 広 小 路 建 マ 一 花 テ 誕 生 ﹂ ︵ 恭 師 栴 討 、 敬 京 絢 討 ﹂ せ ら れ た の も ‘ 上 記ω
親驚御往生地たる上人の邸に於てである事を知る。かくの如く宗史以外の漢籍等外廓資料によっ て、ゆくりなくも其の往生地を遁確に判明することが出来た。。
更 に 補 足 、 に が 、 然 し ﹁ 俸 給 ﹂ω
記事の決して妄誕でないことを立殺する貼に闘し、迭に聖人の御往生地に凶みて、 そω
御北生ω
時 祉 に 就 て も 冗 準 を 川 汗 し て お く 。 ﹁俸給い一下ノ六につ弘長二歳一一下旬の候よりいさ?か不例の気まします・・しかうして同第八日午時.副北両州o h h 脇
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臥 給 て ‘ つ 一 ゐ に 念 悌ω
息たえましノーをはりぬ﹂と弘長二午卜一月仕八日午時に御花生し給ふたと俸ム c し c し か ゐ じ 廿 八 日 の 求 時 局ω
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事 官 で ‘ ︵ 一 ︶ 本 願 守 本 一 致 行 抗 泣 ’ 一ω
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弘 長 二 歳 モ 戊 十 一 月 一 一 卜 ヘ け 求 抵 親 鷲 布 一 人 御 入 滅 也 御 歳 九 十 歳 同 二 十 九 日 山 内 時 ぃ 米 山 御 弗 迭 同 三 十 円 御 舎 利 蔵 悌 滅 後 圭 一 ん 府 間 一 紅 一 読 一7
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常 文 、 水 十 一 一 成 乙 変 也 依 賢 劫 経 仁 王 経 探 知 前 経 等 説 一 一 一 日 ︵ 三 ︶ 之 と 同 系 の 一 踊 井 の 浮 得 寺 本 、 ︵ 四 ︶ 更 に 詑U
す べ き は 一 i 安 域 御 影 一ω
実主である。それの資料にるつ袖日記乙 ﹁ 弘 長 二 成 十 一 月 二 十 八 日 求 時 御 入 減 御 成 九 ト 手 跡 若 事 海 賊 一 とある。之等によると末時設も有力なもω
であるが‘午時設に就ても之に劣らぎる有力な資料のあることは周知 の 事 と 思 ふ 。 印 ち 高 田 専 修 寺 に 現 蔵 す る ﹁ 敢 行 信 誼 ー 一ω
奥令官であるベ顕正流義紗﹂に建長七年の冬‘宗組聖人が親し く民側嬬知刊の一雨直品川に附法せしめ給ふたと俸ふる附法相求の真木として、高田波にては章重致してゐる聖教で‘ 品 、 匙 − l 高 田 皐 報 ﹂ ︵ ハ 第 十 二 斡 ︶ に も 正 し く 旧 制 知 日 の 民 蹟 と し て ゐ る 六 加 の 中 、 ﹁ 教 容 ﹂ ﹁ 信 容 ﹂ つ 莫 悌 土 巷 ﹂ の 奥 に ﹁ 親 瀧 御 入 滅 弘 長 二 歳 托 十 一 月 廿 八 日 目 御 年 九 十 嵐 也 同 世 九 日 判 事 信 顕 智 御 含 利 蔵 皐 ﹂ 店 法 江 図 池 悶 住 借 下 野 岡 高 岡 住 慣 の 顕 智 民 蹟 の 奥 者 一 臼 が 正 し く 午 時 説 で あ る 。 "η -" ﹁貌鷺俸給﹂の記事に就て 五 七日 本 仰 秋 山 中 協 A W U 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 五 A 24 抑ミ聖人御入滅の折、親しく御給仕申せしは内身の間柄では豊信尼公と盆方の御二方であり、直弟としては顕智 ム一存信房事海等であった。所で存聖上人の御設の如く﹁安城御影しの前掲の真書が専悔の莫蹟とすれば︵河本願寺 の 御 本 書 も 一 専 海 砂 市 中 な ら ん か ︶ 、 五 月 廿 八 日 附 の 豊 信 御 房 へ の 御 消 息 、 十 一 月 十 八 日 、 十 一 月 一 日 の 聖 人 と の 往 復 文 書 . 十 一 月 廿 五 日 附 の 民 側 へ の 御 消 息 . 或 は 同 期 警 の ﹁ 反 故 裏 書 ﹂ に よ っ て 聖 人 L 一 専 海 と の 間 柄 、 が わ か り 、 更 に 穎 智 の奥書によって親しく聖人の御葬建冶取り行つに人である。その親しく聖人の御臨末に合ひ御葬注高端行へる雨 入に一方は禾時説、顕智には午時といふ説が成立ってゐるわけで、何れ守正しと‘判明し得ない史的慣値のある ものである。顕智のそれが、﹁教巻 L 一 信 巷 ! 一 一 i u 呉 仰 土 谷 1 一 と 三 容 共 に 正 し く 午 時 と 記 さ れ て ゐ る 以 上 、 いへないもので、記憶の相違でない限り、正しい叙述と断定せねばならぬ。従来の史家が軍に廿八日逝去、世九 日葬迭.三十日舎利蔵が自然であると見てゐるが、世八日午時に遷化され其常夜傑かばかりの異弟によって葬詮、 翌日正午舎利蔵を行はせられでも、聖人の簡素な生活なり、﹁某閑眼せば賀茂川に入れて魚に輿ふベし﹂との素撲 一 時 の 誤 筆 と な聖人の意志からして別に不自然とも考へられぬ。それは何れにしても、﹁俸給しの叙述が決して一小常でない事は 去 古 存 生 で あ っ た 旧 制 知 刊 の 所 説 で あ る 午 時 や 襲 用 せ ら れ し 事 明 徴 で 、 提 如 上 人 の 皐 的 態 度 の 正 鵠 さ 守 明 示 し て ゐ る 。 月上﹁偉精﹂の科風十的.文化史的剖検によってその史的債値の偉大さを明徴にしにと共に、宗史としての特色を 前 提 と し て ‘ 此 金 一 日 が 成 さ れ て ゐ る こ と を 冗 辿 し た 。 私 の 刊 日 引 せ る 文 化 史 、 仰 敦 史 と の 闘 係 、 並 仁 そ の 核 心 の 宗 義 と