道街
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幸田露伴は大正八年四月﹁改造﹂に、小説﹃運命﹄を発表し、明の靖難の変における建文帝・永楽帝の興亡の顛 末を描き、運命に実を委ねる者が、天の命有るを知る知らざるにかかわらず翻弄される様は、いかなる狂言や締語 の類よりも、奇にして妙であることを訴えた。この小説は、その案を清の呂熊撰の﹃女仙外史﹄によるものの、詳 細に至るまで正史に拠って書かれている。主人公はもちろん建文帝であり永楽帝であるが、彼らをとりまく数十人 の人物についても細かく描写されている。その中で、燕王︵後の永楽帝︶に靖難の師を起こすことをすすめた謀師 道街は特によく描かれている。道街は、露伴評すらく、﹁又一個の異人といふベし。魔王の如く、道人の如く、策 士の如く、詩客の如く、︵略︶所謂異僧なり﹂と。この道街の仏教僧としての信仰は実際のところ如何なるもので あっただろうか、彼の伝記と著述を足がかりに考察を加えたい。 道街︵挑康孝︶の信仰併教大皐大皐院研究紀要第十六競 道街の伝記については、すでに牧田諦亮博士、が﹃東洋史研究﹄十八刊三号において﹁道街停小稿﹂と題されて詳 細な研究を発表されており、ここでは道街の信仰を考察する上で必要と思われる経歴のみについて触れることとす る 。 道街︵一三三四
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一四一八︶は姓は挑氏、江蘇長洲の人、幼名は天稿、祖は菊山、父は妙心︵震卿てその家は代 々医者であったが明の王撃の﹃守渓筆記﹄に、 わ た く し ﹁幼くして父母に白して日く、某殴酉と鋳るを柴わず。但譲書し皐を策して以て王朝に仕ヘ父母を額さんと欲す。 否杭ば則ち悌に従って方外の柴を潟さん o ﹂ とあり、同様の記事が、﹃明書﹄巻一六O
挑康孝伝にも載せられている。これによると、家業の医者をつぐことを 願わず、読書勉学して、それによって仕官して父母の名を顕彰するか、それがかなわなければ、仏の教えに従って 方外の楽しみを味わいたいと言い、十四歳の時、出家して僧となり、妙智番に入り、名を道街、字を斯道とした。 この記載が史実に基づくかどうかは明らかではないが、俗世間における立身出世がかなわなければ仏法に帰依せん ① といったあたりは、後の道街の姿を暗示するもの、があるといえよう。僧となる以前の道街については﹃逃虚類藁﹄ 第九所収の﹁題孟氏世系園後﹂の冒頭に自ら、 ﹁街髪歳の時、材翁先生に従って儒皐を授かる。里の同皐の者三十徐輩なりに と、里の子供たちとともに儒皐を習いながらも、 ﹁街未だ併を皐ばざりし時、西山の間を往来し則ち海雲院迫公有るを知る。梓師は孤剛秀傑、卓然として特に其ま み の言を出して行と一つも妄ならず。︿中略﹀特に街、方に童州なりと雄も敬いて之を慕ふも敢て及んで見えず﹂ ︵ ﹃ 逃 虚 類 藁 ﹄ 第 六 所 収 ﹃ 百 丈 泉 銘 井 序 ﹂ ︶ と西山海雲院の禅師を敬慕するなど、﹃守渓筆記﹄に記されている道街の言葉を想起させる記録が残されている。 僧となってからの道街の学問は、ひとり仏教にとどまることなく、﹃明史﹄巻百四十五には、 ﹁道士席臆員に事ヘ其の陰陽術数の皐を得﹂とあり、また﹃園朝敵徴録﹄巻六所収の王敷金の﹁資善大夫太子少 師鱈楽園公益恭靖挑康孝博﹂に、 ﹁相城の霊底観の道士、席麿員は謹書し道を皐び兼ねて兵家の言に通じ、尤も機事に深し。康孝、之に従ひ弟子 の艦を執り、是より童く其の皐を得。然れども深く自ら退け人に蔵して知る者無し。其の友、王行のみ濁り之を知 ② る 。 ﹂ とあり、兵家の言に通じた席応真よりその学をことごとく得たことは、靖難の挙兵後、参謀として活躍した道街の 知識の源となったものであろう。道街の学識の広さについては、彼の墓塔のかたわらの﹃明太宗御製推忠園協謀宣 ③ 力文臣特進築様大夫上柱園公挑康孝神道碑﹄︵以下﹃神道碑﹄と略称する﹀に、 あ ま ﹁心に内典を潜め、其の関奥を得、議揮激昂し、康博敷暢し、波澗老成にして、大いに宗風を振るふ。穿ねく儒 術に通じ、諸子百家に至るまで、貫穿せざるは無し。故に其の文章は関巌、諸律は高簡にして、皆塵世を超絶す。 名人魁土と難も、其の能に心服し、毎に以矯らく及ばざる也
ω o
﹂ とたたえていることからも窺い知ることができる。 道街の仏教僧としての履歴については、正史類にはほとんど記載がなく、僧伝類等の仏教側の史料に拠らざるを えない。﹃増集績停燈録﹄巻五によると、姑蘇北縛寺の虚白亮公に従って天台の教えを習い、ついで径山の愚庵智 道術︵挑康孝︶の信仰傍教大皐大皐院研究紀要第十六競 二 四 及のもとに参じ、洪武三年には臨安の普慶寺に住し、後に杭州の天龍寺、嘉定の留光寺に住したという。﹃道飴録﹄ の道街の自序によると、愚庵智及に師事したのは年三十に近くなった時であり、ここで禅学を修している。﹃逃虚 類藁﹄第七には﹁径山第五十三代住持明癖正宗康慧稗師愚庵及和尚行状﹂を収めてその伝を述べ、その末尾には、 こ と ば た く み ﹁街、迂謬にして文ならず。幸いにも門人の列に周す。故に敢へて師の出慮の寓一を録す。嘗代の立言の君子を 求めて、以て其の塔に銘し、無窮に垂るる者なり。洪武十一年九月廿五日門人道街謹状。﹂ とあり、洪武十一年︿二二七九﹀九月四日の智及入寂の直後に、この行状を撰している。又、この銘云々について は、宋糠撰﹃明弊正宗康慧縛師径山和上及公塔銘﹄に、 ﹁︵智及の︶上首弟子、普慶の住持道街、是に籍るの故に自ら其の行を状し、来たりて銘を請ふ。﹂ とあり、先の﹃逃虚類藁﹄所収の及和尚行状の道街の語と符合し、この間の事情を明らかにするものである。また、 智及には﹃愚庵智及静師語録﹄があり、これにも洪武八年︵二二七六︶二月二十一日の日付をもって、宋糠撰﹁径 山和尚愚庵縛師四曾語序﹂が附されている。このことも﹃逃虚類藁﹄所収の及和尚行状に記されており、智及・宋 糠・道街の交際を窺うことができる。この語録については洪武十三年︵一三八
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︶六月に道街らが﹁四曾法語の結 集、鏡板、流通、印行﹂の事、が成るに際して、先師の霊を祭ったことが﹃逃虚類藁﹄第八所収の﹁祭先師愚庵和尚 文﹂のよって知られる。又、道術は智及が退隠した海雲精舎の仏殿の後ろの山に洪武六年に産した金芝、が、智及の 没後洪武十四年に再生した瑞祥によせて次のように煩を述べている。 あ あ ﹁於戯、静師は一代の偉人なり。其の道光徳津は山林を被ふ。 ︵略︶街、稚魯少文にして恭くも禅師の道を嗣ぐ。 故 に 敢 へ て 筆 を 執 り 用 っ て 頭 の 言 詞 を 陳 べ て 日 く 。 ﹂ ︵ ﹃ 逃 虚 類 藁 ﹄ 第 一 ﹁ 瑞 芝 頭 弁 序 ﹂ ﹀ 智及の伝記は﹃績燈存藁﹄巻五等に載せられているが、この道街撰の行状はもっとも信頼できる史料であるとい言えよう。また、宋療撰文の塔銘により、道術は洪武十一年にはまだ普慶寺に住していたことがわかる。さらに道街 が智及のもとを往来していた間の記録として﹃守渓筆記﹄に ﹁洪武四年、詔して高僧を取せしめるも、病を以て免ず。八年、詔して儒皐の僧をして撞部考中に出仕せしむる も、仕を願はずして僧服を賜って山に還る。﹂ とある。洪武八年︵一三七五﹀の詔に関する事情については、﹃逃虚類藁﹄第三所収の﹁白馬照梓師塔銘﹂に、 ﹁洪武八年乙卯、街、儒皐に通ずるに因りて召して京師の天界弾寺に留めらる。﹂ と、記している。洪武十五年︵二二八二﹀に宗紛の薦によって燕玉に親近するより以前に、このように二度にわた って詔によって召し出される機会があったにもかかわらず、自らそれを願わずに見送っていることは、後の道街の 行動と全く矛盾するものである。この二度の召出と宗勅の薦の間には、師智及の死があり、これが道街の心境の変 化に影響したのかもしれない。 このように、道街は径山において智及に長く師事し深く傾倒し、禅学を修めていたのであるが、その信仰は禅に とどまることなく、浄土に傾いていったようである。﹃諸上善人詠﹄﹃浄土簡要録﹄は共に、洪武十四年の日付の自 序を附する道街の浄土信仰宣揚の代表的な著述である。この﹃諸上善人詠﹄の序において、道街は自らの信仰の変 遷を述べて は や な ﹁街、不敏にして蚤く教庫に入り、中ごろ棄て、縛苑に鯖す。倶に指を染むと雄も、皆就る所無し、然ども、暮 景 漸 く 迫 り て 志 は 浄 邦 に 在 り 。 ﹂ という。天台に始まり、道街の禅・浄土という信仰の推移については、 ﹃浄土簡要録﹄に附されている大佑の洪武 十四年の欧文にも記するところである。大佑は﹃諸上善人詠﹄にも践を附しており、又、洪武十三年に道街は大佑 道街︵挑康孝︶の信仰 二 五
併 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 時 肌 ⑤ の依託によって﹁七賓慧順梓師塔銘﹂を撰し、大佑の撰した行録をもとに洪武十三年十二月に﹁故華厳法師古庭皐 ⑦ ③ 和尚塔動﹂を撰し、更には大佑のために﹁送梓大李均茂偏井序﹂及び﹁送巧人呂伯通偏﹂を撰しており、道街と大 佑の交際は、かなり親密であったことを知る。﹃浄土筒要録﹄は、静土を志した先人の著書の中から要文を選び、 浄土願生者の指針とするために編せられた書であり、その自序には、 ﹁今年︵洪武十四年﹀の夏、余、寄蔭山中の海雲精舎に客たり。因みに浄土の諸童聞を関して以て長日を鈴す。﹂ とある。ここにみられる寄蔭山海雲精舎は、道街が幼年時代に敬慕した迫公稗師の住したところであり、その法孫 愚庵智及が十四歳で出家し、洪武三年に退隠したところである。﹃逃虚子詩集﹄巻六に﹁秋日重遊寄窪山海雲精舎﹂ 十首があり、牧田博士はその詩文によって、道街がこの寺にいたことを指摘されている。道街とこの寺の関係につ ① いては、その他、先述の﹁瑞芝頭井序﹂において、海雲精舎の仏殿の後ろの山に産した金芝によせて煩を賦し、﹁連 ⑫ 理木蜘﹂においては海雲院の山茶の木によせて詩を賦し、又、﹁海雲院東軒記﹂において、退隠した智及に従った 一 一 六 のがこの海雲院の東軒であったことを記していることからも知ることができる。洪武九年にこの海雲院に小室を設 けており、洪武十五年撰の銘井序によると、 あさゆう ﹁洪武九年春、街、旨を奉じて西山の海雲院に還る。小室を闇き、弥陀の霊像を西隅に奉じ、折タ之に面して稀 念す。過客無ければ則ち終日危坐し澄想するのみ。之を名づけて蓮華室と日ふ。蓋し、期、嘗来せば極柴園の蓬 花に化生するなり。夫れ極柴園に七賓池有り。蓮花は四色にして、大きさは車輪の如く、或ひは高さは十二由旬 なり。一一の花葉は八高四千の光明有り。甑叔迦賓、党摩尼賓は以て映飾を震す。九品の聞に三輩を列し化生す。 凡そ他方世界の衆生も亦、一念を愛して彼の園に生ぜんと欲せば、善根、池内に感ぜられ、即ち一花を成す。精 進すれば鮮築、僻返すれば萎惇す。故に龍猛云く、若し人善根を種うるも疑へば則ち花聞かず、信心清浄なれば
花聞き既に併を見る。街、少き時自り弥陀の敬法有るを知るも、業深く障重し。造僑を設願すと雄も、或ひは進 み或ひは、退く。設年四十有八にして、死期将に至らんとす。故に痛みて自ら鞭策し要ず必ず彼の園に往きて蓮花 化生せん。巽は、是の花の柴有りて惇無からんことを。其の室に扇して以て自ら日助む。乃ち震に銘して日く、 彼の蓮華を緊ひて賓池に生ぜん うるほ 善根感ぜられて聖津是れ滋ふ 大きさは車輸の如く、四微を離れず 摩尼の聞に飾光明陸離たり 龍猛の格言は信にして疑はず むちう 嵯、予小子、備に策ち罷む無し 乃ち期すらく、其の募の楽有りて萎無からんことを ⑫ 決定して化を托すこと此に在りて詩を銘ず﹂ と、この蓮華室は浄土信仰実践の場所であることを記している。洪武十五年は宗勅の推薦によって燕王のもとに侍 した年であり、その前後において道街は、﹁業深く障重し﹂と自ら反省し、四十八歳にして﹁死期将に至らんとす﹂ という、蓮華化生をひたすら願う真撃な浄土信仰者であったことがわかる。﹃浄土筒要録﹄序にある﹁浄土の諸書 を閲した﹂のは、恐らくはこの蓮華室においてであっただろう。﹃浄土簡要録﹄及び﹃諸上善人詠﹄の序の末尾に は﹁蓮華室沙門道桁序﹂とあり、これら浄土信仰鼓吹の書における署名として意識して用いられたと考えられる。 ⑬ 蓮華室に関連するものとして、やや後の撰であると考えられるが、道街の著述﹃蓮室集﹄がある。その内容はやは り 浄 土 信 仰 の 宣 揚 で あ る が 、 ﹃蓮室集﹄は現存せず、﹃碧山日録﹄﹃蔭涼軒目録﹄によってその存在を知り、侠文を 道街︵挑康孝﹀の信仰 二 七
併 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 時 抗 二 八 ﹃碧山目録﹄から抄記するのみであり、その自序も道街の署名も見ることはできないが、書名の蓮室とは、蓮華室 に 由 来 す る も の で あ ろ う 。 さて、先にも少し触れたように、洪武十五年に、 ﹁孝慈高后喪す。列園の親王、各、奏して名僧を乞ひ、野園して粛を備す。是において、左善世宗粉、道術等三 名 を 奉 す 。 太 祖 親 し く 道 街 を 選 び 、 慶 需 寺 に 住 持 せ し む 。 ﹂ ︵ ﹃ 守 渓 筆 記 ﹄ ︶ と、明の太祖洪武帝朱元嘩の皇后馬后が亡くなり、各国の諸親王が葬儀に参列し帰国する時、太祖は高僧を選んで 諸王に侍せしめ請経薦福し粛を僑せしめたが、その時、宗勅の推薦によって道街は燕王に配属されたのである。﹃神 道 碑 ﹄ に 、 ﹁朕が皇考高皇帝、一見して之を異とし、命じて慶毒寺に住持せしむ。﹂ と、道街が洪武帝に選ばれた折の状況を記している。道街を洪武帝に推した宗紡ハ一三一八
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二ニ九一﹀は、宋糠 の﹃宋皐士集﹄補遺巻三、﹃明書﹄巻二ハO
、﹃補績高僧惇﹄巻十四などに伝が見える。それらによると、字は季 湾、全室と称し、台州臨海の人である。八歳のとき、笑隠大訴に従って出家し、後にその法を嗣いだ。その後、杭 州中天竺寺に住し、径山に移り、洪武帝の詔により金陵天界寺に住した。洪武十一年には詔を奉じて、杭州普福寺 の如記とともに、般若心経・拐伽経・金剛般若経の註を撰し、又、西域に荘巌・費王・文殊等の経典を求め、洪武 十五年三月に帰朝し、同四月二十二日に僧録司左善世の職をさずけられている。﹃明史﹄巻百四十五に、 ﹁北国山を経て、詩を賦して懐古す。其の傍の宗勅臼く、此れ宣に調停子の語ならんや。道街笑ひて答へず。﹂ と い い 、 又 、 ﹃ 明 書 ﹄ 巻 一 六O
に は 、 ﹁ 口 づ か ら 詩 を 賦 し て 日 く 、諜 歯 年来戦ひて血乾き 畑花猶自ら半ば凋残す 五洲に山近く朝雲乱れ 高歳に棲空しく夜月寒し 江水潮無く銭奮に通じ 野田路有りて金壇に到る 蒲梁の事業今何にか在らん ⑬ 北国青青として限看るに倦まん と。僧宗粉、其れを見て膝を揺って高く吟じて、之を静めて日く、此れ宣に種子の語ならんや。斯道、斯道、汝、 南 朝 を 薄 ん ず る か と 。 ﹂ と、より詳しく僧宗紡・道街について記しており、﹃補績高僧俸﹄巻十四にも同様の記事が書かれている。﹃逃虚子 詩集﹄はこの詩を収録していないが、宗紡・道街の関係を示すものとして、﹃逃虚子詩集﹄巻八に﹁全室稗師使四 天取経団朝奉賀﹂の詩を録している。 ⑬ 宗紡によって推挙された道街は、北平に至り慶害時寺の住持として燕王の母后の追福のために﹁諦経念僻修爾﹂を 行っていたが、このころの燕王と道街の関係について、﹃明史﹄巻百四十五に、 し り ぞ ﹁ 府 中 に 出 入 し 、 跡 甚 だ 密 な り 。 時 時 人 を 扉 け て 語 れ り 。 ﹂ と い い 、 ﹃ 神 道 碑 ﹄ に は 、 ﹁朕が藩邸に事へ、毎に準見し論説すること勤勤懇懇なり。有道の言にあらざるは無し。察するに其の所以は堅 道術︵挑康孝﹀の信仰 二 九
併数大阜大串院研究紀要第十六競 ますま 確、有守、積純にして庇無し。朕益す之を重んず。﹂ と、単に母后の追善を修する僧としての関係だけでなく、様々な事柄について燕王の相談相手になっていたようで ある。北平に至った洪武十五年から、靖難の変が起こる建文元年までの十四年間の道街の僧としての活動は伝記類 には−記されておらず測りがたいものがあるが、わずかに残された二、三の史料によってその行跡をたどってみよう。 洪武十一年に宗紛らは詔によって、般若心経など三経の註を撰したが、道街は、 ﹁蛍今、聖天子、詔して天下の僧徒をして般若心経及び金剛・拐伽に習通せしむ。復た詔して諸郡の稿料の講師の 僧を取りて大天界騨寺に曾し三経の古註を校儲し其の説を一定し、天下に頒行し以て康く停持せしむ。是におい て天界住持宗勅等、古註を折衷して緯す。︵中略︶今年夏、門人智柴等五七輩、静坐の除と、新註般若心経を以 て余に講演を請ふ。顧れば、余、禅者にして経論の皐にあらず。烏ぞ、以て護明す可けんや。蓋し、己むを得ざ るなり。始め奮く聞見する所を以て、新註の中の事相の知る能はざる所有る者、句義の局碍する所有る者におい て、一一節解篠析し、以て其の初心の蒙昧を啓く。市して柴等、録して一秩と魚し板に録して以て童皐に便せん と欲す。余、固り之を仰け容れざるなり。嵯、古今の論疏既に多く、般若の心愈よ晦し。況んや、余の端からず こひねがは も新註の下に又説を加ふるをや。鷲んぞ其れ、可ならんか。後の覧者、幸くは余の鈍なるを以て置きて請を篤す 勿れ。洪武十六年冬十一月八日北平府慶需稗寺住持沙門道街序す。﹂︵﹃逃虚類藁﹄巻三﹁般若波羅蛮多心経新註
。
演 義 序 ﹂ ︶ と、般若心経新註について講演し、それを録して刊行したことが、記されている。恐らく、この道街の講演録は ﹃般若波羅蛮多心経新註演義序﹄と題されたのであろう。又、洪武十七年撰の﹁緯迦賓鹿児稗寺記﹂も﹃逃虚類藁﹄ に収められている。洪武二十一年には、詔を奉じて一房山石経で有名な石経山に至り、惰・遼・金・元と承け継がれた事業の壮大さに撃たれて﹁石経山﹂の詩を賦している o この詩は序とともに﹃逃虚子詩集﹄巻一に収録されてお り、序には、この詩は華厳堂ハ雷音洞︶の壁に離んだことを記している。更に、 ﹃碧山目録﹄の寛正三年十月十八 日︵及び十一月六日﹀の項に抄出された道街の﹃蓮室集﹄の侠文に、 ﹁余、慶需の散席より以来、閑に就き痴を城南天王塔下に養ふ。地僻にして、路迂なり。賓客の門に往来するこ お お む し あ っ と甚だ砂し。日に念仏三昧を備し、那いに寒く、海暑しと雄も、未だ嘗て小くも怠らざるなり。武林の妙弁上人、 み ち 、 ひ 事に因りて北平に来たり。余と衆を道くこと十余月、其の祖雪庭の書する永明寿稗師の山居詩集を以て見示す。 余、課仏の暇に之を読み、之を昧歌す。永明の当日全身坐して浄土に在るを見るに足る。其の楽しみ、自立に涯有 むちう らんや。余、故に喜びて手を釈くに忍びず。因りて用って浄土を懐ひて其の韻に和す。一には以て己を策ち、二 あ ら は には以て人を鵬 M C ん。狗尾紹に続くるに足らずと難も、要ず且に余の永明における仰慕の心の忘れざることを見 こ れ さん。遂に上人をして巻尾に録せしめ、以て諸に帰す。佳日、湖海の聞に目を過ごす者有らば、出旦に厳詩、杜集 に附すの譲り、余に無からんや、然れども亦其の然るにまかす。洪武二十五年倉竜壬申十二月仏成道日独蕎道街 識 ﹂ と、洪武二十五年には既に慶喜寺の住職をやめて関居して、念仏三昧を日課とし、武林の妙弁上人のもたらした雪 庭書の永明延寿﹃山居詩集﹄を日課のあいまに読み、自らも懐浄土の詩を和してその巻尾に録すなど、熱心な浄土 教信者であったことを記している。又、道術は智及より稗学を習い、慶士宮町禅寺の住職をするなど、禅宗に身を置き ながら、念仏を行じる浄土信仰者であることについて、﹃碧山目録﹄寛正四年二月二日の頃に、 ﹁蓮室集、筒首座に示して日く、念仏三昧は円中の円、頓中の頓、大乗中の大乗、不可思議中の不可思議なる者 なり、五回祖菩提達磨大師の最上乗禅と、二無く別無し。禅門の諸師の、永明寿・天衣懐・真歌了・長麓蹟・慈受 道約︵挑康孝﹀の信仰
悌教大皐大皐院研究紀要第十六競 深等の如きの、最上乗禅を伝持すと雄も、猶務めて密かに念仏三昧を修する所以なり。普く群機を摂し、菩薩・ 声 聞 ・ 天 人 ・ 群 生 の 類 も 発 生 し て 念 仏 す れ ば 即 ち 仏 土 に 往 生 を 得 。 壁 一 一 同 へ ば 大 海 は 、 百 川 細 流 の 包 納 せ ざ る 無 き 、 が ひ と 如し。最上乗禅は、単えに最上の根器を接し、中下の機は、終に能く入る莫し。念仏三昧は円中の円、頓中の頓、 大乗中の大乗、不可思議中の不可思議なる者たる所以なりに と記しており、禅浄双修の先師たちを挙げて自らの立場の正当性を説いている。 洪武二十五年︵一三九二﹀に議文皇太子が亡くなり、洪武三十一年に洪武帝が崩御するや、十六歳の皇太孫允炊 が即位して建文帝となった。建文帝の側近の斉泰・黄子澄らは、各地に封ぜられた諸王の勢力を削ぐことを献策し、 各王は次々と罪を着せられた。このような状況下において、道街は燕王に挙兵を勧め、遂に燕王は決意して、斉 泰・黄子澄らを訣せんとの名目で、内難を靖んずるという﹁靖難の師﹂を起こした。これは洪武帝の死後わずか一 年の建文元年︵一三九九﹀のことである。洪武二十五年までは、熱心な念仏行者であった記録が残されている道街 は、この靖難の変以後は、宗教者としての業績はほとんど見られず、およそ僧として相応しくない行動をとりつづ けるのである。先ず第一に、燕王に靖難の師を起こす決意をなさしめたのは、まさしく道街であることは、多くの 史書の記すところである。永楽帝は自ら﹃神道碑﹄に、 ほ し い ま ま ﹁皇考天に賓するに及んで、好臣、命を撞にして奮章を嬰吏し、撰へて禍観を篤し、危、朕の婦に迫れり。朕、 宗社の至重なるを惟ひ、匡救の責は賓に所在有り。康孝、時に進退存亡の理を識り、安危禍福の機を明らかにし、 機に先んじて謀を効す。言合はざる無し。椎握の聞を出入左右し、啓沃良に多凶 o ﹂ と、道街︵康孝﹀が燕王にとって信頼すべき側近であったことを述べている。燕軍は、建文帝側の意外な反抗によ って苦戦はしたものの建文四年ハ一四
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二︶、燕軍は遂に南京を陥し、燕玉は即位して永楽帝となり、戦犯の粛清が行 わ れ た の で あ る 。 卓敬、字は惟恭、瑞安の人であり、 ⑬ 品 問 ﹄ 、 潅 閤 集 ﹃ 明 卓 忠 貞 公 廟 碑 ﹄ な ど に 伝 が み え る 。 こ れ ら に よ る と 卓 敬 は 建 文 の 初 め に 燕 王 が 来 朝 し た 時 に 密 奏 し て 、 ﹁燕王は智慮、人を絶し、先帝に酷類す。夫れ北平は強幹の地、金・元の由りて興る所なり o 宜しく燕を徒して 江南に封じ以て禍本を絶つベし。夫れ粛しでも未だ動かざるは幾なり。時を量って篤すは勢なり。勢、至勤にあ ら ず ん ば 能 く 断 ず る 莫 し 。 ﹂ と言ったのに対して、建文帝は、 ﹁ 燕 王 は 骨 肉 至 親 な り 。 何 ぞ 此 に 及 ぶ を 得 ん や 。 ﹂ と 答 え 、 更 に 卓 敬 は 、 ﹁ 楊 康 惰 文 は 父 子 に あ ら ず や 。 ﹂ といったが、結局、この言は取り上げられなかった。燕王が即位するや、卓敬は捕えられ責を問われたが、声を励 ﹃ 明 書 ﹄ 巻 百 三 、 ﹃ 明 史 ﹄ 巻 百 四 十 一 の 他 、 実褒撰﹃戸部右侍郎瑞安卓公敬 ま し て 、 ﹁若し敬の言を用いたまはば、玉、安んぞ此に至るを得んや。﹂ と言ったので、帝は怒って殺そうとするも、その才をあわれみ、獄に繋いで鷹賭していると、 ﹁挑康孝、敬の素り櫨せざるを以て之を釦叫んで日く、昔、呉玉、活議を殺さずして議特に呉を沼にす。王街、石 勤を殺さずして勤終に街を舞す。陛下の霧る所、重きを篤すは全く地勢に在り。敬の言を用ひて北平を離れしむ れば、直に嚢中の物なり。宣に今日有らんや。﹂ ⑬ と道術は卓敬を死に至らしめたことを記している。 道術ハ挑康孝︶の信仰
俳数大皐大皐院研究紀要第十六競 四 靖難の変における功績によって、道街は建文四年︵一四
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二﹀十月に僧録司左善世を拝し、永楽二年︵一四O
四 ﹀ 四月には資善大夫太子少師を拝して、その姓挑を復し、虞孝の名を賜い、祖父と父にも同じ官を追贈された。王撃 の挑康孝伝には、これらの論功行賞について、 ﹁ 元 の 劉 乗 忠 に 擬 す 。 ﹂ と−評している。﹃明史﹄巻百四十五には道術が嵩山寺に諜んだおり、衰棋がその相を見て ﹁是れ何ぞ異僧なるや。目は三角なり、形は病虎の如し。性必ず殺を噌まん。劉乗忠の流なり。﹂ といい、道街は大いに喜んだことを一記している。劉乗忠は﹃元史﹄巻一百五十七に伝があり、始め出家して子聡と 名乗っていたが、後にフピライの顧問となり太保を拝した。実棋の評、が影響したか否かは知るよしもないが、道街 は劉乗忠を思慕するところがあったようである。 ﹁良駿色は霊と同じく ﹃逃虚子詩集﹄巻一には﹁劉文貞公墓﹂の詩を収め、 至人 迩 は 俗 と 混 、 ず 荷も遇わざれば 怨議せず 偉なるかな、藤春公 箪瓢もて巌谷に楽しむ 一 朝 終 知 世 己 風雲曾して 君臣自ずから心服す 大業の計 己に成りて勲名 簡臆に照らす 身退いて即ち長く往き 去きて復する無し 川流れて 佳 城 百 年 の 後 欝々たり慮溝の北 松 椴 姻 霧 青 く 翁 仲 藤 蕪 綾 な り 強梁敢へて犯さず 何人も敢へて樵牧せん 王侠の墓 累々として 療なること草宿を待たず 惟だ公は民望在り 傾覆を同じくす 斯人作すべからず @ 再 拝 し て 還 一 突 す ﹂ と詠じ、同巻八に収められている﹁謁春日劉太保墓﹂の詩は、 ﹁芳時壌に登り蔵春に謁す 松 械 は 麟 薪 に 化 す 。 天 地 兵後 道街︵挑康孝﹀の信仰 五
併 教 大 皐 大 串 院 研 究 紀 要 第 十 六 時 抗 信.L・ ノ 、 、 雲暗く 雨荒く 残碑蘇蝕み文章は奮し 異代の人停ヘて姓字新し 華衣蹄鶴の怨を存せず 幾多の行客泊巾を治対﹂ と詠じ、劉乗忠︵識春公︶に対する道街の敬慕の情を見る。 道街は永楽帝の命によって還俗したが、 平原に眠る石獣 深隠に泣く山神 ﹁蓄髪を命ぜられるも肯んぜず、第及び雨宮人を賜るも受けず、常に僧寺に居りて、冠帯して朝し、退きて仰ほ 絡 衣 す 均 ﹂ と僧であることをやめようとせずに、 @ ﹁ 一 鶏 を 畜 し 、 毎 に 鶏 一 読 す れ ば 即 ち 起 き 朗 然 と 論 経 す 。 ﹂ と、日常生活を律して送ったという。しかし靖難の変において、多くの人を死に至らしめ、多くの土地を戦場と化 した責は免れ得るところではなく、特に故郷の人々の態度は、功成り名を遂げた彼にとって思いがけなく厳しいも のであった。建文四年六月に郷里に帰った道街は八十歳に近い姉を訪ねたが、姉は会おうとせず、やっとのことで 会うと、﹁昔の和尚はこんな人ではなかったのに。﹂という冷たい言葉を放つや、戸の内にひきこんで再び出ること はなかった。また、道街の旧友である呉郡の隠士光庵先生王賓も、なかなか会おうとしなかった。薪割りに忙しく て面会する暇がないといい、或いは、準か遠くに望んで、﹁和尚誤てり、和尚誤てり。﹂と繰り返すのみであったと
@ い う 。 靖難の変以後、還俗させられながらも、僧としての毎日を守り続けたとはいえ、靖難の年以前にみられたような 自らの信仰について述べた文書や信仰鼓吹の著作は残されていない。燕王に親近する前後に、盛んに浄土関係の著 作を行っていたことからみると、道街が意図して、敢えてそのような活動を行わなかったように思える。挑康孝の 名、太子少師の高位は靖難の変における数々の罪の証とも言え、布教など思いもよらなかったのかもしれない。或 いは、深く自己を反省し、自ら慎む毎日であったのかもしれない。 永楽十年︵一四二二﹀十月に公務を退いているが、その一カ月後に道街の著作の中で最も社会に注目された﹃道 徐 齢 ﹄ を 撰 し て い る 。 ﹃ 道 払 跡 地 部 ﹄ は 、 そ の 序 文 に よ る と 、 ﹁余且畏に僧と矯りし時、元季の丘ハ範に値ふ。年三十に近くして、愚庵及和尚に従ひて、径山において、静皐を習 ふ。暇あれば則ち内外の典籍を披閲し、以て才識に資す。因みに河南の二程先生の遺書及び新安の晦庵朱先生の 語録を観る。三先生、皆趨宋に生まれ、聖人千載不俸の撃を停ふ。謂ふ可し、世の英傑に間し、世の員儒たりと。 三先生、名教を輔くるに因りて、惟だ傍老を壌斥するを以て心と篤す。太史公日く、世の老子を皐する者は則ち 儒皐を組け、儒皐も亦老子を紬く。道同じからざれば、相為に謀らずと。古今共に然り。奨ぞ怪しむに足らんや。 三先生、既に斯文の宗主、後皐の師範潟り。併老を壌斥すと難も、必ず嘗に理に擾るベし。至公無私なれば則ち 人心駕に服せん。三先生、多く俳書を探らざるに因りて傍の底績を知らず。一ら私意を以て邪設の鮮を出す。在 抑すること太だ過、ぎたり。世の人心も亦多く平らかならず。況んや其の皐を宗とする者をや。二程先生の遺書の 中に二十八篠有り、晦庵朱先生の語録の中に二十一一候有るは、極めて謬誕を震す。余端らずして乃ち震に僚を逐 ひ理に擦って一一剖折す。宣に敢へて言、三先生と競ぜんや。己むを得ざればなり。亦併に倭ねるに非ざるなり。 道桁︵挑康孝﹀の信仰 七
俳教大皐大皐院研究紀要第十六競 八 藁成り巾笥に蔵すること年有り。今冬十月、余公自り退かる。因みに、故紙を検して此の藁を得たり。即ち浄寓 して映を成す。目して道飴録と日ふ。之を九案の聞に置く。士君子の余を過ぎて是の録を覚、ずる者有らば我を知 り我を罪するは其れ設に在らんか。 永柴十年歳は壬辰に在り、冬十一月長至の目、逃虚子序す。﹂ と、二程子と朱子の仏教攻撃に対して、その非難が不当であることをに﹃二程遺書﹄から二十八僚、﹃朱子語類﹄ から二十一僚を抜粋して、その一一について反駁を加えたものである。道街の著述に﹃遁蝕録﹄のあることは史書 にも記載があり、王撃の挑康孝伝に、 ﹁ 別 に 道 徐 録 有 り 。 専 ら 程 朱 を 詰 る 。 識 者 之 を 非 と す 。 ﹂ とあり、﹃明書﹄巻百六十にも同様のことが述べられている。又﹃明史﹄巻百四十五に ﹁ 晩 に 道 徐 録 を 著 す 。 頗 る 先 儒 を 鼓 り 、 識 者 都 む 。 ﹂ と記されている。ここに﹁晩﹂とあるのは序を附して公にしようとしたの、が永楽十年、道街七十八歳の時であるこ とを指すものであると考えられるが、その序に−記されているように、実際に著作されたのは、それより以前であり、 その明らかな年時は、この序文から知ることはできない。又、これらの史書の記載から、儒教を国家の礎とする当 時の中国社会に﹃道徐録﹄は受け入れがたい書であったことが窺われる。王撃の挑康孝伝には続いて f ﹁其の友張洪、嘗て云ふ。少師、我に厚かりし、今死せり。以て之に報ずる無し。但、道蝕録を見れば輔ち篤に 焚 棄 す 。 ﹂ と、当時﹃道徐録﹄が非常に危険な書であったことを記している。 ﹃道徐録﹄の内容は上述のように宋儒の仏教攻撃に対する反論であるが、自序に﹁理に擦って﹂ ﹁ 至 公 無 私 ﹂ と
いっているようにその反駁は仏典に拠るだけでなく、別表のように儒教の経典にも根拠をおくものである。しかし、 ﹁自立に敢へて言、三先生と緯ぜんや。﹂といっているにもかかわらず、その語気は激しく、 ﹁明道の斯の如きの見、紀園の天の傾くを憂ふる者と日を同じくして語る可きなり。﹂ ﹁ 伊 川 の 良 心 、 何 く に か 在 ら ん 。 ﹂ ﹁朱子は其の大体を論ぜずして其の枝末を責む。何ぞ識量の狭きや。﹂ などと罵っており、このような書を晩年に敢えて公にしようとした道街の激しい性格を知るとともに、史書に﹁非﹂ とされたことも領ける。ただ、靖難の変以前は、あれほど念仏信仰に傾倒をみせていたにもかかわらず、﹃道徐録﹄ においては浄土教について一切触れていない。あるいは宋儒の攻撃目標が禅にあったことにもよるだろうが、 ﹃ 道 儀録﹄では仏教の教理的な一面を問題にするのみで、﹁信﹂については問題にしていないのである。道街には﹃道 徐録﹄の他に護教の書として﹃仏法不可滅論﹄がある。著作の年時は不明であるが、撰述の目的は﹃道徐録﹄と軌 を 一 に す る も の で あ り 、 うがた ﹁唐の韓愈、宋の欧陽修が輩、空言を以て之を滅せんと欲するは正に精衛の東海を填んと欲し、壊蟻の泰山に穴 んと欲するが如し。その自ら量らざることを咲ふべし。﹂ と激しい語気も似通っている。これら二書は自己の信仰を吐露するものでも、他の信仰を宣揚するものでもなく、 仏教という自分の拠りどころとするものの正当性を主張することを目的としたものであり、靖難の変以前の著述と 一 線 を 画 す る も の で あ る 。 永楽十六年︵一四一八︶二一月、死の病床にある道街を永楽帝が見舞ったおりに、僧湾沿の助命を乞うてい旬。湾 沿は建文帝の主録僧であり、燕王が南京に入った時、建文帝を僧にして逃がしたとの答によって数十年間幽閉され 道街︵挑康孝︶の信仰 九
併教大皐大皐院研究紀要第十六競 四 0 ていたが、道街のこの願いによって赦されている。靖難の変以来、自分を苛んできた罪の償いの一つを、死ぬ間際 に果たしたものであると言えよう。永楽十六年三月二十八日、ついに八十四歳で亡くなり、波澗に富んだ生涯を閉 じている。推誠輔園協謀宣力大臣、特進築様大夫、上柱圏、楽園公を追贈され、恭靖と詮された。一房山の東北十里 の太平里に葬られ永楽帝は親しく神道碑を作りその功績を誌している。 道街は、仏教僧としての出発点である出家の動機から、他の高僧・名僧と呼ばれる人たちのそれと比較すると性 質を全く異にするものであった。学問をして官吏となり、出世して父母の名を顕彰することが叶わなければ、僧と なり俗世間にない楽しみを受けようという、俗世間に対する名誉欲を捨てきれないままの出家であったと言うこと ができる。このことは、後の道街の行動から後人、が伝記に付会したのかもしれないが、衰咲の﹁劉乗忠のたぐいな らん。﹂という言葉に喜んだ話と共に、道街のひととなりをよく表している。又、道街、が官途を選ばずに僧としての 道を選んだのは、丁度、選択の時期が元末の兵乱期であり、時の朝廷である元の支配力、が衰微していたことにも起 因するものかもしれない。出家してからも、兵家の言に通じた席応真より学を得たことなどは、俗世間に対する未 練とも言うべきものである。仏教僧としての学問・信仰は天台から禅という遍歴の後浄土教へと移行し、燕王に近 侍する前後においては真撃な念仏行者であったことが、このころの浄土信仰宣揚の著作が多く撰せられていること や、その著作の中にみられる道街自身の言葉から察することができるが、道街が最終的に浄土教に帰依したのは、 ﹁蓮華室銘井序﹂において自ら﹁業深く障重し﹂と、断ち切れない名誉欲を強く自覚していたうえでの選択であっ た と 言 え る の で は な い か 。 ﹃逃虚子詩集﹄に残された劉乗忠を慕って詠んだ詩など、僧としては強すぎるともいえ
る情感を観る時、その感を強くするのである。又、道街、が後に燕玉の参謀として活躍したという一面を先入主とし ながら、浄土関係の彼の著述を見る時、浄土教鼓吹の書でありながらも、禅苑に身を庭きながら浄土に帰した道街 自身の大義名分を喧伝する目的もあったのではないかという思いは、いささか偏見に過ぎるであろうか。 道街の生涯をみるとき、大きく二つに分けることができる。言うまでもなく、靖難の変以前と以後である。靖難 の変以前においては、信仰を吐露する文章や信仰鼓吹の著述など多く残されているが、靖難の変以後においては、 全く残されていない。﹃道徐録﹄や﹃傍法不可滅論﹄は護教の書ではあるが、排他的な色彩が強く、信仰云々の書 ではない。信の面には一切触れず、専ら仏教の存在価値のみを主張するものである。靖難の変における功によって 最高の要職を得ることはできたが、卓敬をはじめ多くの人々を死においやったことは、道街の心の中に深く残り、 故郷の旧知の人々の思いがけない冷遇によって、その罪の深さを強く自覚したに違いない。死ぬ間際に、永楽帝に 海沿の助命を願ったことは、靖難の変において犯した数々の罪を忘れることなく音山識しつづけていたことを示すも のではないだろうか。そして、このような自分が、いかなる布教を行い、いかに真撃な信仰者であると説いても、 説得力の無いことを道街自身が一番よく知っていたのではないだろうか。自分の煩悩の深さを知りつつ出家し、煩 悩の故に浄土教を選びながら、その煩悩を抑えきれずに風雲に身を任せて高位を得たものの、宗教者としては弁解 の余地の無い罪を背負って晩年を送らねばならなかった一人の僧の姿を﹁異僧﹂と言われ、﹁奇士﹂と評された道 街の中に見出すのである。 註 ① 北 京 図 書 館 蔵 ﹃ 逃 虚 類 藁 ﹄ は 九 十 三 の 道 術 撰 の 文 を 収 め て い る 。 そ の 内 訳 は 、 第 一 賦 頒 三 第 記 第三碑塔銘 第 五 序 第 七 襟 著 四 第 四 表 墓 銘 一二第六讃銘説 八 第 八 伝 行 状 祭 文 一 六 道街︵挑康孝︶の信仰 四
俳教大皐大皐院研究紀要第十六競 第 九 書 題 博 九 第 十 疏 二 二 となっており、末尾には清の蒋士詮︵一七二五
1
八 四 ︶ の肢が附されている。巻頭に序文があるが、それは﹃道 飴録﹄の序を転用したもので、このことについては蒋士 鐙も触れている。﹃逃虚類藁﹄に収められたものは主と して靖難の変以前に撰されたものであると思われるが、 従来の資料に見られなかった道桁の行動を明らかにする ものであり、特に道桁が幅広く僧侶として活動していた ことを知る上で貴重な手掛りとなる。昭和六十二年八月 牧田諦亮博士が入手された写真を複写させていただき、 本文の執筆に大いに参考としたものである。 ②道士席躍員については、道街の﹃逃虚子詩集﹄巻四に 訪席練士詩、巻七に挽席道士の詩があり、又、﹃逃虚類 藁﹄第四に収められている﹁海虞席先生墓銘﹂は席臆員 の伝であると思われる。これによると、席雇員は洪武十 四年三月十日に八十一歳をもって卒し、道街は﹁向郡沙 門道街、先生と忘形の友為り、故に敢へて其の梗概を綴 し以て墓銘に誌す。﹂と墓銘を作っている。その他、﹃逃 虚類藁﹄巻八には祭海虞席先生文を収録している。 又、ここに見られる王行は、字を止仲、﹃明史﹄巻二百 八十五に伝がみえる。道街は﹃逃虚子詩集﹄巻三に輿王 止仲遊寄隆山留題額忠寺の詩を、﹃逃虚類藁﹄第七に輿 王止仲書を収めており、その交渉を知る。 四 ③﹃神道碑﹄の碑文は﹃園朝献徴録﹄巻六及び﹃畿輔、通 士山﹄巻百六十七に抄録されている。その碑は現在も北京 郊外に墓塔とともに残されており、文、拓本が北京図書 館 に 所 蔵 さ れ て い る 。 ④﹁潜心内典、得其闘奥、設揮激昂、康博敷暢、波澗老 成、大振宗風。穿通儒術、至諸子百家、無不貫穿。故其 文章閑巌、諸律高筒、皆超絶塵世。難名人魁士、心服其 能 、 毎 以 信 用 不 及 也 。 ﹂ ⑤﹃逃虚類藁﹄第三 ⑥﹃逃虚類藁﹄第四 ⑦﹃逃虚類藁﹄第七 ③﹃逃虚類藁﹄第七 ⑨﹃逃虚類藁﹄第一 ⑬﹃逃虚類藁﹄第一 ⑪﹃逃虚類藁﹄第二 ⑫﹃逃虚類藁﹄第六 ここに引いている龍樹の侮文は﹃十住毘婆沙論﹄巻五易 行品︵大正蔵巻二十六・四十三頁中︶の引用である。 ⑬芳賀幸四郎博士は﹃東山文化の研究﹄︵昭和二十年、 河出書房︶において﹃蔭涼軒目録﹄﹃碧山日録﹄の記述 から道街に﹃蓮室集﹄の著のあることを指摘され、牧田 一諦亮博士は﹃俳教大学傍教文化研究所年報﹄第二号﹁道 桁の﹃蓮室集﹄について﹂において﹃蓮室集﹄の侠文を集 め ら れ 、 注 釈 を 加 え ら れ て い る 。 ⑬﹃諜歯年来戦血乾畑花猶自半凋残 五洲山近朝雲乱高歳棲空夜月寒 江水無潮通銭翠野田有路至金壇 粛梁事業今何在北国青青眼倦看﹂ ⑬﹃明書﹄巻一六
O
⑬﹁及皇考賓天而好臣撞命、愛更蓮田章、構篤禍観、危迫 朕弱。朕惟宗社至重、匡救之責賓有所在。康孝子時、識 進退存亡之理、明安危禍福之機、先機数謀。言無不合、 出 入 左 右 維 握 之 間 啓 沃 良 多 。 ﹂ ⑪﹃園朝献徴録﹄巻三十所収 ⑬﹃園朝敵徴録﹄巻三十所収 ⑬﹃明書﹄巻百三、﹃明史﹄巻百四十一 ⑫﹁良醸色同輩至人迩混俗 知己有不遇終世不怨議 偉哉戴春公箪瓢柴巌谷 一朝風雲曾君臣自心腹 大業計巳成勲名照簡積 身退即長往川海去無復 佳城百年後欝々麗溝北 松椴姻霧青翁仲藤蕪緑 強梁不敢犯何人敢樵牧 王侠墓曇々療不待草宿 道約︵挑康孝︶の信仰 惟公在民望天地同傾覆 斯人不可作再拝還一笑﹂ @﹁芳時登犠謁蔵春兵後松椴化断薪 雲暗平原眠石獣雨荒深隊泣山神 残碑蘇蝕文章蕎異代人惇姓字新 華表不存蹄鶴怨幾多行客泊泊巾﹂ ⑫﹃明史﹄巻百四十五 @﹃守渓筆記﹄ ⑫﹃明書﹄巻一六O
@北平中央刻経院本﹃道徐録﹄には範成の識語が附され、 ﹁逃虚子、新掌の暇において、宋儒程朱の遺書語録を披 閲す。中に多く公理に按らずして僻老を壌斥す。故に著 して此の書を潟りて分析糾正す。永楽大典に列入して人 の研究に供す。意はざりき、四庫全書中に在れり。寛に 乾隆、親しく手づから耐去を信用す。又、嘉興績蔵経を査 ぶるに四十二函中に亦之有り。因りて震に梓に付し以て 康 く 流 通 す 。 ﹂ と﹃遁徐録﹄の流伝を述べている。この書は日本にも伝 えられ、寛文六年三六六六﹀に刊行され、黄撲南源性 派の肢が添えられている。この刊行によって、大阪の山 本洞雲は﹃道蝕録破釈﹄を貞享三年C
六八六︶に刊行 し、一一の条文について激しく反論している。また正徳 六 年 ︵ 一 七 二 ハ ︶ 刊 、 義 一 諦 の ﹃ 禅 籍 志 ﹄ に お い て も ﹃ 道 四悌敬大皐大皐院研究紀要第十六競 儀 録 』 を 取 り 上 げ て紹介している。 ⑫ 『 明 史』巻百四十五等 本 稿 は 明 初 の 傑要にたべ述僧を概の仰信の術道すぎない。 以 後 、 更 に 道 術 関 係 の 資 料 を 集 め 整 理 す る ことによって、 明 初 傍 教 史 研 究 の 足 が かりとしたい。
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『 道 品 開 録 』 に み ら れる典籍 ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 一 巻二主二程士
主
巻 一 巻 二 巻 一 事程 一 書程 一 書程全 二 喜程 典 拠 礼記』『語論』『 論 語 陽貨』『経首拐』酷『 せる言典籍滞及儒の 檀弓仁里 一 一 居詩 』帰国陶潜回『 経巻一法華』『 巻厳華三経』『下孟子』章寓『 記史』『 詩 経 』『 景徳 ι燈録』『上繋辞』経品『 事』 事厳経 経霊』童
集』 道 街 の 衛 風 尽 J 上Ll 及し 巻 て 方使品世十七離間品 し 、 籍 典る 四 四金
四 程喜金
二十程喜 十五全程喜六豆転量書一一章五一金言
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豆五主全書豆章 草五 主喜宰
豆二主主 巻二二豆喜主程三一 ⑩ ⑨ ⑧ ⑦ 李九主喜巻四書二程 巻二 二程書全 巻 荘 子 』『 公孫丑孟子』ー司易経』E苛 秋 水 上心尽上繋上辞 一 華 厳 経 』『 庸』『中 孟子』『論語』『 五E司 書 草警
公孫丑進先・ 仁里大宗師 離 世間品 上 為政 述市道 街 ( 挑康孝〉の信仰 四 五 (5)仏) (3)
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語子類9) (18) (17) (16) Q5) (14) 巻二六一子語類朱当
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経首拐厳』『「覚』円経『 摩維経』『 大 学 』 『 経法華 」『富
厳経首拐』『I
義』口主
嘉証道歌』 法経華『 華 厳 経 』司 厳 経 』華『 三巻二七量程全書二一豆 転九聖全書一差
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首 拐 厳 経』『 伝左』『新序』『 景 徳 伝 燈 録 』『 厳道経』拐『 記 史 』『 巻九 記礼』『 (13) (12) (日) 蕃一二六。
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語類乱子~
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二大語類 経 』易『 繋 辞 上 一書
厳経首拐』『 陽 貨教
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