Komazawa University
書
評
鈴
木
哲
雄
著
『唐
五
代
禅
宗
史
』石
井
修
道
Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 本 書 は 、著
者 が 「南
宗禅
の発
展
過程
の 研究
」 と 題 し て 駒 沢大
学
に提
出 さ れ た学
位請
求
論 文 の 中 か ら 、第
二編
「年
表
」 と第
三編
「祖
堂集
対 照景
徳
伝燈
録
」 の 資料
篇
を
削
除
し て、
『唐
五代
禅
宗
史
』 と改
め て 公刊
し た も の で あ る 。 本書
を
手 に し た 人 は 、 鈴木
哲
雄博
士 の 処 女 出版
で あ る 『中
国
禅
宗
人 名索
引
』 (其
弘
堂 、 昭 和 五〇
年
九
月 ) に み ら れ た あ の 「該
博
な資
料
・
緻
密
な論
証
・
厳 し い 方法
論・
客 観 的 な批
判
精
神
」 ( 「 序 」 ) と い う姿
勢 が 、 くず
れ る こ と の なく
本
書
に み ご と に 結実
し て い る の を発
見
す る こ と で あ ろ う 。 同 じ分
野 を 専 攻 す る一
人 と し て、
本書
の 公刊
が 容易
で な い こ と が理
解
で き る だ け に 、学
位
取得
な ら び に学
位
論
文 の 公刊
に 心 よ り お よ ろ こ びを
申 し 上 げ 、 そ の御
苦
心 に 対 し て御
慰
労
の 言葉
を さ さ げ るも
の であ
る 。 さ て、
本書
を 紹介
し た い と 思 う が、
本書
に は 、 主 査 で あ っ た鏡
島
元隆
博 士 の学
位審
査報
告
の概
略
が 「 は し が き 」 に 印刷
に付
さ れ て おり
、
本書
の 内 容 と特
色 が き わ め て 簡潔
に 示 さ れ、
み ご と な 紹介
と批
評
と な っ て い て 、筆
者
に こ れ 以 上 に 加 え る べ き 言辞
は と て も 望 め そ駒
澤
大學
佛
教
學
部
論集
第十
七號
昭 和 六 十
一
年
十
月
う に な い と 言う
の が い つ わ ら ざ る気
持
であ
る 。ま
た、
副
論
文 と し て提
出
さ れ た 『唐
五 代 の禅
宗湖
南
江 西篇
』 (
大
東 出版
社
、 昭和
五 九年
七 月 ) に つ い て は、
前
号
に永
井政
之 氏 の 達意
的
な 「書
評
・
紹
介
」も
あ っ て参
考 に な ろ う 。 こ こ で充
分
に そ の 任 を果
た し えな
い か も し れ な い が 、最
近
の禅
宗 史研
究
上 の最
大 の成
果 の一
つ であ
る こ と は誰
も が認
め るも
の であ
り 、 そ れを
紹
介
し な い の は か え っ て礼
を 失 す る の で 、筆
者 な り に紹
介
と 読後
感
を
記
し て お きた
い 。本
書
の 著者
が 取 っ た 研究
方法
に つ い て は、
著 者 は 次 の よ う に記
し て い る 。長 い
禅
宗 の 歴 史 の 中 で は禅
思
想 の表
白
は 決 し て一
様
で な く 、多
彩
な 相
貌
を提
し て い る 。禅
宗教
団も
歴
史 の 制約
の 中 で 生 き て い る ので
あ
る 。 ま た祖
師
方
に し て も 歴 史 の制
約
の 中 に あ る 。 隋唐
時
代 から そ れ 以
後
は 、 仏教
教
団 は 次 第 に強
く
な っ て い く国
家
権
力 の枠
の内 に
嵌
め 込 ま れ 、時
代
と共
に 生 き て い か なけ
れ ば な ら な か っ た 。出 世 間 的 な
僧
伽
は 世間
の中
の 出 世 間 的 僧伽
と な っ た 。 そ れ は仏
教
教
団
の 世 俗 化 に一
歩
足
を踏
み 入 れ る こ と に も な っ た 。禅
宗
教団
が発
展
し 、多
様
化 し 、歴
史 の 流 れ の 中 で 抑揚
消
長 あ り、
変
化 屈折
あ
五〇
九
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
2
伸
張
期
薬
山 百丈
よ り洞
山仰
山徳
山 石霜
夾 山 ま で ( 七 九〇
年
頃
〜 八 八〇
年
頃
)3
隆
昌
前
期雲
居
曹 山雪
峯 よ り徳
山
縁
密
法眼
文
益
ま で ( 八 八〇
年
頃
〜九
四〇
年
頃 )4
隆
昌
後
期梁
山 縁 観 天 台徳
齠
よ り 伝 燈 録記
載
末
ま で ( 九 四〇
年
頃
〜一
〇
〇〇
年
頃
)こ の
時
代
区分
が決
定
さ れ る に は 、 安史
の乱
の与
え た影
響 、 会昌
の破
仏
が引
き 金 と な っ た 五家
の 成 立 、 五代
の諸
国 の滅
亡 か ら宋
の建
国
が視
野
に 入 れ ら れ て い る 。特
に伸
張
期 に対
す
る著
者
の意
見 は、
禅
宗
史
の把
握
の 上 で傾
聴 に価
し よう
。開
拓 期 か ら 伸張
期
へ の推
移
は 、安
史
の乱
に よ る歴
史
の 変 化 に応
じた も の で あ る と み る こ と が で き る 。
唐
代
一
代 の 中 で仏
教 に最
も衝
撃
的打
撃
を与
え 、時
代 に応
ず
る 変化
を促
し た も の は 、 会 昌 の 破仏
( 八
四
五 年 ) で あ っ た 。瀉
山・
洞
山
・臨
済
・
徳
山・
仰
山・
石
霜
・夾
山・
巌
頭 ・雪
峯 等 は皆
こ の厳
し い情
況 に 置 か れ た 人 た ち で あ った 。 こ の 人 た ち の 中 か ら 五
家
の 内 の 三家
が 出 てく
る 。 あ と の 二家
、雲 門 と 法 眼 は 五 代 時
代
に 入 っ て か ら出
てく
る 。 い っ た い 五 家 と いう も
後
の分
類
で、
五家
に 入 ら ぬ徳
山・
石霜
・
爽
山
・巌
頭
・ 雪 峯 らは
一
家
を 成す
充分
な 力 量 を具
し て い た の で あ る 。 ま だ他
に趙
州
・
投 子 ・
径
山鑑
宗
等多
く
の 人 が出
て い る 。 こ の現
象
は新
し い 波 に よっ て 生 じ た も の と
言
っ て 過 言 でな
い 。筆
者 は こ の 新 し い波
の 元 は会
昌
の 破 仏 にあ
る と読
む 。破
仏 は 五家
の成
立 の引
き 金 と な っ た ので
あ
る 。 し か ら ば 八 四 五年
が 切 れ 目 で あ る が 、 こ の 影響
に よ る対
応
が 禅宗
の 中 に顕
現
し た の は 、洞
山
・
石
霜・
夾
山 の末
年 頃 と言
えよ
う
。 こ の頃
に な る と 唐 朝 は形
骸
化
し 、 地 方 は群
雄割
拠
の様
相
を 『 唐 五代
禅
宗 史 』 ( 石 井 ) 呈 し てく
る 。唐
朝 が 崩壊
し 五代
時
代 に 入 る 九〇
七年
は 形式
的 時 代 の 切 れ 目 で あ る 。 そ れ も含
め て 八 八〇
年頃
を伸
張
期 と隆
昌
前期
と の境
と し た の であ
る 。 (九
頁
) こ こ に 明 ら か な よう
に 、著
者
の禅
宗史
の時
代
区分
に 関す
る 基本
的 な 考 え は、
禅
宗
の 時 代 の変
化
に応
じ た反
応
の表
れ は 、 荷 沢 の 場 合 は例
外
であ
っ て 、 全体
に歴
史
の動
き に 少 し 遅 れ る よう
であ
る 。 そ れ は単
な る 情 況 に応
じ た反
応
で は な く て 、禅
思
想 に応
じ て 生ず
る 、内
奥
の響
を も っ た反
応
であ
る か ら で あ る 。 (九
頁
) と あ る よう
に、
社
会
変
化
即禅
思
想変
化 とす
る の で は な い 。後
に問
題 に さ れ る 「宗
派 の成
立 」 の論
の分
析
と 連関
す
る が 、 著者
の独
自 の 立場
を 明確
に し て い る箇
所 であ
る 。 こ う し て 、 本書
は 、前
編 の 「地
方 別 に み た禅
宗
発
展
の様
態 」 が 著者
独自
の 方 法を
も っ て 明 ら か にさ
れ 、 そ の結
果を
踏
え て後
編 の 「禅
思
想
の展
開 」 が ど の よ う な内
容
で あ る か が論
じ ら れ る の で あ る 。 以 下 に 、 前編
と後
編
を 分 け て具
体 的 に紹
介
す
る こ と に し よう
。著
者
が 本書
を
ま と め ら れ る 以前
の 主 な論
文 をあ
げ る と 、 「唐
・
五代
の福
建
に おけ
る禅
宗 」 ( 『 愛知
学
院
大 学 文学
部
紀
要
』第
三号
、昭
和
四 八年
一
二 月 ) 、 「浙
江 の禅
宗
に 関す
る 資料
−
唐
・
五 代ー
」 ( 同 五号、
昭和
五〇
年
一
二 月 )、
「浙
江 に お け る唐
末 ま で の禅
宗 の推
移
」 ( 『 日本
仏教
学
会年
報
』第
四一
号、
昭
和 五一
年 三月
) 、 「浙
江 に おけ
る禅
宗
の推
移
t
五 代時
代 に つ い てt
」 ( 『禅
研
究 所紀
要
』 第 六・
七号
、 昭和
五一
年
=
一
月 ) 、 「 江西
の禅
宗
に 関す
る 資料
ー
唐
・
五 代ー
」 五=
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 『
唐
五代
禅
宗史
』 (石
井 ) ( 『愛
知
学
院
大
学 文学
部
紀
要 』第
八号
、昭
和 五 四 年 三 月 ) 、 「 湖南
の禅
宗
に 関す
る資
料
−
唐
・
五代
ー
」 ( 同一
〇
号、
昭
和
五 六年
三 月 ) 、 「 江 南 の禅
宗 に関
す
る資
料
ω
的
i
唐・
五代
I
」 ( 同第
一
二・
一
三号、
昭
和
五 七年
三 月 、 五 八年
三 月 )、
「 広東
の禅
宗
に 関す
る資
料
ー
1
唐・
五 代」 ( 同
第
一
四号
・
昭和
五九
年
三 月 ) な ど が あ る 。著
者
の 論 文 は、
こ れ ら に 限 る の で は な い が 、 以 上 の論
文 が副
論 文 や本
書
と 重複
内容
で は なく
、も
っ と著
者
の い わ れ る 工具
書
の性
格 が強
い こ と を指
摘
す る 為 に紹
介
し たも
の であ
る 。 つ ま り 、鈴
木
博 士 の本
書
が 成 立す
る為
に は 、 カ ー ド 化 の作
業
と そ の 綿密
な 分析
を
一
度
経 て い る の であ
り 、 そ の こ と を知
る こ と は 本書
の 性格
を よ り 正 確 に把
握
で き る で あ ろ う 。と こ ろ で 、 副 論 文 や 本
書
の前
篇
に著
者
の 独自
な 方 法 や特
色 があ
る こ とを
紹
介
し て き た の であ
る が、
著
者 の最
終 目 的 は前
篇
にあ
る の で は なく
て、
実
は 後篇
にあ
る こ と が著
者自
身
に よ っ て 明 ら か に さ れ て い る 。本
論
は、
南
宗禅
が時
代
の 展開
と共
に ど の よう
に 発展
し て い っ た かを 、
特
に地
域 の特
色
を
明 ら か にす
る よう
に努
め な が ら、
禅
宗 の内
側
に持
つ本
質
と 外側
に表
れ た多
様
性を
論
じ よ う と し たも
の であ
る 。本
論
は こ の 目 的 に添
っ て 、 二 つ の柱
を
立 てた
。各
地
方 の禅
宗 の発
展
し て いく
動 態 を審
ら か に し よう
と し た の が 前 編 の 「地
方 別 に みた
禅
宗発
展
の様
態 」 であ
り 、発
展
し て いく
中
で 、熟
し て 発酵
し てい く
禅
思
想
が ど の よう
な内
容 の も の で あ る か を論
じ よう
と し た のが
後
編 の 「禅
思
想 の展
開
」 であ
る 。前
編 で は資
料
的性
格
を 比較
的持
た せ た 。個
々 の 点 に つ い て 各資
料
間
を
比較
対 照 し 、瑣
末 な 点 にま で 入 っ て 正
誤
を 明ら
か に す る よ う努
め た 。個
々 の事
象
を で き る 五一
二だ
け
正 確 に把
捉
し て おく
こ と が 、全
体鱇
を誤
り の な い方
向 に 導く
た め と 考 え る か
ら
であ
る 。後
編
で は そ れ に 基 づ い て 、主
た る 内容
を
抽
出 し、
禅
宗
発
展 の中
に持
っ て い る思
想
的意
味
を伺
お う と 企図
し た 。
従
っ て筆
者
の論
ぜ ん とす
る 比重
は後
編 に あ る 。 (一
〇
頁
)本
書
の 最終
的 に論
じ た い と こ ろ は後
編 にあ
る と 明 言 さ れ て い る 以 上、
読
者 と共
に そ の 意向
を
汲 ん で 内容
紹
介
し た い と 思う
。因
み に後
編
に つ い て著
者
は 、 方法
的 に 思想
史を
意図
し た と は強
調さ
れ る こ と は な い が、
著
者 の 思 想 史 に つ い て の考
えを
聞
い て お き た い 。禅
宗
史
の中
で特
に 禅 思想
の展
開
に視
点を
置 い て 論ず
る時
は禅
思想
史 の 分 野 と な る 。 ま た
菩
提
達
摩
以降
に つ い て は 禅 宗思
想史
と も称
す
る 。禅
思
想史
の 場合
は 歴史
上 と の 関連
は 全般
的 に後
退
し 、禅
思
想 の 変 化 の 過
程
が 重 点 と な る 。禅
の 内奥
に喰
い 込 み 、宗
学
と ほ ぼ似 て く る が 、
宗
学
が変
化 の過
程
を捨
象
す
る の に 対 し 、 そ れを
重視
す
る 点 で異
な る 。 ( 五 頁 )こ の こ と か ら
理
解
で き る よう
に、
禅
思
想
史
を最
終 的 に は 企 て 、今
後
の研
究 の 方向
を
そ こ に置
か れ て い る こ と が予
想
さ れ よう
。「
序
論
」 に つ づく
「前
編
地 方 別 に み た
禅
宗発
展 の様
態
」 の 目 次 を章
と 節 の み か か げ て 、内
容 の 検 討 に移
ろ う 。第
一
章
広
東
の禅
宗
第 二
節
地
理 的概
観第
二節
南
宗
発
祥
の開
拓期
第
三節
寂
寥
た る伸
張 期第
四節
雲
門
宗 の 興 起 した
隆
昌
前
期第
五節
衰
退 激 し い隆
昌後
期第
二章
福建
の禅
宗
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
第 第 第
第 第
五第 第 第 第 第
四第 第 第
第 第
三第 第 第 第 第
第 第
ニー
章 五 四 三 ニー
章 五 四 三 ニー
章 七 六 五 四 三 ニー
節節 節
節 節 節節
節 節節
節 節節 節 節 節 節 節
節
江
浙
江湖
の 法洞
牛 牛 地 南 法 雪 馬 牛 地 江潭
闘 隆 福
福唐
地
西 南 他 眼 山理 の 眼 峯 祖
理 の
州
王昌 建
建 末 理の の
宗 雪
宗
宗
的禅
宗 玄
下宗
的禅 及
室
期 に の よ 的 方地 形 峯
の発 概
宗 爛 沙 全
進 概 宗
ぴ と の お仏
り概
観
五 代時
代
の 福建
−
閾
国
−
教
け る禅
宗
の 動態
福
州 の禅
宗
禅
宗 と の 関 係泉
州 へ の伸
展 と そ の 背 景観
頭
出
の開
拓
期
盛
の伸
張
期
の 宗
風
の 挙 揚 せ る隆
昌前
期
熟
の隆
昌
後 期観
頭
生 の
開
拓
期頭
消
滅洪
州宗
の 発 展下 進
出
の隆
昌前
期成
の隆
昌後
期
そ
方
禅
宗
の特
徴地
に お
け
る各
派 の展
開
こ の う ち第
五章
は副
論
文 の第
三 章 に 相 当す
る も の で あ る か ら 、 木書
と 互 い に補
完す
る も の で あ り 、 両者
相俟
っ て前
篇
が 完 備 す る の であ
る 。 地 方別
の特
色
を
み な が らも
、著
者 は 、 「叙
述 の 順序
は 、全
体 『唐
五 代禅
宗史
』 ( 石井
) 的 に要
約
し た 場 合 の禅
宗
の 盛衰
の流
れ に よ っ た 。湖
南・
江
西を
含
め れ ば 、広
東・
湖
南・
江西
・
福
建
・ 浙 江・
江南
の 順 と な ろ う 」 (一
〇
頁 ) と言
う
よう
に、
地
方 と 全体
の 連 関 を み な が ら禅
宗史
が
構
想
さ れ て い る こ と を 注意
し なけ
れ ば な ら な い であ
ろ う 。 さ て 、 こ れ ら 五章
で取
り扱
わ れ た 事 項 は 、 著者
の 言葉
を
仮
り れ ば 「瑣
末な
点 に ま で 入 っ て 正 誤を
明 ら か に 」 (一
〇
頁
) さ れ た 訳 であ
る か ら 、一
つ一
つ を追
っ て 紹介
は で き な い し、
ま た そ の 必 要 も な い であ
ろう
。 そ こ で 、 こ こ で は 、第
一
に 、著
者 が従
来
の 研究
史
で い わ れ た定
説
に対
し て新
たな
見 解 を展
開
し た り、
あ
る い は等
閑
視 さ れ て い たも
の に対
し て重
要 な意
義 づけ
を
行 な っ た も の の う ち い く つ か を 、 筆 者 の判
断 に お い て 取り
挙
げ よう
。 第 二 に、
筆
者
が疑
問
に 感ず
る も の のう
ち の気
づ い た も の を あ げ る こ と と し よう
。 まず
第
一
の 場 合 を 本書
の 順序
に し た が っ て羅
列す
る こ と に し よ う Q (1
)六
祖
慧
能 の最
古
の 伝記
資
料
と さ れ る 「痙
髪
塔
記 」 を 『曹
渓
大
師 伝 』 後 に 成 立 し た と し 、広
州 の 法 性 寺を
強 調す
る た め の資
料
と考
え る 予 測 を提
出 し 、問
題提
起
と す る 。 ( 二 三、
二九
頁
) (2
)六
祖
慧 能 伝 が長
期 間 の在
俗 生 活 と 同時
に 出家
の経
過
を強
調す
る の は、
新
興 の科
挙 出身
者
と 結 び つ い た南
宗禅
の基
本 的性
格 と 関 わ る の で は な い か と指
摘
す る 。 ( 二 八 頁 ) (3
)六
祖
下 の 翁 山寺
霊
振 の 「霊
池
山碑
」 の紹
介
。 ( 三 五頁
) (4
)仰
山
慧 寂 は韶
州
南
華 寺通
の 下 で 出 家 し 、 通 は そ れ 以前
に婆
州
和安
寺 に住
し た 人 で あ る 。広
州
に 和安
寺 は存
し な い こ と 。 ( 三九
頁
) (5
)馬
祖
と 石頭
の両
者 の 門 下 に 配 さ れ る韶
州
渚 渥山
と渚
逕山、
五 = 二Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 『
唐
五 代禅
宗
史 』 ( 石 井 )華
林
善覚
と潭
州華
林、
義 興勝
弁 と常
州
義
興
を 同一
人 とす
る 。 (四
一
頁
) (6
)石
頭
下 の招
提
慧
朗 に つ い て 、 「韶
州 月華
山花
界 寺 伝 法住
持
記
」 ( 『 武渓
集
』巻
九
) を紹
介 し 、 新知
見 の晩
年
の韶
州 で の行
状
を
述
べ る 。 ( 四一
頁
) (7
)薬
山・
百 丈 が参
じ た潮
州慧
照 と南
嶽懐
譲 下 の潮
州
神 照 の 同一
人
説 。 ( 四 五頁
) (8
)会
昌
破
仏後
に 曹渓
の 六祖
塔
を拝
す
る風
潮
が 出 て来
た こ と の指
摘
。 ( 五 三 頁 ) (9
)「
韶
州 白雲
山延
寿禅
院
伝
法記
」 ( 『武
渓集
』 巻 八 ) の新
紹
介 に よ る雲
門 下 の 白 雲 子祥
ー
志 文 ( 聞 ) の 伝 記解
明 。 ( 五 六頁
) (10
)陳
尊
宿 の七
八〇
1
八 七 七 年 の 生歿
年
は 、雲
門文
偃 伝 か ら 考 え て寂
年
を数
年
下
げ る べ き だ と す る問
題提
起
。 ( 六 二 頁 ) (11
)雲 門 下 の 双
峯
慧
真
は 、慧
真
広
悟
禅
師 竟欽
そ の 人 を誤
っ て別
人 と し た も の 。 (六
四 頁 ) (12
)嗣
法
の 血脈
は法
系
意
識 の強
い 雲門
に端
を
発す
る とす
る説
。 ( 六 八頁
) (13
)南
塔
光
誦
下 の 明徽
大 師黄
連
義
初
の 資料
「 黄蓮
山 鐘款
」 ( 『 金 石続
編
』巻
一
二 ) の紹
介 。 ( 六九
頁
) (14
)『
頓
悟
要門
』 の著
者 大珠
慧
海 は、
馬祖
の 初期
の 弟 子 の一
人 で 、学
地
は建
陽 と推
測 。 ( 八 三 、一
四 五頁
) (15
)黄
滔
撰
「亀
洋霊
感
禅
院
東
壌
和尚
碑 」 に よ り亀
洋無
了 は 、 馬祖
下 で は な く 、 馬祖
の流
れ を 汲 む者
に参
じ た と推
測
。 ( 八 三頁
) (16
)黄
滔
撰
「福
州
雪
峯 山故
真
覚大
師
碑
銘
」 の境
代
語
訳 に よ る 紹 介 。 ( 八 六頁
)五
一
四
(17
)雪
峰
と 同時
に 活躍
し た 円 寂大
師
を 円 智大
師
大
安
と推
測 し、
阿
部
肇
一
説 の鄲
都 円寂
説 は誤
り とす
る 。 (九
〇頁
) (18
)雪
峯
下 の碑
文
に挙
げ ら れ る 人物
と 、歴
史
を
経
て評
価
さ れ る人
物
と が合
致 し な い 理 由 と し て 、地
理 的 配 慮 と年
齢
の問
題 とす
る 指
摘
。 (九
三頁
) (19
)林
澂
撰
「唐
福州
安 国禅
院
先開
山 宗一
大 師碑
文并
序
」 の 訓注
に よ る
紹
介
。 (九
五頁
) (20
)径
山
第
一
世 を 、 「潤
州
鶴
林
寺 故径
山大
師
碑
銘
」 ( 『全
唐
文 』巻
三 二〇
) に よ っ て 鶴林
玄
素
と 霊張
す る 。 (一
一
七、
一
二 五 、二
二 七 、一
二
三頁
) (21
)径 山
法
欽
の四
つ の碑
の撰
文、
建碑
問
題
の 整理
。 (一
二 二頁
) (22
) 「梅
子熟
也 」 の 話 に おけ
る塩
官
と馬
祖
の 混 乱 と 塩官
が蕭
山の 法 楽
寺
の 時 代 の話
と す る指
摘
。 ( = ご 六 頁 ) (23
)明 心
慧
沐
が参
じ た観
音
禅
師 を仰
山慧
寂
と推
定
。 (一
七 二頁
) 。 (24
) 台 州 の 師彦
、 師 静 、師
進
の 「師
」 は 、諱
で は なく
尊
敬
語
と推
測す
る 。 (一
七 六頁
) (25
)浙
江 地 方 の 『 建 中靖
国
続
燈
録 』 に よ る 法 眼、
雲門
、臨
済
への 発
展
変
化 の 分析
。 (一
八〇
頁
) (26
)『
宋
高
僧
伝 』 は と かく
神
異
を記
述す
る が、
『景
徳 伝燈
録
』は そ れ
を
極 力 排除
す
る と い う両
書
の 違 い の指
摘
。 (一
八 二頁
) (27
)劉
禹
錫
撰
「牛
頭
山第
一
祖
融
大
師 新塔
記
」 と李
華
撰 「潤
州鶴
林 寺 故
径
山
大 師碑
銘
并
序
」 の 訓読
文 に よ る紹
介
。 (一
二一
、
二二 八 頁 ) (
28
)牛
頭
宗
に おけ
る浄
土 志向
に よ る 智 威 の思
想
と そ れ が 完全
に払
拭 さ れ る慧
忠 の禅
思想
の違
い の指
摘
。 ( 二一
八 頁 )Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
29
)傅
大
士作
「 行路
難 」 と竜
谷
大 学図
書
館 所蔵
の 「行
路難
」 の一
致を
主張
す
る関
口真
大
説 へ の 疑問
と 、 そ れ に か か わ る 牛頭
慧
忠
の思
想 の分
析
。 ( 二一
九頁
) (30
)弘
忍ー
法
持
−
智
威
の 法系
か ら 法融
−
智巌
−
慧
方
−
法持
−
智
威
の牛
頭
宗 の 法系
が 成 立 す る背
景 にす
ぐ
れ た僧
の出
た 延陵
と いう
土地
の自
覚
があ
っ た と す る推
定
。 ( 二 二 七頁
) (31
)賈
鯨
撰
「揚
州華
林
寺 大 悲禅
師碑
銘并
序
」 の訓
読
文 に よ る紹
介
と荷
沢 宗 の 動向
の分
析
。 ( 二 四〇
頁 ) (32
)独
孤
及撰
「舒
州
山 谷 寺覚
寂
塔
隋 故鏡
智禅
師碑
銘
并
序 」 の訓
読
文
の紹
介 と 三祖
僧
環
の 顕 彰運
動
の分
析
。 ( 二 四九
頁 ) (33
)幽
棲
寺沖
素
を 牛頭
宗 の 人 と す る推
定
。 ( 二 六〇
頁 ) (34
)「
故
唐
慧
悟
大禅
師
墓 誌 銘并
序
」 ( 『徐
公 文集
』巻
三〇
) の紹
介
。 ( 二 八 二頁
) (35
)南
嶽
惟
頚
撰 『続
宝
林 伝 』 と 『 景徳
伝
燈
録
』 の中
間
に洞
山清
禀
の著
述
が存
し 、 『伝
燈
録 』 の成
立 に 影響
を及
ぼ し た こ と の推
定
。 ( 二 八 四頁
) (36
)南
唐
の成
立 に よ っ て 金陵
は 従 来楊
氏
の 外 護 を受
け た僧
か ら江 西 の
清
涼
文
益 、清
涼
休
復
や 福 建 の報
恩
清
護
が招
か れ て勢
力
に変
化 が 生 じ た こ と 。呉
の 時 代 の曹
洞
宗
は消
滅
し 、南
唐
の時
代 には 法
眼
宗 が盛
ん に な る こ と 。 ( 二 八 五 、 二 八 七頁
) (37
)『
宝
林
伝
』 は 南嶽
で 成 立 し、
道教
の影
響
が考
え ら れ る こ と 。( 三
〇
二頁
) (38
)薬
山惟
儼
の 宗 風 は馬
祖
下 の者
に よ く 似 て い る こ と 。 ( 三〇
五
頁
) (39
)石
霜
慶
緒
の法
系 は 、曹
洞 と の親
近性
が逆
に衰
退を
早 め た こ『
唐
五 代禅
宗
史
』 ( 石井
)と 。 ( 三
〇
六頁
) (40
)禅
宗
が 法 系を
連
綿 と持
ち つ づ け か つ 仏教
の 主流
と な っ た のは 、 都
市
仏 教 と 山岳
仏教
の 二重
構造
を禅
宗自
身
が持
っ て い た こと の 指
摘
。 ( 三一
六頁
)第
二 の 点 に つ い て述
べ て お こ う 。 (1
)竜
光
澄
杞
の伝
で 、舒
州
の 山 谷 寺、
斉
安
の竜
光
寺
、金
陵
の 竜光 寺 の 三
寺
に 住 持 し た と解
し 、斉
安
が 不 明 と す る が ( 七〇
、 二九 八 、 三
〇
一
頁
)、
斉
安
は 地名
で冖
な く 金陵
の斉
安寺
(浄
妙
寺 とも い う ) の こ と で
あ
る 。 『 金陵
新 志 』巻
一
一
、 『 金陵
梵
刹
志 』巻
四 八
参
照
。 (2
)鼓
山神
晏
伝 は、
確
か に 不 明 な 部 分 が 多 いけ
れ ども
( 九 三頁
)、
『鼓
山
志 』 や 『淳
煕
三 出 志 』等
を活
用 す れ ば今
少 し閲
の 王氏 と の
関
係
も 明 ら か に な る と思
わ れ る 。た ぶ ら (
3
)玄
沙
の碑
文 で、
「 不 可誑
於 人 也 」 を 「 人を
誑
かす
べ か らず
」 (九
六頁
) と 読 ま れ て い る よう
に 、 「 終 不敢
誑
於
人 」 ( もう
誰
に も騙
さ れ な い ) ( 五〇
一
頁
) と す る の は、
「も
う
私
は 人 を だま し ま せ ん 」 の
意
と す べ き であ
ろ う 。 「禅
文化
」一
一
七号、
一
八
頁
参照
。 (4
)招
慶
院
の 慧稜
を
継 い だ の は道
匡 と す る (一
〇
八頁
) の が一
般
的 であ
る が 、 こ の こ と に つ い て は 拙 稿 「泉
州
福
先
招
慶
院
の浄
修
禅
師省
橙
と 『祖
堂
集 』 」 ( 『駒
沢大
学仏
教
学
部研
究
紀
要 』第
四四
号、
昭
和
六一
年
三 月 ) で 述 べ た よ う に 省橙
が慧
稜
の跡
を
継
いだ も の と
思
わ れ る 。 (5
)「
観
音禅
院碑
銘
」 ( 『 呉 郡 志 』巻
三 二 )を
引用
し て 、 大中
五年
に 洪憲
が 住 し た と す る 記 事 か ら、
鈴
木博
士 は黄
蘗
の弟
子 と す五
一
五Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 『 唐 五
代
禅
宗
史
』 (石
井
)る 蘇 州
憲
と千
頃楚
南
は 同一
人説
を 主張
さ れ る (一
四〇
、 二 六 四頁
) が 、引
き つ づ い て 黄蘖
の弟
子 が観
音禅
院 (報
恩
寺
) に住
した 可 能
性
もあ
り 、洪
憲
と 楚南
を
同一
人 と し な く て よ い よう
に思
わ れ る 。 (
6
)曹
山 本寂
が鐘
伝 に招
さ れ た 時 に大
梅 の 「 山 居頌
」 を も っ て辞
退 し た 話 は 有名
であ
る が 、 「山
居頌
」を
「遷
居頌
」 と す る説
(
一
四九
頁
) は 、 『祖
堂 集 』巻
八 ( 皿1
一
三〇
) や 『曹
山語
録 』( 大 正
蔵
巻
四 七ー
五 三〇
上 ) に あ る頌
であ
っ て 、 「遷
居
頌
」 とは し な い 方 が よ い で
あ
ろ う 。 (7
)不
明
と さ れ る越
州
鏡
清院
は 、 『嘉
泰
会稽
志
』巻
七 に 「景
徳
院
。在
府
東
南
六 里 七十
四 歩 。唐
天祐
四 年建
。 号鏡
清
」 と あ る のに あ た る か
も
し れ な い 。 (8
)陸
亘 は 太 和 三 年頃
南 泉を
迎 え た と さ れ る ( 二 六 八頁
) が 、『 唐 方
鎮
年
表
』巻
五 、 『嘉
泰
会
稽
志 』巻
二 に よ れ ば 太 和 七年
閏七 月 以
降
の こ と と な る 。 (9
)清
涼
休
復
伝 の 示寂
の 年を
保
大
九年
と 主張
さ れ る ( 二 八〇
頁
) が 、清
涼
寺 に招
か れ た甲
辰 の歳
( 九 四 四 ) の 方 に疑
問
があ
っ て 、 示
寂
は 天福
八年
( 九 四 三 )一
〇
月一
日 と も考
え ら れ る 。(
4
) の拙
論
一
八 八頁
参
照 。 (10
)廬
山 の冶
父 山 は誤
り で 、冶
父山
は廬
江 県 東 北 二十
里 を さす
は
ず
であ
る と す る 説 は 正 し い と 思 わ れ る ( 二 八 八頁
) 。 し か し 、大
正蔵
経
は 「廬
山 」 と す る が、
四部
叢
刊
本
は 「廬
州 」 とす
る から 問 題 は な
く
本 文 校定
の 必要
が あ ろ う 。副
論 文 の 二 二 六頁
の雲
居
道膊
の 外護
者 の周
氏
が 不 明 と さ れ る の も 同 じ で 、 四 部叢
刊
本
で は 「
鍾
氏
」 と な り 、雲
居 の最
大 の外
護者
の 鍾伝
を
さ し て い るこ と が 判 明 す る の で
あ
る 。以 上 の
第
一
と第
二 の指
摘
は 、 い こ と は 認 め ね ば な ら な い が 、 五一
六筆
者
の偏
っ た 関 心 か ら述
べ た 点も
多
前
篇
の紹
介
に 替え
た い と考
え る 。著
者
が 重視
さ れ た 後篇
の 「禅
思 想 の 展開
」 の章
節 と項
の 目 次 を紹
介
し 、 全体
の内
容
を概
観
し て お く こ と に し た い 。第
一
章
南
宗
禅 の確
立第
一
節
荷
沢 神 会 と そ の影
響
一
荷沢
神
会
の 北宗
排
撃
と 思 想構
造
二
荷 沢
神
会
の見
の 思想
三 荷 沢
神
会
の 五 更 転頌
の背
景四
荷 沢
神
会
よ り壇
経 に 至 る見
性 の 展 開五 保
唐
寺
無
住 の 「無
念 」 に つ い て六
『
頓
悟
入 道要
門
論
』 に み ら れ る荷
沢神
会
の影
響
第
二節
馬
祖
教 団 の禅
思想
の展
開
一
江
西
に お け る馬
祖
と そ の 門 下−
年 次 考−
二
即 心
是
仏 から
非
心非
仏 へ第
二章
宗派
の成
立第
一
節
南
宗
派
下 の宗
派 の発
生一
会
昌
の 破 仏 と そ の影
響
二
世
代
意識
の 発 生第
二節
流
動
と展
開
一
『
景
徳
伝
燈
録
』 に 内在
す る史
的
な 流 れ二 『
瀉
山 語 録 』成
立 の背
景
と そ の性
格Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty