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中世歌学の伝統 : 御子左家の人々

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(1)Title. 中世歌学の伝統 : 御子左家の人々. Author(s). 高野, 忠興. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 6(2): 11-21. Issue Date. 1955-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3572. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第6 巻 第2 号. 北 海 道 学 芸 大 学 紀 要 (第一部). 中. 歌. 世. 学. 伝. の. 昭和30年12月. 統. --御子左家の人々-- 高. 野. 忠. 輿. 北海道学芸大学旭川分校国語研究室. Tada。ld TAr ion of ~[ediaevaI Poet i ): The Tradi (AN{ t cs .. 御子左家の祖は藤原道長の六男長家に始まり、 御子左 (みこさ、 みこひだり) の名は長家の領し た第宅の名にもとずく。 長家の領した第宅は、 京都三条坊門南、 大宮東にあり、 世に御子左第 (み こさてい) とよ ばれていた。 この第は古く中書王の名で知られた兼明親王が草創したもので、 曲池 の北、 小山の西にあり、 山のきわ、 流れに臨む場所にあり、 親王のもっとも気に入った第宅であっ 1 親王が醍醐天皇の皇子であり 左大臣であったところから 世に親王を御子左とよび その た。 、 、 、 第宅も従って御子左第とよばれた。 中書王というのは親王が中務卿であったところから、 中務の 唐 2 また前中書王とも呼ぶことがあるが これは後世同 じく中務卿にし 名中書を以て呼んだもので、 、 て女を善くした村上天皇の皇子 具平親王を後中書王とよぶの に対する称呼である。 この様に長家は御子左一流の祖であり、 莱明親王の御子左第を伝領 して御子左の家名を得、 その 曽孫に俊成を出してより後、 御子左家は歌道の家となる。 御子左家系. 成家 忠成. 大炊御門. . 道長-長家-忠家‐俊. 五俵. 註 1 本朝女粋の池亭記に前中書王作と して次の詩が見える。 た草創此亭、 尤合心事臭。 亭在曲池之北小山之西、 傍山臨流、 結茅開宇。 自省 2 百棟抄 貞元2年4月21日の条に次の様に記されている。 1 以左大臣源兼明、 為親王、 叙二品、 任中務勇 訂 、 号御子左。 2. 長家は道長の子の中では割に低い官歴 に終り、 その子忠家はや 恵まれ、 俊忠から俊成と代を逐 1 もともと北家の中でも長家の一門は特色がなく 有職のことにも与 うて家門は傾いた観がある。 、 らず、 顕職にもつかず、 勢威が上らなかったが、 俊忠俊成の代になると少くとも官位の上では勢い は益々おとろえて来る。 けれども同時にこの二人の代にこの家が歌道において頭角をあらわして来 たことは注目すべきである。 長家や忠家は、 俊成の撰した千載集に僅か二三首の歌のみえるばかり - 11 -.

(3) . 高. 野. 忠. 興. で、 他にのこされた歌とてなく、 歌道において全く無名の人々であったが、 俊忠は今鏡にも伝えら れた程歌ょみの名の通った人で、 千載集にも多数歌が挙げられているが、 別に権中納言俊忠卿集と 2 い う 歌 集 一 巻 を の こ し て 居 る。. 俊忠の長男忠成は大炊御門と号する傍流をひらき、 三男俊成が家を継いだ。 俊成ははじめ葉室顕 頼に養子となり、 顕広と云ったが、 のちまた本流に復った。 仁安 2年俊成と改名した。 官 位は正三 位皇太后富大夫に至った。 明月記によれば、 安元2年参議をのぞんで果さず非参議のま 病の故を 以て官を辞し、 出家して法名を釈阿と云った。 このため俊成を弾門とか大夫入道とか呼ぶことがあ る。 五条室町に住んでいたので世に五条三位とよばれた。 この五条の名はのちに為家の孫為実が家 名として継ぐ。 俊成という通り名は、 父俊忠の名を承けたものである。 俊忠の本名は親家であり、 家の字のつく名が長家以来の伝え名であった。 若し俊成が頭頼の養子にならなかったなら、 顕広と いう本名をとらずに別に家の字のつく 本名をとったであろう。 俊成の子季光が6 才にして定家と改 3 名しているのは、 俊成がこの家の字のつく伝え名をのこそうとした意図のあらわれである。 8 5 4 俊成は保延 年、 25才のとき和泉前司道経に紹介されて基俊の門に上った。 時に基俊 才であっ 4 この間に二人の間に古 た。 このときより約2年師弟の関係があり、 2 年後基俊は87才で殺した。 今伝授があったといい、 これを以て古今伝授のは じまりとしている。 この様に基俊と俊成との師弟 5 関係は僅か1 ,2 年 の こと で あ る。. 基俊は右大臣俊家の子で、 詩文を大江朝綱に、 歌を藤原公任に学んだ。 歌については才より学を 以てきこえ歌人というよりも歌学者であった。 師の公任もまた創作よりは批評に長 じた 人 で あ っ た。 公任によって歌学がおこされたが、 公任 を継いで歌学を盛んにした者は、 基俊である。 当時和 歌の上では俊頼が一世に名あり、 基俊はその下流に立つことを好まず、 常に能を俊頼と争った。 6 才芸のいずれにもひいでたというが、 特に和歌を善くした。 歌の風 後頼は源経信の子である。 ′基俊とよい対照をなした 公任と曽丹との対照 格は公任よりも曽丹に似、 歌人らしい歌人であり、 。 が次の代に入って、 基俊と俊頼との対照となってあらわれている。‐ 基俊がある時人に 向って 『俊頼女才なくして和歌をよくす。 その様なお駒児のよく走るが如し』 といえば、 俊頗これをきいて 『女時期綱の如き才学博治にしてしかも未だ秀歌あるをきかず。 卵恒 貫 之の詩名無闇にしてしかも和歌をよくするをそこなわず。 基俊の言また謎ひざるか』 と答えたと 愛で博学をたのみ、 当世を いう。 基俊は和歌の会あるごとに つとめて出、 往々判者となったが、 倣i 蔑視するところがあった。 歌を判ずれば極端に酷評したから人の恨みを買 ったという。 この右大臣 俊家の子である基後にくらべ、 大納言経信の子である俊順は、 門地において基俊に一歩をゆづるけ れ ども、 徳望においては遥かに基俊を超え、 温厚にして人に愛され、 朝廷諸家の歌合には多く俊頼 が推されて判者となった。 元永年中、 頭季の人暦影供の盛会に際して、 名輩の多く集まった中で、 7 俊順が歌を判ずるときには人 当世の宗匠と称せられた俊頼がひとり推されて初献を襲 じている。 I Eを求めなかった。 歌をょむに当っては、 苦意刻思し容 の美を遺さざらんことを憂えて、 あえて蹴り 易に詞を下さなかった。 居常感得するごとに書きつけて蔵し、 時に出してこれを用いた。 このため 歌 の こ こ ろは 常 に 新 しく、 浪 々 と して 尽 きず、 題 詠 に 臨 ん で 強 い ら れ る こ と な く、 枯 渇 す る こ と が. なく、 萄且難渋の失をみなかった。 また緒題を人に乞われてややその難を覚えると、 まず家人子弟 をしてこれを詠ましめ、 よき風あらばこれをよく引直しておのが作としたので、 秀歌が甚だ多かっ 8 基俊にくらべて規模の大きいおうような寛大な人柄であったから、 特に基俊に才がないわけ た。 でもなく、 特に後頗ひとり歌の天才であったわけでもないけれども、 俊頼が人気を一人で集めてし まったのである。 俊順の歌風は二様があったと後鳥羽院口伝はいう。 第一 に、 多いのは、 一般的な、 うるわしくやさしき様で、 俊成がこれを望んだ。 例えば 一 12 -.

(4) . 中 世 歌 学 の 伝 統. うづらなく. ままの入江の浜風に. をばななみよる秋の夕 ぐれ. 第二に、 余り多くはないが、 個性的な、 もみもみと 人はえよみおほせぬ様で この一様を定家 、 、 が慕った。 例えば ぅ かりける. 人 を は つ せ の 山 お ろ しよ. は げ しか れ と は い の らぬ も の を. 右の二様を通 じて俊顔は 堪能のものであったという。 俊頼の子俊憲法師も歌を以てきこえたけれども父には遠く 及ばなかった 極めたろ平淡 無技巧 。 、 をとなえ、 五尺のあやめ草に水をかけたろ様に歌はよむべしといい その歌に9 、 たった山 こ ずゑまばらになるままに ふかくも策のそよぐなるかな というのがある。 俊成がこれを艶なる歌と賞めている l 。o 俊成はこの父子を評し 「俊順の歌は鍛錬 精巧一点の失なきに反し、 俊恵の歌は到底父に及ばぬ」 と云った 。 定家も同じくこの父子を評し 「俊顔はえもいは ず長高きを庶幾し 俊恵はただ歌は幼かれと庶幾し」 たとのべている 1 、 。1 2 鴨長明は俊恵の弟子である。 1 註 1 長家 忠家 俊忠 俊成 2 今鏡. 権大納言正二位 大 納 言正二位 権中納言従三位 非 参 議正三位. 3 長家-忠家-親家-顕広一定家一為家 4 5 6 7 8 9 lo 11 1 2. (俊忠) (俊成) 台記 無名抄 中右記 古今著聞集 十司 ”抄 顕季は六条家、 清輔の祖父、 古今風の全盛なる当時 にあ って万葉風 に傾倒 し 異彩を放った。 これより六条家には万葉を尚ぷ伝統が生じた 人暦画像はその標章である 。 。 後鳥羽院ロ伝 後鳥羽院口伝 無名抄 毎月抄 経信一俊頗-俊恵-長明 3. 鳴. 俊成は基俊の晩年 にその門弟となり、 歌道を承けたが のち歌の才については却って俊順に心を 、 寄せたというが、1 これは俊成と俊順と直接師弟関係があったわけではない 俊順は早く世を去っ 。 ているので、 俊成と生前の交渉はなかった。 俊成はその風を慕い 私淑したものである 俊成の撰 、 。 した千載集には俊頗 の歌が基俊の歌よりも二倍位多く挙げられている 人 々がこのことを 難 じて 。 「師匠に敵の人の歌をば何故多く入るぞ」 と問うたところが 俊成は 「俊順は憎けれど歌は憎から 、 ず。 われ集を撰ぜし時、 人を見ず歌を見しなり」 と答えた 2 俊成も自ら 『千載集はまたを ろかな 。 る心一つにえらびける程に、 歌をのみ恩ひて人を忘れにけるに侍めり』 と古来風紳抄に述べてい る。 千載集を通じて、 後額は4 6首、 基俊は25首みえて居り 2 対1の割合であって 各部類につい 、 、 てみてもこの割合が守られている。 この様に基俊の歌は少い様 であるが それでも金 葉集や詞花集 、 3 むしろ千載集には特に多くとりすぎている位であ 等の他の勅撰集に比べると決 して少くはない。 る。 千載集はまた他の勅撰集に殆んど名のみえない長家忠家俊忠らの歌をもとっている 俊成の祖 。 であり師であるところからとられたものであろうが、 なお俊頼の歌は師の基俊の歌の倍くらい多く とられたので ある。 この傾向は俊成の古来風駄抄に一層著 しくあらわれ 同抄中の千載集の部に 、 は、 俊頗は5首、 基俊は2首例歌があげられている。 これは実際の千載集全体を通 じての両者の歌 の数の割合に等しいが、 更に古来風嫌抄全体を通じてみると 俊頼は14首 基俊は2首となる 勅 、 、 。 - 13 -.

(5) . 高. 忠. 野. 興. 撰の千載 集よりは古来風駄抄の方に却って自由な俊成の見解が見られるわけである。 この様に俊成 が基俊をおいて俊頼の歌風に私淑 したことは間違いのない事実である。 註 1 無名抄 2 兼載雑談 3 金葉、 詞花、 千載より前 の勅撰集には基俊の歌も俊頼の歌も見えない。 4. 八雲御抄に西行、 清輔、 俊成の3 人が並び称 せられたと伝えているが、 当時西行は出家して高野 山にあり、 超然圏外に立ち、 実際の歌壇には清輔と俊成とが並び立つていた。 西行と俊成とは交り 1 0 も深かった。 西行の客観的 傾向と俊成の主観的傾向とが相惹いたと思われる。 清輔は俊成より 才 ると 余年長であった。 清輔は鋭い人であったとい われ、 歌合の判者になっ ても、 異を唱える人があ 抗顔弁析するので、 人々はあえて可否を言わなかった。 之に反し俊成は穏かで、 異論があれば素直 にうけ、 人に拒むの 色がなかった。 それ故俊成の判詞は世に伝えられ倣われたという。 清輔はむし ろ学にす ぐれ俊成は才にすぐれたもので、 俊成の判が清輔にくらべて常識的であったことは顕昭の 陳状にも陳べてあるが、 歌風も俊成の歌は特に耳目をそばだたしめる様なものはなく、 穏健な清水 の様な 味わいの歌で あった。 いろいろの偏った歌風が紛々混糟して世を乱している時に、 この味わ いは格別に喜ばれた。 歌の才については清輔も俊 成にかなわなかった。 九条兼実は清輔を推重して歌道の顧問とした。 弁析詳明な清輔の学識は大いに桑実を 助 け た の 1 で、 兼実は清輔を称 して貫之、公任に比し、清輔の卒するに及んで 「歌道ほろぷ」 と歎いている。 その後、 治承2年よりこれに代って俊成を招いた。 しかし知識よりも体験を蔵し、 云い得ることよ ’多く蔵した歌よみが、 清輔ほ ど満足に役目を果した であろうか疑わしい。 茶 りも云い得ざることを 実はやはり俊成の人徳を賞し 「和歌の道の長者たり」 と云い、 「よくその境に入る。 当時この道の 棟梁なり」 としているが、 玉葉にみえる評語を比べてみると、 清輔を特に高く買っていたことがう か が わ れ る。 これ も 2 人 の 風 格 の 相 違 に よ る こ と で あ ろ う。 註 1 玉葉. 治承元年6月20日 5. 兼実の弟慈円も俊成と親しかった1 慈円は歌人として異色のある人でもなく、 西行と俊成との中 1 間に立つ歌風の人で、 口伝に 「大様は西行がふりなり」 といわれているが・ この慈円と俊成との 関係で注目すべきことは、 慈円が歌と仏道とに関連して新しい見解を 出したことである。 この意見 は俊成の唱える歌論によく似ているのである。 慈円は拾玉集にこうのべている。 ○ねがはくはこの浅き狂言締語にて深き讃仏乗転法論の道へかへし入れ給へとなり。 ○今以麓言、 深転法論、 錐似狂言、 叉通仏道。 ○和歌といひっればあさか山の山の井よりもあさく、 夏の木ずゑのせみの衣より薄く恩へり。 こ れ は理 にも 背 き、 ま こ と に も 違 ふ こと に て 侍 る ぞ か し。. ○これ若しひが恩ひにて侍らば、 その由を具さに承はらばや。 と述べている。 慈円は天台座主を4回歴任して碩学 の誉も高かった人で、 これは仏道の権威が歌人 に提出した意義 のある発言であった。 人が仏道に求めると同 じものを歌道にも求め得ると説いてい る。 仏道のことばは深遠 な意味を有するのに、 同じことばでありながら、 和歌のことばが意味の浅 い狂言縞語にすぎないというのは、 和歌において深い道を求めようとする態度がないからである。 和歌の道はもっと深くきわめられるし、 またきわめなければならない。 和歌を慰みの具とせず、 こ れを通して厳粛なものを感得しなければならない、 満足せずに追求しなければならないとして、 和 歌に対する真剣な態度を主張したのである。 一 14 -.

(6) . 中 世 歌 学 の 伝 統 2 秋津島のたわむれ遊びとするのは誠に当時の風潮であって 慈円の云 うたをあさあさと恩ひ、 、 う様な歌の道はまだ一般には考えられていなかった。 考えられたこともあったに違いないが、 まだ 言い出されなかった。 人の慰めでありたわむれである歌が、 やがて俊成よりのち人を苦しませるも のと さ え な り ゆ く の で あ る。 歌 の た め に 人 は苦 しむ こ と に な り ゆ く の で あ る。 俊 成 の こ ろが そ の始. まりであり、 わかれ目であった。 勿論その後たわむれの説が絶えたわけではない。 阿仏尼が 「や まと歌のみちはただ実少くあだなるすさびばか りと思う人もやあらむ」 と述べているのもそれであ 3 しかし、 このころから和歌の道を深く究 めようとする真面目な態度があらわれ それが主流 る。 、 をなして流れは じめたことは、 俊成の以前と以後とで異った点である。 この意見を身を以て主張し たのは俊成をは じめとする御子左家の人々であった。 この意見は慈円と俊成との交遊の間に熟し生 れ、 更に俊成と定家とにより強く主張せられて行った。 その俊成の学統を継いだ者には定家を始め と し、 家隆、 寂薄、 飛鳥井雅経がある。 註 1 後鳥羽院ロ伝 2 俊頼口伝 3 十六夜日記 6 . 家 瞳は藤原良門の孫で光隆の子である。 父光隆は壬生と号したが、 家隆は宮内卿従二位であった 1 嘉禎 2年病を以て薙髪し、 名を仏性と改めた 翌3年80才で殺 ところから、 壬生二位と号 した。 。 した。 頓阿は 「家隆は寂蓮が婿なり。 寂蓮相具して大夫入道の和歌門弟になりき。 樺門被申云、 此 仁未来の歌仙たるべし。 見参の度に難義などいふことをばとはず、 いつも歌よむべきまさしき心は 2 い か に 侍る べ き ぞ と い ふ こ と を と ふ と て被 感」 と 述 べ て い る。. 家 隆 が 寂蓮 の 婿 と な っ て 同 宿 して. 3 すなわち古今著聞集は西行が御裳濯川歌合三十フ 番1巻 いたことは古今著聞集にも見えている。 を俊成に判ぜしめ、 宮河歌合三十六番 1巻を定家に判ぜしめ、 晩年に及び家隆に 「家隆未だ若くて 坊城侍従にて寂蓮の婿にて同宿したりけるに尋ね行いて」 歌合2巻を与えて判ぜしめたと伝える。 この2 巻の歌合は家隆の女山宰相局に伝わったという。 家隆と定家とは年 令も近く仲もよかった。 家隆は嘉禎3 年4月 9 日80才 で殺 して い る が、 定 家は 5 年あとの仁治2年8月2 0日同じく80才で残している。 五つちがいで同時代に生き 同じ様に80才 、. 4 定家が推重した当代の歌人は寂蓮と家隆 ぐらいのものであった 定家 まで永生きをして死んだ。 。 5 家隆も元より定家を大いに推 重 した 家隆の は新勅撰を撰した際に家隆の歌を最も多くとった。 。 子隆祐の藤原隆祐朝臣集に父故入道の言として挙げられている家隆の歌論は全く定家の歌論と同様 で変・ らない。 定家の歌論は手紙の形で伝わっているが、 そ の歌論について見ても家隆の歌論はそれ と殆んど変りがない。 恐らくそれらは二人の親密な交 遊清談の間に語られたことであろう 6 兼実 。 の子後京極摂政良経がある時家隆に向い 『当時正しき獣まみ多くきこゆる中にいづれかまさる』 と 問うたところ家隆はさわりがあるとでも思ったか黙して答えなかった。 いよいよ追求されると家隆 は懐紙をおとして出で立った。 後で懐紙をひらいて みると定家の歌一首が書きつけてあ っ た と い 7 家隆は元より後鳥羽院や良経を中心とする仙洞歌人の一人であり 元久中これらの人々と共 う。 、 に新古今撰者にあげられたが、 最初は良経の推せんで後鳥羽院に招かれた様である。 尤も家柄も定 家などよりは少しよかった。 後鳥羽院あるとき良経に歌道の良師を間はれたところ良経奏して 「家 隆は末代の人丸にて候也。 彼の歌を学ばせ給うべし」 とすすめた。 このことがあってより後鳥羽院 は家隆を召して親しみ、 新古今の撰集に際しては、 古人の歌を以て毎部に冠する慣わしを勅して改 8 院は隠岐に遷されるに当り家隆に題を与え 歌を め、 家隆定家らの歌を以て部 首を飾らしめた。 、 - 15 -.

(7) . 高. 忠. 野. 興. 9 凡そ家隆をわろく言ったもののないところを見ても彼が人に愛せられる人柄 求められたとい う。 であったことがうかがわれる。 家隆もとより思いを詠歌にいたし、 前後よむところ36万首に達 し た。 しかし頭角をあらわ したのはおそく40才を過ぎてからであった。 定家が39才にして漸く後鳥羽 院に召され昇殿を許されたと好一対である。 後鳥羽院口伝はこれを 「若かりし頃はいときこえざり 0才 o 建久末年の9年が丁度家隆の4 l しか ど建久の頃ほひより殊に名誉も出来たり」 と述 べている。 に 当 る。. 白あり、 歌集藤原隆祐朝臣集1巻をのこした。 家隆の子に隆ネ 註 1 家隆の歌集を壬二集と呼ぶのは壬生二位の号から来ている。 2 井蛙抄 巻 6 3 尊卑分駄には一切その由を記 していない。 尊卑分鰍によると寂通には保季、 幸尊、 公献、 冒観の四 人の子はあるが女はない。 しか し別の事情で家隆が寂蓮に響となって一時同宿 したことがなかった えな い。 と は い;. 4 5 6 7 8 9 lo. 家隆定家の二人が当時並び称せられたことは十謬=抄、 古今著聞集にのべられている。 正徹物語、 兼載雑談にそれを指摘 している。 両者がしば しば夜を明か して清談 したことが明月記に記されている。 今昔物語による。 兼載雑談 はこれを後鳥羽院の問いと している。 古今著聞集 増鏡 正徹物語に 「家隆は四十以後 始めて作者の名を得たり。 それより前にはいかほどか歌をよみ しかど も名誉せらるること は四十以後な り し也」 とある。 この記載はロ伝にもとづいた様に思われる。 い そのかみさざめ言に50才ごろと記 しているのは誤りであろう。 7. 寂蓮 (建仁2年7月20日段) は中務少輔定長といったが、 出家して寂蓮と改めた。 俊成の弟俊海の 子で俊成の甥に当る。 俊成の嫡子に成家があったが、 歌道を継 ぐ器量に乏しくて、 俊成は為に甥定 長を迎えて養子とした。 その後定家が 生れ、 定長は身を退いて出家した。 僧侶になることは高尚な ことであったから、 この処置は至極円満な処置であった。 彼は俊成により歌道を継く 様にと育てら れたのであるから、 単なる養 子ではなかった。 子相伝の間柄であった。 従って家隆のところで述 べた様に寂蓮が家隆を婿と して相具して俊成の門に入ったという話は、 いいかえれば寂蓮が婿家隆 を俊成に就か しめたということである。 御子左 家の人々の中 では寂蓮がよく六条家に近づいたが、 中でも慰昭と親しかった。 共に僧侶で あった関係もあろぅが、 また異る性分が互に相惹いたのである。 寂蓮は歌の妙手であり、 顕昭は歌 では寂蓮に遠く及ばなかった が、 学識優博を以てきこえた。 この二人について様 々の逸話が伝えら 歌は れている。 ある時顕昭が寂蓮に向って 『歌は易き ものなりけるよ。 寂蓮ほど才学なけれども、 なれども歌は よくよむ』 といえば、 寂蓮直ちに答えて 『歌は大事のものなりけるよ。 あれほど大才 争った 欲かさず日参し互に評定を 1 顕昭の二人は 下 手 な り』 と い・った。 また六百 番歌合 のとき寂蓮、 が、 顕昭はひじりの故に独鈷をもち、 これを打振り打振り弁ずれば、 寂蓮はこれに 向い鎌首をもた 2 てて弁駁する。 この状を殿中の女房例の如く独鍵鎌首と名づけたという。 無名抄は寂蓮のことば まの人の として次の様に伝えている。 『手を轡ふにもをとりの人の女字は学び易く、 我より上りさ 法 師など 季経卿顕昭 といはんに 、 手跡は習 ふに似ることかたし。 しかればわれらがよむ様によめ ととく書 い く 日案 ず と も え こそ ょ ま ざ ら め。 我 は か の 人 々 の よ ま ん や う に は た だ 筆 さ しぬ ら して い. やがて憎 き て ん。 さ こそ こ と は き らめ。』 と。 二人の間には、 やがて愛するものとして之を憎み、. むものとして之を愛するが如き親密 な友情がうかがわれる。 清輔、 顕昭、 季経らは兄弟で、 顕轍の 子である。 顕昭は養子であった。 寂蓮は六条家の人々とこの様に親しかったが、 後成や定家は六条 6- -1.

(8) . 中 世 歌 学 の 伝 統. 家とこの様に自由 に親しくはなれなかった 俊成や定家は家を代表するものであったから 。 である。 その点寂蓮は自由 であった し、 また僧侶 であったところか ら一層親しく顕昭と交り 更にまた互 に 、 相違する性質がいよいよ二人を相惹き相補い相結ぶことになったものである 。 寂運が殺したと き定家はこの悲しみを 3「浮世無常 鎌不可驚 今闇之 哀働之思難禁 目幼少 、 、 、 。 之昔、 久相! 訓、 巳及数十廻。 凡於和歌道者傍輩誰人乎 己以奇異逸物也 今巳帰泉 為道 可恨 於 、 。 。 、 身 可悲。」 と述 べて い る 4 。. 註 1 兼載雑談 2 井蛙抄 巻6 3 明月記 建仁2年7月20日 4 家隆の残 したとき定家が如何 に感 じたかを知ることが出来ると参考になるが 明月記 は家隆殿年の 、 前々年嘉禎元年1 2月20日に完結 しているので残念ながらこれを知ることができない 。 8. 雅経 (承久3年3月11日残52才) は頼経の次男で飛鳥井家の祖である 順経の長 男宗長は難波家 。 を興し、 蹴鞠の家として立ったが 難波家は間もなく衰微した 次男雅経は兄宗長と共 に祖父頼輔 、 。 より脱鞠の法を承け、 また俊成より和歌を学び 飛鳥井家を興し 蹴鞠の家 また和歌の家と して立 、 、 1 和歌では定家と共に新古今の撰者に加わ った。 った。 定家よ りは8才年少の同世代人である。 後 鳥羽院ロ伝に寂蓮、 定家、 家隆 雅経を並べて 「殊勝の者なり」 と評している 雅 、 。 経の興 した飛鳥 井家は教定以後代 々栄え、 和歌の上ではやがて二条家に並ぶ門流となる 2 。 註 1 飛鳥井家略系. 飛鳥井. 雅細--教定一一雅有. 2 正徹物語に 「雅経は定家の門弟たり し程に代々みな二条家の門弟の分 也 とあるの は正確でない。 」 9. 定家 (仁治2年8月2 0日段80才) は俊成の次子である 幼名光 季 5 才のとき季光と改名 更に 。 、 、 翌年定家と改名した。7 2才のとき出家して法名を明静といった また京極に住み中納言を経たから 。 世に京極中納言と呼ばれ、 のちにもその名で呼ばれることがある 定家の 兄成家に家を継く 器量が 。 なかった為、 俊成は甥の定長を迎え て養子にした しかしやがて定家が生れ 長ずるに及び 定長 。 、 、 は身を退いて出家した。 定家が特にす ぐれた器量というわけではなかったが 成家ほ どの不器量で 、 もなかったので、 養子定長に代り嫡子となった。 そのころ父俊成は漸く歌壇に重きをなし 、 外に西 行、 頼政、 慈円、 俊恵らと親 しく、 内に寂蓮、 家隆 為隆らを擁して六条家を圧する勢いがあっ 、 た。 定家は父の歌学をうけながらまた周囲の歌人 らに啓発されて生長した 。 父の教えをうけて育ったのではあ るが長ずるに及んで、 定家は父の歌等を浅々と思うなど多分に 1 定家は模倣に終始せず何か新しいこと 父と違っ 革新的な気を負うて静かに父を離れて行った。 、 た こ と を して みた か っ た の で あ る 。. 定家は長じてのち、 父の後継者 である九条兼実の下に家司となり 清輔の後任として清輔殺ぎあ 、 と兼実の歌の顧問となるなど、 父同様、 また父以上に九条家の家付歌人となっていた 兼実の子良 。 経は後鳥羽院と協力 して和歌史上 異彩ある新古今時代をつくり出すに力あった人であるが この人 、 を中心に九条家は歌 壇の中心勢力をなしていた 定家はこういう環境の中で自らの歌と学を完成さ 。 せて行ったが、 しかし父のあとをついで御子左家の代表となるに至ったのは漸く4 0才になってから - 17 一.

(9) . 高. 野. 忠. 興. である。 半生の間に生涯 の作の大半をよんでいながら、 社会的には一向独立を認められなかった。 この状は家隆の晩成とよく似ている。 これは父俊成の声名の高かったこと、 そして父が91才まで 3才のとき俊成91才で残した) 長生きしたことも原因に教えられるが、 また別に定家が早熟 (定家4 早成の天才歌人ではな かったという定家自身の内部的原因もある。 幼にして 世を震憾せしめる様な 怪物力;世にあるならば、 定家はそういう怪物ではなかった。 またいわゆる天才歌人が世にあるなら ば、 定家はそういう ものでない別のものであった。 定家の日記をみると随分苦心経営 し努力 した人 であったこと がよくわかる。 定家はその苦心経営によって御子左家の社会的地盤を先代よりも一層 2 強 固に して い る。 そ の 定 家 は 歌 人 と して は 歌 よ み と い う よ りも 寧 ろ 歌 つ く り で あ っ た。. そ して 晩. 熟晩成の人であった。 定家にとって嘱目嘱耳の世界は、 調和してあるのではなく、 不調和としてあ り、 当惑し苦しまねばならぬ矛盾としてあるのであった。 しかもそういう矛 盾と して統一を迫るの であった。 定家はその統一のために苦しみ努力 した。 その内的苦斗に正に半生を費し、 その故にあ らゆる興味あるものを地郷しなければならなかった。 彼が成長の状は湧沌と してうごめきながら表 面支離滅裂雲散霧消しそうに見えながら、 しかも内部的な力は曲り曲って真直にある目的に向って 導いてゆくのであった。 彼こそは長くかかって自らを成熟させた晩熟 晩成の人である。 3才のとき父 同歌人の群に加わった。4 定家は39才のとき後鳥羽院に見出され、 股上を許され、 仙! 俊成殺し、 始めて御子左家の代表として後を継いだ。 この時もはや定家の前に立 向う歌人はなく、 六条家は彼のためにいよいよ 圧倒された。 俊成の父俊忠はその祖長家、 忠家らに比べるとややきこえた歌人であるが、 この人によって御子 左家が歌の家となったのではない。r俊成が出てからそうなったのである。 そのあとを定家が引継い で、 いづれ勝るともはかりかねる情勢にあった六条家と御子左家との捨抗においてフ 条家を全く扉 息させたのである。 俊忠よりも俊成、 俊成よりも定家と、 次々に向上の一路を辿り、 定家に至 って その絶頂に達 した。 俊忠に比べると俊 成の仕事は大きく、 俊成に比べると定家の仕事は更に大き く、 定家は最も大きな名声を得て、 後世人麿、 貫之に並び称 せられるこ とがあった。 註 1 後鳥羽院口伝 2 賀茂別雷社歌合の中に定家17才の時の歌3首が.伝えられるが、 これは定家の最 も古い、 最も早い作 であるけれども、 これは定家が早くから歌のみちを習っていたことを示す だけで、 特に早熟を示す 程のものではない。 lo. 俊成と定家についてみるとき、 定家の残 した仕事は成程大きい けれども、 歌のみちでは一概に定 家が俊成を凌いだと云い切れないものがある。 後鳥羽院ロ伝は卒直に、 俊成を賞揚し、 定家の歌が 詞の艶に して優なるばかりで特に 心というものがないのに引かえ、 俊成西行の歌が詞の艶にして優 なる上に心の殊に深い ことを述べ、 それ故に定家の歌とて人のロに上る歌は多くもないが、 俊 成西 行の秀歌とて人の口に上 る歌は数知れずと述べている。 松永貞徳も 「世上の人ロにては定家定家と 1は名高くこそお 刈 申さるれど誓紙 して心実をいはするならば、 定家を上手とはいふべからず。 定家卵 1 歌のよしあしはその人その人の主 」 と評 している。 はせ、 歌は俊成家隆などに遥かに劣り給へ り。 観により、 立場によりいろいろの見方が出来るであろうが、 これらの評は定家の一面を鋭く、 正し く衝いている。 口伝の評を一歩すす めていえば貞億の評の如くに言えるであろう。 註 1 松永貞徳 戴恩記 (続群書類従) 11 そ れ では、 定 家 の 歌 は ど う い う も の だ ろ うか。 ど う い うも の で あ っ て、 ど う い う も の で ない か。 8- -1.

(10) . 中 世 歌 学 の 伝 統. これを要約してみると大体二点をあげることが出来る。 第一 に定家の歌はことばが美しいこと 定家の歌の美しさはことばの上にある。 ことばの一つ一つが吟味されて、 やさ しく艶なる上に、 歌全体としてのことばの続け柄がまた美 しい。 それは定家独特の特殊な個性的な美であってもとよ り人のまねぶべき風情ではない。 それは妖しい美 しさであって寝覚めなどに思起 すと気も狂わんば か り のも の で あ るd こ の 独特 な 妖 しい美 し さ が こ と ば の 上 に 限 っ て あ ら わ れ て 来 る の で あ る。 定 家. の歌に於ては一つ一つのことばが美 しいと共にことばのつづけ柄がまた美 しい。 定家は自らことばは古きを尚び、 ことばは三代集を出づべからずと制限し、 定家より以前7 ,80年 1 以来の近代のこと ばを決して使用 しなかった。 一つのことばさえ雅言を用い新しいことばは用 い なかった。 次にことばのつづけ柄を非常に重んじて、 一つ一つのことばにも或は幽玄の詞或は鬼粒の詞など の性質の違ひがあり、 また強き詞と弱き詞との違ひもあり、 色々の趣があるから、 一つ一つの詞の 組合せに心しなければいけない。 例えば幽玄の詞と鬼粒の詞とは調和せず、 また強き詞と弱き詞と では調和しない様に、 その詞とこの詞とでは調和しないことがあるから、 すべて一様の同 じ性質の 2 そ して全体としては詞のつづけ柄の上に定家 詞を使って全体の調和を計るべきことを主張した。 独特 の妖しい美しさがあらわれて来る。 その美は詞の綾なす間にひそむのである。 すなわち定家がことばの上にあらわした美しさは一つ一つの雅言のもつ雅やかな美 しさとそれら の雅言のつづけ柄の上に生ずる綜合的な美しさとであり、 それらは併せて一つのものであ り、 一様 のものである。 それが定家の独特の美しさであり、 定家の美感である。 この雅やかな古典美とは、 云い かえれば定家が連想を以てゆわえつける懐古的情緒である。 ここ に彼の独特な妖しい美しさの 本源がある。 定家がこの様にことばを駆使する歌人であることは彼の理性的な性格によるものである。 定家が 理性的ではあるけれ ども芸術的ではない、 芸術的ではあるけれども宗教的ではないところの性格に よるのであり、 これが定家の歌風の根本的な一つの特徴となっている。 第二に定家の歌には心がないこと 定家の歌の特徴をなす もう一つの点は、 定家が心あることを理想とし有心体を主張 したのにもか かわらず実際において定家は反対に専らことばに巧みな歌人であった。 後鳥羽院口伝がこの点を衝 いて. 惣 じて彼脚が歌の姿殊勝のものなれども人のまねぷべき風情にはあらず。 心有様なるをば庶幾 せずただことばすがたのえんにやさしきを本体とせる間、 その骨 すく れざらむ初心の者まねば ば正 体 な きこ と に な り ぬ べ し。 定 家は 生 得 の 上 手 に て こ そ、 心 な に と な け れ ども う つ く しく は. いひつづけたれば殊勝のものにてこそはあれ。 と評 して い る。 定 家 は 実 際 に は 斯く あ る の で あ る。 あ る こ と と ある べ き こ と と は ま た 別 で、 定 家 は. 斯くあるからこそ斯くあらざるべきことを望み、 歌には心のあるべきことを主張した。 定家のいわ ゆる有心とは彼の現実の歌風そのままでなく、 歌風に欠けたものなのである。 有心は定家の歌風の あるところの現実の姿でなく、 あるべきところの理想の姿であった。 それ故にこそ俊成西行らは詞 の歌人でもあり心の歌人であったが、 定家は詞の歌人 であったけれども心の歌人ではなかった。 定 家の秀歌といって余り人の口に上るものはないが俊成西行の秀歌といって人のロに上るもの数知れ ずといわれる所以は、 定家の歌が余りに特殊な美を有するばかりで万人の胸を打つものが少いとい う意味である。 心とは何であろうか。 心とは万人の胸にある奥深いもの、 人間における普遍的 本 、 体的、 宗教的な 感1鼠 一種の神力である。 この心を欠いた定家の歌には定家と同じ趣味性格気分の - 19 一.

(11) . 高. 野. 忠. 興. 一群の人 々を満足させるだけの特殊な美 しさはあっても、 万人の心情をゆりうごかす力が欠けてい る。 これが彼の歌の根本的なもう一つの特 徴である。 このことを覚った定家は、 自らの現実の姿をはなれ有心体に就こうとした。 定家自身も特殊な美 だけではあきたりなかった。 後鳥羽院も俊成を庶幾して、 定家の歌風にはあきたりなかった。 ある 3 俊成が定家にまさるとは、 云いかえれば俊成が心の ものは定家をば俊成に劣ると断言している。 ふかい歌人であった ということである。 註 1 近代秀歌、 毎月抄、 詠歌大概 2 毎月抄 3 戴恩記 12. 詞の美 しさ、 表現の美、 全体の調和などは確かに極めて美しいものであるが、 それだけで歌のす べてがつくされるなら、 歌は狂言縮語のたわむれ、 ことばを飾る技能にすぎなくなる。 それならば 作歌の技術も二千年の間に技術の体系を作り上げて既に早く完結をみせていたかも知れない。 連想 の美もなるほど芸術である。 香合せも料理術も料紙も書も芸術である。 それらは山や海 やいろいろ のものを祐御させる。 しかし俊成慈円らが云い出 した様に更に深い芸術もある。 これらの皮相な無 機的表現でなく深い有機的表現があり得る。 和歌の表現 上の形式主義は和歌を全くのつくりものに し死ん だものにする だけである。 真に健康な歌よみの歌は万人の胸を打 つと共に少数の有能な人を 動かすところの広く深い普遍的なもの--こころ--を具有する。 これを欠いた歌をよむ様な歌人 は歌つくりであって歌よみとも云えない。 俊成は歌よみであり定家は正に歌作りであった。 俊成の 歌に対 しては皮相の美を求める人も満足 し、 更に深く心を求める人も満足する。 しかし定家の歌に 対しては深く 心を求める人は失望しなければならない。 井蛙抄の伝うるところでは定家自ら述 懐し 」 と云っ 「亡父等こそうるはしき歌ょみの歌にて候へ。 定家らは知恵の力をもてつくる歌作り也。 た。 定家は確かに知恵の力に長けた理性的な人で、 歌をよむのに概念を弄ぶ 風があり、 智巧的美に 捉われ深き心情の美をうたい出すに至らなかった。 歌の家の代表者として政治的、 社会的、 教育的 に活 動 して居れば、 純粋に作歌に没頭する暇なく、 機械的に歌を作 らねばならぬ事情も多かったで ′. あ ろ う。 -. しかし叉一方からいえば定家をして名を挙げさせたわけもここにある。 歌人として俊成に及ばぬ ながらしかも俊成を凌ぐ名声を博した所以がここにある。 定家は内に沈み、 内にとゞまることが出 来ずタ トヘひろがったのである。 内に沈んだ俊成の想像したり空想する楽しみを多く味は ったのに反 し外にひろがった定家は ものを生み育てるために惨憤として苦しんだ。 なぜ空想する快さに満足し ないか。 当時の社会的環境もあり定家自身の性格もある。 俊成の世代よりも定家の世代は一層 和歌 が世に行われた。 俊成はむしろおだやかな静的な調和的な人であったが、 定家は動的な追求的な人 であった。 俊成は完結的な円満な性格、 定家は未完結的・不完結的な気性の強い人であった。 定家 らくことに人生の意義をみとめた。 判者、 師匠等の実際的な社会的活動を大いにや は実に仕事を働, り、 歌人としても力作をのこし、 また諸種の古典研究、 仮名遣の規範までもつくった。 彼は大いに 働いた。 彼の日記 「明月記」 をみると実に苦心して働いている。 かくしてのこされた多くの仕事に 対 して社会は名声を以て定家に酬いた。 俊成も働いたけれ ども仕事の性質が模倣的であり、 仕事の 量が比較的に少い。 定家の仕事の性質は革新的であり、 仕事の量も遥かに多い。 俊成の本領はやは り歌よみたろにあり、 定家の本領は作歌以外の社会的活動にあった。 定家の正統はその子為家に継がれた。 、 その他に定家の学統をうけた主な人には源実朝、 藤原家 - 20 -.

(12) . 中 世 歌 学 の 伝 統. 良、 東胤頼がある。 実朝には定家48才の時承元3年に近代秀歌を送っている。 家良は大納言忠良の子、 衣笠と号した。 定家58才の時承久元年7月 2 日家良に毎月抄を送った。 定家79才のとき仁治元年10月 家良は内大臣となり翌2年 4月に罷める。 東家はのちに常緑を出した武家である。 姓は平氏。 歴史によると千葉介常胤の子胤頼が下総国香 取郡東荘に住んでより族を東氏と称 した。 胤頼は定家の門弟で和歌は巧みであったというが、 その 頃より東家は和歌に近づく。 武の家が歌の家となるのである。 子重胤も歌人の名あり、 孫胤行もそ の闇え高く、 為 家の女をめとり 、 為 家より古今伝授を うけた。 .. 一 21 -.

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