• 検索結果がありません。

現代社会とユダヤ性 : フィリップ・ロス『さよならコロンバス』を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "現代社会とユダヤ性 : フィリップ・ロス『さよならコロンバス』を中心に"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

現 代 社 会 と ユ ダ ヤ 性

― フ ィ リ ッ プ ・ ロ ス 『 さ よ な ら コ ロ ン バ ス 』 を 中 心 に

Ⅰ 1959年 に Fさ よ な ら コ ロ ン バ ス 』 (

Go

o

d

b

y

e

,Co

l

u

mb

u

s

)

で華々 し く文壇 に登場 して 以来, フィ リップ ・ロス(PhilipRoth)は常に注 目 をあつめて きた

02

0

代 で出 した処女作で早 くも彼 は,アメ リカ最高の文学賞の一つである全米図書 協会賞(NationalBookAward)や, タロフ賞(the JewishBookCouncil'sDaroffAward)をは じめ, 数 多 くの質 を受けた。 その頃 ようや く脚光 を浴び つつ あった, ソール ・ベ ロー(SaulBellow),バー ナー ド・マ ラマ ッ ド(BernardMalamud)を中心 と す るユ ダヤ 人文学に現 われ た新 しい担 い手 とし て, ロスの名前は, きっそ く二人の後に並べ られ て,ベ ロー -マ ラマ ッ ド-ロス派なるキャッチフ レー ズがつ くられた。だが一方で,彼は一部のユ ダヤ人か ら激 しい非難 を浴びた。彼の作品がユ ダ ヤ人の姿 を正 しく伝 えていないばか りか, いちぢ るしく名誉 を汚す ものだ とい うのが,彼 らのロス 評 であった。また後には

,

「反ユ ダヤ主義者が

1

0

0

年 ものあいだ書 こうとして果せ なか った」(1)小 説 を, ロスはユ ダヤ人であ りなが ら書いた とい う攻 撃 さえ うけている。 批評家の ロス評価 も,同様に大 きな振幅 を見せ ている。ア- ヴイング ・- ウは, ロスが 「いか な るユ ダヤ的伝統 ともつ なが っていない」 と述べ, 彼が好評 を博 したことは 「イデ ィッシュ文化 と移 民経験 の地 下 水脈が とうとう干上 が って しまっ た」(2)ことを示 していると断 じた。最近 では,バー ナー ド・F・ロジャー ズが

,

「芸術家 としての信念 をユダヤ主義(Judaism)にではな く,リア リズムに 置いて」(3)い る作家 としてロスを規定 し,ユダヤ的 伝統 を重視 しない姿勢 を示 している。反対に,-ロル ド・フ ィッシュの ような研究者によれば, ロ

スの作品においては,「自分が捨てきろ うとしてい る伝統か ら くる美徳 をそなえているが故にユダヤ 人が魅力的になっている」 ということになる(4)0 た しかに, ロスの小説において,伝統的な意味 でのユダヤ的主題が稀薄であることは否めない。 ユ ダヤ人ゲ ッ トー での生活は出てこない し,非ユ ダヤ人による差別や, それ との葛藤 も描かれてい ない。 しか し, それだけでただちにロスがユ ダヤ 的な問題意識 を持 たない と断定するのは,やや早 計のそ しりは免れ まい。一方でフィッシュは,ユ ダヤ人の内在的な美徳 とい うことを強調す るが, ユ ダヤ性 と美徳 とを, ロスが無媒介的に結びつけ ているようには思 われない。詳述は次章以下 に譲 るが,む しろロスはそ ういった姿勢 を厳 しく批判 している。 フィ リップ ・ロスは,1933年にニュー ・アー ク に生れたユ ダヤ人三世 である。彼が育 った時代や 環境は,マ ラマ ッ ド等の世代 とは大 きく異ってい た。彼は何 よりもまず,第二次大戦後に育 ったユ ダヤ人である。彼がゲ ッ トー を描かないのは,戟 後それが急速に減少 していったか らであ り,戦後 のユダヤ人の問題 はゲ ッ トーにおけ る問題 ではな く, 中産階級化がユダヤ人に課す問題 であると, ロスは考 えるか らである。彼は, まず第一に現代 に注 目している。彼が対象 とす るのは,時代状況 の変化がユ ダヤ人に与 えた変化であ り, その中で 苦悩す る個 人であるように思われ る。したが って, ロス とユダヤ性 との関係 を論 じるならば,彼が見 るユ ダヤ人,すなわち戦後社会のユダヤ人を無視 す ることは出来ない。 そこで本稿 では

,

「その芸術的 目標がモラルであ り, リア リズムを手法 とし,社会におけ る自我 と い う主題 をもつ」作家 としてロスをとらえる立場 に立 っで 5

)

,

『さよならコロンバ ス』(6)を取 り上げ -

(2)

85-て,彼のユ ダヤ性 との関係か ら検討 してゆ きたい。 この作 品以降 ロスは数 多 くの作 品 を世 に送 ってい るが

,

Fさよな らコロンバ ス』が最 も色濃 く彼のユ ダヤ性 の出てい る作 品であるし,他 の作品は, こ の作 品においての問題意識の延長にある と考 えら れ る。す ぐれて 自覚的に,社会 と個 人が切 り結ぶ 接点に眼 を向けて来たロス を論 じるには,ユ ダヤ 人 をめ ぐる時代状況の変化 を無視す るこ とは出来 ない。 したが って,本稿 では,戦後のユ ダヤ社会 の変化 とその問題点 を素描 し,現代社会 とユ ダヤ 人に対す るロスの立場 を,彼 自身の発言 を検討 し なが ら,明 らかに した上 で,作 品の分析 に入 って ゆ きたい。

1

8

8

1

年 を境 としで 7)急激に増加 した東 ヨー ロッ パか らのユ ダヤ移民は, その 多 くが大都 市部 に集 中 し, ニュー ヨー クの イー ス ト・サ イ ドの ように, ユ ダヤ 人街 を形成 した。 これ らのゲ ッ トー(Ghet to)と呼 ばれ るユ ダヤ 人街 は 多 くが劣悪 な居住環 境 で,20世紀初期 の移民達 は,sweatshopとい う 言葉が示す よ うに,低賃金 と長時間労働 にあえぎ なが ら,生 活 を支 えた。 この頃のゲ ッ トーは,衣 の ような文章 に描 かれてい る。 ゲットーの住宅には三つのタイプがあって,シカゴ の労働者を苦 しめている。まず,狭 くて背の低い一 ・ 二階建ての 「先駆的な」木の小屋で,多分街路が整 備 される以前に建てられたため,道の高 さより数 フィー ト低 くなっている。次に,三 ・四階建ての煉 瓦造 りのアパー トで,光があまり入らず,排水が悪 く,風呂もな く,可能な限 り狭いスペースで可能な 限 り高い家賃 をとるために建てられたものである。 三つめのタイプは,ひどく奥まった所に建てられた アパー トで,正面にはまった く陽があたらず,裏の 汚い露地からはひどい悪臭がただよい,何家族 もが ぎゅうぎゅう詰めにされた住居にもなるが,主人が 労働者の 「汗をしぼる」工場に もなった。狭い道の 狭い舗道にはいたる所ゴミ箱があって,いっぱいに 押 しつめ られたゴミが溢れ出していたく8)0 この ような状態 は

,1

9

3

0

年代 まで,さして改善 さ れ るこ とな く続 いたが,、第二次世 界大戟 を境 に し て,ユ ダヤ人 をめ ぐる状況はガ ラ リと変 った。ア メ リカ経済が大不況 を脱 して戦争に よる好景気 を むか えたこ とか ら,す なわち

3

0

年代の終 りか ら

5

0

年代 中期 にいた る繁栄 の

1

5

年 が大変化 を もた らし」 たため,彼 らは多 くが,労働 者か ら, 中産 階級や上 層階級の職 業へ と移行 して いった(9)。 ま た,ナチス ・ドイツによるユ ダヤ人虐殺が他 の 白 人に与 えた衝撃や罪の意識のため,少 な くとも公 然 とした差別は影 をひそめ るよ うになった。 中産 階級化 したユ ダヤ人達 は,大都市のゲ ッ トーか ら, 郊外の住宅地- と流出 していった。 あるユ ダヤ人 指導者は この時代 をユ ダヤ人の 「黄金時代」 と呼 んだ。反対に, レス リー ・フィー ドラーは (彼 自 身ユ ダヤ人であるが) 多少の皮 肉 を込めて, この 状況 を描 いている。 死よりも決定的な繁栄 というやつが,口うるさい ユダヤ女(yentes)を,煉瓦アパー トのポーチから, リヴイングス トンのビーチ ・クラブや, さらに,忠 い もよ らない郊外へ と移 して しまった。キャン

イ・ス トアの親父や草職人の息子達 を,バクネル 大学やオ-イオ州立大,はては(何 ということだ ./) プ リンス トンにまで行かせた(10)0 生活が豊かにな り,差別が多少減少 した といっ て,今 までの問題 が うま く解決 した とい うわけで はなか った。 む しろ,郊外住宅地に住 むユ ダヤ人 中産階級は,新 たな問題 に直面す るよ うになった。 彼 らは, ア メ リカ式生活かユ ダヤ的生活慣習か, つ ま り同化か民族性かの問題 に直面 した。芝生つ きの家,電化製品, 自家用車に とりまかれた中産 階級の生活様式は,伝統的 なユ ダヤ的生活慣習 と 共通す る ところは一つ もなか った。 しか し, その 生活 を送 るか ぎ り,他 のア メ リカ人 と選ぶ ところ は,少 な くとも表面上 は一つ もない。ユ ダヤ人街 に住 むか ぎ りにおいては,個 人の生 活態度 に関係 な く,地理的 な条件や まわ りの生活環境に よって. いわば外 的 にユ ダヤ 人 を規 定 す る側 面 が あった が,郊外住宅地では非ユ ダヤ人が他数 を占め る以 上,個 人の選択の問題 になって くる.新 しく郊外 住宅地に移 って来たユ ダヤ人は,近所の人達 に対 して, 自分がユ ダヤ人であ るとい うこ とをはっき りさせ るか どうか とい うこ とを, まず決意 しなけ れば ならない。他 の 白人 とほ とん ど何 の変 りもな い生活 をしているため,ユ ダヤ民族の過去 を示す もの を全 て捨 てて しまうと,彼 らは 「最近購入 し た家や, この前の投票以外 に, 自分 を特徴づ け る もの を何 も持 た な」 くな るの では ないか と恐 れ

(3)

た(ll)。そこで彼 らは,熱心に シナ ゴー グにか よい, ユ ダヤの大義 (主 としてイスラエル支援)に大金 を寄 附 し, 子供達 を日曜学校 に行かせ, 異民族結 婚 に反対 を表 明す る。 こうい った姿勢 は,ユ ダヤ 的 人 道主 義

(

J

e

wi

s

hHumani

t

a

r

i

ani

s

m)

と呼 ば れ てい るが

1

2

)

, 表面的に見れば,伝統的 なユダヤ的 生活態度 とさ して変 りはないよ うに思 える。 しか し, 彼 らの そ うした態度は,ユ ダヤ的価値に対す る信 念の表明 とい うよ り,ユ ダヤ民族への帰属意 識 を確認す るための ものなのである。この行動 は, 他者 (郊外住 宅地にあっては非ユダヤ人であ る隣 人た ち) を意 識 した ものであって, 内的 な信 条の 自然 な発露 では もはや ない。 た とえば

,

Fさよな らコロンバ ス』にお さめ られ てい る短篇 「狂信者 イー ライ」 (

"

E

l

i

,t

he Fana

t

i

cー

)

の中で, ナチス ・ドイツの迫害 を生 きの びて ア メ リカに渡 って来たユダヤ人に対 して, ウ ッデ ン トン とい う郊外都市に住むユ ダヤ 人達 は過剰 な 反応 を示す。 ヨー ロッパか ら来 たユ ダヤ人は伝統 を守 って, 厳格 な宗教生活 を送 ろ うとす るが,他 の 自人達 を刺 激す るの を恐れたユ ダヤ人住民は, 弁護士 であ る主人公,イー ライに解決 を依頼す る。 「いいかいイーライ,この町で互いにうまくつ き あっていられるのは,現代のユダヤ人とプロテスタ ン トだか らだ。そこがポイン トなんだ-・-現在はと てもうまくいっている- 人間 としてね。ウッデン トンでは虐殺なんておこらない。そうだろ ? 狂信 者 も気狂い もいないからだO・・,互いに尊敬 しあい, 干渉 しない人達だけだよ。良識が基準なんだ。僕は 良識派だ。穏健派なんだ」(p.201) この言葉 は, ヨー ロッパか らのユダヤ移民,す な わちウッデ ン トンの住民の親達 と, 中産階級化 し たユ ダヤ人二世 ・三世 (ウ ッデ ン トンの住民) と の意識が どれ だけ隔 っているか を, 見事 に描 いて い る。 このため主人公 は深刻 なジレンマに陥 り, 結局 ウッテン トンの住民の浅薄 な態度 に反逆す る こ とになるのだが, 同時に ロスは, ア メ リカのユ ダヤ人が もはや後戻 り出来 ないこ とも認識 してい る。すでに彼 らは,ア メ リカ化 したユ ダヤ人,ユ ダヤ系ア メ リカ人

(

J

e

wi

s

h

A

me

r

i

ca

ns

)

なの であ る(13)。社会状 況の変化や 多様性 を抜 きに して,ユ ダヤ 人の共通 意識 を問題 にす るこ とは, ます ます 不可能にな りつつある。アイザ ック・ドイッチャー がかつて言 ったよ うに

,

「社会 におけ るユ ダヤ人の 地位 を問 うならば,いかなるユ ダヤ人 を頭 にお き, いか なる種類の社会 を考 えているのかが ただ ちに 問 われなければな らない。 それはア メ リカのユ ダ ヤ 人か,ソ連のユ ダヤ人か。イギ リス,フランス, ドイツ, イス ラエル等, そのいずれの国のユ ダヤ 人であ るかが問題」 なのである(14)。 フ ィ リップ ・ ロスは, ア メ リカの, と りわけ現代社会 の,ユダ ヤ人 を問題 にす る作家なのであ る。 ⅠⅠⅠ 時代状況の変化 とともにユ ダヤ人のあ り方 が大 き く変 っているのに,ユ ダヤ人達が新 たな問題 に 立 ち向お うとせ ず, 旧態依然た るユ ダヤ意識 を変 えよ うとしないこ とか ら くる矛盾 を∴ ロスは鋭 く 意識 しているo Fさよな らコロンバ ス』に加 え られ た 「正統派ユ ダヤ教 の根本的価値 を歪曲」(15)して い るとか

,

「反ユ ダヤ主義の火に油 を注 ぐ」(16)もの であるといった非難に反論 して, ロスは 自分 の考 え を明 らかに している。彼 によれば, あ らゆ ると ころで反ユ ダヤ主義に警戒 を強め よ うとい う態度 は,む しろ 「無意識の願望 の表明」 (17)なの である。 彼 らは,ユ ダヤ人 と非ユ ダヤ人,味方 と敵 とを, 裁然 と分 ちたい と願 っている。敵がは っ きりとす れば, 自動的に味方 を定義す る手間がはぶけ るか らである。敵以外 は全て味方であ る以上,ユ ダヤ 人は何 であるか とい うよ うな, 困難 な証 明は必要 でな くな る。 こういった単純 な図式 に固執す るの は, ます ます無意味になってい くばか りか,結局 は反ユ ダヤ主義者のステ レオタイプ を受 け入れ る こ とだ と,彼は断定す る。 それは 「臆病 さの正 当 化」 (18)にす ぎない と彼は批判 してい る。 ロスに よ る と, む しろユ ダヤ人は 「反ユ ダヤ主義者のい う よ うな人間ではない」(19)のであって,現代社会が 複雑 であるほ どユ ダヤ社会 も複雑 なの である。 彼は

,

「信仰 の守護者

」(

"

De

f

e

nde

r o

f t

he

Fai

t

h"

)の主人公,ネイサ ン・マー クス伍長の よ う な人物 に共感 を示 している。マー クスは

,

「ユ ダヤ 人 とは 自分 に とって どんな意味 を もつ のかがはっ き り解 らない」のであるが, それは, 彼が 「知性 を もった,良心的 な」 人物だか らであ る(20)。 その 困牲性 に とまどい,俊巡 しなが らも, 感傷的 な仲 -

(4)

87-間意識 を強要す るグロスバー トに屈す るこ とな く,執勘に自己の意味,ユ ダヤ人の意味 を問い続 け ようとす るマー クスに, ロスが共感す るのは, 現実に 「ユダヤ人 とは, クリスチャン とどう違 う のかがかな らず Lもはっきりしない」(21)ほ ど,ユ ダヤ人 をめ ぐる状況が複雑 多様化 している現在, 必要 なのは,ユ ダヤ人を敵によって定義す る単純 なEg式主義 でな く, いかに困難であろ うと, その 時代 におけ る自己の意味 を問い続け,その中か ら 「今現在 ,この場所にふ さわ しいユダヤ意識」 (22) をつ くり上げ るこ とだ と, ロスは考 えるか らであ る。 現代社会 に対 して も, ロスは同 じように鋭い眼 を向けている。現代小説 を論 じたエ ッセイ

,

「アメ リカ小 説 を書 くこ と」(

Wr

i

t

i

n

g

Ame

r

i

c

a

n

Fi

c

t

i

o

n"

)の冒頭 で,ロスは,シカゴで二人の少女 が誘拐 された事件 を紹介 している。結局は,二人 とも死体 となって発見され るのだが,その過程 で, 被害者 の母親 も容 疑者 もマ ス コ ミの ス ターにな り,母親は大金の寄附 を受 け,容疑者は保釈 され たあ と,歌手にならないか とい う申 し出さえ受け る。事件 を詳 し く説明 したあ とで, ロスは,現代 にあって小説家が直面 している問題 を提示 してい る。 アメリカの現実を理解 して,描写L,そして真実 らしく見せようとすることで,20世紀半ばのアメリ カ作家は,あっぷあっぷ しているということであ る。アメリカの現実は,考える気力を奪い,吐気を 催させ,怒 りに駆 り立てる。それは最後には,我々 のちっぽけな想像力の手にあまって,我々は途方に くれるばか りである。現に起 っている事柄の方がた えず我々の才能を追い越 し,作家がうらやむような 人物 を,現代文化は毎 日,ぼんぼん生み出 し・てい る(23)0 現代小説が落 ち込んでいる苦境は, ロスに した が えば,小説家がみずか ら招 いた ものではな く, 社会が課 しているものなのである。現実が ます ま す 「′ト説 より奇 なる」 ものになってゆ き,′ト説の 手で リアルに把 える道が狭め られていって,作家 を無力感に追 い込んでいる。そ うした状況のため に,作家は社会か らの後退 を余儀 な くされている と, ロスは結論づ け る。 彼は現代小説 を取 り上げて,社会か らの後退 と い う痛理現象が具体的に どの ようにあらわれて るか を検証 しているが,その現象 を彼は主 として 二つのタイプ 24)に整理 している。第-の型は,サ リンジャー(

J

.

D.Sa

l

i

n

ge

r

)

やマ ラマ ッ ドを代表 と す る 「社会か らの解脱」を求め る作家たちである。 サ リンジャーは

,

「この眼の前の世界で生 きるとい う生 き方 を拒否」して

,

「神秘主義 こそが救済への 可能 な道である」と示唆 している(25)。一方マ ラマ ッ ドの描 くユ ダヤ人は,現実のユ ダヤ人ではな く, 「あ る可能性や望 み をあ らわす メ タファ

」に なっている(26)。マ ラマ ッ ドの描 くニュー ヨー クの ユ ダヤ人街は,現実の ロア一 ・イース トサ イ ドで はな く

,

「時空 を越 えた」別世 界である。続けてロ スは

,

「人間であること,人間的であるこ ととは何 なのか とい うことが彼の最 も深い関心事」 であっ て

,

「現代アメ リカのユ ダヤ人につ きまとう不安や ジレンマや堕落には大 して関心 を示 して」いない と述べ ている。 ロスがあげるもう一つのタイプは, ソール ・ベ ローのように,快活な文体 を用い,自我 を肯定 し, 生 を礼賛す る作家である。この快活で,「男性的」(27) な文体 は

,

「作家 と社会の不和」に関係があ り

,

「コ ミュニティーの危機」(28)に原因をもつ ものである。 この文体 で, 自我が 自己の存在 を主張 しているの である。社会の状況が ます ます,嫌悪感や,無力 感 を作家に もたらすために,作家は,唯一の現実 であ り, 自分 に確認出来 るものに眼 を向けようと す る。毎 日の現実に,作家は 「そんなことがあ り う るの か ? ほ ん と うに起 って い る こ とな の か ?」 とい う驚 きを禁 じえない(29)。そこで,作家 は, ただ一つ実在 を実感す るこ とが出来 る自我へ と向わ ざるをえな くなる。 ロスは, 自分 自身 もこ の苦境に直面 しているこ とを意識 しているが,彼 に とって小説 とは,現実社会の中の 「独立 して独 自な一個の人間」を提示す ることであるか ぎり(30), いかに困難であろ うと,作家が主題 として コ ミュ ニテ ィー を取 り扱 うこ とをやめれば,現実 との コ ンタク トを失ない, 自己讃美か,社会か らの艶脱 へ と後退せ ざるをえな くなるとい う危険 を,はっ きり認識す る必要性 を自覚 していた。 これ まで述べてきたことで,一定程度明 らかに なったように,彼は小説 を書 くにあたって「社会」 と 「個人」の どちらをも無視す ることを拒否す る。

(5)

社会 の変化 と ともにユ ダヤ 人の直面す る問題 も 変 っている とい う認識に立 って,ロスは

,

「今現在, このア メ リカにいる」ユダヤ人個人 を問題 にす る。 何 よ りも彼の関心 をひ くのは

,

「社会的存在 として の人間の私的生活 を探求す ること」であると,彼 自身語 ってい る。彼の問題意識の中心にあるのは, 「我 々の世 界 はゆがんでい る。 それなら, この世 界 をゆがめて しまった とい うのは どうい う感 じが す るものだろ うか。 このゆがみは私 をどれほ ど人 間的に, あ るいは非人間的にす るだろ うか」 (31)と い う問いであ る。

こ うしたロスの考 え方 を初めて全面的に展開 し たの

Fさよならコロンバ ス』 であ り,中でも同 名の中篇小説である。 この小説は,貧 しい青年 と 富裕 な家の娘 との恋 とい う,陳腐 な通俗小説を思 わせ る体裁 を とりなが ら,ユ ダヤ人の若者 とその 苦悩が鮮かに描かれている。物語は, ラ トガ-ス 大学のニューアー ク分校 を卒業 して市立図書館に 勤め るニール ・クラグマ ン とい う青年 と,郊外住 宅地に住む会社経営者パテ ィムキンの娘 で, ラ ド クリフ (--バー ド大学の女子部)に通 うブレン タ との交渉 をめ ぐって展開す る。 まず読者の眼をひ くのは,ニールの住む家 (彼 は叔父夫婦の家に住んでいる) と,パティムキン 家のあるシ ョー ト・ヒルズ とい う山の手の住宅地 の対比であ る。ニールの叔父夫婦は,ニューアー ク市街の涼風の吹 き込 まない露地に住んでいる。 叔母のグラデ イスは,一 日中家事に追われていて, ニールに言 わせ ると,彼女 に とって人生は, もの を 「処分」す るこ とである。彼女の一番の楽 しみ は, ゴ ミを捨て, 食料棚 を空に し,ノヾレスチナの ユ ダヤ人のためにポロの包み をこさえるこ とであ る (p.4)。彼女はユ ダヤ人について明確 な定義 を もっていて, ショー ト・ヒルズに住むようなもの は,ユダヤ人 とは言えない。 一方パテ ィムキン家 を特徴づけているのは, ち のの氾濫 である。叔母の家では,次か ら次に もの を処分 してゆかなければな らないのであるが,パ ティムキン家の地下室には, いつ使 うのかわか ら ないような ものが所狭 しと並べ られ,冷蔵庫の中 には果物が-ばいに詰 っている。主人のパティム キンは,「一生懸命働けば,それだけの ことはある

とい う哲学の持主で,ニューアー クの街 中に流 し 台の会社 を持 っている。娘のバ スケ ッ トごっこの 相手 をしてや り,息子の結婚に心 を くだ くといっ た,一言でいえば,典型的な中産階級の良 き父親 像 を体現 している存在である。 ニューアー クとショー ト・ヒルズの差 を, もっ とも意識 しているのは,ニール 自身である。は じ めてブ レンタに会いに行 く時,車 を高 台の方-進 なが ら彼が見 る光景は,同時に彼の意識 をも適確 に描 いている。

Itwas,infact,asthoughthehundredandeighty feetthatthe suburbsrose in altitude above Newarkbroughtoneclosertoheaven,forthesun itselfbecamebigger,lower,androunder,andI wasdrivingpastlonglawnswhichseemedtobe twirlingwateronthemselves,andpasthouses wherenoonesatonstoops,wherelightswereon butnowindowsopen,forthoseinside,refusingto sharetheverytextureoflifewiththoseofus outside,regulatedwithadialtheamountsof moisturethatwereallowedaccesstotheirskin.

(p.6) 彼が意識 しているのは, シ ョー ト・ヒルズにおけ る生活の快適 さであ り,そこに自分 が属 していな い とい う疎外感である。それに較べて,ニューアー クの生活はいかに もみ じめ な もの として描かれて いる。

IthoughtofmyAuntGladysandUncleMax sharingaMoundsbarinthecinderydarknessof theiralley,onbeachchairs,eachcoolbreeze sweettothem as仇epromiseofafterlife.(p.6)

高台では人 もいないのにポーチの灯 りがついて いるが,ニューアー クの露地では真暗闇の中で叔 父夫婦がチ ョコレー トをか じっている姿は, とり もなお きず,歴史的な二つの段階におけ るユダヤ 人を対照的にあらわ している。一方 は,郊外- と 流出 していった中産階級のユダヤ人であ り, もう 一方は,ゲ ッ トーに住む労働者のユダヤ人である。 この二つの家が,単に並列的に対比 されているだ けでな く,歴史的なパースペ クテイヴの中におか れていることは,次の ような文章に よって も明 ら かになる。 - 89

(6)

-Theneighborhoodhadchanged:theoldJewslike mygrandparentshadstruggledanddied,and theiroffspringhadstmggledandprospered,and movedfurtherandfurtherwest,towardstheedge ofNewark,thenoutofit,anduptheslopeofthe OrangeMountains,untiltheyhadreachedthe crestandstarteddowntheotherside,pourlng intoGentilete汀itory astheScotch・Irish had pouredthroughtheCumberlandGap.(p.64)

これ は, ニール が ニューアー ク市 街 に あ るパ テ ィムキンの会社 を訪 れ る個所か ら とった もので あ る。かつてユ ダヤ人街 であった所 は,今 では黒 人街 になってい る。"mygrandparentsーとい う言 葉があ るこ とか ら,ニールは 自分 もその過程 の中 に含めているこ とは確かである。したが って,ニー ル 自身, 自分 が 中産階級への流れの中にいて,漢 然 とそれ を望 んでいるこ とを意識 している。 とす る と,ニールは快適 な中流の生活 にあこが れて, ブ レンタ を通 してそれ を手に入れ ようとす る野心 にあふれた青年 なのだ ろ うか。ニールには もう一つの側面があ る。 いた るところで,ニール はパ ティムキン家の生 活様式に対 して,皮 肉な眼 を向け る。 た とえば,初めてパ ティムキン家 に招 かれて,家族 とともに食事 をす る場面 に, その代 表例が見 られ る。

Mrs.P∴Wheredoyoulive,Bill? Brenda:Neil.

Mrs.P.:Didn'tIsayNeil?

Julie:Yousaid"Wheredoyoulive,Bill?" Mrs.P∴Imusthavebeenthinkingofsomething else.

Ron:Ihatetape.HowthehellcanIplayintap♂ Julie:Don'tcurse.

Mrs.P.:That'sright.

Mr.P.:WhatisMantlebattingnow? Julie:Threetwenty-eight. Ron:Threetwenty-five. Julie:Eight!(p.16) まるで芝居の脚本の ような書 き方 であ るが, そ のため一層,ニールの皮 肉なまなざ しを浮 き上 ら せ る効果 をだ している。 また, この会話 には, ど こか不条理演劇 に似 た ところがある。 た とえば, ウジェ- ヌ ・イ ヨネス コの F禿の女歌手』の冒頭 での, ス ミス夫妻の会話 と驚 ろ くほ どの類似点 を 持 ってい る。 ス ミス夫妻 の場合 も食事時に,死亡 記事 に出ていた友人のポ ピー ・ワ トソンにつ いて 話 をす る。 ス ミス夫人 :でも,子供たちはだれが面倒みるのか しら ? ご存知でしょう,男の子が一人に女子が 一人いるの。名前はなんていったか しら。 ス ミス氏 :ボビーにボビー,両親 と同 じさ。ボビー・ ワ トソンのお じさん,つ まりボビー ・ワ トソンじ いさんは金持だし,子供好きだ。喜んでボビーの 教育 を引き受けるよ。 ス ミス夫人 :そ りゃそうね.それにボビーワ トソン のおば さん。つ まりボ ビー ・ワ トソンばあさん だって喜んでボビー ・ワ トソン,つまりボビー ・ ワ トソンの娘の教育を引 き受けるでしょう。こう なれば,ボビーワ トソンのおかあさん,つまりボ ビーだって再婚できるわけ。だれかお目あてのひ と,いるのか しら? ス ミス氏 :いるとも。ボビー・ワ トソンのいとこだ。 ス ミス夫人 :だあれ ? ボビー ・ワ トソンのこと? ス ミス氏 :どのボビー ・ワ トソン ?(32) イ ヨネス コは,戯画性 を強 くうち出すために, 誇張 を極度 に までお しす すめているが, どちらの 場合 に も共通 しているの は,一つの話題が展開 し てゆ くとい う対話 の形 を な して い ない こ とで あ る。 ロスにおいては,問 いに答が出 る間 もな く話 題が ボンボン と跳んでい く。 イ ヨネス コの場合 に は,同 じ場所 で言葉が どう どう巡 りを繰 り返 して, どこへ も進 まない。生れ る効果は,両作品 とも, 会話の無 内容 さ,空虚 さの強調 である。 彼の上昇志 向 と, 中流の生 活に対す る冷め た眼 との矛盾 は, あ こがれ と皮 肉 との矛盾 は,何 を原 因 とす るのだろ うか。それ を検討す る前 に, まず ニールの位置につ いて考 えてみたい。大学 を出て 間 もないニールは, いちお う漠然 とした可能性 を は らむ未来へ の入 口に立 っている。図書館 に定職 を得 ていて,上役 か ら昇給 を約 束 されてい るのだ が,仕事 を続け るか どうか は, 自分 で もわか らな い。彼 は将来 を選択す るべ き地点にさ しかか って いる。一方,この小説の中で,ニールだけが シ ョー ト・ヒルズ とニ ューアー クの間 を行 き来す る人物 である。彼は,一方に現在 のユダヤ人 を眺め,一 方に消 え行 きつつあるユ ダヤ人 を見 る。彼 は現在 と過去のユ ダヤ人の中間 にいる。以上二つの点 に ついて, ニールはちょうど中間地点に立 っている

(7)

のである。 それなら,彼は どちらか一方に帰属 している と いえるのだ ろ うか。 シ ョー ト・ヒルズの生活に彼 が属 していないことは明 らかである ("thoseofus outside"とい う言葉 を思 い出 していただ きたい)0 一方,ニュー アー クの生活につ いてはどうであろ うか。 もちろん彼が育 ったのは,そこ以外の何処 で もない。 しか し, ここで注 目をひ くのは,彼の 住む家が,叔 父夫婦の家である とい う事実である。 彼の両親は転地療養のために,遠 くア リゾナに移 住 していて,ほ とん ど彼の念豆削こ浮ぶ ことはない。 た とえば,次のような文章か らは,親子間に見 ら れ る感情的 な関係は うかが えない。

LifewasathrowingoffforpoorAuntGladys,her greatest joys were taking out the garage, emptying herpantry,and making threadbare bundlesforwhatshestillreferredtoasthePoor JewsinPalestine.(p.4) ここに見 られる感情 は憐 みであろ うが,それ も か な り突 き離 したシニカルな眼 を裏に感 じさせ る もの である。彼が思い描 く,露地の闇に して も, 彼の帰属感 をにおわせ るものではない。 ニールが どちらの世界に も属 していない とい う こ とを示す もう一つの例 は,彼 の 自信の欠如であ る。グラデ ィス叔母の言 う=SincewhendoJewish peopleliveinShortHills?Theycouldn'tbereal Jewsbelieveme." (p.41)に見 られ るような明快

な自己定義 と自信は,ニールにはない。 また,パ ティム キン夫 人が 当然の こ との よ うに,"-are youorthodoxorconseⅣative?" (p.62)と尋ねる

と, 口ごもりなが ら"Ⅰ'm justJewish.ー と答 える こ としか出来 ない。彼は, どち らの世界に も帰属 しないため に,確 固 とした立脚点 をも持 たない。 彼の不満がい らだちや皮肉以上 の明確 な形 を結ば ないのは, そのためである。 ブ レンタ と一緒にプールで泳 いでいる時,ニー ル は, 自分 が水 に潜 ってい る間 に彼女 が い な く なって しまうのではないか とい う恐怖が突然彼 を 襲 う。

IwantedtogetbacktoBrenda,forIworried onceagain- andtherewasnoevidence,was there?- thatifIstayedawaytoolongshe wouldnotbetherewhenIretumed.Iwishedthat

Ihadca汀iedherglassesawaywithme,soshe wouldhavetowaitformetoleadherbackhome. Iwashavingcrazythoughts,Iknew,andyetthey didnotseem uncalledforinthedarknessand strangenessofthatplace.(p.38) 彼の感 じる恐怖は,彼 自身に対す る不安 の表現 である。 自分が何 を信 じるか, これか らどうい う 人生 を歩むのか とい うことに,確信が持てないた めに,ニールは, 自分の眼で確め るこ とができ, 手で触れ ることのできるプ レンタに とりすがろ う とす る。彼女が消 えて しまえば,彼は文字 どお り 暗闇の中に一人 とり残 され るのである。 あてこす りを言い,強が りを言 うが,受動的なのはブレン タで はな く,ニールなのである。 この ように帰属意識の喪失は,彼 を不安へ と駆 り立て る。彼が求めているのは,不安か らの逃亡 であ り,自分 を安定 と自信 に導 く帰属意識である。 彼 はその夢 を, ショー ト・ヒルズ とブ レンタに見 る。その点で大 きな示唆 を与 えるのが,図書館に 通 う黒人少年 とニールの交渉である。 この少年は 毎 日ゴー ギャンの画集 (少年 はMr. Go-again's bookと呼ぶ)を眺めにや って来 る。ゴーギャンの 画集 を写真 と感違いしている(少年はゴー ギャンを =agoodpicturetakerーと感心す る)少年に彼は共 感 をおぼ え,便宜 をはかってや る。少年が絵 を写 真 と間違 うのは,作者の意図によるものに違 いな い。常識的に考 えれば,い くら教養が ない とはい え, ゴー ギャンの絵画 を写真 と見間違 うこ となぞ あ りえない。真実 らしさを危険にさらして まで少 年 にこの言葉 を便 わせ たのは,少年の夢 (願望) が現実 を規定 していることを示 したか ったか らに 違 いない。かつてはユダヤ人街 だったスラムに住 みなが ら, どこにあるか も知 らない ("Thatain't noplaceyoucouldgo,isit?LikeaTee-sort?" (p.26)と少年は聞 く)タヒチ とい う島に行 けば,裸 婦が楽園の中にたわむれていると,少年は信 じて い る。彼の願望 は,次の言葉に明示 されている。 HWhereisthesepictures?Thesepictures,man, theysuredoeslookcool.Theyain'tnoyellingor shoutinghere,youcouldjustseeit." (p.26) 言 うまで もな く"yelling"や"shoutingーは,彼 の現実,黒人街の喧嘩であ り,"cool"はニューアー クの暑い夏の対極にある。この少年に とって,ゴー

(8)

91-ギャンの 「写真」が,夢の実在 を示す地図帖 なの である。この黒人少年 にニールが共感 を示 すのは, 少年 の夢が,彼 自身の夢で もあ るか らである。彼 が その少年 と一緒に船 に乗 って タヒチに行 く夢 を 見 るこ とに も, それはあ らわれている。

・・・thedreamhadunsettledme:ithadtakenplace onaship,anoldsailingshiplikethoseyouseein piratemovies.Withmeontheshipwasthelittle coloredkidfrom thelibrary-Iwasthecaptain andhemymate,andweweretheonlycrew members.Forawhileitwasapleasantdream; wewereanchoredintheharborofanislandin thepacificanditwasverysunny.Uponthebeach therewerebeautifulbareskinnedNegresses,and none ofthem moved;butsuddenly we were movlng,OurShip,outoftheharbor,andNegres -sesmovedslowlydowntotheshoreandbeganto throw leisatusandsay"Goodbye,Columbus -goodbye,Columbus- goodbye- " andthough wedidnotwanttogo,thelittleboyandI,the boatwasmovingandtherewasnothingwecould doabout,- (p.53) ニール もまた 自分 の タ ヒチ を夢 み て い るこ と を,彼 もまた夢か ら現実 を見て いるこ とを, この 文章 は示 している。ブ レンタが彼の裸婦 であ り, シ ョー ト ・ヒル ズが彼の タヒチ なの で為 る.彼は 不安か ら帰属意識- と逃 げ込み たいため に,現実 を見 よ うとす る声 を無視 して, ブ レンタの肉体 に 投入す るこ とで,夢 を現実の ものに しよ うとす る。 ニールに とっての シ ョー ト・ヒルズは, タヒチ よ りもず っ と近 くにあるだけ,現実に近 い。そのた め,パ ティムキン家の俗物的 な面 を見 なが らも, ブ レンタを実物大以上 に大 きく見 ることで,夢以 外の ものに眼 を向けないよ うにす るのである。そ うしない と,船 は岸 を敗れ,暗問の中で眼 をきま す こ とになるか らである。 先 に述べ たニールの内部にあ る矛盾 とは, これ までで一定明 らかになった ように,願望 と,現実 に向か う眼 との相 克なのである。現在 と過去の ど ち らの世界に も帰属 しないニールの,不安か らの 脱出の願望,安 定 を求め る声が,ニールに,シ ョー ト・ヒルズ とブ レンデを求め させ る。一方,不安 の中に身 を置 きなが らも,現実か ら眼 をそむけな いよ うに しよ うとい う声が,絶 えずニー ルの奥底 にあって,彼の行動 に 「ノ

」 を叫 び,皮 肉な視 線 を生み出す。 ロジャー ズは, この矛盾 を

,「

F恐 ろ しい

.

I

j と言 って非稚す るモ ラ リス ト」と

F欲 しいんだ ./3 と叫ぶ 肉欲に燃 えた男」(33)との葛藤 と呼んでい るが,解釈が幾分 フ ロイ ト的す ぎるよ うである。む しろ, ゆがんだ現実の前 で二者択一 を迫 られている若者の苦悩 とい う側面か ら把 える べ きであろ う。 ロジャー ズの説か らはユ ダヤ人の 歴史 とい う枠組が欠落 しているよ うに思われ る。 その視点か ら見た方が,避妊具 の問題 もよ く理解 出来 る。 ニールが,プ レンタに避妊具 をつけ るよ う求め るのは,彼 自身の中で矛盾の解決がつかないか ら である。 だか ら, この行為 は決断 とい うよ りも, む しろ決断の欠如 なのであ る。 そのために,彼は ブ レンタに決断 を強い る。 「現実に向 く眼」を抑 え きれ ないために,ニールは 自分 の退路 を閉 じて, 後戻 りの出来 ない立場 に 自分 を追 い込 も うとす る。ブ レンタは,それ を唄 ぎとって,HIt'ss ocon-sciousathingtodo." と言 って尻込みす る。 も ちろんブ レンタは, それほ どの責任 に耐 えるこ と はで きず,避妊具が親 に見つか って,ニール と別 れ ろ とい う手紙が来 る と,彼女 はす ぐに親の もと -返 る。ニールの夢は,本 を取 り上 げ られた黒人 少年 の よ うに,破れ るこ とにな る。

Nosenseca汀yingdreamsofTahitiinyourhead, ifyoucan'taffordthefare.(p.86)

この言葉 は, その ままニールに もあては まるの だが,一体 どうい う意味だろ うか。 その答は,す でに これ までの議論の中で明 らかに されていると 思 う。 この文章 はニール の 内部 の矛盾 の こ とを 言 っているのだ。夢 を見 なが らもニールは

,

「運賃 を払 えない」,す なわち,現実 を見 よ うとす る眼 を 殺 して, 中産階級の生活に浸 って しまうこ とが出 来 ないのである。 た とえば, ブ レンタの兄の ロン みたいに,親のあ とをつ いで昇 身-の道 に清足 し 切 るこ とが出来 るな ら,夢 を見続け るこ とは出来 よ う。 しか しニールにはそれだけの 「代価」は払 えないのである。 別雛のあ とでニールは 自分 に問いかけ る。 Whatwasitinsidemethathadtunedpursuit andclutchingintolove,andthentuneditinside outagain?Whatwasitthathadtunedwiming intolosing,andlosing-whoknows-intowinn一

(9)

ing?(p.97) ただ一つ はっき りしていることは,結婚によっ て問題が解 決 され るわけではないことである。だ か ら,結婚 はwinningにつ なが るか どうか疑問で ある。何故 な ら,結婚 してプールつ きの家に住ん ところで,彼の中の矛盾は解決す るわけではない か らである。現実 との直面 を避け られた として も, 第二のパ テ ィムキンが出来上 るにす ぎない。だ と すれば,この結末がwinningでない と誰にわか ろ う(Hwhoknows" )? この局面 におけ るニールは,マー クス伍長 と同 じ地点に立 っていると言えよう。「彼にはユダヤ人 とは どうい うものであるのか, 自分 に とってどん な意味 をもつのかがはっきり解 らない。 それは, 彼が知性 をもった良心的な人間だか らである」 と い うロスの言葉は,ニールの本質 をもあらわ して い る。ただ一つ違 うのは,マー クスが思 い悩みな が らも執物 に 自分 の意味 を問 うのに対 して,ニー ルには, この唆味な薄暗が りに とどまって,不安 と対時す るこ とが,耐 えがたか った とい うことで ある。 自己分裂か ら逃れるために,手近 にある二 つの世界の うちで,一層魅力的に見える方 を盲 目 的に追い求め ようとした。そこにニールの悲劇が あったのである。 ロスが「さよならコロンバス」の中で描 きたか っ たのは, 中産階級化 という歴史的過程の中におか れた若者の抱 く苦悩 である。そ して,彼 を苦悩 に 駆 り立ててい るのは,表面上確かに豊かな生活 を 楽 しむこ とができるようになったが,それが内包 す る問題 に取 り組むこ とな く,「ユ ダヤ的人道主 義」に帰属意識の保証 を求め ようとす る現代ユダ ヤ人の問題性 である。 これか らニールが この苦悩 をどう乗 り越 えて行 くのかは, もちろん解 らない が,彼が新 たな地平 に立 って生 きていこ うとす る だ ろうことは,最後の文章か ら窺 える。

Ididnotlookverymuchlonger,buttookatrain thatgotmeintoNewarkjustasthesunwas risingonthefirstdayoftheJewishNewYear.I wasbackinplentyoftimeforwork.(p.97)

ユダヤの新年, ロシュ ・- シャナ(RoshHas ha-nah)は,ユ ダヤ伝承 によると世界の生れた 日であ る(34)。ロスが結末にこの 日をもって来たのは,ニー ルの生 れ変 り,新 しい生 き方へ の決意 を示 した か ったか らではないだろうか。

これ まで見て きたように, ロスは,貧 しい青年 と金持 ちの娘の恋 とい う陳腐 とも思 え る題 材 を 使 って,現代のユダヤ青年の苦悩 を鮮 かに描 いて みせ た。 ロスがこ うい う手法 をとったのは, ニー ルの苦悩 を歴史的なペースペ クテイヴの中に置こ うとしたか らであろう。 フィー ドラーは, この作 品に描かれている世界が,出版当時す でに現実に は存在 しない もので, ロスの記憶や聞いた話 をも とに して過去のニューア∵ クを再構成 しているの ではないか と述べ ているが

3

5

)

, もしそ うだ とすれ ば,すでに過 ぎ去 った世界を持 ち出 して きたのは, ユ ダヤ人の変化 とそれが内包す る問題 を歴史的過 程 の中で把 えるこ とによって,現在 に集約 されて い る矛盾 を浮 き彫 りに したかったか らではない か。

最後に,Goodbye,Columbusとい う題名の意味 に触れてお きたい。 コロンバ ス とは, オ-イオ州 立大学のある町の名 であるが,直接的には,その 大学の卒業生 であるロンが,毎晩聴 いている卒業 記念 レコー ドに出て くる別れの言葉 である。 ロン は,妹 と同 じよ うに,過去のユダヤ人のイメー ジ か らは想像 もつか ないほ ど這 しい身体 をしてお り,大学時代 はフ ッ トボールの選手で, その後 も 少年バスケ ッ トの コーチ をしているが,結婚が決 まると,父親の会社 に入 り,パ ティムキン二世の 道 を歩 き始め る。彼 は現在の生活に満足 しきって, 何 の 疑 問 も抱 か な い 人物 で あ る。彼 に とって =Goodbye,Columbusーとい う言葉は,気億 な学生 生活に対す る感傷的 なノスタル ジア をあらわす。 しか し,ニールに とって (そ してロスに とって) この言葉 は もう少 し痛切 な意味 を持 つ。Colu m-busには,町の名の他に,ア メ リカを発見 した コロ ンブスの意味 もある(36)。 コロンブスは,空想の東 洋 をめ ざして西にむかい,現実のアメ リカを見出 した。同 じように,黒人少年はタヒチ を,ニール はブ レンタを夢みた。ニールの発見 した ものは, コロンブス と同 じように,現実であった。彼の惜 別の情は,幻想にすが りつか ざるをえなか った自 分 の青春に,痛みを込めて送 られているのである。 - 9

(10)

3-小 説作 家 と して の 出 発 点 に立 った ロ ス に とって ち, この言葉 は見果 てぬ夢- の訣別 と, 現実 をあ くまで見据 え よ うとす る リア リス トとしての決 意 を意味 して い る と思 われ る。 先 に も述べ た よ うに, ロスは,伝 統 的 な題 材 を 意 図的 に避 け た とい え る。 ユ ダヤ 的伝統 か ら切 り 艶 され てい る とす る批 判 もそ こか ら来 て い る。 だ が,時代状 況 の変化 と ともにユ ダヤ社 会 も変 わ っ てゆ き, ユ ダヤ性 その ものが古 い枠組 の 中では肥 え切 れ な くな って い るこ とを,ロスは見逃 さない。 ニー ル の内部 矛盾 と苦 悩 は, 現代 のユ ダヤ系 ア メ リカ人が前 に して い る問題 , ユ ダヤ性 の再 定義 の 必要性 を, 鋭 く問 いか け て い る。新 しい時代 状 況 の 中でユ ダヤ性 を問 い なお して い こ うとす るロス の姿勢 は, 次 の よ うな文章 に如実 に あ らわれ て い る。 ユダヤ人は,反ユダヤ主義者のい うような人間では ない。か つ て は, そ こか ら 自分 の ア イデ ンティ ティー を築 くことも出来たろ う。だが現在ではそん なに うま くいかない。なぜ なら,ユ ダヤ人 とはこん なふ うに行動す る ものだ と規定す る人が ます ます 少な くなっている時に,規定 されたユダヤ人像 にさ か らって行動す るこ とは困杜だか らだ。わが国 で は,ユダヤ人の人格に対す る中傷 との闘いが成功 し てきただけに,中傷 も過去に何処か よその国であっ たの とは形 を変えているのだか ら,いま現在 この国 にふ さわ しいユ ダヤ意識が ます ます必要 になって きているのだ(37)o この再 定義 に向 って, ロスは,現代 ア メ リカ社 会 におけ るユ ダヤ 人に 固有 な問題 を, ユ ダヤ 人達 が 隠 してお きたい と思 うもの も含 め て,容 赦 な く 狙上 に乗せ ,切 り開 き, 吟 味す る。保 守 的 なユ ダ ヤ 人の怒 りを買 うの は この ため であ るが, その妥 協 を許 さぬ モ ラ リス トの態度 には, 明 らか にユ ダ ヤ 人の刻 印が深 く刻 み こ まれて い る と考 え るの は 筆 者一 人 では あ る まい。 く註 〉 (1) この言葉は Harold Fisch,TheLhalIm噂eIA study of theJew z'nEnglishLiEeraiure(London: worldJewishLibrary,1971),p,126に引用されてい

る。

(2)IrvingHowe,lVorklofOZtrFatJlerS(NewYork: Bantam Books,1980),pp.591・2.

(3)Bernard F.Rogers,Jr.,Philiz,Rolh (Boston: TwayePublishers,1978),p.9.

(4) Fisch,p.127.

(5)Rogers,p.9.

(6)テキス トは,PhilipRoth,Good砂e,Columbus( Lon-don:CorgiB〇oks,1978)を使用した。引用ページ数は, 本文中にか ソコをして附してある。

(7)この年にロシアの皇帝アレクサンドル二世が暗殺さ れ それ以降急激にユダヤ人迫害が増加 した。Howe, pp.2・5.

(8) LouisWirth,TheGhetto(Chicago:Universityof ChicagoPress,1928),p.199.

(9)Howe,p.606.

(10)LeslieA.Fiedler,HTheImageofNewarkandthe IndignitiesofLove:NotesonPhilipRoth,-inTo theGentiles(New York:SteinandDay,1972),p. 120.

(ll) Howe,p.610. (12)Ibid.,p.613.

(13)普通アメリカのユダヤ人をJewishAmericansと呼 ぶことは少ない。たとえばアメリカのユダヤ社会を研 究 したMarshalSklareの著書は,America's Jews (NewYork:Random House,1971)という題名である が,同じシリーズの他の少数民族を扱った研究書の題 名は,Ital血nAmerz'cans,Jaz)aneseAmen'cansという 具合である。

(14) Ⅰ,ドイッチャー著,鈴木一郎訳r非ユダヤ的ユダヤ 人」岩波新告,56頁。

(15)PhilipRoth,"WritingaboutJews/ inReading MysefandOlhen (London:CorgiBooks,1977),p. 135. (16) Ibid.,p.136. (17) Ibid.,p.149. (18)Ibid.,p.150. (19) Ibid.,p.150. CZO) Ibid.,p.144. 01) Ibid.,p.150. 位2)Ibidリp.150. C23) Ibid.,p.110. C24) もう一つのタイプとしてロスは NormanMailerを 掲げているが,メイラーはノン ・フィクションに活路 を開いていて,小説そのものからの後退といえるので, ここでは扱わない。Ibidリpp.112-4. 的 Ibid.,pp.115-6. 位6) Ibid.,p.116. 07) Ibid.,p.117. 位母 Ibid.,p.123. 09) Ibid.,p.110. 伽) Ibidリp.119.

(11)

ヴューでの発言である。Rogers,p.18.

02)ウジェ- ヌ・イ ヨネス コ著,諏訪正訳「充の女歌手」, 日仏演劇協全編 r今 日のフランス演劇Il 白水社,12

頁。

83) Rogers,p.35.

84) Benlsaacson,"RoshHashanah,ー Dictiona7yOf

theJewishReligion,ed.DavidC,Gross(NewYork: Bantam Books,1979).

89 Fiedler,p.120.

86)ロジャースは,"Ithasbeenviewedasindicative ofapastdeeplyrootedinethnicculture,tothe AmericanDream ofequalopportunity,andtothe infinitepromiseofanunspoiledcontinent;・--" と 述べ ている。Rogers,p.45.

87) ReadingMyselfandOthen,p.150

参照

関連したドキュメント

9.事故のほとんどは、知識不足と不注意に起因することを忘れない。実験

 □ 同意する       □ 同意しない (該当箇所に☑ をしてください).  □ 同意する       □ 同意しない

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

最も偏相関が高い要因は年齢である。生活の 中で健康を大切とする意識は、 3 0 歳代までは強 くないが、 40 歳代になると強まり始め、

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち

・毎回、色々なことを考えて改善していくこめっこスタッフのみなさん本当にありがとうございます。続けていくことに意味