臨床美術アートプログラムにおける
「アナログ表現」の研究
−「アナログ表現」における抽象的表現の効用−
河合 規仁
要約 本研究は、臨床美術において活用されている「アナログ表現」に関して、体験者 からの感想を分析し、アナログ表現における抽象的表現について、その効用を検討したも のである。 その結果、アナログ表現方法は、刻々と変化する表現を即応的に感じ、次の行為を決定 し、表現がなされるといった活動であり、絵を描くことに苦手意識をもつ体験者に対して 克服を促す効果がみられた。また、絵を描くことを得意とする人の多くは、既存知識や概 念など記憶系に貯蔵されている情報を基に具体的な形態を表現することを得意としており、 中には抽象的表現には困惑するという傾向がみられた。 そして、具体的な形態を描写しない抽象的な表現でも表現力豊かで個性的な作品を生み 出せるとの認識がもてることがわかり、アナログ表現は美術教育の描画活動に大いに活用 できる汎用性をもち、また有意義な表現活動であることがわかった。Ⅰ.はじめに
臨床美術においては、絵を描くこと、表現することへの「つまずき」から制作者を 解き放つことが大切であり、創作カリキュラムにはそのための工夫がされている1) 。 その中のひとつに「アナログ表現」2) があり、テーマや素材はカリキュラムごとに異 なるが、広義では作品制作において、非具象的、つまり抽象的表現を行うことである。 アナログ表現とは、現実の世界に存在する、あるいは存在するであろう一定の事物を、 それに相応する具体的形態において再現、模写するという方法を用いない表現方法で ある。この表現方法はベティ・エドワーズが提唱している「アナログ画」を参考にし たものであり、「“アナログ画”は純粋な抽象画で、線の表現力だけを用い、名称のあ るものは何も描きません。意外なことに、美術に不慣れな人もこの言語を用いて、表 現力豊かな絵を描くことができ、その意味を読み取ることができます。」3) と述べてい ―17―る。 「美術に不慣れ」を「絵を描くことに対して苦手意識をもつ」と仮定した場合にも有 意義な表現活動になるのではないかと考える。 そこで今回、数回のアナログ表現を体験してもらい、体験者が何を感じ、またアナ ログ表現というものをどのように捉えるのかを分析し、アナログ表現における抽象的 表現の効用について検討した。
Ⅱ.方
法
1.対象 H短期大学幼児保育学科1年 美術受講者86名 2.実施期間 平成20年4月21日∼6月9日 3.実施内容 1)絵を描くことに対する意識アンケートを実施 アナログ表現の体験前に絵を描くことへの意識の調査を行った。設問を「あなた は絵を描くこと(平面表現)に関してどのような意識をもっていますか?」とし、 「大変好き(大変得意)」、「好き(得意)」、「どちらでもない」、「嫌い(苦手)」、「大 変嫌い(大変苦手)」の5段階評価で回答してもらった。 2)アナログ表現についての説明 平面表現の要素である「点」、「線」、「面」を用い、具体的なもの、名称をつける ことができるような形を描かないで、設定したテーマに対してイメージしたことを 色やタッチで表現を試みること、また、表現しながらも自分の意識により近いもの を探りながら制作を進めていくことの説明を行った。 3)アナログ表現の体験(全5回) ! 1回目(平成20年4月21日) テーマを感情の「喜」、「怒」、「哀」、「楽(リラックス)」に設定し、オイルパ ステル(16色)を使用して画用紙(八つ切りの半分)を支持体にアナログ表現を 行った。 また、制作後に自分の4点の作品の比較、他者の作品との比較をし、テーマに よる表現の相違、個々人による表現の相違の認識を促した。 " 2回目(平成20年5月12日) 描画の前に筆各種(平筆、丸筆、面相筆)のタッチの違いの認識を促し、また 三原色による混色を行った。 その後、テーマを「ゴールデンウィークの思い出」に設定し、水彩絵の具(12 色)を使用して画用紙(八つ切りの半分)を支持体にアナログ表現を行った。 # 3回目(平成20年5月19日) 最初に最近嬉しかった出来事を各自具体的に想起した後、オイルパステル(16 色)を使用して画用紙(八つ切りの半分)を支持体にアナログ表現を行った。 その後、テーマを「Happy」として、水彩絵の具(12色)を使い、支持体 を各自の利き手ではない方の手のひらにアナログ表現を行った。なお、描画は障 ―18―子紙に写し取り、作品として残した。 ! 4回目(平成20年6月2日) テーマを「優しい」、「寂しい」、「激しい」、「梅雨」と設定し、のり絵の具(水 彩絵の具にでんぷんのりを混ぜて作ったもの)を使い、支持体としてビニール シート上にアナログ表現を行った。 表現する際は、指、手のひらなどで行い、道具は一切使用せずに行った。「優 しい」、「寂しい」、「激しい」のテーマにおいては各自選択した単色で行い、「梅 雨」のテーマは複数の色を使用して行った。なお、「梅雨」においては、画像を 画用紙に写し取り、作品として残した。 " 5回目(平成20年6月9日) テーマを「今日の気分」と設定し、オイルパステル(16色)を使用して画用紙 (八つ切りの半分)を支持体にアナログ表現を行った。 4)アナログ表現に関するアンケートの実施(平成20年6月9日) アナログ表現の体験後に設問を「アナログ表現を体験してどう感じましたか?」 として、アナログ表現を体験した感想を自由記述の形で回答してもらった。
Ⅲ.結
果
1.絵を描くことに対する意識調査の結果 「大変好き(大変得意)」と回答した学生が20.9%(18名)、「好き(得意)」と回 答した学生が30.2%(26名)、「どちらでもない」と回答した学生が33.7%(29名)、 「嫌い(苦手)」と回答した学生が11.6%(10名)、「大変嫌い(大変苦手)」と回答 した学生が3.5%(3名)であった。 2.アナログ表現の体験の感想 アナログ表現を体験した感想の自由記述から207件の内容が抽出され、「KJ法」 を用いて要素分析を行ったところ、①アナログ表現活動および制作過程に関するも の、②アナログ表現された作品に関するもの、③新たな気付き、④意識の変容の4 つの要素に分類することができた。そして、絵を描くことに対して、1)嫌い(大 変嫌い(大変苦手)、嫌い(苦手)と回答した学生)、2)好き(大変好き(大変得 意)、好き(得意)と回答した学生)、3)どちらでもない(どちらでもないと回答 した学生)の3群に分けて、それぞれの要素内容を群別に分析をした。 1)絵を描くことに対して嫌い(苦手)と感じる群 絵を描くことに対して嫌い(苦手)と感じる群(15.1%(13名))の記述から32 件の要素が抽出され、分析した結果、①アナログ表現活動および制作過程に関する もの(25件)において、肯定的な内容のもの(18件・72.0%)として、a自由に描 くことができる、b描いていくうちに絵が変化する、c面白い、d楽しい、e描き やすい、f何も考えなくても絵ができる、g絵が下手な人でも楽しめる、hストレ ス発散になる、i毎回違う形が頭に浮かぶ、があり、否定的な内容のもの(7件・ 28.0%)は、a自分が思った通りに描けない、bアナログ表現が上手くできない、 c何を描いたらいいのかわからない、d難しい、eすぐ飽きる、があった。 ②アナログ表現された作品に関するもの(2件)においては、a様々な表情があ ―19―る絵、b上手下手がない、の肯定的な内容のみであった。 ③新たな気付き(3件)においては、aアナログ表現というものを知った、b点、 線、面で様々な表現できること、c苦手な自分でも描くことができる、といった内 容であった。 ④意識の変容(2件)においては、初めて美術が楽しいと思えた、といった内容 であった。 2)絵を描くことに対して好き(得意)と感じる群 絵を描くことに対して好き(得意)と感じる群(51.1%(44名))の記述から108 件の要素が抽出され、分析した結果、①アナログ表現活動および制作過程に関する もの(75件)において、肯定的な内容のもの(61件・81.3%)として、a楽しい、 b自由に描くことができる、cモチーフがないのがよい、d感じたままを表現でき た、e何も考えなくても絵ができる、f苦手な人でも描くことができる、g描きや すい、h描いていくうちに絵が変化する、i想像力が豊かになる、j完成した時の 喜び、k感情を表現できた、l上手下手関係ない、n面白い、m子どもの活動によ い、o子どもの頃に戻った感覚がした、p言葉には言い表せない不思議な力がある、 があり、否定的な内容のもの(14件・18.7%)は、a難しい、bどう描いていいか わからない、cアナログ表現が上手くできない、d自分の伝えたいものが伝わって いるか不安、があった。 ②アナログ表現された作品に関するもの(18件)においては、a作品に個性が出 る、b最初に思い描いていた絵とは違う絵になる、c作品の仕上がりに満足、d鑑 賞の際、想像する幅がある、といった肯定的な内容(17件・94.4%)に加え、否定 的な意見(1件・5.6%)として、きたない、があった。 ③新たな気付き(12件)においては、a点、線、面で様々な表現できること、b 色による表現効果、c種々の表現方法、d混色の楽しさ、e気持ちなど内面が見え てくる、f自分にはデジタル表現よりアナログ表現の方が合っている、gデジタル 表現じゃなくても絵は描ける、があった。 ④意識の変容(3件)においては、a色彩感覚が豊かになった、b絵を描くこと が好きになった、があった。 3)絵を描くことに対してどちらでもないと感じる群 絵を描くことに対してどちらでもないと感じる群(33.7%(29名))の記述から 66件の内容が抽出され、それを分析した結果、①アナログ表現活動および制作過程 に関するもの(51件)において、肯定的な内容のもの(42件・82.4%)として、a 楽しい、b自由に描くことができる、c思った通りに表現できる、d何も考えなく ても絵ができる、e面白い、f描きやすい、g完成した時の喜び、h苦手な人でも 描くことができる、i描いていくうちに絵が変化する、j子どもの活動によい、k ストレス発散になる、l心の中を表現できる、n一筆が絵の良し悪しを決める、が あり、否定的な内容のもの(9件・17.6%)は、a難しい、bどう描いていいかわ からない、があった。 ②アナログ表現された作品に関するもの(8件)においては、a個性が出る、b 手下手がない、cその日の気分で違う、dダイナミックな表現が多い、の肯定的な 内容のみであった。 ③新たな気付き(6件)においては、a点、線、面で様々な表現できること、b ―20―
種々の表現方法、c色によって季節が表現できる、といった内容であった。 ④意識の変容(1件)においては、絵を描くことに自信がついた、があった。
Ⅳ.考
察
アナログ表現も同じ絵を描く行為に変わりがないため、「絵を描くことに対して好 き(得意)と感じている群」は、同様に好意的であり、「絵を描くことに対して嫌い (苦手)と感じている群」においては、否定的傾向があることが考えられたのだが、 3群とも肯定的な内容が多い結果となった。 アナログ表現は、提示されたテーマから各自が想起するイメージを点、線、面、色 などの造形要素を使いながらも具体的な形態に置き換えて描画するのではなく、抽象 的に表現していくものであるわけだが、「造形活動における造形要素は、すべての造 形表現の基となる要素であるが、対象の再現によることなく、純粋に色・形・材質な どの造形要素の学習を深めることは、具象・抽象にこだわらない普遍的な造形力を高 めることといえよう。特に形の構成要素としての点・線・面は、形態の属性として存 在する一方、点・線・面のバリエーションは形態の属性を超えたところにある」4) と の先行研究に照らし合わせてみると、美術教育における描画活動にアナログ表現を取 り入れることには何ら問題はないと考えられる。しかし、少数であるとはいえ否定的 感想の「何を描いたらいいのかわからない」、「自分が思った通りに描けない」や「ア ナログ表現が上手くできない」の中の具体的記述の「ついデジタルになってしまう」 に関しては、アナログ表現における抽象的表現方法の理解を深めるためのより丁寧な 指導の研究が求められる。 また、描画活動において形を構成する点、線、面の扱い方や造形要素の色彩やテク スチャーの扱い方に関し、線や色彩が主題に従属し、写実的な表現手段として用いて 表現を行う具象タイプと、線や色彩が写実的機能から離れて、それ自体が独自の表現 機能を持つものとして意識され表現を行う非具象タイプがあり、また、この2つのタ イプを認知的視点で捉えた場合、具象タイプは既存知識や概念など、記憶系に貯蔵さ れている情報に導かれて具体的な形態を表現するといった「概念駆動型」、非具象タ イプは刻々と変化する当該の視覚情報を読み取りながら次の行為を決定していく 「データ駆動型」であると報告されている。5) このことからアナログ表現は非具象タ イプに属し、データ駆動型の活動であると考えられる。 はじめに「絵を描くことに対して嫌い(苦手)と感じている群」の結果に着目する と、肯定的な内容の「何も考えなくても絵ができる」については、既存の知識や概念 を駆使し、具体的な形態をイメージしないでも作品ができることを意味していると考 えられる。また「描いていくうちに絵が変化する」、「毎回違う形が頭に浮かぶ」にお いては、画面の点、線、面、色を使いながら刻々と変化していく画面を、制作者が視 覚情報として読み取り、次の表現を決定し、随時活動がなされるために絵が変化して いくことを示唆している。 このような表現活動に対し、「自由に描くことができる」、「ストレス発散になる」 など、アナログ表現は自由感や開放感が得られ、また「面白い」、「楽しい」、「描きや すい」、と感じることが多く、受け入れられ易い描画表現方法であることが推測でき ―21―る。また、意識の変容として「美術が苦手な自分にも描けることが分かった」、「初め て美術が楽しいと思えた」など、苦手意識の克服を促す効果が見受けられ、絵を描く ことに対して嫌いないしは苦手意識をもつ人にとって有意義な表現活動であることが わかった。もっとも今回のサンプル数は充分とはいえないため、今後、多くのサンプ ル数の収集と分析が課題として挙げられる。 続いて「自分が思った通りに描けない」、「アナログ表現が上手くできない」、「難し い」などの否定的な内容に関しては、絵を描くことが嫌いないしは苦手意識をもつ人 の感想として理解できるものもあるが、「すぐ飽きる」という内容については、指導 者の側にも真摯に向き合うべき問題が内在していることが考えられる。アナログ表現 は前述の通り「自由に描くことができ」、「楽しく」、「面白い」活動である反面、「何 も考えなくても絵が出来」てしまい、「描きやすい」と感じる表現方法であることか ら、ただの落書きやなぐり描きなどといった「表出」で終わってしまっている可能性 もあるのではないかと懸念される。表現することへの取っ掛かりとしてはよいが、そ の後の発展を考え、制作者が表出されたものを再認識し、制作者の内面世界と表出さ れたものの対話がなされるよう指導し、恣意的な「表出」から意識的な創作的働きが なされ、「表現」にまで高めていくことができるようあわせて具体的な表現技術指導 を行うことが大切であると考える。 次に「絵を描くことに対して好き(得意)と感じている群」および「絵を描くこと に対してどちらでもないと感じる群」における否定的な内容に着目すると、好き(得 意)と感じる群において14件、どちらでもないと感じる群においては9件あり、その 内容は、「形があるものを描くより難しい」、「形ではなく、点や線で表現するのが意 外と難しい」、「何を描くか決まっていないからアナログは苦手」、「自分が感じたよう に描くのは難しい」などがあった。 このような記述から、絵を描くことを得意と感じている人は、モチーフなどの視覚 できるものの再現描写や、既存知識や概念などを具体的な形態に表すために点、線、 面、色を使うといった表現活動を得意とするいわゆる具象タイプと考えられる。従っ て今回のように感情、気分、季節など視覚化できないテーマ設定にて、抽象的表現の 試みをすすめられたことに戸惑いを感じていることが伺える。 これは日本の美術教育観の形成過程が少なからず影響を及ぼしているのではないか と考えられる。明治初期に西洋絵画が日本の美術教育のシステムに取り入れられたこ とにより、「西洋画の絵画観、いわゆる『写実』を基盤にした対象のとらえかた、三 次元的なものの見方は以後深く美術教育の世界に浸透し、西洋そのものが20世紀に別 な方向に流れを変えたにもかかわらず、一般の人々の意識の中に、それは根強く定着 しているかのようです。」6) と鬼丸(1996)は述べている。これはルネッサンス以来、 西洋において主流をなしてきた対象の再現描写を重視する伝統的な美術が、19世紀後 半に行き詰まりをみせ、古典的な美の規範や対象の忠実な再現描写という従来の伝統 的な美術の概念を否定し、伝統に捉われない新たな美的規範を見いだそうとし、20世 紀初頭には抽象芸術が出現したにもかかわらず、「美術を特別なものとして通常の生 活や人の成長から切り離し、一方では19世紀的な写実性を基準とする美術観・美術教 育観にとらわれている」7) からであり、また、その写実表現の要素の一つである「線 遠近法が当たり前の表現であると一般に考えられているが、あくまでも西洋で発明さ れた表現方法の一つであり、それは教えられることによって身につくもので、決して ―22―
人間にはあらかじめ備わっているものではない」8) との認識が薄いと考えられる。写 実的な表現方法を習得するための学習を受けていないため描けない、写実的な表現が 絵画表現の最高の到達点であるといった誤った認識をもつ人にとっては、これが絵を 描くことへの苦手意識の萌芽となるのではないかと考えられる。 最後にアナログ表現の作品に関する内容を検討してみると「上手下手がない」とい われているのは、具象表現における描画と実物との差異から生じる再現度合による技 術的な評価が当てはまらないことを意味していると考えられる。 そして「様々な表情がある絵」、「作品に個性が出る」、「鑑賞の際、想像する幅があ る」といった感想の内容は、ベティ・エドワーズの表現力豊かな絵を描くことができ、 その意味を読み取ることができるというアナログ画の効用を裏付けするものとなった。 残念なことに、「非具象表現」はわかりやすさを求める社会の中ではノイズとして 除外されやすい。しかし、少数派の非具象タイプの発信する意味は大きく、多数派の 具象タイプにおける「造形的つまずき」を救う手立てになると新妻(2010)は述べて いる。9) このこともふまえ、臨床美術の創作カリキュラムにおいて活用されているアナログ 表現の効用は明らかであるとともに、汎用の可能性と有意性を確認できた。そして意 図的に美術教育の描画活動の中に活用していく意義があるものと考える。