真田山陸軍墓地についての2,3の問題
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(2) 第7巻. は. 第1号. じ. め. に. 昭 和20年 の 終 戦 まで,日 本 国 内 に はお よそ90ケ 所 に陸 軍 墓 地 が あ った 。 戦 後,そ れ らの 陸 軍 墓 地 は,陸 軍 の 廃 止 に よ り,大 蔵 省(現 財 務 省)の 管 轄 とな った の ち,多. くは陸 軍 墓. 地 の 所 在 す る 自治 体 に無 償 貸 与 と い う形 で 管 理 が 移 され た 。 この 結 果,各 地 の 陸 軍 墓 地 は 規 模 を 縮 小 され た り,移 転 統 合 され た りな ど して 次 第 に姿 を 変 え た 。 そ の 中で,大 阪 市 天 王 寺 区 に あ る 旧真 田 山陸 軍 墓 地(以 下 「真 田 山陸 軍 墓 地 」 と記 す)だ. け は終 戦 当 時 の 姿 を. 今 に と ど め る 唯 一 と い って 良 い 存 在 で あ る。 ど う して,そ の 他 の 陸 軍 墓 地 が 姿 を変 え て い った の で あ ろ うか,そ い う思 い や,で. こ に は戦 後 にな って,戦 前 の 陸 軍 に対 す る思 い 出を 消 滅 した い と. き るだ け軍 と い う もの に触 れ た くな い と い う,為 政 者 や 国民 の 忌 避 感 が. あ った と思 わ れ る。 真 田 山陸 軍 墓 地 も,他 の 墓 地 と同 様 大 阪 市 に無 償 貸 与 され,そ の 保 全 を 行 って い る。 さ らに,祭 祀 に 関 して は 「大 阪 靖 国霊 場 維 持 会 」(現 在 は 「真 田 山 陸 軍 墓 地 維 持 会 」)が あ た って きた 。 また,地 元 の 人 々の 協 力 もあ って 真 田 山陸 軍 墓 地 は,景 観 を 維 持 して 現 在 に 至 って い る。 本 稿 で は,こ の 真 田 山陸 軍 墓 地 に埋 葬 され た 人 々 につ いて 考 察 して 見 た い。 な お,先 行 の 研 究 につ いて は,『 国立 歴 史 博 物 館 研 究 報 告 』102,小. 田康 徳 他 編 『陸 軍 墓 地. が か た る 日本 の戦 争 』 な ど多 数 あ る が(1),ま だ な お残 され た 問 題 も存 在 す る。 そ の 一 端 を 紹 介 した い。. 1最. 真 田 山陸 軍 墓 地 は,明 治4年(1871)に. 初 の 被 葬者. 設 置 され た,日 本 で 最 初 の 陸 軍 墓 地(当 初 は兵. 隊 埋 葬 地)で あ った。 当初 の墓 域 面 積 は8,000坪 で あ った が,昭 和3年(1928)に. 南側部分. を 真 田 山 小 学 校 の建 設 用 地 に譲 渡 し,5,000坪 余 と な り,そ の 現 状 が ほ ぼ 伝 え られ て い る (現在 は4,600坪)。 天 王 寺 区 玉 造 本 町 に あ る真 田 山 陸 軍 墓 地 の 現 状 は 図1の 通 りで あ る。 平 成8年 か ら12年(19962000)に. か けて,国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 が 調 査 を 行 い,そ の 成 果. は報 告 書 に ま とめ られ た 。 報 告 書 に は墓 域 を 区 分 した 概 要 図 が 添 付 され て お り,墓 域 をA か ら1ま で に分 け て い る。 図2は. 概 要 図 を さ ら に簡 略化 した もの で あ る。 ま た,5,299基. 以 上 と され る墓 石 につ いて,墓 碑 銘 文 が 筆 録 され,資 料 紹 介 「旧真 田 山陸 軍 墓 地 概 要 図 ・ 墓 碑 銘 文 一 覧 」(以 下 「銘 文 一 覧 」 と記 す)と. して 掲 載 さ れ て い る。 な お,真 田 山 陸 軍 墓. 一280(280)一.
(3) '「'■'・Il '⊥. し. 1「. 日 真田山鷹 鞄 蓋 薫1留. i 図1真. 田山陸軍墓地付近. 軍 笹夫 佃 晴 鞍争) B C O E F O H. 1旺 図2真. 兵卒 下士官 下 士官 兵 卒.日 構 轄争 兵庫 将校 野 田村 遺族会 建 立墓 租」 丑岬 麗 鴫謹 巨o量 以 上,. 田山陸軍墓地の墓群配置 一281(281)一.
(4) 第7巻. 第1号. 地 に あ る納 骨 堂 の 中 に は,「 埋 葬 人 名 簿」 が あ り,こ の 「埋 葬 人 名 簿 」 に も被 葬 者 の 氏 名 な どが 記 され て い る。 また,納 骨 堂 に は4万 人 と もいわ れ る遺 骨 が 納 め られ て い るが,国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 の 調 査 で は詳 し くは調 査 され な か った 。 この 墓 地 で の 最 初 の 被 葬 者 は下 田織 之 助 で,墓 石 は下 士 官 の 墓 石 が 集 め られ て い る場 所 (図2のCブ. 正. ロ ック)に あ る。 墓 碑 に は次 の よ うに記 さ れ て い る。. 面. 右側面. 下 田織 之 助 之 墓 織 之 助,山. 口県 人,生 干 周 防 国 大 島 郡 久 賀 村,同 県 人 下 田河 内 養 為 子,明. 治 庚 午 之 秋 入 学 兵 学 寮 於 大 阪,同 年 十 二 月 朔 以 病 死,時 年 二 十 五. 明 治 庚 午 は明 治3年(1870)で. あ る。 下 田織 之 助 は明 治3年 秋 に兵 学 寮 に入 学 し,数 ケ. 月 後 に病 没 した こ と にな る。 墓 碑 に あ る大 阪 兵 学 寮 は,も と もと は京 都 に あ った 兵 部 省 の 兵 学 校 で あ る。 こ こ に は,長 州 藩 ・備 前 藩 か ら集 め られ た 藩 士 が,フ. ラ ンス式 訓 練 を 受 け. て お り,京 都 河 東 に伝 習 所 が 会 った こ とか ら 「河 東 の 精 兵 」 と呼 ばれ て いた 。 幕 末 に フ ラ ンスの 陸 軍 教 官 か ら指 導 を 受 けた 旧幕 府 の 士 官 が 訓 練 を 行 って いた 。 明 治2年7月,兵 省 の 出張 所 が 大 阪 に置 か れ,9月4日 が 命 じ られ た 。 明 治2年12月28日 年1月. 部. に は京 都 の 兵 部 省 兵 学 校 の 大 阪 移 転(大 阪 兵 学 寮) に は,大 阪 兵 学 寮 に新 生 徒33人 が 入 学 して い る。 明 治3. に は金 沢 藩 士 若 干 名 の 入 学 が 許 可 され て い る。1月27日. に は,長 州 ・因 州(因 幡)・. 備 前 の 三 藩 の 兵 卒 の 徴 集 が 伺 い 出 され,右 の 三 藩 か ら200人 つ つ 徴 集 され た が,や が て 因 州 の 藩 士 は引 き上 げて しま う。4月 人,小 藩5万 石 以 上2人,5万 4月24日,兵. に は兵 学 寮 陸 軍 学 舎 規 則 が 定 あ られ,大 藩4人,中. 石 以 下1人 の 割 合 が しめ され て,入 学 が 督 励 され た 。 同 じ. が 苦 慮 中 に教 導 隊 が 編 成 され た 。8月14日. 兵 部 省 の 管 轄 に属 させ る 旨が 達 せ られ,9月2日 下 田織 之 助 は9月2日. に は長 州 藩 常 備 兵 の 内,一 大 隊 を. に大 阪 に差 し出 され た(2)。. に大 阪 に差 し出 され て,兵 学 寮 に入 った 者 の1人 で あ った と思 わ. れ る。 『山 口県 史 』 史 料 編 ・幕 末 維 新6に. は,「 下 田織 之 輔 基 重,第 二 奇 兵 隊,大 島 郡 西 方. 村 下 田八 幡 宮 神 主,弐 拾 三 歳(慶 応 四 年)と 推 定 〕 都 の郡,(略)西. 藩3. 方 村 下 田八 幡宮 神 主. 出 て くる。 ま た,「 明 治 二 年 八 月 三 日 〔月 日 半 隊(司 脱)令 下 田織 之 輔(略)以. 上 六 人,. 横 浜 に残 り居 ル よ しの 分 」 と い う記 述 も見 られ る。 第 二 奇 兵 隊 は,慶 応 元 年 の 結 成 で,明 治 元 年 に は贋 懲 隊 と合 併 し建 武 隊 とな って い る。 大 島 口の 戦 いで 幕 府 軍 に勝 利 し,戊 辰 戦 争 へ も参 加 して い る。 下 田織 之 助(輔)が 慶 応4年. い つ か ら第 二 奇 兵 隊 に属 した か は不 明 で あ る が,. に は第 二 奇 兵 隊 に属 し,そ の 後 も戊 辰 戦 争 に従 事 し,明 治2年8月 一282(282)一. に は横 浜 に と.
(5) 真 田 山陸 軍 墓 地 につ い て の2,3の. 問 題(堀. ど ま っ て い た の で あ ろ う 。 慶 応4年. に23歳 で あ れ ば,明. 文 と も一 致 す る 。 明 治3年12月1日. に 死 没 した 下 田 織 之 助 の 遺 骸 は,仮. れ た もの と 思 わ れ る 。 そ の 後,真. 治3年. 田) に は25歳 で あ り,墓. 碑の銘. 埋葬の処置が と ら. 田 山 に 兵 隊 埋 葬 地 が 開 設 さ れ た と き に,改. 葬 さ れ た もの. で あ ろ う。 な お,大. 阪 兵 学 寮 に つ い て 補 足 す る と,金. 沢 藩 か らの 入 学 者 が あ り,全. 国 諸 藩 中 最 も多. い 人 数 を 派 遣 して い た と の 指 摘 が あ る(3)(大久 保 英 哲 「大 阪 兵 学 寮 に お け る 仏 式 伝 習 と 加 賀 藩. 金沢藩. 「大 阪 兵 学 寮 御 手 留 抜 書 」 を 中 心 に. が 教 鞭 を と っ て い た こ と も あ り,陸 た め,フ. 」)。 ま た 大 阪 兵 学 寮 で は フ ラ ン ス の 軍 人. 軍 は仏 蘭 西 式 を 採 用 す る と い う太 政 官 の 方 針 もあ った. ラ ン ス と の 結 び つ き が 非 常 に 強 い 。 明 治3年. ス に 留 学 派 遣 さ れ,そ. の う ち の4人. に は 大 阪 兵 学 寮 か ら10人 が フ ラ ン. が フ ラ ン ス で 客 死 し,そ. の う ち の1人. で あ る野 村 小. 三 郎 の 墓 が 発 見 さ れ た と の こ と で あ る(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/ 1876)(4)o. 2埋. 葬 人 名 簿. 真 田 山陸 軍 墓 地 の 納 骨 堂 に保 管 され て い る 「埋 葬 人 名 簿 」 は3種 類 あ る。 一 つ は,黒 色 の 表 紙 に 『埋 葬 人 名 簿 第 四 師 団 司 令 部(金 文 字)』(A本)と 色 の ボ ー ル 紙 の 表 紙 に 「明治 二 十 三 年 訂 正. 埋 葬人名簿. 書 か れ た もの,今. 真 田 山 陸 軍 墓 地 」(B本)と. され て い る もの で あ る。 この 二 つ に違 い につ いて,飯 沼 雅 行 氏 は,A本 多 い こ と,A本. に あ る末 梢 人 名 がB本. 粗 末 で あ る こ とな どか ら,A本. ひ とつ は 白. の方が記載人数が. に は抹 消 され ず に残 って い る こ と,B本. はA本 よ り. が 正 本 で あ る と指 摘 して い る(飯 沼 雅 行 「真 田 山招 魂 社 の. 消 滅 と現 景 観 の 形 成 一 埋 葬 人 名 簿 と墓 碑 の 配 列 か ら一 」)(5)。 残 る1冊 は,「大 正 十 五 年 田 山墓 地(将 校 下 士)埋 ら昭 和2年. さ れ,1行. 葬 人名録. は6段. 真. 第 四 師 団 経 理 」 と記 さ れ て い る もの で,大 正15年 か. にか けて 改 葬 が 行 わ れ た と き に作 成 され た もの で,A・B本. い。 こ こで は,A本. 記. ほ どの 詳 細 さ はな. を 主 と して 稿 を 進 め る こ と とす る。 「埋 葬 人 名 簿 」は1ペ ー ジ13行 に記 に分 け られ,欄 外 に も記 号 が 書 か れ て い る。 欄 外 か らの 区 分 は,新 符. 号 ・符 号 ・官 位 勲 功 ・出身 地 族 籍 ・所 属 部 隊 ・死 没 年 月 日お よ び年 齢 とな って い る。 新 符 号 は大 正15年 に,陸 軍 墓 地 の 南 側 を 真 田 山小 学 校 の 敷 地 と して 譲 渡 した と き に,そ の 部 分 に あ った 墓 石 等 を 改 葬 した 時 に新 た につ け られ た もの で あ る。B本 年 訂 正 」 と あ る こ とか ら,A・B本. に 「明 治 二 十 三. 以 前 に元 とな る名 簿 の 存 在 が 推 測 され る。 そ の こ と に. 関 し,明 治14年 に次 の よ うな 照 会 が 出 され て い る(JACARRef.CO7080370500明 -283(283)一. 治13.
(6) 第7巻 年. 「大 日記. 来. 第1号. 旧 軍 団 事 務 所)(6)。. 去 十 年 之 役,其 地 真 田 山埋 葬 之 想(惣. 力)人 員 本 月 二 日付 四 工 一 ノ百 三 十 号 ヲ以,御. 回 答 之 趣 致 し承 知 候,右 者 先 般 御 照 会 之 趣 意 タル 人 名 者 勿 論,毎 墓 標 官 姓 名 其 他 別 表 之 廉 々入 用 有 之 処,人 名 而 己 御 送 付 相 成 候 二 付,乍 御 手 数 木 石 碑 共 別 表 之 通 御 取 調 之 上,至 急 御 送 付 相 成 候 様 致 度,尚 及 御 照 会 候 也 明治十四年三月十六 日 旧軍 団 飛鳥歩兵少佐拝 追 而,別 表 之 廉 々墓 標 面 へ 記 載 無 之 分 可 有 之 義 二 付 者,記 載 相 成 居 丈 二 而 可 然 候 間,此 段 及 申添 候 也. 西 南 戦 争 の 事 後 処 理 を 行 って いた 旧軍 団 事 務 所 か ら,大 阪 工 兵 第 四 方 面 本 署 に あて た も の で,内 容 は,か ね て 照 会 して いた 真 田 山 に埋 葬 され て い る総 人 員 に関 して の 回 答 を 受 け 取 った が,照 会 の 内 容 は墓 標 ご と に官 姓 名 ほか 記 載 して あ るす べ て の 内 容 で あ り,回 答 は 人 名 だ けで あ った の で 重 ね て 報 告 して 欲 しい と い う もの で あ る。 この 照 会 文 を 綴 じた 記 録 に は,2月24日. 付 で発 信 され た次 の よ うな 電 報 が付 され て い る。 「埋 葬 人 名 簿 調 書 三 月 五. 日頃 ナ ラテ ハ 不 整 」 と い う もの で,文 面 か ら,2月. ご ろ に真 田 山墓 地 に埋 葬 され て い る兵. につ いて の 詳 細 な 報 告 を 求 め た の に対 し,大 阪 工 兵 第 四 方 面 本 署 が,3月5日 る と い う回 答 を した もの で あ る。 そ の 回 答 が,実 際 に は3月10日 と して 再 度 の 提 出を 求 め た の が,3月16日. よ びRef.CO7080371600明. 初 の 電 報 は,3月22日 次 の 電 報 は3月30日. 前 後 に届 き,不 備 が あ る. 付 の 照 会 文 で あ ろ う。. 大 阪 工 兵 第 四方 面 本 署 か らは,そ の後2回 CO7080370300お. ご ろ に にな. に わ た って 電 報 が発 信 され て い る(同,Ref 治13年. 「大 日記. に発 信 され,埋 葬 人 名 簿 は3月28日. 来. 旧 軍 団 事 務 所 」)(7)。 最. 頃 出す と い う もの で あ り,そ の. の もの で,「 真 田 山埋 葬 人 名 簿 一一 昨 日出 シ タ リ」 と あ る。 す な わ ち,. 西 南 戦 争 で 亡 くな り,真 田 山 に埋 葬 され た 人 名 簿 が 明 治14年3月28日. に作 成 され,旧 軍 団. 事 務 所 に送 られ た こ とが わ か る。 推 測 で は あ るが,こ の 当 時 真 田 山 に埋 葬 され た 「埋 葬 人 名 簿 」 が 存 在 して いて,旧 軍 団 の 照 会 に対 して は,そ の 名 簿 か ら筆 記 した の で はな いだ ろ うか 。 「銘 文 一 覧 」 か らわ か る西 南 戦 争 関係 者 の墓 碑 は923基 で あ る(戦 争 途 中で 発 生 した コ レラ に よ る死 亡 者 も含 む,小 松 忠 「西 南 戦 争 墓 碑 群 が か た る もの」)(8)。923とい う数 字 は 墓 碑 か ら読 み 取 れ る もの だ けの 数 字 で あ り,「埋 葬 人 名 簿 」Aか ら補 充 す れ ば さ らに増 加 す 一284(284)一.
(7) 真 田山陸軍墓地 についての2,3の. 問題(堀 田). る と思 わ れ る。 この よ うな 多 数 の 墓 標(墓 石)を 台 帳 な しで,墓 標(墓 石)か. ら筆 録 す る. 作 業 は1ケ 月 や2ケ 月 で は困 難 で はな いだ ろ うか 。 も しそ うで あ った と して も,明 治14年 3月 末 に は西 南 戦 争 で の 死 没 者 で 真 田 山 に埋 葬 され た もの の 名 簿 は作 成 され て いた こ とが 確 認 で き る。 しか し,現 在 で はそ の 名 簿 の 存 在 は不 詳 で あ る。. 3墓. 石. 「銘 文 一 覧 」 は,墓 石 に刻 ま れ た 碑 文 を記 した もの で あ る(こ の膨 大 か つ 根 気 の い る作 業 に携 わ った作 業 グル ー プ に は 多 大 の 敬 意 を捧 げ る もの で あ る)。 しか し,明 治4年 以 来,約140年. 創設. の 風 雪 を経 て,墓 石 の 風 化 が激 し く,表 面 に亀 裂 の あ る もの,表 面 の 一 部. が 剥 離 して い る もの,前 面 が 剥 落 して い る もの,墓 そ の もの が 倒 壊 した り痕 跡 が な くな っ て い る もの もあ り,空 欄 で 残 され て い る もの も多 数 あ る(そ の た め,墓 石 の 補 修 ・保 護 ・ 保 存 が 強 く求 め られ て い る)。 墓 石 に刻 まれ て い る内 容 は次 の よ うな もの で あ る。 正 面 に は,当 然 の こ とな が ら被 葬 者 の 氏 名 が 記 され て い るが,幾 つ か の タ イ プが あ る。 一 つ は単 に 「○ ○ 之 墓 」 と名 前 の み を 記 す もの,「 兵 卒00之. 墓 」 とい う よ うに軍 で の 官 位 を記 す もの,そ. の他 で あ る。 そ の 他. で は,「 軍 役 夫 ○ ○ 之 墓 」 「輔 重 輸 卒 ○ ○ 之 墓 」 「俘 虜 ○ ○ 之 墓 」 とい うよ うな もの が あ る。 次 に左 右 ど ち らか の 側 面 に,経 歴 を 記 す 場 合 が あ る。 お お む ね 日清 戦 争 以 前 に立 て られ た 墓 碑 に多 い。 日清 戦 争 の 時 期 にな る と,経 歴 の 記 載 が な く,死 没 した 場 所 だ けが 刻 まれ る よ う にな る。 最 も古 い時 期 に属 す る墓 碑 の 例 を 挙 げて み る。 歴 博 の 墓 域 区 分 で はFブ ロ ック に古 い墓 碑 が 見 られ る。 歴 博 の 調 査 報 告 書 で は,各 ブ ロ ックの 墓 碑 列 に記 号 を 与 え,そ の 列 に属 す る墓 碑 に順 に数 字 を つ けて,墓 碑 の 場 所 を 特 定 で き る よ う に して い る。Fブ 段 に分 れ て い るが,列 の 数 字 は北 側 部 分 の 西 か ら東 に番 号 が 与 え られ,次. ロ ック は,2. に南 側 へ と移 っ. て い る。 そ して 墓 碑 番 号 は北 か ら南 に向 けて つ け られ て い る。 しか し,実 際 に は,南 か ら 北 へ 「い ろ は」 順 に並 ん で い る。. F-36-22 (正. 面). (右 側 面). 松野木愛次之墓 愛 次,伊 予 温 泉 郡 一 万 町,商 弥 兵 衛 之 男,嘉 永 □ 申五 月 十 三 日生, 明 治 辛 未 正 月 応 徴 為 歩 兵 第 三 聯 隊 第 二 大 隊 兵 卒,同 年 五 月 二 十 七 一285(285)一.
(8) 第7巻. 第1号. 日演 習 遊 泳 於 大 阪 源 八 渡 而 溺 死,時 年 二 十. 嘉 永 年 間 で 申年 は元 年(1848)で. あ るか ら,松 野 木 愛 次 は嘉 永 元 年5月13日. 泉 郡 の 商 人 弥 兵 衛 の 息 子 と して 生 まれ,明 治4年(1871)1月 二 大 隊 に配 属 され,同 年5月27日. 二伊予国温. に徴 募 され て,第 三 聯 隊 第. に大 阪 の 源 八 渡 しで 行 わ れ た 遊 泳 演 習 で 溺 死 した,20歳. で あ った とい う 内容 で あ る(「 銘 文 一 覧 」)。墓 碑 銘 の 読 み取 り作 業 は,若 干 の 問題 を 残 し た 。 そ れ は,明. らか に読 み 間 違 い と思 わ れ る もの が そ の ま ま にな って い る箇 所 が か な り見. 受 け られ るか らで あ る。 右 の 銘 文 にお いて も,「伊 予 」 の部 分 は,「 傍 予 」 とな って お り, 「商 」 の部 分 も 「高 」 とな って い た。 た だ,現 実 の墓 碑 面 に刻 さ れ た文 字 は彫 りが が浅 く, また 表 面 が 摩 滅 した り,剥 落 や 亀 裂 が あ るな ど,読 み に くい こ と。 光 線 の 加 減 で よ うや く 読 み 取 れ る と い う状 態 の もの もあ るな か で,作 業 が 進 め られ,一 覧 化 で きた こ と は高 く評 価 され な けれ ばな らな い。 「埋 葬 人 名 簿 」の記 述 と比 較 して見 よ う。 松 野 木 愛 次 郎 は,官 位 勲 功 以 下 は次 の よ う に記 され て い る。. 兵卒. 松野木愛次. 愛媛県伊予国温泉郡一萬町商弥兵衛男. 歩兵第三聯隊第二大隊. 明治四辛未五月廿七 日 行年二十四. 「埋 葬 人 名 簿 」 の 方 で は 出 身 地 と誰 の 息 子(あ 生 年 月 日や 入 隊 の 経 緯 な どが わ か る。 明 治4年. る い は弟)し. か わ か らな い が,墓 碑 で は. に入 隊 して い るの は,明 治3年 の 徴 兵 規 則. に よ って,徴 募 され た 辛 未 徴 兵 で あ った の で あ ろ う。 年 齢 につ いて,墓 碑 か らは 「4」 が 読 み 取 れ な か っ た と思 わ れ る(実 際 に墓 碑 を実 見 す る と,墓 石 は 下 部 の 部 分,「20」 の 下 で 切 断 され て いた)。 この よ う に,初 期 の 墓 石 に は官 名 が 刻 され て いな い場 合 が 多 い。 また,墓 石 の 形 態 も頭 頂 部 が 丸 み を 帯 びた 形 で あ る場 合 が 多 い(や や 幅 が 広 い 「広 か まぼ こ型 」 と普 通 の 「か ま ぼ こ型 」 が あ る)。 陸 軍 墓 地 創 設 期 にお いて は,明 確 な 墓 の 形 態 は示 され な か った と思 わ れ る。 陸 軍 にお い て 埋 葬 につ いて の 具 体 的 な 法 規 が 出 され た の は,明 治6年12月25日 則 」(明 治7年10月5日. 改 正)で. あ る。 こ の 間,明 治4年. 集 め られ た の を 契 機 と し,同 年8月. の 「下 士 官 兵 卒 埋 葬 法. に御 親兵 約1万5,000人. が東京 に. に 全 国 を 四 鎮 台 に わ け る こ と と な り,大 阪 の ほ か 仙. 台 ・東 京 ・熊 本 に鎮 台 が 置 か れ た 。 さ らに6年1月 一286(286)一. に は広 島 と名 古 屋 に も鎮 台 を 置 き六 鎮.
(9) 真 田山陸軍墓地 についての2,3の. 問題(堀 田). 台 体 制 とな った 。 そ の そ れ ぞ れ の 管 内 に埋 葬 地 が 作 られ る こ と にな って いた 。6年12月 で に埋 葬 地 の あ った の は,東 京 ・大 阪 ・広 島 の3箇 所 で あ った 。 明 治4年. ま. に御 親 兵 が 東 京. に集 め られ た と き,「 御 親 兵 之 如 キ ニ至 リテ ハ,其 人 員 多少 二 随 ヒ連 月 死 亡 ノ者 モ不 少 候 」 との 上 申が あ り,大 阪 以 外 にお いて も軍 隊 で の 死 没 者 が 発 生 して お り,埋 葬 地 の 必 要 性 は 大 き くな って いた(原. 田敬 一 「陸 海 軍 墓 地 制 度 史 」)(9)。. そ れ まで に死 没 者 が 出た 場 合 に は,「為 御 手 当金 拾 両 下 賜 候 間,同 隊 二 於 テ 諸 事 懇 切 二 取 扱 石 碑 等 取 建 可 遣 」(明 治 二 年 十 二 月 八 日,伏 水 練 兵 場 宛 兵 部 省 達)と. あ る よ う に,場 所. は指 定 され ず,お そ ら くは寺 院 等 に埋 葬 させ,葬 祭 料 を 下 賜 し,石 碑 を 建 て る よ う に と指 示 して い る。 葬 祭 料 につ いて は この と き限 りで あ った よ うだ が,石 碑 を 建 て る こ とが 指 示 され て い る こ と は注 目 され る。 寺 院 等 に埋 葬 す るの で はな く,兵 部 省(明 治 五 年 に陸 軍 と海 軍 に分 離)直 轄 の 兵 隊 埋 葬 地 が 作 られ た こ と に と もな い,具 体 的 な 埋 葬 方 法 手 続 を 定 め た もの が,「下 士 官 兵 卒 埋 葬 法 則 」 で あ る。 こ れ に よれ ば,墓 標 は木 柱 で 作 る の が原 則 で あ っ た が,「 地 方 二 在 テ 物 価 下 直 ナ ル ヲ以 テ 埋 葬 料 定 則 二 従 ヒ石 柱 ヲ以 テ 製 シ得 ヘ キ ハ,此 限 ニ ア ラ ス」 と も記 され て お り,埋 葬 料 の 範 囲 内 で 石 柱 を 建 て るの が 可 能 で あれ ば石 柱 を 立 て る こ とが で きた 。 埋 葬 料 は,下 士 官15円,兵. 卒10円 で あ る。 木 柱(石 柱)に. は,死 者 の 位 記 ・官 等 ・姓 名 及 び年 月. 日を 記 す こ と と され て いた 。 兵 卒 の 死 没 者 が 出た 場 合,親 族 に伝 え られ,遺 体 の 引 き取 り も可 能 で あ った が,死 後2日 以 内 で な けれ ばな らな か った 。 これ は,余 程 軍 の 営 地 の 近 辺 で な けれ ばか な わ な い こ とで あ った 。7年 の 改 正 で は,墓 標 の 規 格 が 定 め られ た,下 士 官 は 「高 サ弐 尺 五 寸,方 六 寸 」,兵 卒 は 「高 サ弐 尺,方 五 寸 」 と定 め られ た。 埋 葬 料 に お い て も下 士 官 と兵 卒 で は金 額 に格 差 が つ け られ て いた が,墓 標 につ いて も格 差 が 規 格 づ け ら れ た の で あ った 。 「下 士 官 兵 卒 埋 葬 法 則 」(以 下,埋 葬 法 則 と略 記)に とな って い るが,こ れ は 高 さ60cmで. 一 辺 が15cmの. 以 前 に建 て られ た 墓 石 の 高 さ は60cmで. よれ ば,兵 卒 の 墓 標 は2尺. ・方6寸. 四 角 錐 で あ る。 埋 葬 法 則 が 出 され る. あ り,高 さが 同一 な の は,埋 葬 法 則 以 前 の 大 き さ. を 参 考 に した の か,偶 然 の一 致 な のか,当 時 で は墓 石 の高 さ が2尺(60cm)が. 標準であ っ. た の か は未 詳 で あ る。 「埋 葬 法 則 」以 前 に建 て られ た墓 石 は,広 か ま ぼ こ型(高 さ60cm,幅 24.5cm,奥. 行 き18cm)お. よ びか ま ぼ こ型(高 さ60cm,横. あ る。 「埋 葬 法 則 」 に よ る墓 石 は,15cm四. 幅18.5cm,奥. 行 き15.5cm)で. 方 の 四 角 錐 な の で,広 か ま ぼ こ型 ・か まぼ こ型. と は横 幅 ・奥 行 き と もに短 い(図3)。 「埋 葬 法 則 」 が 達 せ られ た後 に建 て られ た墓 石 で 西 南 戦 争 前 後 ま で に建 て られ た もの に 一287(287)一.
(10) 第7巻. 第1号. L____1.■. A. 卜1=官. 四 偶碓. H. 典卒 標準脱格. 四 角錐. c. 蛾 卓 かhぽ. 頭 碩 部 が緩 い彊 状. l】. 腰 串 広 か まぼ こ型 図3菓. こ型. 頭 頂 部 が輻 広 い砿 状 、F'み もあ イ. 碑の形状. は,「 埋 葬 法 則 」 に した が って い な い もの が 多 い 。 広 か ま ぼ こ型 ・か まぼ こ型 が 多 く見 ら れ る し,姓 名 の み を 記 す もの も大 半 で あ る。 規 律 を 重 ん じる陸 軍 にお いて,何 故 規 則 通 り の 墓 石 が 建 て られ て いな いの か は甚 だ 疑 問 で あ る。. 4墓. 概 要 図 を 簡 略 化 した 図2は,現. 域 の 変 更. 在 の 状 況 を 現 した もの で あ る。 昭 和3年. に真 田 山小 学 校. に譲 渡 す る前 の 墓 域 は ど うな って いた の で あ ろ うか 。 そ れ を 伺 わ せ るの が 図4で. あ る。 こ. れ は,明 治16年 に調 査 され た もの で,西 南 戦 争 に従 軍 した 警 視 局 巡 査 の 墓 碑 につ いて 報 告 書 に添 付 さ れ た もの を リラ イ トした もの で あ る⑩。 西 南戦 争 に従 軍 した警 視 局 巡 査 は 内 務 省 に属 して い るが,戦 病 死 した もの の 墓 碑 は陸 軍 所 轄 の 真 田 山墓 地 に葬 られ て お り,内 務 省 か ら調 査 官 が 派 遣 され て 報 告 書 が 作 成 され た の で あ る。 この 添 付 図 が 真 田 山陸 軍 墓 地 の どの 部 分 を 指 して い るの か は,図 か らはわ か らな い。 この 点 につ いて,飯 沼 雅 行 氏 は 「埋 葬 人 名 簿 」Aに は,昭 和3年 の 改 葬 時 に移 転 しな か っ 一288(288)一.
(11) 真 田山 陸 軍 墓 地 につ い て の2,. 3の 問 題(堀. 田). 1北. 図4明. 治16年 調 査 の 概 略 図. た 墓 に は0印 が つ け られ て い る こ と に注 目 し,現 在 の 墓 域 でAブ. ロ ック とEブ ロ ックお よ. びGブ ロ ックの 中で 上 長 官 の 墓 石 は移 動 しな か った こ とを 明 らか に し,A・Eブ と もに 日清 戦 争 の 時 の 死 没 者 で あ る こ と,Gブ. ロ ック は. ロ ックで は明 治12年 以 降 の 墓 石 は移 動 され. て い な い こ と,現 在 の納 骨 堂 付 近 に は招 魂 社 が あ った の で はな い か と推 測 した(ll)。 図4に つ いて は,北 側 の 柵 の よ う に見 え る部 分 が,招 魂 社 と墓 域 の 境 界 で はな いか と指 摘 して い る。 招 魂 社 は,明 治3年10月. の 大 阪 兵 部 省 の 辮 官 宛 上 申 書 の 中 に,「常 陸 軍 士 官 生 徒 及 兵 卒 等. 死 亡 二 至 リ候 者,祭 魂 社 井 埋 葬 場 取 設 度 」 と あ り,埋 葬 場 所 設 置 の 当 初 か ら設 置 の 計 画 が あ っ た こ とが わ か る。 た だ し,「 祭 魂 社 」 か ら 「招 魂 社 」 へ の 変 更 が い つ 行 わ れ た の か は 不 詳 で あ る。 招 魂 社 に つ い て は 少 な く と も 明治 五 年 か らは そ の存 在 が 明 らか に な って い る,た だ しいつ な くな った か につ いて は未 詳 で あ り,地 図 の 上 か らで は,大 正7年(1918) 発 行 の もの が最 後 にな る(横 山篤 夫 「真 田 山 陸 軍 墓 地 変 遷 史 」)⑫ 。 ま た,招 魂 社 は 一 度 建 て 替 え られ た と思 わ れ る(横 山前 掲 論 文)が,再. 建 前 ・再 建 後 を 含 め て 招 魂 社 の 建 物 の 図. あ る い は写 真 は管 見 の か ぎ り見 あた らな い。 図5は,明. 治21年 発 行 の 「大 阪実 測 図」(内 務 省 ・大 阪府 発 行,5千. 分 の1)で. あ る。 現. 在 の 真 田 山陸 軍 墓 地 の 南 限 は図5中 の 興 徳 寺 と大 応 寺 の 間 の 線 を 東 に延 ば した ライ ンで あ 一289(289)一.
(12) 第7巻. 第1号. る。 図4の 左 に門 ら しき もの が 見 え るが,こ れ は図5の 興 徳 寺 と大 応 寺 の 間 の 道 か ら入 る 部 分 に相 当 す るの で はな いだ ろ うか 。 そ して 図5は. この 門 か ら斜 め 右 方 向 に道 が あ る。 こ. の 道 は招 魂 社 の 東 南 隅 を か す め て い るが,こ の 地 点 が 図4の 北 に あ る柵 が 開 いた と こ ろで はな か ろ うか 。 可 能 性 の 一 つ と して 提 示 して お きた い。 と こ ろで,明 治10年8月1日. に工 兵 第 四 方 面 提 理 代 理 か ら,西 南 戦 争 役 行 在 所 中陸 軍 事. 務 取 扱 陸 軍 中将 鳥 尾 小 弥太 宛 の伺 い 書 に よ れ ば,こ. の 時 点 で 大 阪 で 亡 くな った 戦 病 死 者. 139人 に つ い て,墓 石 へ の 彫 り込 み を 申 請 して い るq3。139個 の 内 訳 は,高 (96cm)の. も の が六 基,同2尺6寸(78cm)の. で あ る。3尺2寸. が 士 官,2尺6寸. さ3尺2寸. も の が33基,同2尺3寸(69cm)が. が 下 士 官,2尺3寸. 百基. が 兵 卒 の もの で あ る。 士 官 は2段. の 台 石 が つ いて お り,石 材 は樟 部 分 が 泉 州 青 石 上 磨 き,台 石 は御 影 石 小 叩 きで あ る。 下 士 官 と兵 卒 は1段 の 台 石 で あ る。 石 材 は両 者 と も士 官 と同 一 で あ る。 これ は,8月7日 可 され て い る。 そ の 後,文 字 につ いて8月2日 出 され て い る(図6参. に伺 いが 出 され,8月21日. に許. に訂 正 の 指 示 が. 照)。 と こ ろが,墓 石 の高 さ は,埋 葬 規 則 の 寸 法 と相 違 して い る。 ま. た,実 際 に現 存 す る西 南 戦 争 期 の 墓 石 の 中 に は この 埋 葬 規 則 よ りも高 い もの も見 られ る。 この と きの 指 示 に よ って 作 製 され た の か も しれ な い。 な お この 上 申書 で は,上 長 官 の 墓 碑 の 左 側 面 に 「薩 賊 征 討 之 役,何 年 何 月 何 日於 何 国 何. 図5大. 阪 実 測 図(部 分).
(13) 真 田山陸軍墓地 についての2,3の. 問題(堀 田). 地 負 傷,同 年 何 月 何 日於 大 阪 没 焉 」 と刻 す こ とが 伺 い 出 され て い るが,こ れ に対 して 「鹿 児 島 賊 徒 征 討 之 役,何 年 何 月 何 日負 傷 何 国 何 地,何 年 何 月 何 日没 於 大 阪 陸 軍 臨 時 病 院,時 何 十 年 何 年 何 月 」 と付 箋 が 付 け られ て い る。 この 指 示 は,士 官 ・下 士 官 ・兵 卒 に も適 用 さ れ て い る(但 し,左 側 側 面 は何 故 か 背 面 に な って い るが,実 際 に は左 側 側 面 で あ る)。 ま た, 墓 碑 正 面 は,官 位 所 属 階 級 姓 名 を 刻 す 事 にな って お り,右 側 に は 出身 地 等 を 記 す 事 にな っ て い る。 実 際 に,西 南 戦 争 で の 死 没 者 の 墓 碑 を 見 る と,次 の よ う にな って い る(B-1524,歴 博 「銘 文 一 覧 」 記 載 を 「埋 葬 人 名 簿 」 で 修 正)。. 面 正 大阪鎮台歩兵第九聯隊第三大隊第四 中隊/兵 卒森下源右衛門之墓 側 右. 三重県下第二大区三小区小牧村平民森下専九郎弟. 側 左 明治十年鹿児島縣賊徒征討之役,八 月二十八 日罹病,十 月十九 日没,於 大阪 陸軍臨時病院,時 二十二年八月. こ の 森 下 源 右 衛 門 の 墓 碑 は,付 格 は 明 治7年 しか し,こ. の 法 則 を 守 って い る。 の 指 示 書 通 りにな って いな い墓 碑 もあ る。 そ の 一 例 を 挙 げて み る。 歴 博 の 備. 日番 号 で は,B-32-19に. 正面. 箋 の 指 示 通 り に 製 作 さ れ て い る こ と が わ か る 。 但 し,規. な る。. 故陸軍兵卒春原春平墓. 図6明. 治10年8月. の 伺 い書 添 付 図.
(14) 第7巻 右側. 長野県信濃国更級郡矢帳. 左側. 明 治 十 年 十 月 九 日於 西 京 死. こ の 墓 碑 で は,階. 第1号. 級 は 記 さ れ て い る が 所 属 は 刻 さ れ て い ず,参. 加 した 西 南 役 を 示 す. 「鹿. 児 島 縣 賊 徒 」の 文 字 も 見 え な い 。 出 身 地 も 書 か れ て は い る が,身 分 や 家 族 関 係 は な い 。 「西 京 死 」 と い う の は,西. 南 戦 争 か ら帰 国 途 中 に コ レ ラ に か か り,京. 都 に あ った 避 病 院 で な く. な っ た と い う 意 味 で あ る 。 春 原 の よ う な 例 は 少 な か らず あ り,指. 示 書 通 りにな って いな い. 墓 碑 が 多 数 存 在 す る。 統 一 が とれ て いな い利 由 につ いて は現 在 は未 詳 で あ る。 大 正15年(1926)11月29日 三 尋 常 小 学 校(現. か ら,真. 真 田 山 小 学 校)に. 田 山 陸 軍 墓 地 の う ち 約3千. 譲 渡 した こ と に 伴 う,墓. が 行 わ れ た ω。 こ の 時 移 転 した 墓 石 は,士 兵 卒 が2,439基 で あ る 。 計2,973基 さ れ,瓶. 石 等 の 移 転 と敷 地 整 理 の 工 事. 官 の 墓 石 が129基,准. の 墓 石 が 移 動 さ れ,各. 坪 を 新 た に設 け る清 堀 第. 士 官 が5基,下. 士 官400基,. 墓 石 の 下 に あ っ た 遺 骸 も掘 り 起 こ. に 入 れ 替 え ら れ て 改 葬 さ れ た 。 現 在 墓 地 に は5,299基 以 上 の 墓 石 が あ る が,そ. ち 半 数 以 上 が 移 動 さ れ た と い う こ と に な る。 こ の う ちAブ (707基)は. 移 動 さ れ て い ず,Hブ. 約3,000坪. ロ ッ ク の169基. の 敷 地 の 中 に あ っ た2,973基. ロ ッ ク(939基)とEブ. の う. ロ ック. は戦 後 の建 設 で あ る。. の 墓 で あ る か ら,1基. 辺 り の 墓 域 は1坪. 余 とい う. こ と に な る 。 改 葬 以 前 に 撮 られ た 清 水 谷 女 学 校 の 生 徒 が 墓 参 して い る 写 真 を 見 る と,比 的 墓 の 間 隔 が ゆ っ た り して い る の が わ か る 。 と こ ろ が,改 間 隔 は 台 石 が 互 い に 接 す る ほ ど 接 近 して い て,1坪 は ほ ぼ 現 状 と お な じで あ る 。 そ れ で は,移 あ る か と い う と,現 ロ ッ ク とEブ ク とEブ. 葬 後 の 写 真 を 見 る と,墓. と墓 の. 以 下 の 窮 屈 な 状 況 に な っ て お り,そ. 動 しな か っ たAブ. ロ ッ ク とEブ. れ. ロ ック は ど うで. 状 は 同 じ よ う に 台 石 が 接 す る ほ ど に な っ て い る 。 そ う で あ れ ば,Aブ. ロ ッ ク は 初 め か らそ の よ う に さ れ て い た の か と い う 疑 問 が 生 じ る 。Aブ. ロ ッ ク は 日清 戦 争 期 の 墓 碑 群 で あ り,Aブ. 構 成 さ れ て い る 。Aブ. 較. ロ ッ ク が 軍 役 夫,Eブ. ロ ッ. ロ ックが 兵 卒 で. ロ ッ ク は 軍 役 夫 で あ る が 故 に 峻 別 さ れ て 墓 域 間 が 狭 め られ た と い う. 可 能 性 は あ る 。 ま た,Eブ. ロ ッ ク の 場 所 は,招. が 不 足 して き て い た の か も しれ ず,そ ろ う か 。 筆 者 と して は,当 時 期 に 墓 地 整 理 が 行 わ れ,す. 初 はAブ. 魂 社 の 東 側 に 設 定 さ れ て お り,す. の た め 既 設 の 墓 域 と は 異 な り,狭 ロ ッ ク もEブ. ロ ッ ク も1坪. で に場 所. く設 定 した の で あ. 余 に 設 定 さ れ て い て,あ. る. べ て の 墓 域 間 が 統 一 され た の で はな いで あ ろ うか 。 これ も疑. 問 点 と して 提 示 して お き た い 。. 一292(292)一.
(15) 真 田 山陸 軍 墓 地 につ い て の2,3の. お. わ. り. 問 題(堀. 田). に. 真 田 山陸 軍 墓 地 に関 して,幾 つ か 疑 問 点 を 紹 介 した が,日 本 各 地 に あ った 陸 軍 墓 地 が 昭 和20年 以 後,縮 小 され た り形 を 変 容 して い るな か で,真. 田 山墓 地 だ け は昭 和20年 当 時 の 様. 子 を そ の ま ま に伝 え て い る。 陸 軍 墓 地 につ いて は,陸 軍 に関 す る事 柄 につ いて は触 れ た く な い と い う 意 識 が 一 時 期 あ り,そ. の 影 響 は 現 在 に も及 ん で い る と 考 え られ る 。 しか し,陸. 軍 墓 地 に関 す る研 究 は国 立 歴 史 博 物 館 の 総 合 研 究 前 後 か ら活 発 にな って きて お り,大 きな 成 果 を あ げつ つ あ る。 た だ,ま だ まだ わ か らな い部 分 は多 々 あ る。 本 稿 にお いて も疑 問 点 を 提 出 した だ けで 明 確 な 解 明 を 行 い得 て いず,今 後 の 課 題 とせ ざ るを 得 な い。. 注. (1)総. 合 的 な もの と して 『国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 研 究 報 告 』 第102号(2003年3月)が. そ の 中 で,横 料 紹 介]旧. 山篤 夫. 「旧 真 田 山 陸 軍 墓 地 変 遷 史 」,原 田 敬 一. 真 田 山 陸 軍 墓 地 概 要 図 ・墓 碑 銘 文 一 覧 」 は 稗 益 す る と こ ろ が 多 い 。 小 田 康. 徳 ・堀 田 暁 生 ・横 山 篤 夫 ・西 川 寿 勝編 ル ヴ ァ書 房)』 に は,小 日本 の 軍 隊,そ. 田康 徳. 生. 『陸 軍 墓 地 が か た る 日 本 の 戦 争 』(2006年,ミ. 「日本 の 近 代 と 陸 軍 墓 地 」,横 山 篤 夫. して 戦 争 」,堀 田 暁 生. 碑 群 が か た る もの 」,西 島 昇 江浦洋. 「死 者 の 認 識 票 と 英 連 邦 戦 死 者 墓 地 」,森 下 徹 係 す る 論 考 を 発 表 さ れ て い る が,こ. ネ. 「墓 碑 か ら見 つ め る. 「陸 軍 墓 地 草 創 期 の 被 葬 者 」,小 松 忠. 「陸 軍 少 将 今 井 兼 利 の 墓 」,西 川 寿 勝. 「西 南 戦 争 墓. 「戦 争 と 貧 乏 徳 利 と 」,. 「個 人 墓 碑 か ら忠 霊 塔 へ 」,川 島 智. 「仮 忠 霊 堂 の 建 築 位 相 」 の 論 考 が 集 め られ て い る 。 そ の 後 も,小. 的 に,関. あ る。. 「陸 海 軍 墓 地 制 度 史 」,「[資. 田 ・横 山 両 氏 は 精 力. こ で は 触 れ な い 。 な お,小. 田 ・横 山 ・原 田. 氏 お よ び 堀 田 等 に よ っ て,「 旧 真 田 山 陸 軍 墓 地 と そ の 保 存 を 考 え る 会 」が 平 成13年(2001) に 発 足 し,研. 究 と 啓 蒙 活 動 を 開 始 し,市. 成16年(2004)に. は 特 定 非 営 利 活 動 法 人 と な っ た 。 同 会 の 会 誌 に は,報. さ れ て い る(第6号 (2)小. 田康 徳. 民 参 加 を 呼 び か け て 墓 地 見 学 や 報 告 を 重 ね,平. 「和 歌 山 藩 交 代 兵 制 度 の 成 立 と 崩 壊 一 近 代 兵 制 確 立 家 庭 に お け る 和 歌 山 藩 」. 藩 政 改 革 の 意 義 」(『和 歌 山 地 方 史 研 究 』5,1982年12月)。 の 展 開 」(『大 阪 の 歴 史 』8,1983年3月)。 阪 の 歴 史 』2,大 (3)大. 服部敬. 同,「 大 阪 陸 軍 所 の 創 設 と そ. 「大 阪 兵 部 省 辛 未 徴 兵 の 一 考 察 」(『大. 阪 市 史 編 纂 所,1980年12月)。. 久 保 英 哲 「大 阪 兵 学 寮 に お け る 仏 式 伝 習 と 加 賀 藩 一 金 沢 藩 「大 阪 兵 学 寮 御 手 留 抜 書 」. を 中 心 に 」(『金 沢 大 学 教 育 学 部 紀 要(人 (4)野. 村 小 三 郎 に つ い て は,イ. 文 科 学 ・社 会 科 学 編)第45号,1996年)。. ン タ ー ネ ッ トで. geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1876/),「. 「野 村 小 三 郎. Vol.4,No.4海. 年 譜 編(http://www.. 設 立 準 備 会 会 誌 日 仏 野 村 小 三 郎 学 会 第5. 号(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1869/No.5-6),rDIC研 (5)飯. 告の概要が報告. ま で 発 行)。. 外 交 流 ドキ ュ メ ン ト(1)∼(3)」(2003年)参. 究所通信 照。. 沼 雅 行 「真 田 山 招 魂 社 の 消 滅 と 現 景 観 の 形 成 一 埋 葬 人 名 簿 と 墓 碑 の 配 列 か ら 一 」. (『旧 真 田 山 陸 軍 墓 地 を 考 え る 』6,旧 真 田 山 陸 軍 墓 地 と そ の 保 存 を 考 え る 会 」2006年3月)。 (6)ア. ジ ア歴 史 資 料 セ ンター 公 開 資 料 に よ る。. (7)同. 上。. 一293(293)一.
(16) 第7巻. 第1号. 8 9 n H B B K. 注(1)参照 。 同右。 「明治 十 六 年 西 南 戦 死 者 墳 墓 地 取 調 書 」。 注(5)参照 。 注(1)参照 。 防 衛 省 図 書 室 所 蔵,「 陸軍 省 大 日記,西 南 戦 役 陸軍 事 務 所,明 治10∼24」 。 大 阪 市 公 文 書 館 保 管 資 料 に よ る。.
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