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研究ノート チベットの歌舞劇アチェ・ラモ概観―その舞台と歴史―

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チベットの演劇というと、仮面舞踏﹁チャム

︵︺・盲目︶﹂を想起する人が多いだろう。それは寺院で上 演されるもので、仏や菩薩、猛々しい憤怒尊の面をつけ た役者︵そのほとんどは僧侶︶が次々とあらわれ、ホルン a匡侭︶と太鼓︵目隠︶、シンバル︵:侭︶のリズムに合 わせながら舞い踊る。役者は、そのつける仮面の尊格そ のものと考えられ、観衆は、目の前に出現する仏の世界 を見ることにより、その功徳を享受する。チベットには このチャムと並び、民間で培われてきたもう一つの演劇 がある。それが﹁アチェ・ラモ︵己。①匡津冒○︶﹂である。

研究ノート

チベットの歌舞劇アチェ・ラモ概観

|チベットの演劇

’ての舞台と歴史I

﹁アチェ・ラモ﹂︵一般には﹁ラモ﹂と略称される場合が 多い︶は、﹁チベット・オペラ﹂と紹介されることが多 いが、そもそもこのアチェ・ラモという詔には、オペラ という意味はない。文字通りにはアチェ︵姉︶・ラモ︵女 神︶で、舞い踊る女優の美しさが、まるで女神のようで あることからこの名が付いたとされている。 円形の舞台は、特別の場合を除き野外の平坦な場所に ① 設けられ、観衆がぐるりと周囲を取り囲む。舞台と客席 が同一平面上に存在するわけであるが、このことが役者 ② と観客との一体感を強めている。舞台の中央には祭壇が

二毎群︽口

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設けられ、一本の樹木が植えられる。 一つの演目は﹁ドン︵魁○口︶﹂﹁シュン︵唱冒侭と﹁タ シー︵房国切言のこという順に進行する。 登場人物の台詞の多くは﹁ナムタル︵目餌日吾閂︶﹂と 呼ばれる歌となっており、その歌唱が、アチェ・ラモの 見どころ、聞きどころである。ナムタルについては後述 する。 ﹁ドン﹂は、序章というべきもので、舞台浄化の意味 も持つ。ここでは三種の人物が登場する。すなわち、狩 ④ 人﹁ゴンパ︵H侭○口g︶﹂、翁﹁ギャル︵侭冨旨︶﹂、女 神﹁ラモ︵匡四go︶﹂である。まず、三角形の板状の面 をつけ、リボンの付いた幸運を呼ぶ矢﹁ダダル︵且四︾ 烏員︶﹂を持ったゴンパが登場し、 シェートン︵段①]四○個︶村の裏山に生えている ああ、神聖なる松柏 香しきその香りは ③ 天の神の国に満ちている などのナムタルを歌唱し、舞台を浄化する。続いて、黄 色の独特な形をした帽子を被り杖を持った二人のギャル が登場し、 幸せな今日のこの良き日は 歌と踊りに最適なので ⑤ 音楽の供養をささげます といったナムタルや、アチェ・ラモの創始者とされてい るタントン・ギェーボに対する礼拝のナムタルを歌唱し、 踊り、舞台を祝福する。最後に五智宝冠を被った女神 ﹁ラモ︵屋幽昌○︶﹂が登場し、 エマ・マニ・ペメ・フム 繰り返しエマ・マニ・ペメ・フム むこうの山をごらんなさい 雲が右向きにうずまいている 偉大な瞑想者が山に住していらっしゃる 吉兆をごらんなさい などのナムタルを歌唱し、踊りを披露する。ゴンパが ﹁パクチェン︵・目侭呂の園︶﹂と呼ばれるダイナミックな 跳躍を披露する度、観衆は喝采を送る。 一時間ほどの﹁ドン﹂の後、その日の演目﹁シュン﹂ が始まる。ドンが終了しても、そこに登場したゴンパや ギャル、ラモがすべて退場することはない。別の役柄を 務める必要のない限り、そのまま舞台にとどまる。その 場面に関わりのない者が、そのまま舞台に立ち続けると いうこのことは、舞台が進行しても変わらない。特に再

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度登場する必要のある役柄の者たちは、一度登場すると、 そのまま舞台に立ち、舞台の端に輪になって並ぶ。そし て出番が来ると、その輪の中に進み出て、演技し、ナム タルを歌唱する。いわば場面ごとに、大きな物理的な舞 台の中にさらに小さな舞台が形成されるわけである。で は何故そのように、場面に関りのない者たちが舞台上に 居並ぶのか、その理由は後述する。

舞台上の一人I多くの場合座長Iが﹁シュンシ

ェーパ︵鴨言品言冨旦冨とと呼ばれるナレーターを勤 ⑦ め、ストーリーの解説や、登場人物の紹介を彼がつとめ ることによって舞台は進行する。シュンシェーパは独特 の早口で解説を行うが、これは、普通のスピードで解説 をしていたのでは、その日のうちに舞台を終了させるこ とができないからだとされている。それでも一つの演目 に七、八時間はかかる。 長時間にわたる上演中観衆を飽きさせないために、笑 いをとるためのコントが必ず挿入される。挿入される場

面は、演目ごとに決まっている。貢マ・オンバル

︵勺且日四↑&]冨壗︶﹂なら、森に薪を拾いに行ったペ マ・オンバルが、村の子供たちと遊ぶ場面や、宮殿の屋 上から遠眼鏡でハルチンの市の様子を窺う外道の王ロク ぺ−.チョージンP品貫:言いゞ烏旨︶とその手下カン ギュク︵氏抄侭冒閏○鴨︶のやりとりの場面、﹃ドワ・サ ンモ︵︺Q○冨胃凹侭目○︶﹂なら、魔女の手下セマ・ラ ンゴa①日四国目唱︶がカーラ・ワンポ禽巴四号印侭冒︶ 王に毒水を飲ませようとする場面、﹁スーキ・ニマ ︵唱侭のご﹄ロ置日四︶﹂なら、外道の神託者と書記との 掛け合いの場面などがそうである。上演中、観衆の最前 列に割り込もうとする老婆と、それを排除しようとする 警備員との掛け合いも、人々の笑いを誘う。 場面転換は通常、シュンシェーパのかけ声とともに舞 台上の役者たちが、舞台を旋回しながら踊り回ることに よって示されるが、場合によっては旋回することなく、 民謡を唄いながら踊る。これも、コントの挿入とならぶ、 ⑧ 観客を飽きさせないための工夫である。 極めて主観的な見方であるが、劇的な場面をことさら ﹁演出﹂しない点は、この演劇の特色であるのかもしれ ない。たとえば﹃ペマ・オンバル﹂中、如意宝珠の授与 の場面は、少なくとも私には、劇的かつ重要であると思 え、仮に﹁演出﹂をするなら、授与の所作を強調し、こ の場面を強く観客に印象づけたいところである。しかし 実際の舞台では、授与はシュンシェーパによる解説中に、

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淡々とおこなわれる。授与という行為そのものは、シュ ンシェーパの語りの中に埋没し、観客に強く印象づけら れることはない。 最後の﹁タシー﹂は吉祥の意であり、フィナーレとい うべきものだ。ここで理解されるように、すべての演目 はハッピー・エンドで終わる。日本の能では、一日の舞 台の最後に﹁祝言﹂という短い謡が唱われるが、それに 相当するものかもしれない。 現在、ショトン祭︵後述する︶での上演は午前十時半 ごろから開始されるが、年一回のお祭りとあって、夜明 け頃から開門前のノルブ・リンカ門前に並ばなければ最 前列のいい席を確保することはできない。そこにはすで に何人かの人がいて、はやく開門するようにと交渉して いる。門が開くや、みな一目散に駆け出す。こうして一 番乗りしても、舞台脇の要所要所にはすでに絨毯やピ ニールシートが敷かれ、席が確保されている。何年も通 っている﹁通﹂の観衆は、前日から席を確保しているの である。 おおまかな粗筋を知らなければ、アチェ・ラモの面白 味は半減する。シュンシェーパが﹁だれだれの登場﹂と 告げるのだが、粗筋を知らなければ、わくわくもしない。 そんな時、近くに座っている年配の人が解説をしてくれ る。観客席のあちこちで、こうしたやりとりが交わされ る。上演が七、八時間に及ぶため、酒や茶を飲み、食事 をしながらの観劇となる。観客間の境界が存在しないた め、自然、隣同士で茶や食事の饗応が交わされる。この ようにして人々は、同一水平上の目の前で繰り広げられ る物語世界を理解し、感動を共有してゆく。 現在、次の八つの演目が伝わっている。すなわち、 ●﹁スーギ・ニマ﹂ ●﹃ペマ・オンバル﹄ ●﹁ドワ・サンモ﹂ ⑨ ●﹁ナンサ・オーブム︵の冒侭団ゞ且︾言昌匡 ●﹁ギェーサ・ペーサ︵H身巴困冨辰、︶﹂ ●﹁ティメー・クンデン︵pH目ロ&百国屋四目︶﹂ ●﹁ノルサン法王︵goの侭冒巨ogN四侭︶﹄ ●﹁トンョー・トンドゥプ兄弟︵魁巨侭冒号目く& ﹄○口”Hロケ︶﹂ の八つである。これら八つの演目についていえば、それ ぞれの演目名を外題とした写本や木版本が存在する。現

三演目

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在では出版社で活字化され流通している。劇団の台本は ⑪ そうした﹁読み本﹂とは別に存在する。 以前はこれ以外にも、レーチュンパ角尉o言侭冒 巳○号四侭のg、一○八五’二六一︶の伝記も演目とな っていたことが、後述するダライ・ラマ十三世︵一八七 六’一九三三︶当時のショトン祭の記録からわかる。ま た、各劇団にはそれぞれ得意の演目がある。 演目の多く︵厳密に言えば、﹁ナンサ・オーブム﹄と﹃ギ ャサ・ペーサ﹄以外︶は、インドを舞台とした物語であり、 経典、とりわけ﹁ジャータカ﹂等の仏教説話が素材とな っている。 ﹃ティメー・クンデン﹄および﹃ノルサン法王﹂は、 それぞれ﹁ヴィシュヴァーンタラ︵ぐ泳ぐ習国同︶﹂﹁ス ダーナ︵の艮習四︶﹂というアジア各地に様々な形で伝播 している物語がそれぞれ下敷きとなっている。﹃スー ⑫

キ・ニマ﹂は、﹁アヴァダーナ・カルパラター

︵皆画島冒宮号ミミ員︶﹂の第六八章が田○局唇四晶后瑁言 怠巴、﹃ペマ・オンバル﹂前半の商人頭ノルサンの物語 は、チベットにおける観音信仰の根拠ともいえる﹃大乗 荘厳宝王経只ミ§合暑暮画、Nミミ員黛員冒︾も烏ぞ 認e﹂に説かれる雲馬王の物語︵o百︾隠昏甲圏旨④ が下敷きとなっている。 とはいえ、それは大筋だけの話で、実際に下敷きとな った物語と比較すると、分量的にも大きくなっており、 さまざまなモチーフが付加されていることは、一目瞭然 である。そんな中、チベット的要素の追加は見逃せない。 たとえば、使者の遺骨を混ぜた泥で作る﹁ツァッァ ︵厨冒煙厨冒四︶﹂という小型仏塔、恐るべき﹁ペハル 弓の冨尉︶﹂という魔王のこと、そして、それぞれの魂 ︵匡幽︶は自己の身体の中にはなく、自然界にある他の 植物や動物の中にある、といった考え方などだ。それは、 チベット人に、より身近に感じてもらうための作為の跡 だろう。 観音信仰の付加も見逃せない。﹁ティメー・クンデ ン﹂では、主人公が国の最上の宝である﹁一切如意﹂を、 敵国に与え十二年の流罪となったにもかかわらずなおも 布施を続け、乞われるままに自分の子供をも布施してし まい、親子別離の物語が展開される。その中で、子供た ちが、烏に託して、生き別れとなった父母に便りを送る 場面がある︵田騨日○︶尉唇禺号鴨冒温ら$農司︶。 それから、その鳥がドゥーリ山︵g巨巳の方に ︹向かって︺、父母二人に便りを寄せた。

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すると父母二人も、悲しくなり、たくさんの涙が流 れた。その涙が海となって渦巻き、その海に蓮花の 大木が生じた。蓮花のその大木に一○○○の花が咲 き、一○○○の花のそれぞれに仏がお生まれになっ た。それらすべての仏の本性は観音であったので、 父母二人は︹その蓮花を︺、礼拝し、右逵するなど 供養し、礼賛した。 蓮花の花が咲き、その一房一房に観音の姿が浮かび、そ れを礼拝する。この場面の前に観音への信仰が強調され ることはなく、唐突な印象を受ける。そもそも﹃ティ メー・クンデン﹂の下敷きとなった﹁ヴィシュヴァーン タラ﹂の物語には、観音信仰の要素などない。元来その ような要素のなかった物語と観音信仰とを結び付けるた ⑬ めに、この場面が強引に挿入された感は否めない。 ﹁ノルサン法王﹂の物語についていえば、舞台はイン ドであるにもかかわらず、たとえば﹁タクッェ県ラモ P凹日。︶は、北との戦争から帰還したノルサンを母親 が迎えた場所﹂といわれる︵9○侭匡淵旦冨笛ら計︾ 閉?誤己。また、﹁ティメー・クンデン﹂で、王人公の流

刑先ドゥーリ今ロ且昌︶は、コンポ・ツェラガン

負○侭冒閂切の匿い盟侭︶であるという。アチェ・ラモ の演目の内容にかかわる伝説は、チベット各地に、この ように残っている。それは、これらの物語が、アチェ・ ラモの舞台を通じ、いかにチベット人に親しまれてきた のかということを如実に示している。 八つの物語のうちいくつかには、特定の著者の存在が 伝わっている。﹃ティメー・クンデン﹂についていえば、 ⑭ 青海民族出版社本では、﹁ミラレパ伝﹄の著者シアン’一 ヨン・ヘールカ両目の画掲閏昌○口馬昌宙、一四五二’一五 ⑮ ○七︶の著作であるとする。 ﹃ノルサン法王﹄の著者は、シェーカル県知事ディン チエン・ニョンパ・ツエリン・ワンドゥー︵切目侭呂の口 曾昌○目冒園扁曽伽号画侭︾号“︶という十九世紀の人物だ といわれている臼。烏冨冒唱忠g恵む。彼は、シガッ ェ近郊にあるサンガクリン︵傷四侭吻品紺の怪侭︶寺の密 教僧と文学上の議論をした。その際、自分の才能を否定 された彼は、数日のうちにこの物語を書き上げたという。 主人公ノルサン法王をそそのかし、女神イトー・ラモ Q丘ご言○巴百日○︶と別れさせようと画策する僧ハ リ・ナクポ臼四局目侭冒︶は、自分の才能を否定した密 教僧をモデルにしたものだという。 ﹃トンョー・トンドゥプ兄弟﹂は、パンチェン・ラマ

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四伴奏楽器

西洋オペラや、京劇、能や歌舞伎と異なり、伴奏楽器 は基本的に打楽器I太鼓とシンバルーと、極めてシ ンプルである。 太鼓は、半径五○センチ程度の木製の胴の両面に皮が 張ってあり、胴には長い柄が付いている。楽師はこの柄 の先を地面に付け、両足で挟み、柄を握り、弓形の細い バチでたたく。場合によっては、胴の部分もたたく。長 時間にわたる上演中、音を均一に保つため、皮の張りに は留意する。両面を交互に使い分け、かつ、演奏を休止 している際には、チャン︵酒︶で湿りをくれ、張りを一 定に保つ。 シンバルは、横ではなく縦に打ち合わせ演奏する。こ てきた人々の手により、磨き上げられたというべきであ の著者、というより、これらの物語を演じ、唄い、語っ いわれている。いずれの説も、確かな証拠はない。特定 ェーが、故郷に伝わる民話をもとにして著わしたものと サンモ﹂は、モン︵旨○口︶地方出身のセラ寺のゲシ 五世︵一八五五’一八八二︶による著作だとも、﹃ドワ・ る。 の二つの打楽器が刻むリズムに合わせ、歌と踊り、そし て物語が進行する。我々の眼には、楽器のリズムに合わ せ役者が踊っているようにしか見えないのであるが、劇 団の楽師はそのようには言わない。実はその逆で、﹁舞 台上の役者、それも、最も上手な役者の足の運びに合わ せ太鼓とシンバルを叩く。そうすれば自然、美しいリズ ムが刻まれる﹂のであるという。リズムは決して単調で はなく、場面ごとに変化する。たとえば、﹃ペマ・オン バル﹂の母子別れの場面では、小刻みなリズムによって、 別離の悲しみが演出される。 舞台の善し悪しは、この太鼓とシンバルの音にかかっ ている。

五仮面

主役は仮面をつけないが、それ以外の登場人物の多く は仮面をつける。日本の能で主役シテがおおむね面をつ けるのとは逆である。 仮面といってもチャムで使われるもののように立体的 なものでなく、多くは布製で、世界的にも珍しい板状の ものである。板状の面は、目の部分︵白目・黒目の部分と も︶と口の部分に穴が開けられている。目の部分に開け

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られた穴は、それをつける役者が外を見るためのもので はない・役者は、口の部分に開けられた穴から外を見る。 これは、顔を覆うというよりも、むしろ、額につけると 表現したほうがよいその着用法によるものと考えられる。 また、板状の面はすべて卵型と、形状は一致するが、 役柄により様々な色の仮面を用いる。色はそれぞれ、そ れを被る登場人物の性格を表しているという。たとえば ︵団冒す園四口胆Hg○H希旨①①津四m1画④︶、 ●白は﹁柔和﹂を示す。﹃ドワ・サンモ﹂の父ロボ。 ●黄色は﹁広大な色﹂で、良家の出身でかつ物知りで あること、努力家で、高い悟りを得ており、功徳を 具えていることを示す。﹃スーキ・ニマ﹂の父仙人。 ●赤は﹁力の色﹂で。智慧を持ち、硬軟取りまぜた臨 機応変な方法で人々を従わせる能力を有することを 示す。﹃スーキ・ニマ﹂のアボ・ナゲタ9局鴨︶、 ﹃ペマ・オンバル﹂の商人頭ノルサン匂吾o品 ●緑は救いの女神ターラーの色で、これを被る者は ターラーの化身であることを示す。﹃ドワ・サン モ﹂の母ゼーマ︵日厚のの白煙︶。 ●半白半黒の仮面は詐欺を行う信頼の置けない人物で 一不す0−スーキ・ ﹃ペマ・オン︵ ︵甘○ロヨ○﹃庁︶画四国ね︶。 唾 あることを示す。﹃スーギ・ニマ﹂のヤマ︵嚴日四︶。 ●黒は、善を表す白の反対、すなわち不善を示すとさ れるが、笑いを起こす、いわば物語の中でトリック スターを果たす者がこの色の面を被る。﹁ペマ・オ ンバル﹂のカンギョク。また、﹃ドワ・サンモ﹂の セマ・ランゴも劇団によっては顔を黒く塗って登場 する場合がある。 というようにである。 ゴンパの被る面も板状で、目と口の部分に穴が開けら れているという点は同じであるが、大型で独特の形をし ている。その面にほどこされた装飾には、様々な意味付 けがなされている。たとえば、頭頂部に宝珠をかたどっ た装飾がほどこされているが、これは、﹃ノルサン法 王﹂の物語中、ナーガから如意宝珠をもらった狩人Iゴ ンパが、それを頭頂のまげに結わえて持ち帰った、とい うモチーフに由来するのだという。また、 ●その形Ⅱ壺 ●背後に垂らす椴子の帯I幡 ●耳飾りI吉祥なる結び目 ●鼻の先の装飾Ⅱ白法螺貝

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舞台はインドであるのもかかわらず、衣装はチベット のものを用いている。 ゴンパの衣装には、様々な説明がなされている。興味 深いことに、それらの説明は、ゴンパが実は狩人でなく 漁師であることを示している。すなわち、上着の縞模様 は身体に映った川の波の姿であるとされる。腰に結わえ た綱︵昌侭陸︶は網を象徴するものとされ、袴の裾を上 げているのは、水に入るからだと説明される。 どの演目であっても、国王、王子、王妃、王女、大臣、 に相当する役柄が存在し、それらの役柄の衣装には、演 目ごとに厳密な決まり事がない。ゆえに劇団は、以上の 役柄について、それぞれ一着ずつ衣装を準備しておけば、 どの演目にも対応できる。国王、王子、大臣の衣装は、 と、仮面に八吉祥が具わっているともいわれる。

六衣装

●頬などに付けた星状の装飾Ⅱ蓮華 ●額の日月Ⅱ法輪 ●まげI傘 ●眼Ⅱ金魚 一九五九年以前のチベット政府の官僚たちの服装である 上着﹁チュパ﹂は同じ形のものを用い、黄色の椴子を用 いる点一致するが、国王のものには龍の文様が入ってお り、区別がなされている。﹃ペマ・オンバル﹂に登場す る商人頭ノルサンは、青い継子のチュパを着用すること が多い。青の衣装は、年長者であることを示すのだとい う。それゆえ、劇団によっては、国王の衣装に、青色で 龍の模様の入った上着を用い、王子の衣装と区別する。 また、被る帽子の種類も異なる。国王、王子がチャクダ ︵]8鴨日烏︾︶を被るのに対し、大臣たちはソクシャ ︵“侭号君“︶を被る。 王妃、王女の衣装はラサの貴族のものである。興味深 いことにゞこうした主役級の︲いわば善玉のI役柄 の者たちがラサ風の衣装を身にまとうのに対し、他の役 柄の者たちは、ラサ以外の、チベットの様々な地域の衣 装を身にまとう。たとえば、﹃ドワ・サンモ﹂に登場す る魔女の手下セマ・ランゴが付ける髪飾りは、王妃、王 女役の付けるものとは違う半円形をした﹁パゴル︵の冒 侭○境︶﹂とよばれるものであるが、これはシアン地方の ものである。また、﹁スーキ・ニこに登場するヤマは コンポ地方の服装を着用する。セマ・ランゴやヤマは、

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﹁ナムタル﹂とは、もともと﹁よく解脱する﹂という 意味であるが、高僧たちの解脱へ至るありさまを示すと いう意味で、一般には﹁伝記﹂を指す語となっている。 それがいつしかアチェ・ラモの登場人物が唄う歌を示す 語にも用いられるようになった。その歌によって自らの 生き様を示すというということなのであろうか。 その歌唱法は実に多彩で、キョルモ・ルンパ系劇団の 場合、百種以上あるというが、歌唱時間の長さから大き くタリン︵量目屯、タンディン︵§﹀冒侭︶、タトゥン ︵§昏巨品︶の三種類に区分される。タとはもともと馬 の意味であり、メロディーを表す語として用いられる。 リンは長い、ディンは中ぐらいの、トゥンは短いという 意味である。 そもそも台詞は、九音節一脚・四脚一句の詩によって 構成されている。ナムタルとして実際に歌われるのは、 その冒頭の二脚だけである。その九音節二脚、計十八音 自分たちの地域の衣装を着用しているのを見て気分を害 いわば悪役である。コンポやシアン出身の人は、悪役が ⑰ することはないのだろうか。

七ナムタル

節をどこで区切るか、言い換えればいくつに区切るかに よって、演唄時間に長短の差が生じる。タトゥンの場合、 九音節・六音節・三音節に、タンディンの場合、六音 節・三音節・六音節・三音節に、タリンの場合、音節の 区分はタンディンと同じであるが、前半の六音節・三音 節を歌唱した後、意味を持たない言葉を挿入歌唱し、し かる後に後半の音節を歌唱する。 区分された各部分はドゥンッァム︵・宮屋目の冨目“︶と ⑱ 呼ばれるが、各ドゥンッァムの後には、﹁レン︵宮︶﹂ とよばれるバックコーラスが入る。アチェ・ラモを見て いて不可解な点の一つ、その場面に関わりのない役者た ちが舞台上で輪になって並んでいるのは、彼等がそうし たバックコーラスの役目を果たすためなのである。 上記三種類の歌唱法が、それぞれ特定のナムタルと結 びついてはいない。この役柄のこの場面のナムタルはこ の種類の方法で歌唱しなければならない、という決まり はない。当日の上演時間が短ければ、タトゥンを多用し、 長ければタリンを多用する、というように、上演の条件 により、どの種類を用いるかを選択する。極めて自由な ﹁演出﹂がおこなわれるのである。

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伝承によるとアチェ・ラモは、タントン・ギェーボ ︵忌煙侭の8品侭冒巨○ゞ一三六一’一四八五︶という遊行の 成就者によって創始されたという。一八七三年に著わさ れた﹁雲乗王︵吊冨go“自画鴨宮口︶﹄という演目︵現在 は上演されていない︶の読み本には、次のような一節が見 られる含甸巴匡四口の言い同号ご鴎“巴。 我が雪山国に於いても、成就自在者タントン・キ ェーボの歌舞音曲に関する事績は数知れず。民衆教 化のために、不思議な歌と踊りの傘を、町の人皆の 頭上に広げた。ここに、究極の正法の実践と、偉大 な聖人たちの伝記に民衆の心を向けさせる巧みな儀 軌として名声高い、マニパあるいはアチェ・ラモが ⑲ 登場した。 母の胎内に六十年間とどまったがゆえに、生まれた時 から老人の姿であり、百二○歳の長寿を全うしたという。 そんな彼の像は、チベットのどこの家庭でも祭られてい る。﹁引っ越しの際、いの一番に持って行くのは彼の像 だ﹂と、あるチベット人は話す。彼には土地の精霊たち を鎮める力があるというのであるが、尊敬を集めている

八創始者、タントン・ギエーボ

理由はそれだけではない。その一生を民衆のために捧げ たからであり、アチェ・ラモという娯楽を与えてくれた からなのである。 舞台上でも、創始者タントンヘの礼賛がなされる。舞 台中央の祭壇にタントンを描いたタンカが掲げられたり、 その像が入ったガゥ︵盟︶匡仏篭︶が安置され、祀られる。 また、ギャルはドンの最中に 第三の本山チャクサム・チュボリ ⑳ タントン・ギェーポの御足に礼拝せん とのナムタルを詠唱する。 タントン・ギェーボは、現在のガムリン県︵檮煙日 ﹃首唱号o侭︶内にあるオバ・ラッェ8冨臣煙易の︶に生 まれ、クンパン・トンョーギェンッェン負目の冒届 ロ○口冒旦同賜巴目m宮口︶というテルトン︵唄田切8口、埋蔵経 典発掘者︶によって、﹁トボ・ペンデン負言Og骨巴 匡自︶﹂と名付けられた。 幼少時代、彼は決して恵まれていたわけではない。七 歳の時には、羊飼いの手伝いを、一六歳の時には、二人 の兄の代わりに軍役に行かされたという。 ただ、幼い頃から俗事への関心が薄く、その書記能力 や、計算能力の高さに、家を継げ、という周囲の言葉に

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は耳を貸さず、放牧に出かけた時には羊や山羊の番をす ることなく山羊の数の黒石と羊の数の白石を集め、それ を靴ひもで結わえて、領土神︵旨巨富︶に山羊と羊の 番をするように命じ、密かに洞窟に住む修行者のもとに 行き、瞑想修行を行ったとも伝えられている。幼少の頃 から様々な神通力を示したともいわれる。 その後は、父の命により爵香やヤクの尻尾などの商品 を担がされ、遠くに商売に行かされた。商売先で、七人 の罪人が死刑にされかかっているのを見て、持っていた 商品を差出し、彼等の罪を購った。そのため帰郷後、父 には叱られたが、母は、息子の慈悲の深さを感じ、彼を 出家させたという。 以降彼は、レンダワ分&日烏︺冨鳴言口目匡○四○“、 一三四九’一四一二︶ら多くの学僧に師事しつつ、瞑想修 行に励み、﹁火と風の瞑想﹂に秀でたという。そうして 修行に励んでいたあるある日のこと、ダーキニーたちが 現れ、 偉大な仏の住する平原︵タン︶に 空性︵トン︶を悟ったョガ行者 無畏の王︵ギェーボ︶のごとくあり ゆえにタントン・ギェーボと名付けん︵望の切片: ⑳ 二℃四﹂]9m口昌@m仁峪、﹃いい1四︶ と彼を讃えた。以後、彼はタントン・ギェーボの名で呼 ばれるようになった。 彼が、アチェ・ラモの創始者とされているのは、その 架橋事業と関わっている。遊行の成就者たる彼が渡し船 に乗った時のこと、船賃を払うことができず、船頭に殴 られ、川に放り込まれた。身をもって渡河の難儀を知っ た彼は、旅人が自由に往来できるよう、各地に橋を架け ることを決意した。スポンサーを求め各地を巡りつつ、 同時に鉄鉱石の採掘を行った。いつしか彼の周りには、 採掘師や製鉄師、鍛冶屋など、鉄の吊り橋を造るための 技術者が集まった。 技術とスポンサーを得て、初めての架橋事業として、 シガッェやギャンッェなどの地方都市とラサを結ぶ幹線 道路上にあるチュシュー︵g屋号巳︶橋の造営に着手し た︵一四三○年のことだとされる︶。だが作業は難航し、資 金も底をついてきた。そこで、工事に携わる人の中から 歌の上手な七人の娘を選び、踊り方や歌い方を教え、タ ントン・ギェーボ自ら大鼓を叩き、人前で演じさせ、資 金を集めはじめた。この七姉妹の踊りが、現在のアチ ェ・ラモの起源だといわれている。

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アチェ・ラモⅡタントン・ギェーボ創始伝承に懐疑的 な意見を持つ学者も多い。弟子によって著わされた彼の 伝記︵段の“H号号騨匡8国ら望︶には、彼とアチェ・ラモ、 あるいは歌舞音曲との関わりについて記されていない。 つまり信頼すべき文献史料には、彼がアチェ・ラモの創 始者であることを示す証拠がないのである。ただショル カンという現代の学者は︵里○房冨品乞隠︾届︲国︶、青 年時代、タントンギェーボと関わりの深いチャクサム 寺︵5侭の間目付○国、チュ、ン1−橋の快に建つ︶で見た﹁タ ントン・ギェーボの前世證︵ヨミ侭§言唱堕亀な3ざミ琶唄 量雰︶﹂という書物に、アチェ・ラモとの関わりがはっ きりと記されていたという。ただ残念なことにこの書物 は、文化大革命︵一九六六’一九七六︶による混乱の中で 行方不明となり、氏もそのことを嘆いている。 今我々の目にすることのできる史料の中で、アチェ・ ラモの存在に言及するもっとも古い文献は、デシー・サ ンギェー・ギャッォ︵もの閏匡静侭の︻唱閉︻陽ゅ目呂○、一 六五三’一七○五︶によって著わされたダライ・ラマ五世 ︵一六一七’一六八二︶の遺影塔の目録である。そこには、 遺影塔完成を祝う歌や踊りの数々が列挙されているがそ の中に︵の己の閏匡らg︽国巴 チョンギェー・タンポチェの者たちが、成就自在者 ⑳ タントンが立案したものと法舞を とあり、また、 他に、我が開祖・王ノルチェンの息子、若者ノルサ ンのアヴァダーナで、人々が﹁アチェ・ラモ﹂と呼 ⑳ ばれているもの とある。﹁若者ノルサンのアヴァダーナ﹂とは、現在も 代表的演目とされている﹃ノルサン法王﹂の物語のこと であろう。 ただ、ここで注意したいのはタントン・ギェーボの著 わしたものと、アチェ・ラモが別のものとして記されて いる点である。つまり、十七世紀後半においては、タン トン・ギェーボが立案したとされるものと、アチェ・ラ モとは呼ばれている演劇があったが、それらは同一視さ れていなかったのである。それが、時代を経て、同一視 されるようになり、現在のようなアチェ・ラモⅡタント ン・ギェーポ創始伝承ができあがったのであろう。 劇団の流儀は、ウー地方のものとシアン地方のものに 大別することができる。それぞれ、その地方の方言を用

九劇団

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ギャンカルパ この劇団の歴史は、マルパ︵巨胄層、一○○二/一○一 二’一○九七︶の四大弟子の一人モトン・ツォポ︵員。 “8日呂○宮︶が創建したギャンカル・チョーゾン︵ら邑 日匡閏goのa圃○侭︶寺とともにあった。劇団員は農業に 従事することなく、この寺院で法要を勤めていた。しか し彼等は正式な僧侶ではなかった。そもそも創建者自身 俗人であったため、この寺院において法要を司る者は、 出家し正式な僧侶である必要はなかったのである。ゆえ に、彼等は法要の際にも僧衣をまとわず、赤色のチュパ を着用し、終了後は決まってチャンを飲み歌やナムタル を歌い宴を催していたという。このように、彼等はラモ を上演する劇団員として、またギャンカル・チョーゾン 寺の法要を勤めるとともに、マニパ︵白“巳目、後述︶と ⑳ しても生計をたてていた。 な劇団の歴史と特徴を概観する。 はゆっくりとエレガントな舞踏をおこなう。以下、おも の舞踏はスピーディーであり、対するシアン地方のもの いるという点はもちろんのこと、総じてウー地方の劇団 lシアン地方の劇団 チュンパ タントン・ギェーボが七人の女性にギャルとゴンパを 加え、現在のような形に整えたといわれる場所、チュ ン・リボチェ︵隠匡侭国9号の︶に本拠を置く。最古の 劇団とされ、太鼓やシンバルの演奏法や演出法ともにタ ントン自らが創始した当時のものであるという。ギャン カルパと比較すると、ゴンパやギャル、ラモの登場する ドンの演技法、ナムタルの歌唱法に類似点が多い。しか ﹁ナンサ・オーブム﹂﹃ノルサン法王﹂を得意とする。 ナムタルも、他の劇団ではその歌詞が詩の形式をとるの に対し、散文形式にしたものを用いる。男女役のナムタ ルの音階やメロディーの差がはっきりとしているという。 一九三○年代にはタムチョー︵冒日。g②︶という劇団 長の指導のもと、多くの優秀な役者を集め、ショトン祭 の上演でも好評を博していた。タムチョーの後、チョー ギェー︵go“侭菖︶という者が跡を継いだ。彼は優秀 な役者ではあったが、指導者には向いていなかった。先 代の築いた高い質を守ることができなくなり、一九四○ 年に入ると、徐々にその名声を失い、劇団長チョーギ ⑳ エーは、ショトン祭での出演禁止という処分を受けた。

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タシー・シヨーパ 起源は一七世紀初頭にさかのぼるという。劇団の所在 地はダライ・ラマ五世の故郷・チョンギェー弓ごo長の シヤンパ ナムリン︵望四日瞥掲︶を拠点とする劇団。ギャンカ ルパと比較すると、演技法やナムタルの歌唱法に大きな 違いがある。太鼓の奏法や演技法についてはチュンパの それと類似している。と同時に、ナムタル歌唱法につい ていえば、キョルモ・ルンパのそれとの類似点が多い・ ゥ−地方に近いことから、後キョルモ・ルンパから影響 をも受けこのようになったのでは、と考えられる。﹁ノ ルサン法王﹂﹁ギャサ・ペーサ﹄﹃ナンサ・オーブム﹂も 上演するが、最も得意とする演目は﹃ティメー・クンデ ン﹂である。 兄弟﹂﹃ナンサ・オーブム﹂を得意とする。 ムタルの歌唱法も種類が多い。﹃トンョー・トンドゥプ る。また、太鼓のリズムの刻み方は少し速めであり、ナ し、シュンにおいてガリーの方言を使っている点、異な 2ウー地方の劇団 侭冒“︶である。五世が誕生した当時、中央チベットで 権勢を欲しいままにしていたのは、カルマ・カギュー派 の支持者でシガッェを根拠地とするツァンパ・デシー ︵賢愚侭忌乱の“且︶であった。いまだ力およばぬゲル ク派は、即座に五世を認定することができなかったが、 一六二二年になってようやくパンチェン・ラマ四世の努 力により、チョンギェー生まれの七歳になった子供をダ ライ・ラマ五世に正式に認定することができた。故郷チ ョンギェーの城下にある邸宅では認定を祝う宴が催され たが、その際城下のとある家の七人兄弟が白い面を付け、 祝いの言葉とともに踊りを披露した。これがタシー・シ ョルパ︵吉祥の城下人︶、別名﹁チョンギェー・カト七人 兄弟︵もごo侭の侭冨、匡煙耳○名目圧目︶﹂と呼ばれる劇 団の起源とされており、それを記念するために、ゴンパ のナムタルでは、宴で踊りを披露した七人兄弟の名前が 歌われる。また、ゴンパ同士の掛け合いでは 我らが師偉大なる五世の小宮殿、歓喜にあふれた幸 せな所を出発し、クンガ・ラワ︵デプン寺ガンデン宮 殿Ⅱダライ・ラマの宮殿にある中庭︶のこの御前に、 我らチョンギェー・カト七人兄弟タシー・ショーパ が至ったことは、夢か現実か。現実ならば、嬉しき

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ことよ・夢ならば、悲しきことよ・喜ぶべきか、苦 しむべきか。 という台詞が語られる。 ゴンパは、舞踏の際、顔を揺らしながら﹁ハハ﹂とい ⑳ う声をあげる。これは馬の声を模したものとされる。ま た、そのつける面は、同じくウー地方の劇団であるキョ ルモ・ルンパのものと異なり、羊の皮で作った白髪の付 ⑰ いた白色︵黄色︶のものである。 キョルモ・ルンパ カダム派の学僧ベーティ⑮ダチョムパ、ワンチュク・ ツルティム︵切国巴ご匹四ロゴOCBで凹旦、“ロ噸でず冒苣胆厨彦昌 匡鄙目吻、三二九’三二五︶によって一一六九年建立さ れ、律およびアビダルマにおけるチベット最高の僧院で あり、ツォンカパも学んだという古刹の近隣に拠点を補 えた劇団である。その起源については、はっきりしない↑ 二○世紀の始め、ダライ・ラマ十三世が亡命を余儀なく されるという厳しい政治的状況の中で一度散り散りにな っていたが、一九一三年、彼のラサ帰還とともに再結成 された。以降、タンサンS亀自鴨言働凋、女優をおおいに 登用した。後述︶、ミクマー・ギェンッェン︵ご侭己目胄 ⑳ ﹃賜巴日扇宮口︶、リクパ分侭冨︶、老ツェマ︵冒房の冒煙 侭目冒︶、サキャ・タシー︵匿いご四目風“宮“︶ら歴代団 長のもと陣容を整え、ナムタルの歌唱法や演技法の面で もおおいに発展を遂げた。他の劇団が、農民のいわばア マチュアであるのに対し、彼らは農地を持たないチベッ ト政府直属のプロの劇団として、チベット各地I冬に は国境を越えてシッキムまでIを巡回した。また、キ ョルモルンを離れ、ラサのルブク付近に居を構えていた とい︾う。 彼等は、チベット各地から才能のある者をIそれが 他の劇団所属の者であっても引き抜き、入団させる ことができた。引き抜きはダライ・ラマの私物を管理す るツェチャー・レクン︵閂の:ご侭荷い厚屋侭︶の命令に より実施されていた。女形で名を馳せたアマ・ツェリン s日幽圃扁目哩の場合、彼はもとディクン︵・印昌 唱侭︶のアマチュア劇団の団員であったが、ラデン寺で キョルモ・ルンバと競演した際、ナムタルの歌唱と舞踊 の能力、さらに容姿の美しさを高く評価された。その報 告を受けたツェチャー・レクンが、彼をディクンからラ ⑳ サに連れて行きキョルモ・ルンバに入団させたという。 現在、ラサ近郊で活動しているアマチュアの劇団おょ

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ショトン祭は、チベット暦六月末に行われる祭りで、 夏安居に入って二週間経った僧侶達にヨーグルトがふる ⑪ まわれることから、﹁ョ−グルト︵ショ昌○︶の宴︵トン の5口︶﹂の名が付いた。宴自体は、一四世紀に始まった が、期間中にアチェ・ラモが上演されるようになったの は、一七世紀前半、ダライ・ラマ五世の時代だとされて いる。当初デプン寺で行われていたものが、一八八五年 にノルブ・リンカ︵ダライラマの夏の宮殿︶に場所を移し、 上演されるようになった。ショトン祭の際、アチェ・ラ モが演じられるのは夏安居中の僧侶達を妨害しようと する悪魔達を喜ばせ、機嫌をとるためだとされている。 一九五九年以前にはこの祭の期間中、チュンパ、ギャ ンカルパ、シャンパ、リボチェパ、キョルモ・ルンパ、 チョンゲー・タシー・プドゥンといった劇団がチベット 各地からラサに集まり、アチェ・ラモを披露していた。 ンでは、近年、新たにアマチュアの劇団が結成され、キ れを汲んでいる。また、その本拠地であったキョルモル び、西蔵自治区蔵劇団はすべて、キョルモ。ルンパの流 ⑳ ヨルモ・ルンパを名乗っている。

一○ショトン祭劇団の晴れ舞台

彼等には納税の代わりとして、上演が義務づけられてい た。 六月二九日に各劇団はポタラ宮で一五分ほどリハーサ ルを披露する。次いで翌三○日早朝、デプン寺で開張さ れる大タンカの前で歌と踊りを披露する。そして七月一 日から六日まで、ノルブ・リンカでのダライ・ラマ御前 公演となる。 ﹃ダライ・ラマ十三世伝﹂︵ぐ巳画胸巨烏︲eによると、 一九二一年に行われたショトン祭参加劇団と上演演目は 次のとおりである。 ●ギャンカルパ⋮﹃レーチュン・ドルジェ・タクパ 伝﹂ ●チュンパ⋮﹃ノルサン法王伝﹄ ●シャンパ⋮﹁ナンサ・オーブム﹂ ●キョルモ・ルンバ⋮﹁ペマ・オンバル﹂ 御前公演の期間中、担当日以外に各劇団は、ラサ市内 各所で個別上演する。しかし、九日以降、ラサ市内での 上演は禁止され、キョルモ・ルンパ以外の劇団はラサを 離れ、それぞれの故郷に帰ってゆく。キョルモ・ルンパ は地方巡演を開始する。 一九五九年以降長い中断の時期を経て、’九八九年、

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再開された。ダライ。ラマ臨席の御前披露ではなくなっ たものの、各劇団にとって、今でもこの祭が晴れ舞台だ ということに変わりはない。ここ数年は、ラサ近郊の劇 団が、晴れの舞台を勤めている。 現在ラサ近郊では、キョルモ・ルンパの流れを汲むシ

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ヨー、ニャラ、︲rlルン・ツォメー︵普○堅旨口頤日厨○ m目且︶、トールン・マー︵呉○旦巨ロ”9口閏︶、︲r−ル ン・ナンヵル︵呉○呂口侭曽凹烏胄︶等の劇団が活動し ている。これらはいずれもアマチュアの劇川で、商業あ るいは農作業の合間に稽古を行い、ショトン祭に備えて いる。上演も、昔と変わずノルブ・リンカ観劇楼前の舞 ⑳ 台が使われている。 大きな変化は、観劇楼の主がいないことと、舞台に女 性が上がるようになったということである。 以前、アチェ・ラモの役者はすべて男性であり、ラモ をはじめとする女役も男性が努めていた。一九一二年の ショトン祭に参加したイギリスの高官チャールズ・ベル ︵g且の切呼己は、次のように書き残している田些 ﹄@画心︾い①い︶O 現在、一つの劇団を除いて、女優は存在せず、男性 と少年が女役を務める。この劇団は女優を雇用して はいるが、小さな役柄としてだけだ。とはいえ、純 潔の城たるこの宝石の公園ノルブ・リンヵで、女優 が演じることは認められていない。 唯一の例外が、一九世紀末から二○世紀初めにキョル モ・ルンパ劇団で活躍したタンサンe一自侭“9画侭︶で あった。彼女はラサ南方ツェタン出身、当時シエタンに は数多くの民間劇団があった。幼い頃からアチェ・ラモ が好きであった彼女は、十歳ぐらいになった時、ツェタ ンのある劇団に入団し、子役や動物の役を演じた。後、 師に従い基本的な演技技法を学び、いくつかの重要な役 もこなせるようになった。しかし、いかに才能があろう とも、男優が女役も果たすという伝統の中で、彼女が劇 団の中で主要な役割を果たすことはできなかった。二十 歳になる前に、彼女は同じ劇団に所属していたラモとい う青年と結婚する。彼女はしばらくアチェ・ラモから距 離を置き、商売をしながら、一家を支えたという。 転機が訪れたのは、夫とともにラサに商売に出かける 途中キョルモルンに立ち寄った時のことだ。彼女がそこ に立ち寄った時、劇団は団長を失い、加えて経済的にも 危機に瀕していた。この状況を見捨てておけない根っか らのアチェ・ラモ好きのタンサンは、劇団再生に全財産

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﹁ラマ・マニ︵匡四目卸冒回昌︶﹂あるいは﹁マニパ ︵日凹巳冒︶﹂とは、タンカ︵軸装仏画︶を掛け、観音の 真言︵Ⅱマニ︶﹁オーム・マニ・ペメ・ブーム﹂を唱えな がら、タンカに描かれている物語を語る、いわゆる﹁絵 解き﹂をおこなう者たちのことである。彼等の絵解きの 節回しは、アチェ・ラモにも影響を与えているといわれ ている。絵解きの題材そのものもアチェ・ラモの演目と 共通している。実際、ここに翻訳した﹃ペマ・オンバ ル﹂や﹃スーキ・ニマ﹂については、絵解きに用いたと じるようになった。 なり、今では逆にペマ・オンバルなどの男役を女性が演 務めるだけであったという。現在では、この習慣は無く がることが禁じられていて、このタンサンも舞台監督を しかし、ノルブ・リンカでの公演では、女性が舞台に上 以降キョルモ・ルンパは男女が共演する劇団となった。 の最も革新的な点は、女優を訓練し登用したことである。 く指示されるのを嫌い劇団を去る者もいたという。彼女 決めた。芸に関してはたいへん厳しく、女性からとやか を投入し、自ら団長となり劇団をリードしていくことに ’一一フマ・マニ チベットは広大で多様な文化様相が見受けられる。ア チェ・ラモはラサやシガッェといったウー・シアン地方 Ⅱ中央チベットで盛んな歌舞劇であり、アムド地方には アチェ・ラモとはまた違った︵とはいえ、その影響下に成 立したといわれる︶独特の歌舞劇が存在する。ゲルク派六 大寺の一つ、甘粛省にあるラプラン寺を中心に育まれて きた﹁ナムタル﹂と称せられているその歌舞劇の起源は ⑯ 次のとおりである。 ジャムヤン・シェーパニ世コンチョク・ジクメー・ワ ンポ︵・菅冒号冒届“言冨堅冒g︻○邑冒呂品ゞ厨切目&号凹品 冒︺一七二八’一七九二︶がラプラン寺の座主であった時 のことである。その弟子グンタン・コンチョク・テン ペー・ドンメ︵⑦尾口”吾動画、旦尻○口冒呂品肝田口息・胃の四○口 巳の一七六二’一八二三︶は、デプン寺で修行中、中央チ ベット︵ゥ−.シアン地方︶の各寺院に伝わるチャムやア チェ・ラモに影響を受け、ラプラン寺に帰った後、ミラ レパの伝記の中の﹁ゴンポ・ドルジェの聞法﹂の逸話を 改編して作った﹁狩人の舞﹂というものを、師コンチョ ⑳ 思われるタンカが残っている。 ’二アチエ・ラモ以外のチベット歌舞劇

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ク・ジクメー・ワンポの前で上演せしめた。師は大変喜 び、問答大会にあわせ参拝する信者たちのために毎年七 月八日に上演するようにと命じた。 その後、ジャムヤン・シェーパ五世ロサン・テン ペー・ギェンッェン︵︺百日号冨国鴨ず昌且冒冨目四目g︺一 品邑日厨冨P一九一六’一九四七︶はラサ遊学中アチェ・ ラモを観劇し、研究をおこなった。ラプラン寺に帰還の 後、リンッァン・トゥルク︵臼目、厨冨侭の冒巳の百︶ にラプラン寺のオペラを改革せよと命じた。彼は内モン ゴルや北京で布教活動を行った経験があり、中国の演劇 にたいする造詣が深かった。一九四四年の正月大祈願祭 の際﹃ソンッェン・ガムポ﹂と題するオペラを上演した。 また、専門の吟唱芸人によって語り伝えられてきた世界 最長の英雄叙事詩﹃ケサル王物語︵の①、閏晶冨53 の宮屋侭匡もオペラの題材となった。数ある話の中で最 も早くにオペラ化されたのは、﹃アタク・ラモ匡唾鳥 ミミ。︶﹂と称せられるヘケサル王が地獄に落ちた妻を救 う話であった。このアムド地方の歌舞劇を﹁ナムタル﹂ と呼ぶのは、文字通りそれが﹁伝記﹂であるからである。 また、中央チベットでも、ラサのムル寺には﹁ムル・ ボンサン︵旨の日名○口唄い目鴨︶﹂という演劇が伝えられ ていた・これは、ダライ・ラマ十三世がイギリスの侵略 を避け、モンゴルに避難した際︵一九○四年︶、チベット の全権を掌握する摂政に任命された第八六代ガンデン寺 座主ロサン・ギェンッェン︵囚○冨幽晶儲賜巴目切言口︾一八 四○I?︶の財務管理官ニャラ・カムバが創始したもの である。ダライ・ラマの早期帰国を願い、メル寺は上演 の許しを乞うた。ロサン・ギェンッェンは喜んでこれを 許可したが、国家が危機に瀕している時に僧侶たちに歌 舞劇を上演させるのは不謹慎だ、という批判が官僚たち から起こり、その声は必然的にダライ・ラマの耳にも届 いた。上演計画に不穏な意図が無いことを理解していた ダライ・ラマは、一九○九年に帰国すると、即座にその 歌舞劇を観劇したい旨希望した。一九四○年、十四世の 即位式の際の上演を最後に、残念ながらその伝統は途絶 えた。カダム派の開祖ドムトンパ︵︾犀○日里○冒冨 昂冨﹂菌︾ご耳匡侭唱尉︾の前世潭﹃テンパ・テーバ ︵冒尋旨曾§包曾︶﹂、﹁ナーガーナンダ﹂をチベット・オ ペラ風に脚色した﹃雲乗王﹂などが﹁ムル・ボンサン﹂ の演目であった。 アムド地方の﹁ナムタル﹂にしるムル寺の﹁ムル・ポ ンサン﹂ものにしろ、共にアチェ・ラモの影響下に創始

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されたものである。いわばアチェ・ラモはこうしたチベ ット歌舞劇の祖型で、その代表格というべきものなので ある。 参考文献 河野]罵言河野亮仙﹁儀礼と芸能のアルケオロジーl インド文化圏の辺縁としてのチベットー﹂色川大吉 ︵編︶﹁チベット・曼茶羅の世界lその芸術・宗教・ 生活l﹄小学館、弓勗竿隠電 スタンご麗蠅刃.シ,スタン﹃チベットの文化決定版﹄山 口瑞鳳、定方晟訳、岩波書店。 索窮g冨唖索窮﹁覚木隆的蔵劇人﹂﹁中国西蔵﹂刀 ︵い○○四’四︶、己や①い’①心0 次仁・楊g置叩次仁羅布、楊念黎﹁娘熱郷的民間業余芸 術団﹂﹁中国西蔵﹂鼬︵gEle、弓扇︲扇。 坪野こま“坪野和子﹁チベットの音楽Iその伝統と現 状l﹂﹁トンパ﹄3,出帆新社、弓程些9. 坪野g一需坪野和子﹁歌って踊って演技してlチベッ ト歌劇アチェ・ラモを中心にl﹂石濱裕美子︵編︶ ﹃チベットを知るための帥章﹄明石書店、弓屋中﹄巴 坪野・増山煙三唱坪野和子、増山賢治﹁現代チベット音 楽の変容と伝統回帰l中国領チベットにおける民族 文化の独自性をめぐってl﹂﹃広島大学大学院教育学 研究科音楽文化教育学研究紀要﹂皿、弓弓︲弓。 三浦ご罵亜ツルティム・アリオーネ﹃智慧の女たち﹄三 浦順子︵訳︶、春秋社。 格曲邑冨”格曲﹁桑耶寺康松桑康林白面具蔵劇壁画絵制 年代与内容考弁﹂﹁西蔵芸術研究﹄99︲偵目段︲産。 中国劇曲志ご弱恥中国劇曲志編輯委員会﹃中国劇曲志・ 西蔵巻﹄文化芸術出版社、北京。 国皇ら隈恥凹員○言1のめ団の房国冨烏出怠ミミ、爵馬員○x︲ 、ユ、l型竺] HOHp亜r岸、Hのロロ○己. 国盲目Qの色臣︺や、争轆シロロ①シ[閂肘、5口二の口匡︾︽弓面①F篦の旦吾の o巨匡も印旦昌段○PずpH坤○目昏の吾の昌吊8s①ご巴昌のg 冒侭①ご︺皀盲ョ冨侭zoH言﹀且“︾凶。②︲鴇、恥鴬︾卦一・菖畠 §忌号冒呉目ざ食巨胃勉昌○︷弓号①冨口三○房、陣臂︲ 。旨く①m、ロ弓四門口目の巴四︾も己画C1や鰐 閃胃壷釣屋号①目ご罵恥西口ぬず幻月冨己の○口.○s、ミ。ミ鴎a等、 5号自国園、口戸の2旨呂P5○ごgoP 屍四国房。ご◎国風噛切再四国噸、丙望①ご喰弄写三岳客碗悶四目呂巨 国冨﹂ロ”○ず①ロ丙騨ロ]ず○ずOgpm印Hmpmm穴冒○口、丙彦戸]国、 唱尉2F&・ゞ、貝ご員蕊呂噌︺︲︾・鷺包ご画苫甥言ぎ厨 ﹄ 1当

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①坪野︵ら沼皀8、gE︽昂巴は舞台を﹁土俵型﹂と 表現する。筆者が見た限りのラサ近郊での上旗では、そ のような形式のものを認めることができなかった。シ ョー劇団︵凶︺○巨冨日○厨弓鴨冨︶のジャムヤン︵・苛日 号冒長の︶氏によると︵二○○四年夏のインタビュー︶、 一九五九年以前のショトン祭におけるノルブ・リンカで の御前公演の舞台は、そのような形式であったという。 ただし、四○冨己の○国︵己麗*らとに掲載されている一九 四九年以前撮影のもので、﹁ヨーグルト祭期間中のノル ブ・リンカでの上演﹂のキャプションの付いた写真には そのような土俵型ではなく、客席と同一平面上にある平 坦な舞台での上演の様子が写っている。 ②舞台と客席の境界があいまいなため、観衆が増え混雑 してくると、観客は前列に前列にと座るようになり、舞 台は狭くなってゆく。 ③吾の]四○品儲喝号尉匡煙ゞ客8頁ミ煙岸o匡鯉いぽ掲唱 、犀pmb四ミニ目白o写○m圃巨冒己口置園田ず閉奎の5国輌己写罰○ぬの ﹄彦四営巳ニロ屍寄理ゆず言○二二 ④ギャンッェ・シガッェで家長をこう呼ぶという。一四 三六年、シアン地方のジェーボ・タシッェ︵︾荷ざ。ウ犀煙 吻冨の号の︶の吊り橋工事の際、資金集めのため、ラモの 踊りが披露されていた。若い頃歌を唄うことに長けてい ここに記して謝したい。 したい。また、鷺坂健一氏からは貴重な文献を借用した。 きれず、十分に生かすことができなかったことをお詫び た年老いた家長がこれを見て、興をおぼえ、昔取った杵 柄とばかりにラモの輪に入って踊った。これがギャルの 起源であるといわれている︵四○胃四品a○号ら路︽ ご皇11Q一○ トト卜心﹄ ⑤目印冨画届号H旨い“ごag・目冒邑感巨皇哩冒目畠彊﹃ 画包、画︾す闇ごHg日○・]日o豈○Qで四ず巳]○ミ ⑥の白煙冒四冒冨日どの言日奎冨侭切の①白煙日四日恩自巨の 冒巨日奎昼す○罰四匿い蜘揖、Q四口、、、の日ロ媚も色めいとPのずい斥○H Hm﹃四ぬい耐、、mmOHp○ヶのロ凰旨四ヶ園︾厚い②己印︾︺、、冒旦四肖巨、ずい四国m 冒四﹂いい凶ぬい巳mpm、、 ⑦本来ならシュンシェーパは個別に置かれるべきである が、劇団員に限りがあるため、登場人物のうちの誰かが 務めざるを得ないのである。なお、シュンシェーパはシ ュンサンバ︵鴨宮口曲閂○侭冨︶ともドンジンパ︵日号 ﹀鳥目息︶ともよばれる。ドンジンパの語は、インド古典 演劇の聖典である﹁演劇典範︵﹄奇冒蔚魚昌こに定められ ている舞台に必要な三種の人員のうち、劇の最初に登場 し、祝言を述べ、演目の説明をおこなう座頭﹁スート ラ・ダーラ︵の日日号図画︶﹂の訳語である。ここから、ア チェ・ラモとインド古典演劇との関係をうかがうことが できる。河野︵后路︶は、アチェ・ラモを﹁インド文芸 の伝統を引き継いでいる﹂ものとし、男が女役を兼ねる 点をあげ、カタカリ舞踏劇との関連を指摘している。ス タン︵ら困哩韻らは ﹁チベットの演劇の構成様式はインド起源のように思わ れる。⋮中略⋮しかし、歌の形式、メイキャップ、身振

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りの図式化、脇役などは中国オペラに非常に近いように 思われる﹂ と指摘している。たしかに仮面の使用は、顔の表情によ って情感をあらわすことに芸術的価値を見いだしている インド古典演劇との大きな相違点である。 ⑧﹃ドワ・サンモ﹂後半の見せ場となっている遊牧民のヤ ク使い︵叩冨ぬう①eと乳搾りの場面も、観客を飽きさ せないための工夫である。キョルモ・ルンパの団長タ シーは、こうした工夫の多くを舞台に加えていったとい ︾っ︵シ日四目の言①H旨、骨④①得得oeO ⑨三浦順子氏による全訳がある。︵三浦己隠︽]吊由誤 ﹁死から甦った女Iナンサ・ウーブム﹂︶ ⑩ケサン・トンドゥプ氏は、以上八つの演目の内容を簡 単にまとめている︵い罵晟い”晶合目四号ら胃皀︲韻︶。 ⑪読み本と実際の上演の問には、話の筋の上で極端な差 は見られない。では、台本は読み本をもとに作り上げら れたものであろうか。台本、読み本、実際の上演の間の 関係については、今後の課題としたい。 ⑫サキャ・パンディタ︵留切ご煙冨且冒冒邑侭四ゞ﹃賜堅 目m宮口、一一八二’一二五一、以降サパン︶がインドの パンディタよ、リ﹁スーキ・ニエマ狩凶震頚奪冒冨蔦ごミ︶﹄ という演劇を聴聞したことが、彼の直弟子による伝記に 記されている︵田○層百口目具どの口ら器︽弓︶。﹃スー キ・ニエマ﹄とは﹃スーキ・ニマ﹄のことであろう。サ パンは、豆日楽論︵記。ざ一昌胃§胃。い︶﹂というチベット 初の音楽諭書を著わしている。この論言には︵駛己目 己尉”g]い︲と、﹁中央の園では伝承の、演劇にすべてが 凝縮されている。この辺境では今でさえ、上演もなけれ ば聞くことも稀である︵号尻︾閏昌合切富]ロ騨哩四目門賜且 穴営奎旦○mm閏す︼のユで即の弓四日⑱○画己の丘望○局奎日三m︾岸彦○ず ︾呂冒四回の旨冨ケロミづく①Qpm︾四国、岸冨いず○ぬ号○ので、四口” 烏○口s﹂との一節がある。﹁中央の園﹂とはいうまでも なくインドを指す。この一節から、サパン自身はインド の仏教演劇を学び知っていたものの、当時、つまり一三 世紀の前半には、それが一般には普及していなかったと いうことをうかがうことができる。実際、仏教演劇の代 表作﹃ナーガーナンダ︵奇恩言§§這這ざ言昌晶惑さ昌 匙。吻噌、︾も①穴zo患鯉︶﹄は、チベット語にまだ翻訳さ れていなかった。これらの作品が翻訳されたのは、サパ ンの次の世代の時代、つまりその甥パクパ・ロドー・ギ エンツエン︵響石弓、ぬいで四国5,8の侭旦昌日蔚匪四国、一二三 五’一二八○︶がモンゴルよりチベットの統治権を委ね られた時代になってからのことである。 ⑬チベットには同じく﹁ヴィシュヴァーンタラ﹂の物語 を下敷きにした文学作品がある︵所自国四目怪侭冒 ご誤やめ︻ぐ号の号冒品のら己︶。それらと﹃ティメー・ クンデン﹂との関係については、今後子細に検討したい と考えている。 ⑭b嵐営鼠迂ミミミ豊﹃・ミミ琴ミ@日目呂○、侭○口目]ロ鴨 9口の、穴叶巨口穴彦四目頤国芦屋ロ四﹄④、餌 ⑮著者シアン’一ヨンの名前は、本の表紙と出版の奥付に 記されているだけで、本文のコロフォンにも見出せない。

参照

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