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石橋湛山に対する公職追放に関する一考察 : 1946年5月から6月までにおけるGS内部の議論を中心に

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(1)石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. 研究ノート. 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察 ―1946年5月から6月までにおけるGS内部の議論を中心に―. 金 官正 Ⅰ.はじめに 太 平 洋 戦 争 の 終 戦 直 後、GHQ/SCAP( General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers: 連合国最高司令官司令部)に よって、い わ ゆる好ましくない人物に対する公職追放政策が実施された。公職追放を所管し ていた GHQ/SCAP の GS(Government Section: 民政局)によって日本政府に 対して発せられた 1946 年1月4日付の「好ましくない人物の公職からの除去 (SCAPIN550) 」 、つまり公職追放に関する指令には、追放対象者としての「好 ましくない人物」とは、 「A.戦争犯罪人、B.陸海軍の職業軍人、C.超国家 主義団体の有力分子、D.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者、E.海外の 金融機関や開発組織の役員、F.満州 ・ 台湾・朝鮮等の占領地の行政長官、G. その他の軍国主義者・超国家主義者」であると定められていた1)。このことか ら、GHQ/SCAP による公職追放政策とは、民主化改革の手段のみならず、懲 罰の手段であり、強い政治的性格をもつものであったといってよい。 GHQ/SCAP によって実施された一部の公職追放については、占領期という 異常な政治情勢の中で企てられた政治的陰謀が含まれているという陰謀論が提 75.

(2) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). 起される場合があった。その例が、GS が 1947 年5月7日に日本政府に発した 覚書2)に基づいて実施された石橋湛山に対する公職追放である3)。GS が石橋 に対する公職追放を要求した理由は、 公職追放指令の 「G.その他の軍国主義者・ 超国家主義者」に石橋が該当するということであり4)、その根拠としては「東 洋経済新報社の編集方針に係わる石橋の責任」があげられていた5)。こうした 覚書を受け、日本政府は 1947 年5月 16 日付で石橋に対する公職追放を実施し た6)。ところが、石橋に対する公職追放については、公職追放に関する研究、 あるいは石橋に関する研究において、その公正性や客観性に関する疑問が提起 されてきた。 たとえば、石橋に対する公職追放過程を分析した増田弘は、石橋に対する 公職追放について、 「公職追放令に照らして不当なもの」であり7)、 「GHQ/ SCAP の政治的作為によるもの」であったと主張するとともに8)、 「占領史上 に汚点を残すこととなった」という評価を下している9)。増田が上記のような 分析を提示する論拠は、GS によって石橋に対する公職追放問題が 1946 年半ば 頃に提起されてから一旦消えたにもかかわらず、石橋が戦時補償打ち切り問 題、終戦処理費問題、インフレーション問題等をめぐって経済改革担当部局の ESS(Economic and Scientific Section: 経済科学局)と 対立 し 続 け た 結果、再 び GS によって石橋に対する公職追放問題が提起され、実施されたという事実 にある 10)。増田によると、GS は、占領政策への抵抗を続けた石橋を懲罰する ために、その信憑性すら疑わしい東洋経済新報社の編集方針に係わる石橋の責 任を理由に、石橋を好ましくない人物として規定し、公職追放を要求したとす る 11)。増田は、東洋経済新報社の編集方針に係わる石橋の責任という GS があ げた公職追放理由について疑問を呈する根拠として、石橋を中傷する日本共産 党などの情報が GS によって利用されたという可能性 12)と、GS が石橋関連出 版物の内容を誤解もしくは曲解したという可能性に求めている 13)。 しかし、石橋に対する公職追放について疑問を提起する増田の研究には、一 つの問題点がある。その問題点とは、上記の二つの可能性を明確に立証しない 76.

(3) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. まま、石橋が GHQ/SCAP の占領政策に抵抗したことのみを強調する形で、石 橋に対する公職追放が政治的陰謀によるものであったという主張を導き出して いることである。 本研究は、GHQ/SCAP、とりわけ GS によって、吉田茂を総理大臣とする 内閣(第1次吉田内閣)の成立直後から石橋に対する公職追放問題がどのよう に取り扱われたかを再検討し、以下に述べる三点を明らかにすることを目的と する。 まず、日本共産党など、いわゆる左翼勢力が、石橋を攻撃する情報を GS に 提供したことは事実であるが、GS がそうした情報に基づいて東洋経済新報社 の編集方針に係わる石橋の責任問題を提起した可能性は極めて弱いということ である。本研究では、GS が石橋を攻撃する日本共産党の資料を利用しなかっ たという事実を明らかし、石橋に対する公職追放と関連して日本共産党の役割 を重視してきた従来の研究に疑問を呈する。 第二に、GS の立場からみれば、日本共産党などの情報を利用せずに東洋経 済新報社の編集方針に係わる石橋の責任問題を提起することは十分可能であっ たということである。本研究は、このことを明らかにするために、GS が石橋 に対する公職追放の根拠とした月刊誌『オリエンタル・エコノミスト』 (The Oriental Economist)の抜粋記事と、それらの記事が問題とされたことに対す る石橋の反論を合わせて検討する。本研究が『オリエンタル・エコノミスト』 の記事に注目する理由は、石橋に対する公職追放問題に関する GS の議論が主 に『オリエンタル・エコノミスト』を中心に行われたからである。なお、石橋 の反論を検討する理由は、GS が『オリエンタル・エコノミスト』の記事を誤 解もしくは曲解していたかどうかを検討するためである。 最後 に、GS の み な ら ず、ダ グ ラ ス・マッカーサー(Douglas MacArthur) 連合国最高司令官も 1946 年6月下旬頃から石橋に対する公職追放を既定の方 針として固めていたということである。従来の研究においては、吉田内閣の成 立直後から石橋に対する公職追放問題が提起されたものの、実施されなかっ 77.

(4) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). た理由を、当時マッカーサーが、最大の政治改革であった新憲法制定のために 吉田内閣を維持させる必要があった点にに求める 14)。しかし、同時に、GS が 1947 年5月7日付で石橋に対する公職追放を日本政府に要求した理由として、 当時新憲制定が終了したことではなく、石橋が GHQ/SCAP の占領政策に対し て抵抗したことをあげる。つまり、公職追放過程の分析に論理の揺らぎが見ら れるのである。本研究では、GS が石橋に対する公職追放を主張した 1946 年6 月 26 日の時点における理由が、1947 年5月7日の時点における理由と連続線 上にあったことを論じ、マッカーサーと GS が新憲法制定という占領目的のた めに石橋に対する公職追放の実施を単に延期していたことを明らかにする。 本研究はさらに、石橋が GHQ/SCAP の占領政策に対して抵抗したことのみ を強調してきた従来の研究は、戦時期における石橋の政治的立場に関する十分 な検討なしに戦前期と戦後期における石橋の小日本主義を直接結び付けようと してきたとして、これらの研究とは一線を画す立場に立つものである。. Ⅱ.石橋に対する公職追放問題の発端 1.吉田内閣成立直後の GHQ/SCAP 内部の動向 吉田内閣が発足してから間もなく、GHQ/SCAP 内部では、閣僚二人の公職 追放問題が提起され、その問題への対応をめぐって二つの部局が対立してい た。その二つの部局は、特別参謀部(非軍司部門)における政治改革担当部局 の GS と、一般参謀部(軍事部門)における情報、保安、検閲担当部局の G-2 (参謀2部)であった。G-2 は 1946 年5月3日に特別参謀部における民間検閲、 公安、防諜担当部局 の CIS(Civil Intelligence Section: 民間諜報局)を 吸収 し ていた。 吉田内閣の発足と共に GHQ/SCAP 内部で展開された上記の状況は、当時 ア メ リ カ 第八軍司令官 で あった ロ バート・L・ア イ ケ ル バーガ(Robert L. Eichelberger)中将の日記からうかがうことができる 15)。これによれば、当時 78.

(5) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. GS の局長であったコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将は、 吉田内閣の閣僚二人が公職追放対象者に該当する好ましくない人物であり、閣 僚の職にとどまることを阻止すべきだと主張していた 16)。一方、このような ホイットニーの主張に対しては、G-2 の局長であったチャールズ・A・ウィロ ビー(Charles A. Willoughby)少将が、吉田内閣の崩壊を招きかねないという 理由をあげ、強く反対していたとされる 17)。 ウィロビーがホイットニーの主張に反対した理由は、単に吉田内閣の崩壊 を憂慮したことによるものだけではなかった。ウィロビーがホイットニーの 主張を認める場合、ウィロビー自身の責任問題が提起される事態を避けられ ない可能性があった。というのは、マッカーサーが、吉田内閣の閣僚二人の 公職追放問題に関するホイットニーの報告を受け、ウィロビーを叱責したと されるからである 18)。G-2 と CIS は、閣僚候補者が公職追放対象者に該当する か否かをチェックする職務を担当していたから、それは当然であったといえ る。ところが、ウィロビーの責任問題が提起されることはなかった。その理由 は、ウィロ ビーが、FBI(Federal Bureau of Investigation: ア メ リ カ 連邦捜査 局)の報告書を根拠に、困難な立場に立たされることを免れたことによるとさ れる 19)。FBI の報告書には、 東京の ACJ(Allied Council for Japan: 対日理事会) においてソ連代表として務めていたクジマー・N・テレビヤンコ(Kuzima N. Derevyanko)と密接な関係をもっていたロシア人が、GS に情報を提供したと いう内容が記されていたとされる 20)。つまり、ウィロビーは、マッカーサー に対して、ホイットニーの主張が信頼できない情報源に基づくものであること を指摘し、G-2 と CIS の調査に不手際がなかったことを示したのであった。 現在のところ、公職追放問題が提起された閣僚二人の名前 21)、閣僚二人の 公職追放問題が提起された理由、FBI の報告書の存在有無などを確認すること はできない。しかし、アイケルバーガーの日記から確認できることが一つある。 それは、GS が、G-2 と CIS とは別に、吉田内閣が成立した直後から、一部閣 僚に対して公職追放を視野に入れた調査を行っていたということである。この 79.

(6) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). ことは、 当時文官要員として GS に務めていたトーマス・A・ビッソン(Thoma A. Bisson)が、1946 年6月9日付の日記において、 「GS が保守党内閣の最悪 の閣僚を二、三人追放しよとなお努力している」と記していることからも裏付 けられる 22)。 GS によって公職追放問題が提起されていた吉田内閣の閣僚のうち一人は、 石橋であった可能性が高い。その理由としては、GS が、1946 年5月 24 日付 で 「出版物分析」という文書を作成したことをあげることができる 23)。これは、 吉田内閣の成立前後に、GS によって石橋関連出版物が分析されていたことを 意味する。その文書の具体的な分析内容を確認することはできないが、GS が 石橋を公職追放対象者として分類する根拠として用いたのが、週刊誌『東洋経 済新報』と、その英文版である『オリエンタル・エコノミスト』の編集方針に 係わる石橋の責任であったことを考慮に入れると、吉田内閣の成立前後から、 GS が上記の「出版物分析」を作成したことは偶然ではなかったと考えられる からである。 ともあれ、GHQ/SCAP 内部において、吉田内閣の成立直後から一部閣僚の 公職追放問題をめぐって展開されていた対立は、1946 年6月 14 日頃の時点に おいて鎮静局面を迎えていた。しかし、これは、問題が完全に解決されたこと を意味しなかった。なぜなら、アイケルバーガーの日記からうかがえるのは、 マッカーサーが G-2 と CIS による閣僚候補者に対する調査に問題点がなかっ たことを認めたことだけであり、GS が問題とした吉田内閣の一部閣僚に対し て、公職追放対象者に該当しないと決定したことを意味しなかったからである。 それゆえ、GS によって再び吉田内閣の一部閣僚に対する公職追放問題が再び 提起されることがあるとしても、それは何ら不思議ではない状況であった。. 2.アメリカ陸軍省からの電文 GHQ/SCAP に は、1946 年6月 16 日付 で ア メ リ カ 陸軍省 か ら 一 つ の 電 文 が 情報 と し て 届 い た 24)。こ の 電文 に は、6月 12 日、FEC(Far Eastern 80.

(7) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. Commission : 極東委員会)において、ソ連代表が吉田内閣の閣僚四人に対し て公職追放問題を提起した状況が記されていた。FEC のソ連代表によって名 前がとりあげられた吉田内閣の閣僚は、蔵相の石橋、商工相の星島二郎、国務 相(7月1日から逓信相)の一松定吉、内相の大村清一であった 25)。FEC の ソ連代表は、これら四閣僚を GHQ/SCAP による1月4日付の公職追放指令に 定められていた公職追放対象者に該当する好ましくない人物であると主張した うえで、この件を FEC で正式の議案として採択し、議論することを提案した のである 26)。 吉田内閣の閣僚四人に対する公職追放問題は、FEC における政策決定の仕 組み、つまりアメリカ、イギリス、ソ連、中国が拒否権を行使できる仕組み を考えると 27)、FEC において正式の議案として承認される可能性はなかった。 これは、アメリカ陸軍省も電文を通じて言及していた 28)。とはいえ、FEC の ソ連代表が石橋、星野、一松、大村の公職追放を主張する根拠として、<表- 1>に示されているとおり、1946 年1月4日付の指令における「D.大政翼賛 会等の政治団体の有力指導者」や「E. 海外の金融機関や開発組織の役員」に 分類できる経歴を具体的に提示していただけに、アメリカ陸軍省もそれを一 応確認する必要があった。そこで、アメリカ陸軍省は、GHQ/SCAP によって それまで実施されてきた公職追放政策がアメリカ政府の政策に合致している ことや、GHQ/SCAP が占領目的に最も役に立つタイミングを考慮しつつ公職 追放政策を実施する必要があることを認めるという旨を記したうえで、GHQ/ SCAP に対して吉田内閣の閣僚四人に関する情報提供を要請していた 29)。. 81.

(8) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). <表- 1 > FEC のソ連代表が提示した吉田内閣の閣僚に対する公職追放主張の根拠 閣僚名. 公職追放主張の根拠. 石橋湛山. ・大政翼賛会の調査委員会(research commission)委員. 星島二郎. ・翼賛政治会と大日本政治会の会員 ・司法政務次官. 一松定吉 大村清一. ・翼賛政治会評議会と東亜連盟の会員 ・大審院検事(1929)-特別独房拘束制度の実施 ・厚生政務次官 ・近衛内閣の文部次官(1940) ・内務省警保局長(1937) ・北支那鉄道会社役員(1943 ~ 1944). 出所:Washington( WDSCA )to CINCAFPAC, “Incoming Massage( W-91476 )” 16 June 1946(国会図書館所蔵 Microfiche GS(B)-01171)に基づいて作成。. 上記の電文で、とりわけ石橋と関連して注目すべきは、FEC のソ連代表が 石橋の公職追放問題を提起した根拠が大政翼賛会の「調査委員会」 (research commission)の一員であるとしていたことである。そして、この根拠は、当 時日本共産党によって作成された戦犯容疑者関連資料の内容が酷似している ということである。FEC のソ連代表が石橋の公職追放問題を提起する以前 から、日本共産党から GS に石橋を攻撃する資料が寄せられていた。その一 例 は、石橋 を 大政翼賛会 の 調査委員会(investigating committee)と 他 の 委 員会の一員であったと記していた戦犯容疑者関連資料である 30)。この資料 は、日本共産党の独自の調査によるもので、1946 年5月 18 日に公表された 31). 。日本語の「調査委員会」を英訳する場合には、 「investigating committee」. の ほ か に も「investigating commission」 、 「research committee」 、 「research commission」を用いることができる。つまり、日本語の「調査委員会」を英 訳する過程において、日本共産党の戦犯容疑者関連資料に記されていた調査委 員会(investigating committee)が、FEC のソ連代表が言う調査委員会(research commission)に訳された可能性が十分あり得るということである。たとえば 82.

(9) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. GHQ/SCAP においても、CIS では、 後に述べるが、 「調査委員会」を「research committee」として訳している。 吉田内閣の成立前から始まっていた日本共産党による石橋攻撃は、上記の例 にととまらず、石橋に対する公職追放が実施される直前まで続いた 32)。こう した日本共産党の活動は、従来の研究において、石橋に対する公職追放問題が 提起される理由を、日本共産党の役割に求める論拠の一つとなっている。 一方、ACJ も連合国最高司令官の日本政府に対する重要な指令の発出につ いて協議・助言できる権限に基づいて 33)、吉田内閣の閣僚四人に対する公職 追放問題を議論し始めた。そのきっかけは、吉田内閣の閣僚四人の公職追放問 題に関して、オーストラリア政府から ACJ のイギリス連邦加盟国の代表宛に 緊急電文が届いたことであった 34)。つまり、FEC のソ連代表が提起した吉田 内閣の閣僚四人に対する公職追放問題は、オーストラリア政府を経て ACJ で も議論されることになったのである。ただ、ACJ においては、ソ連代表では なく、あくまでイギリス連邦加盟国の代表を中心に議論が行われていた。こう したことは、ACJ のイギリス連邦加盟国の代表が、 当時 ACJ の事務局長であっ たボナ・F・フェラーズ(Bonner F. Fellers)大佐を経由し、1946 年6月 18 日 付で石橋、大村、星野、一松に関する情報提供を要請する覚書を G-2 に伝えて いたことからうかがえる 35)。 FEC のソ連代表が、吉田内閣の閣僚四人に対して公職追放問題を提起した 背景には、GHQ/SCAP と FEC の間において、日本の統治構造改革、つまり 新憲法制定問題をめぐって対立が続いていた状況があった。このことは、アメ リカ陸軍省が、すでに言及した 1946 年6月 16 日付の電文を通じて、FEC の ソ連代表による吉田内閣の閣僚四人への公職追放問題の提起を、日本の統治構 造改革から排除されたきたソ連の戦術であると捉えていたことからも裏付けら れる 36)。当時、日本では、1946 年3月6日の憲法改正草案要綱発表、4月 10 日の総選挙実施、5月 22 日の吉田内閣発足など、統治構造改革に向けた諸措 置がマッカーサー指揮下の GHQ/SCAP 主導で進められていた。これに対して 83.

(10) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). 強い不満をもっていたソ連は、FEC と ACJ を梃子に占領管理に影響力を行使 しようと目論んでいた。そこで、ソ連は、FEC において公式の議題として採 択される可能性がないものの、吉田内閣の閣僚四人に対する公職追放問題を提 起するという戦術をもって、GHQ/SCAP が一方的に進めている日本の統治構 造改革を牽制しようとしたと推測される。ソ連以外の他の連合国の場合におい ても、不満を抱いていたことはソ連と同様であった。このことは、イギリス連 邦加盟国が、FEC のソ連代表の主張に便乗する形で、ACJ において吉田内閣 の閣僚四人に対する公職追放問題に関心を示していたことからも見受けられ る。 事実、FEC は、日本政府が憲法改正草案要綱を発表した直後から、その要 綱を承認したマッカーサー連合国最高司令官の権限に疑問を提起し、また総選 挙の延期を主張するなど、新憲法制定問題に関する主導権を取り戻そうとし た 37)。しかし、マッカーサーはそれを容認しなかった 38)。FEC の新憲法制定 問題への関与が実現するのは、1946 年6月 22 日以降であった。こうした状況 を考慮に入れると、FEC のソ連代表が提起した吉田内閣の閣僚四人に対する 公職追放問題は、新憲法制定を中核とする日本の統治構造改革問題について GHQ/SCAP と FEC との対立が続いていた状況のなかで浮上した問題の一つ であったと見ることができる。. Ⅲ.石橋に対する公職追放問題の新展開 1.閣僚四人に対する公職追放から閣僚一人に対する公職追放へ アメリカ陸軍省からの電文を受け、GS では吉田内閣の閣僚四人に対する本 格的な調査にとりかかった。当時、調査を担当した要員は、GHQ/SCAP 憲 法草案の財政関連条項を作成したとされるフランク・リゾー(Frank Rizzo) 大尉 で あった。リ ゾーが 1946 年6月 17 日付 で 作成 し た ホ イット ニー宛 の 「SCAPIN550 に係わる一部閣僚の地位」という覚書にまとめた調査結果は、 84.

(11) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. FEC のソ連代表による主張を退けるものであった 39)。リゾーは、<表- 2 > に示したとおり、FEC のソ連代表が提示した根拠が、GS の調査結果と不一致 であることを理由に、四人の閣僚を公職追放対象者に分類することはできない という見解を示した。 とりわけ石橋に関して、リゾーがまとめた見解は、FEC のソ連代表が石橋 に対する公職追放を主張する根拠と、石橋に関する日本共産党の戦犯容疑者関 連資料の内容をすべて否定するものであった。FEC のソ連代表が石橋の公職 追放を主張する根拠、つまり大政翼賛会の調査委員会(research commission) 委員であったという根拠に対しては、CIS の調査結果に基づいて、大政翼賛 会の組織表から調査委員会(research commission)を確認できないという理 由から、その信憑性に疑問を呈した 40)。さらに、大政翼賛会の組織表から確 認できるのは三つの調査委員会(investigating committee)であるが、これ らの委員会の委員の場合、日本政府が去る3月に CIS の承認を得て発表した 執行基準によると、大政翼賛会の活動と関連して有力指導者としてみなされ なかったと述べ、仮に石橋が日本共産党の資料に言及されている調査委員会 (investigating committee)の委員であったとしても、公職追放指令の「D.大 政翼賛会等の政治団体の有力指導者」として分類することはできないことを明 らかにした 41)。 リゾーが石橋の大政翼賛会に関連した経歴の中で認めた唯一の事項は、石橋 が大政翼賛会の一会員であったことのみで、これは石橋本人の調査票に基づく ものであった 42)。しかし、この石橋の経歴についても、石橋を大政翼賛会等 の政治団体の有力指導者として見ることができないがゆえに、公職追放対象者 に該当しないという見解をまとめていた 43)。 リゾーによる上記の見解は、実は、GHQ/SCAP 内部においてまとめられて いた石橋の調査結果さえも否定するものであった。CIS 内部においては、石橋 が 大政翼賛会 の 調査委員会(research committee)委員(1941 ~ 1942)で あ り、翼賛政治会の会員であったという調査結果が出されていた 44)。ただ、石 85.

(12) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). 橋の職位が重要な職位ではなかったがゆえに、石橋は公職追放対象者に該当し ないという結論が固まっていた 45)。こうした CIS 内部の調査結果は、石橋が 公職追放対象者に該当しないと結論づけていたものの、調査委員会(research committee)を FEC のソ連代表が言う調査委員会(research commission)であっ たと解釈する場合、FEC のソ連代表の主張を認めるものであり、また新たに 石橋の翼賛政治会への関与までをも認めるものであった。しかし、リゾーは、 あくまで石橋本人の調査票のみを判断の根拠として用いていたのである。 ところが、リゾーは、<表- 2 >に示されているとおり、大政翼賛会に係わ る石橋の経歴以外の別の根拠をあげ、石橋が公職追放対象者、具体的には公職 追放指令の「G.その他の軍国主義者・超国家主義者」に該当するという見解 を付け加えていた 46)。その別の根拠とは、満州事変が勃発した 1931 年以降に 発行された『オリエンタル・エコノミスト』の記事内容を検討した結果に基 づくものであり、東洋経済新報社の編集方針に係わる石橋の責任であった 47)。 具体的には、①満州、蒙古、中国に対する日本の侵略政策を一貫して支持した こと、②門戸開放政策の原則に反対するとともに、アジアにおける日本主導の 新秩序確立を支持し、また防共協定と日仏印協定に賛成する立場をとったこと、 ③アメリカとイギリスの政策は戦争を招来する一方で、枢軸国の政策が新秩序 をつくるという立場をとり、ドイツがアメリカを攻撃することがあっても日本 はドイツを支持すべきであると主張したこと、④東条の国内及び対外政策を支 持したこと、などであった 48)。. 86.

(13) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. <表- 2 > GS における第 1 次吉田内閣の閣僚四人の調査結果 閣僚名. 調 査 結 果 ①大政翼賛会の単純会員であったので、 「D.大政翼賛会等の政治団体の. 石橋湛山. 有力指導者」に当てはまらない。 ②東洋経済新報の編集方針を決めた人物として「G.その他の軍国主義者・ 超国家主義者」には該当する。 ①翼賛政治会と大日本政治会の会員であったが、 「D.大政翼賛会等の政 治団体の有力指導者」という根拠はない。 ②司法政務次官(1937.7 ~ 1945.9)であり、 「G.その他の軍国主義者・超. 星島二郎. 国家主義者」に分類することはできるが、証拠がない。 ③ 1936 年の著書を調べたが、単なる旅行記であった。 ④最も不利な情報は、長い間鳩山一郎を支持し、また鳩山を翼賛政治会の 会員として推薦したという笹川良一(巣鴨刑務所)の陳述程度である。 ①大政翼賛会の委員、翼賛政治会の議会部門役員・会長及び国防部門役員、 大日本政治会の議会部門顧問、大日本政治会の大阪支部顧問であったが、 「D.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者」として見なす証拠はない。. 一松定吉. ②東亜連盟の会員としての経歴は確認されなかった。 ③大審院検事(1920 ~ 1940)としての活動に関しても確証されなかった。 ④厚生政務次官(1940)であり、 「G.その他の軍国主義者・超国家主義者」 に分類することはできるが、明確な証拠がない。 ①北支那開発会社の調査局長及び開発訓練地長として知られており、また. 大村清一. 北支那鉄道会社の研究部門部長であったが、 「E.海外の金融機関や開発 組織の役員」には該当しない。 ②内務省警保局長(1937)の経歴も公職追放の証拠にはならない。. 出所:Rizzo to Chief, Government Section,“Status of Certain Cabinet Ministers Under SCAPIN 550,” 17 June 1946( 国会図書館所蔵 Microfiche GS(B)-00188)に 基 づ い て 作成。. こうしたことから、リゾーの調査によって石橋に対しては、FEC のソ連代 表が公職追放を要求する根拠とは別の根拠、つまり東洋経済新報社の編集方針 に係わる石橋の責任を根拠に、最終的には公職追放対象者であると結論づけた 87.

(14) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). ものであったことが明らかになる。これは、石橋に限ってみれば、FEC のソ 連代表が公職追放問題を提起した状況から一転して、結果的には GHQ/SCAP、 とりわけ GS の有力要員が新たに公職追放問題を提起する状況が生じたこと を意味するものであった。その結果、GHQ/SCAP 内部において、鎮静局面を 迎えていた吉田内閣の一部閣僚に対する公職追放問題は、アメリカ陸軍省の 1946 年6月 16 日付の電文を契機に、新たな局面に入ることとなった。つまり、 吉田内閣の一部閣僚に対する公職追放問題は、石橋に対する公職追放問題、も はや G-2 とは関係のないマッカーサーと GS の問題となったのである。 従来の研究においては、こうしたリゾーの調査結果に対して、二つの異議が 提示されてきた。その一つは、とりわけ日本共産党が GS に提供したと考えら れる情報を重視するものである。これは、日本共産党の情報に基づいて、FEC のソ連代表が吉田内閣の閣僚四人に対して公職追放を主張したとし、また GS のリゾーが石橋を公職追放対象者に該当する人物であると判断したという主張 である。二つ目は、 『オリエンタル・エコノミスト』に掲載された記事内容を、 リゾーが誤解もしくは曲解した可能性を主張するものである。 しかし、第一の見解は、リゾー自身が FEC のソ連代代表の石橋に対する主 張と、石橋に関する日本共産党の戦犯容疑者資料を否定していることから明ら かなように、それが成立する可能性は低いといわざるを得ない。なお、第一の 見解の場合、なぜ FEC のソ連代表と GS のリゾーが石橋に対して公職追放を 主張する根拠が異なるか、なぜ日本共産党の影響力が星野、一松、大村には作 用せず、石橋に対してのみ強く作用したかなどを明確に説明できないといった 点において、説得力に欠けるといえる。そして、仮に日本共産党が石橋に対し て、大政翼賛会に係わる経歴及び関連出版物を根拠に公職追放を提起しており、 そうした日本共産党の情報に基づいて FEC のソ連代表が石橋の公職追放問題 を提起したとすれば、次のような疑問が生じる。それは、FEC のソ連代表が 石橋に対する公職追放を主張する根拠として経歴のみをとりあげ、関連出版物 の内容をとりあげなかったのはなぜか、ということである。一つ目の見解はそ 88.

(15) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. の疑問に明快な解答を示すことができない。 一方、石橋に関するリゾーの調査結果が『オリエンタル・エコノミスト』の 記事内容を誤解もしくは曲解したことによるものであったという第二の見解も その根拠が弱いと考えられる。なぜなら、第二の見解の場合、主として石橋が 戦前期と戦時期に手がけた出版物や記事の内容に見られる傾向、つまり自由主 義、民主主義、平和主義を掲げ、全体主義、国家主義、軍国主義を批判した傾 向を示して、リゾーによる調査結果が誤ったものであったと主張しているから である 49)。この主張が成立するためには、 上記のような迂回的な方法ではなく、 『オリエンタル・エコノミスト』の記事内容に関するリゾーの検討結果を正面 から否定する方法を用いる必要がある。しかし、現在、こうした研究はなされ ていない。 こうした研究状況に鑑み、とりわけリゾーが『オリエンタル・エコノミスト』 の記事内容を誤解もしくは曲解した可能性があるかどうかという問題を、項を 改めて詳しく検討することにしたい。. 2.石橋に対する公職追放問題と『オリエンタル・エコノミスト』 1) 『オリエンタル・エコノミスト』からの抜粋記事 『オリエンタル・エコノミスト』に掲載された記事内容をリゾーが誤解もし くは曲解したかどうかを考えるうえで手がかりとなるのが、 「 『オリエンタル・ エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」という GS の文書である 50). 。従来の研究においては、この文書が、GS の要員であった日系アメリカ人. の塚原太郎陸軍中尉の名義で作成された 1947 年3月 21 日付の「オリエンタ ル・エコノミスト」という文書において、同じ日付が付された付属文書として 添付されていたことから、1947 年3月 21 日に塚原によって作成されたものと してみなされてきた 51)。つまり、石橋が GHQ/SCAP の政策に抵抗した結果、 石橋に対する公職追放を実施するために、GS によって後からつくられたもの として扱われてきたということである。 89.

(16) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). し か し、 「 『オ リ エ ン タ ル・エ コ ノ ミ ス ト』か ら の 抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」が実際に作成された時点は、1946 年6月頃であったと考えられる。 なぜなら、この文書は、リゾーが石橋に対する公職追放を主張するために作 成した6月 26 日付の文書において、作成者や日付が記されていない付属文書 の一つとして添付されていたからである 52)。このことと、すでに検討したが、 GS において石橋関連出版物を分析した5月 24 日付の文書が作成されたこと、 またリゾーによる6月 17 日付の覚書において 1931 年以降に発行された『オリ エンタル・エコノミスト』の記事内容を検討したと記されていることなども合 わせて考慮すると、 「 『オリエンタル・エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」が、1946 年6月 17 日前後に作成され可能性が極めて高い。そして、 このように見ると、 「 『オリエンタル・エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」は、リゾーを中心に 1946 年6月 17 日前後に作成されたものの、 後に 1947 年3月 21 日という日付が付されものであったといえる。 リゾーが『オリエンタル・エコノミスト』を用いて石橋の政治的立場を捉え ようとした理由は、英語で編集されているからというだけでなく、分量が『東 洋経済新報』の4分の1にも満たないものであり、その中の政治関連記事の分 量はさらに少なかったという単純なものであったと考えられる。つまり、 『オ リエンタル・エコノミスト』の場合、迅速、かつ容易に活用することができる 資料であったということである。なお、リゾーにとってみれば、 『オリエンタ ル・エコノミスト』は、通訳者、あるいは翻訳者の主観が介入する可能性を遮 断できる資料でもあった。 <表- 3 >に掲げた 「 『オリエンタル・エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」の抜粋記事において、一部の記事の場合、頁、題名、発行月など の誤記が見られる。しかし、これらの記事は、すべて『オリエンタル・エコノ ミスト』に掲載されたものであった。<表- 3 >の抜粋記事を読む限り、 リゾー が東洋経済新報社の編集方針に係わる石橋の責任問題を提起したことは、根拠 を欠いたものであったといえない。<表- 3 >の抜粋記事の内容からは、東洋 90.

(17) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. 経済新報社が、以下のような主張をしたことが読み取れる。①日中戦争の主要 な原因が蒋介石政府の武力過信〔抜粋記事1〕と、 反日感情〔抜粋記事1、 2、 3〕 にあると主張したこと。②中国に新政権が樹立されることを予想〔抜粋記事1〕 したうえで、軍部主導による新政権樹立の不可避性を中国に対する搾取のため に支持〔抜粋記事2、3、4〕するとともに、この新政権に対する支援の必要 性〔抜粋記事5〕 、蒋介石政府 の 徹底的 な 排除〔抜粋記事2、5、6、9〕を 主張したこと。③9か国条約を認めつつも〔抜粋記事3〕 、その一つの原則で ある門戸開放政策に対して、再検討の必要性〔抜粋記事7〕や、当時日本政府 によって提唱されていた新秩序との両立不可能性〔抜粋記事 14〕を主張した こと。④日本政府に対して新秩序を明確に示す必要性〔抜粋記事 10〕と、ア ジアにおける日本主導による新秩序樹立の必要性〔抜粋記事 13、14、16、19、 23〕を主張したこと。⑤アメリカの政策による日本とアメリカの関係悪化〔抜 粋記事 15、17〕と、日本に対するアメリカとイギリスの政策に起因する戦争 の不可避性〔抜粋記事 18〕を指摘する一方で、枢軸国の政策に基づく新秩序 の構築可能性〔抜粋記事 18、19〕と、ドイツに対する支援の必要性〔抜粋記 事 21、22、24〕を主張したこと。⑥東条英機を首相とする内閣への支持〔抜 粋記事 26〕を主張したこと。 公職追放の目標として日本国民を欺き、世界征服という間違った方向へ導い た権力と勢力を根絶することを掲げていた GS にとってみれば 53)、これらの記 事すべてを石橋が執筆したわけではなかったとしても 54)、戦時期に東洋経済 新報社の主幹と社長を務めた石橋に対して責任を問うのに十分なものであった と考えられる。. 91.

(18) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). <表- 3 > 『オリエンタル・エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) “Cause of North China Trouble,” The Oriental Economist, Vol.4, No. 8, August 1937, p.452.1) 日本政府は、現在の紛争について、局地化を図るとともに、外交交渉を通じて迅速 に解決するという政策を堅持している。このことは、政府が繰り返して声明を発表 していることから、疑いの余地がない・・・。 ・・・このような結果(日本が平和的かつ局地的解決を望んでいることとは逆に、 事態が一層拡大したこと)をもたらした主な要因の一つは、 (米国人ジャーナリスト のナサニエル・ペッファー(Nathaniel Pfeffer)によれば)支那が武力過信となり、 ・・・ (支那は)日本に対して危険なほどに攻撃的になり、 ・・・。 ・・・この(支那人の) 感情的憎悪と敵意は、 ・・・現在非常に高い。 1. 事態悪化の・・・いま一つの重要な要因は、支那がいまだ統一された近代国家では ないという事実である。 ・・・ 北京地域の 29 軍残存勢力を壊滅させた後、日本軍は中央軍が攻撃しない限り、戦闘 を支那の中央部にまでは拡大しないであろう〔が、 ・・・〕 。 〔・・・〕一方、北京 天津地域の運命と政治的地位はどのようになっていくであろうか。当然ながら、支 那の人々は、日本軍の保護のもとで、南京政府の権力と権威が及ばない半独立政権 を樹立し始めるであろう。 歴代の日本政府当局者が発表してきたとおり、日本が支那に求めるものは決して領 土ではない。支那においては、日本がその地域に第二の満州国をつくろうとしてい るという非難が噴出している。しかし、それは、日本の考え方とは全く異なるもの である。 ・・・ (日本との)外交交渉の開始を(南京政府が)遅らせれば遅らせるほど、 合意に達することは難しそうに思われる。 「譲るへぎを譲って求むる所を明らかにせよ」 ( 『東洋経済新報』 、第 1769 号、1937 年 7月 17 日、9~ 10 頁所収)「支那事変の性質と留意すべき若干の問題点」 ; 、前掲雑誌、 22 ~ 23 頁所収 「支那は戦争を欲するか-日支両国政府は率直に交渉を開始せよ-」 ;. ※ ( 『東洋経済新報』 、第 1770 号、1937 年7月 24 日、9~ 10 頁所収); ナサニエル・ペッ ファー「危険なる支那 の武力過信」 、前掲雑誌、22 ~ 23 頁所収 「支那事変 ; の 新局面 -事態拡大悪質化の真因は何か-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1771 号、1937 年7月 31 日、 22 ~ 23 頁所収)を参照。. 92.

(19) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. “Sino - Japanese Dispute Analysed,” The Oriental Economist, Vol.4, No.9, September 1937, pp.514 ~ 515. しかし、 (北支における)現状のもとでは、まず治安の任には日本があたらなければ ならないであろう。その後、経済開発に関しては、無論外国の合理的な参加を毛頭 排斥するものではないが、日本の資本及び技術と支那側の労働及び資源との提携が 2. 進められる必要がある。 ・・・しかし、そうした場合においても、もし南京が妨害を するならば、北支は南京から独立せざるを得ないであろう。 ・・・ 支那は、子供じみた抗日意識の昂揚に目がくらみ、自身が求めていた北支を失うと ともに、近代国家建設の努力を自滅に導いてしまった・・・。 ・・・ 我々の理想は、 決して支那を無情に圧迫することではない。また、自己の実力や第三国との関係等 を打ち忘れて、ただ一途に戦線を拡大するほどおろかでもない。しかし、支那の執 拗な抗日運動がやむまでは、圧迫の手を緩められないことを明言するほかない。 「蒋氏の下野を勧告す-然らざれば支那最大の不幸至らん-」 ( 『東洋経済新報』 、第. ※. 1772 号、1937 年8月7日、9~ 10 頁所収)「支那民衆に与ふ―抗日の続く限り問題 ; は 解決 せ ぬ -」 、 ( 『週刊東洋経済新報』 、1777 号、1937 年9月4日、9~ 10 頁所収) を参照。 “Nine Power Treaty,” The Oriental Economist, Vol.4, No.10, October 1937, p.587.2) 事実、9か国条約調印国が、日本の行動について興奮、あるいは不安に陥る理由は 少しもない。日本は、それらの国に対して、権利と利益を尊重する用意があるだけ でなく、貿易と投資を通じて支那の資源開発のために協力を請う準備ができている。. 3. 日本が支那において実現しようとするのは、反日や反満の撲滅であり、過去の政治 的障害に阻まれない平和的な経済拡大の許容である。たとえ南京政府が日本との提 携を断固拒否することがあっても、日本は、現在完全に日本の影響力及び統制下に ある北支を、日満支親善の揺籃地として建設する決然とした決意を有している。 ・・・ ・・・列強は、その地域における既得権益と利益について決して制限を受けない一 方で、資本投資と貿易発展の分野に積極的に参加することが保障されるならば、安 心することができる。 「九ヶ国条約会議の開催と列強の動き」 ( 『東洋経済新報』 、1783 号、1937 年 10 月 16 日、. ※ 16 ~ 17 頁所収);「九ヶ国条約と日本の立場-寧ろその死文化せるを主張せよ-」 ( 『東 洋経済新報』 、1784 号、1937 年 10 月 23 日、10 ~ 11 頁所収)を参照。. 93.

(20) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). “The 1938 Outlook,” The Oriental Economist, Vol.5, No.1, January 1938, p.16. 北支では、新政権が樹立されたばかりであり、秩序ある産業開発が行われるには暫 く日時がかかるであろう。我々の見るところによれば、むしろ蒋徒党が屈服せずに 長く抗戦を続ければ続けるほど、この国(日本)の目的にはより合致するであろう。 蒋将軍がこのような態度をとる限り、日本は思うままに北支開発計画を進めること 4. ができるからである。 〔・・・〕 もし日本政府がそうした覚悟をもって行動し、北支の政治的、経済的、文化的発展 に力を入れるとすれば、進歩は意外に急速であろう。 ・・・ 日本は、その当時(1935 ~ 1937) 、その目的を達成してから、腰が十分すわっておらず方針が動揺し、日本 が支那においてやっていたことについて支那要人及び民衆の信頼を十分得られない 傾向があった。その失敗が幸に転じ、日本政府の腰が十分定まるに至ったと考えら れる。 ・・・. ※. 「希望に輝く新年の日本財界」 、 ( 『東洋経済新報』 、1793 号、1937 年 12 月 21 日、11 ~ 15 頁所収)を参照。 “Why Chiang Regime Must be Crushed,” The Oriental Economist, Vol.5, No.2, February 1938, p.70.3) これらの新興政権 ( 支那 ) は、日本政府機関による保護のもとで成立したものの、独. 5. 立の基盤が完全に固まるまでは、日本の保護と支援がなければたった1日さえも存 続できないであろう。同時に、 ・・・日本は、できる限りのあらゆる支援を行う必要 があり、支那の為政者が自らそうした努力に自発的に係わるよう、一切の不安を払 拭する責任を負わなければならない。. ※. 「希望 に 輝 く 新年 の 日本財界」 ( 『東洋経済新報』 、1793 号、1937 年 12 月 21 日、11 ~ 15 頁所収)を参照。 “Half Way Solution Not Desirable,” The Oriental Economist, Vol.5, No.5, May 1938, pp.276 ~ 277.4). 6. 我々は、支那と支那人について深く知れば知るほど、そうした状況における敵対行 為に対する中途半端な解決が単に災いの先延ばしであり、そうした先延ばしが災い を将来より厄介なものにする、ということを体験した。 「世界政治経済 の 回顧 と 展望」 ( 『東洋経済新報』 、1793 号、1937 年 12 月 21 日、38 ~. ※ 40 頁所収)を参照 ;「北支戦線の新局面と今後の課題」 ( 『東洋経済新報』 、第 1800 号、 1938 年2月 19 日、8~9頁所収)を参照。. 94.

(21) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. “Open Door Policy,” The Oriental Economist, Vol.5, No.6, June 1938, p.354. 7. 門戸開放は、列強の自惚れと私利私欲を表明するものに過ぎず、支那についてのみ に公平に実施できるものではない。それが、何らかの形で世界平和や世界福祉に一 助するものになるためには、世界すべての国に差別なく実施されるべきである。. ※. 「門戸開放主義 の 再検討」 ( 『東洋経済新報』 、1836 号、1938 年 10 月 15 日、38 ~ 40 頁 所収)を参照。 “Totalitarianism and Individualism,” The Oriental Economist, Vol.5, No.10, October 1938, p.660. 独伊の全体主義がこの国に移植できるかどうかについてしばしば言われる。答えは、 この国において展開される状況にかかっているということである。全体主義の原理 は移転されることが可能なものであり、ここの信奉者たちによっても提唱されるこ ともありうる。しかし、その理論体系が発展するに適切な状況が存在しなければ、. 8. それが蔓延することは決してないであろう。全体主義を礼賛するものは、その原理 が結局全世界を風靡することになるであろうと信じる。こうした事態は、歴史に裏 付けられるように、もし全世界にわたりそれを引き起こす状況が展開されるなら、 真に起こりうるであろう。事実、 世界列強がここ数年やってきたことをそのまま続け、 再び世界戦争でも発生するに至るなら、そうした事態が引き起こされる可能性はか なりある。不幸ながら、もし世界のすべての国が、一時期独伊が直面したような状 況に陥れば、全体主義が全世界を風靡することになることを予想することができる。. ※. 「時局下の思想問題-全体主義と個人主義-」 ( 『東洋経済新報』 、1832 号、1938 年9月 17 日、29 ~ 35 頁所収)を参照。 “Nation Prepared for Protracted War,” The Oriental Economist, Vol.5, No.11, November 1938, p.716.. 9. ・・・したがって、今日、日本は、蒋政権を屈服させるまでにある程度時間がかか るという展望について完全に意見が一致している。しかし、蒋介石政府側と一部の 外国系の言論は、日本が心理的、経済的理由から、近い将来戦争を継続するという 計画を諦めるであろうと信じている。両側の判断は誤りであると思われる。. ※. 「事変の新展開と経済界」 ( 『東洋経済新報』 、1837 号、1938 年 10 月 20 日、6~7頁所 収)を参照。. 95.

(22) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). “The China Policy Statement,” The Oriental Economist, Vol.5, No.11, November 1938, p.734. ・・・最終的に検討すると、11 月の声明における基本的な意義は、頻繁に使われる 10. 文句、つまりその声明に言及されている「新秩序の建設」にある。日本の狙いとす るところがそこにあることは明らかである。 ・・・ それでは、いわゆる東亜永遠の安定を確保するものとして計画されている新秩序と は、一体如何なる内容のものか。 (それゆえ、政府が具体的な声明を発表することを 望んでいるところである). ※. 「政府は重ねて対支政策を具体的に声明すべし」 ( 『東洋経済新報』 、第 1841 号、1938 年 11 月 12 日、9~ 10 頁所収)を参照。 “Army Officer on Foreign Relations,” The Oriental Economist, Vol.5, No.12, December 1938, p.798.5) 欲するか否かにかかわらず、日本は、蘇支二正面戦争可能性に対処できるほど、十 分武装しなければならない〔と東条中将は述べた〕 。彼は続いて、そうした準備が完 了するまで、日本は、日支間の敵対行為を、成功のうちに、そして満足のうちに終. 11. わらせることはできず、また東亜永遠の安定を確立することも不可能であろうと述 べた。 ・・・我々が東条中将の立場に同情しているということは言うまでもない。 ・・・ (しかし)彼の発言は、日本が蘇連はもちろん、英国、仏国、米国とも衝突しなけれ ばならないという意味として受け止められることもありうる。このことは、 日本側が、 ヒトラー総統が東方政策を採用するまで追求した外交政策におけるよい手腕さえも 参考にしていないこと意味するものであろう。 ・・・. ※. 「東条陸軍次官 の 口演-国民 は 最善 の 批判 を 持 て -」 ( 『東洋経済新報』 、第 1846 号、 1938 年 12 月 10 日、10 ~ 11 頁所収)を参照。 “China Incident and Population,” The Oriental Economist, Vol.6, No.6, June 1939, p.388.. 12. ・・・これまでの議論から、人口増加率上昇のための対策を講じる問題が極めて重 要であるということは明らかである。そのためには、銃後における国民の厚生、結婚、 出産を増進する具体的な計画を立てるべきである。. ※. 96. 「調査と研究 : 注目すべき人口増加の減退-事変前後の人口動態比較-」 ( 『東洋経済新 報』 、第 1865 号、1939 年4月 29 日、22 ~ 23 頁所収)を参照。.

(23) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. “Japan’s Main Problem is China Conflict,” The Oriental Economist, Vol.6, No.7, July 1939, p.434.6) ・・・如何なる場合においても、日本が注目すべきであり、また注目するであろう こと(欧洲戦争が勃発する場合)は、満州国の健全な開発と支那における新秩序の 13. 構築とに影響を及ぼす東洋全体の平和を維持する問題である。日本は、欧州の政治 的状況に対してどのような態度をとるかという問題に関係なく、こうした基本的な 考慮を無視することは不可能であろう。防共協定が如何に強化されるにせよ、また それによってどのような結果が導き出されるにせよ、日本は、後戻りできないほど 力を入れている支那と関連した自らの立場から、あらゆる可能性を考慮すべきである。. ※. 「欧州の国際バランス-独伊包囲政策は却って危険-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1871 号、 1939 年6月3日、9~ 10 頁所収)を参照。 “International Settlement Question,” The Oriental Economist, Vol.6, No.7, July 1939, p.444.7) ・・・日本国民は、この国が東亜に建設しようと苦労している新秩序の性格につい て外国の人々に明確に理解させ、無用の摩擦が起こることを避けるよう、努力すべ. 14. きである。外国の一部の人の間には、租界が自分たちの領土であるという誤解をし ているものもあれば、日本が9か国条約に規定されている機会均等及び門戸開放と いった類の原則を遵守することを要求するなど、未だに極東に対する旧時代の認識 に固執しているものもある。しかし、状況が完全に変わってしまい、今日の支那に おいては、過去の原則に基づいて行動することによって秩序を維持し、また経済的 状況を修復することは、もはや不可能である。 ・・・. ※. 「租界問題の核心-解決は慎重にして果敢なれ-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1872 号、1939 年6月 10 日、9~ 10 頁所収)を参照。 “Public’s Reaction to Ambassador Grew’s Speech,” The Oriental Economist, Vol.4, November 1939, p.709.8) ・・・グルー大使は、米国の世論は今日支那において、日本の軍隊が行っているい くつかのことについて強い不満を有しており、また米国は東亜において長期間にわ. 15. たり築いた権益が危うくなることを容認できないと述べた。大使は、日本との関係 改善という重荷を、多分状況を考え直すことや米国の態度における変化を通じて解 決することを前提にしていると思われる。大使は、一連の過程において日本の出現 を非難することを想定している。 日本国民は、これに失望せざるを得ない。なぜなら、必要なのは、建設的な基礎の 上に日米関係を改善するための実際的な提案であったからである。 ・・・ 97.

(24) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). ※. 「無責任なるグルー大使の演説-具体的に調整策を協議せよ-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1893 号、1939 年 10 月 28 日、13 ~ 14 頁所収)を参照。 “Regional World New Orders,” The Oriental Economist, Vol.7, No.3, March 1940, p.147. 極東の平和と秩序を維持できる国がはたして日本のほかにあるであろうか。もし地 域主義に基づく新世界秩序がもたらされるとすれば、日本が東亜の指導に適する唯. 16. 一の国であるということに疑いの余地はない。この観点から注目すべきは、支那問 題を解決しようとする日本の努力であり、日本が、世界のこの地域における新秩序 の基礎となる満州国と支那との相互援助及び協力という三国間関係の確立に心がけ ていることである。日本は、支那の新中央政府(傀儡政府の汪兆銘政府)と対等な 地位に立って交渉することを計画中である。 ・・・ 「欧州戦争後の平和機構をどうするか-欧米評論家の諸見解-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1912 号、1940 年3月 16 日、18 ~ 20 頁所収);「欧州戦争後の平和機構をどうするか. ※ (二) 」 ( 『東洋経済新報』 、第 1913 号、1940 年3月 23 日、17 ~ 20 頁所収);「円ブロッ ク貿易の総合的研究-対満支貿易を如何に調整するか-」 ( 『東洋経済新報』 、 第 1914 号、 1940 年3月 30 日、23 ~ 29 頁所収)を参照。 “America’s Far Eastern Policy,” The Oriental Economist, Vol.7, No.6, June 1940, p.355.9) 17. 日本が米国との間の難題を平和的に解決するために妥協的立場をとっていることは、 最近の米内首相と有田外相の演説によって示された。しかし、外交政策において平 和を標榜しているものの、実際には平和に対して極めて否定的かつ消極的であるの は、米国である。 ・・・. ※. 「米国の極東政策-モンロー主義に偽りなきや-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1925 号、1940 年 6 月 15 日、12 ~ 13 頁所収)を参照。 “Is Japan-America War Coming,” The Oriental Economist, Vol.7, No.10, October 1940,. 18. p.584. ・・・米国が日本に対して引き続き圧力を強める場合において、英国と協力する政 策に固執すればするほど、遅かれ早かれ戦争は避けられなくなる。 ・・・ 「英米一体化と太平洋の将来」 ( 『東洋経済新報』 、第 1939 号、1940 年9月 21 日、22 ~. ※ 23 頁所収);「太平洋の新局面と日本」 ( 『東洋経済新報』 、 第 1940 号、1940 年9月 28 日、 5~6頁所収)を参照。. 98.

(25) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. “Triple Alliance and the Monroe Doctrine,” The Oriental Economist, Vol.7, No.11, November 1940, p.647 9月 27 日、日本は、独逸や伊太利亜と同盟条約を締結した。世界世論の多数意見は、 条約の最重要要素が、日本、独逸、伊太利亜は、 ・・・締約三国のうち一国が・・・ された場合、政治的、経済的、軍事的方法によって相互に援助しなければならない という第三条にあると見ているようである。これが、多様な解釈ができる最も重要 19. な規定であるということには異論の余地がない。日本は海軍大国であり、西太平洋 を統制下におくことが可能であるので、そうした事態(その条項での予想されてい る事態)の発生が、 ・・・世界大戦へと・・・発展しそうである。 それはそうであるとしても、東洋経済新報社は、新三国同盟のより重要な意味が、 将来の世界秩序という新しい概念が打ち出された事実にあると考える。三国が心に 抱くアイデアは、大東亜とヨーロッパにおいて・・・、それぞれ独立的に新秩序を 樹立するということである。言い換えれば、中核となるアイデアは、大地域主義に 基づく国際関係であり、 ・・・。 「三国同盟の世界政治的意義」 ( 『東洋経済新報』 、第 1941 号、1940 年 10 月5日、18 ~. ※ 19 頁所収);「世界新秩序の建設へ-三国同盟と英米の立場-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1942 号、1940 年 10 月 12 日、13 ~ 14 頁所収)を参照。 “Japan’s Problems in 1941,” The Oriental Economist, Vol.8, No.1, January 1941, p.13.10) 世界が、欧州戦争の推移如何によっては、大きな変化を経験することは疑いの余地 20. がないであろう。そうした変化が如何に重要なものであれ、日本が自らを守ること を可能にするものは、疑いなく日本自らの力、とりわけ経済力である。日本が 1941 年に直面する問題は、如何にこの力を育成し、またはっきり示すかということである。 これまで、その課題は決して軽視されてきたわけではない。しかし、あらゆる手段 が尽くされてきたともいえない。 ・・・. ※. 「混沌たる国際情勢と今年の我国の問題」 ( 『東洋経済新報』 、第 1952 号、1940 年 12 月 21 日、25 ~ 26 頁所収)を参照。 “Japan’s Faces the Inevitable,” The Oriental Economist, Vol.8, No.2, February 1941, p.74.11) 剣道極意という日本の歌には、切り結ぶ剣の下は地獄なれ、身を捨ててこそ浮ぶ瀬 はあれという歌詞がある。そのようなことこそ、日本、独逸、伊太利亜が生き残る. 21. 唯一の道であり、他の選択肢はないであろう。したがって、我々は、日本が如何な る犠牲を払っても、独逸と伊太利亜が欧州での闘争において勝利者になるよう、両 99.

(26) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). 国を援助することを提案する。 ・・・我々が以前から、日本と米国は欧州と東亜にお ける戦争を停止させるために、武器をおさめ、提携すべきであると主張してきたの はそうした理由によるものである。 今日の状況は完全に変わってしまった。現在では、同じ目標を達成するために、日 本は独逸と伊太利亜を全面的に支援し、戦争を最後まで戦い抜く覚悟を決めること が不可欠である。状況があまりも重大になってしまい、現在のような単なる宥和政 策によっては何も得られないからである。 ※. 「独伊援助に邁進すべし-米国に対する単なる宥和政策は無効-」 ( 『東洋経済新報』 、 第 1955 号、1941 年1月 25 日、5~6頁所収)を参照。 “Tripartite Cohesion Needed,” The Oriental Economist, Vol.8, No.4, April 1941, p.176. 12) 日本の第一の最も重要な責務は、独逸と伊太利亜と共通の目標を形成し、最悪の場. 22. 合に備えることであろう。その後できれば、 米国との関係調整に努力することである。 それ以外の方策はありえない。 ・・・ ※. 「松岡外相 の 訪欧旅行-想察 せ ら れ る 外相 の 心事-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1963 号、 1941 年3月 22 日、5~6頁所収)を参照。 “Japan-French Indo-China Agreement,” The Oriental Economist, Vol.8, No.6, June 1941, p.289.. 23. 最近、日本と仏印の間に経済協定が成立したことは、東亜新秩序樹立への進一歩で ある。. ※. 「日仏印協定の成立-その効果を徒らに楽観するな-」 ( 『東洋経済新報』 、第 1971 号、 1941 年5月 17 日、6~7頁所収)を参照。 “Triple Alliance Pivotal Policy,” The Oriental Economist, Vol.8, No.7, July 1941, p.337.13) 独逸と米国の関係における緊張が刻々と増加するに従い、日本の態度と意図に焦眉 の関心が集まっている。もし、独逸-伊太利亜連合が米国と最終的に衝突するとし たら、日本はどうすべきか。 ・・・日本は三国協定の調印国であるだけに、そのまま 条約を遵守することはごく当然である。 (それでは、米国が攻撃される場合を除いて. 24. 攻撃しないとしたら、日本はどうすべきかの問題が提起される。日本は引き続き協 定に基づく責務を果たすべきか。 ) ・・・日本政府がもしかしてそうした解釈に逃げ込もうとするとしたら、日本は裏 切りものの烙印を押されるであろう。それは、日本の評判に泥をぬり、長きにわた り払拭されないであろう。 ・・・そうした非常事態において、日本国民の態度に対す る疑念の余地があれば、それは、たとえ日本政府からの如何なる説明がない場合で あっても、重大な過ちである。. 100.

(27) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. ※. 「独伊援助に邁進すべし-米国に対する単なる宥和政策は無効-」 ( 『東洋経済新報』 、 第 1955 号、1941 年1月 25 日、5~6頁所収)を参照。 “Labor in Time of War,” The Oriental Economist, Vol.8, No.8, August 1941, p.404, p.407. ・・・労働統制を強化するために日本で採用された最も注目に値する方法の一つは、 すでに言及したとおり、国民労務手帳法が施行されたことである。この法によると、 主要産業に従事している・・・すべての労務者は、 (自分自身に関するすべての具体 事項を) ・・・手帳に・・・記入しなければならない。また、労務者が就業している 間においては、使用者がその手帳を保管しなければならない。使用者は・・・手帳. 25. を・・・返却することを拒否することが認められる。 〔・・・〕 〔・・・〕この年の4月 30 日現在で産業報国会運動に参加した単位産業報国会は約 50,000 であり、全体会員は 5,000,000 人を上回る。増加率は加速しつつある。 この愛国的な産業労働運動の隆盛は、国際関係における漸増する緊張と相俟って、 階級意識に基づく労働組合が 1940 年 7 月に自発的に解散する結果をもたらした。し たがって、日本において、自由主義イデオロギーの産物、つまり労働組合運動は終 わった。労働組合が、政府からの圧力によって消滅せず、自発的に消滅したことは、 欧米的な考え方では理解できない日本精神の独特な特徴をよく物語る。. ※. 「労務配備 の 重点化 と 労務生活 の 国家管理」 ( 『東洋経済新報』 、第 1962 号、1941 年3 月 15 日、28 ~ 29 頁所収)を参照。 “Confidence Placed in Tojo Cabinet,” The Oriental Economist, Vol.8, No.12, December 1941, p.640.14) 職務を全うできなかった近衛内閣の後を受けて成立した東条内閣は、閣員間の意見 の不一致に陥らず、国家の政策を遂行する手段を有しているに違いない、と推測さ れる。内閣が既定の政策と、それを実施できる権限と能力をもっている際、国民 は喜んで無条件の信頼を与える。その上、東条内閣は、現在の状況なかで望むこ. 26. とができる最も強力な内閣である。これは、すべての人々が確信していることであ り、 ・・・。 東条首相は、国務を執行し、また軍の最高司令官を兼任するという以前より有利な 地位にある。そうであるとすれば、歴代内閣のなかで東条を首班とする内閣は、支 那事態、通常の国際関係、内政施策、財政及び金融問題を巧みに処理するのに適格 である。日本が今日切実に必要とするのは、東条内閣の存在そのもののような強い 内閣である。 (この号は 1941 年 12 月6日印刷納本された). ※. 「新内閣と国民の覚悟」 ( 『東洋経済新報』 、第 1993 号、1941 年 10 月 25 日、3頁所収) を参照。 101.

(28) 横浜国際経済法学第 18 巻第2号(2009 年 12 月). “The Sea Battles of Hawaii and Malaya,” The Oriental Economist, Vol.9, No.1, January 1941 p.24.. 27. 日本海軍の航空部隊が、 ・・・ハワイとマレー海岸沖合いで顕著、かつ圧倒的な成功 を収めたことに対して、全世界があたふたと慌てている。. ※. 「二大海戦成功の意義-三国海軍の比率一挙に変革・今後の海戦はゲリラに移行-」 ( 『東洋経済新報』 、第 2002 号、1941 年 12 月 20 日、19 ~ 20 頁所収)を参照。. 出所:Rizzo, “Memorandum for Record,” 26 June 1946 ; No name, “Appendix A, Excerpts from the Oriental Economist(August 1931 to December 1941),” no date(国 会 図 書 館所蔵 Microfiche GS(B) - 03113)に基づいて作成。 註1:1)実際は 452 頁~ 454 頁から抜粋された。 2)実際は 589 頁から抜粋された。 3)文書には、5 月号の 276 ~ 277 頁から抜粋されたことになっているが、誤記で あると考えられる。 4)実際は 277 頁から抜粋された。 5)実際は 798 ~ 799 頁から抜粋された。 6)文書には、記事の題名が “European Crisis and Japan” となっているが、誤記で あると考えられる。 7)実際には 445 頁から抜粋されている。 8)文書には、頁が記されていない。 9)実際には 356 頁から抜粋された。 10)文書には頁が記されていない。 11)実際には 74 頁と 76 頁から抜粋された。 12)文書には、記事の題名が “Comment on Matsuoka’s Trip to Europe” となってい るが、誤記であると考えられる。 13)実 際 に は、“Japan Faithful to Treaty Obligations,” The Oriental Economist, Vol.8, No.7, July 1941, p.337 ~ 338 からも抜粋された。 14)実際には 620 頁から抜粋された。 註2:記事の中の ( ) は、GS によるものであり、 記事の中の 〔 〕 は筆者によるものである。 註3:※ は、筆者が上記の英文記事と類似する考えられる記事の一部、あるいは全部が掲 載された『東洋経済新報』の出所を掲げた部分である。GS は、 後に『東洋経済新報』 の記事に対しても問題を提起するが、それらの記事の出所と必ずしも一致するもの ではない。. 102.

(29) 石橋湛山に対する公職追放に関する一考察. 2)石橋の GS に対する反論 石橋に関する従来の研究では、リゾーが東洋経済新報社の編集方針に係わる 石橋の責任問題を提起したことについて強い疑問を示している。また、石橋は 戦前期に打ち出したいわゆる小日本主義を、戦時期においても一貫して主張し たという分析を行っている 55)。つまり、小日本主義につなげる石橋の主張は、 日中戦争期や太平洋戦争期においても、行間に軍部批判を滲ませるという巧み な形で展開されたということを示唆しているのである 56)。 石橋本人は、GS によって東洋経済新報社の編集方針に係わる責任が提起さ れたことについては強い不満を示していた。石橋は、1947 年 10 月 22 日付で 日本政府 の 中央公職適否審査委員会 と 中央公職適否審査請願委員会 に「私 の 公職追放の根拠として用いられたと考えられる覚書に対する反論」を提出し、 GS において作成された『東洋経済新報』の抜粋記事と、 『オリエンタル・エコ ノミスト』の抜粋記事一部に対してそれぞれ反論を行った 57)。石橋は、GS に よって東洋経済新報社の編集方針に係わる自身の責任について問題が提起され たことが、誤解もしくは曲解によるものであったと反論したのであった 58)。 GS は、石橋に対する公職追放を要求するに際して、 『オリエンタル・エコ ノミスト』の抜粋記事のみならず、 『東洋経済新報』の抜粋記事も用意してい た。つまり、1947 年3月の時点においては、すでに述べた「 『オリエンタル・ エコノミスト』からの抜粋記事(1937.8 ~ 1941.12) 」に加えて、塚原が実際に 作成した 1947 年3月 20 日付の「 『東洋経済新報』からの抜粋記事(1937.7 ~ 1941.12) 」や 1947 年3月 12 日付の「 『東洋経済新報』からの抜粋記事」という 文書も準備していたのである 59)。石橋が、 『オリエンタル・エコノミスト』の 抜粋記事と、 『東洋経済新報』の抜粋記事にそれぞれ反論を行った理由は、そ こにあった。 ただ、ここで一つ指摘しておきたいのは、石橋が、上記の二つの文書に記さ れている抜粋記事に対しては反論を展開せず、GS の文官であったガイ・ウィ ギンズ(Guy Wiggins)調査官が 1947 年4月 30 日付で作成した「石橋湛山、 103.

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