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『廻諍論』におけるsādhyasama

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『 諍論』におけるsādhyasama

児 玉 瑛 子

0.序

 『 諍論』(Skt. Vigrahavyāvartanī, Tib. rTsod pa bzlog pa)にニヤーヤ学派の

術語が多数みられることは,諸々の先行研究がすでに指摘するところである1 しかし,個々の術語の用例に対する検討は必ずしも十分とはいえない.その中 でも,本稿で取り上げるsādhyasamaは,ニヤーヤ学派の論理体系において2 つの意味を有する概念であり,その用例の分析は慎重に行う必要がある.『 諍論』で言及されるsādhyasamaは2か所あり,それぞれ別の議論の中で用い られる.本稿では,各議論の理解を通じて,『 諍論』におけるsādhyasamaと いう語が何を意味するのか検討する.  はじめに第1節では,ニヤーヤ学派における2つのsādhyasamaについて, 先行研究を参考にしながらその差異を確認する2.それをふまえたうえで,第 2節では実際に『 諍論』の議論内容を順次検討していく.なお,当該の議論 にはいずれも現行の校訂テキストに読解困難な箇所が散見される.そのため, 本稿末尾に筆者によるサンスクリット校訂テキストおよび試訳を附し,本文 中では議論の構成や要点を記述するにとどめた. 1.ニヤーヤ学派における2つのsādhyasama  『ニヤーヤスートラ』で定義されるsādhyasamaに2種あることはすでに述 べた.それらのいずれもがニヤーヤ学派の論証論に関わる概念である.周知の 通 り,ニ ヤ ー ヤ 学 派 の 論 証 式 は 主 張( )・理 由(hetu)・喩 例 (drst4 4 4 )・適用( )・結論( )という5支分からなる.第1 のsādhyasamaは,この5支分のうち理由の誤 ,すなわち<擬似理由>)の下位分類にあたる語である.そして第2のsādhyasamaは,<誤 難>( )の下位分類の1つである.<誤難>は,立論者の正しい論証に対 して対論者が行う,様々な詭弁的な論難方法として位置づけられる3

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 ニヤーヤ学派のsādhyasamaに関する研究としては,まずMATILAL 1974が挙 げられよう.sādhyasamaの訳語として用いられる ( 論点先取)の妥当性をめぐり,<擬似理由>をはじめとしたニヤー ヤ学派の論理規定におけるsādhyasamaの位置づけを検討している.<擬似理 由>と<誤難>という2種のsādhyasamaの違いについてMATILALは,前者が 推論上の誤りであるのに対し,後者は故意に不当な論理を用いた対論者の論 難 で あ る と い う 点 か ら 区 別 す る(MATILAL ).そ れ ぞ れ の sādhyasamaの上位概念である<擬似理由>と<誤難>の性質の違いは明確 に示されているが,これだけではまだ十分でない.『ニヤーヤスートラ』に登 場する誤難論者たちは全24項目にわたって様々な論難方法を展開する.それ は<擬似理由>の場合のように,論証の構成要素のどれかに限定された概念 なのではない.<誤難>のsādhyasamaの場合は,後に定義をみるように論証 対象( )と喩例の性質を取り上げた論難方法であり,5支分のうちで は喩例と密接な関わりがあると考えられる.よって,<擬似理由>と<誤難> のsādhyasamaは,立論者と誤難論者という話者の立場を裏返すだけで理解で きるものではなく,その内容からして別の概念であることに注意しなければ ならない.  まず,<擬似理由>としてのsādhyasamaの定義を確認する.『ニヤーヤスー トラ』では,「<論証されるべきことに等しいもの>[という<擬似理由>] は,[理由そのものが]論証されるべきであるから,論証されるべきことと区 別できない[理由]である」4と定義される.『ニヤーヤバーシャ』では,以 下のような例とともに解説されている.  「影は実体である」というのが論証されるべきことで,「進行するから」 というのが理由であるとき,[理由が]論証されなければならないから, 論証されるべきことと区別できないもの,[すなわち]<論証されるべ きことに等しいもの>[という<擬似理由>]である.この[理由]も また,まだ証明されていないから,論証されるべきことと同じように知ら しめられなければならない.まず,この「影もまた,人のように進行する のか.それとも,[光を]遮る実体が動くとき,遮断の連続に基づいて,こ

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の光が近在しないことの連続が把捉されるのか」というのは,論証され るべきことである.[しかし]周知の通り,動いている実体によって光の 一部分が各々遮断されるときに,それら[光の部分]が近在しないこと こそが間断なく把捉されるのである.一方,遮断とは[光の]到達の否定 である.5  この例では「影は実体である」という論証されるべきこと,すなわち論証 対象を論証する際に,「進行するから」という理由が用いられている.しかし, 実際には影が進行しているのではなく,何らかの実体によって光が遮断され, その実体の進行に伴って,光を遮断された部分が影として見られるに過ぎない. このように,理由そのものが未だ論証されていない事柄である場合,その理由 は論証対象を論証する機能を果たすことができず,不成立因(asiddhahetu) となる.以下,この<擬似理由>のsādhyasamaには<論証されるべきことに 等しいもの>という訳語を用いる.  次に,<誤難>としてのsādhyasamaの内容を明らかにするために,『ニヤー ヤバーシャ』が挙げる例を確認する.  理由をはじめとする,[論証式の]支分の能力と結びつく属性が論証 対象であり,それ(論証対象という属性)を喩例に帰結させることによ って,<所証相似>になる.もしも,あるあり方で土塊があり,それと同じ あり方でアートマンがあるならば,アートマンがあるのと同じあり方で 土塊があることになる.そして,このアートマンが活動を有することが論 証されるべきだと望む場合,土塊もまた[活動を有すると]論証される べきである.もしそうでないならば,土塊があるのと同じあり方でアート マンがあるのではなくなってしまう.6 ここで前提となっているのは,「【主張】アートマンは活動を有するものであ る.【理由】実体は活動の原因である属性と結合するから.【喩例】実体であ る土塊は,活動の原因である属性と結合し,活動を有するものである.【適用】 アートマンも同様である.【結論】したがって,運動を有するものである」と

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いう論証式である7.こうした立論者にとっての正しい論証式が提示されたと き8,「論証対象」がもつ属性,すなわち「論証されるべきである」というこ とを,喩例にも故意に押しつける9.そうすることで,立論者の提示した喩例が 不確定なものとなり,喩例としての機能を果たすことができなくなる.このよ うに,立論者の正しい喩例を成立させないことによって不当に論難するのが <誤難>のsādhyasamaである.このsādhyasamaには,以下<所証相似>とい う訳語を用いる.  以上見てきたように,<論証すべきことに等しいもの>は理由が論証され るべきであるとし,一方<所証相似>は喩例が論証されるべきとするもので ある.両者は同じ名称でありながらも異なる概念であることがわかる.しかし, 『 諍論』で用いられるsādhyasamaについて,梶山1984は<誤難>の<所証 相似>であるとし,<擬似理由>である可能性を検討していない.さらに,< 所証相似>の用例を根拠の1つとして,ナーガールジュナが<誤難>の説か れる『ニヤーヤスートラ』第5課第1章を知っていたことや,両者の文献の 時代的前後関係を論じている.梶山1984はニヤーヤ学派とナーガールジュナ の関係を,主に<誤難>を通じて検討した重要な研究成果である.しかし,2 つのsādhyasamaの内容を同一視しているように見受けられ,意味上は<擬似 理由>の<論証されるべきことに等しいもの>ととれる解説を加えながらも, これを<誤難>としての用例であると結論づけている(梶山 ).  中 観 派 の 用 い るsādhyasamaと い う 語 の 用 例 に 関 し て は,ほ か に も BHATTACHARYA 1974に よ る 研 究 が な さ れ て い る.BHATTACHARYAは,中 観 派 の sādhyasamaはニヤーヤ学派が用いるそれと本当に同意義であるのか,という RANDLE の 疑 念 を 契 機 と し て,『根 本 中 頌』(Mūlamadhyamakakārikā, MMK)や後代の 釈者たちの記述を検討し,ニヤーヤ学派と中観派の用い るsādhyasamaは同意義ではない,という見解を示している.ここで主な検討 対 象 の 1 つ と な っ て い る の は,『根 本 中 頌』 10に お け る samaṃ sādhyena という表現であるが,BHATTACHARYAは『 諍論』の用例に関しても 見解を同じくしており,自身の『 諍論』訳 の中で同様の指摘を行ってい る(BHATTACHARYA ).しかしながら,この研究においても<誤難>とし ての<所証相似>の内容は検討されていない.

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 また,こうしたBHATTACHARYAの結論に対し前述のMATILAL 1974は,初期ニヤー

ヤ学派と中観派の用いるsādhyasamaに大きな違いはないとしたうえで,中観

派のsādhyasamaが ではないという点に限定して,RANDLEと

BHATTACHARYAの 見 解 を 支 持 す る.た だ し,MATILALも 中 観 派 のsādhyasama

)に言及する際,<擬似理由>と<誤難>のsādhyasamaの差異を, 立論者か誤難論者かという立場の違いのみに帰するような記述が見られるた め,両者が別の概念であることが考慮されていない可能性も考えられる.  しかし,<論証されるべきことに等しいもの>と<所証相似>を同一視す るこれらの先行研究に反し,OBERHAMMER では両者が別立てされ,明 確に異なる概念として解説されている11.実際に本節で確認した定義からも 両者が同一の概念でないことは明らかであろう.以上述べてきた2つの sādhyasamaの相違点,および先行研究の見解をふまえ,次節からは実際に『 諍論』の中で用いられるsādhyasamaの検討を行う. 2.『 諍論』におけるsādhyasama 2. 1 sādhyasamaの用例を含む議論の位置づけ  はじめに,sādhyasamaの用例を含む議論が,『 諍論』全体の中でどのよ うな位置づけにあるか確認する.『 諍論』はおおよそ9つの主題からなる 反論と,それに対応する答論に整理することができる.以下の表は,実在論者 の反論にあたる第1―20偈と空性論者の答論にあたる第21―70偈の対応関係を 概観したものである12 【実在論者の反論】(第1―20偈) 【空性論者の答論】(第21―70偈) I 空なる言明の否定(第1―4偈) 空性の説示(第21―29偈) Ⅱ 空なる認識の否定(第5―6偈) 認識論批判(第30―51偈) Ⅲ 仏教内部からの批判(第7―8偈) 仏教教義と空性の適用(第52―56偈) Ⅳ 本性と名称(第9―10偈) 空なる名称(第57―60偈) Ⅴ 存在するものの否定(第11偈) 否定による空性の承認(第61―63偈)

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Ⅵ 存在しない本性の否定(第12―13偈) 縁起と空性(第64―68偈) Ⅶ 空なる行為参与者の否定(第14―16偈) Ⅷ 空なる理由の否定(第17―19偈) Ⅸ 三時における否定の否定(第20偈) 空性論者による三時の否定(第69偈) 結 ― 空性の会得(第70偈)  『 諍論』の議論全体に共通するのは,実在論者が主題ごとに,それが空で ある場合に起こる過失,あるいは実際にそれが実在することを論じて,空性を 斥けようとする点である.それに対し空性論者は,対論者の論理の逆用や四句 分別などの否定の論理をもって空を説き論破している.  このうちsādhyasamaの用例1はⅠの議論に,用例2はⅨの議論に含まれる. Ⅰでは,実在論者が空性論者の空なる言明に関する様々な過失を挙げるのに 対し,空性論者が空性を説きながら答えるという形式がとられる.Ⅸは1偈ず つの対となるためここでは触れないが,Ⅰの構成についてはやや詳細に以下 の表で示す13 【実在論者の反論】 【空性論者の答論】 I [空なる言明の否定](第1―4偈) [空性の説示](第21―29偈) I―1 空なる言明による本性の否定の否定(1) 本性の否定による空性の成立(21) 空性の意味と因果効力(22) 幻術師と幻人の喩え(23) I―2 空なる一切のものとそれを否定する言明の矛盾(2) 空なる一切のものとそれを否定する言明の無矛盾(24) I―3 禁止(mā)の声による喩例の否定(3) 禁止の声と空なる言明との相違(25) 空なる言明による本性の否定(26) 化身の男性の喩例(27) sādhyasamaと二諦説(28) I―4 実在論者の言明における否定の効力(4) 空なる主張における無過失(29) 上記の通り,空なる言明を主題とするⅠは,I―1からI―4までの4つのセクシ ョンに分けることができる.この中でsādhyasamaに言及されるのは,I―3のま

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とめにあたる第28偈である.次項ではこのI―3全体の理解を通じて,ここで用 いられるsādhyasamaの意図を明らかにしたい. 2. 2 空なる言明をめぐる議論:sādhyasamaの用例1 2. 2. 1 I―3における実在論者の反論  先述の通り,Ⅰの議論では空性論者の「一切のものは空である」という言明, すなわち本性を否定する言明を主題として反論が展開される.I―3の前提と なるI―1およびI―2で問題となるのは,それ自体も空であるはずの言明が,ど うしてものの本性を否定できるのか,という点である.実在論者にとって,本 性をもたない空なるものには,いかなる因果効力も認めることはできない14 その論点を引き継ぐかたちで,I―3では実在論者が以下のことを想定する.そ れは,空性論者が空なる言明の否定作用を証明するために,「声を発するな」 という禁止の声を喩例として挙げるだろう,というものである.  これに対し,実在論者は禁止の声という喩例が妥当でないことを示す.その 論拠となるのは,「現に存在する声によって,未来に存在するであろうそれ(声) の禁止があるから」という第3偈中の一文である.禁止の声の喩例と空なる 言明について,実在論者の反論に基づいた対応関係を以下に示す. 【禁止の声が喩例とならない論拠:実在論者の場合】(第3偈) 「現に存在している声」 「空なる言明」1 ↓禁止 ↓否定 「未来に存在する声」 「本性」2 禁止の声 空なる言明 =存在しない =存在しない 実在論者によれば,この対応関係には下線1と下線2に矛盾がある.禁止の声 は現に存在しており,その禁止の対象となる声は未来に存在するものである. 禁止の声,すなわち「現に存在している声」と対応するのは「空なる言明」 であるから,その否定の対象は「本性」であって,これが「未来に存在する声」 と対応する.このような対応関係があるとき,禁止の声の場合は禁止の行為者

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と対象はいずれも存在するものである.しかし,空性論者の見解に従えば,空 なる言明という否定の行為者と,本性という否定対象はどちらも空であり,実 在論者からすれば存在しないに等しい.よって,この禁止の声という喩例は空 なる言明の喩例として妥当ではないということになる.それを実在論者が「現 に存在する声によって,未来に存在するであろうそれ(声)の禁止があるから」 という根拠によって述べるのが第3偈である. 2. 2. 2 I―3における空性論者の答論  以上のような反論に対して空性論者は,実在論者が想定した禁止の声とい う喩例は,空を証明するための喩例にはなりえないことを第25―28偈にわた って述べる.その論拠には2つの解釈がある.第25―26偈において第1解釈が 述べられると,続く第27偈では空性を証明するための正しい喩例が提示される. そ し て,さ ら に 第28偈 で は 第 2 解 釈 が 述 べ ら れ る.本 稿 で 問 題 と す る sādhyasamaが用いられているのが,この第2解釈である.  1つ目の論拠から順に確認する.空性論者は禁止の声と空なる言明との対 応関係について,実在論者とは異なる箇所に論点を置く.禁止の声には,既に 実在論者も指摘している通り,存在するものから同じく存在するものへの禁止, という構図が成り立っている.しかし,実在論者の挙げた例では,空なるもの と本性という相反するものの間に否定関係が設定されていることになる.こ の矛盾した対応関係を正しく当てはめると,本来は以下のようになる. 【禁止の声が喩例とならない論拠:空性論者の場合】(第25―26偈) 「現に存在している声」 「空なる言明」 ↓禁止 ↓否定3 「未来に存在する声」 「空性」 禁止の声 空なる言明 空の否定=本性の承認 禁止の声の喩例のように,否定が等価なもの同士の間に行われるならば,空な るものが空なるものを否定するということになる.すると空の否定によって,

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空性論者の意図に反し本性が存在するという結論が導出されてしまう.つま り空性論者からすれば,禁止の声という喩例の矛盾は下線3にあるというこ とになる.以上が第1解釈である.  空性論者は,禁止の声という喩例を以上のように斥けてから,空性に適した 正しい喩例を挙げる.それは,「化身の男性」の喩例である.ある男性が,化作 された女性を見たときに「女性だ」という認識を起こし,さらに欲などを生 じさせる.そこへ,如来やその弟子などによって化作された化身の男性が現れ, その人の誤った認識を排除する.それと同様に,空なる言明もものの本性を否 定することができるというものである.  ここで登場する化身の女性は,本性上は空であるにも関わらず,誤って本物 の女性であるかのように認識されてしまう.そして,諸物も空であるのに他な らないが,本性があるかのように誤って認識されている.前者を排除する化身 の男性も,後者を否定する空なる言明も,同じく本性をもたないが,それらを 排除/否定する行為者となることができる.すなわち,以下のように,化身の 男性が空なる言明を喩えており,化作された女性への「女性だ」という誤っ た認識が,「本性がある」という誤った認識を喩えていることになる. 【空性論者による正しい喩例】(第27偈) 本性がない=「化身の男性」 「空なる言明」=本性がない ↓排除 ↓否定 「女性だという誤った認識」 「本性があるという誤った認識」 化身の男性 空なる言明  そして,第28偈ではsādhyasamaの指摘とともに第2解釈が示される.前述 した反論の中で実在論者は,禁止の声の喩例が妥当でないのは「現に存在す る声によって,未来に存在するであろうそれ(声)の禁止があるから」であ ると根拠を述べていた.ここでは,それに対して<論証されるべきことに等し いもの>という<疑似理由>が指摘されていると考えられる.なぜならば,声 が存在するということは,ものの実在を認めない空性論者の立場からすれば,

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論証されていない事柄に過ぎないからである.実際に,空性論者は<論証され るべきことに等しいもの>である根拠として「声の実在性は存在しないから」 (第28偈b句),「一切のものは本性を欠くという点で区別されないから」15(第 28偈 )と述べている.この議論では喩例について言及されているため,<所 証相似>と混同しやすいが,空性論者は喩例自体が論証されるべきだと述べ ているのではない.実在論者の述べる「喩例が成り立たないことの理由」に 対して,論証すべきだと述べているのである.  第1解釈で喩例の対応関係が検討されたのとは異なり,その根拠となる「声 の実在性」そのものを問題とするのが以上の第2解釈である.ここで用いら れるsādhyasamaが<論証されるべきことに等しいもの>に対する指摘であ ることは,それを「理由」と指し示す偈文からも明らかであろう.注目すべき は,これが空性論者にとっての<論証されるべきことに等しいもの>である という点である. 2. 3 三時(先・後・同時)をめぐる議論:sādhyasamaの用例2 2. 3. 1 Ⅸにおける実在論者の反論  つぎに,2つ目のsādhyasamaの用例が含まれる議論Ⅸを確認する16.第20偈 での実在論者の反論は,空性論者による本性の否定が先・後・同時という3 つの時に成り立たないことを理由として,本性が存在することを論証しよう としている.この3つの時とは,具体的には(1)否定が先にあり否定対象が 後にある場合,(2)否定が後にあり否定対象が先にある場合,(3)否定と 否定対象が同時にある場合,という3種の先後同時関係を指す.それぞれの場 合に起こる過失を要約すると以下の通りである. (1)否定するとき,否定対象がまだ存在していなければ否定できない. (2) 否定するとき,否定対象がすでに存在していれば否定が無意味なも のとなる. (3)否定と否定対象の間に因果関係がなくなってしまう.  このように,否定と否定対象との関係が先後同時のいずれであっても,否定

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は成り立たない.よって,空性論者による本性の否定は不可能であり,その結果, 実在論者は本性が存在するということを間接的に証明することになる.  この論法は『ニヤーヤスートラ』において,ナーガールジュナと思われる 対論者がニヤーヤ学派の認識論を否定する際に用いたものと同様である.さ らに,誤難の分類の1つである非因相似( )としても設定されており, 『 諍論』を含むナーガールジュナ文献とのパラレルも詳細に報告されてい る(梶山 ).ナーガールジュナはこの論法を,行為と対象,手段と対 象といったものの関係を否定する際に用いるが,それを逆用した実在論者の 反論がここでは想定されている. 2. 3. 2 IXにおける空性論者の答論  以上の反論に対し,空性論者は実在論者に生じるsādhyasamaと主張の破棄)を順次指摘する.この答論でのsādhyasamaが,『 諍論』にお け る 2 つ 目 の 用 例 で あ る.ま ず 空 性 論 者 は,実 在 論 者 の 三 時 の 否 定 が sādhyasamaであり,かつすでに反論されていると述べる.なぜならば,もし実 在論者の言う通り,本性の否定が3つの時間関係のいずれにおいても妥当で ないならば,空性論者の否定行為だけではなく,否定対象である本性もまた存 在しないことになってしまうからである.しかし,実在論者は「本性は存在す る」と主張しているのであって,この三時を否定する理由は実在論者にとっ て論証されていないことに他ならない.  さらには,本性という否定対象が成立しなければ,逆に空性論者にとって望 ましい結果となり,空を証明するためにこそ適した理由となる.そのことにつ いて空性論者は,第69偈 の中で引用される第63偈の通り「私(空性論者) はいかなるものも否定しないし,いかなる否定対象も存在しない」とすでに 認めているのである.  しかし,本性が存在しないことは実在論者にとっては認められないから, <論証されるべきことに等しいもの>という<擬似理由>になる.よって,実 在論者は三時における否定の不成立から,本性の存在を証明することはでき ない.ここで用いられるsādhyasamaは,用例1とは逆に実在論者にとっての <論証されるべきことに等しいもの>であるといえる.

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 続く議論では,実在論者が以上の過失を避けるために,先後同時関係の妥当 性を主張することが想定され,その例として息子と父(対象より先にある原因), 師匠と弟子(対象より後にある原因),光と灯火(同時にある対象と原因)が 挙げられる.しかしながら,すでに実在論者は第20偈で三時の不成立を述べて しまっている.  反対に,もしこの例示された3種の先後同時関係のように,三時に2つのも のの関係が成り立つとすれば,実在論者は本性の否定行為も実際に存在する と容認してしまうことになる.すると,実在論者は「本性は存在する」という 自身の主張とは相反する事柄を認め,敗北の立場17である「主張の破棄」に 陥る.その結果,空性論者の本性の否定が成立し,一切は空であるという見解 が証明される.  また,前に指摘された<論証されるべきことに等しいもの>も<擬似理 由>として敗北の立場に含まれている18.このことから,三時を否定する理由 を用いてしまった時点で,実在論者はいずれにしても論争に敗北するほかなく, 本性の存在を証明することはできないということになる.以上が,『 諍論』 における2つ目のsādhyasamaの用例である. 3.結論  これまでみてきたように,『 諍論』で用いられるsādhyasamaは<擬似理 由>の<論証されるべきことに等しいもの>である.用例1は「声の実在性」 という空性論者にとっての<論証されるべきことに等しいもの>,用例2は 三時における否定行為と否定対象(本性)の不成立という実在論者にとって の<論証されるべきことに等しいもの>であった.また,筆者は他の中観文献 での用例は未見であるものの,少なくとも『 諍論』では,ニヤーヤ学派の用 いるsādhyasamaと中観派のsādhyasamaの差異はそれほどないと考える.その 点で,前述したMATILAL 1974の結論に同意したい.  これらのsādhyasamaはいずれも理由を問題とした指摘であり,喩例に対し て論証対象の性質を附加させるような論理展開はみられなかった.そのため, <誤難>の<所証相似>は『 諍論』での議論には無関係であり,やはり< 擬似理由>のそれとも明確に区別しなくてはならない.よって,梶山1984によ

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るナーガールジュナと『ニヤーヤスートラ』第5課との前後関係の考察に対 する根拠としては見直さざるをえないであろう.  また,『 諍論』における2つのsādhyasamaを検討した中で最も興味深い のは,実在論者と空性論者それぞれの立場からみた<論証されるべきことに 等しいもの>が,空性論者によって指摘されている点である.ニヤーヤ学派の 論理規定を逆用し,かつ両者の思想的立場の相違を利用した論難方法であり, 従来の論理学や言葉による物事の証明の限界を示して否定する,ナーガール ジュナの基本的姿勢がみてとれるだろう. 附:テキストと試訳  冒頭に述べた通り,最後に本稿で取り上げた議論について,筆者による校訂 テキストと試訳を附す.校訂にあたっては,写本と異なる読みを採用した場合 のみ脚 に示すこととした.また,試訳の作成に際しては,BHATTACHARYA WESTERHOFF AMAGUCHI 梶山 を参照した.テキストと試訳に先 立ち,テキスト内で使用する略号・記号を以下に挙げる.

Ms Facsimile Edition of a Collection of Sanskrit Palm-leaf

Manuscripts in Tibetan dBu med script,

R S N4 KR4 AYASWAL OHNSTON UNST Y YONEZAWA D P + lost aksara

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. s4ara Italic テキストと試訳1:『 諍論』におけるsādhyasamaの用例1  実在論者の反論(第3偈)19とそれに対する空性論者の答論(第25―28 偈)20 21 (… …22) 4 4 m4 【反論】「声[を発する]な」というように,というこれがあなた(空性 論者)の見解かもしれない.しかし,これも妥当ではない.というのも,こ の場合には,現に存在する声によって,未来に存在するであろうそれ(声) の禁止があるから.( )   4 4 s4 23 4 24 h 4 25 4 26  あなた(空性論者)には,以下の見解があるかもしれない.例えば,ある人 が「声を発するな」と言うだろう.そして,その声によって禁止がなされる. 全く同じように,「一切のものは空である」という空なる言明によって,完全 に一切のものの本性の否定がなされるのであると.   4 h4 m4 . ki4 4a 4 . 27 28 4 4 s4edhah4 29 h 4 s4edhah4 30 4 iti vis4 31 (… …32).

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 これについて我々(実在論者)は述べよう.これもまた妥当ではない.いか なる理由かというならば,この[禁止の声の]場合は,現に存在する声によっ て未来に存在するであろう声の禁止がなされる.しかしこの[否定の言明の] 場合には,現に存在するあなた(空性論者)の言明によって一切のものの否 定がなされるわけではない.というのも,あなた(空性論者)の考えによれば, 言明も存在しないし,一切のものの本性も存在しないからである.したがって, この「声[を発する]な」というように,という不整合な説明は正しくない. m4 4 4 4 4 33 (… …34) 4 m4 (… …35) 25 【答】あなた(実在論者)によって用いられた「声[を発する]な」と いうように,というこれは喩例にならない.なぜなら,それ(禁止の声) は声による声の禁止であるが,これ(否定の言明)は,決してそのような ものではないからである.( )   4 44 4 4 4 s4 4 s4 36 4 4 37 4 pratis4 4 4a 4 . atra drst4 4 4 4 38 m 4 4 h4 h4 h4 h4 h4 śūnyā 39 4 4a4.  これは,我々(空性論者)にとっての喩例にはならない.あたかも,ある人 が「声を発するな」と言いながら,他ならぬ声を発し声を禁止する.それとは 違って,その空なる言明が空性を否定するのではない.いかなる理由かという ならば,この[禁止の声の]喩例の場合には,声による声の禁止がなされるが, これ(否定の言明)はそのようなものではないからである.我々(空性論者) は「一切のものは本性を欠いており,本性を欠くから空である」と述べるの である.いかなる理由か[と言うならば,以下のように答える].

(16)

4 m4 40 4 4 m4 4 41 4 m4 42 m 4 26 もし,本性を欠いた[言明]によって本性を欠いた[諸物]の否定があ るならば,本性を欠くことを否認するとき,実際に本性があると承認され たことになってしまうからである.( )   4 4 4 43 4 m4 44 4 4 drst4 4 4 h4 45 4 46 4 s4edhah4 4 4 47 4 48 4 49 pratis 4edhah4 4 50 pratis 4 h4 h4 4 4 s4 rst4 4 4  「声を[発する]な」云々と言って声による声の禁止がなされるのと同じ ように,もし本性を欠いた言明によって本性を欠いた[諸物]の否定がなさ れるならば,この喩例は妥当であろう.しかし,この[否定の言明の]場合,本 性を欠いた言明によって,諸物の本性の否定がなされる.もし[禁止の声と] 同じように,本性を欠いた言明によって諸物が本性を欠くことの否定がなさ れるならば,その本性を欠くことの否定に基づいて,本性を伴う諸[物]があ ることになってしまうだろう.本性を伴うことに基づいて,空でない諸[物] があることになってしまうだろう.しかし,我々(空性論者)は諸物が空であ ると説くのであって,空でないと[説くのでは]ないから,この[禁止の声は] 喩例になりえない. m4 m4 51 4 m4 52 あるいは,ある[男性]の化作された女性に対する「これは女性だ」と

(17)

いう誤った認識を,化作された[男性]が排除することができる.それと 同じように,これ(本性の否定)も可能である.( )   purus4 m4 m4 4 h4 53 h 4 54 4 55 4 4a 56 57 4 h4 st4 4 st4 4 58 m 4 59 r 4 s4u h4 s4 4 h4 60 pratis 4 atra drst4 4 4 h4 4 h4.  あるいは,勝義の観点からは本性が空であるはずの化作された女性に対して, 「これは女性だ」という誤った認識が,ある男性に起こるだろう.同じように, その誤った認識によって,彼女(化作された女性)に対する欲が生じるだろう. 如来あるいはその弟子によって化身の男性が化作されたとしよう.如来の力, あるいはその弟子の力によって,彼のその誤った認識を排除することができる. 全く同じように,化作された男性に等しい空なる言明によって,化作された女 性と同じく本性を欠いた諸物に対するこの本性の認識,それが排除される,[す なわち]否定される.したがって,以上[の化身の喩例]は,これら[2つの 喩例]のうちで空性の完成に妥当する喩例であり,もう一方[の禁止の声の 喩例]は,そうではない. m4 4 m4 m4 m4 4 あるいは,これは<論証されるべきことに等しいもの>[という<疑似] 理由>である.というのも,声の実在性は存在しないからである.さらに, 我々(空性論者)は言語的日常活動を容認せずに語るわけではない.( )   e v m4 4 4

(18)

h4 61 st 4 4 4 62 h 4 h4   4   63 4 4 m4  「声[を発する]な」というように,という[喩例を用いる際の]この理由 は,[我々空性論者にとっては]<論証されるべきことに等しいもの>[と いう<疑似]理由>に過ぎない.なぜならば,一切のものは本性を欠くという 点で区別されないからである.というのも,この声は依存して生起したのだか ら,本性の実在性は存在しない.[つまり,]それ(声)の本性の実在性は現 に存在しないから,ということである.  既に述べられた,「というのも,この場合は,現に存在する声によって未来 に存在するであろうそれ(声)の禁止がある.」( )ということ,それは破 綻している.  api m4 4 4 h4 4.   4     4a4  その上,我々(空性論者)は日常的言語活動の事実を否定して,[すなわち] 日常的言語活動の事実を容認せずに「一切のものは空である」と語るわけで はない.というのも,日常的言語活動の事実に依拠せずに,教えを示すことは できないからである.  「日常的言語活動に頼らずに勝義は示されない.勝義に依拠せずに涅槃は証 得されない」(『根本中頌』 )と述べられた通りである.

(19)

  h4 h4 4 h4  したがって,我々(空性論者)の言明と同じように一切のものは空である. そして一切のものが本性を欠くことは,[勝義と日常的言語活動という]両 者のあり方に妥当するのである. テキストと試訳2:『 諍論』におけるsādhyasamaの用例2  実在論者の反論(第20偈)64とそれに対する空性論者の答論(第69偈)65 m4 4 4 4 (… …66) 4 67 【反論】もし否定が先にあって,否定対象が後にあると[空性論者が] 言うならば,妥当ではない.[否定が]後にあっても,[否定と否定対象が] 同時にあっても妥当ではないから,本性は存在する.( )  iha m4 4 4 (… 4 m4 h4 4 …68)

m4 . asati hi pratis4 s4edhah4. atha pratis4edhah4

4 pratis4 4. siddhe hi pratis4 4 pratis4edhah4

k a r o t i . a t h a p r a t i s4e d h a p r a t i s4 69 s 4e d h a h4 pratis4 4a 4 70 pratis 4 h4 s4 s4 4 h4 s4i4a 4 4a 4 daks4i4 4a4 71 4 h4 h4  ここで,もし否定が先にあって否定対象が後にある[と空性論者が言う] ならば,本性を欠くことは妥当ではない.というのも,否定対象が存在しない とき,何の否定があるのか.もし否定が後にあって否定対象が先にあると言う ならば,また妥当ではない.というのも,否定対象が既に成立しているとき,否 定は何を行うのか.もし否定と否定対象が同時にあるならば,そうだとしても,

(20)

否定は否定対象の原因ではないし,否定対象は否定の[原因では]ない.同時 に生じている牛の2本の角のうちで,右[の角]は左[の角]の原因ではあ りえないし,あるいは左[の角]は右[の角]の原因でもありえないように. その場合,一切のものは空であると述べられたことは正しくない. 72 4 4 73 m4 74 4 【答】3つの時間[的先後関係]に関する理由は,ちょうど先に答えら れた.それは[<論証されるべきことに]等しいもの>[という<疑似 理由>]だから.そして,3つの時間[的先後関係]を否定する理由は空 性論者たちに相応しい.( )

 sa es4a 4 pratis4 h4 pratyavamantavyaḥ

75. s4

(…nopapadyetaivaṃ

tvadvacanena pratiṣedhavat pratiṣedhyo ’pi…76) s

4edhapratis4

77 s

4edhah4 pratis4iddha

78 (… …79) pratis4 s4a eva m4 4 pratis4 h4.  他ならぬこの理由は,3つの時間[的先後関係]に関する否定を述べるも のであるが,既に反論されている,[すなわち]斥けられるべきである.なぜ ならば,[実在論者にとっては]<論証されるべきことに等しいもの>[と いう<疑似理由>]だからである.というのも,あなたが言うように[本性の] 否定が3つの時間[的先後関係]において妥当しないならば,否定と同じく[本 性という]否定対象も[妥当しないことになるだろう].したがって,[本性の] 否定と[本性という]否定対象が存在しないとき,あなた(実在論者)が「[本 性の]否定は否定された」と考えるのは正しくない.そして,[先後同時とい う]3つの時に関して否定を述べる理由がある場合,これこそが一切のもの の本性を否定するものであるから,空性論者たちに相応しいのであって,あな

(21)

たたち(実在論者)に[相応しいのでは]ない. あるいは,これはどのように反論されているのか. 4 m4 4 4 4 私(空性論者)はいかなるものも否定しないし,いかなる否定対象も存 在しない.よって,「あなた(空性論者)は否定する」というこの異議は, あなた(実在論者)によって作られたのである.( )   s4 s4u pratiṣedhasiddhena 80 drst 4 4 4ah4 81 hetuh4 h4. katha 4 h4 82 h 4 (… s 4 …83) h 4 h4  また,あなた(実在論者)は[以下のように]考えるかもしれない.[先後 同時という]3つの時全てにおいて否定は成立するから,[対象に]先行す る原因も[対象に]後続する原因も[対象と]同時にある原因も経験される. どのようにというならば,[対象に]先行する[原因]は息子にとっての父 のようであり,[対象に]後続する[原因]は師匠にとっての弟子のようで あり,[対象と]同時にある[原因]は光にとっての灯火のようなものである.   h4 84(…evam. uktāḥ…85) 4 s4 h4 h4 4 h4 86 pratis 4

(…kramenaiva svabhāvapratiṣedho ’pi siddho …87).

 これについて我々(空性論者)は答えよう.しかし,これ(理由と対象の先 後同時関係)はそのようなものではない.なぜならば,かの[先後同時という]

(22)

3組[の否定と否定対象の時間関係]に対して前掲の過失が既に述べられて いるからである.さらに一方でまた,もし[上で述べられた原因と対象と]同 じような手順であれば,[本性の]否定も実際に存在するとあなた(実在論者) によって容認されることになる.そして,あなた(実在論者)の[本性はある という]主張の破棄が起こる.他ならぬこの手順によって,本性の否定もまた 成立するのである. 参考文献 <一次文献>   Mūlamadhyamakakārikā: 叶

Nyāyabhāṣya: N ARKATIRTHA ARKATIRTHA

ARKATIRTHA ARKATIRTHA

Nyāyasūtra: N ARKATIRTHA ARKATIRTHA

ARKATIRTHA ARKATIRTHA

Vigrahavyāvartanī (-vṛtti): OHNSTON UNST N4

KR 4 AYASWAL ONEZAWA

Vigrahavyāvartanī-kārikā: UCCI ONEZAWA

Vigrahavyāvartanī-vṛtti: UCCI ONEZAWA

<二次文献>  欧文

BHATTACHARYA

Journal of Indian Philosophy

BHATTACHARYA The Dialectical Method of Nāgārjuna

(Vigrahavyāvartanī)

O H N S T O N U N S T

(23)

chinois et bouddhiques KANG

jāti Nyāyasūtra Journal of Indian Philosophy

MATILAL

Journal of Indian Philosophy N ARKATIRTHA ARKATIRTHA

Nyāyadarśanam with Vātsyāyana’s Bhāṣya, Uddyotakara’s Vārttika, Vācaspati Miśra’s Tātparyaṭīkā & Viśvanātha’s Vṛtti

OB E R H A M M E R R E T S R A N D S T E T T E R

Terminologie der frühen philosophischen Scholastik in Indien

RANDLE Indian Logic in the Early Schools

S N4 KR

4 AYASWAL

Journal of the Bihar and Orissa Research Society

TARKATIRTHA ARKATIRTHA

Nyāyadarśanam with Vātsyāyana’s Bhāṣya, Uddyotakara’s Vārttika, Vācaspati Miśra’s Tātparyaṭīkā & Viśvanātha’s Vṛtti

TUCCI Pre-Diṅnāga Buddhist Texts on Logic from Chinese Sources.

WESTERHOFF The Dispeller of Disputes: Nāgārjuna's Vigrahavyāvartanī.

(24)

Journal Asiatique YONEZAWA

Journal of Naritasan Institute for Buddhist Studies(『成 田山仏教研究所紀要』)  中文 叶少勇 中 :梵藏 合校· · 注  和文 小野卓也 「 s4taについて(2)―詭弁の諸相」『仏教文化研究 論集』 小野基 「 の誤難論とディグナーガの批判」『インド論理学研究』 梶山雄一1984「仏教知識論の形成」『講座大乗仏教9 認識論と論理学』春秋 社, ― 「 諍論(論争の超越)」『大乗仏典14 龍樹論集』中公文庫, 初出: 『世界の名著2 大乗仏典』中央公論社, 桂紹隆1984「因明正理門論研究[六]」『広島大学文学部紀要』 ―1987「因明正理門論研究[七]」『広島大学文学部紀要』 児玉瑛子 「『 諍論』六句議論における問題点」『大正大学大学院研究 論集』 ― 「s4at4kot4 h4とs4at4paks4 再考」『佛教文化学会紀要』 服部正明1979「論証学入門」『世界の名著1 バラモン教典・原始仏典』中央 公論新社, 室屋安孝 「『因明正理門論』の梵文断片をめぐって」『インド論理学研究』 渡辺俊和 「 および に関するディグナーガの見解―その変遷と 背景について」『インド論理学研究』

(25)

【 】 1 BHATTACHARYAによる『 諍論』の英訳に附された,ニヤーヤ学派の術語索引によっ て一覧できる(BHATTACHARYA ). 2 著者の真偽を含む『 諍論』の成立年代およびニヤーヤ学派の諸典籍の成立年代 は確定的ではないが,『 諍論』の著者とされるナーガールジュナと最も年代的に 近接するとみられる『ニヤーヤスートラ』(Nyāyasūtra )の定義と『ニヤーヤバー シャ』(Nyāyabhāṣya )の解説に基づく. 3 ニヤーヤ学派の<誤難>および仏教論理学へ導入された同等の概念については,桂 ANG 小野 室屋 渡辺 等を参照. 4 4 4 4. 訳は服部1979も参照. 5 4 h4 4 4 4 4 h4. 4 4 purus4 4 4 4 r4 4 r 4 4a 4 tu s 4edhah4. 訳は服部1979も参照. 6 h 4 h4 4 4 4 4 e h4 h4 st4 4

lost4 4 4 lost4 4o ’pi h4 st4 4ah4 7 4 4 lost4 4ah4 4 h4 4hr4te parah4 4 st4 4 s4 s4 4 s4 4 s4 8 NBhによれば, で解説されるsādhyasamaを含む第1―8番目の<誤難>で は,上記の 7に示した立論者の論証式が前提となっているようである.アートマ ンが活動を有するか否かは思想的立場,あるいは同一学派内でも年代的な変遷によ って見解の分かれるところであろう.sādhyasamaの解説からは立論者の見解が明確 には読み取りづらいが,sādhyasamaに先行する第1―7番目の項目( s4 s4 4 4 ) の解説においては,誤難論者がアートマンが活動を有していないことを主張してい る.たとえば,第1の では, 7で示した記述に続き以下のような解 説がなされる.「このように結論づけられたとき,対論者が同じ類似性によって反

(26)

する.『【主張】アートマンは活動しない.【理由】遍在する実体は活動しないか ら.【喩例】虚空も遍在し,かつ活動しない.【適用】アートマンも同様である.【結 論】し た が っ て,活 動 し な い』と( 4hr4te parah4 4aiva st4 4 s4 s4 4 s4 4 s4 ).」この点から考えれば,NBhの時点では立論者 の論証式がニヤーヤ学派にとって正しいものとして認められていたとみなすこと ができる. 9 この誤難論者の論法では,この論証式の論証対象である「アートマン」がもつ何ら かの属性ではなく,あくまで論証の構成要素「論証対象」としての「論証されるべ き」=「まだ論証されていない」という属性に焦点をあてている.よって,喩例で ある「土塊」が実際に活動を有していたとしても,アートマンと同じように活動を 有することが論証されなければならないと論難していることになる. 10 h 4 4 kr4 sarva4 r4ta4 4 4 kr4 sarva4 4 4 11 <所証相似>にあたる sādhyasama と,<論証されるべきことに等しいもの>に 相 当 す る sādhyasama[hetuḥ] に,さ ら に sādhyasamaṃ[vacanam] を 加 え た3種 の

sādhyasamaが解説されている(OBERHAMMER ).BHATTACHARYAや

MATILALが検討した は,第2番目の sādhyasama[hetuḥ] の中で言及さ れる( ). 12 偈頌の数え方は OHNSTON UNST に従う. 13 これは児玉 の表にセクション番号を追記し多少の修正を加えたものであ る. 14 より詳細な議論の内容は児玉 を参照されたい. 15 ここでは<誤難>の1つである無区別相似( s 4 )と同様の論理が用いられ ていると思われる.詳細は児玉 において検討した. 16 当該議論に関して,児玉 にも OHNSTON UNST に基づいた 試訳を挙げているが,本稿に附した試訳はテキストの修正に伴い若干の変更をして いる. 17 ニヤーヤ学派の規定する論争に敗北する条件である.全22項目に分類されるが,全 体の定義は以下の通りである.「敗北の立場とは,誤解と無理解とである( ).」 18 「敗北の立場とは,主張の破棄・他の主張・主張の矛盾・主張の放棄・他の理由・

(27)

他の対象・無意味・理解されない意味・無関係・時が合わないこと・不足・余分・ 同語反復・沈黙・無知・思いつかないこと・逃避・他説追認・非難すべきことを 見逃すこと・非難されるべきでないことを非難すること・定説に背くこと・諸々 の 擬 似 理 由 で あ る( h4 4 h4 4 4 4 s4a4a4 s4epo s4a4a4 ).」 19 20 21 22 23 4 s4 24 25 26 4 4 4 27 28 29 pratis 4edhah4 h4 Ms. 30 s 4 31 vis 4 s4 32 33 h 4 h4 34 35 h 4 h4 R. 36 pratis 4 37 4 4 38 39 h 4 h4 h4 h4 h4 h4 h4 h4 h4 h 4 h4 h4 h4 h4 h4 h4

(28)

40 h 4 4 h4 4 h4 4 R. 41 h 4 h4 42 4 4 Ms. 43 h 4 h4 44 h 4 4 h4 4 45 drst 4 4 4 h4 rst4 4 4 h4 rst4 4 4 4 rst4 4 4 h4 46 h 4 h4 47 h 4 h4 48 4 h4 4 49 h 4 h4 50 h 4 h4 51 4 4 4 52 53 54 h 4 h4 4 h4 R. 55 eva 4 56 4 4 4 4a R. 57 58 st 4 4 st4 4 st 4 4 59 4 4 4 4 R. 60 61 h 4 h4 62 4 4 63 64 65 66 67 68 pratis 4 4 h4 4 s4 4 h4 4 pratis4 69 pratis

4edhapratis4 s4edhah4 pratis4 70

(29)

71 4a4 4a4 Ms. 72 73 h 4 4 Ms. 74 4 75 h 4 h4 h4 76 4 s4edhavat pratis4

++++++ pratis4edhapratis4 h4 s4edhapratis4 s4edhavat sa pratis4 77 78 pratis 4 si s4 79 s 4 80 pratis 4 s 4edhah4 siddhah4 81 drst 4 4 4ah4 rst4 4 4a Ms. 82 83 s 4 s4 s4 s4 84 85 h 4 86 h 4 h4 87 s 4 4 s4

参照

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