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石垣島大浜の津波大石は 古文書に記載されていたか,その2: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

仲座, 栄三

Citation

沖縄科学防災環境学会論文集 (Coastal Eng.), 5(1): 17-23

Issue Date

2020-08-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/24686

(2)

石垣島大浜の津波大石は

古文書に記載されていたか,

その2

仲座 栄三

琉球大学 工学部工学科社会基盤デザインコース(〒903-0213 沖縄県中頭郡西原町字千原1番地) E-mail:[email protected] 石垣島の大浜の崎原公園の一角に,牧野清が命名した津波大石という巨大な岩塊が存在する.これは, 津波によって現在の位置に運ばれたものであるとされてきているが,それが何時,どこから運ばれたもの であるかについては,これまで諸説ある.著者は,先に発表した論文において,それを発生させた津波が, 1771年に発生した明和大津波でありかつ,その元の位置は現在の位置より150 mほど南寄りに下った海岸 にあり,そこはかつて「こるせ御嶽」と呼ばれていたことが,古文書記録「大波之時各村之形行書」の末 尾部分に当たる「奇妙変異記」に明記されていることについて述べている.その後に,古文書記録の修正 部分について精査が行われ,古文書原本とも照らし合わせて,さらに改訂が行われている.本論は,先の 論文の続編として,これらのことについて説明している.

Key Words : tsunami buolder, Meiwa tsunami, Isigaki islands, ancient document, tsunami-ufu-ishi

1. はじめに

著者は,文献1)において,古文書「大波之時各村之 形行書」の末尾部分の「奇妙変異記」に記された「大濱 村より卯方…」で始まる記録に対する独自の解釈にもと づいて,これが石垣島大浜の崎原公園の一角にある「津 波大石」の説明に当たるとする見解を与えた. 古文書記録にあるこの説明文は,これまでにも解読さ れていて,河名ら2)は,この記録は津波大石とは無関係 であり,大浜村の沖にある「サンゴ礁切れ目の北の端」 にある津波石について説明したものであるとの見解を与 えている.(以降,「大浜」については,文意にしたが って適宜,「大浜」あるいは「大濱」と書く.) このように見解が異なる要因は,原本にあるくずし字 の読み取りが困難であるという点にある.後に詳しく説 明されるが,原本には判別困難な文字が2箇所にあって, 文全体の意味にそれらが極めて重要な働きをなしている. 特に,その内の1つが「大濱津口×之端」という部分に あり,「×」で示す1文字に当たる.この1文字1つで, 文意が大いに異なってくる.これを河名らは,「北」と 読み,その文は「村の沖のサンゴ礁切れ目の北側」を指 すと解釈した.これに対して,著者はこれを「下」(村 の南側の意)と読むべきであるとの解釈をし,この文は, 大浜の津波大石のある位置を指すと判断した. しかしながら,文献1)が掲載された後に,歴史家ら の意見を聞くに及び,原本に見る字体と「くずし文字」 の字体との照らし合わせや,文全体の内容の解釈などか らは,むしろ「北」は「午」に,「子下中」は「子且中」 と書かれているとし,それは「子丑中」の誤植であろう とする判断に至った.このような修正によれば,古文書 記録の意味するところは,文献1)にて著者が与えた古 文書記録の解釈を難なく説明できる. しかしながら,古文書記録における判別困難なくずし 文字がいかような文字として読まれようと,結局のとこ ろ,書き手が現存しない以上,本当のことは分からない. すなわち,それらの文字を含む文全体の意味が現にある 実態を正しく表していなければ,いかような文字が記さ れてあろうとも意味は無く,実態に照らして,逆にそれ らの文字は適宜正しい文字に置き換えておく必要がある. 本論は,こうした議論について解説するものである.

2. 古文書記録に対する従来の解釈と経緯

「津波大石」は,石垣島の崎原公園の一角にあり,そ の概形は円形をなし,周長が約40 m,平均高さが7 m程 の岩塊である.河名・中田3)はこの岩塊に付着している サンゴの最新部の14C測定値から,およそ2000年前とい う年代を得ている.この結果に基づいて,河名・中田は, この津波大石を発生させた津波は,およそ2000年前に発

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生した巨大津波,(仮称)沖縄先島津波によるものであ ると主張している. これに対して,仲座1) は,この津波大石を発生させた 津波は,1771年に発生した明和大津波であり,それの元 位置は現在位置からやや南に約150 mほど下った海岸に あると主張している. 現在,津波大石を説明する公の説明文などには,河 名・中田の説にもとづいた解釈が与えられている. 一方,牧野清著「改訂増補八重山の明和大津波」4)に取 り上げられた古文書「奇妙変異記」には,大浜村の近く にある石につての記述が載せてあり,次のように紹介さ れている. 「大濱村より卯方六町五拾一間 大濱村津口北乃端ニ 四間角程之石 大濱村子北中四町四拾八間 とふりや与 申所ニ同様成之石有ル 但此石弐ヶ共俗ニ高こるせ石と 唱 元来こるせ御嶽之中一所ニ 並立有来候処大波ニ各 弐ヶ所ニ引流置候事」 河名ら2)は,これを古文書原本と照らし合わせて検討 し,以下のように修正している. 「大濱村より卯方六町五拾八間 大濱村津口北乃端ニ 四間角程之石有 同村子下中四町四拾八間 とふりや与 申所ニ同様成之石在ル 但此石弐ヶ共俗ニ高こるせ石と 唱 元来こるせ御嶽之中一所ニ 並立有来候処大波ニ各 弐ヶ所ニ引流置候事」 これを,河名ら2)は,現代語によって,次のように説 明している. 「大浜村より卯の方,6町58間(760 m)の距離にある 『大浜津口北の端』に4間(7.2 m)角程の石がある.同 村より,子から15度時計回りに回転した方向で,4町48 間(524 m)の距離にある『とふりや』という所にも同 程度の大きさの石がある.ただし,これら2つの石は, ともに『高こるせ石』と呼ばれ,もともと,『こるせ御 嶽』の中の1個所に並んでいたが,大津波によってそれ ぞれ2箇所に引き流された.」 このような解釈にもとづいて,2つの石の位置は,写 真—1に□印で示すように,「とふりや」と「サンゴ礁切 れ目の北の端」の2箇所に決定されている.河名らは, 津波大石の存在については古文書記録に記されてなく, また,サンゴ化石の示す2000年程前という年代にもとづ いて,津波大石は2000年前ほどに発生したと推定される (仮称)沖縄先島津波によって発生したものであり, 1771年の明和大津波時には移動していないと判断した. 河名らの方角解釈の基本に据える東西南北の方向は, 現在の東西南北の方向に一致している.また,上記のよ うな解釈に至ったのには,「津口」を現代的な解釈によ って,「サンゴ礁の切れ目」のことを意味すると判断し たことが起点となっている.しかし,河名らは,本問題 の議論の以前に,「津波大石は明和津波では移動してい ない.約2000年前に発生したと想定される(仮称)沖縄 先島津波による」とする見解をすでに別の論文等で与え ており3),そうした判断が本問題の議論に「前提条件」 として大きく作用したのは間違いない. 上述のような河名らの解釈が,後に定着し,現在では, 市の観光案内パンフレットや現場における観光案内等に おいても,「津波大石は明和津波ではなく,約2000年前 に発生したと想定される大津波によって発生したもので 写真—1 大濱村付近の海岸及びサンゴ礁,河名ら2) の第2 図中に示された岩塊位置と「こるせ(黒石)御嶽」の位置

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ある」と説明されてきている. これに対して,仲座1), 5), 6), 7)や仲座ら8), 9)は,「沖縄先島 地方に巨大な津波石を発生させた大津波の発生は,1771 年の明和大津波のただ1つである」とする見解を与えて いる.このような判断は,考古学的発見,海中にある津 波石の侵食量からの推定,明和大津波時の八重山諸島や 宮古島諸島に関する古文書記録に記された津波石の調査 結果など,総合的な検討結果によって与えられている. このような仲座の「明和大津波唯一発生説」に基づけ ば,河名らの津波大石に対する見解やこれまでに数多く の巨大津波が発生したとする従来の「巨大津波7回以上 発生説3)」は否定され,上記の河名らの古文書に対する 見解も否定される. 著者1)は,河名ら2)の検討結果を詳細に調べる中で,古 文書記録には,しっかりと,「津波大石のことについて 記されている」との結論に至った.それは,「大濱村津 口北乃端」の「北」は,「下」と読むべきであり,また, 「大濱村子北中」の「北」も同様に「下」と読むべきで あるとの判断にあった.このような判断に至った理由は 次のとおりである. 1771年当時の卯(東)及び子(北)に当たる方向は, 現在の大浜の中央を南西方向から北東方向に走る「道」 に沿う方向及びそれに直交する方向を指すものと判断, その上で,その道より上(すなわち,北)側の村が「上」 と呼ばれ,下側が「下」と呼ばれていたと推定した. また,この説明文の書き手は,大濱村の入り口辺りか ら大濱村を概観した上で,そこから村の卯の端にある 「津口」(海岸の入江部や河口,あるいは小さな港など を意味する)の位置を先ず定めて,そこを中心に「南の 端」と「北から45度右方向」にある「とふりや」という 所の2箇所に,「高こるせ石」がそれぞれ存在する,と 説明しているとの判断を与えた. 「北から45度右方向」との解釈については,原本では 「子×中」と記されていて,「×」の部分に当たる1文 字が判別困難となっている.これについて,河名らは, 針方角の記述にならい,「×」に「下」を当てて「子下 中(現在の東西南北の北から約15度時計回りの方向)と の解釈を与えている.これに対して,著者は,津口から 南の端にある石を「津波大石」と特定した上で,「とふ りやの所の高こるせ石」の位置は,著者が設定する座標 系に対して,実際に「子の方向からおよそ45度右の方向」 にあることを勘案して,「子×中」の×の部分に当たる 判別困難な文字は「下」と読むべきであるとの結論に至 った.なぜなら,「北45度右」は方位角「子下中」で表 されると考えたからである. しかしながら,歴史家らの助言により,「子下中」と 読んでは,「北から約15度時計回りの方向」を意味する ことにしかならないとの理解に至った.その結果,「子 ×中」の「×」の部分の文字は,それらが正しく「北か ら45度右方向」を表すような1文字に置きかえる必要が あるとの結論に至った.

3. 河名らの解釈の問題点

写真-2に,牧野4)が「津口北之端」及び「子北中」と 載せた部分に当たる文字を示す.写真に示すように,い ずれも牧野が「北」と判断した部分の文字が何とも読み ずらい.これらに,「北」のくずし字を照らしてみたが, やはりそうでもないようにも読める.また,二番目(左 側)の文字は,「下」のくずし字の一部分には見えるが, 筆の流れから判断しても「下」のくずし字には読めない. これらの文字を,「北」及び「下」と読むことができ たとしても,書き手の筆の誤りや,誤写の可能性もある. 最終的には,文全体の意味と実際の状況が一致している かどうかの判断が必須と言える.このことは,今日, 我々が日常的に書く文書やメール等に見出される誤字や 脱字への対応(1文字の如何にとらわれることなく,文 意にて処理)とまったく同じである. 次に,「大濱村津口」を「サンゴ礁の切れ目」とする 解釈にも問題があると考える.現代的な感覚からすると, 「津口」は「サンゴ礁の切れ目」とも解釈されようが, それではあまりにも現代的な解釈といえよう. さらに,古文書記録にある距離についての河名らの解 釈にも問題があると考える. まず,高こるせ石の位置までの距離について,古文書 記録には「四町四拾八間(約500 m)」と記されており, 2点間の距離の始点として河名らが設定した現在の「こ るせ(黒石)御嶽」から高こるせ石までの距離を航空写 写真-2 原本に見る判別困難な 2 箇所の文字 (牧野の著書4)では,右側の破線内の文字が津口北之端の 「北」に当たる.左の破線内の文字は「子北中」の「北」 の部分に当たる.)

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真等を用いて測ると直線距離で400 m程度と与えられる. 当時それが道のりに測量されたと考えると,両者の測る 距離はほぼ一致していると言える. しかしながら,上で設定した起点に対して,もう1つ の石である「サンゴ礁切れ目の北の端の石」まで,東方 向に直線的に測ると1 km程の距離が与えられる.これは, 古文書記録の「卯方六町五拾八間(約760 m)」とは大 きな差を与える.その結果,河名らは,サンゴ礁切れ目 までの距離の測量起点を,津波大石より150 mほど南に 下った海岸位置(ここは,著者がこるせ御嶽の元の位置 と判断している地点に当たる)に置き,そこからの距離 が約760 mと測られることから,古文書記録の距離はこ れに当たるとしている. 河名らの解釈では,石の位置までの距離を測る測量の 始点が,それぞれの石で異なってしまう.古文書記録を 読むかぎり,測量起点は2つの石共に1か所に設定され ているように判断される.さらに,海中にある石までの 距離を当時いかようにして測量したかも疑問とするとこ ろとなる. 現場において,著者は,河名らの説明する「サンゴ礁 切れ目の北の端の石」を眺めたことが何度かあるが,肉 眼でその石は遠くに見えはするが,その存在を驚きをも って見たことはない.むしろ,沿岸に散在する他の大き な石の数々の方が印象に残っている. 河名らは,「とふりやの高こるせ石」と「サンゴ礁切 れ目の北の端の石」との年代を,それらに付着している 最新部のサンゴ化石の測定によって,それぞれ約2000年 前及び3400年前と推定している.その上で,「サンゴ礁 切れ目の北の端の石」は,約3400年程前に(あるいは, その後に)発生した津波によって海のいずこからか運ば れて,高こるせ石の元の位置となる「こるせ御嶽」内に 置かれたものと推定している.しかし,そのような津波 の発生年は,自身の津波発生年表が示す年代に適合しな いため,その津波の同定は今後の課題であると述べてい る. しかしながら,「サンゴ礁切れ目の北の端の石」が河 名らの推測のように,津波によって「こるせ御嶽」まで 運ばれたとの示唆を与えるような記述は,古文書記録に はなんら見当たらない.このような解釈は,あまりにも 都合よすぎる解釈であり,いうならば我田引水的な判断 と言えるのではなかろうか. いずれにしても,河名らは,2つの津波石があった元 の場所は,現在の「こるせ御嶽」位置と判断し,高こる せ石はそこから北方向に約500 m移動し,もう1つの石 は沖側に引き流されて,こるせ御嶽から東に約1 km程の サンゴ礁切れ目の北の端に置かれたと判断している. 河名らの上記のような解釈によると,「サンゴ礁切れ 目の北の端の石」が3400年前程に(あるいは,その後に) 発生した津波で「こるせ御嶽」の位置まで運ばれたとき, 「高こるせ石」はどこに位置していたのか,またそれが 2000年前程に発生したとされる(仮称)沖縄先島津波で 「こるせ御嶽」まで運ばれて,「サンゴ礁切れ目の北の 端の石」と共に並んだとして,その時に,津波大石はど こからか運ばれて来て原位置に置かれたと判断されてい る.このとき,「サンゴ礁切れ目の北の端の石」は, 「こるせ御嶽」内にそのまま留まって,「高こるせ石」 がやって来るのを待っていたことになる.このようなこ とは,力学的に考えても不都合なことと言える. 次に,石の形状に関する問題もある.古文書記録では, 「とふりや与申所ニ同様成之石有ル」と記しており,2 つの石は同様な形のものであったと述べられている.著 者の測定では,高こるせ石の概形は円形であり,周長38 m,高さ5~6 m程である.一方,河名ら2) によれば,「サ ンゴ礁切れ目の北の端にある石」は,おおむね平べった い形をしており,長径・短径・高さがそれぞれ約13 m × 9 m × 4.5 mと測定されたと説明している.これら両石の 寸法や概形から判断して,それらの石が「同様なる形の 石」と判断して良いかどうかも問われよう.これに対し て,津波大石の概形はほぼ円形で,周長が40 m,高さが 7 m程度となっており,高こるせ石の形状概要とほぼ一 致している. さらに,「津口北之端」を「サンゴ礁切れ目の北の端」 と解釈しているが,「北の端」という説明も曖昧であり, 写真-1において,サンゴ礁切れ目のおおよその位置は分 かるとしても,その「北の端」とはどの位置に当たるの かは,必ずしも定かではない. 最後に,最大の問題点として,これら二つの石が明和 津波で移動し,津波大石が明和津波では移動していない とする判断をどう力学的に説明するのかの問題も挙げる ことができ,さらには,多くの根拠をもって主張されて いる仲座の「明和大津波唯一発生説」をいかように論駁 するのかも問われよう.

4. 著者の解釈とその根拠の妥当性

以上の議論から,著者は,古文書記録の判別困難な2 か所のくずし文字は,最終的に「北」や「下」ではない とする判断を下した.このような判断を下すには,全体 的な文意を考慮した上で,様々なくずし字をいろいろと 当てはめてみた結果,それぞれ「午」と「且」の二文字 を当てることが妥当と判断した. これには,「午」の字のくずしがさらに崩れた可能性 があると考えた.次に,「丑中」が「且中」と写され, 「丑」が「且」となったのではないかとの判断に至った.

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これらの判断には,以下のような文意が反映されている. 文献1)で述べたように,また,先にも説明したよう に,古文書記録が説明していることは,おおかた「位置」 情報のことであるので,まずはどのような座標系を念頭 に説明が行われているのかを定める必要がある.次に, 定めた座標系でどの位置を始点として距離の測量が行わ れているかを定める必要がある. 文意からは,書き手は,これから述べることが大濱村 のことであること,次に両石の場所を特定するための基 準点を「大濱津口」に置いていることが読み取れる. 以上のことを考慮し,次のような文が与えられる. 「大濱村より卯方六町五拾八間 大濱村津口午乃端ニ 四間(角を削除)程之石有 同村子丑中四町四拾八間 とふりや与申所ニ同様成之石在ル 但此石弐ヶ共俗ニ高 こるせ石と唱 元来こるせ御嶽之中一所ニ 並立有来候 処大波ニ各弐ヶ所ニ引流置候事」(注:赤字部分は河名 らの修正にしたがった.青字部分が著者による修正部分 を表す) これを現代語で書けば,次のように与えられる. 「大浜村(入り口)より卯の方向に,6町58間(760 m) の距離にある『大浜津口』の『午の端』に(高さ)4間 (7.2 m)程の石がある.同『津口』より,『子から45度 右の方向』に,4町48間(524 m)程の距離にある『とふ りや』という所にも同程度の大きさの石がある.ただし, これら2つの石は,ともに『高こるせ石』と呼ばれ,も ともとは,『こるせ御嶽』の中の1個所に並んで立って いたが,大津波によってそれぞれ2箇所に引き流され た.」(位置関係は,写真-3を参照) 著者の解釈の基本に据えられている基準点は,「大濱 津口」であり,その位置は現在の「船着御嶽」のある海 岸の入江部かつ河口部に当たる.この周辺は,当時, 「大濱津口」と呼ばれ,船着場であったと判断した(写 真-3を参照).その上で,似たような2つの石が現在離 れて2箇所にあるが,それらは元は「こるせ御嶽」の中 の1か所に並んで立っていたものであると説明し,御嶽 が完全に破壊されてバラバラになった驚きと悲しみの実 情を訴えている,と読み取った. これに対して,河名らの見解は,現在の「黒石御嶽」 の位置に基準が置かれて説明されているところに著者の 説明との大きな相違がある.河名らの見解によれば,近 くにある巨大な津波石には目も触れることなく,遠い海 中の石に思いを馳せて,似たような2つの石が現在離れ て2箇所にあるのだが,それらは元は「ここの」1か所 に並んで立っていたものであると説明していることにな る.ならば,ここであえて「こるせ御嶽」を記述する意 味はなかったのではなかろうかとも思えてくる. 河名らの解釈においては,なぜに,近くの巨岩になん らふれることなく,遠くにある,海の中の石を問題視し たのか,外見から判断してもその石が「とふりやの高こ るせ石と同様成る石」とは言えない.古文書記録に津波 大石が記されていないことの理由として,河名らは, 「津波大石は明和大津波の以前から現在地にあって,明 和大津波時には移動していない」と判断している. さて,以下においては,著者の見解の妥当性について まとめる. 1)津波大石と高こるせ石とは,付着しているサンゴ 写真—3 著者が推定する南北東西の方向,大浜津口位置,津波大石及び高こるせ石位置,「こるせ御嶽」の元位置 船着御嶽 ○

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の最新部の化石年代が,共におよそ2000年前程度を示し ていて,サンゴの成長としては同じ環境下にあったもの と推測される. 2)いまから1000年前,あるいは2000年前,そして 4000~7000年前という時期は,地球の平均気温が上昇し ている時期に当たる.さらに細かくみれば,過去には数 百年程の間隔で気温変動が見られる.さらに,海岸べり に立つ琉球石灰岩の断崖は,それらが隆起したものであ ることを表す.1771年の明和大津波によって,そうした 断崖が破壊され,陸上に打ち上げられるとき,それらに 付着した最新部の化石は,それが元存在した標高によつ て,一斉に1000年前,あるいは2000年前,そして4000~ 7000年間などの年代を示すことになる.これが,津波大 石や高こるせ石に付着したサンゴの最新部の計測年代が, ともに約2000年前を示す要因と判断される.すなわち, これらの石は現在の海面高よりも高い海岸部から現れた 津波石であると判断される. 3)両石が海の中でなく,海面よりも上にあったこと は,両石に波の侵食を示す新しいノッチがないことで証 明される.津波大石及び高こるせ石には,それらが津波 発生時に海中にあったことを示す波の侵食痕は共に存在 しない.むしろ,空洞化した岩石の根の部分は,鍾乳石 化を示しており,海中でなく,海岸部にあったことを示 している. 4)河名らの「サンゴ礁切れ目の北の端の石」は,最 新部のサンゴ年代が3400年前ほどを示していることは, 津波大石や高こるせ石が存在した元の位置の標高よりも, 高い所に位置していた可能性が高い.すなわち,古文書 記録にある「高こるせ石」とは無関係の石と判断される. 5)津波大石と高こるせ位置とのおおよその形状は, 両者は互いにほぼ一致する.概形は両者ともにほぼ円形 であり,両者並んで「立っていた」という説明も成り立 つ. 6)くろせ御嶽の元位置は,現在の黒石御嶽の位置で はなく,津波大石の位置から約150 mほど南よりに下っ た海岸にあったと判断される.そこは,一面琉球石灰岩 の断崖からなる周りの状況とは異なり,安山岩の露頭が 見られる黒石の岩場となっている.まさに「くろせ(黒 石)御嶽」の呼び名の由来を物語っている. 7)古文書記録は,「此石弐ヶ共俗ニ高こるせ石と唱」 と記しており,両石は,共に「高こるせ石」と唱えられ ていたとある.すなわち,その意味は,「こるせ御嶽の 背の高い石」と解される.これに津波大石は該当する. 一方,「サンゴ礁切れ目の北の端の石」は,平べったい 形を成しており,これに該当しない. 8)「大濱津口」の位置が現在の船着御嶽の位置の辺 りの入江部かつ河口位置に設定される.「津口」は,海 岸の入江部分,河口,あるいは小さな港を意味するとす る一般的解釈に適合する.その結果,「船着御嶽」の由 来は,「大濱津口」の存在によるものと判断される. 9)「大濱津口」は,大濱村(入り口)より卯の方向 に,6町58間(760 m)程の距離に位置する. 10)大濱津口位置,両石の位置関係や距離,そして こるせ御嶽などの位置関係が,古文書記録の内容とほぼ 一致する. 11)元のこるせ御嶽位置(2つの石の元位置),津 波大石,とふりやの高こるせ(石)とを結ぶ線は,津波 の来襲および遡上方向にあり,力学的にもそれらの位置 関係が容易に説明できる. 12)古文書記録によれば,大濱村は,津波の後に高 台移転され,その際に「崎原御嶽,宇野道御嶽,黒石御 嶽の三か所が,一か所にまとめられた」と説明されてい る4).その後に,大濱村は元の位置に戻ることになるが, その際,黒石御嶽は現在の位置に設置されている. 13)現在,「船着御嶽」と「黒石御嶽」とは,ほぼ 同じ個所にあり,互いに混在しているように思える.

5. 津波大石,高こるせ(石),そして「くろせ

御嶽」の元位置の再定義がもたらす効果

現在,津波大石は,石垣島における観光の目玉の1つ となっている.この石からやや南よりに150 mほど海岸 方向に下ると,不思議な情景を醸し出している海岸線に 出る.そこには,白系の琉球石灰岩の断崖からなる周り の環境とは一風変わった灰色から黒色の岩場が広がって いる.安山岩の露頭である.そこから望む海は真東にあ り,太陽の上がる位置に当たる.ニライカナイの信仰を 司る御嶽としての位置付けが示唆される.また,石垣島 から沖縄本島に向かう船を見送る(航海安全を願う)場 所としても位置付けられよう. ここから北東側に約700 m離れたとふりやにある「高 こるせ石」とすぐ近くにある「津波大石」とは共に,こ るせ(黒石)御嶽から生まれた兄弟岩である.これら2 つの石は,御嶽内にあって,神聖な石「高こるせ」とし て唱えられていたことになる. 今後は,こるせ御嶽の元の位置と津波大石,そしてと ふりやの高こるせ(石)とを1つの線で結び,津波防災 の教訓を語る双子石として,説明される必要がある.こ れらの関係は,石垣島における新たな観光名所を生み出 すことになろう. 八重山諸島から宮古島諸島までの広大な海域にまたが って存在する巨大な津波石群の存在と古文書記録の存在 の稀有さと貴重性,そしてこれらのことが世界的に知ら れていることの重要性に鑑みて,これらを人類共通の財

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産として保全するために,世界遺産への登録が推奨され る.

6. おわりに

本論は,先に報告した文献1)の内容を補完するもの となっている.文献1)では,説明が十分でなかった解 釈の根拠や従来の解釈の問題点を明らかにした.さらに, 著者による解釈の妥当性についても触れた.古文書記録 「奇妙変異記」に記されていた「こるせ御嶽」にまつわ る2つの石の存在の解釈は,これまで,記録における2 箇所の文字の読みに重点が置かれ,判別困難なくずし文 字がなんという文字として書かれているかの判断にもと づいて解釈されてきた.その中では,「大濱村津口」の 解釈も文全体の意味を決定付ける重要な位置づけであっ た. 本研究では,まず「大濱村津口」の解釈を,当時の大 濱村の地名を表すと位置付け,さらにそれが2つの石の 方向と距離を決定づける基準点となっていると判断した. 「大濱村より卯方六町五拾八間 大濱村津口」は,石の 位置を表すのではなく,「大濱津口」の位置を表すと判 断した.そこを基準に,1つの石は,「津口」の南の端 の高さ7 m程の石(津波大石)を表すと決定された.次 いで,もう1つの石は,「同村子丑中四町四拾八間 と ふりや与申所ニ同様成之石在ル」と記されているように, 「同津口の北より45度右方向に,約500 mほど行ったと ふりやにある同様な石」と判断された.これら2つの石 は共に,津波大石の現在の位置から南寄りに150 mほど 下った海岸にあった「こるせ(黒石)御嶽」の1か所に 並んで立っていた「高こるせ(黒石御嶽の高石)」と唱 えられていたものであると結論づけられた. 結局,津波大石は,1771年に発生した明和大津波起源 であった.津波大石ととふりやの高こるせ(石)とが 「こるせ御嶽」から生まれた兄弟岩であったことは,巨 大な津波石を生む程の大津波の発生は,これまで明和大 津波のただの1回であることを物語るものである. 著者によって行われてきた数多くの調査結果は,「八 重山諸島や宮古島諸島を襲った巨大津波は,明和大津波 のただの1回である」ことを示している.今回の結論は, そのような判断と軌を1つにする. 八重山諸島から宮古島諸島までの広大な海域にまたが って存在し,絶景をなす巨大津波石群の存在と古文書記 録の存在の稀有さと貴重性,そしてこれらのことが世界 的にも知られていることの重要性に鑑みて,これらを人 類共通の防災教訓の財産として保全するために,世界遺 産への登録が推奨される. 謝辞:本研究の一部は,尾崎次郎奨学基金の援助を受け ている.ここに記し感謝の念を捧げる.また,本研究を 進めるに当たり,著者の研究室の博士後期課程の学生田 中聡君との議論は,大変有意義であった.また,くずし 文字に関する検討においては,山田浩世氏との議論が大 変参考になった.ここに記し感謝の意を表します. 参考文献 1) 仲座栄三:石垣島大浜の津波大石は古文書に記載さ れていたか,沖縄科学防災環境学会論文集 (Coastal Eng.), Vol.5, No.1, 12-16, 2020.

2) 河名俊男・島袋永夫・島袋綾乃・正木譲・伊達望・ 仲宗根直司・濱中望・比嘉淳:石垣島大浜における 1771 年明和津波による 2 個のサンゴ礁岩塊(高こる せ石)の移動—古文書「奇妙異変記」に基づく考察, 沖縄地理,第7 号,pp.53-60,2006. 3) 河名俊男・中田高:サンゴ質津波堆積物の年代から みた琉球列島南部周辺海域における後期完新世の津 波発生期,地学雑誌,103,pp.352-375,1994. 4) 牧野清:改訂増補八重山の明和大津波,発行者牧野 清, 462p.,1981,(初版 1968). 5) 仲座栄三:古文書・津波堆積物が示す世界最大規模 の津波の実態と対応策,土木学会,水工学委員会・ 海岸工学委員会,2014 年度(第 50 回)水工学に関す る夏期研修会講義集,B-8-116,2014. 6) 仲座栄三:八重山明和大津波と沖縄の巨大地震津波 の想定について,日本自然災害学会オープンフォー ラム,pp.13-19, 2014. 7) 仲座栄三:宮古島の巨大津波石の分布から読み解く 明和大津波の唯一性とその挙動特性,沖縄科学防災 環境学会論文集 (Coastal Eng.), Vol.5, No.1, 1-11, 2020. 8) 仲座栄三・入部綱清・徳久氏琉・宮里直扇・稲垣賢 人・Rusila Savou:堆積物から推定される琉球諸島に おける歴史・先史津波について,土木学会論文集 B3 (海洋開発),Vol.69,No.2,I_515-I_520,2013. 9) 仲座栄三・渡久山涼・稲垣賢人:南西諸島における 津波石の起源と発生メカニズムに関する研究,土木 学会論文集 B3(海岸工学),Vol.71,No.2,I_193-I_198,2015. (Received August 25, 2020)

参照

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