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戦後日本の教員養成大学 ・ 学部における美術教育学の人的制度基盤の成立

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(1)

戦後日本

教員養成大学・学部

における

美術教育学

人的制

度基盤

成立

History of the Formation of an Institutional Foundation of Art Pedagogy in

Teacher s Colleges in Post

W

orld

W

ar II Japan:

Three Stages that Led to the Institutional Recognition of Art Education Studies

*

有田洋子 ARITA Yoko  戦後日本の教員養成大学・学部における美術教育学の人的制度基盤は,戦後の大学での教員 養成政策が教養教育重視から教職の専門性重視へ転換していく過程で成立する。師範学校が教 員養成大学・学部に移行しても美術科教育の専門性は意識されなかった。昭和

39

年から

53

年に かけての学科目「美術科教育」の設置は美術科教育の専門性を形式的に出現させた。ただ時代的 な余裕から教官配置の遅れや所属教官の研究内容との不整合等はあった。昭和

43

年からの大 学院美術教育専攻の設置は,文部省の委員会による美術科教育教官の論文業績審査があり,美 術教育学の内容的専門性を制度的に保証した。最初は大学院設置に関して大学や教官の温度差 やコンセプトの違いはあったものの,平成

11

年に美術教育専攻の全国設置が完了した。大学 院美術教育専攻設置によって美術教育学の人的制度基盤は成立した。 *有田 洋子/島根大学

ARITA, Yoko/Shimane University

E-Mail: [email protected]

After

W

orld

W

ar II, teacher education policy in Japan shifted their emphasis of specialized

education courses from liberal arts towards teacher education departments, in the process

establishing a human institutional foundation of art pedagogy. Despite the change from normal

teacher s schools to teacher s colleges, specialties in art education were not recognized. The

designation of art education within the teacher training system from 1964 to 1978 brought only

an appearance of specialization in art education. This condition allowed for delays to teacher

placements and a lack of coordination with research in art education. However, a decision by a

committee in the Ministry of Education saw it officially recognized in examinations of teaching

studies careers of those entering graduate schools in art education from 1968 to 1999. A human

institutional foundation of art pedagogy was established as a result despite differences among

university staff regarding the need for graduate schools.

キーワード Keywords

美術教育学,師範学校,学科目,大学院,教員養成

(2)

1

)本稿の目的  昭和

24

5

月に発足した新制国立大学で 美術教員養成がなされ始めて約

70

年が経過 した。現在,美術教育学は美術専門とは異な る独自性をもつ一つの学としてある。しかし 学として認められるようになったのはそう昔 ではない。少なくとも戦前の師範学校の図画 教授法は図画専門と未分化であった。教員養 成大学・学部における美術教育学には,学問 としての成立とそれを担う人的制度の成立が 考えられる。美術教育学は人的制度とそれへ の人的配置が先行した後,学問としての内容 が整備されていく。  もちろん戦後新しい体制になって図画工作 教育のあり方を協議する組織が作られ,文部 省も手を拱いていたわけではない1)。しかし 昭和

30

年代の教科教育学に対応する大学授 業「教科教育法」「教材研究」は不十分な状況 にあった2)。その後も美術教育学の学問とし ての確立の契機は幾度とあったものの制度先 行で今に至っている3)  本研究の原点となったのが平成

23

3

月 の第

33

回美術科教育学会富山大会の美術教育 史研究部会4)で,同年に筆者は本テーマで論 文発表を初めて行った5)。国立大学法人化以 降,美術教育学を取り巻く状況も大きな変化 の渦中にある現在,美術教育学の制度的基盤 の成立過程を解明することは意義があろう。  本稿の目的は,第二次世界大戦後の日本に おける美術教育学の人的制度基盤の成立過程 を,全国の教員養成大学・学部の人的制度の 成立の面から明らかにすることである。美術 教育学の人的制度の成立は,美術教育学の言 わば「学術インフラ整備」6) に当たる。その 過程を明らかにすることで,美術教育学の意 義や歴史的必然性も明らかにできるであろ う。なお美術教育学の学問的内容の成立につ いては次稿以降での課題とする。  研究対象は全国の国立教員養成大学・学部 とする。教員養成政策の中核はやはり国立の 教員養成大学・学部であり,様々な問題はそ こに集中すると考えられるからである。美術 専門大学・学部での教員養成部門は,公・私立 大学も含めて今回は対象外とする。新構想大 学の兵庫教育大学・上越教育大学・鳴門教育大 学は最初から教科教育を中心とする大学とし て設立されたため今回は対象外とする。なお 東京芸術大学が昭和

40

年代半ばに美術教育 学成立を企図した経緯は,成立過程の研究に とって重要であり,既に別稿で発表した7)  本研究は対象を次の三段階に区分する。  第一段階:戦後初期の美術教育専門と美術 専門が未分化の時期(師範学校が新制国立大 学になった昭和

24

年前後から次期直前まで)。  第二段階:昭和

39

2

25

日文部省令第

3

号「国立大学の学科及び課程並びに講座及 び学科目に関する省令」(以下,学科目省令と 略記)によって「美術科教育」の定員が作られ, 美術教育専門と美術専門が形式的に分化し, 美術科教育の形式的専門性が制度的に出現し た時期(教員養成大学・学部に学科目が導入 された昭和

39

年から次期直前まで)。  第三段階:昭和

43

年から平成

11

年にかけて の大学院教育学研究科美術教育専攻・専修(以 下,大学院美術教育専攻と表記)の設置と美術 教育学専門家の配置によって,美術教育専門 と美術専門が実質的に分化し,美術教育学の 内容的専門性が制度的に保証され,人的制度 基盤が成立した時期(大学院美術教育専攻が 設置され始めてから全国設置が完了するまで)。  各段階で解明すべき問題は次のようになる。 第一段階では,師範学校から新制国立大学へ の美術教官の移行はどのようであったか。第 二段階では,学科目省令の発足と各大学にお ける学科目の整備過程,特に学科目「美術科 教育」設置の進行はどのようであったか。第 三段階では,大学院教育学研究科と美術教育 専攻の設置過程の実際はどのようであったか。

1

.基礎的考察

(3)

 本稿の内容構成は次の通りである。  

1

戦後教員養成制度の概観  

2

第一段階 師範学校美術教官の大学移行  

3

第二段階 学科目「美術科教育」の登場  

4

第三段階 大学院美術教育専攻の設置  

5

総括

2

)教育政策  教員養成大学・学部の人的制度は国家の教 育政策と連動している。教育政策は様々な力 のぶつかり合いを経て決定される。決定され た教育政策が実施されても現実にぶつかり修正, 延期されることもよくある。後述するが,学 科目の導入にしても単純に実現したわけでは なく,文部省と厳しい折衝をした大学は少な からずあった。教育政策は特に政策立案主体 の意図とは違う結果をもたらすことがある8) そのため法令は改定される。このようなダイ ナミズムは本稿でも留意する。  戦後日本の教員養成政策の展開は,山田昇 『戦後日本教員養成史』(風間書房,平成

5

年),

TEES

研究会『「大学における教員養成」の歴 史的研究』(学文社,平成

13

年)に詳述され,本 稿でも参照する。ただ各大学の対応,そして 政策の美術教育学の成立への影響については ほとんど記されていない。それゆえ本稿では 三時期区分を用いて各大学の具体的な美術教 育学の人的制度整備過程を明らかにする。

2

.戦後教員養成制度

概観

 本章では美術教育学の人的制度の前に,戦 後の教員養成制度の概観を確認しておく。前 述の山田と

TESS

の成果を参照した。

1

)戦後教員養成のはじまり ①戦後教員養成の基本原則 昭和

21

12

月, 教育刷新委員会第

17

回総会で「教員の養成は, 総合大学及び単科大学において,教育学科を 置いてこれを行うこと」として大学における 教員養成が確認された。その後の教育刷新委 員会で教養重視(昭和

22

4

月),教員免許の 開放制(昭和

22

4

月),一県一教員養成大 学・学部の設置(昭和

23

10

月)といった戦後 教員養成の基本原則が決定されていった。 ②教員養成の体制−学科目制 昭和

22

年, 大学基準協会は「大学基準」を制定し「大学は その目的,使命を達成するために必要な講座 又はこれに代る適当な制度を設けなければな らない」とした。昭和

29

9

月「国立大学の 講座に関する省令」で,講座は「大学院に置か れる研究科の基礎となるものとする」とされ た。大学院のない教員養成大学・学部は非講 座制ということとなる。さらに昭和

31

10

22

日文部省令第

28

号「大学設置基準」第

5

条で,講座制は「教育研究上」,学科目制は「教 育上」必要な教員を置くとされた9)。以上の ように非講座制・学科目制の教員養成大学・ 学部には研究という規定がなかった。

2

)昭和

30

年代の方向転換 ①目的大学化(整備充実/国による統制)  昭和

30

年代に大学における教員養成は,教養 重視から目的大学化・国家基準化へ転換する。 まず昭和

33

7

28

日第

16

回中央教育審議 会答申「教員養成制度の改善方策について」は 「教員養成を目的とする大学における養成」 「教員の養成は,国の定める基準によって大学 において行う」とした。それに対して各大学 や日本教育大学協会から「大学の自治」「学問 の自由」の原則に反すると批判が相次いだ。  しかし教育職員養成審議会は昭和

37

11

12

日「教員養成制度の改善について」を建 議し,再度「教員養成の目的,性格を明確に し,それにふさわしい教育課程について国が 基準を定める」とした。さらに昭和

39

7

30

日に「教員養成のための教育課程の基準に ついて(中間報告)」という具体的案を示した。  さらにこれへの反対もあり,例えば埼玉大 学教育学部教授会は昭和

39

9

月に「教育職 員養成審議会『教員養成のための教育課程の 基準について』の意見」を公表した10)  教育職員養成審議会は先の中間報告に関す

(4)

る意見を踏まえて,昭和

40

6

22

日「教員 養成のための教育課程の基準について」を建 議した。一部修正されたものの基本は中間報 告と同じであった。  以上のように,折衝を繰り返しながら,一 面では教員養成の整備充実,一面では国によ る基準化・統制が進んでいった。なお教員養 成以外の教育制度に目を移してみると,昭和

30

年代は学習指導要領が法的拘束力をもっ た時期であった。そのような流れのなか昭和

39

2

月に学科目省令も公布された。 ②学科目省令 昭和

38

1

28

日第

19

回中 央教育審議会答申「大学教育の改善につい て」を受け,昭和

38

3

31

日「国立学校設 置法の一部改正」となった。同法改正により 従来のように各大学に組織構成を任せるので はなく,文部省令で学部に学科又は課程を置 くこと,学部又は学科に講座又は学科目を置 くことと,その種類を決定することが規定さ れた。そして省令作成のための調査として, 同法改正直後の昭和

38

5

月に,各国立大 学長宛に文部省大学学術局長名による「昭和

38

年度講座および学科目調について」の文書 が送付された11)。各大学の回答を受けて,文 部省大学学術局教職員養成課長名で各教員養 成大学・学部長宛に「教員養成大学,学部の 課程及び学科目について」の通知があった。 これには再度の調査依頼と共に課程・学科目 に関する文部省案も付けられた。さらに同年

11

26

日に大学学術局長名で各国立大学長宛 に「国立大学の学科及び課程並びに講座及び 学科目に関する省令(仮称)の制定について」 の文書が出され,文部省令原案が示された。  そして翌昭和

39

2

25

日文部省令第

3

号「国立大学の学科及び課程並びに講座及び 学科目に関する省令」が公布され,各大学・学 部の組織編成は同省令で定められられること となった12)。この間,文部省と各大学との間 で繰り返された折衝は後述する。なお文部省 と関係学会との折衝に関しては別稿に譲る。 ③学芸大学・学部の教育大学・学部への名称変更  昭和

40

6

15

日に国立大学学長会議に おいて文部省より学芸学部を教育学部へ名称 変更するように指導があり,昭和

41

42

年に は学芸大学・学芸学部は教育大学・教育学部 へ名称変更することとなる13)。また教養重視 からの転換は文理学部改組にもつながる。

3

)教員養成大学・学部への大学院設置  大学院教育学研究科はまず昭和

41

年東京 学芸大学に,次に昭和

43

年大阪教育大学に 設置された。その教育学研究科内に同時に美 術教育専攻も設置されたとは限らない。  昭和

46

6

月中央教育審議会答申「今後に おける学校教育の総合的な拡充整備のための 基本的施策について」で,「教員のうち,高度の 専門性をもつ者に対し,特別の地位と給与を与 える制度を創設すること」とされ,大学院の設 置が示唆された。そして昭和

47

7

月教育職 員養成審議会建議「教員養成の改善方策につい て」で,既存の教員養成大学・学部にではな く,新たに「創設」するとされた。いわゆる「新 構想大学」構想である。それは大学の格差を生 むとして国立大学協会等から批判が起こっ た。そこで文部省は昭和

52

5

月に既存の教 員養成系大学・学部で条件の整ったものにも 大学院を設置していく方針を明らかにした。 そして約

10

年ぶりに昭和

53

6

月に愛知教育 大学へ大学院教育学研究科が設置された。  以上が概観である。次章から各段階を見る。

3

.第一段階 師範学校美術教官

大学移行

1

)師範学校教官の大学への移行  師範学校教官の大学への移行は全体的には 難航した。各大学史には程度の差はあれ,そ の難航具合が記される。別稿に譲るが,国立 公文書館蔵「新制大学設置認可申請書」からも そう判断できる。それまで筆頭学校とはいえ 中等学校であった師範学校が,昭和

18

年官立 専門学校,昭和

24

年大学へと短期間で昇格した。

(5)

旧帝国大学関係者からすると旧師範学校が大 学となることに抵抗があった。旧帝国大学卒 業生の師範学校教官でも研究業績のない教官 はいたので,その大学移行では,まず能力保証 としての学歴が問題とされた。旧帝国大学卒 業者であれば教授として移行,あるいは採用さ れたケースが多い。やはり師範学校卒業者, 文部省中等教員検定試験(以下「文検」と略記) 合格の師範学校教官の大学移行は厳しかった。 難関であった文検合格でも低い学歴とされて 移行できなかったことが少なくない。移行で きても不遇の扱いを受けることもあった。例 えば師範学校の長年勤務者も大学移行直後は 講師や助教授に認定されることがあった。  大学教官になるには,公の教員資格審査を 三つ通過しなければならなかった。一つは, 戦前の「文官任用令」,戦後の「官吏任用叙級 令」第

7

条に規定された文部省普通試験委員 による職務と資格の整合性の審査であった。 もう一つは,昭和

21

年勅令

263

号「教職員ノ除 去,就職禁止及復職等ノ件」に基づく,都道府 県や大学に設置された「教員適格審査委員会」 の審査である。これは職業軍人,著名な軍国 主義者,極端な国粋主義者,占領政策に対す る著名な反対者を教員にしないという目的の 審査であった。ただこの審査で除去された不 適格者は少なかった。都道府県の教員適格審 査委員会で不適格となったのは

123

万余名中

3930

人,大学教員適格審査委員会で不適格 となったのは約

25000

人中

86

人であった14)  最後の一つは,昭和

23

1

月から文部省 の設置した大学設置委員会の大学設置基準に 基づく「新制大学設置認可審査」である。その 一環として教官に関しては申請分野の教授・ 助教授・講師いずれが相当するかを判定し た。専門分野に応じて審査の分科会があった が,詳細は不明である。ただ師範学校教官も 徐々に大学教官に移行していったので,この 審査も職位相当判定に関して教授判定は難し かったとされるが,学歴や業績が全く領域違 いでなければ助教授及び講師判定は極端に厳 しいものではなかったと思われる。  他教科では多数の教官が転出・退職したこ とが多くの大学史に記される。これは師範学 校内の設置計画組織で学歴や業績を基に決定 される「新制大学設置認可審査」推薦候補に上 がるまでがまず大変であったためと推測され る。すなわち設置計画組織内での順位争いが 熾烈であったと思われる。国立公文書館蔵 「新制大学設置認可申請書」群には教官の推薦 順位表が紐で綴じられているものがある。大 学教官は定員が限られるので,計画組織が推 薦順位を決定する際,学歴・学閥・業績等を めぐって計画組織内の準備委員会,学部内, 講座内で大変な議論がなされた。特に大学教 官定員が現員に比べて少ない場合,誰が後に なるか,あるいは身を引くかという問題にな る。年度ごとに大学教官定員が増えていくに しても同申請書を見る限り,師範学校教官現 員より大学教官定員は少ない。そうするとこ の新制大学設置前後に他師範学校や他大学へ 異動する例,附属学校教員となる例,地方教 官といって都道府県立の新制中学・高校の教 員になる例があった。計画組織が作成した推 薦順位表で順位が低い,さらには推薦されな かった教官はそうせざるを得なかった。

2

)師範学校美術教官の移行  これも詳細は別稿に譲るが,「新制大学設置 認可申請書」から,他教科教官に比べれば美術 教官の大学への移行は困難が少なかったと判 断できる。その要因を次のように推察する。 一つには,戦前の美術関係の最高学府は東京美 術学校や東京高等師範学校の高等専門学校で あったことがある。それらの卒業生が美術教 官の大部分を占めていた。他教科の最高学府 は一般的に大学であった。もう一つには,文 展・日展・二科展等の入選が実技業績として高 く評価されたことがある。文検合格者でも,そ れらの業績が多ければ東京美術学校や東京高 等師範学校卒業者を差し置いて教授になった。

(6)

3

)この時期の美術教育専門  当然ながら,この時期に美術教育学は制度化 も認識もされていなかった。特定分野の専門 性は意識されても,その分野の教育に関する専 門性は意識されなかった。美術に関しては図 画か工作,あるいは美術か工芸が専門分野で あった。美術教育学の認識がない所では,美 術専門能力が高ければ美術教育もできるとい う考えになろう。そして美術教育研究に特化 しようとする者は,美術専門能力が低いため そうすると見られた。

TEES

研究会が指摘す るように15),美術に限らず,当時の学芸・教育 学部内では教科専門が教職・教科教育より上 という意識があった。それには師範学校教育 が固くて狭い視野の教員を形成したという反 省から,戦後の教員養成は教科教育より教養 教育や教科専門教育を重視したことも相俟っ た。美術講座でも教科専門,具体的には実技 能力の高さが教官評価の基準となった。当時 を知る花篤實は「戦後の教員養成の制度の中 で,特に芸術系は実技講座を中心に構成され たために,美術教育は実技教官の『余技』と して扱われることが多かった」と述べる16)  もう一つの状況として,師範学校には美術 に関して何でもできた東京美術学校図画師範 科や東京高等師範学校図画手工専修科・芸能 科の卒業生が教官として多数在勤し,その多 くが大学に移行したこともあった。彼らはも ともと能力が高く,職務としては当然である が,美術専門にもその教育にも力を発揮し た。彼らの能力の高さと複雑な意識17),そし て地方の美術・美術教育に果たした役割は別 個に検討すべき対象である。ここでは皮肉な ことに彼らの能力の高さが逆に美術教育専門 の分化を遅らせた面もあったと指摘しておく。

4

.第二段階 学科目「美術科教育」

登場

1

)制度発足までの大学と文部省のやりとり ①学科目省令化に対する大学の反発 前述 の通り,昭和

38

3

月「国立学校設置法の一部 改正」を受け,

5

月から省令作成のための調査 がなされ,翌年

2

月学科目省令が公布され, それまでの大学の自主的な組織編成は同省令 で全国一律に定められることとなった。この 間,文部省と大学の間で折衝が繰り返された。  大学より学問研究と大学自治の観点から次 のような批判が起こった。

1

.教員養成大学・ 学部にだけ研究規定のない教育規定のみの課 程制・学科目制をしくのは大学間格差を生む (非学問的扱いへの批判)。

2

.文部省の学科 目案は教育職員免許法施行規則に基づくもの で学問体系から検討されたものではない(非 学問的扱いへの批判)。

3

.基準を作るにし ても画一的基準を押しつけるのではなく,各 大学・学部の独自性と伝統を尊重した基準を 合意の上で作成するべきである(大学自治の 侵害への批判)。次項からこれら文部省の一 連の動きに対する各大学の対応を見る。 ②東京学芸大学 『東京学芸大学二十年史− 創基九十六年史−』(昭和

45

年)に次のように 記される18)。昭和

38

11

26

日の文部省に よる照会及び原案に対して,「大学の十分な了 解なしに」「貴学における学科・課程」を「お知 らせ」されたもので,「教員養成大学の非学問 性をこれほど露骨に示したものもまた比類な く,従ってあまりにも学芸大学の非学問的性 格を決定付ける要因が多すぎるとして」,原 案はとうてい容認できないという学内の意見 が高まり,さらに諸地方大学の学芸学部・教 育学部教授会から訴えや問い合わせも同大学 教授会に届けられた。  上記照会に対して,

12

28

日東京学芸大 学学長名で文部省大学学術局長宛の回答がな された。今回直ちに課程並びに学科目を省令 化されることに対して強い不満をいだくとし て,次のような内容の意見書が示された。  

1.

省令原案の学科目は,教職員免許法施行 規則に示された「教科」並びに「教科に関する 専門科目」の表し方に,僅少の改訂を加えてそ

(7)

のまま大学の学科目に置き換えたもので,大 学の学科目設置の基準として不適当である。  

2.

省令化に関して,同大学カリキュラム委 員会の結論,日本教育大学協会の「教員養成関 係学部設置基準案」の成果を得た上で,大学と の交渉を経て直ちに改訂されるべきである。  

3.

東京学芸大学案は従来,事実上,学科 (目)と見なし,既に実施してきたものである から当分これを省令案とせられたい。  

4.

教員養成関係の大学・学部だけを課程制・ 学科目制によることとするのは,将来大学間の 格差を生む懸念があるので,そのようなこと を来さないよう万全の措置を講ぜられたい。  これに対して文部省は翌昭和

39

2

20

日及び

3

18

日に省令改正資料及び「学科目 等に関する省令改正案」を示した。ただ昭和

38

11

月の「お知らせ」と大差なく,同大学 「意見書」は却けられた形である。その後,部 分的な改訂はあったものの「教育のみを目的 とし,研究を目的としない課程制大学」とい う姿勢と,「教職員免許法施行規則に示された 教科ならびに教科に関する専門科目の名称 を,僅少の改訂を加えて無媒介に大学の学科 目の名称として不思議を感じていないような 簡単さ」は依然として維持された。 ③埼玉大学 『百年史 埼玉大学教育学部』(昭 和

51

年)に記されたやりとりを以下に順に番 号をつけて整理して経過を示す19)。同書には やりとりされた学科目案が全て記される。美 術関係学科目を抜き出して示す(表

1

)。  

1.

昭和

38

5

21

日付文部省大学学術局 長名で同大学学長宛「講座及び学科目調査」の 通達があった。教育学部長は学科主任会議で 検討させ,その結果を文部省に提出した。こ の時点では未だ教授会に提案されていない。  

2.

昭和

38

7

24

日付文部省大学学術局 教職員養成課長名の同大学教育学部長宛「教 員養成大学,学部の課程及び学科目について」 で再度の調査依頼があった。これが初めて教 授会議題となったのは

8

30

日で,以降同年 末に至るまで毎回議論が重ねられた。当初は 何のために文部省がこのような調査をするの か趣旨が明確ではなかったが,次第に学科目 を省令に記載するための有力な手がかりとな るとの判断が共通になるにつれて,これを警 戒する空気が強まった。学科目を省令で拘束 すること,それにより教育学部の性格が変更 されることへの危惧であった。一方には将 来,教官定員増の資料として役立つのではな いかとの希望的観測もあって議論が白熱し た。報告自体が課程制を認めることになるの で報告を拒否すべきという意見もあった。  

3. 9

月,紆余曲折の末,同大学教育学部 は合計

61

学科目とする案を提出した。「数学 概論」「科学概論」「音楽概論」「美術概論」と いう各科概論が現実に即して提示された。し かし,文部省からこれら概論は学科目ではな く授業科目とすべき旨が指摘された。  

4. 10

月,教授会での検討の結果,上記概 論を削除して合計

57

学科目が提出された。  

5. 12

月,文部省令原案が示され,翌昭和

39

2

月,学科目省令が交付された。 ④和歌山大学 和歌山大学教育学部『和歌山 大学教育学部創立百周年記念

100

年のあしあ と』(昭和

50

年)に以下のように記される20)  昭和

38

7

24

日,文部省から教員養成 大学・学部の課程,学科目作成について調査 依頼がくる。その直後から文部省の学科目案 に対して意見の相違があり,

11

11

日,同 大学学芸学部教授会は「文部省の学科目調査 表 1  埼玉大学と文部省とでやりとりされた美術関係学科目 文部省原案 昭和38年 7 月 埼玉大学案 昭和38年 9 月 埼玉大学案 昭和38年10月 文部省令原案 昭和38年12月 文部省令 昭和39年 2 月 絵画 美術概論 絵画 絵画 絵画 彫塑 絵画 工芸・彫塑 彫塑 彫塑 構成 工芸・彫塑 構成 構成 構成 美術理論及び美術史 構成 美術理論及び美術史 美術科教育 美術科教育 ・ 美術理論及び美術史 ・ ・ ・ ・ 美術科教育※ 美術科教育※ 美術科教育※ ※学科目の提示順:まず各教科専門(国語から順に提示),次に「(共通)」として各教科教育と教育学関連(教育原理等)がまとめて示される。

(8)

についての訴え」を発表した。その主たる内 容は次のようなものであった。

1.

文部省案の 学科目は教職員免許法施行規則によるもの で,学問研究上の観点が欠如している。

2.

課 程制・学科目制は教員養成大学・学部の研究 機関としての性格を弱め,単なる免許状授与 のための教育機関にかえていく。

3.

教員養 成大学・学部にのみ,画一的基準に基づく調 査の再提出を求める理由が不明確で,大学自 治の尊重の観点からも問題がある。

4.

教員 養成大学・学部はバラエティに富んでいるの で特に基準を示す必要があると言うが,そも そも学芸大学,学芸学部,教育学部の類型は 文部省が立案したもので,学科目にバラエテ ィのあるのは当然である。それぞれの独自性 と歴史的伝統の尊重を原則とするのが望まし く,画一的基準で統制されるべきではない。  

11

26

日,文部省から「国立大学の学科及 び課程並びに講座及び学科目に関する省令の 制定」について依頼があり,この問題をめぐ る心労から学部長の病状悪化により,

12

10

日に学芸学部長は併任をとかれる。  その後,文部省庶務課長が出向いて学部教 授会と懇談して

12

月中に妥協案が成立し,学 部が主張した自主的な学科目体制は「教室制」 として残された21)。そして翌昭和

39

2

学科目省令が制定された。この時,和歌山大 学学芸学部の美術関係教官

4

人であったのに 美術関係学科目は絵画と彫塑の二つであった。

2

)全国的な学科目整備の過程  昭和

39

2

月学科目省令で,各大学に置 かれるべき学科目が示された。教員養成大 学・学部の美術関係学科目は,絵画,彫塑, 構成,美術理論・美術史,美術科教育の五つ が基本とされた。最初から全

5

学科目が全 大学に置かれたわけではなく,実際の教官配 置や定員等,実情を踏まえて何度も改正され た。なお特別教科(美術・工芸)教員養成課程 (初期は「特別教科(図画・工作)教員養成課 程」,通称「特設美術」「特美」,以下「特設美 術」と略記)には五つ以上の多種の学科目が示 され,美術科教育の代わりに美術・工芸科教 育が示された。学科目「美術科教育」ないし 「美術・工芸科教育」が全大学に設置完了した のが昭和

53

4

月である。昭和

53

4

月ま での同省令改正の一覧を表

2

に示す。

3

)各大学に設置された初期の学科目  まず昭和

39

2

月学科目省令で各大学に 示された学科目を一覧表にして示す(表

3

)。 独得の学科目の示された特設美術を置く

6

大学を除く

40

大学中,最初から

5

学科目が 揃っていたのは

8

大学であった(福島大学, 千葉大学,信州大学,愛知学芸大学,大阪学 芸大学,山口大学,鹿児島大学,特設書道の 設置された福岡学芸大学)。美術科教育を欠 く

4

学科目の組み合わせが最も多く

12

大学 あった。次に多かったのは美術理論・美術史 を欠く

4

学科目で

4

大学あった。なお

2

学 科目のみという大学も

3

大学あった。  各学科目に目を向けると,絵画と彫塑は圧 倒的に多く設置されている。そして美術科教 表 2  学科目省令改正一覧 ※灰色の欄:美術関係学科目増減に関わる改正

(9)

表 3  昭和39年 2 月学科目省令発令時の各大学の美術関係学科目 学科目 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史,美術科教育 福島 千葉 信州 愛知 大阪 山口 鹿児島 絵画,彫塑,構成,美術科教育 山形 茨城 埼玉 神戸 絵画,彫塑,美術理論・美術史,美術科教育 愛媛 絵画,構成,美術理論・美術史,美術科教育 横浜国立 高知 絵画,彫塑,美術科教育 徳島 絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史 秋田 宇都宮 群馬 新潟 富山 金沢 岐阜 三重 鳥取 長崎 大分 宮崎 絵画,彫塑,構成 弘前 香川 熊本 絵画,彫塑,美術理論・美術史 福井 山梨 絵画,構成,美術理論・美術史 東北 広島 彫塑,構成,美術理論・美術史 静岡 絵画,彫塑 滋賀 和歌山 島根 特別教科(書道)教員養成課程 絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史,美術科教育,書道,書道史,書道科教育 福岡 絵画,彫塑,美術理論・美術史,書道,書道史 奈良 特別教科(美術・工芸)教員養成課程 日本画,西洋画,木工,染織,金工,陶芸,彫塑,構成,美術理論・美術史,美術・工芸科教育 北海道 日本画,東洋画,西洋画,木工,染織,金工,彫塑,写真,構成,美術理論・美術史,美術・工芸科教育 岩手 日本画,西洋画,木工,金工,陶芸,彫塑,構成,美術理論・美術史,美術・工芸科教育 佐賀 西洋画,木工,陶芸,彫塑,構成,美術・工芸科教育 岡山 日本画,西洋画,木工,金工,陶芸,彫塑,写真,構成,美術理論・美術史 京都 特別教科(美術・工芸)教員養成課程特別教科(書道)教員養成課程 日本画,西洋画,木工,金工,彫塑,構成,美術・工芸科教育,書道,書道史 東京 ※昭和39年 2 月時点において,琉球大学に関する記載はない(沖縄返還前)。  ※学科目は大学単位に示され,分校単位には示されない。 ・表記順は上から, 5 学科目揃ったもの,次に学科目「美術科教育」を含むことと学科目数の多いことを基準に並べる。特設美術・特設書道設置大学は分けて示す。 ・大学名は「大学」「学芸大学」を略して表記する(「〇〇大学」は「〇〇」,「□□学芸大学」は「□□」と表記する)。 図 1  美術関係学科目組合せ類型の変化 図 2  美術関係各学科目設置数の変化 昭 和 53 年 4 月 昭 和 52 年 4 月 昭 和 51 年 5 月 昭 和 50 年 4 月 昭 和 49 年 6 月 昭 和 48 年 4 月 昭 和 47 年 5 月 昭 和 45 年 4 月 昭 和 44 年 5 月 昭 和 43 年 6 月 昭 和 43 年 4 月 昭 和 42 年 5 月 昭 和 42 年 4 月 昭 和 41 年 4 月 昭 和 40 年 3 月 昭 和 39 年 4 月 昭 和 39 年 2 月 大学数 , , , , , , , , , , 昭 和 53 年 4 月 昭 和 52 年 4 月 昭 和 51 年 5 月 昭 和 50 年 4 月 昭 和 49 年 6 月 昭 和 48 年 4 月 昭 和 47 年 5 月 昭 和 45 年 4 月 昭 和 44 年 5 月 昭 和 43 年 6 月 昭 和 43 年 4 月 昭 和 42 年 5 月 昭 和 42 年 4 月 昭 和 41 年 4 月 昭 和 40 年 3 月 昭 和 39 年 4 月 昭 和 39 年 2 月 大学数 表 4  美術関係学科目設置数の変化と整備過程 絵画 彫塑 構成 美術理論・美術史 美術科教育 設置 大学数 追加・削減大学(数)大学数設置 追加・削減大学(数) 大学数設置 追加・削減大学(数) 大学数 追加・削減大学(数)設置 大学数設置 追加・削減大学(数) 1昭和39年2月 45 42 38 33 21 2昭和39年4月 46 静岡大学+1 42 39滋賀大学+1 34熊本大学+1 22三重大学+1 3昭和40年3月 46 42 39 34 23岐阜大学+1 4昭和41年4月 47 宮城教育大学(※1)+1 44 宮城教育大学(※1)・広島大学+2 38 信州大学−1 34 23 5昭和42年4月 46 東北大学(※2)−1 46横浜国立大学・高知大学(※3)+2 38 33東北大学(※2)−1 24宮城教育大学(※1)+1 6昭和42年5月 46 46 38 33 28宇都宮大学・滋賀大学・大分大学・宮崎大学+4 7昭和43年4月 46 46 37東北大学(※2)−1 34東京学芸大学(※4)+1 28 8昭和43年6月 46 46 38宮城教育大学(※1)+1 35宮城教育大学(※1)+1 28 9昭和44年5月 46 46 38 35 33弘前大学・京都教育大学・奈良教育大学・香川大学・長崎大学+5 10昭和45年4月 46 46 38 35 35静岡大学・島根大学+2 11昭和47年5月 46 46 38 35 38福井大学・和歌山大学・熊本大学+3 12昭和48年4月 47 琉球大学(※5)+1 47琉球大学(※5)+1 40徳島大学・琉球大学(※5)+2 35 41群馬大学・鳥取大学・琉球大学(※5)+3 13昭和49年6月 47 47 40 35 42新潟大学+1 14昭和50年4月 47 47 42信州大学・愛媛大学+2 35 43富山大学+1 15昭和51年5月 47 47 43島根大学+1 36山形大学+1 45秋田大学・広島大学+2 16昭和52年4月 47 47 44山梨大学+1 36 45 17昭和53年4月 47 47 44 36 47金沢大学・山梨大学+2 ※ 1 宮城教育大学新設による※ 2 東北大学教員養成部廃止による※ 3 高知大学特設美術設置による※ 4 東京学芸大学大学院美術教育専攻設置によ る(造形芸術学を美術理論・美術史として集計)※ 5 沖縄返還による 表 2 :「日本法令索引」国立国会図書館〈http://hourei.ndl.go.jp/SearchSys/viewEnkaku.do;jsessionid=1E7D16EA392DBD757D1CA9331AD36B33?i=jYEOk ne9iOGzP9RBMjV5VQ%3d%3d〉(平成29年 4 月 3 日確認)を参照して作成した。 表 3 - 4 ,図 1 - 2 :現代日本教育制度史料編集委員会『現代日本教育制度史料』第25-45巻,東京法令出版,昭和62年-平成 2 年を参照し,次の原則に沿って 作成した。(1)特設美術に示された学科目の,日本画,東洋画,西洋画は「絵画」,造形芸術学は「美術理論・美術史」,美術・工芸科教育は「美術科教育」として 集計し,木工,染織,金工,陶芸,写真は集計しない。(2)特別教科(書道)教員養成課程設置大学では,書道は美術と同じ講座の場合があるが,書道,書道史,書 道科教育は集計しない。(3)沖縄返還に伴い琉球大学は昭和47年から学科目が示される。琉球大学に示された絵画,織染,陶芸,彫塑,構成,美術科教育のう ち,織染,陶芸は集計しない。

(10)

育が最初から示されていたのは

16

大学であ った。特設美術の美術・工芸科教育を加えて も

21

大学と,全

46

大学の半数にも満たない。  以上のように,昭和

39

2

月当初の時点 で各大学に示された学科目を概観すると,美 術科教育の学科目設置は整備途上であること がうかがえる。その後どのように変化してい くのか,次節以下で検討していく。

4

)美術関係設置学科目類型とその変遷  学科目省令改正に伴う各大学の学科目の組 み合わせ類型の経年増減をグラフにする(図

1

)。前節で確認した特徴的な

3

類型を抽出 し,

5

学科目が揃う完全講座体制を

A

型,絵 画,彫塑,構成,美術科教育の

4

学科目体制を

B

型,絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史の

4

学科目体制を

C

型とした。

A

型が右肩上がり に増加し,最多であった

C

型が減っていく。

B

型は微増する。

C

型に欠ける学科目は美術 科教育である。完全講座の増加は欠けていた 美術科教育が増えていくことを示している。

5

)各学科目の整備過程  昭和

39

2

月の学科目設置数は多い順に, 絵画,彫塑,構成,美術理論・美術史,美術 科教育であった。これは学科目省令での提示 順と同じである。基本的に法令の記載順序の 原則は先に記されるものほど優位性があると される。さらに省令改正を経て各学科目の設 置数がどのように変化していくかを見る(図

2

,表

4

)。その設置数が減った例は,設置済 みの構成が廃された信州大学の他にない。た だその後再設置される。その他微減して見え る箇所は東北大学教育学部の教員養成部廃止 と宮城教育大学開学による。グラフで一目瞭 然なのは,他の学科目はほぼ横ばいなのに美 術科教育のみ順調に増加していることであ る。昭和

39

53

年の美術教育に関する政策は 明確に学科目「美術科教育」の増設であった。  最初,

5

学科目中最少設置数であった美術 科教育は右肩上がりに増設されていった。昭 和

43

6

月までは

1

回の改正で

1 3

大学ず つの増設であったが,次の改正の昭和

44

5

月には

5

大学増設される。その後も順調に増 設され,昭和

39

2

月から約

14

年後の昭和

53

4

月に美術科教育は全国設置が完了した。  なお絵画(昭和

39

4

月)22),彫塑(昭和

42

4

月),美術科教育(昭和

53

4

月)の順に 全国設置が完了した。この時点では構成と美 術理論・美術史の全国設置は完了していない。

6

)学科目「美術科教育」への人的配置  詳細は別稿に譲るが,学科目「美術科教育」 が設置されてもそれへの人的配置が遅れた場 合,教官が配置されてもその教官の研究内容と の整合性は完全ではない場合があった。最初, 美術科教育の専門的研究者は僅かだったので, 美術専門教官が便宜的に学科目「美術科教育」 に所属したことが多かった。美術の専門的熟 達者こそ相応しいとして引き受けた場合と,や むなく請け負った場合があった。その他に小 中高等学校教員経験者が担う場合もあった。 制度上「美術科教育」は発足したが,美術教育 学の専門性はまだ確立しなかった。大学によ って美術教育学の専門性に対する認識が無い, 大学に専門性の認識はあっても需要に人材養 成が追いつかないので,美術専門の教官を採 用せざるを得なかったことが初期にはあった。  そのうち美術教育学研究者養成機関で養成 された専門家が世に出てきて,徐々に教員養 成大学・学部に採用され始める。美術教育学 の専門性が一般認識になる前の過渡的で興味 深い事例が,長谷川哲哉の昭和

47

年の和歌 山大学学科目「美術科教育」所属教官赴任時の 回想にある23)。長谷川は東京芸術大学大学院 の美術教育学専攻修了者第一号である。本人 も研究者として身を立てる意欲に満ちてい た。しかし採用にあたって大学側の業績評価 の対象は修了論文ではなく二科展入選作であ ったと後で知る。このような教科教育への無 理解は他教科も同様であったと言う。全国的 に教官の専門との整合性が明確に図られたの は,次の大学院設置の時期からである。

(11)

5

.第三段階 大学院美術教育専攻

設置

1

)美術教育学の人的制度基盤の成立  大学院美術教育専攻設置は,美術教育学の 専門性を大学教官に認識させる決定的な契機 となった。大学院美術教育専攻設置認可には, 文部省の設置審査委員会から必置分野「美術科 教育」の講義及び学位(修士)論文指導担当可と 認められた「○合教官」と,講義及び学位論文指 導補助担当可と認められた「合教官」が一名ず つ必要であった。そこでの審査対象は美術教 育学に関する研究論文業績であった。それゆ え便宜的な所属では済まなくなった。必要に 迫られて美術教育学は制度的成立へ向かう。

2

)教育学研究科と美術教育専攻の設置  全国の大学院教育学研究科と同美術教育専 攻の設置年を美術教育専攻設置順に表

5

に 示す。美術教育専攻設置は,昭和

43

年の東 京学芸大学を皮切りに,最終の平成

11

年の 弘前大学まで

31

年かかっている。そして教 育学研究科の設置とその中の美術教育専攻の 設置の年は必ずしも一致しない。つまり教育 学研究科そのものの設置も,その中の各専攻 の設置も,条件の整った所から認められた。  前述の通り,教育学研究科及び美術教育専 攻はまず東京学芸大学,大阪教育大学に設置 された。その後,高度の専門性をもつ教員に 特別の地位と給与を与える制度として大学院 を創設することとなり,新構想大学に限ら ず,文部省は既存の教員養成大学・学部中, 条件の整った所からも設置するとした。そし て愛知教育大学,横浜国立大学と大きな大学 に設置されていく。設置にあたり大学院設置 審査委員会による教官の厳しい審査があっ た。審査結果により修士課程の所属教官とそ うでない教官に分けられた。  大学院設置による大学や教官の差別化が見 えてくると教育学研究科や美術教育専攻の設 置を計画する大学も出てくる。一方,文部省が 設置したい大学もあった。もちろん大学自治 表 5  大学院教育学研究科及び同美術教育専攻設置年 図 3  大学院教育学研究科と同美術教育専攻設置数の変化 図 4  大学院教育学研究科と同美術教育専攻設置数の変化(累積) 平 成 11 平 成 10 平 成 9 平 成 8 平 成 7 平 成 6 平 成 5 平 成 4 平 成 3 平 成 2 平 成 元 昭 和 63 昭 和 62 昭 和 61 昭 和 60 昭 和 59 昭 和 58 昭 和 57 昭 和 56 昭 和 55 昭 和 54 昭 和 53 昭 和 52 昭 和 51 昭 和 50 昭 和 49 昭 和 48 昭 和 47 昭 和 46 昭 和 45 昭 和 44 昭 和 43 昭 和 42 昭 和 41 平 成 11 平 成 10 平 成 9 平 成 8 平 成 7 平 成 6 平 成 5 平 成 4 平 成 3 平 成 2 平 成 元 昭 和 63 昭 和 62 昭 和 61 昭 和 60 昭 和 59 昭 和 58 昭 和 57 昭 和 56 昭 和 55 昭 和 54 昭 和 53 昭 和 52 昭 和 51 昭 和 50 昭 和 49 昭 和 48 昭 和 47 昭 和 46 昭 和 45 昭 和 44 昭 和 43 昭 和 42 昭 和 41 参照:各大学の大学史・要覧・ホームページ

(12)

の原則から文部省は大学の意志を無視して教 育学研究科の設置を強制できなかった。初期 は教育学研究科や美術教育専攻の設置に積極 的な大学ばかりではなかった。例えば埼玉大 学は中央部にある規模が大きい大学なのに教 育学研究科設置は平成

2

年と遅めであった24)  さらに表

5

を基に大学院教育学研究科及 び美術教育専攻設置数の変化をグラフにする (図

3

4

)。それを見ると平成元年までは

1

年に約

1

大学に設置されるペースであった のに,平成

2

年には美術教育専攻が一気に

6

大学に設置されている。うち

4

大学は教育 学研究科設置と同時で,先述の埼玉大学もそ こに入る。それ以後は

1

年に数大学ずつ設 置されていき,全国設置完了を急いだと見え る。つまり平成

2

年実施の政策変更があっ た。すなわち文部省は設置に消極的な大学の 意志を尊重することをやめ,設置に積極的に なるように働きかけた。文部省『学制百二十 年史』(平成

4

年)は次のように記す25) 特に近年においては,臨時教育審議会や教育職員養 成審議会の答申において,現職教員の再教育と教員 養成大学・学部の教育・研究水準の向上を図る観点 から,大学院修士課程の設置促進が指摘されている こと,及び大学院修士課程修了程度を基礎資格とす る「専修免許状」が平成元年度から新設されたこと 等に対応するため,その設置を進めている。  この政策転換の背景は即断できない。ただ 平成元年に教育職員免許法が改正されて専修 免許状が登場したことは,大学院教育学研究 科未設置大学に設置を急がせる要因となった。

3

)大学院美術教育専攻の設置への温度差  また初期は美術・音楽といった実技講座で は,大学院設置に反対する教官が少なからず あり,設置が難航することもあった。例え ば,大阪教育大学の教育学研究科設置は昭和

43

年,美術教育専攻設置は昭和

50

年と時期 に開きがあるのはそのためである。「花篤先 生退官記念座談会」に大阪教育大学の大学院 創設期の状況が記される。それは花篤實と花 篤を囲んだ那賀貞彦,岩崎由紀夫,田中久和 たちとの談話をまとめたものである。花篤の 言葉の一部を以下に引用する26) 大学院設立の課〈 程〉で美術,音楽といった芸術系の 教官が最後まで消極的で,他講座より 6 , 7 年遅 れた筈だよ。始めにいったように芸術系は芸大方 式を目指していたので,「学」というのは門外だっ たし,第一我が国にそんな大学での芸術教育研究 講座のパターンがそれ迄なかったので,戸惑って いたというより,そんな大学院をやる暇があれ ば,一枚でも作品を作ると教授たちが公言して開 き直っている状況だった。  さらに大阪教育大学大学院創設に対して, 既に退官していた高妻巳子雄までも「我が国 の美術教育は山本鼎画伯以来実技を中心に発 展してきた」と花篤に意見したと言う27)  また必ずしも大規模校や美術講座の力の強 い所から大学院は設置されたわけではない。 特設美術のあった大学間でも差がある。早く に特設美術が設置された京都学芸大学(昭和

27

年),岡山大学・佐賀大学(昭和

28

年)であ るが,大学院美術教育専攻設置は岡山大学に 昭和

55

年,京都教育大学に平成

2

年,佐賀 大学に平成

5

年と差がある。特設美術は高 等学校教員養成を主目的として設置されたも のの,実質の教育方針には美術専門家養成も あった。美術専門家養成の立場からすれば, 教科教育を中心とする教科教育専攻大学院は 望むところではないであろう。既述のように 中央部の規模の大きい埼玉大学は,学部が大 学院そのものの設置に消極的であったと言わ れていた。  大学院美術教育専攻の設置は美術教育学を 制度的に成立させるものであったが,全教員養 成大学・学部,そして全美術教官がそれに熱心 であったわけではなかった。依然として教科 教育より教科専門を重視する意識があった。

4

)美術教育専攻設置のコンセプト  大学院研究科の美術教育専攻設置認可を得 るためには,文部省の設置審議会の美術専門

(13)

委員会で教官の教育・研究業績審査に通る必 要があった。以下,昭和

50

年代後半に審査 を受けた美術科教育教官からの聞き取りを基 に記述する(平成

23

3

27

日聞き取り)。  美術科教育分野担当者は教育学・保育専門 委員会の審査も受けなければならなかった。 美術と教育学・保育の二つの専門委員会で担 当文部官僚が委員に当該専攻のコンセプトと 設置要員の業績を説明する。官僚としては, 専門委員会に上げた以上それを通すことが任 務である。その際,官僚は該当美術教育専攻 のコンセプトと,それに要員がいかに合致し ているかを説明する。その専攻のコンセプト は大学によって違っていた。例えば,設置要 員の実技専門の教官にも美術科教育に関する 論文が求められた大学と,全く求められなか った大学があった。これは全教官で美術科教 育的内容を指導する体制を強調した専攻と, 各要員の専門性を強調した専攻というコンセ プトの違いからくる。専攻のコンセプトは各 大学の既存人材の特徴を踏まえて,文部官僚 が各大学の大学院設置計画担当者と折衝して 決め,それに合わせて設置要員の最終的な研 究分野の決定や業績蓄積努力が求められた。 場合によってはコンセプト実現に必要な新た な教官の採用が求められた。専門委員会での 審議や判定,改善事項は,官僚から各大学の 大学院計画担当者に伝えられ,当事者の教官 には大学院計画担当者から間接的に伝えられ た。現在,それを具体的に知ることは不可能 に近い。美術専門委員会での審査では東京芸 術大学出身者は有利であったと言われる。  ただ平成

2

年以降,大学院設置を急ぐよう になってからは,専門委員会での審査基準が 弾力化したように見える。すなわち研究業績 重視から教育・実務業績重視への転換である。

6

.成立過程

歴史的符合

 昭和

53

4

月に学科目「美術科教育」が全 国の大学に設置完了した。大学院教育学研究 科も限定された大学への設置ではなく,条件 の整った大学からの設置へと方針転換がなさ れ,昭和

53

6

月に愛知教育大学に大学院 が設置された。昭和

53

10

月に新構想大学 の兵庫教育大学と上越教育大学も開学した。 その年度末の昭和

54

3

月に奇しくも美術 科教育学会の前身の大学美術教科教育研究会 が発足した。現在から見ると,昭和

53

年は 大きな転換点であった。まとめると図

5

の ようになる28)。言わば学科目という外形が完 成された時,次段階の内実を問う大学院設置 が全国展開を始め,その人材・研究を育てる 学会も発足した。  これらの符合は現在からの歴史的検討によ って気づくことである。学科目「美術科教育」 設置と大学院設置方針の変更は直接関係する わけではない。大学美術教科教育研究会も, ある創設時会員によれば,学科目「美術科教 育」所属教官が職責を果たすために研鑽しよ うとして発足しただけで,学科目「美術科教 育」全国設置完了やその後の大学院設置とい う大きな流れは知る由もなかった(平成

29

10

13

日聞き取り)。符合は「奇しくも」であ るが,全くの偶然ではなく,現在から見ると 大きな歴史の流れであったことに気づく。当 時の関係者はそれを知ることなく,無意識的 にそれに沿って動いていた。それが歴史であ ろう。 平 成 11 年 平 成 10 年 平 成 9 年 平 成 8 年 平 成 7 年 平 成 6 年 平 成 5 年 平 成 4 年 平 成 3 年 平 成 2 年 平 成 元 年 昭 和 63 年 昭 和 62 年 昭 和 61 年 昭 和 60 年 昭 和 59 年 昭 和 58 年 昭 和 57 年 昭 和 56 年 昭 和 55 年 昭 和 54 年 昭 和 53 年 4 月 昭 和 52 年 4 月 昭 和 51 年 5 月 昭 和 50 年 4 月 昭 和 49 年 6 月 昭 和 48 年 4 月 昭 和 47 年 5 月 昭 和 45 年 4 月 昭 和 44 年 5 月 昭 和 43 年 6 月 昭 和 43 年 4 月 昭 和 42 年 5 月 昭 和 42 年 4 月 昭 和 41 年 4 月 昭 和 40 年 3 月 昭 和 39 年 4 月 昭 和 39 年 2 月 図 5  学科目「美術科教育」及び大学院美術教育専攻設置数の変化

(14)

7

.結論

 美術教育学の人的制度基盤は,まず大学で の教養教育重視を原則とした戦後の教員養成 政策が徐々に教職の専門性重視へ転換してい くことに呼応して形成された。昭和

39

年か ら

53

年までに学科目「美術科教育」が全国設 置され,そして昭和

43

年から平成

11

年まで に大学院美術教育専攻が全国設置されること で完成する。三段階の概念図は,水平軸の時 間と垂直軸の大学数に反映させると図

6

の ようになる。  第一段階では美術教育専門と美術専門は未 分化であった。戦後の教員養成大学・学部に 師範学校から美術教官は移行した。師範学校 での図画専門と図画教授法専門の未分化も継 承された。戦後初期の教員養成では教養及び 教科専門が重視され,教科教育をはじめ教職 関係内容は重視されなかった。大学へ多数移 行した師範学校教官の美術全般にわたる能力 の高さも美術教育専門の分化を遅らせた。  第二段階では学科目「美術科教育」設置によ って美術教育専門と美術専門が形式的に分化 し,美術科教育の形式的専門性が制度的に出 現した。文部省から示された学科目は大学ご とに異なり,各学科目整備の進度も様々であ った。最初最も少なかった学科目「美術科教 育」は急速に設置されて昭和

53

年に全国設置 が完了した。第二段階の初期には,学科目「美 術科教育」設置とそれへの人員配置に時間差 や,所属教官の研究内容との不整合,さらに採 用大学側の美術教育専門への理解不十分等が あって,形式的な教官配置の場合もあった。  第三段階では大学院美術教育専攻の設置と 美術教育学専門家の配置によって美術教育専 門と美術専門が実質的に分化し,美術教育学の 内容的専門性が制度的に保証され,人的制度基 盤が成立した。文部省の設置審査委員会での 「美術科教育」分野教官の論文業績審査が,美術 教育学の内容的専門性を制度的に保証した。 大学や教官によって大学院設置に対する温度 差や美術教育学問化への異和,美術教育専攻の コンセプトの違い等の困難はあったものの,昭 和

40

年代の特定大学設置方針から昭和

53

年頃 の全国設置への政策転換,さらに平成

2

年か らの急速な大学院設置によって,美術教育専攻 も平成

11

年に全国設置が完了した。 1) まず民間の団体として,昭和21年に東京高等師範学校・ 東京文理科大学図画工作教育関係者によって芸術学会 が,昭和22年に東京美術学校・東京芸術大学図画工作教 育関係者によって美術教育学会が設立され活動を始め た。昭和21年に大阪の図画工作教育関係者によって大 阪児童美術研究会が,昭和26年に京都の図画工作教育 関係者によって日本美術教育学会が組織された。また昭 和23年に開かれた第 1 回全国図画工作教育大会で全国 図画工作教育連盟が構想され,翌昭和24年に発足した (昭和36年から全国造形教育連盟と改称)。その他にも 各県に図画工作教育の研究組織が作られている。日本が 昭和27年に独立した後の昭和28年から文部省が教科教 育学の組織的研究推進に乗りだす。まず文部省は同年か ら教科ごとの教員養成学部教官研究集会を始めた。昭 和30年10月に開かれた第 3 回は図画工作科教育の協議 会であった。そこではまだ教科教育学の構想は出てい なかった。また昭和23∼26年にG.H.Q.の民間情報教育

局によって第 1 期から第 8 期のIFEL(The Institute for Educational Leadership)講座が実施された。しかし図画 科教育及び工作科教育に関しては実施されなかったの で,占領終了後の昭和27年11月に日本独自に第 9 期と して参加者の旅費自弁のような形で図画科及び工作科の IFEL講座が東京教育大学で行われた。宮脇理『工藝に よる教育の研究』建帛社,平成 5 年,pp.577-634.に資料 13として工作科教育部会の研究集録の重要部分が復刻 されている。 2) 杉山明男「教員養成のカリキュラム」『岩波講座 現代教 育学18 教師』岩波書店,昭和36年,p.151.によると次 のような状況にあった。「教員養成のカリキュラムを考 えていくと,重要な欠陥としてあげられてくるのが, 『教科教育法』『教材研究』といった分野である。これら は『免許法』にも必修単位としてかかげられ,各大学に おいてすでに実施されているが,重要であることは認め られながらも,現実的には,もっとも安易におこなわれ ており,学生には好まれない講義の一つとなり,この講 義に対する不満や要求は実に多い。/また,教師にとっ 図 6  美術教育学の制度的成立の三段階の概念図

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ても同様に非常に困難であり,不満も多い講義である。 それは,『教科教育学』が科学的に研究されるべき対象 でありながら,じゅうぶんに研究しつくされていないと ころに一つの原因があると考えられる。」 3) 美術科教育学会の学会通信の巻頭言に,平成25年以降 数回にわたって,美術教育学の成立に関わってきた当 事者である代表理事(金子一夫・永守基樹)により,制度 的成立の過程についてと,実質的内容の成立が未だ達 成されない危機的状況下にある旨が記される(金子一夫 「美術教育研究の歴史的課題」『美術科教育学会通信』 No.82,平成25年 2 月,pp. 1 - 2 .永守基樹「代表理事 就任にあたって−運営の基調と体制−」同誌,No.83, 平成25年 6 月,pp. 1 - 2 .同「2019年問題−美術教育 学の曲がり角」同誌,No.91,平成28年 2 月,pp. 1 - 2 .)。また近年,美術教育学の内容を問う論文も発表さ れる(金子一夫「美術教育方法論における超越的外部の必 然性−『無規定的過程』その他」『美術教育学』,第37 号,平成28年,pp.207-218.同「現代美術教育学研究の 問題点とその解決−贈与交換論による美術教育の再定義 を通して」前掲誌,第38号,平成29年,pp.179-191.藤原 智也「ポスト・デモクラシーにおける美術科教育の正統性 の問題」前掲誌,第37号,平成28年,pp.387-400.)。 4) 美術科教育学会美術教育史研究部会「美術教育学の制度 的基盤の成立過程」『第33回美術科教育学会富山大会概 要集』p.81.,平成23年 3 月27日。同テーマで,平野英 史は東京学芸大学,花篤實は大阪教育大学,有田は茨城 大学と島根大学の事例研究を発表した。学会発足の背景 にあった教員養成大学・学部で美術研究と美術教育研究 が未分化な状態から分化していく過程が確認された。 5) 有田洋子「美術教育学の制度的基盤の成立過程−島根大 学における人的制度と配置−」『島根大学教育学部紀要』 第45巻,平成23年,pp.47-55.他. 6) 太田智己『社会とつながる美術史学』吉川弘文館,平成 27年は美術史学形成プロセスとして「学術インフラの整 備」を挙げる。その比喩を援用する。 7) 金子一夫・有田洋子「美術教育学の制度的基盤の成立過 程−東京芸術大学の場合−」『茨城大学教育学部紀要』 第62号,平成25年,pp.123-135. 8) ショッパ,レオナード ・J.,小川正人監訳『日本の教育 政策過程 1970∼80年代教育改革の政治システム』三 省堂,平成17年(英文原著は1991年),p. 5 .金子一夫 「美術教育研究の歴史的課題」前掲. 9) 海後宗臣・寺崎昌男『大学教育』東京大学出版会,昭和 44年,pp.145-157.に「大学設置基準と講座制・学科目制 の問題」が詳述される。同書は,文部省が昭和26年の時 点で既に昭和31年の大学設置基準の講座制と学科目制 とほとんど同一のプランを準備していたこと(p.149.), 新しい研究教育組織のあり方を,大学の主体性において 考えだしていくという戦後改革当時の期待は,早くから 空洞化の方向をとってきたこと(p.149.),昭和31年の大 学設置基準は,結局,旧制時代の大学と高等学校・専門 学校との間にあった研究教育機関と教育機関という原理 的な違いを新制度の中に再現させたこと(pp.149-150.) を指摘する。 10) 百年史編集委員会『百年史 埼玉大学教育学部』百年 史刊行会,昭和51年,pp.1077-1079.埼玉大学は「『目 的大学』『課程制』を前提とする,教員養成の国家基準 案である」「大学の自治,学問の研究の自由を侵すこと になり,教員養成を大学でおこなうという建前と矛盾す るのではないか」「基準が必要だとしても,基準設定の 主体の問題が検討されなければならい」等,意見した。 11) 学科目省令をめぐる経過はその詳細な記録のある百 年史編集委員会,前掲,pp.1063-1067.,東京学芸大 学二十年史編集委員会『東京学芸大学二十年史−創基 九十六年史−』東京学芸大学創立二十周年記念会,昭和 45年,pp.83-86.,和歌山大学教育学部『和歌山大学教 育学部創立百周年記念 100年のあしあと』和歌山大学 教育学部,昭和50年,p.53.を主に参照して記述した。 文書名に関しては,現代日本教育制度史料編集委員会 『現代日本教育制度史料』第24巻,東京法令出版,昭和 62年,p.598.に基づいて記述した。ただし昭和38年 7 月「教員養成大学,学部の課程及び学科目について」に関 しては,唯一その文書名の記されていた百年史編集委員 会,前掲,p.1064.による。 12) 土屋基規『戦後日本教員養成の歴史的研究』風間書 房,平成29年,pp.311-312.は次のように指摘する。学 科目省令は国立大学の内部組織を①学科−講座制(旧制 大学を基礎とする新制大学・学部),②学科−学科目制 (旧制高等学校,専門学校を基礎とする大学・学部),③ 課程−学科目制(旧師範学校を基礎とする大学・学部) の三つに区分した。この区分のうち「講座および学科」 は教育研究機能をもつ大学の内部組織,「課程」は教育機 能のみをもつ内部組織で,国立の教育系大学・学部は全 てこの課程制の大学として,教員養成のためだけの教育 を目的とすることとしたのである。 13) 学部名称変更は『「大学における教員養成」の歴史的研 究』学文社,平成13年,pp.370-383.に詳しい。 14) 長浜功『昭和教育史の空白』日本図書センター,昭和 61年,p.30. 15) TEES研究会,前掲. 16) 花篤實「一 学会の過去と未来」美術科教育学会二〇年 史編纂委員会『美術科教育学会二〇年史』美術科教育学 会,平成11年,p.74. 17) 金子一夫「美術史の中の美術教育」北澤憲昭 他『美術 のゆくえ,美術史の現在』平凡社,平成11年,pp.52-68. 18) 東京学芸大学二十年史編集委員会,前掲,pp.83-86. 19) 百年史編集委員会,前掲,p.1062. 20) 和歌山大学教育学部,前掲,p.53. 21) 和歌山大学50年史編纂委員会『和歌山大学50年史』 和歌山大学,平成12年,pp.123-124. 22) 昭和39年 2 月時点では唯一静岡大学に絵画が示され なかった。静岡大学は美術教官数の比較的多い大学で, この時期に絵画専門教官も在職していた。絵画がなぜ示 されなかったのか,何らかの記載間違いなのかは現時点 では不明である。 23) 長谷川哲哉「研究会か学会かの議論(一)」美術科教育学

表  3   昭和 39 年  2  月学科目省令発令時の各大学の美術関係学科目 学科目 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 絵画 , 彫塑 , 構成 , 美術理論・美術史 , 美術科教育 福島 千葉 信州 愛知 大阪 山口 鹿児島 絵画 , 彫塑 , 構成 , 美術科教育 山形 茨城 埼玉 神戸 絵画 , 彫塑 , 美術理論・美術史 , 美術科教育 愛媛 絵画 , 構成 , 美術理論・美術史 , 美術科教育 横浜国立 高知 絵画 , 彫塑 , 美術科教育 徳島 絵画 , 彫塑 , 構成

参照

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