身延山は開關以来七百有余年の星霜、先師の弛まぬ丹精によって霊山が護持されてきた。この間、沢山の傳説sの 蟹悪e︶口碑sのロ言1豆の昌亮e︶が生れ傳え残されてきている。①土地・地名に関する傳説、②岩石・樹木 に関する傳承、③泉水に関する傳説、側動物に関する傳承、⑤神仏・人物に関する傳説など、枚挙に暹がない程であ る ○ 口碑傳説は世間の巷談・噂gmQ閏言三e︶とか昔話凰吊巴訂○$g旨冨e︶とは違うジャンルの世界であ 祖師像・柿の葉書籍。しぐれ沢の法塔・余録l傳説考I・参考文献. まえがき石割稲荷社・高座石・蛇石・鏡円日台師の夢想・六老僧畑・稚児文殊の井・寺平・智寂日省師の雨請・一木三躰の
まえがき
目次
身延山の﹁傳説﹂考
身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶町田是正
身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ る。傳説には史実から流れ出た故事もあり、全く架空物語を人倫徳育を目的として作為されたものも有り、また時と しては史実の証拠に役立つものもある。惜しむらくは、時の流れに伴い時間の壁の彼方に浬滅sのくの吋己呂言長ま たは歪曲sのくの己吋の言品されていく虞れが多分に有ることである。 筆者は余暇の間に間に身延山の歴史について臨地調査を重ねてきた。その調査の過程で残っている史料&の幻巨の房e︶ と歴史記述の内容と符節しない事に再三突き当り、また口碑傳承にしても、永い歳月の間に潤色烏①シ房の9日言言長 された部分の有ることに驚いた。 ︵二・五キロ四方︶ この拙稿で扱う﹁身延山﹂とは、文字通り久遠寺を中心とした方十三里の身延霊山のことで、この狭院の地域に何 故に沢山の傳説が残されてきたのであろうか。民俗信仰と関係しているのであろうか。本拙稿では周知されている口 碑傳承の幾つかを取りあげ、その傳承の基となった文献などを紹介し、出来得る限り古色を残すように努めてみた。 そして、幾つかの傳説を通して得た﹁傳説﹂の意味を余録としてまとめてみる事にした。 ざとびと 日蓮聖人がこの﹁みのぶ﹂に御入山された当日は、傳える所では雨の日であったという。それで郷人は雨除けの蓑 みのぶ みのぶ を聖人に差し上げ、郷人たちも肩に着けて聖人を案内した。それで此の山を﹁蓑夫山﹂・﹁蓑歩﹂と呼んだという。 また日蓮聖人が御説法された時l五月雨の頃I郷人は互に蓑を着け、蓑笠を頭に乗せ、連れ立ってお詣りしたので 岩石傳説石割稲荷社︵所在⋮門前町元町︶
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− 6 4 −◇付記 佃﹁蓑夫﹂・﹁着連宿﹂の地名を﹁身延﹂と書き改めたのは日蓮聖人とされる。妙法七字・五字を唱題するとき﹁身も心も爽快、 延び延びするお山﹂という意味で﹁身延山﹂と改めたとされる。 ②石割稲荷社の地には、元は文殊坊が在り、郷人からは﹁稲荷の文殊坊﹂と呼ばれていた。明治七年︵一八七四︶の身延山内支 院坊舎の統廃合時に東谷の積善坊と合併されて現在に至っている。 日蓮聖人が御入山の節、山腹の大岩が不思議にも左右に割れて、その岩の中から白髪の翁が現われて聖人を出迎え た。聖人は言葉優しく﹁お身はいずれのお方﹂と尋ねると、翁は﹁私は元々身延の山に住む者、追われ追われて深い 岩屋の中に閉ざされた哀れな者、今、憐み深き日蓮さま甲斐路に入られて、老の身は欣喜躍如.追いこめられた岩を 破り出て参った稲荷大明神の申し子なり﹂と。郷人は奇異の威にうたれて、後日、この地に社を造り翁を神人として 祭祀した。これが現在に傳わる石割稲荷社で、現に神社の前には左右に割れている大岩石を目にする事ができる。 延町の発祥地とされている。 きつれさと きつれしゆく ﹁みのぶ﹂の里を﹁着連の里﹂・﹁着連宿﹂とも呼ぶとされている。 日蓮聖人の御入山の殉の御詠歌として ︵沙伽羅竜︶ ふる雨を雲にとどめよしやから龍 ︵徳叉伽竜の法︶ とくしやかのりを人にきかせよ が遺されているとして、今も着連宿のお年寄りが口ずさんでいるという。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ もとまち ︵着連宿は現在は門前町元町と称し、身
七面山参道・山と山との狭間、ここに往昔、七面山参詣第一の関門・華表︵鳥居︶が建っていたと傳えられる。 流水は涼涼と響き、老杉の翠したたるばかり、苔むしたる大岩、この大岩に登られた日蓮聖人は連日高座石法莚を ござ 開かれていた。人々は莫産の上に、大樹の鶏に、夫々に聴聞の場をみつけて拝聴していた。さて聴聞信者の中にひと によしよう さとびと きわ美しい女性が居た。法莚の日数が重なるにつれて、檀越信者・身延の郷人とは違う妙艶の姿に人々の目が集まる ようになり、何処から来るのか、何処の誰れなのか、知る者は居なかった。それで郷人たちは聖人と結びつけてあら 或る一日、波木井実長は、高座石上の聖人に向かって、女性の素性を尋ねてみた。聖人は微笑しつつ、女性に対し て﹁本態を現わして衆人の疑念を晴せよ﹂と仰せられ、花瓶の水を美人の髪に注いだ。忽ち黒雲が舞い降りて突風が いまより 老杉の梢を鳴らした。驚く人々の眼前で、女性は﹁尊い説法を有難く拝聴す。妾は七面竜神なり、爾今、法華経の受 持者と身延山を守護せんと欲す﹂と云い残し、大龍にと変化し、黒雲に乗って遥か七面山へと飛び去った。 ◇付記 ぬ噂を立てるようになった。 ようになり、何処から来る︵ 川この高座石と七面竜神との傳説については身延山図経、本化別頭仏祖統紀・七面大明神縁起などに記されているが、此処では
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大中院日孝師撰﹃七面大明神縁起﹄中から該当する一節を参照しておこう。﹁昔者我祖鞘二晦子身延一毎講二法華一会座有二一婦人一 ル シテノニ ーー ヲ ーー セヨ キハ 来也年可二二十一容貌端厳服飾綺麗侍二祖師側一而預二法会一諸人疑し之南部六郎亦在レ座祖欲し解二其感一告日汝復二本形一対日諾然無し 岩石傳説高座石︵所在⋮西谷田代・妙石坊境内︶ 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ − 6 6 −﹁蛇石﹂傳説には二つの傳承がある。 ︵其こいつの頃か不明であるが、身延山の奥深くに大蛇が棲んでいた。大蛇が竜と化して昇天するためには、海中 で千年、深山岩石上で千年、更に里に出て人家に三日間姿を匿して他の動物に見つからぬよう苦心修行して昇天でき ると云う。その修行中の大蛇であったのか、山中から海へ出る途中、大岩が韓がり大蛇を圧死してしまった。この大 岩を﹁蛇石﹂と呼び、又は蛇の骨︵化石︶を蛇石とも傳えている。 ︵其二︶今から三百五十年程の昔、現在の清住町新宿は﹁上塩沢袋宿﹂と呼ばれ、沢下にあって民家八戸・寺一刹の 平和な里であった。或る夏の夜、寺の和尚さんは夕勤を済せ、夕飼も終って、寝床に入りウトウトしていると、枕許 ヲ ヲ スハ 水則不レ能云祖乃命二侍者一与二瓶水一忽変二竜身一甚可二驚怖一眼光射し屯爪牙植レ匁鱗色織レ錦舌頭涌レ炎長一丈余纒二僥華瓶一者二三匝 ス ス ーー 矯レ首回顧甚可二怖畏一子弦六郎等疑念忽散歎二未曽有一少焉復其初且言我師已受二一乗之付嘱一遠爲二末法之導師一我惰恭蒙二仏勅一擁ニ
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、ン 、ン 護持経者一豈不レ報二霊鷲之本誓一也自今而後令持経者各各果二諸願一遍除二七難一長二生七福一復守二護此伽藍一除二懐火災飢謹疫痛等︷ 、シ 住二持三宝一永二断絶一言已即没⋮﹂︵日潮撰﹃本化別頭仏祖統紀﹄参︶ ②﹃身延山図経﹄には高座石は﹁法輪石﹂とあり、管理坊舎として﹁妙石庵﹂と記されている。往昔、日蓮聖人が末法広布を大 願とされた﹁高座石法莚﹂の遺徳を後代に傳えようと熱願した学輝院日逢上人︵宝永元年甲申九月十五日化︶は、高座石の地に 祖師堂の建立を発願し、見事に成就して﹁妙石庵﹂と称した。﹁身延山歴代略譜﹄の三十二世智寂日省上人條に﹁高座石発願ス。 ル 日省師代使二諸人帰依渇仰一開基ハ学種院日逢、妙石庵ヲ造立ス﹂とある。尚、﹃身延山坊跡録﹄によれば妙石庵は﹁文久二年壬 戌八月・身延山六十九世事感院日琢上人代二妙石坊ト改ム﹂とあり、現在に至っている。 眠しやい−︶ 岩石傳説蛇石︵所在⋮清住町新宿︶ 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶◇付記 ①﹁身延山図経﹄では ②﹃身延山図経﹄所Ⅳ Dトシテ 蟠龍之石欝崖鬼 シテクセヨ 潜居長鎮二宝蓮臺一 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ に妙麗の女性が現れ、﹁和尚さん、私はこの奥山で千年の修行をした大蛇です。これから海に出て千年の修行をしよ うと思っています。しかし二本の桧の大木が行く手を遮っています。里人には迷惑はかけません。和尚さんのお情け で桧の大樹を取り除いてください﹂と懇願した。和尚ざんが目を覚ますと美人の姿は消えていた。 翌朝、和尚さんは里人を集め昨夜の夢物語をした。里人は驚き、﹁大蛇が通ると里が大被害を受けるに違いない。 里をあげて阻止すべきだと、桧を切って柵を作り通るのを防ごう﹂と意見が一致し、妨害柵は瞬く間に完成した。 折りしも台風の襲来、暴風雨となり、里人は洪水の被害と大蛇による被害を思い恐怖の一晩であった。 一方、大蛇は時機至れりと待っていた。天の一角が切れ疾風迅雷の豪雨、大蛇はこの時とばかり海に向って山を下っ てきたが、桧の大樹と妨害柵が行く手を遮断していた。大蛇は右往左往、とその時、大音響と共に上の山一帯が崩壊、 大盤石が流れ落ちてきて、大蛇は大盤石の下敷きとなってしまった。 その後、里人は大盤石を﹁蛇石﹂と呼び、横を流れる川を﹁蛇石川﹂と呼んでいる。 右の漢詩詠者は、明らかに高座石と蟠竜石︵蛇石︶とを混同している。 では、蛇石は﹁蟠龍石﹂と記されている。 所収の﹁延嶽詩偶集﹂に蟠竜石の漢詩が詠じられている。
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スルコト 匡蒐神女霊齪此地開体下向二風雲一更飛動上 − 6 8 −◇付記 仙日台上人の夢想故事は﹁身延山伽藍記﹄︵円教院日意誌︶の中に見えるので該当する一節を参照しておこう。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ その法業が成る事より遡ること百二十八年前、第五代鏡円日台上人が身延山中腹に堂塔伽藍の荘厳美が現出する夢 を御覧になられた夢想の故事が傳えられている。 行学朝師は移韓拡張の後、偶々、古い経巻の包装紙の中に、第五代鏡円日台上人が書き置いた古文書を見付られた。 現在地へと移築された。 身延山久遠寺の当初の建立地、それは西谷身延川の辺り御廟笙域である。日蓮聖人在山九ヶ年から第十世観行院日 延上人代︵寛正二年︶まで、この霊地と堂宇とを身延山久遠寺と呼んでいた。 第十一世行学院日朝上人代の文明六年から七年︵一四七五︶にかけて、堂塔伽藍の移韓拡張工事の大法業が行われ 行学朝師は移韓拡張の後、瘤 その古文書を披見してみると、 ︵一三四六年︶ ﹁貞和二年九月二十日の夜中のこと、夢の中で総門外の梅平へと遊行、ふり返り身延山の山並みを望むと、山の中 腹に七堂伽藍が偉容の莞を並べていた。身延山も将来は山腹にまで堂塔が建立されて繁栄するであろう﹂と。 この夢想の有様を書き置いたが、行学朝師は此の古文書を披見されて、夢想の内容と移韓拡張事業とが符節した事 に、不思議な霊力を感じとられたのではなかろうか。 地名傳説鏡圓日台上人の夢想︵所在⋮棲神身延山︶
◇付記 ①﹁六老僧畑﹂は﹁身延山図経﹄︵延嶽図経︶では﹁六祖園﹂と記されている。また図経には六祖園の近くに﹁高祖硯水﹂も記 日蓮聖人がお住いになられた西谷御草庵は、昼なお暗き幽遼谷の狭間に在った。この人里を離れた山中にも、月日 が経つにつれて直弟子・檀越衆が訪れるようになり、谷間も俄かに賑いをみせるに至った。 聖人の日常の御生活の一切に関しては、身延地頭・波木井実長が給仕する所であったが、、聖人の存念としては、 波木井実長の給仕に全てを任せる事は、心苦しく思召されていた。それで蔬菜類だけでも御草庵の近辺で作りたいと思 みこころ われていた。聖人の御意を奉じた六老中老僧など、弟子方は荒地を開墾して蔬菜を作ったのであった。その耕作の旧 跡を﹁六老僧畑﹂と呼び今に傳えている。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ ﹁吾師朝公來二主子弦一是地院狭衆毎苦レ之師振二鼎建之力一移二今之地一⋮略⋮後偶々見二古経外畉一烟煥敗墨之間微見二字形一掃し塵細 閲第五代鏡圓臺上之識文也、其文日貞和二年丙戊九月二十日之夜夢山僧偶々遊二隣村梅平一回顧山顛有二塔之九輪一下し之一等平地 如レ砥宏基姫構殿堂模閣欝乎盛乎⋮略⋮夢裡恩念他日吾山嘉運有し時輪奥至レ是歎夢醒実乃就二其九輪之地築二八幡社一以誌し之⋮略⋮ 身延山者真之霊山事之常寂光士也⋮略⋮夫臺上者託し夢而説し理朝公者即レ理而豚二事相一聖者之域足二傭而可ロ信者乎哉。文明十年 戊戊正月八日︵圓教院日意記﹁身延山伽藍記﹂︶ 側行学朝師による大英断、久遠寺堂塔の西谷から現在地への移築拡張の法業と日台上人の夢想︵身延山々腹に七堂伽藍現出︶と の結びつきは、右の日意上人の伽藍記が基になって傳承されたものであろう。 地名傳説六老僧畑︵所在⋮西谷御廟所の裏地︶ − 7 0 −
大正五年︵一九一六︶五月出版の﹁身延山案内記﹄の中に、稚児文殊の傳説について次のように記している。 ﹁十如坊鬼子母神堂は文明年中当山十一世日朝上人代に建立せしものなり。更に左りを上る二丁余、稚児文殊祠 あり。傳へいふ。十二世日意上人の時鶴若丸といひし稚児故ありて此所に自害をなせしより小社を建てその菩提 神人地名傳説稚児文殊の井︵所在⋮身延山上ノ山・思親閣参道︶ えるものとして傳承していきたい。 に耐える土壌が確保できたか否か疑問視せざるを得ない。然し、﹁六老僧畑﹂の傳説は往昔七百年前、宗祖の御生活の難渋を傳 となく、一度洪水が起れば一夜にして地形と身延川の水流河床が大きく変るのである。従って﹁六祖園﹂とあるが、果して耕作 斑岩・玲岩類・凝灰岩・頁岩等で、風蝕水蝕を受け易く耐水性に溺いものである。この岩肌露出情況は七百年前も現在も変るこ とあって険阻の情況が解る。周知のように此の一帯は日本列島中部大断層亀裂地層帯上に在る。また地質を調べてみると、石英 峰なり。田代六老畑、通塞がかけ、完の都、田の嶺⋮﹂ 道は細く九折の路なり。左は竜が鼻、三十三滝、雨乞の淵、右の方は太郎が峰、次郎が尾、是は妙太郎・妙二郎とて天狗の棲む 側六老僧畑の近辺の地形について、﹃身延鑑﹂︵身延山根元記︶には、﹁身延川を上り待れば石巖屏風のごとくそば立ち、岩間の いたと傳えられる。 事ができない。六毎 ②御草庵裏には。 されているが、今樫 あり。傳へいふ。十二世、 を弔ふなりと。古歌あり。 いわれ 年ふるる松の岩根の 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ 今は全く浬滅している。 ﹁六軒部屋﹂と称し聖人在山当時、六老僧など諸弟子が起居した部屋が在ったと云うが今は場所さえも比定する 六軒部屋は行学朝師が本院を移韓された時に同時に移し、明治八年一月焼亡するまで六軒部屋の名称が残されて こけ 苔むして
◇付記 ①稚児文殊の哀話は﹃身延鑑﹄には相当数の頁を割いて次の様に記している。 ﹁むかし応永の比︵一三九四∼一四二八︶本院に月若・花若と申す二人の御稚児おわせしに、月若どのは秋に賞で、花若どのは 春にたわむれ、月・若とそねみ争ひ給ひしに、月にめでたる若大衆、花にすぎたる加用人、双つにわけてすでに評に及び、一山 の騒ぎと成りしにより、月若どの、われわれ故に山の騒ぎもよおしと思ひ給ひけるか、一首の歌をよみて、 月花とあらそふ人ももる共に如夢幻泡影応作如是観 此の岩かげにて自害し給ふ。その時よりこの水涌き出で児の涙水と申しはべり。心ある人は此の所にて歌をよみ、詩をつくり手 向け給ふ。その児を今は児文殊といわい、これなる宮なりと教へ給ふ。その時われも人なみに腰おれ歌詠みなんとうめきて おもひきや手向に結ぶうたかたの水のあはれに袖ぬらすとは﹂。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶
わちごみず
清き泉の涌ける稚児水 さて、右の﹁案内記﹂の記述について、筆者の知る傳承で補足しておこう。 昔し本山に文殊という稚児が居た。その美しい姿に恋慕を寄せた女人がいた。美少年文殊はその女人の想いで足に 孕った。本山寺内に在るものが足に孕もるとは恥なりと、或る夜、筆の穂先を糊で固めて咽喉を突いて井戸に入水し て死んだ。その井は大杉の根元にあり清水が涌き出している。碑もあって﹁清徳院割朗日遍﹂と読める。しかし年次 は不明である。身延山十二世円教院日意上人は、文殊稚児を哀れんで年ふるる杉の岩根に苔むして
清き流れの落ちるちご水 と詠じられたと傳えられている。 − 7 2 −身延山久遠寺から東南へ約一キロ地点、此処に標高四○七メートルを最高とする丘陵が広く開けている。通称﹁寺 だいら とうばやし 平﹂と呼ばれ、官公庁台帳では﹁お塔林﹂と記されている。現在は身延山聖園墓地の造成地となっており、他に身延 ︵自然環境保全地区︶ 山大学グランド三面・身延山駐車場三面が造成されている。実は﹁寺平﹂は山梨県の風致地区に指定されており、人 工的改造には制限が加えられている丘陵地でもある。また身延山随一の景勝地で、東には富士川・身延町官庁街・身 延駅・駿河方面を遠望、西には七面山を遥拝し、南は麿取山を望み、北には身延山︵思親閣︶を拝する事ができる。 春ともなれば桜花燗漫、秋には身延全山の紅葉を楽しむことが出来る。 延駅・駿河方面を遠望、 春ともなれば桜花燗漫、
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ス 亨代又爾建 ヒフ ノ 相伝十二世意師児鶴若丸津諏如吠榊繩樅螺紅許釉年丁丑年南延房テテニスノ
ストモトウ ク可モアリ ノダトノテ リタタリニ ノヲ 有し故於二此処一自殺其後此処水涌出雛し為二細流大旱鼬無し乾尤益二諸人一云二児涙水一其後有二怪事一児有し崇故立二文殊宮祭し之、日 年フルル松ノ岩根ノ苔ムシテ清キ流レノヲッル児水 祥師代爾建立・元治二乙丑年五月廿五日棟札有之﹂。 筆者が思うに、右の﹁諸堂建立記﹂の記録が基になって﹁稚児文殊の井﹂の傳承が生れたのではなかろうか。 児文殊宮一庇唖鈴児水 ②﹃身延山諸堂塔建立 地名傳説﹁寺平﹂︵所在⋮清住町寺平︶ 右の﹁身延鑑﹂の記述は余りに脚色粉飾の度が強く、傳説の枠をこえて物語文学となってしまっている。 ﹃身延山諸堂塔建立記録﹂︵﹁身延山諸堂記﹂と略す︶の中に次の様な記録が見える。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ ◇i
◇付記 ⑪﹁身延鑑﹄︵身延山根元記︶に次の様に記されている。 ﹁総門逢嶋より一丁余りに十間余の橋あり。極楽橋と申し侍り。水上は三十三滝の流れにて身延川と申し侍り。右の方の山の平 をば﹁寺平塔林﹂と申し、大聖人入山のかしら、真言宗の寺塔あり、今の多宝塔なりと申し傳へり﹂。 ②傳説の呼称﹁寺平﹂は、地元の人々は﹁てらでえら﹂と誰っている。﹁でえら﹂とは﹁平﹂︵たいら︶の誰であり、丘陵地には 平地が広く開けている事から﹁平平﹂︵てえらでえら︶となり﹁寺﹂と﹁平﹂の音が似ていることから﹁寺平﹂︵てらでえら︶と 韓誰したとも考えられ、昔し寺院が有った平地名と解することは早計かも知れない。 ⑧﹁てえら・でえら﹂の誰語は、例えば﹁ときどき﹂・﹁さまざま﹂のように第二句が濁音となるように、﹁てえら・でえら﹂ となり、さらに﹁てらだいら﹂となったとも考えられる。 側寺平は昭和十四年九月十二日身延町文化財指定史跡となり、南西側の緩丘地からは紀元前二五○○年縄文中期の遺跡︵加曽利 E式︶と遺物︵打製石斧・皮はぎ・石錘・石錐︶が発堀されている。身延山内最古の考古遺跡であることが確認されている。 さとびと ちやんぷくじ ︵現在清住住民の笙域︶ 地元の郷人が傳えるところでは、昔し﹁寺平﹂には真言修験の道場﹁長福寺﹂と呼ぶ寺が有り、付近の﹁お塔林﹂ と呼ぶ地には五重塔が建っていたという。日蓮聖人が入山される以前は、山岳修験者が身延山・七面山の山々を賊渉 し、寺平の長福寺を拠点としていたと傳えている。 現在お塔林と呼ばれる一画から古代瓦の破片が少数ながら見つかる事から、真言宗の長福寺が建っていたとも考え られ、﹁寺院の有った平地﹂ということで﹁寺平﹂の地名が生れたと云う。然し寺院が建立されていたか否か、これ ︵﹁身延鑑﹂も傳説として記す︶ を証する文献は全く無い。﹁身延山図経﹂を披見しても﹁寺平﹂・﹁お塔林﹂の地名は記されてはいない。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ − 7 4 −
につせい 身延山第三十二世智寂院日省上人は、飯高檀林二十一世玄義能化・同痒二十世文句能化を勤められ、他にも京都山 科檀林、常陸水戸談所の文句能化を歴任された碩学徳行の師であった。 かわち さて正徳三年︵一七一三︶は近来稀な大旱魅で、甲斐国河内地方の農民は大変な辛苦であった。既に智寂省師は宝 永元年︵一七○四︶十月に本山を退蔵され、身延山東谷に智寂坊を創して穏居されていた。しかし、大旱魅と農民の 窮状をみかねた日省上人は、本山の庭前で雨請祈祷を修することを決意され、身延山近隣の地方へ布告傳達して農民 しかし祈雨修法を行うも炎熱日照りは愈々強く、祈雨の修法は無為に終るかに思えた。参詣諸人・多くの農民は雨 請いの効験が顕われないのを見て潮笑と罵倒の声が庭前に充満していった。然るに智寂省師は悠然と修法を終って祭 壇を下りて控え室に入られた。その降壇するや、忽ち黒雲が天を覆い猛雨が盆を返す勢いで降り注いだ。今まで罵倒 潮笑していた諸人は濡れ鼠となりながら、日省上人の法力を賞賛したと云うことである。 ◇付記 佃﹁身延山史年表﹄︵久遠寺刊︶の正徳三年・延山第三四世見竜院日裕上人の條に﹁夏、旱紘田園枯死す、智寂日省老躯修法し て慈雨を降らせ法力を顕すという﹂と見える。 ②佃正徳三年六月五日、延山第三四世睨座に見竜日裕師が小湊誕生寺から晋山されたが、晋山間もない夏の大旱魅、そこで智寂 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ を集められた。
神人傳説智寂日省上人の雨請
◇付記 ⑪﹃本化別頭仏祖統紀﹄巻十一・中老十八刹開祖列傳中の﹁甲州安国山立正寺開山日法上人傳﹂の一節を参照しておこう。 タリ ヲモスルヲ テ ヲ
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リテレハヲク
﹁師性得二彫刻之巧一而以レ廃二道行一誓不レ取レ刀身延澗畔偶々見二異光一夜夜以爾師就覗レ之檜樹百尺直幹凌レ雲師以爲霊材也吾師百 中老僧和泉阿闇梨日法上人は﹁彫刻日法﹂と呼称されて、彫刻家として名を成していた。しかし日蓮聖人の教化に 浴し師事してからは、修行の妨げになるとして彫刻を止めて専心に唱題受持に精進された。 或る日、日法上人は身延川の辺りを行脚していた。すると僅僅と輝く霊光の有るを不思議に思い、その光源を求め て山路を登り行くと、老樹の茂る合間から明珠に包まれた檜の大樹を見い出した。上人は不思議な檜の大樹を見て、 これは仏天が己れに授けてくれた霊木なりと感得、﹁この霊木で宗祖大聖人の御在世のお姿を尊像として遣し置いた ならば後人も宗祖の尊容を拝する事が出来よう﹂として、早々に宗祖に嘆願して樵夫を傭い、霊木を切り倒し、一刀 三礼の儀式に則り、唱題しながら鑿を握ること三ケ年間、三躰の尊像を彫りあげた。尊像は柔和のなかに威を備え、 生身の宗祖と異なるところがなかった。宗祖も感服されて御身から点眼の式を挙げられたと云う。三躰の㈲は身延山 棲神閣祖師堂に曽て奉安さる・㈲は長榮山池上本門寺大堂に奉安され、現に重要文化財に指定ざる。㈲は長興山比企 谷妙本寺祖師堂に奉安され、特に寿像の御尊像と称せられて一木三躰中の第一秀作ときれている。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ 省師は齢七十六の老躯の身ながら英断をもって祈雨修法の労をとられたと思われる。神人傳説一木三躰の祖師像
− 7 6 −古来、狐は稲荷神の使い姫と信じられ、稲荷信仰と狐とが結びついた傳説は全国各地に傳えられている。 いつの頃か、西谷檀林に若くて秀麗な学問僧が居た。盛夏の昼ざがり、檀林学僧達の午睡の時間、檀林能化が学寮 点検のために廊下を歩きつつ、不図彼の学問僧の部屋を覗き見ると、何と驚いたことに大きな古狐が寝ていた。 後刻、能化に呼ばれた古狐の学問僧は、繊悔しながら次の様に述べた。﹁法華経を学びたい一心で若僧に化けて入 檀しましたが、昼寝中に不覚にも本性を現わしてしまいました。もう檀林に居ることは叶いませんが、就ては今まで の御教導にあずかった事への感謝をこめて、釈尊が法華経を御説きになった有様を再現して御覧に入れましょう。但 し畜生のする事ですから、決して有難いと思い合掌して拝まないように、若し合掌し拝まれると畜生の術が破れ消え てしまいます﹂と。 トステ ーー 珍高祖見二之置レ傍⋮⋮﹂。 ノ
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ニシテ ニシテセル ノニ シテン 卜ナラン 、ンニ 年之後必遣二以像一其柔和有し威卑謙具レ相弗二子庸工之所ロ及吾絶刀再起爲二万世福田一可乎乃告二高祖一高祖聴二許之一師調ニ ヲシテ
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タリシヲソ
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陀羅尼一加レ之兇レ之伐而造レ材成二等身像三躯一慈眼威容傳神僚然高祖自修二点眼一命措二子身延長興長栄三山一師復取二残木一刻し之自 ②右の﹁別頭統紀﹂中に﹁師復タ残木ヲ取テ之ヲ刻シ自ラ珍トス﹂とある事から、身延・池上・比企谷の三躰尊像の他に、本山・ 由緒寺院︵駿河岡宮光長寺・京都妙顕寺・駿州北山本門寺⋮等々︶に日法作と傳える祖師像が奉安されている。池上本門寺祖師 像に関しては、大正十四年︵一九二五︶の調査で尊像胎内中から経筒が発見され﹁弘安五年壬午十月十三日巳刻御遷大別当大国 阿闇梨日朗大施主散位大仲臣宗仲大施主清原氏女﹂と刻字が有り、坐像膝裏には﹁正応元年六月八日侍従公日浄蓮華阿闇梨日持﹂ の署名が見られる。正応元年は宗祖七回忌に当り、当年に日法作尊像が奉祀されたことが解る。 動物傳説柿の葉の書籍︵所在⋮身延山中谷円台坊︶ 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶◇付記 柿の葉書籍の傳説は、往時の檀林学徒の生活を傳えんが為に江戸期の風俗文学のロマン風潮を反映して作為されたものであろう。 身延山には学問僧と狐狸の類との関係傳説︵大蓮坊の狸と若僧・学徒とあくび沢の魔︶が残されているが、いずれも学徒の生活 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ その夜、檀林生一同が中庭に集められた。月光の照す中で若僧姿の古狐は呪文を称え始めた。すると檀林生の眼前 に映画の如くに古代インドの有様が写し出された。釈尊の説かれる法華経の説相が美事に展開していった。序品・方 便品・譽嶮品・信解品⋮⋮と、やがて見宝塔に至って、輝くばかりの大宝塔が虚空に現出し、釈迦多宝二仏、十方分 身の諸仏が集会し、やがて宝塔の扉が開かれた。その壮厳な虚空会の有様に見惚れていた檀林学徒達は、思わず宝塔 に向って伏し拝み合掌して題目を唱えた。瞬間、写し出されていた釈尊も霊鷲山も宝塔もすべて消え去り、月の光だ けが西谷の山々を照らしているだけであった。その後、古狐は姿を見せることはなかった。 後日、狐の居た部屋を掃除整理すると、部屋の棚に積まれていた書籍は、驚いたことに全て柿の葉であった。柿の 葉に経文と教説を書きつけ書物と化していたのである。この﹁柿の葉書籍﹂は明治七年︵一八七四︶西谷檀林の廃檀 に至るまで保存されていたと傳えられ、彼の学問僧の古狐は、現に中谷円台坊境内に﹁寿量院文殊稲荷﹂として祭祀 されている。 を語り傳えようとしている。 − 7 8 −
養珠院お万さまと云えば、徳川家康の側室で、家康の第十子長福丸︵後の紀州徳川頼宣︶・第十一子鶴千代︵後の 水戸徳川頼房︶の生母と知られている。法華経の篤信者で、特に身延第二十二世心性院日遠上人に深く帰依をされた。 慶長十三年︵一六○八︶の暮、日遠上人が駿州阿倍河原で礫刑に処せられんとした時、お万さまは﹁遠公ハ吾ガ本師 ナリ。本師刑二就カバ吾モ亦死ヲ致サン﹂と、家康に対して身を以て助命歎願をした程である。 心性院日遠師は、慶長法難に際して刑を免れたとは云え、﹁刑余ノ身ニテ睨座ニアルハ宗祖ノ御霊ヲ冒涜スルモノ ナリ﹂として、退蔵されて大野邑に隠棲された。そして隠棲されてからは、折々に近辺を散策、時には歩を延ばして しぐれさわ 時雨沢の滝を訪れて、一首詠じ残している。
山川のたきつせよりも勢は
なみ 流れて早き老の浪なり 養珠院お万さまは、再三、身延山にお詣りをされ、一ケ月から五十日位い滞留されるのが常であった。そして心性 遠師の足跡を慕い、自らも時雨沢を訪れて 來て見れば、袖に涙のしぐれ沢 なき遠き日のあと婬思へば ︵無︶ と詠い、亡き日遠上人の高徳を慕われたと傳えられている。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ 人物傳説しぐれ沢の法塔︵所在⋮身延町大島和田︶◇付記 側信仰婦人養珠夫人の小傳については巷間多く見られるが、確かな記録としては徳川幕府公用記録﹃徳川実紀﹄に所収される ﹁大猷院殿御実紀﹂と﹁嚴有院殿御実紀﹂であろう。また六牙日潮撰﹃本化別頭仏祖統紀﹄二十五巻優婆夷巻も参考となる。 ②夫人の小傳に関し、此処では、夫人の生前中慶長十九年、西谷草庵域内に建塔した墓碑四面の刻銘︵延山二十一世寂照院日乾 身延山の口碑傳承に関しては、先に紹介したものの他に数多傳承されている事は云うまでもない。さて幾つかの傳 説を紹介することで、およそ傳説の特色を次の様にまとめ結論することが許されよう。 ㈲傳説は具体的な事物・事象と結びついて傳承されていること。つまり傳説の中で語られた岩石・樹木・清泉・場 所などは、肉眼で確認できる記念物として残っている事。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ 養珠夫人の詠は、寛政十年︵一七九八︶大野山本遠寺二十世遠覚院︵湛長︶日堅上人によって時雨沢に宝塔︵正面 題目・側面に詠︶として建立され現在に至る。 ﹁征夷大将軍前左大臣従一位源朝臣家康公御息宰相権中将頼宣権少将頼房公之母公源持氏六代喬蔭山長州利広息女蓮華院日心寄 財於諸僧令転経王都一万部功就願成更起立石廟於祖跡延山命老衲日乾銘志趣手其傍云妙典盛徳仏雛説窮□口一字其徳猶隆四生六 道但証空中慶長十九甲寅二︵三︶月日誌之﹂ 右の墓碑銘は風蝕剥落が甚だしく判読が困難である。 上人撰︶を韓載しておこう。 ③夫人の小傳に関し、此処︽
余録l傳説考I
− 8 0 −伺傳説は常に歴史化・合理化される宿命を内蔵している。古代から中世へ、更に近世へと人知が発達していくと、 古い傳承の中から、或る人にとって此は信じたいとする事柄について、許されるかぎり改造し、人々に信じされ易い 内容に改作していく。こうして傳説が合理化され、歴史と結びつけて語られていく。そして記録の備わった史実と結 びついて、合理的内容の傳説へと形を変えていくが、こうした傳説は民俗的な要素と面白味に欠ける。 側傳説には一定の表現形式が無い。昔話は語りの面白味が大事で、語るべき言葉、語るべき順序が決まっている。 傳説は傳承される時は伸縮自在、語る時は長短自由であるから、表現の仕方の如何によっては文芸化される事もある。 また傳承話者によっては、幾通りにも表現方法を変えることが出来るのは、相手に信じてもらえるという暗黙の領解 口傳説はその地域︵身延山︶の人々から傳承されている内容が或る程度は信じられている事。 昔話は﹁昔は□□であったそうだ︵なこと表現して、話者は話題の事柄の真偽について責任を負わない。しかし 傳説傳承者に向って﹁そんな事は嘘だろう﹂と否定しようものなら忽ち怒られてしまう。つまり昔話は語る者・聴く 者.共に話題の内容を全て事実とは思っていないが、傳説はその地域の人々にとっては或る程度は信じられているの 域へ移して語る事はできない。 地域︵身延山︶の特定の岩石 また傳承話者によっては、 が働いているからである。 である。 昔話は﹁昔々、或るところ⋮⋮﹂と抽象的な形式で語られて、日本全国どこにでも適用ができる。然し傳説はその 域︵身延山︶の特定の岩石・樹木・場所・人物など、具体的な事物と結びついているので、その傳承内容を他の地 固傳説の研究には民俗学的方法が基にならねばならない。具体的に云えば個有名詞と年次は取り去ることである。 身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶
身延山の﹁傳説﹂考︵町田︶ 身延山の傳説には、歴史上の個有人物名と年代が付記されているものが有るが、傳説として語る時の場合は、個有 名詞と年代は取り去るべきである。即ち、傳説に登場する個有人物名と年次などは、後世の合理化と歴史化へと改作 される過程で付加されたものが多いからである。従って傳説の研究は、出来うるかぎり傳説誕生の初期の状況を考察 することが大事となろう。 ︵平成十年八月五日記︶ 参考文献I拙稿に参照使用した史料と文献を挙げておく。 仙六牙日潮撰﹃本化別頭仏祖統紀﹄︵昭和四八年十一月・本満寺刊本︶。②身延文庫蔵﹃身延山諸堂記﹄︵昭和五九年三月・棲神 五六号翻刻所収︶。側身延文庫蔵﹃身延山歴代略譜﹄︵昭和五五・五六年・棲神五二・五三号翻刻所収︶。側身延山大学図書館蔵 ﹃身延山図経﹄︵﹁延嶽図経﹂三巻︶。⑤立正大学図書館蔵﹃身延鑑﹄︵久遠寺編﹁身延鑑﹂昭和四一年十一月刊本︶。⑥身延山大 学仏教文化研究所編﹁身延山史年表﹄︵昭和六○年五月久遠寺刊︶。例身延町誌編纂委員会﹃身延町誌﹄︵昭和四五年二月・身延 町役場刊︶。⑧田中海珠編﹃身延山案内記﹄︵大正五年五月・小伝馬町身延別院刊︶。⑨日蓮宗刊﹃日蓮宗事典﹄︵昭和五六年十月 刊︶。側池上本門寺刊﹁日蓮宗寺院大鑑﹂︵昭和五六年一月・宗務院︶。⑪町田是正﹁身延山秘話外史﹄︵平成二年十二月・延寿坊 刊︶。⑫町田是正﹁身延山墓碑史考﹄︵昭和五○年二月・棲神四八号所収︶。⑬みのぶ編集室編﹃身延の枝折﹄︵昭和四八年一月・ 久遠寺刊︶。側柳田国男監修﹃民俗学辞典﹄︵昭和二六年一月・東京堂刊︶。⑮今村是龍﹃身延の傳説﹄︵昭和六年五月・身延教報 社刊︶。本山会編著中野裕道﹁日蓮宗の本山めぐり﹄︵昭和四六年静岡市沓谷蓮永寺内本山会事務局︶ − 8 2 −