著者
遠藤 祥雄
著者別名
Sachio Endo
雑誌名
dialogos
号
4
ページ
53-66
発行年
2004-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005016/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaドラえもん的コミュニケーション
遠 藤 祥 雄
(1)現代学生と『ドラえもん』 藤子・F・不二雄作『ドラえもん」の主人公、ドラえもんの名前の由来を 尋ねると、大多数の学生が「どら焼きが好きだから」と答える。「ドラえも ん」のドラはどら(=のら)猫の「どら」であり、「えもん」は漢字では衛 門であって衛兵を意味し、だからこそドラえもんは野比のび太を護衛するの だ、と推測する・者は皆無といってよい。また、のび太のガールフレンド「源 静香」が静御前に通じることは何とか理解できても、痩せ男「骨川スネ夫」 の名前が、骨皮筋衛門に由来することなど思いも及ぼない。阿部幸兵衛や河 井惣太の擬人名詞の可笑しさは遠い昔の話であり、のび太の祖先「のび作」 が登場しても田吾作は連想できない、というのが今の学生たちの日本語感覚 なのである。 「昼寝の最中にネヅミに耳をかじられ、鏡に映った己の醜い姿 が まを見て脂汗を流して青ざめた」というドラえもんの色の秘密と、蝦墓の油売 りの口上を重ねる必要はないとしても、野比のび太という名前に「のびのび」 ということばを響かせた作者の意図に気づかないようでは、学生たちと作者 世代との言語的コミュニケーションのずれは大きい、と言わざるを得ない のである。 テレビや劇画やストーリー漫画などの映像的情報洪水の中で育った現代の 学生たちは、映像的情報の処理には慣れてはいるが言語的・象徴的な情報処 理となるととたんに困惑してしまう。見ることに慣れてはいても、読むとい う主体的行為は億劫なことだと思えるらしい。読むという行為に比べると、 見るということは主体性を欠いた受け身な行為であり、そこに現代的な問題 が生じる原因があるように思えるのである。(2)『ドラえもん』の非言語コミュニケーション では、漫画『ドラえもん』はどのような非言語コミュニケーション的効果 を狙っているのだろうか,漫画「ドラえもん』は分類からいえばストーリー 漫画であり小学生を対象として企画されたこともあって、赤塚不二雄のよう なギャグ漫画とは対照的にリアリティー性の高い人物描写が用いられている, これは読者への感情移入を容易にするための技法といえるが、「おばけのQ 太郎』「パーまん』の時代から柔らかな「円」を多用してきた藤子・F・不二 雄は、カラーでスタートしたこの作品においても、細い線の円を使ってリア リティー性の高いキャラクターを描いている。四角く仕切られたコマ(小間) の中では、円が強調されるという効果がある。日の丸の旗がよく目立つのは、 旗の四角が中の円を強調しているからなのだ。パッケージ・デザインの傑作 といわれる煙草「ラッキー・ストライク」が目立つのも、やはり四角の中の 円だからである。藤子は丸みを帯びた登場人物の中に、四角(口)を基本と したジャイアンと三角(▽)を基本としたスネ夫を登場させることによって、 3人の主人公の性格付けをステレオ・タイプ化しているのである。では、○ や▽や口と、その人物の性格付けがどのように関連しているのか。ドラえもん・ のび太・スネ夫・ジャイアンが描かれる線の形と性格について考えてみよう。 1.ドラえもん 人は球形のものに心を魅かれる。赤子がはじめて母親を認識したときの 形は、手と唇に触れた丸い乳房である。赤ん坊にとって母親の乳房は愛惜 であり命であり、最も親和力のある図形なのである。このため円からは、 無限の暖かさと保護というイメージが感じられる。密教の曼茶羅やキリス ト教のイコンが円で描かれているように、円は人間の根源的な愛の形でも あるのだ。 手や顔が円で描かれるドラえもんは、クレッチマーの性格分類からいえ ば、親しみやすく棘(角)のない「躁響気質」である。彼は躁状態では、
社交的で親切で善良で暖かい 自分を腹の中まで曝け出し、屈託がなく怒 っても根に持つことがない 陽気で生き生きとしていて活動的であるL人 前で騒ぐのが好きなのも躁鯵質の人間だ 2.骨川スネ夫 世界に遊ぶ傾向があり、 ときに辛らつな皮肉を浴びせたり残忍性を覗かせる。スネ夫は互いに相反 する感情を同時に備えた三角形人間なのだ。エゴイズムを剥き出しにして 嫌われ、底の知れない冷たさを感じさせる、それが不安定でとげとげしい ▽の持つ性質であり、分裂質のスネ夫の特徴なのである。 自己顕示欲が強く目立ちたがり屋の骨川スネ夫は「ヒステリー性格」で もある。彼は人の気を引くために、見栄を張り背伸びをする。頭の回転が 速く芝居がかっていて、嘘や作り話が上手い。いつも自分が話題の中心に いなければ気が済まない。‘1,my, me’を多発する。暗示されやすく、すぐ その気になる。身勝手でわがまま。嫉妬深く気が変わりやすい。感情にむ スネ夫は、藤子には珍しく▽を基本として描かれてい る・三角形は方向性が明確で活動的だが安定感を欠き、た えず緊張している 知的ではるが、物悲しく憂轡である. 逆三角形の顔をした骨皮スネ夫は、孤独を愛し臆病で外 の世界への適応性に欠けている.歌や映画を好み夢想の どこかロマンチックな雰囲気を漂わせているが、 らがあり、泣いたり笑ったりする。 子供っぼくわがままで、何でも自分 勝手にやる。物事を誇張し、大きな 嘘を平気でつく。お調子者で、自分 の気分のよいときには快活で面白い ことを言うが、思うようにならない 状況ではふさぎ込む。皮肉をいい、
辛らつな悪口をいう.被暗示的で、外からの影響を受けやすい。 3.ジャイアン(剛田武) ガキ大将ジャイアンを描く線は、口を基本としているようだ。四角には 単調だが正直な職人的イメージがある.英語のsquareに も「《俗/古風・軽蔑的》古くさい人、堅苦しい人、ま じめ人間、しゃくし定規な人、堅物、石頭;素朴な人」 という意昧があり、四角四面な人間がイメージされやす い。たしかに四角は腰が据わって安定しているがバラン スに敏感で、少し傾ければ三角に類似した不安定さを表わしてしまう。ど っしりと構えたジャイアンも、やはり子供なのだ。 てんかん質のジャイアンは、几帳面で堅く態勲である。義理堅く秩序を 重んじ、融通が利かない。「粘着質」とも呼ばれるように、粘り強いが、外 からの刺激に鈍感で、精神的テンポが遅く短気で激しやすく、いつまでも 怒りが治まらない。ボクサーやプロ・レスラーに多いタイプなのだ。 ジャイアンこと剛田武は「パラノイア(偏執質)性格」だ。彼は、はな はだ強気で負けず嫌いである。常に活動的で積極的で、固い信念を持ち、 自分に自信があり「自分はこう思う」「自 分はこうする」など、自分を押し出す傾 向がある。利己的で欲が深く、他人を疑 う。頑固で頭が固く、自分勝手な解釈を する。 4.野比のび太 一方の主人公・のび太は、丸顔の躁穆気質として描か れている。彼はよく泣きよく笑い、感情がいつもはっき りしている。他人の意見や感情に共感し共鳴しやすく、
気立てがよくて冷たさや刺々しさしさがない。テンポが速く考えがどんど ん進み深くはないが広範囲に跨がるが、これが欝状態では緩慢に進む。自 己の感情や行為の抑制作用が低く、物事を深く考えないで、表面的に受け 取る傾向が強い。ひとりよがりで享楽的傾向がある(飲食や色事に関心が 強い)。うぬぼれが強く反省力が不足している。 のび太は、小さなことで心配し、くよくよ悩んで自分を責める「神経質 性格」でもある。他人の目を必要以上に気にし、劣等感が強く怖がりで意 志が弱い.不安感をいつも抱いているので、ストレスが多く自己嫌悪に陥 りやすい。絶えず人に気を使い、言うべきことが言えない。 (3)ステレオ・タイプの現実化 ドラえもんは短足で頭でっかちの二頭 身である。顔は丸くネコ型ロボットだか ら眉毛はない。そこでドラえもんは、上 瞼の上下の動きと黒目の大小と口の形で 感情が表現される。その目は人間に比べ ると白目が大きく、視線の方向性や感情 が明確に表現されている。のび太をはじ めとした登場人物の多くがメガネをかけているか極端に目が大きいのも、枠 の規制によって大きさに制限がある顔の表情を、メガネや大きな目を使って 感情を表わす必要があるからなのである。鼻は、ドラえもんとジャイアン以 外は、どの登場人物の場合も貧弱で表現力に欠けている。鼻は自己主張の強 い部位だが、子供にはまだ強烈な自我は成立している筈がないからである。 また、この4人の頭髪の描かれ方も、気質分類とその気質に属する人間の 典型的な発毛状態に則した形で描き分けられている。剛髪直毛で毛の量も多 いスネ夫の頭髪に対し、躁穆気質のドラえもんには頭髪といえるものはなく、 ジャイァンは短いスポーツ刈りである。
漫画や劇画にはコマ割りという制約があり、コマの枠の大きさや色にも限 界がある。このため、絵はドラえもんの顔のような簡潔化による記号化が不 可欠なのだ。このため『ドラえもん』に限らず全ての漫画は、怒りや悲し み・驚きといった感情表現がステレオ・タイプで表現される。感情の流れの 一瞬を切り取って見せる、歌舞伎で見得を切って動きを瞬間固定するのに似 ているといえよう。人間の感情は幾つかの固定した類型にきちんと納まる筈 はないが、漫画の場合にはいくら吹き出しによってことばを添えても、その 語数が制約されているため、「行間を読む」といった曖昧さを排して単純化・ 類型化せざるをえないのである。 こうした類型化された人物像が、動画を見ることによってリアリティを持 った形で記憶される。映像を受け止める右脳は感性的な脳であり、非論理的 であって疑うことを知らないのだ。学生たちの「私って○○な人なのよネ」 という割り切った表現は、血液型や気質分類のような典型化されたモデルに 自らを当てはめた「私」であり、のび太やスネ夫に並列する私であって、画 面のこちら側にいる「私」、つまり言語化が難しい客観的・象徴的な私では ないのである。 (4)映像的処理の問題点 漫画は通常コマ(小間)に書き分けられている。コマとコマの切れ目の空 間は読む側の人間が想像して補うのである。それをどう補うかは読者次第で ある。これを主体的補充というが、動画の場合はコマとコマの切れ目を製作 者の側が補足してくれる。読者である「私」は、ただ座って与えられた映像 を受け取っていればいいのである。 20年ほど前に、漫画本と同じ漫画のアニメーションではどちらが好きかを 聞くと、圧倒的多数の学生が漫画本と答えていた。だが最近この傾向は変化 しつつあり、過半数の学生が「アニメーション」と答えるようになったのだ。 これはどういうことなのか。
小説の場合、登場人物の顔や体つきに関する情報は文字による情報であり、 映像という形で情報が付け加えられる事は僅かでしかない.人によっては挿 絵なども邪魔だと思うだろう,例えば池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読む 「私」は、与えられたことばの情報を頼りに私の主体的な鬼平像を思い描い て行く、本に挿絵が載っていたとしても、私の鬼平像が影響を受けることは まずない。ことばによる情報を手がかりに描いた私の鬼平は、映像的には明 確な輪郭を欠くものの、漠とした形で私の中に確立されているのだ。 池波正太郎は『鬼平犯科帳』を書くに当たって、先代の松本幸四郎(自鴎) をモデルとして思い描いといわれている。昭和44年に「鬼平犯科帳』がテレ ビ化され、当然のこととして白鴎が鬼平を演じた,なるほどとは思うが、白 鴎が演じる鬼平は私の描いていた鬼平とは少し違う。多少の違和感を抱きな がらも、「私」は画面の上で活躍する鬼平を楽しむ.テレビのシリーズを観 つづけるうちにこの違和感は薄らぎ、やがて私の中で白鴎の鬼平が鬼平とし て定着する。昭和50年になると新しい『鬼平犯科帳』シリーズが開始され、 今度は丹波哲郎が鬼平となるが、イメージが合わないという非難が多く、こ のシリーズはこの年で終了してしまう。丹波の顔や体型というよりも、彼の 独特な台詞回しに異論が多かったらしい。本を通して鬼平像を頭に描いた読 者は、台詞を喉の奥で読みながら自分なりの鬼平の声や語り口を作り上げる。 台詞はことばで成り立っているのだからイメージし易いのだ。昭和55年、今 度は萬屋錦之介の『鬼平シリーズ』が開始される。鬼平にしては声が甲高い なと感じながらも、やがて「私」は錦之介の鬼平を受け入れる。次いで平成 元年には中村吉右衛門が登場する。親父さまの鬼平も良かったが、吉右衛門 の軽妙さと温もりも捨てがたい味がある、これは当たり役だと手を打った突 端に、私の中でテレビの鬼平の声や風貌が定着し、鬼平=中村吉右衛門とう イメージが刷り込まれてしまう。 映像を通して刷り込まれた人物像に対して、視聴者はいつも浮気で節度を 欠いているのだ。はじめに馴染んだ筈の人物像は、次に示された人物像によ
ってもろくも崩れてしまい、新しいイメージに取って代わられる。本を通し て少しずつ形成された私の鬼平は、行間を読むという主体的補充によって根 付いていったものであり、その風貌にも人柄にも揺るぎはない。テレビ画面 に登場する鬼平は、その風貌や声や背景といった情報を瞬時に押し付けてく る。そこには私が介入する余地などありはしないし、原作を読んだことのない 観客にとっては、役者が演じる鬼平を鬼平として受け入れるだけなのである. 次に掲げた長尾みのる氏の作品を見て欲しい。なんともユーモアに溢れた 一コマ漫画ではある。潜水艦の中で潜望鏡を覗く人間と、その潜望鏡を海の 上から覗きこむ人間.この面白味を文章で表わすことは難しい。確かに絵画 的伝達手段は一瞬にして総体 を示す点ではことばを凌ぐと いえる。だが論理的・分析的 な情報伝達ということに関し ては、大きな欠点を抱えてい るのである。本来、漫画やテ レビなど全ての映像がそうで あるように、映像が担ってい るコミュニケーションの役割は、ことばによるコミュニケーションとは扱う 分野を異にしているのである。写実的な絵画や映画とも違って、漫画や劇画 は極端な省略やデフォルメーションという技法を使って読者の感性に訴えか ける。幼稚園児が描く母親像もまた、漫画のようにデフォメルされた頭でっ かちな母親像である。実はこれこそ人間の心に映し出されている実像なのか も知れないのだ。未来の世界から来たロボットである2頭身のドラえもんに 対し、他の登場人物は4頭身。少女漫画やビンク漫画に登場する「可愛い子 ちゃん」は最低でも5頭身であり、胸や尻の大きさの割には頭は小さめに描 かれる。彼女たちに求められるのは知性ではなく、性の対象としてしかイメ ージされていないのである。
白いドレスを着た女性に赤い照明を当てた場合、写真に映し出された映像 のドレスはピンク色に染まっている。ところが人間の目はビンクに染まった ドレスの色を修正し、白は白として認識する。これを色の恒常というが、同 時に人間の目は「だまし絵」などに簡単に誤魔化されてしまう脆さも共有し ているである。 絵は総体を瞬時に伝達するといったが、実は人間の目は総体を一瞬にして 捕捉することができない。「木を見て山を見ず」というのが人間の目の習性 なのだ。人間の目は見るためには止まる、止まらなければ見えないのである。 山を見るためには木を見て尾根を見て、また木を見て一部は見ることを省く。 転々と目を移動させ、目を止めることによってはじめて山全体が見えるので ある。当然これは一瞬のうちに行われる。ある人物の写真を示された場合、 その全体像よりもその一部、例えば異常に濃い眉であるとか膨らんだ胸しか 記憶にないことがあるが、これは目が止まった部分、つまり目が何処に惹か れ長く留まったかの証だともいるのだ。では、こうした目の習性が物の見方 にどのような影響を与えるのか。 (5)自分の目を失った日本人 テレビも漫画も四角い枠で切り取った映像しか示さない。枠の外の広がり はテレビや漫画の関知しない世界なのだ。サダム・フセインの銅像を引き摺 り下ろす群集にカメラは焦点を合わせるが、その周りの風景が映されること はない。そこには拍手を送るものもいれば、冷ややかに見詰める者がいるか も知れないのだ。テレビを見る側の人間は、制作する側の意図する視線でし かこの場面を見ることができないのだ。 この春、あるイタリア人旅行業者と会食する機会があった。話の中で彼は 黒い髪をなでながら、どうして日本人旅行者は自分の目で美しい教会や遺跡 を確かめようとしないのか、と尋ねた。日本人旅行者は名所旧跡を団体バス で巡り、バスを降りるとカメラで一斉に教会や遺跡を嘗め回し、記念写真の
撮影を終えるとお土産物店に押しかけて風のように去って行く、というので ある。 バスの四角い窓の外を流れて行く風景を椅子に座って眺める,カメラの四 角いファインダーを通して教会や遺跡を捉える。日本人旅行者たちは対象を 四角い枠の中に切り取ることに忙しいのだ 誰も自分の足で歩き、自分の裸 の目で対象を見詰めようとはしないのである,以前テレビや映画で見た風景 が、窓の向こうに流れて行くのを確認して、「あア、この景色見たことがあ る!」と感嘆する。次にその風景をカメラに収め、帰宅して再度これを確か める。観光旅行は「光(文化)感じる」という知的な感動ではなく、以前に 見た映像の記憶確認の旅と化しているのである。もしかすると、われわれ日 本人は、自分の目で見るという主体的で知的な行為を失いつつあるのかも知 れないのである。 現在、「テレビ・映画・ストーリー漫画」を好む学生が、「本・雑誌・ギャ グ漫画・ラジオ」派の学生数を圧倒していて、漫画本で力量を発揮した赤塚 不二夫は過去の人となりつつある。彼らは「行間を読む」どころか、漫画の コマとコマの間を想像することさえ面倒だと思っているのかも知れない。『サ ザエさん』などの4コマ漫画で育った世代は、漫画を読むといった。しかし 劇画やストーリー漫画の世代の学生たちは、漫画を読むのではなく見ている のである。漫画には絵(ニビジュアル)と吹き出し(=台詞二テクスト)が 併用されている。つまり映像による情報と文字による情報が、拮抗した形で 与えられるが、映像世代の若者たちはこの文字情報を映像的に読んでいると いえるのだ。ここには明らかに二つの異なった情報処理の仕方が存在してい る。見るという処理と読むという処理の違い、つまり映像による情報を好む か、言語による情報を好むかという違いである。 テレビなどの映像情報の世界は、活動的で空想的でかつ性的な描写に向い ていて、全般的に感性的(右脳処理的)である。暴力団と刑事たちとの殺伐 とした乱闘シーンなどは、映像メディァの独壇場なのだ。ここでは、ことば
を必要とはしないし、ことばでは表現困難な世界でもあるのである。遠藤太 津朗・八名信夫・山本昌平といった悪役に対し、渡哲也・神田正輝・三浦友 和といった刑事が立ち向かう、単純化されたステレオ・タイプの世界でもあ る。善か悪か強いか弱いか、分類に戸惑いを感じることはない、強いジャイ アンに弱いのび太、そしてお助けマンのドラえもんという図式が固定してい て考える余地などありはしない.そこには、小説などのことばの世界で感じ るためらいや不確実性がなく、具体的で強い現実性を感じさせる世界であり、 疑う心とことばを欠いた柔軟性のない世界なのである。 読むという行為には多少とも時間がかかるが、映像は瞬間の速さで情報を 伝達する。このため道路標識や野外の看板などの漢字は、読むというよりは 見せているのである。鉄道沿線の看板に絵と文の組み合わせが多いのも、一 定の情報量を短時間で伝達するという効率が求められる看板には、視認性が 高く人の目を引きつける誘目性と記憶されやすい印象性が不可欠だからなの だ。文盲率が高かった江戸時代、江戸の町は絵看板で華やかだったというが、 全てにスピード化と効率化が求められる現代も、絵や写真やイラストレーシ ョンの復権が求められているのである。 (6)ことばを欠いた世代 携帯電話のメールの場合には、当然のこと ながら文字による情報の交換が行われる。だ が、友人とのメールによる連絡や恋人との交 信の画面では、文字を圧倒する形で「(・。・) オハヨ♪テストの結果に\(。・o◎)/デース。 汗(・。・。;;」のような「顔文字」が使われて いる。 学生たちにとってのメールはことばによる情報交換ではなく、映像による 交信なのである。カメラつき携帯が急速に普及した原因も、ことばを欠いた
世代の若者たちが、情報交換の媒介としての映像を求めたからなのだろう、 この映像も、また静止画像よりも動画へと移行しつつあるのだ。また、「… ダウンロードが途中で中絶しちゃって…(汗)、せっかく作ったファイルが 全滅です…(涙.._._)。」というメールの「(汗)」や「(涙)」という文字も、 文字というよりは絵文字のような役割を負っているのだ。こうした絵文字に よる感情の伝達は、共通体験に訴えることはできても、やはり型にはまった 弾力性に欠けた表現力しか持たないのである。 読み・書き・ソロバンというが、「読む」という行為には論理による理解 や推測が含まれるのに対し、「見る」という行為はどちらかといえばソロバ ンや暗算のように映像的・右脳的で、目という器官による動物的な「読み」 が働いている。 友人同士の会話を聞いていても、彼等のことばは断片的で纏まった文章と して成立することが少ない。面接などの文章化が求められる場面においては、 事前に暗記してきた文章を機械的に復唱する。このため、復唱する声が平坦 であるなら顔の表情にも揺れがない。予期していない質問に直面すると人間 らしい自然な声や表情が戻ってくるが、自分の感情や思っていることを言語 化することが出来ない。 「きもい=気持ち悪い」「はずい=恥ずかしい」「うざい=うざったい=う るさい」といった省略語や、「パニる=パニくる=パニック状態になる」「オ ケる=カラオケに行って歌う」「ビニる=コンビニへ行く」といった「省略 語十〈る〉」の型の動詞、「ばり3=携帯電話の受信状態が良好」「ワンコ= ワン切り」「メリクリ=メリー・クリスマス」「マンキ=漫画喫茶」という、 打ち込む語数を節約するための省略語は、歴史の中で生まれては消えて行く 流行語として見ることが出来る。しかし「○○系」「○○的」「○○入って→ (例)キムタク入って=木村拓也に似た」「○○って感じ」「○○っぽい」と いった若者語は、明らかにその背景としてある共通の人物や事物の映像が了 解されていて、共通のイメージを相手と分かち合うことによって、ことばが
相互の信頼関係のバロメーターとなっているのである。 問題となるのは、「きたない」「きしょい(=気色悪い)」「むかつく」など の感覚語による嫌悪感の共有である。ここにあるのは論理ではなく、生理的 嫌悪感を共有しあって相手を無視し除外し攻撃することになる。 「パブる」という語も、脳味噌が泡だっている状態、頭がおかしくなって いる情態を表わす感覚語だが、この語の背景には漫画や劇画の残像がイメー ジされている。「むかつく」「切れる」「パブる」という感覚語は、テレビや 漫画で体験した映像の忠実な模写として体感され、より具体的で現実感を伴 った生理的な嫌悪感や苛立ちへと増幅する。何故むかつくのか切れるのかは、 理屈ではなく生理的なものと感じるのである。このため生理的感覚は共有し あえても、同情や敬慕といった非映像的な感情は共有が困難となってしまう のだ。
おわりに
ドラえもんには耳がない。昼寝の最中にネズミに耳を趨られたためだという。 彼は耳を欠くかわりに目は顔の半分を占めるほど大きい。これはドラえもん という未来のネコ型ロボットが、耳(=ことばの世界)よりも視覚の世界に 偏していることを象徴している。ドラえもん世代の学生たちも、プロジェク ター等の映像を使って講義を行うと、反応も早く理解できるのだが、プリン トを使っての解説となると、急に無表情となって関心を失って行く。試験が 近づいてもノートをとる学生は極端に少ないのだ。私たちの世代の人間はノ ートを手書きで写したものだが、今の学生は頁をまるごと複写する。これも 言語化と映像化の違いである。 また結婚式場の演出のひとつとして、大きなスクリーンに式の模様を映し 出していることがある。これは参列者からの死角をなくすためでもあるが、 テレビの演出を模したような作為的で派手な画面構成によって、参加者の視 線は雛壇の花婿花嫁よりもスクリーン上の映像へと注がれてしまう。座席によって違った角度から見る花婿花嫁が否定されて、その頭上のスクリーンに 映し出された共通の視線から見た花婿花嫁が強制される 本来は固定した自 分の角度からの視線で花嫁花婿を捉える筈なのだが、つい大画面に引きずら れて提供された既成の映像を受け入れ、それを花嫁花婿の現実として認識し てしまう。 この映像化がどこまで進んで行くのか.また、どこで行き詰まるのか。映 像の時代と犯罪の低年齢化・凶悪化・陰湿化は、どのような関わりがあるの か。ことばに関わる一員として重大な課題との取り組みが求められているの だ。 (参考文献) L 「造形とイメージの心理』現代心理ブックス 藤沢英昭・小笠原登志子 著 大日本図書 2.『視覚のいたづら』 長尾みのる著 ダイアモンド社 3.『視覚の冒険一イリュジョンから認知科学へ』 下條信輔 産業図書 4.『心で見る世界』岩波新書 島崎敏樹 岩波書店 5.『ビジュアルコミュニケーション』 藤沢・滝本・中村・西川著 ダヴィ ツド社 6,「情報の心理学』講談社現代新書 麦島文夫著 講談社