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〈近畿の民俗・文化〉和歌山県橋本市の盆棚

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はじめに 筆者は『民俗文化』三一号において、和歌山県高野町の盆棚について分析を 試 み た〔 藤 井   二 〇 一 九 〕。 筆 者 は 高 野 町 に お け る 調 査 の の ち も、 和 歌 山 県 に おいて盆行事調査を継続している。すでに膨大なデータが集まっているが、紙 数の関係もあるため、本稿では高野町に隣接する和歌山県橋本市の盆棚および 盆 行 事 を 取 り 上 げ る。 現 在 の 橋 本 市 は、 平 成 一 八 年( 二 〇 〇 六 )、 旧 橋 本 市 と 高野口町が合併して誕生した。筆者は、平成二八年(二〇一六)八月を中心に 旧橋本市、平成二九年(二〇一七)八月を中心に旧高野口町において盆調査を お こ な っ た。 旧 橋 本 市 で は 平 野・ 下 し も 兵 ひ ょ う ご 庫 ・ 胡 ご も う 麻 生 ・ 野 の ・ 向 む か 副 そい ・ 清 水、 旧 高 野 口 町 で は 上 か み な か 中 ・ 名 な ぐ ら 倉 ・ 大 野・ 向 む こ う じ ま 島 ・ 伏 ふ し 原 は ら に お い て 調 査 を 実 施 し た )1 ( 。 高 野 町 の場合のように、自治体史などとしての調査ではないため、全集落の悉皆調査 にはなっていない。調査地は、紀ノ川の北岸・南岸、江戸時代の紀伊藩領・高 野領、などにおける地域差を配慮して選定し た )2 ( 。   橋本市の概要   橋本市の地理・歴史 橋 本 市 は、 和 歌 山 県 の 北 東 部 に 位 置 し、 東 は 奈 良 県 五 條 市、 西 は か つ ら ぎ 町、南東は高野町、南西は九度山町、北は大阪府河内長野市と接している。ほ ぼ中央を紀ノ川が西へ流れてい る )3 ( 。紀ノ川流域に平野部が広がり、北部には和 泉山脈、南に紀伊山地へと連なる山が迫っている。平野部は標高一〇〇〜二〇 〇 mの河岸段丘部と、それ以下の低位洪積台地と氾濫原からなっている。 古代には、紀ノ川を通じて大陸の文化が大和へ入る経路にもなり、飛鳥など の 都 に 近 い た め に 中 央 の 文 化 の 影 響 を 強 く 受 け て き た。 律 令 制 が 施 行 さ れ る と、 こ の 地 方 は 紀 伊 国 の 伊 都 郡 と な り、 紀 ノ 川 に 沿 っ て 東 西 に 南 海 道 が 通 っ た。 平 安 時 代 に な る と、 橋 本 市 の 南 側 に 位 置 す る 山 地 に は、 空 海( 弘 法 大 師 ) によって高野山金剛峰寺が開かれた。橋本市域は、高野山への物資供給の拠点 と し て、 ま た、 京 都 な ど か ら の 高 野 参 詣 の 通 路 と し て の 役 割 を 果 た す こ と に なった。 平 安 時 代 に は、 旧 橋 本 市 域 の 東 部 に 隅 す だ 田 荘 のしょう 、 西 部 に 相 お う が 賀 荘 のしょう が 成 立 し た。 いずれの荘園も紀ノ川を挟んで南北に広がっていた。中世前期、隅田荘の領主 は石清水八幡宮、相賀荘の領主は根来寺であったが、鎌倉時代後期ごろになる と、高野山金剛峰寺が「弘法大師御手印縁起」にもとづいて、紀ノ川南岸地域 の領有を強く主張するようになった。そのため、中世後期には、隅田北荘は石 清 水 領、 隅 田 南 荘 は 高 野 山 領、 相 賀 北 荘 は 根 来 寺 領、 相 賀 南 荘 は 高 野 山 領 と なった。旧高野口町のほぼ全域は、当初から高野山を領主とする 官 かんしょう 省 符 ふ 荘 のしょう に属していた。隅田荘・相賀荘と同様に、紀ノ川を隔てて南側の九度山町の平 野部と一体の荘園であった。官省符荘には、高野山上および荘園の事務などを 司る高野政所(現在の九度山町に立地)が置かれていた。高野政所には紀ノ川 の水運を利用して年貢・物資が集積され、高野山上に運ばれる中継点に位置し て い た。 し た が っ て、 官 省 符 荘 は 高 野 山 領 膝 下 荘 園 の 中 で も 中 核 的 な 荘 園 で

和歌山県橋本市の盆棚

 

 

 

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あった。 その後、豊臣秀吉により、高野寺領は大きく削減され、伊都郡・那賀郡の紀 ノ川南岸から有田郡境にかけての地域が寺領として安堵された。徳川家康もそ の所領を安堵し、その後にわずかな加増はあったが、基本的には幕末まで高野 寺領は存続した。したがって、江戸時代の橋本市域では紀ノ川北岸は紀伊藩領 であった。ただし、南岸はすべて高野寺領となったわけではなく、恋野や学文 路などは紀伊藩領とされた。橋本市域で高野寺領となったのは、清水・馬場・ 西畑・東畑・向副・賢堂・横座・中道の八か村で、 河 か ね 根 (現在の九度山町)を 加えて清水組と称した。 一六世紀末には、豊臣秀吉の信任を得た高野山の応其上人によって橋本町が 開かれ、橋本・向副間の紀ノ川に橋が架けられた。橋本という地名は、この橋 に由来するという。この地は、東西の伊勢街道(大和街道)と南北の高野街道 が十字に交わり、紀ノ川の舟運が重なる交通の要衝であったため、江戸時代に は宿場町・市場町として発展した。応其の掛けた橋は三年後に流され、その後 は、江戸時代を通じて、橋本・ 東 と う げ 家 と向副・賢堂・清水の間には渡しが存在し た( 写 真 1)。 京・ 大 坂 方 面 か ら 高 野 山 を 目 指 す 参 詣 者 た ち は、 東 高 野 街 道 を 通って橋本に至り、この渡しを渡って高野山へと登った。 明治時代初期には、現在の橋本市域の高野寺領の村は、いったん堺県・五條 県となった。明治四年(一八七一)には、紀伊藩領の村とともに和歌山県に属 することになった。明治二二年(一八八九)の市制町村制施行により、旧橋本 市 域 に は、 橋 本 町( 橋 本・ 東 家 な ど )・ 隅 す 田 だ 村( 下 兵 庫・ 中 島・ 芋 い も う 生 ・ 平 野・ 山 や ま う ち 内 な ど )・ 恋 こ い 野 の 村( 恋 野・ 彦 ひこ 谷 たに ・ 北 き た や ど り 宿 ・ 南 み な み や ど り 宿 な ど )・ 山 田 村( 山 田・ 野・ 神 こ の の 野 々 ・ 出 で と う 塔 な ど )・ 紀 き 見 み 村( 胡 麻 生 な ど )・ 学 か 文 む ろ 路 村( 学 文 路・ 向 副・ 賢 か し こ ど う 堂 ・ 清 水・ 南 馬 場 な ど ) が 成 立 し、 岸 上 村 は 一 村 で 存 続 し た。 旧 高 野 口 町 域 で は、 名 倉 村( 名 倉・ 大 野 )・ 応 おう 其 ご 村( 名 な ご そ 古 曽 ・ 伏 原・ 小 お だ 田 な ど )・ 信 し の だ 太 村 ( 上 か み な か 中 ・ 下 し も な か 中 ・ 九 く じ ゅ う 重 な ど ) が 成 立 し、 端 場 村 は 一 村 で 存 続 し た。 明 治 四 三 年 (一九一〇) 、名倉村に町制が施行され、高野口町が成立した。 明治以降の鉄道の開通は、橋本市域にさまざまな影響を与えたが、とくに高 野山への参詣ルートは大きく変化することになった。まず整備されたのは、和 歌山市から橋本を経由して奈良県五條方面に至る東西の鉄道であった。 J R 和 歌山線の前身である紀和鉄道は、明治三一年(一八九八)には五條・橋本間が 開通、同三三年(一九〇〇)には和歌山・五條間が全線開通した。名倉駅(現 在の高野口駅)は翌三四年(一九〇一)に開業している。紀和鉄道は明治四〇 年(一九〇七)に国鉄和歌山線となった。これによって、高野口駅は高野山参 詣の玄関口となり、昭和初期に極楽橋・高野山へと鉄道・ケーブルが延伸する まで、高野山への参詣客で賑わった。 一方、大阪から橋本に至る南北の鉄道は、和泉山脈を越える必要があったた め少し遅れて整備された。南海高野線の前身である高野登山鉄道は、大正四年 ( 一 九 一 五 ) に 紀 見 峠 ト ン ネ ル を 完 成 さ せ、 汐 見 橋( 現 在 の 大 阪 市 浪 速 区 ) か ら橋本駅まで開通させた。大正一一年(一九二二)には、南海鉄道高野線とな り、 同 一 三 年 に は 九 度 山 ま で 延 長 さ れ、 同 一 四 年 に は 高 野 下( 九 度 山 町 椎 出 ) ま で 開 通 し た。 そ の 後、 昭 和 四 年( 一 九 二 九 ) に は、 高 野 山 電 気 鉄 道 が 九 度 山・極楽橋間を開通させ、翌五年(一九三〇)には極楽橋・高野山間の鋼索線 ( ケ ー ブ ル ) を 開 通 さ せ て 高 野 山 ま で 鉄 道 で 登 る こ と が で き る よ う に な っ た。 このように、高野山へ向かう鉄道が整備されると、高野参詣客は橋本や高野口 の町で降りることなく、高野山へと登っていくことになった。 そ の 後 の 行 政 区 分 と し て は、 昭 和 二 九 年( 一 九 五 四 )、 隅 田 村・ 恋 野 村 が 合 併 し て 隅 田 村 に な り、 同 三 〇 年( 一 九 五 五 )、 橋 本 町・ 岸 上 村・ 山 田 村・ 紀 見 る 落 合 川 を 境 に し て 奈 良 県 五 條 市 と 接 し て い る。 中 世 に は 隅 田 荘( 北 )、 江 戸 時代は紀伊藩領の集落で、明治二二年には隅田村、昭和三〇年からは隅田町を つけて橋本市の大字となった。落合川沿いに人家が集中し、水田が広がってい る。 山 間 部 で あ り、 住 宅 地 な ど の 開 発 が み ら れ な い た め、 昭 和 初 期 か ら 戸 数 ( 四 七 軒 ) の 増 減 は な い と い う。 平 野 に は 真 言 宗 の 時 光 寺 が あ る。 現 在 は 無 住 であるため、盆などには隅田町山内の寿福寺の僧侶が檀家回りをし、時光寺の 行事をおこなっている。 隅 田 町 下 し も 兵 ひ ょ う ご 庫 は 橋 本 市 域 の 中 央 部 で 紀 ノ 川 北 岸 に 位 置 す る。 中 世 に は 隅 田 荘( 北 )、 江 戸 時 代 は 紀 伊 藩 領 の 集 落 で、 明 治 二 二 年 に は 隅 田 村、 昭 和 三 〇 年 からは隅田町をつけて橋本市の大字となった。紀ノ川近くの平野部(低位段丘 面)を大和街道が通り、街道沿いに人家が立ち並ぶ。周囲は水田が広がってい た。地区の範囲としては平野部から丘陵部まで南北に細長く伸びている。現在 でも国道二四号線・ JR和歌山線が東西に通っている。交通に便利な地区である た め、 現 在 で は 店 舗 や 住 宅 が 増 加 し て い る。 下 兵 庫 に は 真 言 律 宗 の 利 生 護 国 寺、真言宗の地蔵寺がある。地蔵寺は無住のため、盆行事などは利生護国寺の 僧侶が担当している。 胡 ご も う 麻生 は紀ノ川北岸に位置し、中世には相賀荘(北)に属し、江戸時代は紀 伊 藩 領 で あ っ た。 明 治 二 二 年 に は 紀 見 村、 昭 和 三 〇 年 か ら は 橋 本 市 の 大 字 と なった。全体に丘陵部であるが、川や池などを利用して水田や畑が広がってい た。現在ではおもに丘陵部分を大規模に開発し、古くからの集落を取り囲むよ うに住宅地が立ち並んでいる。胡麻生には真言宗の大師寺がある。現在は無住 で あ る た め、 盆 な ど に は 境 原( 小 峰 台 ) の 小 峰 寺 の 僧 侶 が 檀 家 回 り を し て い る。 野 の は紀ノ川北岸に位置し、中世には相賀荘(北)に属し、江戸時代は紀伊藩 村・隅田村・学文路村が合併し、橋本市となる。昭和二七年(一九五二)に応 其村に端場村を編入、同三〇年(一九五五)に高野口町・応其村・信太村が合 併して高野口町となった。平成一八年(二〇〇六)には、橋本市と高野口町が 合併し、現在の橋本市が誕生した。 昭和五〇年代以降、大阪市内へ鉄道で一時間以内という地の利を生かし、旧 橋本市の北部山間部の南海沿線に林間田園都市が開発された。平成一八年(二 〇〇六)には、市域の北部山間部を東西に貫通するように京奈和自動車道が部 分開通した。昭和後期までは、橋本駅・高野口駅周辺および、国道二四号線沿 いを中心に商店などが集まっていた。しかし、近年では、旧橋本市北部山間部 の 住 宅 地 開 発、 京 奈 和 自 動 車 道 お よ び、 そ れ と 連 結 す る 市 内 の 道 路 の 整 備 に よって、市民の間では自動車での移動が中心となり、北部山間部に郊外型の大 型ショッピングセンターなどができ、市内全域の景観が大きく変貌してきてい る。高野参詣客では、鉄道以外に京奈和自動車道を利用して、西高野街道(か つらぎ町)経由で高野山へと登る人が増えているようである。 一 方 で は、 平 成 一 六 年( 二 〇 〇 四 ) に「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と 参 詣 道 」 と し て、 高野山金剛峰寺・丹生都比売神社・慈尊院・丹生官省符神社・町石道がユネス コ の 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ、 平 成 二 八 年( 二 〇 一 六 ) に は、 参 詣 道 と し て 黒 く ろ こ 河 道・ 京 大 坂 道 不 動 坂・ 三 谷 坂・ 女 人 道 が 追 加 登 録 さ れ た。 こ の こ と に よ っ て、 橋本市を含む高野山麓地域では、世界遺産をアピールしつつ、古くからの参詣 道を歩いたり、古道を中心とした歴史と文化を発信する試みが、自治体のみな らず地元の人々の間で活発になっている。   旧橋本市の調査地 隅田町 平 ひ ら の 野 は紀ノ川北岸で橋本市域の東北隅にあたる。和泉山脈から南流す

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る 落 合 川 を 境 に し て 奈 良 県 五 條 市 と 接 し て い る。 中 世 に は 隅 田 荘( 北 )、 江 戸 時代は紀伊藩領の集落で、明治二二年には隅田村、昭和三〇年からは隅田町を つけて橋本市の大字となった。落合川沿いに人家が集中し、水田が広がってい る。 山 間 部 で あ り、 住 宅 地 な ど の 開 発 が み ら れ な い た め、 昭 和 初 期 か ら 戸 数 ( 四 七 軒 ) の 増 減 は な い と い う。 平 野 に は 真 言 宗 の 時 光 寺 が あ る。 現 在 は 無 住 であるため、盆などには隅田町山内の寿福寺の僧侶が檀家回りをし、時光寺の 行事をおこなっている。 隅 田 町 下 し も 兵 ひ ょ う ご 庫 は 橋 本 市 域 の 中 央 部 で 紀 ノ 川 北 岸 に 位 置 す る。 中 世 に は 隅 田 荘( 北 )、 江 戸 時 代 は 紀 伊 藩 領 の 集 落 で、 明 治 二 二 年 に は 隅 田 村、 昭 和 三 〇 年 からは隅田町をつけて橋本市の大字となった。紀ノ川近くの平野部(低位段丘 面)を大和街道が通り、街道沿いに人家が立ち並ぶ。周囲は水田が広がってい た。地区の範囲としては平野部から丘陵部まで南北に細長く伸びている。現在 でも国道二四号線・ JR和歌山線が東西に通っている。交通に便利な地区である た め、 現 在 で は 店 舗 や 住 宅 が 増 加 し て い る。 下 兵 庫 に は 真 言 律 宗 の 利 生 護 国 寺、真言宗の地蔵寺がある。地蔵寺は無住のため、盆行事などは利生護国寺の 僧侶が担当している。 胡 ご も う 麻生 は紀ノ川北岸に位置し、中世には相賀荘(北)に属し、江戸時代は紀 伊 藩 領 で あ っ た。 明 治 二 二 年 に は 紀 見 村、 昭 和 三 〇 年 か ら は 橋 本 市 の 大 字 と なった。全体に丘陵部であるが、川や池などを利用して水田や畑が広がってい た。現在ではおもに丘陵部分を大規模に開発し、古くからの集落を取り囲むよ うに住宅地が立ち並んでいる。胡麻生には真言宗の大師寺がある。現在は無住 で あ る た め、 盆 な ど に は 境 原( 小 峰 台 ) の 小 峰 寺 の 僧 侶 が 檀 家 回 り を し て い る。 野 の は紀ノ川北岸に位置し、中世には相賀荘(北)に属し、江戸時代は紀伊藩 村・隅田村・学文路村が合併し、橋本市となる。昭和二七年(一九五二)に応 其村に端場村を編入、同三〇年(一九五五)に高野口町・応其村・信太村が合 併して高野口町となった。平成一八年(二〇〇六)には、橋本市と高野口町が 合併し、現在の橋本市が誕生した。 昭和五〇年代以降、大阪市内へ鉄道で一時間以内という地の利を生かし、旧 橋本市の北部山間部の南海沿線に林間田園都市が開発された。平成一八年(二 〇〇六)には、市域の北部山間部を東西に貫通するように京奈和自動車道が部 分開通した。昭和後期までは、橋本駅・高野口駅周辺および、国道二四号線沿 いを中心に商店などが集まっていた。しかし、近年では、旧橋本市北部山間部 の 住 宅 地 開 発、 京 奈 和 自 動 車 道 お よ び、 そ れ と 連 結 す る 市 内 の 道 路 の 整 備 に よって、市民の間では自動車での移動が中心となり、北部山間部に郊外型の大 型ショッピングセンターなどができ、市内全域の景観が大きく変貌してきてい る。高野参詣客では、鉄道以外に京奈和自動車道を利用して、西高野街道(か つらぎ町)経由で高野山へと登る人が増えているようである。 一 方 で は、 平 成 一 六 年( 二 〇 〇 四 ) に「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と 参 詣 道 」 と し て、 高野山金剛峰寺・丹生都比売神社・慈尊院・丹生官省符神社・町石道がユネス コ の 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ、 平 成 二 八 年( 二 〇 一 六 ) に は、 参 詣 道 と し て 黒 く ろ こ 河 道・ 京 大 坂 道 不 動 坂・ 三 谷 坂・ 女 人 道 が 追 加 登 録 さ れ た。 こ の こ と に よ っ て、 橋本市を含む高野山麓地域では、世界遺産をアピールしつつ、古くからの参詣 道を歩いたり、古道を中心とした歴史と文化を発信する試みが、自治体のみな らず地元の人々の間で活発になっている。   旧橋本市の調査地 隅田町 平 ひ ら の 野 は紀ノ川北岸で橋本市域の東北隅にあたる。和泉山脈から南流す

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となっている。 名 な ぐ ら 倉 は 高 野 口 町 の 南 部 に 位 置 し 、 東 は 名 古 曽 、 南 は 向 島 、 西 は 大 野 に 接 す る 。 中 世 に は 官 省 符 荘 に 属 し 、 近 世 に は 紀 伊 藩 領 で あ っ た 。 明 治 二 二 年 に は 名 倉 村 、 同 三 四 年 か ら 高 野 口 町 、 平 成 一 八 年 に 橋 本 市 と な っ た 。 高 野 口 駅 の 南 、 国 道 二 四 号 線 の 北 に 位 置 す る 。 人 家 が 密 集 し 、 商 店 街 ・ 住 宅 が 立 ち 並 び 、 旧 高 野 口 町 の 役 場 、 官 公 庁 の 支 所 な ど が 立 地 す る 旧 高 野 口 町 の 中 心 地 と し て 栄 え た 。 名 倉 を 中 心 に し て 、 明 治 時 代 に は 綿 ネ ル 製 造 、 大 正 時 代 以 降 に は シ ー ル 織 な ど の 織 物 製 造 が 盛 ん と な っ た 。 高 野 口 駅 の 南 の 住 宅 街 に 真 言 宗 の 地 蔵 寺 が あ る 。 大 お お の 野 は高野口町の南西端に位置し、東は名倉の市街地、西は嵯峨谷川を挟ん でかつらぎ町、南は紀ノ川を隔てて九度山町に接している。中世には官省符荘 に属し、近世には紀伊藩領であった。明治二二年には名倉村、同三四年から高 野口町、平成一八年に橋本市となった。現在でも織物工場が立地している。西 部には水田が残り、東部は住宅が密集した商工業地帯となっている。真言宗の 大 日 寺 が あ る。 大 野 で は 江 戸 時 代 か ら、 高 野 山 奥 之 院 に 野 菜 を 納 め る「 御 番 」 という行事が続いてきた〔日野西   一九九八〕 。 向 む こ う じ ま 島 は 高 野 口 町 の 南 端 に 位 置 し、 東 は 小 田、 北 は 名 倉・ 大 野、 南 は 紀 ノ 川 を隔てて九度山町と接している。紀ノ川氾濫原で、元来は小田・名倉に属する や せ た 畑 地 で あ っ た。 明 治 三 四 年 の 名 倉 駅 開 設 後、 高 野 参 詣 の 沿 道 と な っ た が、大正一一年に従来の木橋に代わって鉄橋が架設され、高野口駅から九度山 へ と 至 る 道 路 が 拡 張 さ れ る と、 沿 道 に 人 家 が 密 集 し、 高 野 参 詣 の 商 業 地 域 と なった。昭和二八年以降、高野口町の大字として成立した。南海高野線開通後 は参詣道としての機能はなくなったが、名倉に隣接する商工業・住宅地帯とし て人家が密集し、織物工場も立地している。 伏 ふ し 原 は ら は 高 野 口 町 の 南 東 端 に 位 置 し、 西 は 名 古 曽・ 小 田、 北 は 応 其、 東 は 神 領 で あ っ た。 明 治 二 二 年 に は 山 田 村、 昭 和 三 〇 年 か ら は 橋 本 市 の 大 字 と な っ た。 丘 陵 部 の 南 端 を 大 和 街 道 お よ び、 国 道 二 四 号 線・ JR和 歌 山 線 が 通 っ て い る。古くからの集落であるが、市街地に近く、交通が便利なため、新しい住宅 地や店舗もみられる。野には真言宗の寿命寺があり、盆などにはこの寺の僧侶 が檀家回りをする。 向 む か 副 そい は 紀 ノ 川 南 岸 に 位 置 し、 橋 本 市 中 心 部 の 対 岸 に あ た る。 中 世 に は 相 賀 荘(南)に属し、江戸時代は高野寺領であった。明治二二年には学文路村、昭 和三〇年からは橋本市の大字となった。平地には水田、傾斜地には柿畑などが 広 が っ て い る。 集 落 南 側 の 山 麓 を 南 海 高 野 線 が 通 る。 古 く か ら の 集 落 で あ る が、市街地に近いため、新しい住宅地もみられる。向副には真言宗の観音寺が ある。現在は無住のため、盆などには賢堂の定福寺の僧侶が檀家回りをする。 清 し み ず 水 は紀ノ川南岸に位置する。中世には相賀荘(南)に属し、江戸時代は高 野寺領であった。明治二二年には学文路村、昭和三〇年からは橋本市の大字と なった。江戸時代には北岸の東家から渡し船があった。現在でも、渡し場跡か ら高野街道沿いに人家が立ち並んでいる。水田や柿畑なども広がるが、高野街 道沿いの物資集積地として栄えた。古くからの集落であるが、南海高野線の紀 伊 清 水 駅 が あ る た め、 新 し い 住 宅 地 も で き た。 清 水 に は 真 言 宗 の 永 楽 寺 が あ り、盆などにはこの寺の僧侶が檀家回りをする。   旧高野口町の調査地 上 か み な か 中 は 高 野 口 町 の 北 部 に 位 置 し、 標 高 二 〇 〇 m前 後 の 台 地 上 に あ る。 中 世 には官省符荘に属し、近世には紀伊藩領であった。江戸初期、中村が上中村・ 下中村に分村して成立した。明治二二年には信太村、昭和三〇年からは高野口 町の大字となった。真言宗の弘法寺があるが無住のため、名倉の地蔵寺の檀家 が さ れ て い る〔 宮 本   一 九 六 六 〕。 そ の 後 は、 平 成 の 合 併 前 の 自 治 体 史 に お い て取り上げられている。 『高野口町誌   下』には「第 8編   民俗」 「第 1章   年 中 行 事 」「 第 7節   七 月 の 行 事 」 の 中 に「 七 夕 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 盆 踊 」・ 「 土 用 入 り 」 な ど の 項 目 が あ る〔 高 野 口 町 誌 編 纂 委 員 会   一 九 六 八 〕。 『 橋 本 市 史   下 』 には「民俗編」 「第 1章   行事・習俗」 「一   年中行事」 「盆行事」の中に、 「七 夕 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 紀 ノ 川 祭 」・ 「 盆 踊 り 」・ 「 養 父 入 り 」 と い う 項 目 が あ り、 『 伊 都 郡 誌 』 に 近 似 し た 記 述 と な っ て い る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   一 九 七 五 〕。 また、学文路中学校の郷土学習の一環としてまとめられた冊子にも学文路地区 の盆行事が紹介されている〔橋本市立学文路中学校   一九七七・一九七八〕 。 平 成 時 代 に 入 る と『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に 詳 し く 紹 介 さ れ て い る。 こ こ に は、 第 七 章「 年 中 行 事 と 祭 り 」 の 中 で、 「 5   盆 の 行 事 」 と し て 取 り 上 げ て い る。 「 先 祖 迎 え 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 先 祖 送 り 」・ 「 火 ト ボ シ 」・ 「 地 蔵 盆 」 と い う項目が挙げられ、全体的な特徴がまとめられている。四ページに凝縮して市 域の盆行事の概要を紹介しているため、個別の事例の詳細は不明な点も多いも のの、これまでの文献に比べると具体的な内容が多い〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 このほか、橋本市域の盆行事としては、モライマツリ・オハライ・ムセマイ リに関する報告や研究もある。モライマツリとは、新仏の祭祀を、死者の出た 家だけでなく、死者と血のつながる親族の家でもおこなうことである。こうし た 習 俗 に つ い て、 民 俗 学 者 の 高 谷 重 夫 は 盆 棚 の 観 点 か ら 報 告 し て い る〔 高 谷   一 九 八 八 〕。 同 じ く 民 俗 学 者 の 森 本 一 彦 は 家 族・ 親 族 制 度 の 観 点 か ら モ ラ イ マ ツリに注目し、盆前に生家から離家した者が生家へ帰るオハライ・ムセマイリ という習俗にも注目している〔森本   二〇〇〇〕 。高谷、および森本によると、 モライマツリ・オハライ・ムセマイリは、橋本市域などの紀ノ川流域に分布し 野 々( 旧 橋 本 市 )、 南 は 紀 ノ 川 を 隔 て て 学 文 路( 旧 橋 本 市 ) と 接 し て い る。 中 世 に は 官 省 符 荘 に 属 し、 近 世 に は 紀 伊 藩 領 で あ っ た。 中 世 の 高 野 街 道 は、 神 野々から伏原付近を通り、九度山に渡ったと推定されている。明治二二年には 応其村、昭和三〇年から高野口町、平成一八年に橋本市となった。国道二四号 線が伏原のほぼ中央を北東から南西に通り、周辺に大規模小売店や新興住宅地 が開発されているが、もともとの集落の中心はもう少し南側にある。織物工場 も立地している。昭和中期までは集落周辺に水田が広がっていた。真言宗の普 門院がある。   橋本市の盆行事   先行研究 橋本市域では、複数の文献において、盆行事に関する記述がみられる。大正 時代にはすでに『和歌山県伊都郡誌』 (以下、 『伊都郡誌』と略す)のなかで取 り 上 げ ら れ て い る。 「 第 九 編   民 俗 誌 」「 第 一 章   気 風   風 俗 習 慣 」「 第 三 節   年中行事」の中に「盆」が挙げられており、旧暦の七月の行事として、七日の 七夕から紹介されている 〔和歌山県伊都郡役所   一九一八〕 。 昭和初期に刊行された『隅田村誌』にも記述がある〔伊都郡隅田第一尋常高 等 小 学 校   一 九 三 二 〕。 第 一 二 編「 民 俗 誌 」 の「 年 中 行 事 」 に「 盆 」 と い う 項 目がある。後述するように、新仏の棚、無縁仏の棚に関する記述もみられる。 昭和中後期には、橋本歴史研究会の宮本佳典などを中心に、地元の盆行事の 調 査 が お こ な わ れ て お り、 「 釜 蓋 朔 日( カ マ ブ タ ツ イ タ チ ) の 習 俗 」、 「 盆 道 つ くり」 、「新盆について」 、「七日盆について」 、「七夕について」 、「盆花と盆市」 、 「 生 御 霊( イ キ ボ ン ) に つ い て 」、 「 盆 棚 に つ い て   十 三 日 」、 「 仏 迎 え( ム カ エ ボ ン )  十 三 日 」、 「 盆 祭 に つ い て 」、 「 送 り 盆 に つ い て 」 と い う 項 目 で 中 間 報 告

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が さ れ て い る〔 宮 本   一 九 六 六 〕。 そ の 後 は、 平 成 の 合 併 前 の 自 治 体 史 に お い て取り上げられている。 『高野口町誌   下』には「第 8編   民俗」 「第 1章   年 中 行 事 」「 第 7節   七 月 の 行 事 」 の 中 に「 七 夕 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 盆 踊 」・ 「 土 用 入 り 」 な ど の 項 目 が あ る〔 高 野 口 町 誌 編 纂 委 員 会   一 九 六 八 〕。 『 橋 本 市 史   下 』 には「民俗編」 「第 1章   行事・習俗」 「一   年中行事」 「盆行事」の中に、 「七 夕 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 紀 ノ 川 祭 」・ 「 盆 踊 り 」・ 「 養 父 入 り 」 と い う 項 目 が あ り、 『 伊 都 郡 誌 』 に 近 似 し た 記 述 と な っ て い る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   一 九 七 五 〕。 また、学文路中学校の郷土学習の一環としてまとめられた冊子にも学文路地区 の盆行事が紹介されている〔橋本市立学文路中学校   一九七七・一九七八〕 。 平 成 時 代 に 入 る と『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に 詳 し く 紹 介 さ れ て い る。 こ こ に は、 第 七 章「 年 中 行 事 と 祭 り 」 の 中 で、 「 5   盆 の 行 事 」 と し て 取 り 上 げ て い る。 「 先 祖 迎 え 」・ 「 盂 蘭 盆 」・ 「 先 祖 送 り 」・ 「 火 ト ボ シ 」・ 「 地 蔵 盆 」 と い う項目が挙げられ、全体的な特徴がまとめられている。四ページに凝縮して市 域の盆行事の概要を紹介しているため、個別の事例の詳細は不明な点も多いも のの、これまでの文献に比べると具体的な内容が多い〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 このほか、橋本市域の盆行事としては、モライマツリ・オハライ・ムセマイ リに関する報告や研究もある。モライマツリとは、新仏の祭祀を、死者の出た 家だけでなく、死者と血のつながる親族の家でもおこなうことである。こうし た 習 俗 に つ い て、 民 俗 学 者 の 高 谷 重 夫 は 盆 棚 の 観 点 か ら 報 告 し て い る〔 高 谷   一 九 八 八 〕。 同 じ く 民 俗 学 者 の 森 本 一 彦 は 家 族・ 親 族 制 度 の 観 点 か ら モ ラ イ マ ツリに注目し、盆前に生家から離家した者が生家へ帰るオハライ・ムセマイリ という習俗にも注目している〔森本   二〇〇〇〕 。高谷、および森本によると、 モライマツリ・オハライ・ムセマイリは、橋本市域などの紀ノ川流域に分布し 野 々( 旧 橋 本 市 )、 南 は 紀 ノ 川 を 隔 て て 学 文 路( 旧 橋 本 市 ) と 接 し て い る。 中 世 に は 官 省 符 荘 に 属 し、 近 世 に は 紀 伊 藩 領 で あ っ た。 中 世 の 高 野 街 道 は、 神 野々から伏原付近を通り、九度山に渡ったと推定されている。明治二二年には 応其村、昭和三〇年から高野口町、平成一八年に橋本市となった。国道二四号 線が伏原のほぼ中央を北東から南西に通り、周辺に大規模小売店や新興住宅地 が開発されているが、もともとの集落の中心はもう少し南側にある。織物工場 も立地している。昭和中期までは集落周辺に水田が広がっていた。真言宗の普 門院がある。   橋本市の盆行事   先行研究 橋本市域では、複数の文献において、盆行事に関する記述がみられる。大正 時代にはすでに『和歌山県伊都郡誌』 (以下、 『伊都郡誌』と略す)のなかで取 り 上 げ ら れ て い る。 「 第 九 編   民 俗 誌 」「 第 一 章   気 風   風 俗 習 慣 」「 第 三 節   年中行事」の中に「盆」が挙げられており、旧暦の七月の行事として、七日の 七夕から紹介されている 〔和歌山県伊都郡役所   一九一八〕 。 昭和初期に刊行された『隅田村誌』にも記述がある〔伊都郡隅田第一尋常高 等 小 学 校   一 九 三 二 〕。 第 一 二 編「 民 俗 誌 」 の「 年 中 行 事 」 に「 盆 」 と い う 項 目がある。後述するように、新仏の棚、無縁仏の棚に関する記述もみられる。 昭和中後期には、橋本歴史研究会の宮本佳典などを中心に、地元の盆行事の 調 査 が お こ な わ れ て お り、 「 釜 蓋 朔 日( カ マ ブ タ ツ イ タ チ ) の 習 俗 」、 「 盆 道 つ くり」 、「新盆について」 、「七日盆について」 、「七夕について」 、「盆花と盆市」 、 「 生 御 霊( イ キ ボ ン ) に つ い て 」、 「 盆 棚 に つ い て   十 三 日 」、 「 仏 迎 え( ム カ エ ボ ン )  十 三 日 」、 「 盆 祭 に つ い て 」、 「 送 り 盆 に つ い て 」 と い う 項 目 で 中 間 報 告

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  盆の準備 八月に入ると各家では先祖を迎える準備をする。墓掃除・井戸替え・道の草 刈りなどをおこなう。橋本市域では七日を七日盆と呼ぶことが多い。 大正七年の『伊都郡誌』には以下のような記述がある〔和歌山県伊都郡役所   一九一八〕 。 七夕の日は井戸換をなし、又一切の仏具を洗う。 大正時代には、旧暦七月に盆行事をおこなっていたため、七夕の日に準備を 開始していたことが分かる。 宮本佳典の報告では以下のような記述がある〔宮本   一九六六〕 。 八 月 一 日 野 菜 畑 に 入 る と 野 菜 が く さ る( 菖 蒲 谷 地 区 ) の は、 仏 が 近 く に 来 て い る か らだとする。 (中略) (畑)では大掃除がこの時行なわれたと言う。 (中略) 大 別 し て 墓 か ら 仏 迎 え を す る 地 区 と 寺 か ら 仏 迎 え を す る 地 区 と の 二 つ が あ り、 墓 か ら 迎 え る 地 区 で は 墓 掃 除 を 広 範 囲 に 行 っ て い る。 ( 中 略 ) 盆 道 つ く り に お い て、 福 相 な 人 に 出 会 う こ と は、 一 年 間 の 福 を も た ら す も の で あ る、 と 言 わ れ て い る( 菖 蒲 谷 ) (中略) 七 日 は 早 朝 か ら 家 ぐ る み の 仏 具 掃 除 を は じ め、 井 戸 が え を や り、 済 ん だ 後 は、 墓 掃 除に出かけるのが、各地区で普通に行なわれている。 (後略) 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 以 下 の よ う な 記 述 が あ る〔 橋 本 市 史 編 さ ん委員会   二〇〇五〕 。 隅 田 地 区 で は、 「 道 ヅ ク リ 」 と い っ て 墓 ま で の 道 の 草 を 刈 っ て い た と い う。 七 日 に は「七日盆」といって、墓掃除・井戸替えをして先祖を迎える準備をするという。 筆 者 の 調 査 で は、 下 兵 庫・ 向 副 に お い て 井 戸 替 え や 墓 掃 除 の こ と が 語 ら れ た。下兵庫では一日に井戸替えをした。下兵庫の瀬崎浩孝氏は、井戸の底から あの世の人が来てくれると聞いたという。下兵庫では七日に、仏が帰りやすく ている。 六 斎 念 仏 に 関 す る 報 告 も あ る。 六 斎 念 仏 は、 高 野 山 麓 に お い て、 盆 の 仏 迎 え・ 仏 送 り や 葬 送 儀 礼 の 際 に 唱 え て い た も の で あ る。 橋 本 市 域 で は 清 水・ 賢 堂・ 野 の 三 か 所 に お い て 昭 和 時 代 ま で 盆 行 事 の な か で 伝 承 さ れ て い た。 た だ し、現在も伝承されているのは野だけである〔橋本市史編さん委員会   二〇〇 五、大岡   二〇〇八、紀伊山地の霊場と参詣道関連地域伝統文化伝承事業実行 委員会   二〇〇九、和歌山県教育委員会   二〇一五〕 。 ま た、 和 歌 山 県 が『 和 歌 山 県 の 祭 り・ 行 事 』 を 発 行 す る た め に お こ な っ た 「 和 歌 山 県 祭 り・ 行 事 基 礎 調 査 」 で は、 瀬 崎 浩 孝( 元 橋 本 市 文 化 財 保 護 審 議 会 委員長・元橋本市郷土資料館館長)が調査委員として旧橋本市域の祭りや行事 を調査し報告している。瀬崎は平成一〇年(一九九八)八月に胡麻生の井向家 の精霊迎え・施餓鬼供養を調査している。瀬崎がまとめた「和歌山県祭り・行 事 基 礎 調 査 票 」 に よ る と、 「 盆 の 行 事 は 市 内 各 地 各 戸 で 行 わ れ て い て 特 色 あ る 行事とは言えないが、井向家では盆だけでなく、一年間の祭りや行事を家族み ん な で 丁 寧 に 行 っ て い る の で 調 査 し た 」 と 記 し て い る。 た だ し、 『 和 歌 山 県 の 祭り・行事』には橋本市域の盆行事については掲載されていない〔和歌山県祭 り・行事調査委員会   二〇〇〇 〕 )4( 。 以下、橋本市域における盆行事の概要を、先行研究と筆者の調査をもとにま とめておく。橋本市域の集落には真言宗の寺院が存在している場合が多く、住 民は真言宗寺院の檀家が多い。盆行事も細部は集落ごとに異なっているが、基 本構造については類似している。古くからの集落で部分的に浄土真宗の檀家も 存在するが、今回は調査対象としなかった。新しく移住してきた住民は宗教・ 宗派も多様であるが、これについても今回は対象としなかった。 た 経 木 を い っ た ん 供 え て、 ナ ス ビ・ 洗 い 米・ そ う め ん の 束 を 細 か く く だ い た も の 三 種 類を供えて、シキビで水をかけて経木を持ち帰る。 また、高野口町名倉の地蔵寺では八月六日に施餓鬼をおこなっている。地蔵 寺で発行している『地蔵寺通信』第四五号(平成二九年七月一五日発行)によ ると、八月六日一九時から二一時に「おせがき法要」をおこなっている。檀家 に は 七 月 に、 こ の 通 信 が 送 付 さ れ て い る。 「 お せ が き 」 を 希 望 す る 人 は、 こ の ときに同封されている申し込み用紙に戒名などを記入し、供養料を添えて申し 込 む こ と に な っ て い る。 檀 家 の 方 か ら の 話 を 総 合 す る と、 「 お せ が き 」 を 申 し 込んだ場合は、六日に地蔵寺へ参拝し、境内の「三界万霊」の石碑前に経木を 置 き、 水 向 け す る。 『 地 蔵 寺 通 信 』 に よ る と、 「 経 木 迎 え( 仏 迎 え )」 は 八 月 一 日から六日となっているが、六日は大変混雑するので、五日までに経木を受け 取りに来てほしい、と案内されている。 こ の よ う に、 橋 本 市 域 に お け る 施 餓 鬼 は、 『 伊 都 郡 誌 』 に 記 載 さ れ て い た よ うに、無縁仏のみならず先祖供養も兼ねている場合がある。   仏迎え 橋 本 市 域 で の 仏 迎 え と し て は、 ① 檀 那 寺 か ら 経 木 を も ら う、 ② 墓 参 り を す る、③高野山まで行く、という三種類がみられた。 『 伊 都 郡 誌 』 に は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る〔 和 歌 山 県 伊 都 郡 役 所   一 九 一 八〕 。 十 四 日 に は 仏 ま つ り を 行 ふ。 即 ち 前 日 寺 に 至 り て、 自 家 の 先 祖 代 々 の 改 名( 筆 者 注:戒名のこと)を誌したる経木をたばり来る。これを仏迎ひといふ。 宮本佳典の報告では以下のような記述がある〔宮本   一九六六〕 。 仏 迎 え は 前 述 し た 如 く、 墓 か ら 行 な わ れ る。 シ キ ビ の 枝 に 移 っ た 仏 は 家 人 の 手 に するため田の畔の草を刈る。向副では七日盆までに墓掃除に行き、七日に井戸 掃除をした。また、向副では七日盆にタナバタサンを祀った。笹に短冊を吊る して、縁側にスイカ・瓜などを供え、川へ流した。最近はしていないという。   施餓鬼 盆 前 に 地 区 の 寺 院 で 無 縁 仏 の 供 養 と し て 施 餓 鬼 を お こ な う 場 合 が あ る。 『 伊 都郡誌』には以下のように記されている〔和歌山県伊都郡役所   一九一八〕 。 旦 那 寺 に て 施 餓 鬼 と い ふ を 行 ふ。 こ れ 法 界 無 縁 の 亡 者 の 供 養 を な す も の な れ ど も、 本 郡 地 方 に て 行 は る る も の は 広 く 一 般 の 仏 を 祀 る も の に し て、 新 仏( 前 年 の 盆 以 後 に 死せる者(筆者注:者の後ろに「) 」が抜けている)ある家には必ず参詣す。 『橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 以 下 の よ う な 記 述 が あ り、 向 副 の 施 餓 鬼 棚の写真が掲載されている〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 出 塔 で は、 八 月 五 日 頃 薬 師 寺 で 十 人 衆 の う ち 二 人 と 区 長 が 施 餓 鬼 棚 を 設 け、 そ う め ん・ ナ ス ビ( ナ ス )・ 果 物 な ど を 供 え 読 経 す る。 ( 中 略 ) 寺 で は 施 餓 鬼 供 養 が あ り、 境 内の盆棚に三界万霊の経木が供えられたのを持ち帰るところが多い。 橋本市域における施餓鬼の実態を把握するため、向副の観音寺の行事内容に つ い て、 同 地 区 の 松 井 正 芳 氏 か ら 聞 き 取 り を お こ な っ た。 概 要 を 紹 介 す る と、 以 下 の よ う な も の で あ る。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に 掲 載 の 施 餓 鬼 棚 の 写真と同じであることが分かった。 八 月 五 日 に 観 音 寺 で 施 餓 鬼 を す る。 一 三 時 ご ろ か ら 準 備。 一 四 時 ご ろ か ら 法 要。 五 〇 年 た っ て な い 先 祖 の 戒 名、 先 祖 の 霊、 三 界 万 霊 の 経 木 を も ら う。 檀 徒 総 代 が 寄 っ て、 坊 さ ん が 来 て く れ て、 寺 の 本 堂 で 法 要 を す る。 終 わ っ て か ら、 檀 家 が 寺 へ 経 木 を た ば り に 行 く( い た だ き に 行 く )。 寺 の 本 堂 の 前 に 机 を 置 い て、 青 竹 を 四・ 五 本 切 っ て、 机 の ぐ る り を 青 竹 で 囲 い し て、 赤・ 黄・ 紫・ 青 の 色 紙 を 四 隅 に 吊 る し て、 た ば っ

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た 経 木 を い っ た ん 供 え て、 ナ ス ビ・ 洗 い 米・ そ う め ん の 束 を 細 か く く だ い た も の 三 種 類を供えて、シキビで水をかけて経木を持ち帰る。 また、高野口町名倉の地蔵寺では八月六日に施餓鬼をおこなっている。地蔵 寺で発行している『地蔵寺通信』第四五号(平成二九年七月一五日発行)によ ると、八月六日一九時から二一時に「おせがき法要」をおこなっている。檀家 に は 七 月 に、 こ の 通 信 が 送 付 さ れ て い る。 「 お せ が き 」 を 希 望 す る 人 は、 こ の ときに同封されている申し込み用紙に戒名などを記入し、供養料を添えて申し 込 む こ と に な っ て い る。 檀 家 の 方 か ら の 話 を 総 合 す る と、 「 お せ が き 」 を 申 し 込んだ場合は、六日に地蔵寺へ参拝し、境内の「三界万霊」の石碑前に経木を 置 き、 水 向 け す る。 『 地 蔵 寺 通 信 』 に よ る と、 「 経 木 迎 え( 仏 迎 え )」 は 八 月 一 日から六日となっているが、六日は大変混雑するので、五日までに経木を受け 取りに来てほしい、と案内されている。 こ の よ う に、 橋 本 市 域 に お け る 施 餓 鬼 は、 『 伊 都 郡 誌 』 に 記 載 さ れ て い た よ うに、無縁仏のみならず先祖供養も兼ねている場合がある。   仏迎え 橋 本 市 域 で の 仏 迎 え と し て は、 ① 檀 那 寺 か ら 経 木 を も ら う、 ② 墓 参 り を す る、③高野山まで行く、という三種類がみられた。 『 伊 都 郡 誌 』 に は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る〔 和 歌 山 県 伊 都 郡 役 所   一 九 一 八〕 。 十 四 日 に は 仏 ま つ り を 行 ふ。 即 ち 前 日 寺 に 至 り て、 自 家 の 先 祖 代 々 の 改 名( 筆 者 注:戒名のこと)を誌したる経木をたばり来る。これを仏迎ひといふ。 宮本佳典の報告では以下のような記述がある〔宮本   一九六六〕 。 仏 迎 え は 前 述 し た 如 く、 墓 か ら 行 な わ れ る。 シ キ ビ の 枝 に 移 っ た 仏 は 家 人 の 手 に するため田の畔の草を刈る。向副では七日盆までに墓掃除に行き、七日に井戸 掃除をした。また、向副では七日盆にタナバタサンを祀った。笹に短冊を吊る して、縁側にスイカ・瓜などを供え、川へ流した。最近はしていないという。   施餓鬼 盆 前 に 地 区 の 寺 院 で 無 縁 仏 の 供 養 と し て 施 餓 鬼 を お こ な う 場 合 が あ る。 『 伊 都郡誌』には以下のように記されている〔和歌山県伊都郡役所   一九一八〕 。 旦 那 寺 に て 施 餓 鬼 と い ふ を 行 ふ。 こ れ 法 界 無 縁 の 亡 者 の 供 養 を な す も の な れ ど も、 本 郡 地 方 に て 行 は る る も の は 広 く 一 般 の 仏 を 祀 る も の に し て、 新 仏( 前 年 の 盆 以 後 に 死せる者(筆者注:者の後ろに「) 」が抜けている)ある家には必ず参詣す。 『橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 以 下 の よ う な 記 述 が あ り、 向 副 の 施 餓 鬼 棚の写真が掲載されている〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 出 塔 で は、 八 月 五 日 頃 薬 師 寺 で 十 人 衆 の う ち 二 人 と 区 長 が 施 餓 鬼 棚 を 設 け、 そ う め ん・ ナ ス ビ( ナ ス )・ 果 物 な ど を 供 え 読 経 す る。 ( 中 略 ) 寺 で は 施 餓 鬼 供 養 が あ り、 境 内の盆棚に三界万霊の経木が供えられたのを持ち帰るところが多い。 橋本市域における施餓鬼の実態を把握するため、向副の観音寺の行事内容に つ い て、 同 地 区 の 松 井 正 芳 氏 か ら 聞 き 取 り を お こ な っ た。 概 要 を 紹 介 す る と、 以 下 の よ う な も の で あ る。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に 掲 載 の 施 餓 鬼 棚 の 写真と同じであることが分かった。 八 月 五 日 に 観 音 寺 で 施 餓 鬼 を す る。 一 三 時 ご ろ か ら 準 備。 一 四 時 ご ろ か ら 法 要。 五 〇 年 た っ て な い 先 祖 の 戒 名、 先 祖 の 霊、 三 界 万 霊 の 経 木 を も ら う。 檀 徒 総 代 が 寄 っ て、 坊 さ ん が 来 て く れ て、 寺 の 本 堂 で 法 要 を す る。 終 わ っ て か ら、 檀 家 が 寺 へ 経 木 を た ば り に 行 く( い た だ き に 行 く )。 寺 の 本 堂 の 前 に 机 を 置 い て、 青 竹 を 四・ 五 本 切 っ て、 机 の ぐ る り を 青 竹 で 囲 い し て、 赤・ 黄・ 紫・ 青 の 色 紙 を 四 隅 に 吊 る し て、 た ば っ

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筆者の調査でも、仏迎えとして、①檀那寺から経木をもらうことが現在でも 広く行われていることを確認した。経木とは、木を薄く削ったものに、先祖な どの戒名を記した塔婆の一種である。経木を受け取ることで、仏を迎えると考 えられている。先祖代々・新仏・五〇回忌までの仏・弘法大師・無縁仏などの 種類がある。橋本市域では、盆前に寺へ経木をもらいに行く、盆前に役員が寺 か ら 受 け 取 っ て 檀 家 に 配 布 す る、 僧 侶 が 檀 家 回 り の と き に 経 木 を 持 っ て く る、 という受け取り方がある。日にちは地区によって異なっている。 な お、 「 施 餓 鬼 」 の 項 目 で 触 れ た よ う に、 橋 本 市 域 で は 檀 那 寺 で お こ な わ れ る 施 餓 鬼 の 際 に、 経 木 を 受 け 取 っ て く る 場 合 も あ る。 高 野 口 町 大 野 の 大 日 寺 や、同町伏原の普門院でも、施餓鬼の際に経木を受け取ることがある。 一 方 で、 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に 記 さ れ て い る よ う な、 高 野 山 か ら 経木をもらってくることは、近年では減少しているようである。筆者の調査で は、胡麻生の土屋吉子氏(昭和二年生まれ)が以下のように語った。 八 月 一 〇 日 に 高 野 参 り を す る。 十 日 参 り と い う。 「 高 野 参 り、 よ く 参 り 」 と い う。 「 よ く 」 と い う の は、 こ の 日 に 参 る と、 何 十 遍 参 っ た こ と に な る。 十 遍 に な る の か、 百 遍 に な る の か 知 ら ん が。 先 祖 を 迎 え に 行 く。 新 仏 が な く て も 行 く。 そ れ も、 の な っ た( そ う し た 風 習 も な く な っ た )。 子 ど も の こ ろ に、 連 れ て も ら っ た。 高 野 山 の 奥 之 院 へ 参 る。 お 骨 を 納 め て る か ら 迎 え て く る。 マ キ を 買 う て き た。 自 分 と こ へ 供 え る だ け。 マ キ の 苗 を 買 う て き て 植 え て い る。 色 も 悪 い し、 い い マ キ は で き な い。 十 日 参 り は、 大 人 に な っ て か ら は、 新 仏 で き た と き に は 必 ず 参 っ た。 今 も 行 く 人 は い る。 最 近 行かない。 このほか、向副の松井正芳氏の家でも仏を迎えに行くために、八月一〇日に 高野山へ参り、土産としてコウヤマキを買ってきたという。高野山から買って くるコウヤマキは、経木と同じように、先祖の依り代としての意味合いがあっ よ っ て、 家 ま で 運 ば れ、 門 の 所 で 門 火 を た い て、 家 の 中 へ 迎 え ら れ る。 門 火 に つ い て は貴重な実例を採集することができた(柱本) 。 『 高 野 口 町 誌   下 』 に は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る〔 高 野 口 町 誌 編 纂 委 員 会   一九六八〕 。 あ ら か じ め 檀 那 寺 か ら 祖 霊 お よ び 新 仏 の 戒 名 な ど を 書 い た 経 木 が 贈 ら れ る。 こ れ を 精 霊 の 依 代 と し て 祭 る。 ( 中 略 ) 十 三 日 に、 供 花・ 線 香・ 供 物 な ど を 持 っ て 墓 に 詣 り、 仏 を 迎 え て 帰 り、 お 茶・ 御 飯・ 副 食 物 な ど を 供 え る。 十 三 日 の 夜、 家 の 外 で 迎 え 松 明 をたく。 『 橋 本 市 史   下 』 に も ほ ぼ 同 様 の 記 述 が み ら れ る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   一 九 七 五 〕。 学 文 路 中 学 校 の『 郷 土 研 究 』 一 に は 以 下 の よ う な 記 述 が あ る〔 橋 本市立学文路中学校   一九七七〕 。 八 月 十 三 日 に 迎 え た い ま つ を た く。 迎 え た い ま つ は、 火 を た き な が ら 小 さ く 切 っ た なすをくべ、しきびの葉で水を三回かけ、心経をくる。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 以 下 の よ う な 記 述 が あ る〔 橋 本 市 史 編 さ ん委員会   二〇〇五〕 。 ム ラ で は、 九 日 か ら 十 三 日 の 間 に、 寺 か ら 経 木 を も ら っ て く る こ と が み ら れ る。 学 文 路・ 柱 本 な ど で は、 十 日 に 高 野 山 へ 登 り、 奥 の 院 か ら 経 木 を も ら っ て く る。 こ の 日 高 野 山 で は「 高 野 市 」 が 開 か れ て い て、 盆 の 花 な ど を 買 っ て き た。 高 野 山 に 行 け な い 時 は 慈 尊 院 か ら 経 木 を 持 ち 帰 っ た と い う が、 新 仏 の 時 は 必 ず 高 野 山 か ら 迎 え る と い う。十日頃坊さんが持って来るところもある。 (中略) 十 三 日 の 夕 方 に は、 隅 田 地 区・ 恋 野・ 小 田 原・ 柱 本・ 野 な ど の ム ラ で は、 庭 先 で 青 竹 に 肥 え 松 と オ ガ ラ を つ け て 迎 え 火 を 燃 や し 先 祖 を 迎 え る。 器 に 水 を 入 れ、 経 木 を 盆 に 乗 せ、 樒 の 枝 で 経 木 に 器 の 水 を ふ り か け て 拝 む。 桔 梗・ 女 郎 花・ 萩 な ど「 盆 の 花 」 を竹筒に入れて供え、線香をつける。 胡 麻 生 の 土 屋 吉 子 氏、 井 向 正 晴 氏 の 家 に お い て も、 一 三 日 の 夜 に 松 明 を 焚 く。松井氏の家と同様、屋敷の入口の松明を焚くところ、玄関先の無縁仏、座 敷の中の先祖の祭壇で拝んでいるという。 下兵庫の瀬崎氏の家では、家の裏側(北側)に新竹を一本立てている。竹の 先へ三本か五本、ろうそくを立て、一三日の夕方に火をともす。仏が帰る目印 に し て い る と い う。 瀬 崎 氏 の 家 の 北 に は 水 田 が 広 が り、 そ の 向 こ う に 墓 が あ る。仏が帰ってくる方向に向けて火を焚いていることになる。   先祖の祭祀 祭 祀 の 日 程 に つ い て、 宮 本 佳 典 の 報 告 で は 以 下 の よ う な 記 述 が あ る〔 宮 本   一九六六〕 。 十 三、 十 四 日 祭 ら れ、 十 五 日 朝 送 ら れ る も の と、 十 四 日 だ け 祭 ら れ、 十 五 日 に 送 ら れ る も の と、 十 三、 十 四 日 祭 ら れ、 十 六 日 朝 送 ら れ る も の 等 色 々 あ る が、 十 三、 十 四 日祭られ十五日送られるのが、古いものと考えられる。 筆者の調査でも、橋本市域では、一三日に迎え、一四日に祀り、一五日に送 る、という形態が一般的であるように思われた。 一三日に家に迎えられた先祖は、仏壇・仏壇の前・床の間の前などに設置さ れた先祖の祭壇で祀られる。先祖の祭壇には、一三日の夕方から、一五日の朝 に 送 り 出 す ま で、 さ ま ざ ま な も の が 供 え ら れ る。 『 高 野 口 町 誌   下 』 に は 以 下 のように記されている〔高野口町誌編纂委員会   一九六八〕 。 白 瓜・ 茄 子 な ど、 細 か く 切 り、 蓮 ま た は 里 芋 の 葉 の な か へ 入 れ て 供 物 と す る。 ( 中 略 ) 十 四 日 は 終 日 お 茶 を 替 え、 そ れ ぞ れ 朝 昼 晩 と 供 物 を し て 仏 を ま つ る。 供 物 は ほ ぼ ど こ の 家 で も、 そ の 家 の 昔 か ら の 仕 来 た り で 毎 年 く り か え さ れ る( 朝 は 南 瓜 の 煮 付・ お汁、昼は冷素麺=おがらの箸、晩は餡餅=竹の箸) 。 たようである。 経木を迎えるだけではなく、②墓参りをして先祖を迎えるということも同時 におこなっている場合が多い。橋本市域では一三日に墓参りをして迎えるとこ ろ が 多 い よ う で あ る。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は、 「 神 野 々 の 七 墓 で は、仏迎えの人々が参るので、その人々を相手とした夜店が出て賑わったとい う。 」 と 記 さ れ て い る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   二 〇 〇 五 〕。 一 三 日 の 夕 方 で あったが、近年では一三日の午前中に墓参りをする家も増えているという。 以上のように、仏迎えとしては、①②③が複合しておこなわれているが、近 年は③は衰退し、①と②が中心となっているようである。 ま た、 一 三 日 の 夕 方 に は、 庭 先 で 迎 え 火 を 焚 く 家 も あ る。 こ の 点 に つ い て、 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 先 述 の よ う に 記 さ れ、 恋 野 の 迎 え 火 の 写 真 が掲載されている〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 筆者は、平成二八年(二〇一六)八月一三日、向副の松井正芳氏の家におい て、迎え火を拝見した。松井氏の家では、屋敷の入口に、竹と花筒を立てて供 え物をしている。ここをカドボトケ(門仏)と呼んでいる。松明を焚くところ で あ る と い う。 見 学 し た 際 に は、 一 九 時 ご ろ か ら 松 明 を 焚 い た。 早 く 迎 え て、 ゆ っ く り 帰 っ て も ら う と い い、 一 四 日 の 送 り の 方 は 少 し 遅 く 松 明 を 焚 く と い う。カドボトケの前に、松明をくくったものを三つ置いて火をつけ、光明真言 などを唱えて、ナス・洗い米・生のそうめんを折ったものを火の上に置く。次 いで、シキビで水をかける。カドボトケで松明を焚いて拝んだ後、玄関先のガ キサンの前で真言を唱える。新棚があるときは新棚でも拝む。最後に、家の中 へ入り仏壇の前で真言と般若心経を唱える。仏壇の前で拝み終わった後、正芳 氏の妻のカヨ子氏は「よく来てくださいました、どうぞゆっくりしていってく ださい」と仏壇に声をかけていた。  

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胡 麻 生 の 土 屋 吉 子 氏、 井 向 正 晴 氏 の 家 に お い て も、 一 三 日 の 夜 に 松 明 を 焚 く。松井氏の家と同様、屋敷の入口の松明を焚くところ、玄関先の無縁仏、座 敷の中の先祖の祭壇で拝んでいるという。 下兵庫の瀬崎氏の家では、家の裏側(北側)に新竹を一本立てている。竹の 先へ三本か五本、ろうそくを立て、一三日の夕方に火をともす。仏が帰る目印 に し て い る と い う。 瀬 崎 氏 の 家 の 北 に は 水 田 が 広 が り、 そ の 向 こ う に 墓 が あ る。仏が帰ってくる方向に向けて火を焚いていることになる。   先祖の祭祀 祭 祀 の 日 程 に つ い て、 宮 本 佳 典 の 報 告 で は 以 下 の よ う な 記 述 が あ る〔 宮 本   一九六六〕 。 十 三、 十 四 日 祭 ら れ、 十 五 日 朝 送 ら れ る も の と、 十 四 日 だ け 祭 ら れ、 十 五 日 に 送 ら れ る も の と、 十 三、 十 四 日 祭 ら れ、 十 六 日 朝 送 ら れ る も の 等 色 々 あ る が、 十 三、 十 四 日祭られ十五日送られるのが、古いものと考えられる。 筆者の調査でも、橋本市域では、一三日に迎え、一四日に祀り、一五日に送 る、という形態が一般的であるように思われた。 一三日に家に迎えられた先祖は、仏壇・仏壇の前・床の間の前などに設置さ れた先祖の祭壇で祀られる。先祖の祭壇には、一三日の夕方から、一五日の朝 に 送 り 出 す ま で、 さ ま ざ ま な も の が 供 え ら れ る。 『 高 野 口 町 誌   下 』 に は 以 下 のように記されている〔高野口町誌編纂委員会   一九六八〕 。 白 瓜・ 茄 子 な ど、 細 か く 切 り、 蓮 ま た は 里 芋 の 葉 の な か へ 入 れ て 供 物 と す る。 ( 中 略 ) 十 四 日 は 終 日 お 茶 を 替 え、 そ れ ぞ れ 朝 昼 晩 と 供 物 を し て 仏 を ま つ る。 供 物 は ほ ぼ ど こ の 家 で も、 そ の 家 の 昔 か ら の 仕 来 た り で 毎 年 く り か え さ れ る( 朝 は 南 瓜 の 煮 付・ お汁、昼は冷素麺=おがらの箸、晩は餡餅=竹の箸) 。 たようである。 経木を迎えるだけではなく、②墓参りをして先祖を迎えるということも同時 におこなっている場合が多い。橋本市域では一三日に墓参りをして迎えるとこ ろ が 多 い よ う で あ る。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は、 「 神 野 々 の 七 墓 で は、仏迎えの人々が参るので、その人々を相手とした夜店が出て賑わったとい う。 」 と 記 さ れ て い る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   二 〇 〇 五 〕。 一 三 日 の 夕 方 で あったが、近年では一三日の午前中に墓参りをする家も増えているという。 以上のように、仏迎えとしては、①②③が複合しておこなわれているが、近 年は③は衰退し、①と②が中心となっているようである。 ま た、 一 三 日 の 夕 方 に は、 庭 先 で 迎 え 火 を 焚 く 家 も あ る。 こ の 点 に つ い て、 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 先 述 の よ う に 記 さ れ、 恋 野 の 迎 え 火 の 写 真 が掲載されている〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 筆者は、平成二八年(二〇一六)八月一三日、向副の松井正芳氏の家におい て、迎え火を拝見した。松井氏の家では、屋敷の入口に、竹と花筒を立てて供 え物をしている。ここをカドボトケ(門仏)と呼んでいる。松明を焚くところ で あ る と い う。 見 学 し た 際 に は、 一 九 時 ご ろ か ら 松 明 を 焚 い た。 早 く 迎 え て、 ゆ っ く り 帰 っ て も ら う と い い、 一 四 日 の 送 り の 方 は 少 し 遅 く 松 明 を 焚 く と い う。カドボトケの前に、松明をくくったものを三つ置いて火をつけ、光明真言 などを唱えて、ナス・洗い米・生のそうめんを折ったものを火の上に置く。次 いで、シキビで水をかける。カドボトケで松明を焚いて拝んだ後、玄関先のガ キサンの前で真言を唱える。新棚があるときは新棚でも拝む。最後に、家の中 へ入り仏壇の前で真言と般若心経を唱える。仏壇の前で拝み終わった後、正芳 氏の妻のカヨ子氏は「よく来てくださいました、どうぞゆっくりしていってく ださい」と仏壇に声をかけていた。  

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という。胡麻生の土屋氏の家でも、竹・ミソハギ・オガラの箸を置く。土屋氏 の家では、それぞれの箸を区別して置いている。平野の辻氏の家では新竹で箸 を作る。供えるたびに箸を取り替えるので、かつては百何本も箸を作ったとい う。 檀那寺の僧侶は、檀家を回り、読経をする。檀家が多い寺院では、地区ごと に檀家参りをする日程を決めている。 親戚以外の他家へ先祖の祭壇を拝みに行くことはみられない。ただし、野で は、念仏講の人たちが、一四日に村中の家に念仏をあげて回った〔紀伊山地の 霊場と参詣道関連地域伝統文化伝承事業実行委員会   二〇〇九〕 。 このほか、宮本佳典の報告では以下のような記述がある〔宮本   一九六六〕 。 両 親 の そ ろ っ て い る 者 が、 生 け る 親 に 盆 の 間 に、 魚 を 贈 答 し、 魚 を 供 す 行 事 は 広 く 行なわれているものであるが(中略) (柱本、清水、市脇 etc) この点については、今回の筆者の調査では確認できなかった。   盆花 盆に先祖などに対して供える花を盆花と呼ぶ。宮本佳典の報告では以下のよ うな記述がある〔宮本   一九六六〕 。 盆 花 の 入 手 方 法 は、 山 村 の 行 商 人 か ら 買 う 場 合 と、 村 の 中 で 入 手 す る 場 合 と、 盆 市 で 買 入 れ る 場 合 の 三 つ が 行 な わ れ て い る。 多 く の 地 区 は ① の 方 法 で 入 手 す る が、 山 辺 の 村 で は、 村 の 中 で と と の え ら れ る の が 若 干 あ っ た。 ( 畑 ) 盆 市 に お い て 盆 の 道 具 と と も に 入 手 さ れ る も の と し て( 野 ) の 盆 市 が 開 か れ る。 こ れ は 江 戸 時 代 か ら 行 な わ れ て い る と い う こ と で あ る。 盆 花 と し て は、 シ キ ビ、 キ キ ョ ウ、 ア ワ、 オ ミ ナ エ シ、 マ キ等がつかわれている。 『 高 野 口 町 誌   下 』 に は、 「 盆 花 」 と し て「 樒・ 桔 梗・ 女 郎 花・ 萩・ み ど は 学文路中学校の『郷土研究』一には以下のような記載がある〔橋本市立学文 路中学校   一九七七〕 。 十 三 日 か ら 朝 は ご は ん、 昼 は そ う め ん を 供 え る。 そ し て ご 飯 と 一 緒 に、 み ぞ は ぎ、 そ う め ん に、 お が ら、 あ ん も ち に は 竹 箸 を そ え る。 ま た 仏 が 供 え ら れ て い る も の を 持って帰りやすいように、 「おこ」として長いおがら(苧殻)を供える。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 に は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る〔 橋 本 市 史 編 さん委員会   二〇〇五〕 。 家 に 迎 え 入 れ た 先 祖 を 仏 壇 に 祀 り、 ご 飯・ 汁・ 南 京 の 煮 物・ 豆 な ど を 供 え る。 恋 野 の あ る 家 で は、 「 今 晩 か ら ゆ っ く り し て 下 さ い 」 と い っ て 供 え 物 を す る。 ( 中 略 ) 十 三 日 に、 コ イ モ の 葉 に ス イ カ・ ナ ス ビ な ど 季 節 野 菜 を 供 え る が、 十 四 日 の 祭 り 方 は 家 に よ る 違 い が 大 き い。 あ る 家 で は、 朝 は ご 飯・ 汁、 昼 は そ う め ん と 漬 物、 三 時 は ア ン コ ロ餅(餡餅) ・大根葉、夜はご飯・七色汁と四回の食事を出す。 筆者の調査でも、家々によって献立はさまざまであった。一三日の夜、一四 日の朝・昼・三時ごろ・夜、一五日の朝、に食事を替えて出す、という家が多 か っ た。 基 本 的 に 家 族 も 食 べ る 食 事 を 供 え て い る。 一 四 日 の 昼 か ら 夜 に か け て、あんころもちを供える家も多い。向副ではあんころもちのことをドサクサ モチと呼んでいる。一四日の夜に供える白い餅は仏の土産であり、オガラのオ コ(天秤棒)で担いで帰ってもらう、という語りも多かった。 このような膳以外に、生の野菜も供える。向副の松井氏の家では、仏さんは シンモン(新物)を喜ぶといい、初物を供える。昔は熟していない柿・みかん も供えた。ただし、最近は柿やみかんは摘果するために供えないという。 膳の前には箸を置く。向副の松井氏の家では竹・ミソハギ・オガラの箸を置 く。 ご 飯 は ミ ソ ハ ギ、 そ う め ん は オ ガ ラ、 あ ん こ ろ も ち は 竹 の 箸 を 使 う と い う。しかし、それぞれの箸を区別せずに一緒に置いている。本数は適当である 付けたり、松明を焚くところで地面かコンクリート製のブロックに立てられる 場合が多い。高野町でしばしばみられた、竹筒の先を裂いて足とし、そのまま 花筒として立てるモンドリと呼ばれるものはほとんど見られなかった。モンド リに相当する花筒は、伊藤信明が紹介している野の事例以外は確認できなかっ た〔伊藤   二〇一〇〕 。   茶湯 仏には茶も供える。これをオチャト(お茶湯)という。仏に供えるお茶は何 度も替える。宮本佳典の報告では以下のような記述がある〔宮本   一九六六〕 。 お 茶 湯 の 回 数 に つ い て は、 多 い 程 よ い と す る も の と、 一 回、 二 回 行 な わ れ る も の と、四十回〜七十回行なわれるものといちじるしく分れている。 学文路中学校の『郷土研究』二には以下のような記述がある〔橋本市立学文 路中学校   一九七八〕 。 十四日には終日仏様をまつり、お茶とうをする。 『 橋 本 市 史   民 俗・ 文 化 財 編 』 で は、 四 九 回、 七 五 回、 八 〇 回 な ど、 地 域 に よって回数が異なることが記されている〔橋本市史編さん委員会   二〇〇五〕 。 筆者の調査でも七五回、一〇五回などと語られた。昔は子どもの仕事であっ たという。回数は豆で数えた、という家もあった。   キュウリの馬・ナスの牛 キュウリ・ナスで馬と牛を作って仏前に供える家もある。ただし、橋本市域 に 関 す る 文 献 で は 確 認 で き な い。 筆 者 の 調 査 で は、 下 兵 庫 の 瀬 崎 氏 の 家 で は キ ュ ウ リ で 馬、 ナ ス ビ で 牛 を 作 る。 瀬 崎 氏 に よ る と、 こ れ は 必 須 で あ る と い う。できるだけ早く帰ってきてもらうために馬、できるだけゆっくり帰っても ぎ・山百合」があげられている〔高野口町誌編纂委員会   一九六八 〕 )5( 。『橋本市 史   下』には、 「盆花(精霊花) 」として「ききょう、おみなえし、山ゆり、は ぎ 等 」 と 記 さ れ て い る〔 橋 本 市 史 編 さ ん 委 員 会   一 九 七 五 〕。 学 文 路 中 学 校 の 『 郷 土 研 究 』 二 に は 以 下 の よ う な 記 載 が あ る〔 橋 本 市 立 学 文 路 中 学 校   一 九 七 八〕 。 盆 を 迎 え る 準 備 と し て は、 ま ず 盆 花 を 整 え る。 精 霊 花 と も い い、 キ キ ョ ウ、 オ ミ ナ エシなどを用意する。 筆者の調査でも、盆花について確認をした。墓・仏壇・新仏・無縁仏ともに 同じような花を供えるが、それぞれ少しずつ違う花を供えている家もある。た と え ば、 無 縁 仏 の 花 は 種 類 が 少 な い と い う 家 も あ る。 向 副 の 松 井 氏 の 家 で は、 ミソハギ・コウヤマキ・シキビ・キクを供えている。キクの代わりにセンニチ コ ウ な ど を 供 え る こ と も あ る。 か つ て は、 コ ウ ヤ マ キ は 近 く に な か っ た た め、 盆 の 一 〇 日 に 高 野 山 へ 参 っ た と き に 買 っ て き た。 ま た、 筒 香( 高 野 町 )・ 宿・ 彦谷あたりから、盆・彼岸や毎月一日・一五日などにおばあさんたちがコウヤ マキやシキビを売りに来たという。胡麻生でも、十日参りのときに高野山から コウヤマキを買ってきた。また、高野山のほうから、盆・彼岸などにコウヤマ キ や シ キ ビ を 売 り に 来 た と い う。 胡 麻 生 の 土 屋 吉 子 氏 は、 「 仏 さ ん は シ キ ビ に 乗って帰ってくる」と語り、盆にはシキビを供えなければいけないという。 盆花を挿す花筒を新竹で作る家もある。 『高野口町誌   下』には、 「新竹で花 筒・ 線 香 立・ 迎 え 松 明 用 の 竹 な ど 準 備 し て お く。 」 と 記 さ れ て い る〔 高 野 口 町 誌編纂委員会   一九六八〕 。『橋本市史   下』にもほぼ同様の記述がある〔橋本 市 史 編 さ ん 委 員 会   一 九 七 五 〕。 橋 本 市 域 で は、 太 い 竹 で 花 筒、 細 い 竹 で 線 香 立を作る、という家も多かった。かつては花筒を毎年作っていたが、今では既 製品になっている、という家もある。竹の花筒、線香立は、無縁仏の棚に縛り

表 1 橋本市の盆棚事例番号 地名 話者(生年) 祭祀対象 祭祀場所 棚の名称 棚の形態と祀り方 話者の説明 写真 盆の概要 調査年月日 出典1橋本市平野辻貢(昭和11年)先祖仏壇ホトケサン仏壇の仏像の前に位牌(先祖代々)と経木(先祖代々)を置く。その他の位牌は仏像の横に置いている。先祖の位牌と経木の前に盆を置き、料理・箸を置く。その横に盆を置き、大きな葉を敷いて野菜・果物を載せる。供え物の両側に花筒(2、花瓶)・ろうそく立を置く。仏壇の前に机(常設)を置き、茶(9)・線香立・鉦などを置く。(調査時の料理は
表 2 橋本市の盆棚の分類 場所 形態 祭祀対象 高低、覆いなど 地域 表 1 の事例番号 写真A 庭・軒先a 松明を焚く竹を立てる 竹の花筒・線香立、供え物(地面)松明の竹は高い、花・供え物は低い胡麻生641b 松明を焚く竹を立てる 竹の花筒・線香立、供え物(台はブロック)松明の竹は高い、花・供え物は低い平野、胡麻生、向副1、7、1430、25・26、49c 松明を焚く竹を立てる 既製品の花筒など松明の竹は高い、花は低い下兵庫433d 松明を焚く竹を立てる 竹の線香立など松明の竹は高い下兵庫535e 地面

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