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社会情報学としての芸術論 ― ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の再検討― (小特集:情報と芸術) 

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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の再検討

南 谷 覺 正

情報文化研究室

A Critical Study of Art in Social and Information Studies

Reevaluation of Walter Benjamin s The Work of Art in the Age

of Its Technological Reproducibility

Akimasa MINAMITANI

Information and Culture

群馬大学社会情報学部研究論集 第16巻 127∼146頁 別刷

2009年3月31日 reprinted from

JOURNAL OF SOCIAL AND INFORMATION STUDIES No. 16 pp. 127―146

Faculty of Social and Information Studies Gunma University

Maebashi, Japan March 31, 2009

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社会情報学としての芸術論

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の再検討

南 谷 覺 正

情報文化研究室

A Critical Study of Art in Social and Information Studies

Reevaluation of Walter Benjamin s The Work of Art in the Age

of Its Technological Reproducibility

Akimasa MINAMITANI

Information and Culture

Abstract

This essay seeks to establish a theory of art from the perspective of social and information studies while reevaluating Walter Benjamin s The Work of Art in the Age of Its Technological Reproducibility. 本論では,メディア論における古典の1つになっているヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代 の芸術作品」を今日的視点から再検討し,ベンヤミンの所説の優れたところと限界を指摘し,前者は 継承発展させ,後者はその原因を 析することによって,21世紀における芸術観の可能性を探ってみ たい。「複製技術時代の芸術作品」はずいぶん簡略化されて紹介されているけれども,ベンヤミンの示 唆していることはかなり多岐に亙っており,かつ複雑なイメージが絡まりあっているので,以下その 概要を記しておく。(小見出しはこちらで 宜上つけたものである。) (Ⅰ) 【執筆の目的】マルクスは,その資本主義の 析において,資本主義の廃絶を可能にするような諸条件が生みだ されていくことを予測した。芸術は上部構造に属し,時間差はあるが,そこにおいても類似の諸条件が生みだされてお り,その予測を本論で提示したい。そこでは, 造性,天才,永遠の価値,神秘といった概念を切り捨てることになろ う。それらは,ファシズムの目的に適うものだからだ。

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(Ⅱ) 【「複製」という視点の提示】手による芸術作品の複製は古来存在したが,技術的な複製は石版画で本格的となっ た。しかそれから数十年を経ずに写真が発明され,芸術作品の作用のあり方に深く影響し,芸術の一技法としての地位 も占めるようになった。 (Ⅲ) 【オリジナルと複製の違い;「アウラ」概念の導入】オリジナルの芸術作品には 今・ここ> に存在するという 真正性の概念,それをずっと伝えてきた 伝統> の概念が付随するが,複製にはそれが欠落している。しかしながら, 手製の複製に対しては,オリジナルはそれを贋物として排除する権威を保てるが,技術的複製になると,1)視点の自 由,拡大,縮小,高速度撮影等,オリジナルにはない映像を得られるという点,および,2)その映像を受容者のほう へ運んでいけるという点で,自立性を持ち,逆に,オリジナルの 今・ここ> に存在するという価値=アウラを低下さ せてしまう。現在の人類の危機と,この伝統の震撼は表裏一体の関係にあり,それを最もよく代弁しているのが映画で ある。 (Ⅳ) 【メディアと知覚の変化; 共通なるもの>への欲求】歴 的に見て,人間集団の存在様式の変化は,メディア, つまり知覚様式を変える。現在起こっている変化は,大衆の台頭によるアウラの 落である。大衆は,事象を自 たち の方に引き寄せることを欲し,それを複製という形で手中にすることにより,事象の一回性を克服しようとしている。 事象からアウラを引き剥がし, 共通なるもの>を獲得しようとするのが,現代の知覚の特徴であり,理論領域において 統計的な えが重きをなしてきているのと同根である。 (Ⅴ) 【オリジナルの礼拝的価値】最古の芸術作品は,魔術的儀式に,ついで宗教的儀式のために用いられたのであり, アウラはその儀式的価値と密接に関わっている。写真の出現に伴って本格的になってきた危機に対し,芸術は「芸術の ための芸術」という神学を編み出すことで対応した。しかし肝腎なことは,複製技術が, 上初めて,芸術を儀式への 寄生から解放したことである。芸術は,複製されることを狙って,複製可能度を高めていくだろう。芸術は,儀式でな く,政治を根拠とするようになるであろう。 (Ⅵ) 【芸術作品の礼拝的価値と展示的価値;現代の芸術の遊戯的傾向】古代の芸術作品は礼拝的価値に傾き,そのゆ えに魔術的儀式に用いられた。複製技術が芸術をそうした儀式から解放してから,芸術は展示的価値の方に傾いてきて いる。古代の芸術制作と現代の映画制作を比較してみると,芸術の機能変化がよく理解できる。前者は,人間が投入さ れやり直しがきかない技術であるのに対し,後者は,なるべく人間の投入を減らし,やり直しがきくところに特徴を持 つ。前者は,真剣さと厳格さの傾向を帯び,後者は,遊戯性と無拘束性の傾向を帯びる。今日の芸術の社会的機能は, 自然と人間の共同の遊戯を練習することである。 (Ⅶ) 【写真の意義】初期の写真は,肖像写真に われ一定の礼拝的価値を持ったが,やがてアジェのパリ街路の写真 の如く人間抜きでも撮影されるようになった。それは歴 的証拠物件であり,その意味で,写真というメディアに隠さ れた政治的意義を暗示している。人々は写真を見て瞑想するわけにはいかず,説明文が不可欠のものとなった。映画で は1つの映像の説明は,それに先行する一連の映像が供給する。 (Ⅷ) 【映画の編集可能性と永遠性との訣別】古代ギリシャの彫刻作品と現代の映画の最も重要な相違は,前者がやり 直しの利かない1回限りの行為であるのに対し,後者が改良可能性を持つということだ。彫刻はそれにより永遠性の刻 印を帯びるが,映画はモンタージュ方式で制作され,永遠性を断念している。 (Ⅸ) 【映画論の見落としているもの】写真と映画の芸術的価値について種々議論が行われてきたが,芸術の機能変化 は見過ごされてきた。映画についての理論は,映画を「芸術」に組み入れよう,映画の中に礼拝的要素を読み取ろうと している。 (Ⅹ) 【映画俳優のしていること】映画俳優のしていることは,機械の前で演技するという実験的営為であり,彼(彼 女)は機械の前で人間性を保持していなくてはならない。労働者たちは,工場や事務室で機械的な器具や機構に直面し て自己疎外に陥っているが,映画俳優は,それと相同の環境の中で,機械的な器具や機構に打ち勝ち,人間性を主張し ている。そこに展示価値が生まれてくる。 ( ) 【映画俳優がアウラを断念した中で演技をしていること】映画俳優は,舞台俳優とは根本的に違って,自 の人 格のアウラは断念しなければならない。演技は一貫して続けられず,スタジオや相手役の都合などに影響されながら, きれぎれに 断されたシーンで演じる。「美しい仮象」の王国からすでに脱していることをこれ以上に示すものはない。 ( ) 【映画と大衆;その危険】映画の映像は,俳優から切り離されて大衆の前に運ばれていく。つまりコントロール

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しているのは大衆である。しかし映画資本が映画を牛耳っているかぎり,スター崇拝や観客崇拝という手口で大衆の心 性を腐敗させ,ファシズムが巧妙に利用する危険性が潜んでいる。 ( )【映画に登場したいという欲求の意義】文学において,少数の書き手と多数の読み手という関係が,どんな人で も書き手になり得る状況にシフトしつつあるのと同様に,映画においても,多くの人が映画に登場したいという欲求を 持つようになっている。それは,労働過程にいる自 を再現するという大きな意義を秘めたものなのだが,映画資本は, 巨大なジャーナリズムを利用して,スターの出世物語や恋愛沙汰などで,大衆の関心をそらそうとしている。映画資本 の接収がプロレタリアートの緊急の必要事である。 ( )【映画のモンタージュ性とその意義】映画は舞台劇とは違い,イリュージョンは撮影後のフィルム編集によって 生まれてくる。機械から自由に現実を見る視点は,人工的な技術から生まれている。 画家と映画の撮影技師の違いは,呪術師と外科医の違いになぞらえられる。画家が描く対象物との自然な距離を保つ ように,呪術師は患者との自然な距離を保ち,ある場合には,その権威によって,距離を大きくしさえする。一方,撮 影技師は,外科医が患者の身体の中に手を入れ諸器官をまさぐるように,撮影対象の奥深くに け入り,ばらばらの映 像を取りだしてくる。そしてそれらの映像が寄せ集められ一つの構成体にまとめられるのだが,その工程は,機構に浸 透されたばらばらの現実を再糾合する視点を供給してくれるゆえに,今日の社会において意義を持つ。 ( )【映画館の中で大衆が進歩的になれる理由】大衆はピカソの新しさには後進的態度しかとれないが,チャップリ ンの映画に対しては進歩的態度が取れる。それは映画館にあっては, 衆の 体的な反応に観客が感化されるからであ る。それに対し,美術館で1人ないし少人数で絵画を鑑賞しているときには,因習的なものを無批判で受け入れ,真に 新しいものには反感を持つ傾向に陥る。絵画は本来,集団による同時的受容に不向きであるのに,美術館で大衆に展示 されるためにこうしたことが生じるのである。映画館では,大衆は,専門家的な判断をくだしながらも,親密な絆を保っ ていられる。 ( )【映画が無意識を映し出しカタルシス的役割を果たすこと】映画は,われわれを閉じこめ支配している牢獄のよ うな空間に,クローズアップや高速度撮影等の技術で け入り,人間の意識が浸透している空間に代って,無意識が浸 透している空間を現出させた。異常心理や夢という個人的知覚をも,集団的知覚にすることが可能になる。ミッキーマ ウスのように万国に通用する集団的な夢の 出も可能になった。こうしたことには,大衆の異常心理を先回りして外化 して見せ,予防接種的な役割を果たす意義がある。精神療法に似て,無意識の心理的抑圧を爆発させるのである。 ( )【ダダイズムが映画の先駆であったこと】芸術には自らの危機を救うために,過去の豊饒な歴 から力を得て, 奇矯で粗野な形で,新しい芸術形式を予告することがある。ダダイズムが絵画という形式で生みだそうとしていたのは, 今日の映画の効果だった。ダダイストたちは自 たちの作品から,複製芸術の諸特徴を援用することで,故意にアウラ を消滅させ,沈思や瞑想の対象でなくそうと試みた。外見的な魅惑に替えて,気散じ的な弾丸として人の感覚にショッ クを与える,触覚的な特色を持たせたのである。 ( )【映画と 築;くつろぎの受容】これまでの絵画鑑賞につきまとっていた,精神集中して作品の中に沈潜すると いう受容方式は,大衆のくつろいだ映画受容と対照をなしている。それなくしては生活が成り立たない,それゆえに最 も歴 の長い 築という芸術を えてみよう。人々は 築を,慣れを通じて触覚的に,くつろいで受容している。人間 の知覚に関する諸課題は,視覚的に緊張することによっては解決され得ない。どれだけくつろげるかが,その解決に慣 れてきたかの目安になる。 ( )【ファシズムとコミュニズム】現代のプロレタリア大衆は,所有関係の廃絶を目指しているが,ファシズムはこ の所有関係を温存したまま,政治生活の耽美化で大衆に表現の場を与えることによって大衆を操作しようとしている。 政治の耽美主義の頂点には戦争がある。戦争だけが,旧来の所有関係を保存したまま,大規模な大衆運動に目標を与え ることができる。戦争は技術も 動員するため,現在の帝国主義的戦争の残酷極まる諸特徴は,巨大な生産手段の資源 を求めての反乱ということから説明できる。マリネッティが讃美した戦争の美しさは,ファシズムによる芸術のための 芸術で,人類の自己疎外は,自 たちの絶滅を美的な享楽とするまでに至っている。ファシズムは政治を耽美化するが, コミュニズムは芸術を政治化する。

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* * * * * * * 「複製技術時代の芸術作品」で名高いのは,複製技術の発達によって芸術作品の「アウラ」が 落 したというテーゼであるが,ベンヤミンがこれによって主張したことは,どことなく,旧教の儀式性, 神秘性からの脱却を図った宗教改革を連想させる。新教は,旧教の秘蹟や聖伝といったアウラ的な ヴェールを一部取り払ったとも言える。また絵画 で言えば,写実主義や印象派の行った革命にも一 脈通ずるところがある。たとえばそれまでの裸体画は,神話的,宗教的なヴェール(アウラ)で包ま れていた理想化された裸体画であった たとえばアングルの有名な「泉」はその典型である のだ が,クールベの「泉」はそうした理想化のない現実的な裸体画であり(そして意義深いことに,どう やらそれを描くのに当時出回るようになっていた裸体写真を ったらしい),マネの「草上の食事」に 至っては,それまでの神話や宗教のヴェールを大胆に剥ぎとり,日常的現実の書割りのただ中に裸体 の女性を置き,それを眺める着衣の男をも画面に入れ,それによって eroticism の度を増したのであっ た。 しかし,写真が行ったのは,それよりははるかにラディカルな視覚上の「革命」であり,そこに は神話や宗教のヴェールの入り込む はほとんどなくなってしまったというわけである。 ベンヤミンの「アウラ」の概念自体,宗教的脈絡からの連想があるのかもしれない。日本でも秘仏 は写真撮影を禁じていることが多いし,御開帳も1000年に1度というように極度に制限したりするの は,そのアウラを守るためであると解釈できる。写真に,そうした神秘性を損なう働きがあること, 神話的,宗教的権威が,俗世間から意図的にでも「距離」を置くことによってその権威を保とうとす ることは,ベンヤミンの指摘に合致する。「アウラ」概念が初めて登場するのは「写真小 」で,英訳 では以下のようになっている。

What is aura, actually? A strange web of space and time: the unique appearance of a distance, no matter how close it may be. While at rest on a summers noon, to trace a range of mountains on the horizon, or a branch that throws its shadow on the observer, until the moment or the hour becomes part of their appearance―this is what it means to breathe the aura of those mountains, that branch.

下線部(a)の,“the unique appearance of a distance”の,「距離」という言葉がやや浮いて感じ られるが,ベンヤミンは,神話的,宗教的権威が持つ「距離」と響き合わせたいのであろう。この山 の稜線や,自 に影を落としている枝を目でなぞっていく体験にアウラを賦与するのは,下線部(b) に描写されている, 今> という時間の一回性が, ここ> の眺めと溶融する感覚である。よく えて みれば,これは画家が実際に絵を描いているときの,画家の目と心の働きを描写したものになってい る。たとえばフェルメールの「デルフト眺望」(1660-61頃)やワイエスの「クリスティーナの世界」 (1948)などを想起してみても,静止した画面の中に, 今> と ここ> が劇的に“web”を成してい るかのような“appearance”が確かに感じられよう。

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「複製技術時代の芸術作品」では,続いてベンヤミンの えていることの核心的部 の説明がなさ れる。

...the desire of the present-day masses to get closer to things, and their equally passionate concern for overcoming each thing s uniqueness[Uberwindung des Einmaligen jeder Gegebenheit]by assimilating it as a reproduction. Everyday the urge grows stronger to get hold of an object at close range in an image[Bild],or better,in a facsimile[Abbild],a reproduction. And the reproduction[Reproduktion], as offered by illustrated magazines and newsreels, differs unmistakably from the image. Uniqueness and permanence are as closely entwined in the latter as are transitoriness and repeatability in the former. The stripping of the veil from the object, the destruction of the aura, is the signature of a perception whose sense for all that is the same in the world has so increased that, by means of reproduction, it extracts sameness even from what is unique. (Italics editors; underlines mine.)

下線部(a)は,Bild 具体的には絵画や彫刻 には,einmalig(一回的)なもの,つまり, 今・ ここにしかないもの>と 永遠性>が絡み合っているのに対し,複製 たとえば写真 においては, 何回でも出現し得るもの> と 一時性> が絡み合っているという主張である。 一回性> とアウラの相関性は,たとえば,直筆の手紙と電子メールを比較してみると,直筆の手 紙には絵画とよく似た,唯一性による「アウラ」が存するが,それは,簡 な複製可能性と世界共通 性を持つ電子メールでは消えてしまうとという今日的な主張にも通じよう。しかし,手紙のアナロジー を続けると,電子メールが登場してきたことで手紙というものの「アウラ」が 落するというふうに は感じられず,むしろ逆に,手軽な電子メール全盛の時代にあって,手紙は希少価値を持つようになっ たとも えられる。丁寧に書かれた直筆の手紙を受け取る嬉しさは,旧に倍するようにさえなってき た。日常用具,日常雑器においても,機械によるマス・プロダクションの製品よりは,1品手造りの ものを人々が好む傾向が見られるが,それはそうした唯一性の魅力がいっそう際立つからだと説明で きよう。そうなると絵画の場合も,複製がどれだけ出回ろうが,オリジナルの「アウラ」は損なわれ るどころか,いっそう輝きを増すという えも十 に成立し得るのではないか。どんなに精巧な写真 版の複製を作っても,フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の青やゴヤの「裸のマハ」の肌の色の 魅力を出すのは不可能であろう。むしろ複製でその魅力を感じ,オリジナルを見たいという欲求を強 め,実際にオリジナルを見て,複製との違いを確認することが多いに違いない。とすれば,オリジナ ルの「アウラ」は少しも 落していないことになりはしないか。 また逆の面を検証してみると,複製にアウラが認めにくいというのも,一般的な傾向としては認め られるが,では複製ではまったく「芸術鑑賞」にならないのであろうか。 …それは,麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で,彼[ゴッホ]が自殺する直前に描いた有名な画の見 事な複製であった。(中略)ただ一種異様な画面が突如として現れ,僕は,とうとうその前にしゃがみ込んで 了った。

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熟れ切った麦は,金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり,それが傷口の様に稲妻形に裂けて, 青磁色の草の緑に縁取られた小道の泥が,イングリッシュ・レッドというのか知らん,牛肉色に剥き出てい る。空は紺青だが,嵐を孕んで,落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思え ば,突然,休止符が来て,烏の群れが音もなく舞っており,旧約聖書の登場人物めいた影が,今,麦の穂の 向うに消えた 僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は,余り確かではない。寧ろ,僕は,或る一つの巨き な眼に見据えられ,動けずにいた様に思われる。 これは,小林秀雄が,昭和22年の東京都美術館の「泰西名画展覧会」で,ゴッホの「烏のいる麦畑」 (1890)を見たときの体験を記した文章で,小林の鋭敏な感覚を例証するのによく引かれる有名な逸 話であるが,これは複製であり,小林自身も複製と知った上で見ているのである。そうなると,オリ ジナルの「アウラ」がない写真版の複製でも,鑑賞者によっては「魔術的」「礼拝的」体験は可能だと いうことになる。実際,音楽の電子的複製では,そうした体験は日常茶飯事であって,われわれは生 の演奏の音とは明らかに違う音を聞きながらも,音楽を高級芸術として享受している。 続く下線部(b)では,ヴェールを引き剥がしてアウラを破壊するというところに,大衆の“sense for all that is the same in the world”という感覚が働いているとされている。この部 は,日本語 訳では,「世界における平等への感覚」とか「世の中に存在する同種なるものに対する感覚」となって いてやや かりにくい。世界中で同じように通用する,格差のない共通性を求める感覚ということで あろう。 統計>が適切なアナロジーとなっている。統計は,統計の対象になっている事象以外は差を 認めない。それと同じように,手描きの絵では個体差がどうしても問題になるが,写真であれば,全 世界共通の普遍性がある。レンズという目と感光フィルムという網膜には,誰がカメラを操作しても 大差のない視像が写る。大衆はそちらを望んでいるのであり,それによって,それまで絵画を包んで いたアウラのヴェールが取り払われ,これまでその下に隠れていた 共通なるもの> が引き出されて くるという主張に思われる。 たとえば映画を えてみると,確かに,アメリカであれほど隆盛をきわめた背景には,世界各地か ら集まって来た移民が,言葉や文化的な差異を感じないで,同じように楽しめるメディアであるとい う要因が間違いなく作用していた。恋愛の成就や富の獲得と言うハッピー・エンディングも,個々ば らばらの不幸のあり方よりは,はるかに共通性が高く,大衆はそれを歓迎したのである。それに対し, それまでの西洋絵画や彫刻は,いかにも上流階級的,ブルジョア的なものを纏いつかせており,誰で あれ所有できるものでも鑑賞できるものでもなかった。しかし複製であれば,安価に所有できる上に, そこには完璧な共通性がある。田中家の「モナリザ」の複製とジョーンズ家の「モナリザ」の複製は 同じである。大衆は,映画を楽しむように「名画」を楽しむようになったのである。 われわれが複製の恩恵によっていろいろな芸術を楽しむようになったというのは れもない事実で あるが,複製の氾濫によって,大衆は,オリジナルからも 共通なるもの> を引き出すに至ったとい うベンヤミンの主張ははたして正しいのであろうか。つまり,美術館に行ってオリジナルを鑑賞する 大衆は,かつての鑑賞者たちが楽しんでいた「アウラ」ではなく,オリジナルも複製もたいして違い

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はないという 共通なるもの> を見るために行くのであろうか。事実はむしろ逆で,大衆は,複製に はないものをオリジナルに求めて美術館に行くことのほうが多いであろう。たとえばレンブラントや ヴェラスケスといった,大きな画面で,微妙な色感や光の効果を達成している作品の場合は特に,オ リジナルと複製の差は,われわれ大衆にもはっきり識別できるように感じられる。オリジナルには, ベンヤミンの主張とはうらはらに, 共通ならざるもの> が感得されるのである。 * * * * * * * 「複製芸術時代の芸術作品」第Ⅷ節以降は,実質的に,映画論になっている。おそらくベンヤミン は「写真小 」で写真について適用した原理を,「複製芸術時代の芸術作品」で映画について適用しよ うとしているようだ。しかしこの映画論は,現代のわれわれの目から見ると,いろいろと瑕疵が目に つく。 ベンヤミンは,舞台芸術(演劇)においては,俳優は生きた観客を前にし,その役になり切って演 ずるがゆえにアウラを保ち得るが,スタジオのセットや,カメラといった機械装置を前にして演じる 映画俳優は,それを断念せざるを得ないと言う。しかし演劇においても, 古の段階では殺風景な 古場の空間で,場面ごとにきれぎれに,演出家やその他の各専門家を前にして演技せねばならず,映 画撮影の場合とそんなに違うとも思えない。映画俳優にしても「役づくり」は必須で,台本で映画の 全体を頭に入れた上で,どのような断片的な場面を指示されても,演技に入れば,その瞬間には役に 没入できるのが真の役者というものであろう。むしろ何もかも限られた舞台の上で,自 の肉体の欠 点をさらけだして演じなければならない舞台俳優のほうが,「アウラ」は保ちにくいようにさえ感じら れる。映画ではあんなにアウラに充ちて見えた俳優が,舞台の上では一向に映えないという観劇経験 を持つ人は多いはずだ。俳優自身に「花」があれば,それはカメラを通しても十 観客に伝わってく るであろう。 特に,映画俳優が,機械装置に対して自 の人間性を守り抜くことによって,日々機械装置に従属 している労働者に,あるべき姿を提示しているという説は,どう贔屓目に見てもこじつけめいている。 そんなことであれば,人間性を失わずに自動車を運転している労働者は,労働者の鑑ということになっ てしまう。 絵画鑑賞は孤独,ないし少人数の鑑賞になってしまうが,映画では映画館の集団的な反応に影響さ れて,進歩的な態度が取れるというのも,あまりに単純化された議論と言わざるを得ない。それなら 舞台芸術でもいっそうそういうことになりはしないか。それでいて舞台芸術はアウラを保存している のであれば,自己撞着になってしまう。チャップリンに対して観衆が喝 を惜しまないのは,ベンヤ ミンが主張するのとは逆に,チャップリンにアウラが感じられ,映画が面白いからのことであって, 退屈な筋書きの映画を,魅力のない俳優が演じれば,不満や非難は当然出て来よう。それは個々の映 画のコンテンツの問題であって,映画というメディア固有の問題ではない。

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現代人の感覚で言えば,映画館へは孤独になるために入っていくことが多い。暗がりの中でスクリー ンに映しだされるイリュージョンに,徹頭徹尾,孤独に応接しようとする。映画のほうもそのように 作られているものが少なくない。たとえば「ブルックリン最終出口」にコミュナルに反応することは 難しいであろう。複製技術がさらに高度化し,ビデオや DVD が開発されると,それが人気を博したの も,映画を1人だけで鑑賞する享受法が一般的であったことを裏づけている。コミュナルな反応は, 映画よりも,舞台,寄席,ライブ・コンサートに求められるだろう。 映画にモンタージュ性があるのはベンヤミンの指摘に俟つまでもなく,映画や複製音楽(レコード, CD 等)では,撮影,録音後の編集を前提にしている。映画にしか出演しない俳優,複製音楽でなけれ ば演奏しない演奏者もいる。ただし,ダダイスムが,映画で行われるようになることの予兆であった というベンヤミンの説は疑わしいように思う。ダダイスムの平面でのモンタージュ操作 ミシンと傘 を解剖台の上で出会わせるようなこと は,映画が,バラバラに撮影したフィルムをストーリーに合 わせて常識に合致するように繫いでいくのとは逆の面がある。ダダイスムのモンタージュは破壊的な 面を持っているのに対し,映画の編集は構築的である。ダダイスムの中に,アウラ的なるものの破壊 という衝動もあったかもしれないが,それよりは芸術の悪い意味での取り澄ましや因襲性に対する反 逆が第一の衝動であろう。時代の先端に立つという,感覚上の実験という色彩が強かったであろうし, センセーショナリズムの動機もあったであろう。 第 節に述べられている,「くつろいだ」「触覚的」な芸術の受容が,知覚に課せられる課題の解決 にとって重要だという主張は,興味深く聞えるものの,詳しい説明がなく,曖昧でよく からない。 多木浩二は,『ベンヤミン「複製芸術時代の芸術作品」精読』 において,「複製芸術時代の芸術作品」 に出てくる諸要素を互いに関連づけており,第Ⅵ節につけられた原注の(10)を「理論的白眉」とし て強調しているが,その指摘は正しいように思われる。注の(10)と第Ⅵ節を併せ読んで図式化する と大体次のようになると思われる 芸術の源泉は古来ミメーシス,つまり模倣であり,原始的なミ メーシスは,自然界にあるものの外観を身体で真似すること,すなわち外観を演じる(“play”)ことだ。 このようにミメーシスという胚の中には,「外観」と「演技(遊び)」が二枚の子葉のように絡まり合っ てまどろんでいる。そしてこの二者は,歴 の中で対立する2つの技術,即ち(本文に述べてある) 第一の魔術的な技術と第二の科学的な技術,に対応しているので,歴 の中で,弁証法的関係に立っ て働きはじめる。そして礼拝的価値は前者に,展示的価値は後者に含まれている。 ここまでの議論は,[外観・礼拝的価値(アウラ)]と,[演技(遊び)・展示的価値]という概念が, けっして恣意的なものではなく,ミメーシスという伝統的な芸術概念との間に血縁関係(正統性)を 有することを主張したものである。そしてそれらが,それぞれ,魔術的技術と科学的技術に対応して いると示唆し,この2つの技術が弁証法的関係にあるのだから,「外観」と「演技(遊び)」も対立概 念になり,そして映画においては,外観・礼拝的価値は 落し,代って第二の技術と同盟した演技(遊 技)的要素が台頭するので,そこに大きな遊戯的空間(Spiel-Raum)の展望が開けてくるという理屈 である。

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以上,一応話の筋は通っており,感覚的に納得できる部 はあるものの,芸術の源泉をミメーシス であると断定してよいものかどうか覚束ないし,その原初的形態の模倣が,「外観を演じる」ことだか ら,そこには「外観」と「演技(遊び)」の二要素があるというあたり,またそれらを,魔術的な技術 と科学的な技術に結びつけて弁証法的関係に立たせるあたり,幾つもの危うい直感的断定の上に立っ た議論であることは否めない。Spielというドイツ語には「演技」「遊び」という2つの意味があるの で,イメージ的には通じるのだが,違った言語,たとえば日本語で えると,すんなりとは理解しに くい。 絵画と映画という2つのかなり異質なメディアを対比させているのも,論理的には大きな欠陥であ る。絵画と写真の比較であれば,メディア的な類似性が多いのであるが,それでは Spielのイメージは うまく機能しない。安井曽太郎の「薔薇」(1932)と,そのモデルを撮影した写真を比べて,前者に「外 観」(アウラ)があるというのは理解できても,後者に「演技(遊び)」があるというのはまったく説 得力を持たない。クレーの魚の絵には,実物の写真よりもはるかに豊かな遊び心がないであろうか? そもそも,芸術の原初を魔術的儀式,宗教的儀式に同定させるのはどんなものであろう。ラスコー の洞窟壁画が,聖霊たちに見せるものであったというのも1つの推定にすぎず,それとはまったく違 う推定をしている美術 家もいる。弥生式土器には美しい姿のものが少なくないが,そこに呪術的, 宗教的感触はまず感じられない。日常 う器物に美が宿るというのも,芸術の1つの源泉がそこにあ ることを示唆している。原始時代から,人間は自然の美を見出して,それを,呪術とは関係のない素 朴な形ででも生活の中に取り入れようとしてきたことは,無数に残存する器物の姿形や装飾文様に明 らかに見て取れる。 「くつろぎ」と「触覚性」についても,素朴に えれば,次から次に動きのある視覚的な刺激を一 方的に与えられ,その情報処理にいとまがない映画の方が視覚的な緊張を強いられ,逆に,自 のペー スでゆったりと,絵にあるものを探索できる絵画の方が触覚的だと言えなくもない。器物芸術の場合 は,触覚こそ生命であり,実は絵画でも,こうした質感(feel)が大きな魅力になっていることは,ほ とんどの美術愛好家が知悉しているところである。このあたりの感覚的なことは,どのようにでも言 い得るところがあり,1つの定式に限定するのは難しいのではなかろうか。 最終節に述べてある,政治の審美化が, 民の目を 富の格差からそらすのに利用され,戦争にお いてその頂点を迎えるという指摘は,歴 的に的確な予言であったと言えよう。われわれの歴 を 見しても,かつて権力者の庇護のもとで生き びてきた芸術が,一見独立したように見えて,再び脆 くも権力者に仕えるようになってしまった痛ましい過去が甦ってくる。(日本の戦時中のプロパガンダ 絵画は,すでに 滅させられたのでなければ,現在われわれの目に触れないところに隠されている。) しかし同時に,ベンヤミンの唱道する芸術の政治化というものが,その後の現実の中でどのような事 態を招くことになったかについても,われわれはよく知っているのである。 * * * * * * *

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ベンヤミンの所論には,優れた洞察が間違いなく含まれているのに,どうして今日から見ると,こ のように様々な欠陥が目につくのであろうか。第一の原因は,その歴 観の 直性にある。第Ⅰ節に 明言してあるように,「複製芸術時代の芸術作品」は唯物 観に基づいており,マルクスの,資本主義 はやがてその内部矛盾によって,資本主義自体の廃絶を可能にするような諸条件を生み出すであろう という予測がまず正しいものとして信じられ,そうであれば,「芸術」という上部構造においても相同 のことが生起するであろうという予測から議論が組み立てられているとすれば,学問的態度としては 不適切なものになってしまう。自然が自然科学的に割り切るには複雑すぎるように,人間も社会科学 的に割り切るには奇々怪々であって,当然ながら歴 はマルクスの 式的な予測を裏切るような展開 となり,そのことによって,ベンヤミンの予測の稚拙な部 も痛ましいほどに露呈されたのである。 「弁証法」概念の適用にも無理が目立つ。 しかしそのように批判するのは,その後の歴 的展開を知っている人間の,いい気な言い様かもし れない。1935-6年当時のヨーロッパに身を置いて えてみれば,選択肢は限られていたであろう。ベ ンヤミンが「複製芸術時代の芸術作品」を執筆したのは,ファシズムの脅威を感じながらのもので, ファシズムに対抗する最強の知的拠点が,ファシズムの異形の兄弟とも言えるコミュニズムであった 時代のことである。(日本でも似た社会現象が生じ,有島武郎,亀井勝一郎などを見ても かるように, 知的選良にしてコミュニストにあらざれば,道義に悖ると見なされる風潮があった。)ユダヤ系である 上に,コミュニズムへの賛同を示すことは,危険を倍増させることになるのであれば,勇気も必要で ある。事実,ベンヤミンは,結局,ファシズムの追跡の手を逃れられず,自殺に追い込まれてしまう。 最終節に長く引用してある,未来派のマリネッティによる戦争の耽美化ほど,「芸術」の虚妄を見せつ けてくれるものはなかったであろう。「美しき仮象」たる芸術が,残酷極まる戦争を讃美し始めるのを 目にすれば,誰しもこれまでの芸術に対する信頼を失うというものであり,そういう当時の状況を想 像してみると,ベンヤミンが映画という新しいメディアに救済の希望を見出したのも何となく首肯け るのである。ディズニーのミッキーマウスやチャップリンの映画には,神秘めかした胡散臭さはない。 それらは,大衆に寄りそうものであり,映画館の中での大衆の明るい哄笑には,明るい未来を感じさ せてくれるものがあったであろう。映画は,大衆の心強い味方になってくれるメディアであるという 印象は誰にも感じられたのではなかろうか。かりにその後の映画の歴 が,ベンヤミンが一抹の危惧 を吐露しているように,資本主義に寄生したり,その に喘ぐようになったりしたとしても。 本稿では,ベンヤミンの第二の 直性を示している「芸術」の概念について,社会情報学的観点か ら 析を試みてみたい。ウード・クルターマン『芸術論の歴 』神林恒道・太田喬夫訳(勁草書房, 1993)は,古代から現代に至る芸術論を かりやすく概観させてくれるが,西洋の芸術に関する形而 上学は,この世の構造についての形而上学と連動しており,驚くべき多様性を示している。芸術の本 質というようなことになると,ある学説を決定版として措定することなどとてもできないのである。 そうなると,「芸術」に付随する真正性の証しである「アウラ」という概念も,ある芸術作品には適用 可能だと感覚的には納得できるとしても,「複製芸術時代の芸術作品」におけるように何の限定条件も

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なく提出されると,非常に独断的な議論になってしまう。皮肉なことに,「アウラ」というのが,ベン ヤミン自身がそうした危うい芸術論の危険を察知して提出された概念なのである。

They[「複製芸術時代の芸術作品」で扱うテーゼ]neutralize a number of traditional concepts―such as creativity and genius,eternal value and mystery―which,used in an uncontrolled way(and controlling them is difficult today), allow factual material to be manipulated in the interests of fascism.

「アウラ」という概念が,「 造性」「天才」「永遠の価値」「神秘」といった概念にもまして茫漠と してつかみ難いものであることは,上に論じた通りである。 現代の高度情報化社会においては,いわゆる「情報」と「芸術作品」と呼ばれていたものとの境界 が次第にぼやけてきているという顕著な現象が見て取れる。インターネット上には,非常に多くの情 報がある,とはよく言われることだが,その中には,文学作品も美術作品もデザインも,まるごと, 夥しく含まれている。そうなると,かつて「文化(culture)」という概念が,最初は限定的な意味で われていたのが,やがてその適用領域を急激に拡げていったのと似たことが,今「情報(information)」 という概念に起こっていると想像できるのである。つまりもう,芸術を情報とは違うカテゴリーのも のとして特別視しないで,情報世界の中の1つのジャンルとして見ていったほうがいい時代になって きているということだ。 「情報」と言って現在似つかわしいものに「地震情報」があるが,それがどのように制作されるか えてみよう。ある地域で地震が起こったとする。マスコミ各社は, 秒を争うように最寄りの支社 に電話を入れ,そこの社員を現地に派遣する。派遣された記者は,被害の状況,被災者の様子,救援 活動の見込み等について自 の目で確かめ,かつ聞き取り調査を行い,事実関係を収集し,文章にま とめて電子メールで本社に送る。受け取られた原稿は,他の情報ソースからの情報とつき合わされ確 認され,編集され,たとえばテレビ放送局の場合であれば,放送原稿としてまとめ上げられ,ニュー ス・キャスターによって読み上げられる。その音声は,電気信号に変換され,電波として流され,各 家 の受信装置にキャッチされ,テレビ受像機の中で再び音声に変換され,テレビの視聴者の耳に, 人間の声の複製として届く。視聴者の脳の中で,その言語コードは解読され,被害の状況,被災者の 様子,救援活動の見込み等についてのイメージが喚起されるのである。 このような場合,地震とそれに関連した「情報」が記者によって発信され,テレビというメディア を通じて,視聴者に受信されることによって,コミュニケーションが行われたというふうに理解され る。しかしよく えてみると,それはずいぶん単純化された理解の仕方であり,実際には,現地の人々 や 的機関の人々と報道記者との間で,言葉というメディアを介して,最初のコミュニケーションが 行われ,そしてさまざまな人々から得た情報を基にして,報道記者の頭の中で編集という情報処理が 行われ,自 自身にとって,また想定受信者の脳裡に,1つの有機的な pictureを形成するように,あ らかじめ定められたフォーミュラに従って文章化の作業が行われている。1人の記者が地震に見舞わ

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れた全地域を踏査することは物理的に不可能であり,「信頼できる」他からの情報に基づいて頭の中に 被害の全体的状況を思い描こうとするのである。この時点ですでに想像力と常識に基づく取捨選択が 行われているわけで,結果として出来上がるレポートは1つの情報に見えるが,実はすでに,複数の 情報から 合された「情報体」になっているのである。 では今度は絵を描く場合を えてみよう。ある画家が絵のモチーフを求めて旅に出るとする。何日 も山野をさまよい歩いた末,あるぽっかりとした場所に出て,そこから眺める山々の姿が,どうにも 美しく感じられる。これを描かずして何を描こうと,イーゼルを据え,一心不乱にデッサンを始める。 3ヶ月後,絵は完成する。彼はそれを馴染みの画商に見せ,画商はそれを見事な出来栄えの絵だと讃 えて引き取る。そしてその画商のギャラリーにしばらく展示されているうちに,ある日訪れた客がそ れに目を留め,たちまち魅了されて,その場で購入を決める。数日後,丁寧に梱包された絵が届けら れ,購入者はそれを壁に掛け,毎日のようにそれを眺めては目を楽しませるようになる。 さてこの場合は,「情報」という視点から見るとどのようなことが生起しているのであろうか。画家 が絵を描いているのは,記者の地震報道取材とは一見違うような印象を受けるが,どちらも現実を見 て,それを言葉や顔料によって記号化しているということでは選ぶところがない。出来上がったもの は,前者は文字による描写であり,後者は絵具による描写である。また画家が,山の襞や近くの樹々 や岩や雲や空の1つ1つと視覚的な対話を重ねながら情報収集を行い,ある場合には捨象して,それ らを自 のカンヴァス上に統合し,1つの 合的な「情報体」に仕上げることでも,地震情報の作成 と本質的には類似している。そしてこれらの情報体が,テレビや画商というメディアによって運ばれ, 最終的にテレビ視聴者や絵の購入者という受信者のもとに届けられ,受信者はその情報を解読(味読) し,受信者の脳裡に,発信者の脳裡に在った pictureが再現されるというわけである。 このように,芸術活動を記号化を通じた1つのコミュニケーションとして見るのは格別新しい え でもなく,例えばトルストイは1889年から10年近い時間をかけて著した「芸術とは何か」において, 古今の芸術論を論駁した後で,今日の目から見ても少しも古さを感じさせない芸術の定義に到達して いる。 一度経験した感じを自 の中に呼びおこすこと,そして,それを自 のなかに呼びおこしたら,動作,線, 色,音,言葉であらわされた形などの手段によってこの感じを他人もこれを経験できるように伝えること, これが芸術の働きである。すなわち芸術とは,ある人が自 の経験した感じを意識的に一定の外面的な符 号によって他人に伝え,他人はこの感じに感染して,それを経験するということで成り立つ人間の働きであ る。 上述したように,われわれは芸術の一意的な定義やあるべき姿というようなことには慎重でなけれ ばならない。しかし芸術の制作ということが,結局は,線描や顔料による「記号」や「象徴」の制作 に他ならず,それが受容者にコミュニケートされて,受容者に何らかの意味を生じる,という点では,

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情報伝達の 式に うものであることは否定しようがないのである。では問題は,芸術的情報はどう いう点で,地震情報とみずからを差異化しているのであろうか。 まず発信者の側から見てみよう。地震情報の記者の場合,取材現場で得たさまざまな見聞を基に, それを取捨選択,統合して,新たな情報体を,文字という記号で表す。画家の場合も,何かとコミュ ニケーションを行いながら得た情報を統合して新たな情報体を制作するところは同じであるが,何と どのようにコミュニケートしているのかは,外から見ているかぎり窺い知れないし,画家本人も特定 できないことが多いであろう。ここに「芸術とは何か」という本質論的な問いを持ち込むと, 糾は 避けられない。Aという画家は,外界の外貌を細密に模写することを狙い,Bという画家は,外界の 内奥にあるものを探り出そうとし,Cという画家は,外界に仮託して自 の中にある情念に形を与え ようとし,Dという画家は,現代の醜悪を批判的に描き出そうとし,Eという画家は,AやBやCや Dがしていることをパロディ化した絵を制作しようとしているとして,そのどれにも「芸術」の名を 与えるならば,情報の取材対象の多様性のために,「芸術」についてのそれ以上踏み込んだ定義は不可 能になってしまうのである。 次に,何らかのものとコミュニケートして,それを記号化,象徴化するプロセスを えてみても, やはり地震情報制作の場合とは大きく違うところが目につく。 第1にスタイルの問題がある。地震報道には,報道者のスタイル(文体)はほとんど認められず, むしろ抑圧される。速やかに事実だけを報じるために,「14日午前8時43 ごろ,東北地方で強い地震 があり,岩手県奥州市と宮城県栗原市で震度6強を観測,福島県と岩手県で計3人が死亡した」とい うような,ほとんど画一的に決められたフォーミュラに従って記事が書かれる。一方,芸術情報の制 作においては,情報制作者間の情報様式に大きな相違が認められるのである。たとえば写実を心がけ た風景画においてすらも直ちにそれが生じる。というのは,自然が含み持っている情報は, の木1 本でも無限にあって,それをすべて写し取ることは人間にできる業ではなく,10万画素のカメラなら, 10万画素 しか情報が摂取できないのと同じように,人間の肉眼においても,自然のような情報の大 海に臨むときには,取捨選択と編集は不可避であり,そこにどうしても個人差がでてきてしまうから である。質感や光の加減や立体感や生命の輝きといったものの情報,さらに画家の心の反応が対象物 に反映していく様も情報ということであれば,その取捨選択と編集において,個人のスタイルという ものが宿命的に形成されざるを得ず,そこを安易に行うようであれば,「日曜画家」の絵ということに なってしまう。これは記号化が一種の翻訳行為になっていると えれば理解しやすくなる。 ある優れた文学を別の言語に翻訳するとする。機械翻訳,ないし逐語訳的な翻訳をすると,優れた 文学の優れたところは雲散霧消してしまう。しかしもし優れた翻訳者が,この原文という「自然」に 相対するとすれば,Aという翻訳者とBという翻訳者では,同じような素晴らしさを原文Xに感じた としても,X−Aという対立から生まれる関係性の緊張は,X−Bのそれとはおのずと異なるのが自 然であろう。たとえば悲しさを見事に調べと化した歌を英語に翻訳するとして,その歌に悲しみの調 べをよく感得し得る翻訳者にしても,その調べをどのように再現するかには骨をおらずにはいられま

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い。違った言語への翻訳という絶望的な状況の中で,翻訳者は自 の心の中にその悲しみを再現し, それを自 の生きた言葉で歌わなければならない。そのときに,おのずとこれしかないと思える言葉 の組み合わせのスタイルには,どうしてもその翻訳者の刻印が打たれ,その翻訳者のスタイルが現わ れてしまうであろう。風景を描こうとする場合にも同じことが生じるのである。 ベンヤミンの「アウラ」説の無理は,この記号化の際の複雑さに対し, 今・ここ> という機械的な 符牒で処理しようとしたところにもある。また,われわれ読者が「芸術作品の aura」と聞いて連想す るのは,むしろ,画家が対象と格闘した果てに現われ出でたスタイルの霊妙さであって,ベンヤミン はその肝心な部 に触れぬままである。 第2に,記号化する際の情報の緊密度に大きな差異が認められる。地震情報の場合,記者が求める のは正確なデータであり,そのデータさえ取得すれば,報道記事は自然にできあがる。あるところに 入れたデータのせいで,他の部 全体が影響を蒙り全面的な変 を余儀なくされるということは え られない。しかし芸術的情報制作の場合はそうはいかない。よく出来た詩は,その中の1語と言えど も変えることは許されないような,緊密な必然性を以て構成されている。谷崎潤一郎の『春琴抄』に 寄せた,正宗白鳥の,「聖人出づると雖も一語を挿むこと能わざるべし」という評語もその感じに言及 したものだ。絵画の場合も同じことで,たとえばセザンヌの次の逸話は,そのデリケートさをよく物 語っている。 ヴォラールが,セザンヌのモデルになった経験を,くわしく書いている。坐りの悪いトランクの上に乗せ た椅子に,身動きも出来ず,毎日,幾時間も坐らされたが,光線の具合が悪かったとか,エレベーターの音 がしたとか,犬が吠えたとか,何や彼やと文句ばかり多くて,仕事は遅々として進まず,百十五回も,坐り に通ったが,とうとう絵は完成せず,セザンヌは田舎に帰って了った。手のところに二箇所,絵具がつかぬ 空白が残った。かねてから気にかかっていた空白なので,ヴォラールが,その事を言うと,私の絵で行き当 たりばったりに塗られたところは,何処にもない。うっかり塗れば,もう一度全体を描き直さねばならない 事になるだろう。今度パリに出てくるまでには,私も少しは進歩しているだろうから,空白を埋める色調の 見当がつくかもしれない。 また,最初にアイデアが完成していて,それに従うように描くという場合も えられなくはないが, それをすると得てして機械的な作り物になってしまう危険があることはどの芸術家も承知していると ころだ。むしろ,今し方外在化した言葉,音,顔料に新たに触発されるようにして次の言葉,音,顔 料に進んでいく場合がほとんどであろう。メディアと芸術家との間に弁証法的関係(対話)が生じる のである。 われわれが想像するのとは逆に,画家が自 の意思で制作を行おうと思えば思うほど結果は思わし くないことがあるようだ。同じくセザンヌの言葉を引くと 私は,左から,右から,此処から,彼処から,何処からでも,色調や色彩や影を持って来る,そしてこい つを固定する。一緒にする。すると,線が出来る。物になる。岩になる。樹になる。そうしようと えてい

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るわけではないのだがね。そいつ等が,自ら量感を装う,明度を手に入れる。そういう私のカンヴァスの上 の,量感とか明度とかが,私の眼前にある面とか色の斑点とかに照応するなら,しめたものだ。私のカンヴァ スは両手を握り合わせた事になる。ぐらつかない。上にも下にも行き過ぎない。真実であり,充実している。 だが,もし,少しでも気が散ったり,気が弱くなったり,特に,或る日写し過ぎたと思えば,今日は昨日と 反対な理論に引きずられたり,描き乍ら え込んだり,要するに私というものが干渉すると,凡ては台無し になって了う。何故だろう。 まるで,自然とカンヴァスが対話をしていて,セザンヌはその対話の取り持ち役といった調子であ る。しかしそのような実感があったであろうことは,彼の作品がよく示しているように思われる。そ してこうした一種の無私の精神で制作するというところに,いろいろな無意識的なコンテクストが忍 び込んでくる通路になっているのではないかと えられるのである。人間のたくらみなど底の知れた もので,そうしたさかしらが芸術の生命の障りになることはどの鑑賞者もよく知っていよう。 しかし,芸術的情報の制作は,画家によってまさしく千差万別の領域で,自我を強烈に打ちだす場 合もある。以下はゴッホの証言である。 眼前のものを正確に再現しようとせず,僕は僕自身を無理にも表現しようと,いよいよ気儘に色を うか らだ。まあ理窟は理窟として,実例で言おう。大きな夢を持ち,鶯が歌う様に仕事をしている,そんな気質 の芸術家の肖像が描きたいとする。彼は美男子だろう。僕は,画のなかに彼に関する僕の評価と愛情を叩き 込む。先ず,出来るだけ忠実に描く事から始める。だが,これは始めだけで,仕上げる時には勝手気儘な色 彩家になるのだ。髪の美しさを誇張する,オレンジの色調,クローム,薄いレモン・イエローまで行く。顔 の向うには,月並みな室の平凡な壁を描く代りに,僕は無限性を描く。 えられる限り最も強い豊かな青で 真率な背景を描く。明るい頭と豊かな青い背景との単純な結合から,青空の奥の星の様な神秘な効果を出す。 百姓の肖像も,無限の彼方にある淡い星の神秘的な光を出そうなどとは思わないが,やっぱり同じやり方を するよ。南の国のただ中で収穫物の溶鉱炉のただ中に立つ,恐ろしい様な人間を描くべきだと思っている。 だから,嵐の様なオレンジと 熱した鉄の様な生き生きとした赤の色彩,従って蔭の部 は古い黄金が光る 様な調子を出す。どうだね,おい,お人よし共は,ただ戯画の誇張を見るだけだろうよ。 また抽象画となると,芸術的情報を作成しながら自 を模索する場合も多くなってくる。 第一歩,つまり最初の一筆が,この空白[白い画布]全体をたっぷりと塗りつぶす。一つの空間が り出 され,白が光となり,画布が生き始めるのである。 われわれから生れ出たこの最初の種子,それはわれわれ自身であり,恐らく完全に自由なわれわれの唯一 の行為であろう。 第二歩,つまり二筆目が加えられると,もう一つの空間ともう一つの光が現われ出る。恐らく最初は,わ れわれ自身がそれを願ったのであろうが,今となっては,すでに生きている画布が,知らぬ間にわれわれを 導き始めたのである。 少しずつ身振りや呼び声を高めていきながら,時には後退しながら,かわるがわる自己を否定したり肯定 したりしながら,そして段々と満たされていく空白の中で行きつ戻りつしながら,この偉大で不確かな画布

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の生の動きそのものが,われわれを存在へと呼び招いてくれるだろう。 こうした芸術的情報制作の多様性に比べると,factualな情報作成の平板さが際立つ。地震情報を, 忘我状態で作成したり,自 の主張したいことを強烈に打ちだしたり,取材を自 の探究の手段にす るようでは,記者としては失格と見なされよう。 次に受信者側で起こっていることを,地震情報と芸術的情報の場合で比較してみよう。まず第1に, 受信した情報から取りだす pictureと意味が,情報の送り手が意図したものとどのくらい乖離してい るかが問題になる。発信者の情報作成時のプロセスが平板であればあるほど,受信者が受け取った情 報から取り出す pictureと意味は,発信者のそれと近似したものになりやすい。「明日3時に○○駅の 改札口を出たところにある△△という喫茶店でお会いしましょう」という情報は,発信者と受信者で ほとんど同じ pictureと意味を形成する。二人が約束を守るかぎり,会うという目的は確実に達成され るであろう。それに対して芸術的情報の場合は,「芸術度」が高まれば高まるほど,受信者の picture と意味は,発信者のそれと同じであるかどうか覚束なくなり,そもそもそれを確かめる術もないので ある。むしろ受信者に応じて,いろいろなニュアンスの pictureと意味が得られる幅と奥行きがない と,芸術作品としてうまく機能しない面がある。 第2に,情報行動の視点から見てみよう。地震情報は,まず受信者自身にとって危険がどの程度の ものであるかを知らせることが最も重要な役割である。地震の結果,大きな津波が来る可能性があれ ば,当該地域の住民は即刻避難する必要があり,当該地域に縁故のある人がいれば,安否を尋ねると いう行動に及ぶであろう。道路情報も,行こうと思っていた高速道路が40㎞の渋滞であると知らされ れば,行くのを見合わせるか 期しようかということになる。株価が上がったという株式情報は,受 信者に株を売るという行為を取らせる。つまりこれらは保命,苦労の回避,利益に向かう,自 を何 らかの形で利する行動である。情報が最も vitalな価値を持つのは言うまでもなく戦争で,敵の陣容, 戦力,作戦についての情報を,諜報活動によって入手し,それに対して最も戦果を挙げ得る行動を取 ることが,自軍の兵士たち,ひいては自国の国民の命を守ることになる。これらに比べると,芸術情 報は,現実的な利得とは関係が薄く,音楽のように身体を動かすことを促す芸術もあるが,造形美術 の場合は,人間を直接行動に駆り立てることは少なく,沈黙し身体を静かにして,観照的,内省的に なるよう鑑賞者を誘う場合が圧倒的に多いのである。 第3は,情報価値の持続ということである。地震報道の場合,いったん消費されてしまえば,その 情報はもうほとんど省みられることはない。しかしそれに対し芸術情報の場合は,長期に亙って享受 される。受信者のほうも,一挙にすべてを見てしまうことは期待していない。それよりもむしろ時間 を掛けて細部を見渡しながら,いろいろな発見をするのを楽しみにするようになる。そして時間を掛 けて見れば見るほど味わいが増し,作品にいっそうの愛着を覚えるようになるところが,地震情報へ の対応とはまるで違っている。それは一体どのようなところから来るのであろうか。 絵画情報であるということ自体から来るのでないことは明白で,下手に描かれた絵であれば,地震

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情報以上に早く見向きもしなくなるかもしれない。こうした鑑賞の持続と深まりは,優れた芸術に限っ て現れる現象であり,優れた芸術を証しするものとも言えよう。1つには,画面に籠められた情報量 が豊かであるということが えられる。色合いにしても,得も言われぬ色調にはそれだけの秘密があ るに違いなく,1本の線にしても,北斎が夢見た「百十有歳にして一点一画生けるが如くならん」と いう線なら見飽きることはない。それは曲がり具合や濃淡や強弱や勢いというものが,関係性の網目 の中に無数の情報を包蔵し,しかもそれらが何らかの統御を得て,生きた自在を得ている線であろう。 そのことと関連するが,情報が訴えかける受信者の精神的機能という点でも,地震情報と芸術的情 報では異なっているように感じられる。前者が訴えかけるのは専ら理性であり,後者が訴えかけるの は,理性である場合もあるにはあっても,ほとんどの場合は,われわれが,理性とは区別して呼び習 わしている諸機能 感情,感覚,感性,心,精神,魂 である。これらの機能は,科学的な実証性 を欠くものであるが,芸術によってその実体を感知できるものにされる。 次に,情報の形態という観点から比較してみよう。地震情報の場合は,テレビの場合は言葉(音声) であり映像である。そのどちらもが,瞬間瞬間に消え行くものだ。一方,山々の風景を描いた芸術の 場合は,情報は映像だけであり,言葉は伴っていない。映像は固定化され,持続性を持つ。この瞬時 瞬時に消えていく現象と,時間的な持続性を持ち,空間的な存在でもあるモノとの対照は印象的な違 いである。では言葉(文字),映像(写真)が固定化されている新聞や週刊誌は,モノであるという点 において造形芸術と同じであろうか,違っているとすればどう違うのであろうか。新聞の文字は,す べての文字情報と同様,形態はインクのシミという物質であるが,もともと音声の言葉を母体として 発案されたものであるので,音声に変換しなおして理解される疑似音声で,時間的な本質を保持して いる。黙読する場合でも,時間的に,文字列に ってリニアーに行わねば意味を生じ得ない。その点 で,モノとして超時間的に存在し,また鑑賞においてもホリスティックに行える絵画とは異なってい る。また地震を報じる写真は,それ自体は,絵画と同じ部 を共有しているが,違うのは,たとえば 土砂崩れで道が塞がっている写真は,文字情報の illustrationとして 用されているのであり,あくま で文字情報の補助手段であって,その意味で,モノそれ自体の重みというのは薄弱である。 そういう意味で えてみると,造形美術というものは,同じ芸術の代表格である音楽や文学とも, この情報形態という点で性格を異にしている。音楽も文学も時間というものの中で開花する芸術形式 であるが,造形美術は,無時間性というところにその独特な特色を持っている。このことが情報的に どう特異かというと,地震報道の場合,言葉や映像というメディアが,情報を内包して,テレビとい うメディアで運ばれて,受信者に届けられ,受信者が情報を decodeして意味を取り出すという操作を 行っているのに対し,絵画の場合は,絵画というメディアが,そのまま絵画という情報体となって, モノとして受信者に運ばれるということである。受信者はいわば無時間性の中で発信者と繫がる。そ して愛着の深まっていく優れた絵画の場合,何十年も壁に掛け続けられて まれることのない場合も 存するわけで,これは芸術情報の中でも,造形美術(絵画,彫刻,陶芸,工芸, 園等)に限られた 不可思議な特権であるように思われる。

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さて最後に,以上のような社会情報学的な芸術理解の観点から,「複製」の問題を眺めてみたい。スー ザン・ブラックモアによれば,文化的なコミュニケーション自体が,発信者の持つ concept(ミーム) の複製を受信者の中に作り出すことであり ,この論点は妥当なものとして認めることができよう。 生物的な生殖行為が,自らの遺伝子情報を個体の死で終わらせないで,時間的に永続させる工夫であ るとすれば,口承文学や音楽は,まさにそれと相同の機能を持っている。『古事記』は, 田阿礼に伝 えられるまでは,闇の中の綱渡りのような状態だったわけで,そのようにしてわれわれの先祖は文化 を複製の制作によって子々孫々に伝えていたのである。口承文学はやがて文字という持続性のある記 号に写しとられるようになり,その段階で,文学はすでに,複製に対する免疫を獲得したメディアに なっている。オリジナル(原稿)で読もうが複製(本)で読もうがさしたる変わりがあるわけではな い。音楽の場合は,複製になったとしても,時間とともに消えていく性質は克服されていない。ある 音楽は,複製であれ,その都度時間の中で味わわなければならない。また楽譜という形に翻訳される と時間的な持続性は高まるが,新しい時代の演奏では,その都度新たに翻訳する必要が生じる。しか し複製を作ることの意義は,文学同様,自らの伝播のためには極めて大きいものがあったと言えよう。 それに対し,造形美術の場合は,時間に対して最も頑強に抵抗するメデイアである。ピラミッドは複 製をこしらえる必要がないほど時の侵食作用に抗して今も立ち続けている。それはモノ自体に意味が あるのであって,複製伝播の意欲を最初から放棄している。無論,造形美術の中には,複製技術を歓 迎し多くの人々の頭の中に入り込むことを欲する場合もあるだろう。特に CG 美術の場合は,もはやモ ノではなく,ミーム的振る舞いに対する適性を持っている。しかし,油彩絵画や彫刻や 築の場合, どれだけ複製技術が進歩したとしても,上に述べたような情報制作上の機微により,音楽同様,オリ ジナルはオリジナルであり,また音楽と違って,新しい時代に伝世されても翻訳解釈の必要がない。 造形美術は,複製がなくオリジナル1個だけでも,また受信者が1人だけでも,それで自足し得る奇 妙な情報体(ミーム)なのである。 * * * * * * * ベンヤミンは,ボードレールに「近代」の兆候を読み取り,「パリ 十九世紀の首都」において次 のように述べている。 『悪の華』の最後の詩は「旅」と題されている。「おお 死> よ,老 長よ,時は来た 錨を揚げよう 」遊 歩者の最後の旅は死,その目的地は新しさ(ダス・ノイエ)。「 未知なるもの> の奥底深く,新しきものを探 るために 」新しさは,商品の 用価値からは独立した性質である。集団的無意識が生み出すイメージにつ きものの仮象的な輝きの根源は,新しさである。新しさは虚偽意識の核心であり,流行はこの意識を むこ となく売り歩く。鏡と鏡が映しあうように,新しさのこの仮象的な輝きは, 繰り返し同じであるもの>の仮 象的な輝きのうちに反映する。この反映の産物が 文化 > という幻像(ファンタスマゴリー)であり,そ のなかでブルジョワジーたちは自 たちの虚偽意識を満喫する。芸術はみずからの 命に疑いを抱き始め,

参照

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