王褒「聖主得賢臣頌」について
著者
上原 尉暢
雑誌名
集刊東洋学
巻
115
ページ
1-24
発行年
2016-06-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129918
1 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原)
王褒﹁聖主得賢臣頌﹂について
上
原
尉
暢
はじめに 王褒︵生卒年不詳、漢代宣帝期︹紀元前七三年∼同四九 年︺の人物︶は、司馬相如、揚雄らとともに前漢を代表す る辞賦作家として知られる。彼が益州から長安の宮廷に招 か れ る 経 緯 に つ い て は、 ﹃ 漢 書 ﹄ 巻 六 四 下・ 王 褒 伝 に 詳 し く記されている。それによれば、王褒は益州にて﹁中和﹂ ・ ﹁ 楽 職 ﹂・ ﹁ 宣 布 ﹂ 三 詩 を 制 作 し た 功 績 を 以 て、 当 地 の 刺 史 であった王襄の推薦を受け、 宣帝の御前に召されたという。 その際に、宣帝の詔を受けて新たに制作した作品が小論で 取 り あ げ る﹁ 聖 主 得 賢 臣 頌 ﹂︵ 以 下﹁ 聖 主 頌 ﹂ と 略 す ︶ で ある。 こ の 作 品 は 六 朝 美 文 の ア ン ソ ロ ジ ー で あ る﹃ 文 選 ﹄ 巻 四七 ・ 頌部に、揚雄﹁趙充国頌﹂ ・ 史岑﹁出師頌﹂ ・ 劉伶﹁酒 徳 頌 ﹂・ 陸 機﹁ 漢 高 祖 功 臣 頌 ﹂ と い っ た 歴 代 の﹁ 頌 ﹂ ジ ャ ンルの名作と肩を並べて収録されており、その文学的評価 の高さを窺うことができる。 しかし現行の漢代文学研究では、本作品の文学史的価値 を取り立てて論ずるものは数少ない。 取り上げたとしても、 表現面ではその精錬された修辞性を高く評価しながら、内 容的には新味に欠けると述べる程度 で ︶1 ︵ 、作品の本質を十分 に検討しようとする試みは、 これまで為されてこなかった。 小論は、まず﹁聖主頌﹂の文体的特質を検討し、この作 品がどのような背景の下に成立したのかを考察する。さら にこの作品が、 宣帝期に於いていかなる意義を有したのか、 と い う こ と を 考 察 し、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 作 品 性 を 明 ら か に し て いく。 集刊東洋学 第一一五号 平成二十八年六月 一 −二四頁2 第一節 ﹁上書﹂としての﹁聖主得賢臣頌﹂ ﹁聖主頌﹂ が、 ﹃文選﹄ において配される ﹁頌﹂ というジャ ンルは、元来は﹃詩﹄の六義の一つである﹁頌﹂に由来す る も の で あ る。 ﹃ 毛 詩 ﹄ 大 序 が﹁ 頌 は 盛 徳 の 形 容 を 美 め、 其の成功を以て、 神明に告ぐる者なり︵頌者美盛德之形容、 以 其 成 功 告 於 神 明 者 也 ︶2 ︵ ︶﹂ と 述 べ る よ う に、 神 前 に て 祖 先 の徳行や功業を賛美するものが﹁頌﹂であった。周頌・魯 頌・商頌の詩篇も、その多くは王朝の創業の事績や君主の 輝かしい功業への賛美を歌い上げるものである。先述した ﹃文選﹄ ﹁頌﹂ジャンルに収載される﹁聖主頌﹂以外の作品 も、 ﹃詩経﹄ の ﹁頌﹂ 作品の正統的な流れを汲むものであり、 内容としては特定の個人や対象の功業を称讃し、文体も四 言韻文で構成されている。 それに対して﹁聖主頌﹂は、表層的には具体的な個人や 対象を賛美するというものではなく、 ﹁聖主が賢臣を得る﹂ ことの意義を説明・解説する論説的内容になっている。そ の文体も、四言句だけでなく、三言句から八言句まで、多 様な句型を含んでいる。つまり内容的にも文体的にも歴代 の﹁ 頌 ﹂ ジ ャ ン ル の 中 で は、 異 彩 を 放 っ て い る の で あ る。 そのためか、 六朝の文学批評の書である摯虞﹃文章流別論﹄ や﹃ 文 心 雕 龍 ﹄ 頌 讃 篇 の 中 で、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ に つ い て の 言 及 を見ることはできない。歴代の論者には、より端的に﹁聖 主頌﹂は﹁頌﹂では無いと断言する者もいるほどであ る ︶3 ︵ 。 では﹁聖主頌﹂は、本質的にはどのジャンルに属すると 規定できるのだろうか。 ﹃漢書﹄王褒伝には、 ﹁上乃ち褒を徵す。既に至れば、褒 に詔して聖主得賢臣を為りて其の意を頌せしむ。褒対えて 曰く⋮⋮︵上乃徵褒。既至、詔褒爲聖主得賢臣頌其意。褒 對曰⋮⋮︶ ﹂と記しており、 ﹁聖主頌﹂は宣帝からの詔に対 する応答の形で制作されたことになっている。特に作品が 引 用 さ れ る 前 に、 ﹁ 対 え て 曰 く ﹂ と 記 さ れ て い る 点 に 注 目 するならば、 ﹁聖主頌﹂は、 ﹃文心雕龍﹄議対篇に言う、 ﹁詔 に応じて政を陳﹂ ︵應詔而陳政︶ ﹂べる﹁対策﹂の類という ことになるであろう。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ が﹁ 対 策 ﹂ の ジ ャ ン ル と 関 連 す る こ と に 関 し て は、 す で に 先 行 す る 指 摘 が あ る。 ﹃ 箋 解 古 文 真 宝 後 集 ﹄ 巻六の﹁聖主頌﹂の題下に附された南宋末・元初の林以正 なる人物の、 ﹁此の篇 起句に策体有り︵此篇起句有策體︶ ﹂ という注釈がそれである。その﹁聖主頌﹂の冒頭は次のよ うなものである。 夫荷旃被毳者、難與道純綿之麗密。羹藜 唅 糗者、不 足與論太牢之滋味。 今臣僻在西蜀、生於窮巷之中、長於蓬茨之下、無有
3 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) 游觀廣覽之知、顧有至愚極陋之 累 8 。不足以塞厚望、應 明 旨 8 。雖然敢不略陳愚心、而抒情素。 いったい羊毛製の布を羽織り毛織物の服を着ている 者とは、純綿の華麗で細密な手触りを語りあうことは 難しいし、あかざをスープにして干し草を口に含む者 とは、祭祀で用いる太牢の滋味を共に語りあうには充 分ではありません。 今私は田舎の西蜀出身でありまして、むさ苦しい街 の片隅に生まれ、萱葺き屋根の下で育ちました。各地 に遊覧し広く見渡した上で得た知見があるわけでもな く、 逆 に 極 め て 愚 か で 浅 は か で あ る と い う 欠 点 し か 持っておりません。陛下の厚いご期待に答え、明らか な趣旨に応ずることはできません。とはいえどうして あえて、愚かな私の心中を開陳し、本心をもらさずに おれましょうか。 ここでは、まず自らの鄙賎な出自と、愚鈍で浅薄な智慮 を卑下する言葉が、比喩を交えて連ねられる。さらに、そ うしたマイナス要因を抱えながらも、皇帝に対して発言の 意志があることを示す言葉が続いている。つまり、作品の 冒 頭 に あ る の は、 自 ら の 身 分 や 才 能 に 対 す る 謙 辞 で あ り、 さらに続くのは、以下の発言が君主の諮問に対する止むに 止まれぬ応答であるという、発言の意義付けである。 この点が対策の形式と類似することは、次の 鼂 錯や公孫 弘の対策文の冒頭部分の一節を見ることでも明らかであろ う。 今臣 窋 等乃以臣錯充賦、甚不稱明詔求賢之意。臣錯 屮茅臣、亡識知、昧死上愚對、曰、⋮⋮ 今 臣 窋 ら が 臣 錯 を 賦 みつぎもの と し て 充 て ま し た の は、 明 詔 求賢の思し召しに全く称わぬものです。臣錯は在野の 草茅の臣で、知識は無いながらも、昧死して愚かな対 策をたてまつりて申し上げます。⋮⋮ ︵ 鼂 錯﹁賢良文学対 策 ︶4 ︵ ﹂、 ﹃漢書﹄巻四九・ 鼂 錯伝︶ 愚臣淺薄、安敢比材於周公。雖然、愚心曉然見治道 之可以然也。 愚かな私は浅薄な輩であり、才を周公と比べるなど もってのほかです。とはいえ、わが心中では、政道の 理想的あり方がはっきりと見えております。 ︵公孫弘﹁対冊書問治道﹂ 、﹃漢書﹄巻五八・公孫弘伝︶ 民間から招聘した人士に対して、 天子自ら策問を提示し、 さらにそれに答えるのが﹁対策﹂である。その際臣下が冒 頭に自らの才能を卑下する謙辞を措くことは、 鼂 錯や公孫 弘 の 対 策 文 の 例 か ら 分 か る よ う に、 常 套 に 属 す る も の で あった。この要素が ﹁聖主頌﹂ に含まれていることにより、
4 林以正は﹁起句に策体有り﹂と断じたのであろう。そのこ とは、小論が先に﹃漢書﹄の記述と﹃文心雕龍﹄議対篇の 規 定 か ら 導 い た、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ は 元 来﹁ 対 策 ﹂ と し て 書 か れ たものであった、という推定の補強証拠となるであろう。 しかし﹁対策﹂は、厳密に言えば、前掲した 鼂 錯や公孫 弘のそれ、あるいは董仲舒﹁天人対策﹂ ︵﹃漢書﹄巻五六董 仲 舒 伝 ︶ の 如 く、 ﹁ 察 挙 ﹂ と い う 官 吏 登 用 試 験 と セ ッ ト で 行われる特殊な形式の文体であっ た ︶5 ︵ 。ところが王褒が宣帝 の宮廷に登壇した際に、察挙が実施された記録は残されて いない。そのことも考えるならば、先の推定を推し進めて ﹁聖主頌﹂ のジャンルを ﹁対策﹂ であると断定してしまうと、 適切さを欠く嫌いがある。 と こ ろ で﹃ 文 心 雕 龍 ﹄ 議 対 篇 で は、 ﹁ 対 策 ﹂ と、 受 験 形 式が若干異なる﹁射策﹂とを取り上げて、それらをともに 国 政 問 題 を 審 議 し て 上 奏 す る 文 体 で あ る﹁ 議 ﹂ の﹁ 別 體 ﹂ としてい る ︶6 ︵ 。さらにこの﹁議﹂の由来について、章奏篇で は、秦代以前においては﹁上書﹂ 、そして秦代には﹁上奏﹂ と改められた、君主に進言する文書の流れを汲むものとし ている。また漢代になって、こうした文書が内容によって ﹁ 章 ﹂ や﹁ 奏 ﹂・ ﹁ 表 ﹂・ ﹁ 議 ﹂ と い っ た 分 類 が な さ れ る よ う になったとい う ︶7 ︵ 。これを踏まえるならば、 ﹁議﹂は﹁上書﹂ 、 あ る い は﹁ 上 奏 文 ﹂ の 下 位 分 類 と い う こ と に な り、 ﹁ 議 ﹂ の﹁別體﹂である﹁対策﹂も﹁上書﹂という上位分類に含 まれることになる。したがって、 ﹁対策﹂ 的要素を有する ﹁聖 主頌﹂は、本質的には﹁上書﹂や﹁上奏文﹂のジャンルに 属するものであるとすれば、大過は無くなるであろう。 以上の考察により、 ﹁聖主頌﹂は、 純然たる﹁頌﹂のジャ ン ル に 属 す る も の で は な く、 ﹁ 上 書 ﹂ ジ ャ ン ル に 位 置 づ け ることが適当であることが明らかになった。 次節以降では、 ﹁聖主頌﹂が、 ﹁上書﹂としては如何に特異であるかを見る ために、その表現の特質や由来について検討することにし たい。 第二節 戦国諸子の文体的影響と進展 本節では﹁聖主頌﹂の表現の特質について触れていくこ とにしたい。まずこの作品全体を、内容や押韻を考慮しな がら五段落に分けて見ていくことにしよう。 第一段は﹁夫れ旃を荷い毳を被る者は、与に純綿の麗密 を道い難く︵夫荷旃被毳者、 難與道純綿之麗密︶ ﹂から﹁然 りと雖も、敢えて 略 ほぼ 愚心を陳べ、情素を抒べざらんや︵雖 然、 敢 不 略 陳 愚 心、 而 抒 情 素 ︶﹂ ま で で あ る。 こ の 段 は 作 品全体の言わば序にあたる部分であり、すでに前節で触れ たので、ここでは解説を省略する。
5 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) 第 二 段 は﹁ 記 に 曰 く、 共 うやうや し く 春 秋 五 始 の 要 を 惟 う に、 己を審らかにし統を正すに在るのみ、と︵記曰、共惟春秋 五 始 之 要、 在 乎 審 己 正 統 而 已 ︶﹂ か ら﹁ 人 馬 相 い 得 た る な り︵ 人 馬 相 得 也 ︶﹂ ま で で あ る。 こ こ で は 君 主 の 基 づ く 政 治の基本として、 賢人を任用することの重要性を主張する。 その根拠には、天下の工匠が逸品とされる道具を用いる際 の甚大なる効果や、あるいは名伯楽が駿馬を御した場合の 絶大なる成果、といった比喩が用いられている。 第三段は﹁故に絺綌の涼しきを服する者は、盛暑の鬱燠 に苦しまず︵故服絺綌之涼者、 不苦盛暑之鬱燠︶ ﹂から﹁之 を 子 孫 に 伝 え、 以 て 説 士 に 資 す︵ 傳 之 子 孫、 以 資 説 士 ︶﹂ までである。この段は、まず季節に応じた衣服を準備する ことの必要性を説く例え話から、国家における賢人の必要 性に説き及び、ついで君主が賢人を用いた場合の多大なる 政治的効果を、周公旦や斉桓公などの歴史故事を援用しな がら述べ る ︶8 ︵ 。さらに人臣の側も自らの賢才を発揮するには 聖主との出会いが不可欠である、ということについて、こ こ で も 伊 尹 や 太 公 望 な ど の 歴 史 故 事 を 援 用 し て 説 明 す る。 後者の歴史故事については後に取り上げる。 第四段は﹁故に世に必ず聖知の君有りて、而る後賢明の 臣 有 り︵ 故 世 必 有 聖 知 之 君 8 、 而 後 有 賢 明 之 臣 8 ︶﹂ か ら﹁ 遐 夷 貢 献 し て、 万 祥 畢 く 溱 いた る︵ 遐 夷 貢 獻 3 、 萬 祥 畢 溱 3 ︶﹂ ま で である。ここでは﹁故に世に必ず聖知の君有りて、而る後 に 賢 明 之 臣 有 り︵ 故 世 必 有 聖 知 之 君、 而 後 有 賢 明 之 臣 8 ︶﹂ という、聖主と賢臣とは相互補完的、あるいは相即的な関 係であり、 両々相俟って一層の効果があがるという主張を、 ﹁ 故 に 虎 嘯 き て 風 冽 し く、 龍 興 り て 雲 を 致 し、 蟋 蟀 は 秋 唫 を俟ち、蜉 蝤 は出ずるに陰を以てす︵故虎嘯而風冽、龍興 而致雲、 蟋蟀俟秋 唫 3 、蜉 蝤 出以 陰 3 ︶﹂という諺的表現や、 ﹃易﹄ や﹃ 詩 ﹄ の 引 用、 さ ら に は 歴 史 故 事、 ﹁ 翼 乎 と し て 鴻 毛 の 順風を 過 わた るが如く、沛乎として巨魚の大壑を縦にするが如 し︵ 翼 乎 如 鴻 毛 過 順 風、 沛 乎 如 巨 魚 縱 大 壑 ︶﹂ と い っ た 比 喩表現を用いて裏づけようとする。加えて、君臣関係が良 好 に な っ た 結 果、 禁 令 が 行 き 届 い て 教 化 は 四 方 に 広 が り、 夷狄の来貢や祥瑞の出現といった太平の御世が訪れる様子 を述べる。 最 後 の 第 五 段 は、 ﹁ 是 を 以 て 聖 主 遍 く 窺 望 せ ず し て 視 る こ と 已 に 明 ら か に、 單 ことごと く 耳 を 頃 かたむ け ず し て 聴 く こ と 已 に 聡 な り︵ 是 以 聖 主 不 遍 窺 望 而 視 已 明 3 、 不 單 頃 耳 而 聽 已 聰 3 ︶﹂ から、 ﹁﹃詩﹄に云う、 ﹁済済たる多士、 文王以て寧んず﹂と、 蓋 し 信 な る か な 其 の 以 て 寧 き や︵ ﹃ 詩 ﹄ 云﹁ 濟 濟 多 士、 文王以寧﹂ 、蓋信乎其以寧也︶ ﹂までである。この段は前段 を受けて、聖王が賢臣を得た場合、居ながらにして恩徳が 世界全体に行き渡り、結果聖王に長寿がもたらされ、安寧
6 なる治政が万世に渉って実現すると説明する。最後に、こ の方途の前では、長生術などもはや不用だと述べて、作品 は締めくくられる。この段の長生術の件について後に分析 を加える。 このように﹁聖主頌﹂は、聖主が賢臣を獲得することの 意義と重要性を、 比喩や例え話、 歴史故事、 諺的表現や﹃詩﹄ の引用等を通して、詳細に述べ尽くす、という体裁になっ ている。 こうした比喩や歴史故事による根拠づけで自説を補強し ようとする手法は、 ﹃戦国策﹄や﹃孟子﹄ ・﹃韓非子﹄ ・﹃荘子﹄ などに頻見するものであり、元来戦国遊説家や諸子百家に おいて発達した弁論術の手法と通じるものであっ た ︶9 ︵ 。した がって﹁聖主頌﹂の文体の基礎を構成しているのは、戦国 遊説家や諸子百家の言説であったことが推測されよう。ま ず比喩表現の中から一例を取り上げて、そのことを確認し たい。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 第 二 段 に は、 名 工 と 道 具 の 組 み 合 わ せ を 用 いた比喩表現がある。その前半部分には、次のように鍛冶 師の刀剣制作が描写されている。 及至巧冶鑄干將之 璞 3 、 熟練の鍛冶屋が名剣干將のあら がねを鋳て鍛える時は、 清水淬其 鋒 8 、 清水によってその切っ先を堅く し、 越砥歛其 鍔 3 、 越の砥石でその刃を磨けば、 水斷蛟 龍 8 、 水中では蛟龍をも斬り、 陸 剸 犀 革 3 、 陸では犀の革をも切ります。 忽若 篲 氾畫塗。 そ れ が 一 瞬 で 行 わ れ る 様 子 は、 ほうきで塵埃を掃き集め、刃物 で泥にすじを引くようにたやす いのです。 この中の﹁巧冶﹂と﹁干將﹂は、戦国期の呉越の抗争の 物 語 を そ の 背 景 に 持 つ も の で あ る。 ﹃ 荀 子 ﹄ や﹃ 韓 非 子 ﹄ といった諸子の文章では、名剣といえば﹁干將﹂というの はほとんど常套句と化してい た ︶10 ︵ 。 またその切れ味を示す﹁水に蛟龍を断ち、陸に犀革を 剸 さ く︵水斷蛟龍、陸 剸 犀革︶ ﹂という表現は、 ﹃文選﹄李善注 によれば、墨家に属する﹃胡非子﹄の﹁長剣を負い、榛薄 に赴けば、 兕 豹を析き、深淵に赴けば、蛟龍を断ず︵負長 劍、 赴 榛 薄、 析 兕 豹、 赴 深 淵、 斷 蛟 龍 ︶﹂ と い う 表 現 を 踏 ま え る ︶11 ︵ 。 た だ 現 存 す る 伝 世 資 料 に は、 ﹃ 胡 非 子 ﹄ 以 上 に 類 似する表現が以下のように見いだせる。 ① 鄧師 ・ 宛馮、龍淵 ・ 大阿、皆 陸 0 斷馬 0 0 牛 0 、 0 水擊鵠鴈 0 0 0 0 、 當敵即斬堅。 ︵﹃戦國策﹄韓策一。傍点筆者。以下同じ︶
7 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) ② 干將莫耶、天下之利劍也 。 0 水斷鵠 0 0 0 鴈 0 、 0 陸斷馬牛 0 0 0 0 。 ︵東方朔﹁答驃騎 難 ︶12 ︵ ﹂、 ﹃藝文類聚﹄巻九三︶ ③ 夫純鉤 ・ 魚腸之始下型、擊則不能斷、刺則不能入。 及 加之砥礪 0 0 0 0 、 0 摩其鋒 0 0 0 0 、則 水斷龍舟 0 0 0 0 、 0 陸 0 剸 0 犀甲 0 0 。 ︵﹃淮南子﹄脩務訓︶ ① の﹃ 戦 国 策 ﹄ 韓 策 一 の﹁ 鄧 師・ 宛 馮、 龍 淵・ 大 阿 は、 皆 陸に馬牛を断 0 0 0 0 0 0 ち 0 、 0 水に鵠鴈を撃ち 0 0 0 0 0 0 0 、敵に当たりては即ち 堅を斬る﹂という例は、縦横家蘇秦の弁論の中に見えるも のである。傍点部分は ﹁聖主頌﹂ と同じく、 剣の効能を ﹁水﹂ と﹁陸﹂の両面に分かって対句で表現している。 ② の 漢 代 武 帝 期 の 滑 稽 者 的 人 物 と し て 知 ら れ る 東 方 朔 ﹁ 驃 騎 の 難 に 答 う ﹂ の﹁ 干 将 莫 耶 は、 天 下 の 利 剣 な り 。 0 水 0 に鵠 0 0 鴈 0 を断ち 0 0 0 、 0 陸に馬牛を断つ 0 0 0 0 0 0 0 ﹂という例も、切断の意の 動 詞 を﹁ 斷 ﹂ に 統 一 す る と い う 違 い が あ る も の の、 ﹁ 干 將 莫 邪 ﹂ と い う 名 剣 の 効 能 を、 ﹁ 水 ﹂ と﹁ 陸 ﹂ の 対 句 で 示 す 点で﹃戦国策﹄と共通する。 さらに③の﹃淮南子﹄修務訓の﹁夫れ純鉤・魚腸の始め て型より下さるるや、撃てば則ち断つ能わず、刺せば則ち 入 る 能 わ ず 。 0 之 に 砥 礪 を 加 え 0 0 0 0 0 0 0 、 0 其 の 鋒 0 0 0 0 を 摩 く に 及 べ ば 0 0 0 0 0 0 0 、 則 ち 水 に 龍 舟 を 断 ち、 陸 に 犀 甲 を 剸 る ﹂ と い う 文 例 で も、 剣を鋳造する制作過程を新たに盛り込んでいるものの、 ﹁水 ⋮⋮、陸⋮⋮﹂という表現が、前の二例と共通することは 明らかである。 このように見てくると、戦国及び漢初の諸子の言説の中 では、名剣について語る際の定型化が為されてきたようで あ り、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 刀 剣 制 作 の 描 写 は、 そ の よ う な 定 型 表 現の上に成り立っていた、ということが分かるだろう。 その上でさらに﹁聖主頌﹂と﹃淮南子﹄の表現を比較し てみる。 ﹃淮南子﹄脩務訓 ﹁聖主頌﹂ ⋮⋮ 及至巧冶鑄干將之 璞 3 、 及加之 砥礪 0 0 、 0 清水淬其 0 0 0 0 鋒 8 、 摩其鋒 、 越砥 0 0 歛其 鍔 3 、 則水斷龍舟、 水斷蛟 龍 8 、 陸 剸 犀甲。 陸 剸 犀 革 3 、 忽若 0 0 篲 0 氾畫塗 0 0 0 。 ま ず﹃ 淮 南 子 ﹄ の﹁ 之 を 砥 礪 に 加 え、 其 の 鋒 を 摩 ぐ ﹂ と い う 制 作 場 面 に 対 し て、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ で は﹁ 清 水 も て 其 の 鋒を 淬 にら ぐ﹂という、水への焼き入れの件を新たに加えてい る。それと対になる句﹁越砥もて其の鍔を 歛 みが く﹂では、 ﹃淮 南 子 ﹄ の﹁ 砥 礪 ﹂ を、 ﹁ 越 砥 ﹂ と い う、 干 将 莫 邪 の 伝 説 と ゆかりの深い地名を持った器物に変換している。前句﹁清 水淬其鋒﹂からは、 刀剣制作の実態をより具体的かつ繊細、 そして印象深く捉えようとする作者の意識が窺える。また 、
8 後句﹁越砥歛其鍔﹂からは、剣の背後にある呉越抗争のモ チーフを強調するべく、細部にまでこだわろうとする作者 の表現意識を見て取ることができる。 さらに次の一聯である名剣の切れ味を示す﹁水に蛟龍を 断ち、 陸に犀革を 剸 き る﹂では、 ﹃淮南子﹄の﹁犀甲﹂を﹁犀 革﹂にすることによって、押韻句に仕立てている。加えて ﹁ 忽 と し て 氾 を 篲 はら い 塗 に 画 く が 若 し ﹂ と い う 新 た な 直 喩 表 現 ︶13 ︵ を重ねることによって、刀剣の切れ味の良さを強調する ことを可能にしている。 このように鍛冶師による刀剣制作場面を用いた比喩表現 か ら は、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ が、 戦 国 か ら 漢 初 の 諸 子 の 言 説 内 で 培 われた刀剣にまつわる伝統的表現を継承しながら、そこに さらに表現上の洗練を加えていたことが見て取れるのであ る。 こうした戦国諸子の文体の継承と洗練という傾向は、比 喩 表 現 の み な ら ず、 歴 史 故 事 の 使 用 法 か ら も 確 認 で き る。 例として第三段の、人臣が聖主と出会えない場合にたどる 運命を記す場面を見てみよう。 昔賢者之未遭遇也、 昔賢者が聖主に遭遇しなかった 時には、 ⋮⋮ 進仕不得施 效 8 、 進仕しても功業を施すことがで きず、 斥逐又非其愆。 斥け逐われ、過失を謗られまし た。 是故 そのために 0 伊尹勤於鼎俎 0 0 0 0 0 0 、 伊尹は鼎や俎を手にして勤め、 0 太公困於鼓 0 0 0 0 0 刀 8 、 太公は牛刀を叩いて困苦し、 0 百里自鬻 0 0 0 0 、 百里奚はわが身を自ら売り、 0 甯戚飯 0 0 0 牛 8 、 甯戚は牛を飼う、 離此患也。 こ う し た 憂 患 に 出 会 っ た の で す。 こ こ で は、 名 君 に 出 会 わ な い と、 賢 臣 で も 憂 患 に 遭 遇 する事態を、伊尹・太公望・百里奚・甯戚の行状を挙げて 説明している。この傍点部のような複数の歴史的人物の故 事を列挙する修辞法もまた、戦国諸子の言説に頻見するも のである。そのことについては中島千秋氏による指摘がす で に あ る ︶14 ︵ 。 一 例 を 挙 げ れ ば、 ﹃ 墨 子 ﹄ 尚 賢 上 篇 に は 次 の よ うにある。 故古者 堯舉舜於服澤之陽、授之政、天下平。 禹舉益於陰方之中、授之政、九州成。 湯舉伊尹於庖廚之中、授之政、其謀得。 文王舉 閎 夭・泰顛於置罔之中、授之政、西土服。 、 、
9 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) そのため古は、尭は舜を服沢の陽にて選出し、政権を 授けると、天下は太平になった。/禹は益を陰方の中 にて選出し、政権を授けると、九州は平定した。/湯 は伊尹を庖廚の中にて選出し、政権を授けると、夏を 倒す策謀が成功した。/文王は 閎 夭と泰顛を狩人や漁 師の中から選出し、 政権を授けると、 西方が降伏した。 賢臣を尊ぶ必要性を、君主が賢臣を得たことで太平の御 代を招来した歴史故事を列挙することで説明する。 そのことを踏まえながら ﹁聖主頌﹂ を見直してみると、 ﹁伊 尹﹂四句は、押韻こそしないものの、六字二句、四字二句 という、二種類の整斉された対句に構成されている。三列 目以下は文字数が不揃いとなる ﹃墨子﹄ の表現と比べると、 その違いは明らかであろう。 また歴史故事を挙げる手法は、戦国後期になると、挙例 を増やすことに力点が置かれるようになる。例えば﹃韓非 子﹄難言篇では、弁舌を振るうことが憚られる理由を説明 するために、愚昧な君主に接した臣下が不遇な憂き目に遇 う歴史的事例を十数例も挙げ る ︶15 ︵ 。これに対して ﹁聖主頌﹂ は、 挙例の量は大きく減じている。それに代わって、対偶の整 斉によって、表現上の進展を試みているのである。 以上本節では、 ﹁聖主頌﹂ に戦国諸子の言説の継承と洗練 ・ 進展という側面があることを見てきた。戦国諸子の言説に おける比喩や歴史故事の修辞は、自説を他者に受け入れさ せ る た め の 論 理 性 や 説 得 性 を 加 味 す る た め の 試 み で あ っ た。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 表 現 も そ の 点 を 継 承 し な が ら、 上 に 見 た 表現上の洗練を行うことによって、作品に戦国諸子の言説 とは異なる新たな性質、すなわち文芸性という特質を新た に加えたと言えよう。 第三節 辞賦文芸の影響と展開 前節で述べた﹁聖主頌﹂の文芸性という点では、辞賦文 芸との関わりも重要である。その点に関しては、まず﹁聖 主頌﹂第二段の表現が注目される。この部分は、聖主と賢 臣との関係を、御者と馬との関係から説明しようとするも のである。 庸人之御駑馬、 凡庸な人が駄馬を操っても、 亦傷吻敝策而不進於行、馬の口を傷つけ鞭を傷めて前 に進まず、 胸喘膚 汗 3 胸は喘ぎ膚は汗かき、 人極馬 倦 3 。 人は途方にくれ、馬は疲れる。 及至駕齧 、 だが、名馬 齧 けつ 膝 しつ を車に繋ぎ、 驂乘 旦 3 。 名馬乗旦を添え馬にする。 王良執 靶 、 名手王良がくつわをとり、
10 韓哀附輿、 名人韓哀が輿に乗り御すと、 縱馳騁騖、 馬達は縦横無尽に走り回り、 忽如景 靡 8 、 日影がなびくかのよう。 過都越國、 都を過ぎ国を越える様は、 蹶如歴 塊 8 、 土くれを過ぎるかのよう。 追奔電、 疾走する雷を追い、 逐遺風、 疾風を逐いかけ、 周流八 極 3 、 八方の極まで隈無く流れ、 萬里一 息 3 。 万里に一度休むだけ。 何其遼哉、 何と遠くに至るのでしょう、 人馬相 得 3 也。 これも人と馬との呼吸が合って いるからであります。 ここでは名馬と名御者という最上の組合わせからなる馬 車が、壮快に疾駆する様子を、四字句を中心とした韻文で 表現する。こうした馬の疾走を、 韻を踏みつつ描く表現は、 次 の よ う な 狩 猟 を 主 題 と す る 辞 賦 文 芸 の 表 現 を 想 起 さ せ る。 鍾岱之牡、齒至之 車 3 、前似飛鳥、後類距 虚 3 。⋮⋮於 是 伯 樂 相 其 前 後 8 、 王 良 造 父 爲 之 御 8 、 秦 缺 樓 季 爲 之 右 8 。 此兩人者、馬佚能 止 3 之、車覆能 起 3 之。於是使射千鎰之 重、爭千里之逐。此亦天下之至駿也。 鍾や岱の地で生まれた雄馬が、齢を十分に重ねて引 く車は、前は飛ぶ鳥のようであり、後は善く走る獣 距 きょ 虚 きょ に似る。⋮⋮そこで伯楽は馬の前後を目にし、名御 者である王良と造父はこの車の手綱を執り、勇士とし て 名 高 い 秦 缺・ 楼 季 は 車 の 右 を 固 め る。 こ の 二 人 は、 馬が驚けばそれを制止でき、車が転覆しそうになると それを助け起こすことができる。そこで千鎰もの重賞 を懸けて、千里の馬達に競走させる。これこそが天下 の駿馬である。 ︵枚乗﹁七発﹂ 、﹃文選﹄巻三四︶ 楚王乃駕馴駁之駟、乘雕玉之輿、⋮⋮陽子驂乘、纖 阿 爲 御 3 、 案 節 未 舒、 即 陵 狡 獸 3 。 ⋮⋮ 軼 野 馬 而 騊 駼 、 乘遺風而射游騏。 儵眒 淒 浰 、 靁 動 熛 至、星流霆擊。 楚 王 さ ま は 馴 ら し た 駁 まだらうま に 車 を 引 か せ、 彫 刻 し た 玉 を施した輿に乗り、⋮⋮名伯楽の孫陽は護衛として同 乗し、名御者の纖阿は御者となり、歩調を調えんとし て馬の足どりがまだのびぬのに、すばしこい獣どもを ひきたおす。⋮⋮野馬という獣を追い越し、また 騊 と う 駼 と という獣を車軸の先ではね、古の名馬の遺風を乗りこ なして走り回る獣の騏を射かける。その車馬の速さは すさまじく速く、雷のように動きつむじ風のように追 いつき、星のように流れ稲妻のように撃つ。
11 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) ︵司馬相如﹁天子游猟賦﹂ 、﹃史記﹄巻一一七︶ こうした辞賦文芸の表現に、前掲した﹁聖主頌﹂の乗馬 場面が類似している要因としては、王褒が音楽賦の鼻祖と して名高い﹁洞簫賦﹂ ︵﹃文選﹄巻一七︶の作者であり、彼 がこの﹁聖主頌﹂に、辞賦文芸に頻出するモチーフを取り 入れた結果だと考えることができる。 さらに﹁聖主頌﹂第四段の次の表現は、戦国諸子から得 た発想を、辞賦文芸の修辞によって洗練させた形跡をうか がわせる。 上下倶欲、 主上と臣下が同じ思いを抱き、 驩然交欣、 楽しげに交流するのは、 千載壹合、 千載一遇のこの上ない出会いで あり、 論説無疑。 互いに語り尽くして疑わしいと ころがありません。 0 翼乎如鴻毛過順風 0 0 0 0 0 0 0 0 、 事がすばやく進むさまは軽い鴻 毛が順風にひるがえるかのよう であり、 0 沛乎如巨魚縱大壑 0 0 0 0 0 0 0 0 。 事が豊かで盛んなさまは巨大な 魚が巨大な谷を自在に泳ぎ回る かのようです。 ここでは聖主と賢臣とが出逢うことによって、政務が滞 り無く進む様子を比喩を用いて描写している。傍点部﹁翼 乎として鴻毛の順風を 過 わた るが如く、沛乎として巨魚の大壑 を縦にするが如し ︵翼乎如鴻毛過順風、 沛乎如巨魚縱大壑︶ ﹂ は、 ﹃ 荘 子 ﹄ 逍 遥 遊 篇 の、 鯤 と い う 巨 魚 の 遨 遊 と、 そ れ が 変化した鵬という大鳥の飛翔のイメージが発想の根底にあ る も の だ ろ う。 こ こ で は そ の イ メ ー ジ が、 ﹁ ○ 乎 如 ⋮⋮﹂ という句型を用いながら、対句に設えられていることに注 意 す べ き で あ る。 と い う の も、 こ う し た 句 型 の 先 行 例 は、 早期の辞賦文芸作品の中に見いだすことができるからであ る。 例 え ば、 紀 元 前 の 宋 玉 の 作 と さ れ る﹁ 神 女 賦 ﹂︵ ﹃ 文 選 ﹄ 巻一九︶には 其始來也、 神女がはじめて現れると、 0 耀乎若白日初出照屋梁 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。その輝けること、太陽が初め てうつばりを照らし出したか のよう。 其少進也、 やや歩を進めると、 皎若明月舒其光 その白きこと、明月がその光 を伸ばしたかのよう。 傍点部に﹁○乎若⋮⋮﹂という句型が見られる。ただ﹁神 女賦﹂では、この句型を重ねて完全な対句を構成するまで には至っていない。
12 そ れ が 賈 誼︵ 前 二 〇 一∼ 前 一 六 九 ︶﹁ 鵩 鳥 賦 ﹂︵ ﹃ 史 記 ﹄ 巻二四・屈原賈生列伝︶になると、 澹乎若深淵之靜、 おだやかで深淵の静けさのよう であり、 氾乎若不繫之舟。 ふらふらと繋がれていない船の ようである。 とあるように、前後ともに七字句の整った対句になってい る。この﹁○乎若⋮⋮﹂を重ねた﹁鵩鳥賦﹂の措辞と、 ﹁聖 主頌﹂の﹁翼乎如鴻毛過順風、沛乎如巨魚縱大壑﹂のそれ との距離が近いことは明らかであろう。そうであれば、 ﹃荘 子﹄の鵬と鯤のモチーフを、辞賦文芸で使用される句型に 凝 縮 し、 よ り 洗 練 を 加 え た も の が、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の﹁ 翼 乎 如 鴻毛過順風、沛乎如巨魚縱大壑﹂であると分析できるだろ う。 加えて次に示す﹁聖主頌﹂の末尾部分もまた、辞賦文芸 との関係を考える上で示唆的である。 休徴自至、 瑞兆がおのずから至り、 壽考無疆、 寿命は限り無く続きます。 雍容垂拱、 天子は安らぎ手を拱いて何もせ ずとも、 永永萬年、 齢は永く万年です。 何必偃卬 詘 信若彭祖、 どうしてかならず彭祖のように 俛仰屈伸し、 呴噓呼吸如僑松、 王子喬や赤松子のように口を開 け息を吐き呼吸を整えて、 眇然絶俗離世哉。 遥か遠く世俗から離れなくては ならないことがありましょう。 ここでは賢臣を得ることが、太平の治世をもたらすだけ でなく、聖王の不老長寿に繫がる、ということを述べてい る。 ﹁ 何 ぞ 必 ず し も、 偃 卬 詘 信 す る こ と 彭 祖 の 若 く、 呴 噓 呼吸すること僑松の如くして、眇然として俗を離れ世を離 れんや﹂は、仙人が行う長生術を、反語を用いながらあっ さりと否定することで、求賢策が持つ寿命延年効果の甚大 さを強調しようとするものである。 賢臣の確保が君主の不老長寿につながるとするモチーフ は、宋玉﹁高唐賦﹂ ︵﹃文選﹄巻一九︶の末尾の一節に見る こ と が で き る。 ﹁ 万 方 を 思 い、 国 害 を 憂 い 、 0 賢 聖 を 開 き 0 0 0 0 0 、 逮 ば ざ る を 輔 く れ ば、 九 竅 鬱 を 通 じ、 精 神 滞 を 察 し、 年を延ばし壽を益すこと千万歳︵思萬方、 憂國 害 3 、 開賢聖、 輔不 逮 3 、九竅通鬱、精神察 滯 3 、延年益壽千萬 歳 3 ︶﹂ 。 また君主の生命の永遠性を、不老長寿の神仙との比較を 通して強調するモチーフも、司馬相如の作品に見ることが で き る。 明 の 張 溥︵ 一 六 〇 二∼ 一 六 四 一 ︶ は、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 末 尾 が 司 馬 相 如 の﹁ 子 虚 賦 ﹂﹁ 上 林 賦 ﹂ に 類 似 す る こ と
13 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) を指摘する が ︶16 ︵ 、モチーフから見てより近いのは、司馬相如 の﹁大人賦﹂ ︵﹃史記﹄ 巻一一七司馬相如列伝︶ であろう。 ﹁陰 山に低回して翔びて以て紆曲し、吾乃ち今目に西王母を睹 るに 皬 然たる白首なり。勝を載せて穴に処り、亦た幸いに 三足の烏有りて之が為に使いす。必ず長生するも此くの若 くして死せざれば、 万世を 済 わた ると雖も以て喜ぶに足らず ︵低 回陰山翔以紆曲兮、吾乃今目睹西王母 皬 然白首。載勝而穴 處兮、亦幸有三足烏爲之 使 8 。必長生若此而不死兮、雖濟萬 世 不 足 以 喜 8 ︶﹂ 。 こ の よ う に﹁ 大 人 賦 ﹂ で は、 ﹁ 長 生 ﹂ に し て﹁不死﹂たる﹁西王母﹂の姿を、 ﹁ 皬 然白首﹂として﹁穴 處﹂する、 と低めて描くことで、 天子の比喩である﹁大人﹂ の生の価値を肯定する。 ﹁ 大 人 賦 ﹂ は、 創 作 意 図 の 面 で も﹁ 聖 主 頌 ﹂ と 共 通 す る ものがある。 ﹁大人賦﹂が制作された動機は、 ﹃史記﹄司馬 相如列伝によれば、 ﹁僊道﹂に耽る武帝の態度を批判し、 ﹁帝 王 の 僊 意 ﹂ と は 何 た る か を 説 明 す る た め で あ っ た と い う ︶17 ︵ 。 一 方 前 掲 し た﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 末 尾 の 表 現 も、 ﹃ 漢 書 ﹄ 王 褒 伝 の 班 固 の 解 説 に よ れ ば、 ﹁ 是 の 時、 上 頗 る 神 僊 を 好 む、 故 に褒対えて之れに及ぶ︵是時、上頗好神僊、故褒對及之︶ ﹂ と、神仙好みの宣帝への反省を促す諷諌的意味が含まれて いた、という。 このように、表現面だけでなく、神仙やその長生術に執 着する皇帝に対する批判を行うという、創作意図の面から 見 て も、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 末 尾 部 分 と﹁ 大 人 賦 ﹂ と の 間 に は 共 通性が認められるのである。 以上の検討より、 ﹁聖主頌﹂ は戦国諸子の文体のみならず、 辞賦文芸の表現要素の影響を強く受けていると結論づけて よいであろう。ただ前節の戦国諸子の言説との関係がそう で あ っ た よ う に、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 文 体 は、 伝 統 的 な 辞 賦 文 芸 の影響下に止まっているわけではなく、叙法上の新たな展 開も見られる。その最も特徴的なものが対偶による表現の 洗練である。 対偶自体は諸子の文体にも部分的ながら見られるもので あり、特に﹃荀子﹄においては、対偶が顕著であることが 指摘されてい る ︶18 ︵ 。ただその場合でも、多くは同一字数の二 句から構成される、いわゆる単 対 ︶19 ︵ がほとんどであり、二句 が次の二句と対を構成する隔句対 ︵隔対︶ はまれであった。 その他諸子の対偶については、今鷹真﹃諸子百 家 ︶20 ︵ ﹄が指摘 するように、 三句以上に渉って同一句型を連ねる排比 句 ︶21 ︵ や、 二句以上からなる長文が一つのユニットとなって、上下の 対句を構成する長隔句対︵長隔対︶が特徴的に見られる。 草創期の辞賦文芸の対句の様相も、上述した諸子の対句 の様相と大差は無い。鈴木虎雄 ﹃賦史大要﹄ が言うように、 早 期 の 辞 賦 で は 対 句 は 決 し て 頻 繁 に 用 い ら れ た わ け で な
14 く、 用いられたとしても、 ﹁単對多く、 隔對尚少なし﹂といっ た状況であった。隔句対は司馬相如賦辺りから徐々に見ら れるようになるが、四字句を四句連ねるだけの、初期段階 に留まっている。またこの時期の辞賦には長隔対が見られ ることも鈴木書は指摘してい る ︶22 ︵ 。 これに対して﹁聖主頌﹂の対偶はどうであろうか。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ は 総 句 数 一 六 二 句 に お い て、 対 句 を 構 成 す る 句︵句中対も含む︶は一〇四句を数え、全体の六五 %を占 め て い る。 同 様 の 調 査 を、 司 馬 相 如︵ ﹃ 史 記 ﹄ 巻 一 一 七 ︶ や東方朔︵ ﹃漢書﹄巻六五︶ 、及び王褒とともに﹃漢書﹄巻 六十四上・下に取り上げられている、吾丘壽王・厳安・徐 楽・終軍・賈捐之といった漢代武帝期の文人達の上書にも 施してみると、終軍の﹁白麟奇木對﹂が最も高い対句率を 示 す の だ が、 そ れ で も 全 体 の 五 一 %︵ 八 三 句 中、 四 二 句 ︶ に留まっており、 ﹁聖主頌﹂の対句率に及ばない。 ﹁聖主頌﹂ の対句率の高さが際立っていることが分か る ︶23 ︵ 。 さらに﹁聖主頌﹂の対句の形式を見てみると、基本的に は二句で構成される単対が多いが、隔句対が七組使用され ている点が極めて特徴的である。一方で、諸子や草創期の 辞賦文芸、また上述した武帝期の文人達の上書に散見する 排 比 句 や 長 隔 句 対 は、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ で は 影 を ひ そ め て い る。 今その隔句対の例を以下に挙げよう。 所任賢、則趨舍省而功施普、 任 命 し た 者 が 賢 者 で あ れ ば、 取 捨 の 労 が 省 け て、 功労恩恵があまねくゆきわたります。 器用利、則用力少而就效衆。 道具が鋭利であれば、労力が少なくて効果が多い のであります。 ︵第二段︶ 故服絺綌之涼者、不苦盛暑之鬱燠、 それゆえかたびらの涼しい着物を着る人は、盛暑 の熱気に苦しむことなく、 襲貂狐之 煗 者、不憂至寒之悽愴。 てんや狐の温かい皮衣を重ね着ておれば、極寒の 冷気を憂えることはありません。 ︵第三段︶ 夫竭知附賢者、必建仁策、 そもそも智慮を尽くし賢人に附く者は、必ず仁愛 あふれる政策を立て、 索人求士者、必樹伯跡。 人材を求め士を求める者は、必ず覇業を打ち立て ます。 ︵第三段︶ 昔周公躬吐捉之勞、故有圉空之隆、 昔周公は、食事を中途で吐き出し、洗い髪を握り し め た ま ま、 自 ら 賢 士 と 面 談 す る 労 苦 を 厭 わ な かったために、牢が空になる隆盛をもたらし、
15 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) 齊桓設庭燎之禮、故有匡合之功。 斉の桓公は、 庭 かがりび 燎 の礼を設けて賢人の確保に努め たために、天下を整え正して諸侯を会合させる功 業を立てたのです。 ︵第三段︶ こ の よ う に﹁ 聖 主 頌 ﹂ は、 ﹁ 故 ﹂・ ﹁ 夫 ﹂・ ﹁ 昔 ﹂ と い っ た 発語の辞や接続詞を除けば、一聯が三言句+八言句、ある いは六言句+七言句、五言句+四言句、七言句+六言句か ら構成される、多様な隔句対であることが分かる。これら は、 六 朝 駢 儷 文 の 緊 密 な 句 法
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四 言 句 あ る い は 六 言 句 から構成され、音声的バランスに対する配慮も行き届いた そ れ│
に 比 べ れ ば 、 統 一 感 に 欠 け て い る 。 し か し 、 諸 子や辞賦文芸の対偶に比べると遥かに整斉が行き届き、修 辞技術の進展をうかがわせるには十分なものである。 こ う し た 対 偶 の 様 相 か ら 見 れ ば、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ は、 諸 子 の 文体とは異なる、文芸的な性質を有しており、その文芸性 にしても、漢代初頭までの辞賦文芸のそれと一線を画する ものであることが確かめられるのではないだろうか。 このように、 ﹁聖主頌﹂の対偶の完成度の高さは、 武帝期 ・ 宣帝期における文章としては突出したものがある。それゆ え 范 文 瀾 が﹁ 駢 儷 の 文 は、 ﹁ 聖 主 得 賢 臣 頌 ﹂ に 始 ま る︵ 駢 儷之文始﹁聖主得賢臣 頌 ︶24 ︵ ﹂︶ ﹂と言うように、前漢における ﹁ 駢 文 ﹂ の 鼻 祖 的 作 品 と さ れ た の で あ っ た。 狩 野 直 喜﹃ 両 漢 学 術 考 ﹄ も、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ が 鄒 陽 の﹁ 獄 中 上 書 ﹂︵ ﹃ 史 記 ﹄ 巻八三魯仲連鄒陽列伝︶を承けて、より整頓を加えた駢體 文的作品であることを認めている。同時に﹁然るに前漢ま では、ある文に限りて文字が整ひ、對句を交へしが、東漢 に至りては一烈し。東漢はある文人のみならず、殆んど す べ て が こ れ を 用 ひ た り。 後 漢 書 の 奏 議 の 如 き こ れ な り ︶25 ︵ ﹂ と指摘している。これによれば ﹁聖主頌﹂ の駢文的文体は、 宣帝期以前のみならず、前漢全体においても突出している のであり、ようやく後漢になって盛んになる﹁奏議﹂の駢 文化を先取りしていたことになる。 話題を戻して、第二節と本節で検討したことの要点をま と め る な ら ば、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ と い う 作 品 の 表 現 の 淵 源 は、 戦 国 諸 子 や 辞 賦 文 芸 に 求 め る こ と が で き る。 清・ 譚 獻 ︵ 一 八 三 二∼ 一 九 〇 一 ︶ が﹁ 聖 主 頌 ﹂ を 評 し て﹁ 風 骨 は 諸 子に学び、華実は騷賦に化す︵風骨學於諸子、華實化於騷 賦 ﹂︶26 ︵ ︶﹂ と 述 べ て い る の も、 こ の 点 を 指 摘 し た 的 確 な 発 言 で ある。 この点に関連して述べれば、簡宗梧氏は、六朝の文体に 先駆けて、両漢の文章が辞賦の影響を受けて美文化してい くこと、その主導を担ったのが司馬相如や東方朔を始めと した所謂 ﹁言語侍従の臣﹂ ︵班固 ﹁両都賦序﹂ 、﹃文選﹄ 巻一︶ であったことを指摘されてい る ︶27 ︵ 。王褒もまた班固によって16﹁ 言 語 侍 従 の 臣 ﹂ の 一 人 に 挙 げ ら れ て お り、 そ こ に 小 論 の 検討を重ねるならば、 ﹁聖主頌﹂はまさに簡氏の指摘する、 漢 代 に お け る 辞 賦 化 さ れ た 文 章 の 一 典 型 で あ る と 言 え る。 第 一 節 で 検 討 し た よ う に、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の ジ ャ ン ル と し て の 本質は﹁上書﹂であった。そのことを踏まえて強いて言う ならば、 ﹁聖主頌﹂は、 ﹁文芸化された上書﹂と呼ぶのが妥 当であろう。 で は こ の よ う な 作 品 が、 こ の 時 期 な ぜ 生 み 出 さ れ る に 至ったのであろうか。この問いは、見方を変えれば、享受 者である宣帝はなぜこのような作品を求めたのか、という 問いにもなる。この点については作者王褒や、 宣帝の嗜好、 及び宣帝期の時代状況と絡めて論ずる必要があろう。 第四節 ﹁聖主得賢臣頌﹂と漢代宣帝期 第 二 節 で 述 べ た よ う に、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ に は 戦 国 諸 子 の 文 体 の影響が強く見られた。その戦国諸子の文体には、比喩や 寓話を折り込んで、説得対象の心理を計算しながら巧みに 展開する弁論術が使用されている。こうした諸子の文体が 形成される要因として、諸子が諸国に自説を売り込む戦国 遊説家的存在であったことを閑却することはできないであ ろ う。 彼 ら の 実 践 の 中 で の 口 頭 に お け る 弁 論 術 の 発 達 が、 ﹃孟子﹄や﹃韓非子﹄ 、あるいは﹃戦国策﹄に見られるよう な、すぐれた弁舌を彷彿とさせる書記言語を生み出す一因 となったはずである。 このような諸子の文体を﹁聖主頌﹂が取り込んでいるこ とから推測するならば、作者である王褒もまた、戦国遊説 家的資質を有していたと考えられるだろう。実際、 ﹃漢書﹄ 巻八六何武伝においては、王褒のことを﹁辯士王褒﹂と称 している。 しかしそうした戦国遊説家的存在は、中央集権化が整っ た 武 帝 期 に は 影 が 薄 く な り、 つ い に は 建 元 元 年︵ 前 一四〇︶の察挙にて、 ﹁挙ぐる所の賢良のうち、或いは申 ・ 商 ・ 韓非 ・ 蘇秦 ・ 張儀の言を治むる﹂戦国遊説家流は、 ﹁国 政を乱 す ︶28 ︵ ﹂ものとして排除されるようになる。この状況は、 ﹃ 漢 書 ﹄ 藝 文 志 の 縦 横 家 の 項 目 に、 武 帝 期 以 後 の 著 録 が な いことからも推測できる。 ただそのことは、戦国遊説家や縦横家の伝承がこれ以後 全く断絶したことを意味するのではない。 彼らの弁論術は、 思想性を薄めながらも口頭弁論の技術としてこの後も生か され、 同時にそうした弁論を書面にも及ぼして、 命脈を保っ ていたと考えられる。王褒が﹁辯士﹂と呼ばれたのは、こ の時期彼がそのような口頭あるいは書面にわたる技術を継 承していたためではないか。王褒が益州時代に制作したと
17 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) される﹁四子講徳論﹂ ︵﹃文選﹄巻五一︶は、戦国遊説家の 文 体 を 基 礎 に し た 四 人 の 人 物 の 対 話 か ら な る 作 品 で あ る が、王褒自身に弁論術とそれを書面化する高い言語技術が 無かったならば、こうした作品は著し得なかったのではな かろうか。 弁論術に関連して言えば、口頭の弁論が書面化される際 の特徴を示す宣帝期の貴重な資料が残されている。 桓寛 ︵生 卒年不詳、宣帝期の人物︶の﹃塩鉄論﹄である。 ﹃塩鉄論﹄ は、 ﹃漢書﹄巻六六・公孫劉田王楊蔡陳鄭伝論讃によれば、 昭帝期の始元六年︵前八一︶に、塩や鉄の専売制などを巡 る塩鉄会議での論争を、宣帝期になって桓寛が書物として まとめたものとされる。その書面化に当たっては、 ﹁議文﹂ に基づいて﹁塩鉄の議を推衍し、条目を増広し、其の論難 を 極 め︵ 推 衍 鹽 鐵 之 議、 增 廣 條 目、 極 其 論 難 ︶﹂ ︵﹃ 漢 書 ﹄ 巻六六論讃︶たとある。この﹁議文﹂について、谷口洋氏 は、会議での議論に際して、あらかじめ用意していた口頭 弁論の﹁草稿﹂のようなものではなかったかと推測されて い る ︶29 ︵ 。そうであれば、塩鉄会議での議論が﹃塩鉄論﹄とし て書面化されるには、口頭弁論の特色を含んだ何らかの文 書があり、それが後にさらに敷衍されて書物として定着し た、 と い う こ と に な る。 そ の 文 体 は、 ﹁ 先 人 の 著 作 中︵ 筆 者注 戦 国 諸 子 や 経 書 ︶に す で に 使 わ れ て い る 成 句 や 格 言 ・ 例話などが巧みに連 綴 ︶30 ︵ ﹂されており、さらに対句が多用さ れ、中には押韻を伴う辞賦的表現︵散不足篇︶も見うけら れ る ︶31 ︵ 。こうした状況は、書面言語が、口頭言語の技術を吸 収しつつ、さらなる発展をしていた当時の状況をうかがわ せる。 こ う し た﹃ 塩 鉄 論 ﹄ の 文 体 の 特 質 は、 第 二 ・ 三 節 で 検 討 した﹁聖主頌﹂のそれと重なる点がある。だとすれば﹃塩 鉄 論 ﹄ が そ う で あ っ た よ う に、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ と い う 作 品 が 成 立する背景には、戦国遊説家的存在の変質と、彼らの弁論 術が書面上の修辞術として進展していく、宣帝期の言語状 況があったと考えることができるのではないか。 そ の 一 方 で、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ が 辞 賦 文 芸 の 影 響 を 受 け て い る 点は、この作品の第一の享受者である宣帝の嗜好面から考 察する必要がある。 そのことに関しての資料となるのが ﹃漢 書﹄王褒伝の記述である。 王褒伝は、王褒自身の動向よりも、宣帝期の宮廷内にお ける娯楽や芸能の様子を伝える記述に多くの紙幅を割いて いる。その中からは、宣帝は宮廷文学としての辞賦を愛し たことがうかがわれる。例えば宣帝は、王褒や張子僑らを 引き連れて畋猟を行い、その際訪れた宮館ごとに、王褒等 に﹁歌頌﹂の作成を命じ、その優劣を競わせるコンテスト を行っていたとい う ︶32 ︵ 。王褒と共に宣帝に同行した張子僑は、
18 その名が﹃漢書﹄巻三十藝文志詩賦略に﹁光祿大夫張子僑 賦三篇﹂と見えることより、辞賦の作り手であり、そこか ら推せば、宣帝が王・張の二人に作成を命じた﹁歌頌﹂と は、 ﹁辞賦﹂に類するものであったと推測される。 王褒伝には、こうした宣帝の辞賦に対する嗜好が﹁淫靡 不急﹂と諫言されたことも記している。それに対して宣帝 は、 ﹁ 辞 賦 の 大 な る 者 は 古 詩 と 義 を 同 じ く し、 小 な る 者 は 辯麗にして喜ぶべし。⋮⋮︵辞賦は︶尚お仁義風諭、鳥獣 草木多聞の観有り、倡優博 弈 より賢ること遠し︵辞賦大者 與古詩同義、小者辯麗可喜。⋮⋮尚有仁義風諭、鳥獸草木 多聞之觀、賢於倡優博 弈 遠矣︶ ﹂と抗弁したとされている。 興 膳 宏 氏 は こ の 発 言 に、 宣 帝 の 当 時、 辞 賦 が﹁ 倡 わざ 優 おぎ ・ 博 すごろく ・ 弈 いご ﹂ と 娯 楽 手 段 に 比 さ れ る ほ ど の 価 値 し か も た な い ものと見なされていたことを読み取ろうとされ る ︶33 ︵ 。当時の 社 会 全 体 に お け る 辞 賦 及 び 文 学 に 対 す る 観 念 と い う 点 で は、この見解は正鵠を射ているが、一方で辞賦に対するそ うした否定的見方に対して、果敢に弁護を試みる姿勢を宣 帝が有していたこともうかがわる。 このように辞賦に対する愛着を示す宣帝という人物を第 一の読者としていたからこそ、王褒は﹁聖主頌﹂に辞賦文 芸的要素を取り入れ、その結果﹁文芸化した上書﹂を作品 化した、と見ることもできるのではないか。 加えて﹁聖主頌﹂には、宣帝の政治理念に直結する政治 的意義を有する部分があるように見うけられる。 そ の こ と を 確 認 す る 手 掛 か り と な る の は、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ 第 四段の﹁故に聖主は必ず賢臣を待ちて功業を弘め、俊士も 亦た明主を俟ちて以て其の徳を顕す︵故聖主必待賢臣而弘 功業、俊士亦俟明主以顯其德︶ ﹂、聖主と賢臣とは相互補完 的な存在であり、彼らが相即的に結びつくことによって功 業を挙げ才徳を発揮できる、という主張である。この主張 に通じる見解は、すでに高祖劉邦の﹁求賢策﹂ ︵﹃漢書﹄巻 一 ︶ に 見 る こ と が で き る︵ ﹁ 蓋 し 聞 く、 王 者 は 周 文 よ り 高 きは莫く、伯者は斉桓より高きは莫し、皆賢人を待ちて名 を成す︵蓋聞、王者莫高於周文、伯者莫高於齊桓、皆待賢 人 而 成 名 ︶﹂ ︶。 漢 王 朝 は こ れ を 政 治 理 念 と し て、 求 賢 政 策 を継続的に実施してきた。 しかし漢初と宣帝期では、賢臣を選抜する制度に違いが あり、求められる賢臣像にも大きな変化が生じていたこと に、注意する必要がある。山田勝芳氏によれば、文帝期に 始まり武帝期に制度化された察挙補任制が、新たな官吏登 用制度となると、 漢初と異なり、 ﹁有為﹂を重んじ、 ﹁弁舌﹂ に勝れ、 ﹁学問﹂や﹁礼儀﹂といった儒家的な資質や、 ﹁文 法﹂ 、﹁刀筆﹂といった法家的な専門的能力を有した賢臣像 が求められるようになっていく。この背景には、それまで
19 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) 長者的官僚たちに掌握されていた人事権が、皇帝の手に移 行していったことが大きく影響してい る ︶34 ︵ 。 主として武帝の代に起こった制度や情勢のこうした変化 を、宣帝期は踏襲している。したがって宣帝の時代は、皇 帝自身が求賢政策などの人事に自らの熱意を直接反映させ られる状態にあったわけである。 人事に対する熱意という点で、宣帝には特筆すべき点が ある。地節二年︵前六八年︶霍光の死去をきっかけに宣帝 は親政を開始し、官僚ポストに残存していた霍氏一族を一 掃し、名実ともに政権を掌握するに至った。宣帝が親政以 後熱心に取り組んだのが、民生の安定のための救恤政策と 農業政策であった。そのために地方行政が焦点となり、循 吏や酷吏といった儒家や法家的資質を有した地方官の人事 を充実させようとした。その様子を物語るものとして、従 前の研究において数々引用されるのが、宣帝の﹁庶民の其 の田里に安んじて歎息愁恨の心を亡くす所以は、政平らか に訟 理 おさ まればなり。我と此れを共にする者は、其れ唯だ良 二千石か︵庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者、政平訟 理也。與我共此者、 其唯良二千石乎︶ ﹂︵﹃漢書﹄ 八九循吏伝︶ という発言である。この発言は、 宣帝が自身と﹁良二千石﹂ との君臣関係を、序列を超えた相即的ものと見なして事に 当たることを表明していたことを示している。 こうした宣帝期における政治背景を踏まえた上で、宣帝 がなぜ﹁聖主頌﹂のような﹁文芸化された上書﹂を求めた のかという先の問いに答えるならば、次のようにまとめら れる。 武帝期を承けた宣帝期の理想的な賢臣像は漢初のそれと は 大 き く 変 化 し て お り、 儒 家 的 な 循 吏 や 法 家 的 な 酷 吏 と い っ た 新 た な 資 質 を 有 し た 人 材 が 賢 臣 と し て 求 め ら れ た。 また察挙制度の充実により、宣帝は優秀な人材を自ら直接 選抜し、選ばれた臣下と直接的かつ相即的な関係の中で地 方 行 政 に 当 た る こ と を 言 明 し て い た。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の よ う な 文章が作られたのは、そうした宣帝の人事の理想や、君臣 関係の理想を、内容の上でも、また表現の上でも、新たに 表象するものが必要とされていたからではないだろうか。 ﹁聖主頌﹂が提出された時期は、 ﹃漢書﹄王褒伝によれば 神爵年間︵前六一∼前五八︶であり、宣帝が親政を地節二 年︵前六八︶に開始してから、八年以上の歳月が流れてい た。したがって先に述べた宣帝のめざす政治理念は、すで に 具 体 的 な 形 で 実 現 し て い た は ず で あ る。 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ と い う作品は、享受者である宣帝の施政のあり方そのものを讃 頌し、宣帝の聖主としての威光を喧伝する作品であったと 言えるであろう。 本 節 で は、 ﹁ 文 芸 化 さ れ た 上 書 ﹂ と 言 う べ き﹁ 聖 主 頌 ﹂
20 の文体が、宣帝期における戦国遊説家的存在の変質という 事態や、弁論術の書面化に見られる敷衍化 ・ 誇張化の傾向、 また宣帝の辞賦に対する深い愛好とかかわることを述べて き た。 ま た﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 内 容 は、 宣 帝 期 に お け る﹁ 賢 臣 ﹂ に関する観念や制度の変化、宣帝の施政のあり方と密接に 関わっていることを指摘してきた。 以 上 の 検 討 を 経 た 上 で、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ の 作 品 性 を 述 べ て 小 論のしめくくりとしたい。 むすびにかえて 第 一 節・ 第 二 節・ 第 三 節 で 述 べ た よ う に、 ﹁ 聖 主 頌 ﹂ と いう作品は、君主に進言を行う文体である上書の体裁を取 りながら、戦国諸子や辞賦文芸の文体の影響を受けつつ更 に洗練を加えた文芸的な表現によって、理想的な君臣関係 のあり方を説いている。また第四節で触れたように、こう した文体の成立には、宣帝期の様々な政治状況が関与して おり、また内容においても宣帝の施政方針と繋がるものが ある。その意味で﹁聖主頌﹂という作品は、漢代宣帝の御 代を、文体の上でも内容の上でも象徴する作品であると言 うことができるだろう。 その上で﹁聖主頌﹂の作品性を述べるならば、本作品は 対 偶 を 主 体 と す る 従 来 に 無 い 文 芸 性 を 帯 び た 表 現 に よ っ て、宣帝期における新たな君臣関係のあり方を言祝ぎ、ひ いてはそれを実現した﹁聖主﹂たる宣帝の権威を称揚する 讃頌文学であると結論づけられるのではないだろうか。 小論では﹁聖主頌﹂の﹁文芸化された上書﹂という特色 を強調してきた。しかし ﹁上書﹂ であるはずの ﹁聖主頌﹂ が、 ﹃文選﹄ において、 ﹁上書﹂ ジャンルではなく、 なぜ ﹁頌﹂ ジャ ンルに配されるようになったのか、という問題については 十分に検討することができなかった。この問題を解決する には、 先秦から魏晋六朝期にかけての ﹁上書﹂ や ﹁頌﹂ ジャ ン ル 全 体 の 文 体 的 変 遷 を 詳 細 に 検 討 す る 必 要 が あ る だ ろ う。そこに隣接する﹁辞賦﹂や﹁論説﹂などの他ジャンル の動向も、視野に入れなければなるまい。また同時に、後 漢から魏晋六朝期に盛んになる、 ﹁上書﹂ や ﹁頌﹂ などのジャ ンルに対する文学批評の展開も、この問題には絡んでくる であろう。この点については今後の課題として、次稿に期 することとしたい。 注 ︵ 1︶ そ う し た 見 方 を 示 す 代 表 的 な も の と し て、 姜 書 閣﹃ 漢 賦 通 義 ﹄︵ 斉 魯 書 社、 一 九 八 九 年 ︶ 一 四 二∼ 一 四 三 頁 の 見 解 をあげておく。
21 王褒「聖主得賢臣頌」について(上原) ︽ 聖 主 得 賢 臣 頌 ︾ 及︽ 四 子 講 徳 論 ︾ 二 篇、 其 内 容 都 是 為 時 君 歌 頌 功 徳 的、 沒 有 什 麼 新 意、 只 是 文 采 富 麗、 講 究 詞 句 的 錘 煉 和 声 調 的 諧 美、 在 芸 術 技 巧 上 為 這 種 散 体 賦 開 辞 了 新 的 途 徑。 ⋮⋮︵ ﹁ 聖 主 頌 ﹂ 者、 ︶ 這 確 乎 是 如〝女 工 有 綺 縠、 音 楽 有 鄭 衛 〟、 可 以〝娛 虞 説 耳 目 〟、 不 只〝辯 麗 可 喜 〟已 也。 其 不 同 於 司 馬 相 如 者、 只 在 褒 作 敷 陳 人 事、 相 如 鋪 敘 景 物。 褒 作 通 篇 一 義、 相 如 附 贅 諷 諫 尾 巴。 王 褒 繼 承 併 發 展 了 司 馬 相如所創的 〝大賦〟 。 ︵ 2︶ 以 下 の 小 論 の 引 用 文 は、 経 書 は 芸 文 印 書 館 印 行﹃ 重 栞 宋 本 十 三 経 注 疏 ﹄、 ﹃ 文 心 雕 龍 ﹄ は 詹 鍈﹃ 文 心 雕 龍 義 証 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 一 九 八 九 年 ︶ に 拠 る。 ﹁ 聖 主 得 賢 臣 頌 ﹂ の 原 文 は、 ﹃ 漢 書 ﹄ 中 華 書 局 排 印 本︵ 一 九 六 〇 年 ︶ を 底 本 と し て 用 い、 王 先 謙﹃ 漢 書 補 注 ﹄︵ 中 華 書 局 影 印 本、 一 九 八 一 年。 及 び 上 海 師 範 大 学 古 籍 整 理 研 究 所 整 理 本、 上 海 古 籍 出 版 社、 二 〇 〇 八 年 ︶ と、 李 善 注﹃ 文 選 ﹄︵ 石 門 図 書 有 限 公 司 影 尤 袤 本、 一 九 七 六 年 ︶ を 参 照 し た。 押 韻 に つ い て は、 江 有 誥﹃ 楚 辞 韻 読 ﹄︵ ﹃ 江 氏 音 学 十 書 ﹄ 所 収、 上 海 中 国 書 店、 一 九 二 八 年 ︶、 于 安 瀾﹃ 漢 魏 六 朝 韻 譜 ﹄︵ 河 南 大 学 出 版 社、 二 〇 一 五 年。 初 出 は 中 華 印 書 局、 一 九 三 六 年 ︶、 羅 常 培・ 周 祖 謨﹃ 漢 魏 晉 南 北 朝 韻 部 演 変 研 究 ﹄︵ 第 一 分 冊 ︶ ︵ 中 華 書 局、 二 〇 〇 七 年。 初 出 は 科 学 出 版 社、 一 九 五 八 年 ︶ を参照した。 また ﹃史記﹄ の引用は中華書局排印本 ︵一九六〇 年 ︶、 ﹃ 漢 書 ﹄ の 引 用 は 前 掲 し た 中 華 書 局 排 印 本、 ﹃ 箋 解 古 文真宝後集﹄は漢文大系本︵冨山房、 一九一〇年︶ 、﹃文選﹄ 作 品 は 前 掲 し た 李 善 注﹃ 文 選 ﹄、 ﹃ 墨 子 ﹄ は 孫 詒 讓﹃ 墨 子 閒 詁﹄ ︵中華書局、 二〇〇一年︶ 、﹃荀子﹄は王先謙﹃荀子集解﹄ ︵ 中 華 書 局、 一 九 八 八 年 ︶、 ﹃ 淮 南 子 ﹄ は 劉 文 典﹃ 淮 南 鴻 烈 集 解 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 八 九 年 ︶、 ﹃ 韓 非 子 ﹄ は 王 先 慎﹃ 韓 非子集解﹄ ︵中華書局、 一九九八年︶ 、﹃荘子﹄は郭慶藩﹃荘 子 集 釈 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 六 一 年 ︶、 ﹃ 戦 国 策 ﹄ は 上 海 古 籍 出 版 社 排 印 本︵ 一 九 八 五 年 ︶、 ﹃ 藝 文 類 聚 ﹄ は 中 華 書 局 排 印 本︵ 一 九 六 五 年 ︶ に そ れ ぞ れ 拠 る。 な お 原 文 に つ け た 拙 訳 に つ い て は、 国 内 外 の 先 行 研 究 の 成 果 を 参 照 し た 上 で 作 成 し た が、 多 岐 に わ た る た め、 煩 瑣 を 避 け て、 こ こ で は 一 々 掲出しない。 ︵ 3︶ 清・ 李 兆 洛︵ 一 七 六 九∼ 一 八 四 一 ︶ は﹃ 駢 体 文 鈔 ﹄︵ 中 州 古 籍 出 版 社、 一 九 九 〇 年 ︶﹁ 巻 三 雜 颺 頌 類 ﹂ 四 五 頁 に お い て﹁ 此 非 頌 體、 後 人 亦 遂 無 效 之 者 ﹂ と 述 べ、 近 人 黄 侃 ︵ 一 八 八 六∼ 一 九 三 五 ︶ も﹃ 文 選 平 点︵ 下 ︶﹄ ︵ 黄 侃 著、 黄 延祖重輯、 中華書局、 二〇〇六年︶五三五頁において、 ﹁聖 主 得 賢 臣 頌、 頌、 此 非 頌 也。 覽 褒 傳 但 云﹁ 頌 其 意 ﹂、 並 不 題爲頌。 ﹂と指摘する。 ︵ 4︶ 作 品 名 は 厳 可 均 校 輯﹃ 全 漢 文 ﹄︵ ﹃ 全 上 古 三 代 秦 漢 三 國 六 朝文﹄中華書局影印本、一九五八年、所収︶に拠る。 ︵ 5︶ 被 察 挙 者 が、 皇 帝 か ら の 諮 問 を 受 け、 そ れ に 答 え る 対 策 文 を 提 示 す る こ と が 義 務 化 し て い た こ と、 ま た そ の 対 策 文 の よ り 詳 細 な 書 式 に つ い て は、 福 井 重 雅﹃ 漢 代 官 吏 登 用 制 度 の 研 究 ﹄︵ 創 文 社、 一 九 八 八 年 ︶﹁ 第 二 章 第 四 節 察 挙 に おける対策﹂二一八∼二四一頁を参照。 ︵ 6︶ ﹃ 文 心 雕 龍 ﹄ 議 対 篇 に﹁ 又 對 策 者、 應 詔 而 陳 政。 射 策 者、
22 探 事 而 獻 説 也。 言 中 理 準、 譬 射 侯 中 的、 二 名 雖 殊、 即 議 之 別體也。 ﹂ ︵ 7︶ ﹃ 文 心 雕 龍 ﹄ 章 表 篇 に﹁ 降 及 七 國、 未 變 古 式、 言 事 於 王、 皆 稱 上 書。 秦 初 定 制、 改 書 曰 奏。 漢 定 禮 儀、 則 有 四 品、 一 曰章、二曰奏、三曰表、四曰議。 ﹂ ︵ 8︶ ﹁ 聖 主 得 賢 臣 頌 ﹂︵ ﹃ 漢 書 ﹄ 王 褒 伝 ︶ に﹁ 夫 竭 知 附 賢 者、 必 建 仁 策 8 、 索 人 求 士 者、 必 樹 伯 跡 8 。 昔 周 公 躬 吐 捉 之 勞、 故 有圉空之 隆 3 。齊桓設庭燎之禮、故有匡合之 功 3 。﹂ ︵ 9︶ 戦 国 遊 説 家 や 戦 国 諸 子 の 文 体 に 見 え る 比 喩 や 歴 史 故 事 の あ り よ う に つ い て は 今 鷹 真﹃ 諸 子 百 家 ﹄︵ 筑 摩 書 房、 一九七五年︶を参照。 ︵ 10︶ ﹃ 荀 子 ﹄ 性 悪 篇 に﹁ 桓 公 之 蔥 、 大 公 之 闕、 文 王 之 禄、 莊 君之 曶 、 闔閭之 干將 0 0 、 莫邪、 鉅闕、 辟閭、 此皆古之良劍也。 然 而 不 加 砥 厲 則 不 能 利、 不 得 人 力 則 不 能 斷。 ﹂︵ 傍 点 筆 者 ︶ と あ り、 ﹃ 韓 非 子 ﹄ 大 體 篇 に﹁ 使 匠 石 以 千 歳 之 壽 操 鉤、 視 規 矩、 舉 繩 墨、 而 正 太 山。 使 賁、 育 帶 干 將 0 0 而 齊 萬 民、 雖 盡 力 於 功、 極 盛 於 壽、 太 山 不 正、 民 不 能 齊。 ﹂ と あ る の が そ の例である。 ︵ 11︶ ﹃ 胡 非 子 ﹄ は﹃ 漢 書 ﹄ 藝 文 志・ 六 藝 略・ 墨 家 に﹁ 胡 非 子 三 篇、 墨 翟 弟 子 ﹂ と あ る が、 す で に 散 佚 し て い る。 李 善 の 引用した文は節略らしく、 王天海 ・ 王 韌 ﹃意林校釋﹄上︵中 華書局、 二〇一四年︶ 巻一所引 ﹁胡非子﹂ ︵九八頁︶ には ﹁勇 有五等。負長劍、 赴榛薄、 析 兕 豹、 傅熊罷、 此獵徒之勇也。 負 長 劍、 赴 深 泉、 斬 蛟 龍、 搏 黿 鼉 、 此 漁 人 之 勇 也。 ﹂ と 見 える。 ︵ 12︶ タイトルは﹃全漢文﹄に拠る。 ︵ 13︶ ﹁ 忽 若 ﹂ を 独 立 し た 形 容 詞 と し て と ら え る な ら ば、 該 句 は 剣 の 切 れ 味 を 直 喩 で は な く、 隠 喩 に よ っ て 表 現 し た も の と 見 な せ る。 い ず れ に せ よ 比 喩 に 比 喩 を 重 ね て い る 点 は 同 じである。 ︵ 14︶ 中 島 千 秋﹃ 賦 の 成 立 と 展 開 ﹄︵ 関 洋 紙 店 印 刷 所、 一 九 六 三 年 ︶﹁ 第 二 章 説 得 文 学 の 発 達 第 三 節 戦 国 の 説得文学の類型﹂一一三∼一六三頁を参照。 ︵ 15︶ ﹃ 韓 非 子 ﹄ 難 言 篇 に﹁ 故 文 王 說 紂 而 紂 囚 之、 翼 侯 炙、 鬼 侯 腊、 比 干 剖 心、 梅 伯 醢、 ⋮⋮ 宰 予 不 免 於 田 常、 范 睢 折 脅 於 魏。 此 十 數 人 者、 皆 世 之 仁 賢 忠 良 有 道 術 之 士 也、 不 幸 而 遇悖亂闇惑之主而死、 然則雖賢聖不能逃死亡避戮辱者何也、 則愚者難説也。 ﹂ ︵ 16︶ 明・ 張 溥﹁ 王 諫 議 集 題 詞 ﹂︵ ﹃ 漢 魏 六 朝 百 三 家 集 題 辞 注 ﹄、 中 華 書 局、 二 〇 〇 七 年、 二 二 頁 ︶ に﹁ ﹁ 聖 主 賢 臣 ﹂、 文 詞 采 密、 其 推 彭 祖 厭 喬 松、 歸 之﹁ 文 王 多 士 ﹂、 以 祝 壽 考、 意 主 規諷、猶長卿之﹁子虚上林﹂ 、游戲園囿、有戒心焉。 ﹂ ︵ 17︶ ﹃ 史 記 ﹄ 巻 一 一 七 司 馬 相 如 列 伝 に﹁ 天 子 既 美 子 虛 之 事、 相 如 見 上 好 僊 道、 因 曰、 ﹁ 上 林 之 事 未 足 美 也、 尚 有 靡 者。 臣 嘗 爲 大 人 賦、 未 就、 請 具 而 奏 之。 ﹂ 相 如 以 爲 列 僊 之 傳 居 山澤閒、形容甚 臞 、此非帝王之僊意也。乃遂就大人賦。 ﹂ ︵ 18︶ 劉 麟 生﹃ 中 国 駢 文 史 ﹄︵ 台 湾 商 務 印 書 館、 一 九 六 七 年 ︶ 第 二 章﹁ 古 代 文 学 中 所 表 現 之 駢 行 文 氣 ﹂ 二 四∼ 二 五 頁、 及 び 中 島 前 掲 書 一 五 三∼ 一 五 七 頁 を 参 照。 ま た 内 山 俊 彦﹃ 荀 子 ﹄︵ 講 談 社 学 術 文 庫、 一 九 九 九 年。 初 出 は﹃ 荀 子