家庭における所得形態の史的研究-III : 賃金生活者家庭における所得形態の推移について(2)
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(2) 2. 相. 馬. 日 ほ. 子. 信. 次. じめに. Ⅰわが国における賃労働者家庭の発生とその特徴-2 1.維新前の士族階級とその生計 2.幕府ならびに諸藩の財政と経済政策 Ⅱ. 低賃金と明治以降の経済政策(中) 1.明治政府の財政的基礎と経済政策 2.士族の経済生活と政府の授産対策 3.下級士族の生計 ま. と. め. は. じ. め. に. 前稿1)においてほ,わが国における賃労働者が主として貧しい農村を基盤にして発生し, その低賃金ほ農村の低い生活水準に支えられながら定着していったことを述べ,そうした 過程について家政学の立場から問題を整理しようとしたものであるが,今後の課題として 二,三の点を指摘しておいた。 その一つほ農民の所得についてであり,他の一つほ低賃金労働者の性格と生活実態に関 する問題であった。この両者は実は一つの根から派生した問題であり,その現われ方の相 違によって異なる問題意識を持つものと考えられる。これらの問題は従来経済学の領域で 紘,必ずしも深く追究されなかったものであり,特に農家自体の立場から考察されること のないものであった。 それは家計における現物収入に関する問題であり,それについてわれわれは家政学の観 点から新しい考察と評価とを加えてゆかねばならないものと考えている。 農民や低賃金労働者の殆どが,わずかに生活を維持し得たのは,明らかに現物収入に依 存しえたからであり,その点からも現物収入の役割が再評価されねばなるまいと考える. しかし一般的にほ,そのような自給自足的機能を欠いていたと考えられている士族階級が, その崩壊過程を通じて賃労働者を主体とするさまざまな家庭類型に転化していくとき,低 賃金,低所得の問題をどのような方法で解決し,対応していったかを,実証的に考察する ことが必要であると思われるのである。 そのうちで特に下級士族の没落による賃労働者の発生は,前述のような農村を背景とす る賃労働者とは少くともその性格において根本的に相違すると考えられるのであって,こ の両者の生活を比較分析して,現物収入の評価,ならびに,勤労者としての意識形成に対 する問題解明の一助としたいと思うのである. さてわが国における賃労働者の圧倒的多数は農民出身である.前回述べたように,農民 は明らかに生産費をも回収できないような低収入を余儀なくされており,このような条件 1)本学人文紀要第一額,第十八輯,. 1972。.
(3) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. 3. のなかで,いかに生活を維持し得たかが問題であるo また農村から出てきた賃労働者のき わだった特徴は,彼らを含む家族が農村に持つ生活の基盤から切り離されることのない, いわば出稼ぎ型の労働者であり,何らかの理由で都市の生活が出来なくなれば,何時でも 農村に帰ってゆく傾向を持っていた。その意味でほ決して完全な賃労働者ではなかった。 見方を変えれば,都市における彼等の労働ほ副業的であり,生活費の補助的手段であって, 本質的軒こは農民であると極言することも,必ずしも不当な評価であるとほいえないのであ る。. 農民が生産費をも回収出来ない収入で生活出来たのほ,現物収入があったからであるが, 同時に賃労働者化した場合にも同じように,農村との交流において常に物的な援助があた えられていたのであり,このような現物収入ほ,生活記録のなかで数量的に掴むことはき わめて困難でほあるが,社会慣行としてほ広く認められていることであり,彼等の生活を 支えるのに可成の役割を果していたであろうことは容易に想像されるのである。 家庭における所得を考える場合,このような現物収入を全く捨消してしまってよいもの であろうか,この問題について今回はその手がかりとして,農村に生活基盤を持たない非 生産的,非経済的士族階級の崩壊に伴なう賃労働者の発生過程について考えてみたい。 士族階級は,その崩壊に際し完全な失業者としてスタートラインに立ったのであって, 彼等ほもほや帰属する何ものをも持たず,自力でその資質と能力に応じてあらゆる職業に 転出せねばならなかったのである。 彼等ほ新しい職業で必ずしも成功したわけではなく,むしろその反対であった。しかし 生活の多様化という視点で彼らの転換過程を辿ってみると,農民出身の出稼ぎ型賃労働者 とは少くとも異った性格と資質とによって事態に対処していたことに気付くのであって, それほ生活史の上で重要な意味を持つものと考えられる。 彼等は賃労働者の総数からいえば,必ずしもその主淀を占めるものではなかったが,わ が国労働者の生活意識に与えた影響には,極めて注目すべきものがあると考えられるので あり,農民出身の勤労者家計における現物収入の問題とともに是非取り上げてみなければ ならない問題であると考える。 以上の点を中心として,今回ほ士族社会の崩壊に伴なう彼らの生活の実態をさ(oり,そ の特徴を明らかにしてみたいと思う。 l. わが国における賃労働者家庭の発生とその特徴-2. 1.維新前の士族階級とその生計 維新前における士族の生活を概観しておく必要がある. 十六世紀末から江戸時代にかけて兵農分離と家臣団の城下町への集中が行われ,徳川時 代には武士と農民の二階扱が固定し,藩を単位とする貢租の徴収と,家臣団への分配,つ まり家線分配とが行なわれた。 家緑ほ幕府や各藩が,諸侯や家臣に対して支給した給与であるが,それほ現在のように 単なる俸給でほなく,. 「武士の私的生活費であると同時に公的な統治活動費の性格をも有.
(4) 相. 4. 馬. 信. 子. していた2)。」. 農民からは武器を取り上帆農民が商・工業に近ずくことを禁じ・生産を強化するため に土地を離れることを厳禁し,重い貢租を課したo一方武士は城下町に集中させられ,土 地の直接的領有から切り離された。帯刀という特権が与えられたが,その代り生産面から は全く遮断され,支給される俸醸,つまり扶持米により生活するいわば年金生活者のよう なものになり,その意味でほ全くの非経済人であったといってよいo 家緑の高は士分以上はそれを世襲し,士分以下ほ一代限りであったo 武士階級全体の平均俸緑ほ農民の所得に捻ぼ同じであったろうと言われている畠'が,経 済的には全くの非生産者である武士階級の生活ほ農民以上に苦しい面もあり,例えば体面 を重じなければならぬということなどが加わって下級武士の生活ほ困窮を極めたものであ ったo. 大久保仁斎が安政二年(1855)に著した『富国強兵問答』4'によると「僕ほいま三十俵 三人扶持」を賜わっている。三十俵から札差科その他の費用をさしひくと・金十両前後で ある。最良の拝領地を賜わっているので,これをはか-貸しつけて,年に二両ほどある。 合せて十二両を月に割れば一両となる.親夫婦と妻と子ども二人,じぶんとも六人暮しで・ 三人扶持では食料に不足するから,三十俵のうち十五俵を食料にあてると,残りは五両で・ 地代二両を加えてわずかに七両である。このなかから,勤めむき,仲間の雑費などで年に 一両出すと,残りは六両となるoこのうちからさらに身分相応の勤め道具,衣服代・塩・ みそ,薪炭,油,ろうそく,紙筆,親類知人への賜物,不時の病人の手当,普請家具など の代金ほどうして出せようか--物があまれば質素倹約も行なわれるが,もともと無一物 では何の節約が出来ようo以上ほ蔵宿6'に借のないばあいであって,自分は前からの借財 が残っていて,残り十五俵も蔵宿に差し引かれて,まだ足りないoそこで勤めその他の諸 雑費は,すべて内職の利益によるのである。しかも自分のごときほ,御家人中の働き者で, 御家人を三段に分ければ,中の上に位する。この下の者ほいうまでもない。総体に御家人 ほ高の上下にかかわらず借財に苦しんでいる」とある。以上ほ武士の家計の実状で,下級 『明治前期郷土史研究法』p・ 92,本 2)青島敏雄,和歌森太郎,木村礎編集,郷土史研究講座6, 文引用に引きつづいて「私的なものが同時に公的な性質をもつというこの特徴は,幕藩体制下の 身分が私的身分であると同時に支配,被支配という公的身分であるということと対応していた○ それゆえに家株制度ほ幕藩蘭主制の一環としてとらえなければならない」とあるo 江頭垣治『日本国民経済史』 p. 2890 Samurai Ende der Tokugawa Lage der am Raming, "Die Wirtschaftliche 3) Martin Periode〃. ‥-ラミソグは武士のいろいろな階級や収入の程度を分析した結果,次の如く結論している。す なわち中級武士の平均年所得は, 100石で,だいたい富農の所得に匹敵する。ところが全武士階 級の年平均は実に・35石以下であって,これほ武士を経済の上では農民と同一水準に置くもので ある。 p. 32,注12。 F・H・ノ-マン『日本における近代国家の成立』 9, (読売新聞社報)所載p・ 『日本の歴史』 4)大久保仁斎『富国強兵問答』安政2年(1855) --. 5)蔵宿というのは浅草蔵前の札差し商人が営んでいるもので,旗本・御家人は多くここから金を 借りた.札差し商人ほ元緑ごろから発達して享保9年(1724)株仲間の許可をえた.. 171o.
(5) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. 武士ほど困窮の状態はひどかったものと思われるo こうした武士の窮乏化に指事をかけたのは徳川中期以後における諸色直段(物価)の著 しい騰貴であった。物価の騰貴により武士の生活は-そう苦しくなり,そのために武士的 な精神を失う者もでてくるようになったo この物価騰貴ほ下級武士のみでなく,幕府や諸藩の財政をも困難におとしいれ,幕府や 諸藩は財政難を切り抜けるために各種の法令や取り締り,あるいは禁止令をつぎつぎに.出 したが,根本的な改善策にはならず,困難な状態がつづいた. 2.幕府ならびに諸藩の財政と経済政策 幕藩の財政基礎は農民からの年貢であり,収穫の五公五民,六公四民,さらにきびしい 割合で徴収されることもあったが財政は苦しくなる一方であった。本庄栄次郎によると, 天保13年(1843)における年貢以下の定例収入を負担別にその割合をみると,農民の負 担に属するもの84%,武士階級の負担によるもの12%,町人によるもの4%としてい るo. (もっとも天保13年は天保の改革により,問屋制度が破壊されたので問塵が収める. 運上冥加などが廃止され,町人の負担割合は例年より少いと断っているo)8) たとえば,天保8年 こうした財政難の補填策として貨幣の改鋳がしばしば行われたo (1837)から12年(1841)までの幕府財政は,経常収入年平均114万両余りであるのに 対し経常支出の年平均額は177万5千両余におよんでいるo年々63万4千両余が平 均して不足しているのである。財源は限定された貢粗収入以外に殆どないので,この不足 分は主として改鋳の益金を以って当てられた。更に物価騰貴を抑制するために,法令を出 し,菅惨禁止令を発布し,株仲間の解散を命じたりしたがこうした消極的な方法では何ら 効果なく,幕末に至り物価の騰貴は著しく,士民何れも窮乏し,町人,商人よりの借入金 が寓むばかりであった。 幕府や諸藩の財政を圧迫したものにそのころしばしば起った天災があった。さらに度重 なる戦乱による疲弊と出費,築城等々の臨時支出に加えて,その頃から問題化した海外の 動静に備えるための砲台,陣屋などのための魔大な費用があり,財政は急迫を告げるばか りであったo. また恒常的な出費として忘れてならないものに参戟交代による出費があり,それほ各藩 の重荷でありその財政を撹乱させていた。窮乏した大名たちほ,旅費の工面がつかず江戸 を立てなかったこともあり,江戸屋敷の諸経費を一年もためてしまい,諸買物の代金など 数年もとどこおり,手形が山のようになっていたという状態であった7'o嘉永6年(1853) 以降諸大名の上書には,参戟交代制の改廃,上納金の免除等をあ坑諸侯の困窮を救助し なければ国防への尽力は不可能であると訴えている。 財政の逼迫した幕府や諸藩は豪商,豪農,政商などに御用金を命じ,度々倹約令を出し て経費節減を計ったが実績ほ上らず,遂に家臣団の俸緑を削減することと,藩札を増発し 304。 p・ 303, 6)江頭恒治,前掲書, 7)大名ほ参観交代制のため一年おきの在国中にほ,妻子を人質として江戸におき'別居生活とい う形をとったoそうした二重生活ならびに道中の費用が嵩み財政はますます苦しくなった.. 5.
(6) 相. 6. 馬. 信. 子. て急場を切り抜けるという方法をとるに至ったが結局は根本的な打開にはならなかった。 積極的に新田の開発,租税の増徴,国産の奨励,国産の専売などがこころみられたが,敬 津を除いてはその窮乏を救うことが出来なかった。 一方藩札の濫発はますます物価の騰貴を早め,俸緑の削減はたたでさえ不足である生活 費の削減を意味するものであるから家臣の困窮は-そうひどく無宿者として路頭の迷う蕃 も出るようになり,同時に不平不満が嵩じていった。 無産着である下級士族の困窮ほ決定的なもので,その窮乏を救うためにほあらゆる職業 に従事しなければならなかった。士族の妻子を対象とする種々の細工物を内職とする家中 工業も行なわれたが,これらの仕事ほ農民の副業と同じように問屋制家内工業の一種で, 問畳に従属する下請の職人化であって,その工賃はきわめて安く,資本的には商人に一方 的に支配されており,物価高による生活ほ苦しくなるばかりであった。その他内職として 商業に従事したり日雇稼ぎに出たりして漸く糊口をしのぐという状態であったから,いわ ゆる中世の武士的性格は失われ,中にほ町人的手腕を発揮して藩の財政改革にあずかった りする老も出るが,可成の者ほ額廃し,また才能のある老は国学洋学に心を傾け,幕末の 変革に役割を果すことにもなったのである。 商人は実力を身につけ,金銭で士籍を買うということなども行われ,一方財政に苦しむ 諸藩は赤字補填のために金穀を献上する農民を郷士にとりたて,いわゆる金納郷士の制度 をつくり,さらに持参金つき養子の形で旗本・御家人の株が売買されるという事態も現わ れ,士族社会ほ内部からもその崩壊をはやめており,士族の窮乏生活ほ様々な形で階級の 握清をすすめ,彼等の意識も次第に非武士的,町人的傾向を帯びていった。 士族崩壊前夜における下級士族の生活と財政に悩む幕藩の状態ほ以上のようなものであ った。. Ⅱ. 低賃金と明治以降の経済政策(中). 1.明治政府の財政的基礎と経済政策 維新政府ほ宮廷勢力を中心に薩・土・芸・尾などの諸藩連合の形で発足したが,明治2 午(1869). 1月23日薩・長・土・肥が連善して版籍奉還を建議してからわずか半年のう. ちにほぼ全藩の版籍奉還が行なわれ,同年12月にほ800万石余りの直轄地を得たが内 外の差し迫った事情は政府をきわめて困難な政治的立場に追い込み,何よりも財政的基礎 が不安定で,その収支は表1に見るように不健全財政であったo 明治元年末で通常歳入約366「万円に対し歳出の方は550万円を越え,征夷費などの臨 時支出を加えると3,000万円という巨蛋になっている. このような状態で政府ほ諸経費のおよそ87%までを豪商,政商などの献金,または借 入金,および太政官札などの不換紙幣によって賄ったのである. こうした不健全財政は年々魔大し,紙幣発行と借入金により収支を合せていたが,その 事情は諸藩においても全く同様で,維新発足以来戦費の増大,高利貸資本の蚕食の他に農. 物作の不作,またそれらの原因による農民の騒擾などが相次ぎ,財政ほ大幅な収入減とな.
(7) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ 表1・維新政府の財政収支(1) 歳. 7. (慶応3年12月一明治1年12月) 歳. 入. 出. 円. 関 種. 通. 貸. 常. 金. 官 有 物 所 通. 常 通. 常. 紙. 属. 返. 幣. 入. 合. 入. 臨. 時. 貸. 金. 税. 427. 納. 124, 521.771. 入. 発. 借. 720,866.936. 収 入. 雑 歳. 税. 返. 合. 192. 計. 780.410. 行. 24,037,. 389.813. 金. 4,732. 納. 入計計. 雅人総. 歳入. 外. 50, 193.712 332,755. 3,664,. 旧幕および旧藩所有金其外 公約 臨 時 例. 069 , 429.. A82.378. 10,636.738 362, 542.038 281. 111 ,482. 29,424, 533. 078 33,089,. 313.488. 緑. 省. 経 軍. 海. 費 費. 1. ,675,377.408 1 , 059,797.848 938. 諸∈防. 各. 2,009,013.730. 官、‡地お繕. 海. 円. 租. 各陸各諸営恩通. 地. ,. 223. 723. 339,676.613 786. 賞 賑常. ,. 949. 627. 492,961.972 213,266.. 通. 常. 征. 歳. 出. 合. 諸. 東. 183. 計. 5, 506,253.374. 費. 4,511. 旧藩,諸藩に属する諸費 官 工 諸 費. ,93‡主.097 1,022,111,544 695,206.731. 御東幸,官吏洋行勧業其他 諸費 臨 時 貸 金. 18, 157,279.. 953. 借入金返償および選録賜金 例 外 歳 出 合 計. 460,930.. 155. 24,998,832.. 593. 30, 505,085.. 967. 2, 584,227.. 521. 歳. 出. 計. 総. 残. 151,371.113. 『明治前期財政経済史料集成』第4巻より引用。 315. 大石,津田,山本『日本経済史論』所載p.. り,藩主家臣団-の家緑が負担になってきたので,それらの大幅な削減が迫られていた。 その事情は,鹿児島・熊本・佐賀・高知などの雄藩でさえ明治4年(1871)における 薄債額は年貢租額の1/4-3/4に達していたということをみてもおよそが推察出来る。 藩侯額が年貢租額を上廻る藩は,全国220藩のうち138藩,割合にすると63%にお よんでいたのである8)。. 『明治前期財政経済史料集成』第8巻の「解題」にほ幕末の家緯線計ほ1,300万石あ ったが,明治2年には900万石になり,さらに明治4年には492万石と概算してお り9),大石等もこの数字は大体間違いなかろうとしているが,各藩とも藩債が嵩み,大幅 な家緑削減の実行が必要となっていたのであるo 明治4年(1871)廃藩置県が行われ,諸藩の年貢は政府が一手に収めることになった がその代りに,政府は藩主と藩士にその家線を支給し,さらに合計7,813万3千円にの ぼる滞の負債の大部分を肩代りしたのである.この金賓ほ277藩の実収高の二年分に相 当するものであった。この藩債について一部は現金,一部ほ証券を交付したので,旧藩主 は借金から逃れ,貸主ほふみ倒される危険からまぬかれた。この負債のうち,外債は400 8)丹羽邦男, 『明治維新の土地変革』p. 9以下参照. 9)大石慎三郎,津田秀夫,逆井孝仁,山本弘文『日本経済史論』. p.. 3300.
(8) 8. 相. 子. 店. 歳入中にしめる地租の比重. 表2 期. 馬. 通常(経常) 歳入合計 (B). 間 千円. 慶応3年12月-明治8年6月 (8期間, 7年7カ月) 明治8年7月-明治14年6月 (6期間, 6年) 明治14年7月一明治19年3月 (5期間, 4年9カ月) 以 上 合 明治8年7月-明治19年3月. ,. 350. 82.2. 369. ,. 264. 76.5. 389, 150. 366. ,. 931. 63.8. 1,142,545. 257. 336. 231. ,. ,613. 千円 406. 282. 216. 計. 千円. 232,711. ,. 870. ,031. 706. ,. 555. 958, 051. 473. ,. 844. 675, 181. 736, 195. 73.7 70.1. 『明治前期財政経済史料集成』4, 5, 6巻より作成。ただし8年度(明治8年7月一9年6月)の通 常歳入ほ通常部,臨時部の区分が不明確なため,歳入総計から諸収入を引いたものをこれにあてた。. 表3. 農民の税負担の変遷. 『明治前期財政経済史料集成』7巻付録の「改租当時ノ反別地価地租調査 1)改租当時の指数は, 表」によった。 2) 13年庇および17年度の地方税,協議費額は,同年度の地方税,協議費総額と地租掩額の比 率(それぞれ63:100および75:100)を基準に算出した. (中沢弁次郎「日本米価変 3) 13年度および17年度の米価ほいずれも「赤間ケ閑正米平均相場」 動史」 304, 320真)をとった.大石他,前掲書p. 325所載。. 万円で,. 37藩がイギリス・オランダなどをほじめ外国商人から借りており,.それは戊辰. 戦争などの戦費に当てられたものであり,この外債ほ政府の手で明治8年(1875)まで に償還をおえている10)o 家緑ほ版籍奉還の時にすでに大幅な削減が行なわれ,その削減率は藩により,株高によ. り異ったが,大株の老は実収の1/10に減じたといわれるo廃藩置県後家緑は政府歳出主 なったが,大幅な削減が行われたといっても,それほ総額にすると国庫歳出の1/3の巨額 に上るものであった。. ①地租収入の増加, ⑧家緑制度の廃止という二大方. 維新政府は財政の健全を計るため,. 針を立て,先ず地租収入は政府の大きな財源であるからその増収を計る第一手段として明 治6年(1873)地租改正を断行したo しかしこの地租改正は金納化がすすむ中で,生産者である農民よりも地主の方に有利に 10)読売新聞社版『日本の歴史』. 10,. p.. 187-188。.
(9) 9. 家庭むこおける所得形態の史的研究-Ⅲ 作用し,結果としてほ農民が土地を失う契墳をつくり・小作農民が増え,地租の重さが農 民の生活を苦しめることになった。 歳入中にしめる地租の割合の大きさと・農民の税負担の重さについて紘,表2,表3に ょりその様子を推測することが出来る。 家緑廃止については,全藩の版籍奉還がほぼ終了したころから急速に進展した。その概 要を年次的に追ってみると下記のようになる。 8月. 明治元年(1888). 旧幕臣の原緑額がほぼ半減され鷹米(りんまい)が支給され る。. 4月. 2年(1869). 韓税が課されその分が差し引かれてしまう。 録制が改定され,俸繰を削減して魔米の支給が行われる。. 12月. (この年士族,卒の称を定め,士卒を地方官に貫属さす.) 華士族,卒とも在官老以下は農工商の従事を許可する。. 12月. 4年(1871). 家緑奉還老にほ3年分の線米を一時に支給するo (7月廃藩置実施, 5年(1872). 5月にほ諸身分の整理があった。). 2月. 士族,卒の件,ニ三男,爆雷などの扶持米を廃し,家緑の 実施を戸主に限定すする。. 4月. 随時の恩情的規外扶持米や,. 3年9月藩制布達以後の増緑,. 新規召抱者の給蕗を廃止する。 12月. 6年(1873). 秩緑処分規則公布 ③ 「華士族緑税則」, ⑧ 「家疎奉還の者-資金被下方規則」 ①ほ掌典緑をのぞく5石以上の家緑に税を賦課する.という もので, ⑧は100石未満の著に家緑奉遷を許可し,線種,緑. 高に応じ一時金を下付するというものであるoその内容ほ, 緑高を金額に換算し,永世耐まその六ケ年分,終身藤は四ケ 年分の資金を,現金と公債(8分利付)半々に施給するとし たもの。 3月. 7年(1874). 年限緑の支給額決る.. (10年以上は四ケ年分,. 2年は-ケ年. 半分等々)0 11月 9月. 家緑・賞典蕗の米給を廃し,すべて金線に改む。. 12月. 掌典殊に対しても緑税が課されることになる。. 8年(1875) 【‖川】■】川【. 年年. l0. 187 6. 巧じ 18 7. 7. ローhリ. qV. 100石以上の老にも奉遷を許可する.. lFHリ. 8. 月. よ り. 金線公債証書発行条例発布 年々の秩緑(家蘇,掌典緑)の施給を廃止する。. こうして秩蕗の最終的処分が断行され,翌年から金線公債証 善が発行された.表4=参照11) 『明治財政史』第八巻 さて以上のような経緯を辿って,秩緑が処分されたのであるが, によると,明治7・8・9の3年間に行なわれた家線の奉遷者は13万5千人で,緑高.
(10) 10. 相. 馬. 信. 子. 米給108万4千石,金給3万5千円,合計609万8千円にのぼるという。しかしそ の推移を見ると,明治7・8・9の3年間の奉遷高ほ6年末現在で,緑高で22%,人数 で約34%の減少を示している.このことは,この時期の奉遷が,生計の逼迫した下巌士 族を中心に行なわれたことを物語るものであるといえるo 公債は,五年間据置き,六年目から抽蒙で償還し三十年間に全部償還されることになっ ていたo明治10年1月以降家株・掌典緑の処分を受けた華士族ほ総計で31万.3千人 余りにおよび,交付された公債額は(端数の現金を加えて)総額1億7千456万円に 達した。わかり易く言えば,当時の総人口(明治10年で約3,587万人)の1%にも満 たない人びとに同年歳入総額約5,233万円の3ケ年分以上に当る金額が交付されたこと になるのである1乞)o. これらの現金や公債は,一部の高級士族をのぞいては,もともと非生産的な士族階級に とって必ずしも有利な転職の機縁とほならなかった。武士ほ家緑を離れ今や公債所有者と なったが,大部分ほこの時すでに生活が窮乏しており,交付を受けたわずかな公債でほそ の困窮を救うことほ出来なかった。 明治17年(1884)の調査13'Kよると,この時すでに金線公定の80%ほ旧士族の許を 離れて,商人や高利貸の手中に落ちたものと考えられる状態であったo この士族奉還に関して加藤弘之は「-・日本の場合は自分の方から自分の権利を細って, 人のためにしたという有様で,ヨーロッパの場合は平民の力が強くなって,生存競争の結 果そうなったのだが,日本のはそうでなく士族は白から求めて誠に引き合わぬことをした. 表4. 備考. 金線公債および利子の交付基準. 明治前期財政経済史料集成」 8巻, 大石他,前掲書p. 333所載. 405-406頁より作成。. 12)この秩緑処分によって,明治10年度(1877)の金線利子支給の歳出分は1353万円余りとな り,明治8年度の家緑支出の5257oまでに減少したoだがそのために1億7千余万円の公庶 が発行され,その利子として年々1千万円以上の支出が必要とされた。また元利返済の資金ほ主 として農民からの地租があてられた.郷土史研究講座6,前掲書p. 124。 13)菊滞重雄『年表日本経済史』第一部p・ 60-61,なお後出「F級士族の生計」参軌.
(11) ll. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ ようになっている。」14)といっている。. 2.士族の経済生活と政府の授産対策 前述のように秩緑処分により華士族は多額の公債を受けとったが,それほ上級士族にほ きわめて厚く,下級士族にとってほまことをこ軽少なものにすぎなかったo表5ほその実状 を如実に物語っている。 1人当り平均額 この表によると「わずか519人の最上層が全支給額の18%を占め, が6万円以上になっているにもかかわらず,受給人員の83.7%に上る下級士族層は1人 当りわずかに415円の平均額である。」また1人当り6万円以上の公債を受け取った最上. 層の人々は(金線元高1,000円以上はほぼ200石以上の着である)現在の貨幣価値年換 算し直すと大体2億円近くの交付を受けたことになると計算16)されており,これら上層士 族は年々の利子も,現在換算で1千万円近くなり,利子のみで充分な生活が出来,また資 本家への転生も政府高官への任官も可能であった。 第二の階層は大体20石以上200石未満の着で,平均1,600円程度の公債は,貌価で 500万円相当の公債になり,この階層の上部は生計も楽であり,産業面でも地盤を持つ余 力があった。またその下層部ほ官吏,その他の就業も可能で,多くほ都市の中・上層へ任 官の道を開くことが出来た。 第三,第四の階層はもっとも複雑な,また困難な道を辿ったもので,例えば,. 415円の. 公債の年利子ほ29円05銭であり,月額にして2円40銭ばかりである。明治10年に おける東京での男子の最低一日の賃金は22銭であったから,この公債の利子ほ,平人足 の月収の1/3でしかないので,公債利子で生活するなどということほとても考えられず, 公債を手離して生活費に充てなければならなかったが,それさえ取るに足らぬものであっ た.明治11年(1878)の俸給表によると, 伊藤博文(参議・内務郷)は両職分の給料を別々に待ていたから,それを合計すると月 額1,000円に達しており,当時の貨幣価値を現在の約3,000倍とするとおよ 表5. 秩線公債支給状況. 丹羽邦男『明治維新の土地変革』 p. 232-3の表より作成。 『明治前期郷土史研究法』郷土史研究講座6, p. 123所載。 14)加藤弘之講演全集第三冊,猪各善一『日本経済史』 336。 15)大石他,前掲書p.. p.. 138所載o.
(12) 12. 相. 馬. 信. 子. そ300万円の月収となる。. 山県有朋(参議・陸軍郷・陸軍中将・議定官)はこの四職のそれぞれの俸給を得ており, 月額合計が1,800円に達していたから,現貸に換算すると,およそ月額540 万の俸給を得ていたことになる18)0 明治政府は旧薩長の両津を中心に肥前・土佐両津を加えた四薩の下級士族出身者でかた められており,そのことが全体にアンバランスな行政となって現われていた。 下表はその状態を示しているo 出身地万別高級官吏数. 表¢. p. 8.. 『日本の歴史』読売新聞社版11巻p.. また前掲書の『明治前期郷土史研究法』17'にほ明治.16年(1883)現在における士族の 県別奉職人員についてのくわしい調査があるが,それによると奉職人員ほ士族全戸数の 13.8%にすぎない。府県全議員として被選挙権をもつ者(地租10円以上)ほ,被選挙 権も選挙権も規則上与えられなかった奉職人員を差引いた華士族数のわずか8.5%であ り,選挙権(地租5円以上)をもつものが15.3%であった。したがって,この三者の合 計37.6%を差引いた62.4%,戸数にして265,147戸の士族は全く零落した階層ににな ることになる。. また奉職人員のなかでも「等外以下雇」ほ,最低生活を強いられており,その分の 34,569戸を加えると,士族戸数の299,716戸-70.5%強が社会の下層を構成したこと になる。. 同調査によると,明治16年12月現在で文武官僚総員9万人中65%の5万8千人が 士族出身者であり,中枢をにぎる勅任官,奏任官では,. 84%を占め,彼等の出身地を府. 県別にみると,鹿児島,山口,高知,長崎が群を抜いており,薩長土肥が維新政治を動か していたことがわかるo. 16)読売新聞社版『日本の歴史』 17)郷土史研究講座6,前掲書p・ およびp.. 146。. 10,. p.. 202。. 132-133,表7,士族県別戸数および奉職人員(明治16年).
(13) 13. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. 明治20年(1887)における高額所得者100人のうち38人までが,旧藩主と公郷で 占められていた。公債を担保として創立された国立銀行の総株金のなかで華士族の保有高 が多く,華士族上層の公債は明らかに資本に転化し,資本家とて経済界に進出していった ことを示している。しかし明治中期以後ほ商人が資本力を増強して,次第に士族とその位 置を交替している。 こうした一部の上層士族とは反対に大多数の士族,つまり全士族の70%をこえる下層 士族ほ公債も少なく,何等の恒産もなく,忽ち困窮して公債を手離し,日々の生活に迫れ て いったのである。生産的手段を何等持たなかったこれらの士族たちの窮乏ほおそらく農 民以上であり,全くの失業者として社創こ放り出されたのであるo さてこれらの下層士族の貧窮状態を,同じ貧窮状態におかれなかがらも現物収入を持つ 農民と対比しつつ,現物収入の経済的価値を再評価し,また農村出の出稼ぎ型賃労働者と の根本的な生活意識の相違点を士族失業者のなかに見出してゆくことにしたいと思うo 明治中斯こおける士族の窮乏化はほとんど全国におよんでいると考Aられ,その状態は 表7にみるとおりである。 この表では「奉職人」と「府県会議員の被選挙権,選挙権を持たぬ者」とを貧窮士族と しているが,それによると大多数の士族はその中に入り,この状況ほ政府としても見過し ていることは出来ない状態になってきていた。 明治9年(1876)陛下東北巡幸に際し地方長官ほ県民の生活につき次のように上奏して いる。. ○栃木県. 貫属士族ノ数凡3,700戸,此内イササカ就産の目的アル-大田原卜足利と ノミ其太田原-農ヲ業トシ,足利-商ヲ営マントスルエアリ。其他-更二日 的アルヲ見ズ。. ○茨城県. 要スルニ士族-貴賓二田ミ,自家ノ生計ヲ工夫スルノ外他意ナシo而しテ能 共生計ノ目的ヲ達スル者亦之アラズ。. ○若松県. 士族ノ数凡ソ6,000戸, 表了. ・-是等素ヨリ無線無産ニシテ家屋ナク旦夕ノ生活 府県別貧窮士族戸数比 府. 907o. 以上. 807o. n. 707o. u. 名. 秋田,千葉,東京,神奈川,静岡,新潟,石川,富山,大阪,戟賀,鳥取, 島根,広島 埼玉,群馬,愛知,福井,岐阜,三重,京都,兵庫,愛媛. 6050408. 青森,岩手,山形,宮城,茨城,栃木,山梨,和歌山,岡山,徳島'福岡, 大分,鹿児島 長野,高知. 浄. 〃. 罪. グ. 長崎. 界. 〃. 佐賀,宮崎. 〃. 福島,熊本. 界. 県. 奉職人をのぞく士族戸数のうち被選挙権,選挙権をもたない戸数比であるQ 147・ 郷土史研究講座6,前掲書p・.
(14) 14. 相. 馬. 盾. 子. ニ迫り,強壮の男子-山菜或-工職工従事シ,婦女-織紡ヲ為シ其甚シキ日傭ノ職業ヲ為スモノアリテ漸クロヲ糊ス。 ○秋田県. 士族-8,000余戸アリ然レトモ後ノ目的ヲ立テ得ル者-殆ド少シ減緑旧卜各 県二比スレバ寛ナリトス而シテ金線ノ制出デテヨリ官賜ノ質-ー石二付2円 70銭余二当ルヲ以テ該地本年ノ米価4円30銭二比スレバ1円00銭余 ヲ減ス之が為二怨苦ヲ説ク者多シo. O宮城県. 士族減薩等差万石以上-五十石ノ割ニシテ真二非常ノ減額ナレ-中等緑以上. ハE]々ノ活計二困ミ小緑ノ者二重テ-稚其生ラ立ル者多シ. など士族の困窮をよく現わしている。 明治前期における秩緑処分は,一応は政府指令の枠組の中で行われたが,それぞれの藩 の自主性のもとに実行されたので,藩の事情により実際には異なっていた。また秩緑処分 の過程で何れの疎も士卒の帰農をすすめたo帰農は多くほ最下級者に多かった,何れにし ても大多数の下級士族は貧窮の底に構いでいる状態で,これほ東北だけではなく殆ど全国 的な状況であった。 たとえば,明治13年(1880)の三重県の調査では,士族戸数4,700戸中1,909戸が 困窮者であり,明治15. (1882)年の鳥取県では公債の9割ほ売られてしまっており,大 阪では3割8分が極貧老になっており,さらに明治17年(1884)広島県では実に7割 7分が生活困発着となっているのである18)0 以上のような状況を背景に西南戦争後の財政逼迫と相供って政府は富国強兵,殖産興業 の二大政策を強化し,その一つとして士族授産に積極的努力を払うようになった。そうし た中央の方針をうけて各地方の県当局も積極的に管内士族の生活を調査し,授産の方策を 梼じた。 それらの報告書のうち兵庫県県令に提出された復命書ほ兵庫県のみでなく,同じころの 士族一般の就産状況を推測するのに役立っている。主な点を拾うと,. 「--士族の輩久し く世線を仰ぎ,自家生産の道に慣れず,嘗て困勉労苦に堪えざるを以て,還緑士族の如き, 現に事業を経営せしより既に五六年の星霜を経るも,多くほ失敗して其業に熟せず,能く 自立の計を定むるもの僅かに十分の-二に過ぎずo其余ほ皆活路に窮し貧困に迫るを免れ ず。 -・卸こ今日の士族は進んで事業を起さんとするも前車の覆轍に懲り,過て生計の道 を定めんとするも公債の利金限りあり・実に進退経れ谷まるの期に際せり.況んや農業に 従事せんとすれば田圃に余地なく,商工を営まんとすれば資金欠乏に障碍せられ,徒ら虹 軽軌こ苦しむのみo --宜しく一大法を設け,衆人之れに頼り,彼此相資けて其事を成す にあらざれば,遂に功を期す可からずo今夫れ就産の法を論ずる者甚だ多しと錐も,究真 土地払下杭資金貸付けの二途あるのみo然れども能く其法を定むるにあらざれば,亦其 弊を免れずo嘗て家禄奉還の際官地払下げの挙ありしも,方法宜しきを得ず,徒らに投機 者流の為めに垂断せられ,今日に至り士族各自の手に存し自家の利益となる老絶てあるこ 18)我妻東策『明治社会政策史』 p. 32-37。 参考 書川秀造『明治維新社会経済史研究』.
(15) 15. 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. しかし明治8年(1875)以前において家緑奉還を行っ --」と報告されているo た者はこの時点で既に窮乏を極めていたが,大多数の士族は緑制廃止の結果交付された金 線証書を持っており,何等かの産業に着手し,或は着手の計画を立ていた時期で,彼等の となし.. 生活が窮乏のどん底に至ったのはこれより数年の後で,彼等の就産事業が漸次不振に陥り 漸く深刻となったものであるといわれている10)0 政府ほ殖産興業の大目標に向って,士族の授産政策を立て,すでに明治2年5月には 民部省に開拓局をおき,全国の荒蕪地を開墾させることにしており,明治4年の調査に ょると,開墾した反別ほ23ケ国で計2,598町歩に達したという。陸奥国三郡の斗南に 移住した旧会津の士族ほ窮迫惨憤たる生活の中で開墾に失敗し,漸次転業して実際帰農し た者はわずかに-割以下になったo また旧佐倉藩では700余町歩を士族1,200余戸に分ち,一戸5反歩余を,. 1町につき. 金1円の割で譲渡した。しかし多くの士族はその土地を売却して白から開墾した老は少か った.また北海道においても全道に各藩の移住開墾が企画されたがその大部分は失敗した. "まことに太平の逸民を帰農せしめるのは困難であっだ'20)と欺かしめるものがあった. また秩緑処分によって得た現金や公債も,非生産的職業であった士族をして,生産的職 業者に転換せしめたかどうかは疑問でもあるが,他方では「明治維新政府の士族政策ほ全 部失敗に終ったと断定することは早計である。その政策は多数人材をして人物の払底した 実業界に入らせて質において大成功をしている。幾多の産業ほ有為果断の士族が開拓した。 ・-新聞,印刷,蚕糸,製茶,鉱山,汽船等の事業ほ概ね士族流の手に成った。また士族 に下付された公債は国立銀行の資金となり, --それがまた日本における株式会社設立の 起源となったことほ上田貞次郎博士が考証された。」21'と評価していることも見落してなら ない面である。. この点に関してほ土屋喬雄も2乞)「--就中重要な結果をもたらしたのは,多くの近代産 業の移植が,士族の手で行われたことである.産業資金によって諸産業に従事した者の一 部ほ,新知識と教養を以て,綿糸紡績,横械製糸,マッチ等近代工業を興すに至り,多く の士族の失敗,没落にもかかわらず,近代的生産様式および生産技術の輸入・移植に貢献 したのである。」と評価し,また吉川は「総じて士族の農工商業における独立経営者化は 多くは失敗に帰した.しかし,士族授産方策によって士族の多くはその没落から救われな かったが,そのため多くの農耕地や牧場が増加した。」と述べており,これらの諸点ほ生 活の多様化という点よりしても,また勤労者としての意識形成上の役割にしても考えてみ なければならぬ問題である。 政府の授産政策ほ家臣団の処遇問題が出てきた初期には,干拓,開墾の,北海道への移 住などが藩段階で計画され,士族の困窮に対して家中工業奨励的な意味での殖産興業が熱 235. 19)膏川秀造,前掲書p. 189o 20)猪谷善一,前掲書p. 140. 21)猪谷善一,前掲書p. 22)土星喬雄『維新経済史』 p.. 103..
(16) 16. 相. 馬. 信. 子. 心に試みられたが,家緑整理がすすみ,明治9年(1876)の金線公債交付条例の公布以後. における士族授産ほ,起業公債(明治11年起業公債発行粂使勧定さる)による起業資金 を用いた本格的なものとなった. こうした窮乏士族に対する対策として政府は起業基金(明治12…13年で179万円), 勧業委托金(同14年, 286,000円),勧業資本金(同15年から8年間,年々50万円) を支出して開墾・牧畜・養蚕・製糸・織布・マッチ製造などの授産事業を行ったが,それ らの職業の独立自営業者を創出する面では大方失敗したのである。 養蚕・織布などの業種ほ早くから問屋制資本の支配下にあり,内職という形の賃労働で あり,マッチ製造などほはじめから賃労働であり,結局授産事業の実際ほ窮乏士族の賃労 働者化を促進したとも言える.さらに「没落士族の賃労働者化は多くの日雇・雑役など不 熟練労働者の創出となり,没落士族の婦女の多くほ問畳制工業あるいはマニュファクチュ ア経営の坐(.り製糸・織布工場・あるいは内職に従事する賃労働者となって現われた. 一部子女が官営模範工掛こ入り,また各地の紡織工場にも男女の士族が労働者として入 り-・・労働者創出に当ってこの没落士族群の役割は大きく,ことに停滞的過剰人口として 産業予備軍として資本蓄積の上に影響した点は見のがせないものがある.」℡8)といっている。 そこでこれらの事実から,没落士族の賃労働者化は,資本蓄積-の役割だけでほなく, 勤労者,労働者としての意識形成の上に大きな影響を与えていると考えるものである。士 族的な生活態度(ごく下層の部分でほ長期にわたる貧困のためにくずれていたとほいえ) が何らかの形で残り,それら勤労者生活を支え,単なる契約取引だけでほ割り切れないも のがわが国の勤労者の意識にはあるように見られが,その点についてほ稿を改めて論証す る予定である。 3.下級士族の生計. 株制廃止以後の下級士族の窮乏に対し,政府ほその救済を目的とする授産の基礎として 彼等の生活に関する実態調査を行なった。 この調査ほ明治16年(1883). 5月当時の農商務大輔品川弥二郎が全国各府県知事に対. して通牒を発し,それに添附された「士族生計蓑編輯例」24)と生計表の雛形により調査し たもので,各士族一戸毎にその職業,旧線米,改正緑米,公債受領高,現在財産(土地. 公債・株券) ・現在歳入・自宅借宅同居の別,家内人員, 15才以上60才以下人員, 才以下61才以上人員,戸主,姓名戸主年齢等12の調査項目をあげ,更に各士族をその 生計の程度に応じて上等,中等,下等,無等の四等級に分類したもので,それらの結果は 17年(1884). 12月に農商務省に報告されている。. 広島県では16年通牒にもとずき同年6月1日現在をもって実地調査をし,それを「士 族生計調査一件」として報告している。 広島県のこの調査は当時の士族の経済生活をよく現わしており,それほ広島県だけでは なく全国の士族の経済生活をも推測出来るものである。この面で優れた研究者である書川 喜一『日本労働者階級状態史』 23)森 240-242. 24)吉川秀造,前掲書p.. p.. 14。. 14.
(17) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. 17. 秀造の前記に著書により特に下級士族に焦点をしぼってその実状をみることにするo 広島県士族生計の概要は次の通りである。 1.生計の程度による分類でほ,全広島県士族中 4. 9/Oof. 上等(生計のゆたかなるもの) 中等(目下の生活上差支なきもの). 13.7%. 下等(辛くして拳家日常の生計をなしうるもの). 70.8%. 無等(日下日常の生計に苦しむもの). 10.6%. つまり広島県士族で生活が比較的困難でない者は18.7%弱にすぎなく,それに対して 生計の窮迫せるものは81.3%強を占めており,当時の士族の大部分は苦しい生計にあっ たのである。. ⑧家族多数にして資本乏し また無等については, ③寡夫(婦)にして無資本なるもの, きもの, ⑧労力はあるが就職の機会を得ぎる者, ④労力はありながらこれを使用するの念 なく,僚傍白ら貧窮におちいりしものに分けて調査しており,このうち最も多数を占めて いるものほ,働く能力がありながら,働く壊会のない失業者で,これに次ぐものほ⑧の家 族が多数のために,いくら働いても追いつかなく,その日の生活も苦しいという人たちで あった。 2.収入の種類別による士族の生活状況ほ, ①. 主として動産またほ不動産より生ずる収入により生活するもの. ⑧. 主として労力より生ずる収入により生活するもの. ⑧. 財産による収入および労力による収入の両者によるもの. の三種類に分けているが,財産による収入で生活出来る蕃ほ全体のわずか12.9%弱で, 大多数は自己の勤労による収入で生活をするか,または⑧の両者による生活であって, ほ43.6%弱,. ⑧は43.5%とほぼ半分ずつであるo. さらにこれを前記の上等,中等,下. 等別にその比率を出しており,舌抑ほそれに対して「以上の車乗ほ,土地や公債などの諸 財産が漸次士族の所有から離れて,士族が自己の労力のみによってその生活を維持してゆ かなければならない状態に立ち至ったことを示しており,彼等の労力による収入も,多く の場合,彼等の生活を維持するには甚だ不充分なものであり,特に財産収入のみによって 生活するものの80%以上が「下等」階級に属するという事実は,下級士族の多数が,勤 労によって収入を得る棟会,またはその意志がなくて,壇めて少ない財産に依存して窮迫 した生活を送っ、ていたことを物語るもの」であると解釈している。 収入は調査によると表8に示された通りであり,膏川はこれに対して「勿論金銭収入の 外に実物収入のある者もあったであろうが,右のような収入でほ,当時の物価や生活程度 を考慮に入れてもとても尋常なものとは信じられない」といっている。下級士族の生活困 窮はもはや普通の貧困の度合でほなかったのであろうし,上等の「生計鏡なるもの」ある いは中等の「目下の生計に差支なきもの」などの生活内容がどのような程度のものである か推察出来得るであろうという意味のことを付け加えている。 3.財産の所有状況ほ,土地,公債,株券について調査があり,それによると表9の通. ㊨.
(18) 18. 相. 馬. 信. 子. 表S. *上表中公債は主として金線公債,株券ほ国立銀行の株券である。 りである。. 明治16年における広島県士族の公債所有額を,彼等が明治11年末までに受領した初 めの金線公債額と比較してみると 上等は最初の所有額の約41%であり,したがって59%の減少である。 中等は. 〝. 24.9%. 〝. 75. 1%. 〝. 下等は. 〝. 12.3%. 〝. 87.7%. 〝. いま仮に株券を公債の変形と見なし之を加えて計算すると,減少の割合はそれぞれ上等は 37・9%,中等は60.2%,下等は81.1%となる。 本調査の「下等」の下に「無等」についての記入がないが,もし「無等」が何等財産と みなすもの所有がないならば,全体における減少の割合はさらに増大される管で,これら の数字よりみて,金線公債の70-80%以上がその交付後わずか4, 5年の問に士族の手 を離れたことは明かである。土地は宅地および農耕地を含むものと思われるが内訳は不明 であり,またその移動が少いのは主として換価が困難なために比較的手離されることが少 かったものと思われる。. 4.住宅については下表の通りである. 表1l.
(19) 家庭における所得形態の史的研究-班. 19. 広島県居住の士族総数6,927戸(31,155人)その中の「無等」ほ自宅に居住する老ほ わずかに18%で,その大部分ほ借家か同居である。全体の6,925戸中の94戸だけし 「無等」のうちおよそ40%が一家を構える能力 か自宅を持っていないというのである。 がなく,. 「無等」のはぼ半数が借家であるが,これも裏長屋とか-モニカ長屋に属するき. わめて劣悪な住宅であったことが推測される。 5.職業についての概要 広島県の調査でみると,比較的上層の階級に多い職業ほ官員,医師,教員で,比較的下 層の階級に多いのは無業,雑業,日雇,工夫等であり,いずれの階層にも比較的普辺のも 「無等」の階級 のは農および商業である.無業については「上等」階級にも,また「下等」, にもあるが,前者は財産収入により充分生活が出来る着であるに反し,後者ほおおおむね 就業の横会を得ざるためのものであって,その内容が大いに異るのである。この調査にあ げられている職業をみると,殆どあらゆる方面に就職しており,士族階級の崩壊に当り, 各人の事情に応C,それぞれの向きに転職していったものと考えられる。 また「岐阜県管内士族生計総計総覧裏」が前田正名関係資料として公表されているが, これも前記広島県の「士族生計調査一件」と同様士族生計表編輯例に従って丹念に調べら れた生計調査であり,それによっても下級士族の困窮振りが察知される。 (未定稿,明治17年1月起草)26)の緒言に. さらに前田正名の編纂になる『興業意見』 は,. 「--人民生活ノ有様-衣食住共に十分ナラス,人ニシテ未夕人卜称ス-カラサル者. 多シ。負債有テ貯蓄無く,非常ノ備欠ケテ凶荒ノ蓄乏シ,是政に租税ヲ増セ-人民苦ミ増 ササレ-国用足ラス,兵傭,教育,衛生,堤防其他ノ土木総テ不完全ノ事ノミ多クシテ国 ノ名アレトモ国卜称ス-キ実備-ラサルモノト謂フ-シ・・-」という書き出しを見ても当 時の生活の程度を推量することが出来るが,次の章の第一「人民の生活」という箇所に可 成具体的に生活費の基礎を算定している。 「本邦人民の生活-,称道スル所にヨレ-下等一般ノ人民-各自要スル所ノ米ノ代価ヲ 以テ衣食住諸費ノ半額卜為スト,蓋シ積年実際ノ経験二出クルモノナリ。是二拠リテ天保, 嘉永,明治ノ三年度工区分シ,其ノ米価卜貨幣ノ差異ヲ以テ当時一人-ケ年ノ生計ヲ算出 スルニ左ノ如シ.」として算出した生計費は, 天保度. 方今紙幣二換算,紙幣27円73銭3厘. 嘉永度. u. 23円12戯4厘. 明治度. 〝. 20円15銭. であり,明治度の算定基準ほ,金5円59銭7厘を以て一人に要する米-ケ年一石八升 「而シテ方今の紙幣明治17 の代価を算出し,米以外の衣食住の費用を米の代価と合計し, 年6月中平均新貸金1円-紙幣1円16銭5厘トシて換算したものである」とLているb さらに上中下三等に区別した生計費を計上し, 人民の平均生活の費用は 25)生活古典叢書1. 『興業意見他前田正名関係資料』p・. 187-338。.
(20) 20. 相. 上等一人-ケ年. 席. 信. 子. 金110円82銭5厘(衣食住の費用,米価の十倍を要するものと. する). 中等. 〝. 金. 60円45銭. (同上米価の五倍を要するものとする). 下等. 〝. 金. 20円15銭. (同上米価の二倍を要するものとする). と計算している。しかし下等におけるこの状態ほエンゲル係数でいえばおそらく 上であり,エンゲル係数が70%というのほ,どんなに生活を切り詰めても,赤字になる. 70%以. 生活であって,都市労働者がこの状態で長く暮せる筈ほなく農村へ還流せざるを得ない生 活実態があったのであるo さて,前記広島県における調査によると,士族一人当り年収入ほ各階級ともこの『興業 意見』より大幅に下廻っている。下等の年収平均は上記の半分以下の9円余りであったか ら,下級士族の生活苦はひどいものであったにちがいない。 下級士族の困窮については,三重県桑名郡長が,明治16年7月旧長島,桑名両藩の 士族についてその生活を報じたものがある.それによると,. 「-ケ月2,. 3円ないし6,. 円の少給を待て小学校助教,巡査あるいほ戸長,役場の筆生等に従事し,また壮健にして 文字を解するに不充分なる者は漁業,日雇稼ぎ,車夫等の賎役を取るあり,. --其他足っ た業なく或時ほ雇れ僅少の賃金を得,又家に在って漁網を結う等の雑業をなす老の数ほ族 中殆ど半を過く●。而して右等の家族はおおむね網糸を製し,漁網を結うなど一日一人につ き2,. 3銭の賃金を得て家計を補い,挙家全力を尽して辛うじて飢渇を免る迄にて,破窓. 残壁も修理の資なく,日に月に困難に陥るの状況なり。」28) というのが当時の下級士族の生活の実態であった。 そうしてこれら下級士族の多くは,やがて都市に流入し,賃労働者となりまた都市の窮 民層を形成するに至るのである。 さて当時の労働者の賃金ほ政府の低賃金政策とその他の事情によりきわめて低いもので あったoその他の事情の一つにほ明治14-18年にわたる大不況で地方農村から職を求め て都市へ流入す人口が急増し,賃金水準の下落による工場工業の有利さによってこの間に 労働者の数は倍増し,明治19年(1886)にほ官民両事業場の労働者ほ20万5千500 人となり,さらに明治23年の恐慌の際にも同様の条件が働らいて25年における産業労 働者の数ほ合計30万6千人に増加している。これらの賃労働者ほ農村の小貧農,没落 士族,旧職人層などであり,その主軸ほやはり農民層であったが,無組織な低賃金労働者 の中に多数の没落士族も流入していったのである。 その頃の労働者の賃金ほ表11に示す通りである。 こうした低賃金は労働者の生活を都市の下層階級の生活水準にまで落さなければならな かった。. 労働者一日の生計費について隅谷三善男は表12のように算貯ア)している. これは栃木県の場合であるが,それにしても栃木県労働者の一人一日の生活費ほ下等 26)生活古典叢書1,前掲書p. 喜一,前掲書p. 27)森. 39-420 13-140. 7.
(21) 21. 家庭軒こおける所得形態の史的研究-Ⅲ 表11明治18年の賃金(日給) 子. 男. 7. 日 雇 ・農作 東京砲兵工廠 横須賀造船所. 15.. 1. 場. 民 間. 工. 52.. 0. 31.. 0. 17.. 3. 織糸雇糸場. 15.. 雇人. 繰日襲工. 足. ・日. 7. 糸作問問. 7. 壊蚕農富民. 22.. 11. 銭.. 銭厘 工. ・大. 厘 5 3. (備考)農商務省統計書,統計年鑑による. ・印ほ食料をこめたもの,全国府県(中等)の平均。 12. 労働省「労働統計調査月報」第9巻9号p. 表12. 備考. 貨幣制度調査会報告により 隅谷算出,中等-熟練職人 下等-不熟練職人. (不熟労働者)でほ米1升の値段しかないといっているo. -前記『興業意見』における計算 1日にすると, として明治17年における下等一人-ケ年の平均生活費20円15銭は, 約5銭6厘であるから,それよりほ少しましである。 さて前記『興業意見』の年生活費(明治17年現在),ならびに隅谷の算出した(明治 16年-20年平均)一日の労働者の生活費をそれぞれ-ケ月の生活費に換算し,広島県士 族の月収(明治16年6月)とを比較すると次表のようになる。 表13. 一人-ケ月の生活費と広島県士族の収入. 2.. 50. 75.
(22) 22. 相. 馬. 信. 子. 上表にみるように広島県士族の特に下等士族の月収が75銭しかないのに対し同年代に おいて見積られた生活費は『興業意見』では二倍以上を必要とし,その算定ほ前述の通り, 米価の二倍という低い水準のものである。隅谷の未熟労働者の場合では丁度三倍を必要と しているのである.. 前回の紀要掲載の小論乞8)において大正7年(米騒動の起きた年)における労働者家庭 (家族4人,夫妻,子供2人)の生計費を掲げておいたが-それは当時の労働者家計の 困難さを物語るものであったが-それによると,生計費の支出総額に対する費目別比率 ほ,次にかかげる通りで,収入は支出に追いつかない状態であった。収入の少い労働者の 生活実態ほそのようなものであったろうと思われるので,この支出割合を明治17年頃の 家計に当てはめて逆算してみるとおおよそ次のようになる。 大正7年における労働者家計の支出割合(世界大戦後のインフレ時代) 54.5%. 食物費 光熱費. 7.3. 住居費 被服費. 17.9. 衛生費. 3.0. その他. 10.0. 食物費内訳. 25.2% 7.3% 13.0%. 栄(3斗5升1人1日3合弱). 14円00銭. 副食費(1人1食2銭) 味噌(1貫目). 7.00. 醤油(3升). 米代の1/2. i/U3#∼%冒. 1…:). 100.0. 計. この割合を下級労働者の食事′1ターンとして算出すると次のようになるo 隅谷はさきに未熟練労働者の一日の生活費は7銭4厘で,それほ米1升の値段でし かないといっており,明治17年ごろは米価が安定せず,デフレ政策で下落して行った時 代であるが,今仮りに米1升の消費者価格を7銭5厘とし, 1人1日平均3合当と すると明治17年ごろの家族5人の食物費は5円57銭となる。 米. 代. 約3円38銭. 副食費. 芸冨‡. 1. 69. 合計5円57銭. 50. 『興業意見』算出の基準にしたがって, 「下等は米価の2倍をもって生活費とする」と家 族5人の生活費ほおよそ6円76銭となり,これはおそらく当時としても最低の線であ ったろうと推測される。. 若しまた,大正7年当時の労働者家計の食物費が54.5%であり,それが可成の赤字家 計であるから,少し是正して,エンゲル係数を仮りに50%乞9)とし計算すると, の生活費ほ11円14銭となる。この数は丁度,隅谷計算の未熟練労働者1人1ケ月の 生活費を5人家族の生活費に換算した11円10銭と殆ど同じ生活費になりこの辺が当 1160 28)相馬,前掲紀要p. 29)大正8年調査では,当時の世帯人員約4人,エンゲル系数507oである。食費以外の生活費 が大体食費と同じ位である。. 5人家族.
(23) 家庭における所得形態の史的研究-Ⅲ. 時のぎりぎりの生活であったろうと想像. 表14. 23. 森喜一『日本労働者階級態史』. されるのである。. それに対して広島県士族の下等一戸 (家族5人)の月収は3円75銭で上述 試算の1/3しかないのである。中等にな って漸く最低の生活が可能になるという 状態であった。 計算の上では,広島県士族の収入程度 で,特に下等の士族はどうして生活が出. 来たのか理解に苦しむほどの低収入であ るo. しかし下等の場合は,前記のように. 財産収入のみによるという暑が意外に多 かったのであるが,その財産のうち,忠 債の大部分ほ手離しているのであるから,残るものほごく僅少な土地であったと思われる。 そこで下等の場合ほ,自給自足的生活が細々と行われていたと考えられるのであり,一方 土地もなく,ただ勤労収入にのみ頼らざるを得なかった下級士族の生活ほ最も苦しく,衣 じめなものであったわけで,その場合は家族が一人の収入に頼るということはなく,おそ らくは妻をほじめ,働ける家族のすべてが,家計補助のために働いていたと考えられるの であり,このような労働力の存在が,わが国の低賃金基盤を支える強い要因として働いて いたことは容易に理解し得るのである。 それにしても没落士族を含めた賃労働者の生活がいかに低いものであったかがわかる. それについて労働者の賃金と生計費の指数でその推移を示した図表を見ると,. 「明治10年. 以降26年までの生計費指数は-17年と19…21年の四ケ年を除いては-たえず賃 金指数を上廻り, 17年は物価・賃金ともに低落し不況をきわめた年で,労働者は失業に なやんだから,少しゆとりのある生活は19年…21年の3ケ年に過ぎなかったのであり, ことに11-15年は紙幣価値の低落と米価騰貴の時期で賃金は上昇しているが生計費の騰 貴はそれをはるかにこえており,労働者の生活は困難をきわめた。 16-20年は米価低落 から生計費数も下ったが,賃金も低下し始め,. 23年恐慌以降特に生計費は上昇をたどっ. たためその鉄状格差は大きくなり労働者の貧困化が激化された.」80)のである。この表14 は一般労働者のものであるが没落士族も勿論同様の困敷こさらされたであろうことほ容易 に想像されるのである. 前記のように士族の大多数が没落し,公債を手離した背景には急激なインフレーショソ の進行があったことも見逃すことはできない。維新政府は財政の緊急な必要をみたすため に多額の不換紙幣を発行した。たとえば太政官札,民部省札などを年々発行したが,廃藩 置県の折の歳入不足分として大蔵省脱換証券が発行され,次に同性質の開拓使脱換証券を 30)森. 喜一,前掲書p.48o.
(24) 24. 相. 表15. 馬. 信. 紙幣発行と政府の準備金銀. 子. 表16. 80 70. 10円. 90. 東京における米価の変動(明治10年代). 8. 50 40 30 20. 界. 元年 3年. 5年. 7年. 9年. 11. 13・. 15. 17. 年. 年. 年. 年. 読売新聞社版『日本の歴史』. 西南戟争のときに紙幣が大増発されてイソフレ ーショソがおこった.しかも大隈大蔵卿が対策 をあやまり,政府手持ちの銀を売り出したりし たために,政府の準備金銀が,急にへり,イン フレ-ショソほますますはげしくなったo. 2(石あたり). 10千万円貯浄. 10. 10. ll. 12. 13. 14・. 15. 16. 17. 18明. 年. 年. 年. 午. 年. 年. 年. 年. 年治. 11・. p・. 14. 西南戦争後のインフレーショソで,米価はう なぎ上りに上がった.明治14年には戦前の 2倍以上に達した。しかし,明治14年政変 後のデフレ-ショソ政策で,米価ほ急落し, 明治17年を中心に農民の困窮が強まった。. 発行したが,後には次第に発行日的が拡大解釈されて開拓使-の貸付のためとか,歳入不 足補填のためとか,為替会社処分のため,或ほ西南征対費支弁のためというように,多く の紙幣が発行された。こうした国立銀行の紙幣濫発は西南の役後にインフレーショソの形 で現れ,消費生活者である士族の生活困窮に拍車をかけたo特に明治11年より14年に おける紙幣の流通は急増し,明治以降における最初のインフレ-ショソの期間となった。 その原因は上述のように不換紙幣の濫発と公債の発行にあった. 明治11年以降紙幣の価値は急速に下落し,. 14年にほその頂点に達したので,政府は 経費節減のために各種の官営工場の払い下げを行い,歳入を計り歳出を抑えるように努力 し,. 14年以降は紙幣の整理処分を断行し,デフレ政策に切り替えたので,その結果紙幣. の価値は漸く回復し,物価も下落したのであるが,先の急激な物価騰貴を利用したのほ商 人たちで,大商人たちは米を買占め,米や金銀の相場に投機して大きな利益を独占したの である。 たとえば玄米一石の東京値ほ明治9年にほ5円12銭5厘であったものが,. 14年に. ほ10円59銭3厘と高騰しているが,こうした米価騰貴ほ,定率地租と物納小作料に よる地主や中農層以上には多量の貨幣を蓄積させることになった。 しかし貸付金利などは10年末の年利1割から13年の末には1割5分5厘に上昇 し,そのため中小商人ほ資金のやりくりがつかず倒産する者が続出したoその頃東京の下 町では井飯屋が六十軒もつぶれ,大阪では一合単位で米を売るという状態で,庶民の生活 は窮迫を告げていた。それらの様子ほ表15,表16により充分うかかうことが出来る。.
(25) 25. 家庭紅おける所得形態の史的研究-Ⅲ. 額面100円の金棒公債の価格は明治11年には82円28銭になり,. 13年にはさらに. 60円70銭に下落したので,ただでさえ少なかった下級士族の公債による収入はますま す少くなった。 政府の14年以降のデフレ政策により物価は一応下落したが,米価の下落とマユ,生糸 の下落は地方税の重課と相倹って農村を不況におとし入れ,小農は土地を手離し,小作人 となり,その反面それら手離された土地は大農や地主に集中され,農民の分解をすすめる 結果になったのである。 ま. と. め. 維新政府は幕藩体制の解体に当り,士族授産の政策として,帰農,移住開墾の奨励,質 金貸付,エ商業-の転出等を計ったが,それらの政策の網からこぼれ落ちた家緑奉還後の 下級士族の大半は,貯えもなく,なんらの技能もなく,家緑の代償として得た僅かな現金 は忽ち使い果し,公債も手離し,あとはずるずると貧窮のなかに沈んでゆくだけで,農村 に経済的基盤を持つ農民出身者とは違って,帰るべき場を持たず,自給すべき現物を持た ないが故にさらに苛酷な現実にさらされざるを得なかった。 したがって,徒手空拳自らの身体以外に頼るものを持たない彼等にとって,自己の才能 と資質を最大限に発揮し,あらゆる機会をとらえて死闘を試みざるを得なかったに違いな い。. 彼等の置かれた社会的条件は,産業革命前夜に,農業改革のあおりを受けて農村を迫れ たイギリスの貧民に酷似しており,すべての職種において徹底した労働者意識を持つに至 ったと思われる。その点に関してはいずれ稿を改めて論じたいと思うが,彼等の多くは士 分としての教養を持ち,その意味では指導者的資質や,訓練も持っていたと考えられるの であって,賃労働者としてほ極めて不徹底な状態の下にあった出稼ぎ型農民にくらべて, 労働者意識の面でも,また勤労者家庭における生活様式の確立という点についても大きな 影響力を与えたことと考えられるのである。 さらにこれとは別に,同じく低賃金基盤の構成者であった農村出身者が,現物収入に依 存することによってのみ,家計を維持し得た実状を追究することが,家政学研究者として の大切な課題の一つであるともいえるのであるo なお本研究をまとめるに当り,貴重なご示唆,ご助言をいただいた国学院大学の飯塚重 威教授に心から感謝を申し上げます。.
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