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中国における「近代家族」の形成 : 女性の国民化と二重役割の歴史

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(1)中国における「近代家族」の 形成 一女性の国民化と 二重役割の歴史 一 白水. 紀子. The@making@of@the@Modern@Family@in@China@: of『omen's]ationalization‖nd‥oub rol. th e. Ⅰ. Shi ouzu Noriko. 1 .. はじめに. 近代国家建設の 動きの中で生まれた「近代家族」とそれを. 支える良妻賢母思想は、. 当時としては. たいへん新しいものだったが、 60年代後半からの 第二 波 フェミニズム 運動を通して、 この一見、 家 庭内での男女平等を 達成したかにみえる 近代家族が 、 実は女性を私的領域に 取り込み、 女性にのみ 社会参加 か 家庭役割かというダブル・バインド 的な選択を迫る 根源であ り、 近代家族それ 自体が性 支配を隠蔽するシステムを 内在化していることが 明らかにされた。 近代社会はその 成立と同時に 、 他 のどの時代にもましてジェンダーを 最大限にそのシステムの 中に取り込み、 女性の近代化を 特定 の 領域の限られた. 近代家族. 部分においてのみ 許容してきたのであ る。 筆者はすでに 別稿仲 国文学にみる. ノ 批判」Ⅲにおいて、. 20年代から 30年代の日本と 中国の女性文学の. 中に. く. 、 早くもこの近代. 家族の矛盾に 気づき始めた 作品があ ることに注目し、 「新しい女性たち」がすでに 獲得していた 近代 を 家庭の中で次々にはぎ. 取られていく 苦悩を浮き彫りにした。 本稿では角度を 変えて、 こうした 近. 代の恩恵から 遠ざけられた 女性たちが「家庭の 近代化」という 枠の中で別の 側面から近代化されて. いく過程を、. 正しく評価し、 女性にとって 近代とは解放と 拘束の二面性を 有す. 女性解放の視点から. る 極めて矛盾に. 富むものであ ることを論じてみたいと 思. う. 。 そして中国の 女性にとっては、 それは. 同時に家庭と 仕事の二重負担を 強いられる「女性の 国民化」の過程でもあ ったことを明らかにした いと考える。 本論にはいる 前に「良妻賢母」の 概念とその中国での 歴史について 補足すれば、 日本でも中国で もこれを 前 近代の儒教思想の 産物のように 捉える人もいるが、 そうではなく、 近代国家建設のため に 「近代家族」の 中で女性が担. う. べき新しい役割を. 言ったもので、 近代化がいち 早く始まった 西欧. がその起源であ る㈲。 つまり、 良妻賢母思想は、 ジェンダ一規範を 一方の極に最大限に 押し進めた 近代の産物であ 用. り、 近代国家建設・. 近代家族の形成を 内側から支えるイデオロギーとして 女性に作. した、 当時としては 極めて新しい 思想であ り規範であ った。 それゆえ、 近代中国における 良妻賢母思想の 受容を論じた 多くの研究者が 指摘するように、. 新しい女性像は、. この. 「女子は才なきが 徳 」「姉従の教え」などこれまでの 儒教の説く女性像とは 大きく. 異なり、 それが 19世紀末に日本経由で 伝えられると、 その家族像も 近代的なものへと 再編成されて いった。 女性は家庭にあ って、 子供に対しては 単なる生活上の 朕をするだけでなく、 近代国家建設.

(2) 136. 白水 紀子. の 担い手となる 子を産み育て 教育する賢母となり、 近代社会で活躍する 夫を支える近代的教養を 備 えた良妻となることが. 求められ、. れたのであ る。 進歩的な雑誌と. よ. この良妻賢母の 養成を目的とした 女子教育が国家によって 着手さ ばれた《新青年》においても 1916 ∼ 17年ころには良妻賢母を 説く. 文章が散見され、 日本型よりもむしろ 欧米型良妻賢母のイメージが 広く伝えられていく。 しかし 17 年、 衰世 凱が 修正褒揚条例で 良妻賢母を節婦烈女とともにその 対象としたために、 良妻賢母という 言葉はそれまでの 近代的なイメージとはまったく 異なる伝統的女性像として 受け取られるよ. う. にな. り、 加えて儒教色の 強い日本型良妻賢母主義が 当時の反日感情を 伴って厳しい 批判を受けるように なると、 五四以降、 良妻賢母という 言葉はますます 進歩的な人々から 敬遠されるようになる。 ような当時の 思想状況に加えて、 民国初期の家庭像を. 論じた西川真子氏によると㈹、. この. 中産知識層の. 女性たちの経済的自立意識の 目覚めによって、 20年代半ばには「中国の 女性は中産知識層 か 労働階 層かを問わず、 賃金労働ということを 抜きにして考えることはできなくなっていった。. 中産階級. の 理想、を具体化した 家庭像が豊かに 語られる時代は 過ぎ去り、 そうした家庭の 担い手であ るく良妻 賢母 ) 、. く. クリスチヤンワイフ・マザー. いる。 このようにみてくると、 く. ノ. もまた、 居場所を失っていったのであ る。. 」. (91頁 ) と述べて. 中国における 近代家族の形成と 良妻賢母思想は 20年代半ばにあ えな. 途切れてしまったような 錯覚を与えてしまいがちであ る。 しかしながら 私は、 このような結論を. だすにはもう 少 し 慎重になってみたいという 思いが強い。 たとえば、 西川氏が「女性が 家庭の外で 収入を得ることを 支持する風潮」として 紹介する 1923 ∼ 4 年の《申報》に 掲載された 3 つの記事は 、. 一つは子供のいない 夫婦が下僕を 一人おいて質素ながら 清潔に生活を 整えていることを. 賞 貧したも. ので、 妻の上品な立ち 居振る舞いや 家計補助のために 妻が小学校の 教員をしているさまを 理想、とし て紹介したものであ り、 二つのは、 「女子もまた、 育児に携わらず、 家事を差配する 訳でもなく、 老 齢 でかい者で一業に 携わらない者はな い 」とあ. る よう. 性を対象に労働を 奨励したものであ り、 三つのは、. 「. に、 未婚か家事育児をする 必要のない 若い 女 旧 社数 が未. だ改められない. う. ちは、 (女子は ). 自室で工芸品の 製造者となり、 商品を出荷する。 / 母及び姉が仕事をしっ っ 児童に学ばせれば、 業の製造には 必ず常識、. 秩序、. 工. 知恵と カ の連用が必要なことを、 児童は知らず 知らずのうちに 身に. つける」と、 いわゆる内職を 奨励したものであ る。 これら 3 つの事例から 西川氏は「古い 家庭制の否 定後、 新しい家庭像を 模索して来た 中国青年の 、 一つの帰着点がここに 見える。 Ⅰ中産知識女性が 労働女性に近づいた 時に 、 ようやく幅広い 階層の規範となる 家庭像の誕生にたどり 着いた」 と 言 うが. 、 はたしてそ. う. (89頁 ). 言えるだろうか。 確かにこれらの 記事からは女性の 就労が重視されている. ことが伝わってくるものの、 しかしそれがただちに 近代家族イメージの 消滅を意味するとは 思われ ないからであ る。 なぜならば、 今日では家族イメージは 多様化し、 結婚が必ずしも 漠然と子供の 誕 生を予想、 させるようなことはなくなったが、 民国時期の家庭像を 論じるのであ れば、 未婚女性や夫 婦家族 (ディンクス ) ではなく、 当時の典型的な 家族形態が夫婦と 子供のいる核家族あ るいは親と同 居する直系家族であ. ったことを考慮して、. 娘や妻に関する 言説よりも母に 関する言説を 検討するこ. とを通して家庭像の 形成が明らかにされる 必要があ ると思われるからであ. る。. これは民国時期の 文. 半作品に描かれる 女性像から当時の 女性の社会参加の 傾向を見る時にも 同様のことが 言え、 これら の作品に登場する 女性の多くが 独身女性か子供のいない 既婚女性に設定されていることに 注意をは もう. 必要があ る。 中国の女性作家も 子どもが介在した 場合の女性の「新しい 生きかた」・については. 明快な回答を 出せないでいるからだ (凌 奴輩「小 割 」、 沈櫻. 「. 旧雨 」など ) 。 それに、 育児から自由な. 女性に職業を 持っことを奨励する 言説は中国だけなく 当時の欧米にも 日本にも普遍的にみられるも.

(3) 中国における「近代家族」の. 形成. 137. のであ ろう。 郵 健志『近代中国家庭的変革』. (1994年 ) ㈹によれば、 中国における 家庭への関心は 五四以降のこ. とであ り、 20年代に入ると 家庭問題に関する 学術研究は日毎に 盛んになり、 専門的な家庭問題研究 所の設立や YWCA が展開した討論会・. 講演会、 家庭問題に関する 多数の社会調査、 そして大量の 家庭. 問題に関する 研究書の出版により、 @ 家庭批判だけでなく、 新しい家庭像も 盛んに発信され 始めた という。 当時の家族論にみられる 論調は 、 一つは中国の 旧家族制度の 優位を唱える 保守的なもの、 二 つは 20 年代初めまで 多くみられた 家庭の廃絶を 唱える急進的なもの、 三 つは 欧米型家族を 理想睦. する改良的なものであ った。 このうち第一の 論調は保守的な 知識人の文章に 代表され、 それらには 儒教的女性像が 氾濫しているが、 ここであ えて詳しく紹介するまでもないだろう。 また第二の論調 は、. 本来なら「もう 一つの近代化」をめざした 社会主義運動の 進展の中で、 新しい家族観の 形成に. 繋がる可能性をもっていたが、 実際にはソビエトモデルの 紹介にとどまり、. 「子どもへのまなざし」. や 家事の近代化に 関する言説は、 すぐには実現不可能な 託児所や共同食堂の 建設プランに 代替され て希薄になり、. ト一 タル な家族論はこれ 以降ほとんどみられなくなって い. く。 それは社会主義系の. 人々の女性解放運動の 対象が、 農村女性や女子労働者にあ り、 議論の中心が 婚姻問題 (l日式 結婚、 重 奏 娘 、 嫁姑 、 離婚などの問題 ) や女性の経済的自立の 問題 (および女子労働運動 ) に集中したためであ り. 、 さらに中産階級の 女性に対しては 近代主婦よりも、 これらの活動において 指導的役割を 担 うこ. とを期待していたからだと 考えられる。 本稿ではこのうちの 第三の家族論を 取り上げ、 中国女性に根付かなかったと 言われることが 多い 良妻賢母思想に 焦点をさだめて 中国における 家庭 (女性 ) の近代化について 整理し、. あ わせて中国の. 女性解放史の 大半が女性の 社会進出の歴史に 収 叙 していることに 対する修正を 試みたいと考える。 これまで良妻賢母に 関する研究は 清末民国初期に 集中し、 それ以降は 30 年代半ばから 40 年代はじめ に 起こった「女は. 家に帰れ」論争との 関連で言及されることが 多かった。 しかしながら 現実にはこ. の間も近代家族およびこれを 支える良妻賢母思想は 中国社会に浸透し 続け、 女性の二重負担の 問題 として今日まで 強い影響力を 持っていると 考えられるのであ る。 なお、 本稿では近代主婦になることが 可能な条件下にあ り家庭 か 仕事かを選択する 余地のあ った 中産階級の女性たちを 対象として論じ、 かりに近代主婦になりたくともそれが 不可能であ った下層 労働女性たちや 特殊な状況にあ った上層階級の 女性についてはしばらく 対象としないことにする。. 2. 中国における 良妻賢母像の 特色一一二重役割の 歴史 中国女性の家庭と 社会に対する 二重役割の歴史は、 中国に日本から 良妻賢母思想が 伝えられた. 当. 初から確認できる。 たとえば良妻賢母思想を 中国に紹介した 第一人者とされる 梁啓超が、 19世紀末 に富国強兵のための 女子教育を提唱し. ;. その新しい女性像として、 一方で国家の 繁栄のために「 生. 産 活動に従事する 女性像」を提示しながら、 また一方で民族の 強化のために 子供を生み育て 教育を 施すことのできる「教養あ る新しい母親 像 」を提示していたのはその 一例であ る。 1897 年、 梁啓超 は「 変法 通義・論玄学」㈲において、 男性はみな「利を 生む人」であ るが、 国の半分を占める 女性. のほぼ全員が 自活できない「利を 分かっ 人 」であ るため、 他人に依存する 女性も、 また依存される 男性もっらい 生活を強いられている、 と述べ、 国家の繁栄のためには 女性も生産活動に 従事して寄 生的な生活から 抜け出さねばならない、 と女性の社会的役割を 説いていた。 だが同じ文章の 中に 、. 女性は児童の 育成に適しており、 西洋では児童教育の 七割は母親が 負っていると 述べて、 家庭にお.

(4) 138. 白水 紀子. ける児童教育を 重視し、 それゆえ「婦人の 学問は実に天下存亡強弱の 源であ る」と女子教育の 必要. 性を主張しており、. また同じ年に 書かれた「 椙設 大学堂 啓 」㈹にも女学堂を 設ける主旨は「上は 夫. を助け、 下は子を教え、 近くは家を宜しくし、 遠くは種を良くする」ためだと 家庭役割を重視する 見解が示されている. ". これらの主張は、 女性に社会的役割と 家庭的役割の 両方の責任を 求めるもの. であ る。 中国女性には 国家に貢献する 手段として、 日本のように、 安定した家庭経営と 健康で優良 な 子供を生み育てる 事を通して間接的に. 貢献するだけでなく、. 経済活動への 参加という直接的な 貢. 献の道も同時に 示されていたのであ る。 中国における 良妻賢母の受容の 歴史は、 その最初から 近代 家族を解体する 要素. 女性の公的領域への 介入を含むものだったのであ る。そしてこの二つの 要. 素を両立させようとすれば、 必然的に女性の 二重負担を導くものだったことは 言うまでもない (7) 。. 三 (王統 照 ) の小説「 紀念. 」. (4巻 8. レ. た﹂. お. き. て し. 確認. ヒラ. ず. 世俗的な雰囲気に. ま を. 主人公の男性 質秋 鴻は出版社に 勤める. 像. ( 婦女雑誌》に 掲載された王制 化主婦. 近. の 七寸 H. 当. る. で. あ. 8. 月. 午. 8 1 9 1. 号. 以下に紹介するのは、 五四時期の. の編集者で、 自分の専門とは 関係のない仕事と 職場の. 馴染めず、 悶々とした日々を 送 ちていた。 郊覚の自宅へは 週末に一度帰っており、. この日も自宅に 戻ると妻の慧 瑛が 幼子を抱いて 暖かく迎えてくれた。 敷地内には様々な 季節の花が 植えられ、 落ち着いた風情があ った。 妻は家庭菜園でとれたインゲン 豆をワインのつまみに 出しな がら夫の愚痴に 耳をかたむけ、 優しく心を癒してくれる。 二人は慧 瑛が 高等女子文芸専修科を 卒業 した年に叔母の 紹介で結婚したのだが、 結婚して三年、 彼は妻に自分のために 貧しい生活をさせて いることを済まなく 思っていた。 しかし 慧瑛は. 「少しくらい. 忙しくても、 それは女が家庭をもてば. 当然のこと。 お嫁入りをしたらじっと 座ってなにもせずに 夫に養ってもらうなんて 恥ずかしいこと. だわ」と言い、 子育てをしながら、. 暇を見つけて 手芸をやり、 花や野菜を植える 生活を楽しんでい. ると語る。 そして反対に 夫の苦労を思いやるのだった。 彼女は 、 夫の叔母の困窮を 見かねて彼の 給 料からいくらかでも 援助するよ. う. 提案し 、 彼は 10元の給与の中から 5 元を叔母に届けに 行った。 また. 彼女は夫の留守中に、 水害の被害にあ. った貧しい人たちのために. 2. 元寄付したこと、 さらに隣家の. 息. 子が学費が払えずに 退学させられそうになっていたので、 2 元貸したことを 報告する。 それを聞いた 賈秋 鴻は彼女の行為を 褒め、 二人は愉快な 気持ちになる。 そして、 彼女は夫に仕事を 辞めて安心し て 著述に専俳するように. 勧めた。 生活費は彼女が 内職でなんとか 工面するという。 そこで彼は静か. で快適な家の 中で著作に励み、 半年後の春、 完成した著書は 好評を博し、 高額の原稿料がはいろ。 さらに中学校から 高給の文学教師の 話まで舞い込み、 一家は幸せな 日々を迎える。 乳母車で眠って いる幼子の首には 半年前の給与の 残り 1 元でつくった ぺ ンダントが記俳と.して 掛けられていた。 作者の王統 照 はこの小説の 末尾に、 「私はかつて、 社会の悪の多くは 家庭に原因があ り、家庭の責 任 はまた婦女に 帰すべきだと 言ったことがあ. る。. もし各家庭に. 私が理想、 とする 慧瑛 のような人がい. たら、 すべてのことが 治まるだろう。 / 私がこれを書いたのもその 主旨による」と 記し、 さらに《婦 女雑誌》の編集者は「家庭の 幸福は社会改良の 基礎であ り、 夫婦の相性が 合うのは家庭の 幸せの 源. であ る。 / 家に 慧瑛 がいればきっと 幸福を享受できるだろう」と 評語を付けている。 そもそも主婦が 内職で半年もの 間、 一家の経済を 支えることが 果たして可能だったのか、 という肝心な 部分に大き な 疑問は残るが、. ともあ れ作者の意図は、 女性の家庭内での 役割について、 母 役割以外にべター・. ハーフとしての 新しい 妻 役割や家計補助、 ひいてはいざという 時に一家を維持できるほどの 経済力.

(5) 中国における「近代家族」の. を 求めていたことがわかる。. 139. 形成. 教養があ り明るく健康で 夫と対等な関係を 築くことのできる 女性、 夫. のよき相談相手であ るばかりか、 内外共に夫を 陰で支えることができる 女性、 このような女性と 築 く. 家庭生活こそが 新しい家庭のモデルとして 語られているのであ る。 中国古典小説では 男性の出世. を陰で支える 役割は多くは 妓女が担っていたが、 厳格な一夫一婦別に 基づく近代家族においては、 それが近代主婦に 求められるよ. う. になったのであ る。 そしてなによりも、 それまで中国の 中上流層. の主婦にとって、 家事や育児は 使用人に任せるのが 一般的であ ったが、 近代家族になると、 これら が 主婦の義務であ. り責任であ ることが強調され、 さらに経済的責任も 潜在的に期待されるようにな. ったのであ る。 このことは中国女性にとってまさに 歴史的な出来事であ った。 中国の男性知識人の. 女性に対する 期待は近代になって 急激に高まったのであ る。 23 年、 《婦女雑誌》は「理想の 配偶者」というタイトルで 読者に文章を 募集した。 これに 155 名が 応募したが、 そのうち男性が 129 名 (83%) と多数を占め、 その内訳は学生が 62% 、 教員が 17% 、 商人が. 10% であ った。 これらの文章を 分析した 麸盧 「現代青年男女配偶選択的傾向」. (9巻 11 号 1923 年 11 月 ). には、 2 午前の 21 午に 260 名の男子学生に 対して行なわれたアンケート 調査の結果があ れせて紹介さ れており、 これとと ヒ校すると、. ( アンケートの. 条件が同じでないために 単純な比較はできないが ) 以. 下 のような点において 大きな変化を 認めることができる。 21 年の調査では、 理想の妻の性格は 温和. (86.8%)であ ることが圧倒的で、 能力としては、 家庭を治めることができる (49.2%)、 社交の能力が あ る (11.5%) 、 子供の教育ができる (9.7%)の順であ ったが、 23 午には、 性格については、 温和 (38%)、 剛強 (17.1%) 、 活発 (7.9%)と変化し、 能力についても、 21 年では数パーセントであ った「経済的に 自. 立している」が 38% に増え、 「家庭を治めることができる」 (32.6%) より多くなっている。 同じ号の《婦 女雑誌》には「 我 玄理想的配偶」と 題して、 このとき寄せられた 文章の中から 60 本が掲載されてい るが、 その男性応募者の 文章を具体的にみてみると、 妻が職業をもったり 内職をするのを 支持する 男性の多くが、同時に家庭管理や 育児の責任も 妻にあ るとみなしており いているのは 一人だけであ. る)、. (男も家事をやるべきだと. 書. 青年たちの間に 女性の二重役割を 前提にした新しい 家庭像が形成さ. れつつあ ったことがわかる。 かって北京大学の 総長をつとめた 察 九倍 は 27 年に雑誌《新女性》から 女性の家庭と 社会活動の両 丈に ついて問われ、 次のように回答している (8) 。. およそ学問を 研究し社会を 改造しょうとする 男性が、 もし良妻を得て 仕事に専心できれば、 学問 上 社会上必ずや 大きな貢献をなすことができる。 これらの大きな 貢献は、 当然良妻にも 一部の功 績があ る。. 良 母となり優生学の. 条件に合致した 子女を産み、 良好な家庭教育を 施し、 将来これら. の子女がまた 学問上社会上で 大きな貢献をすれば、 女性の間接的功績はさらに 大であ る。 それゆ え女性は、 良妻賢母の価値は 学問研究や社会改造とは 代替がきかないものだということを 直視し なくてはいけない。 さらに良妻賢母になることのできる 女性は家庭を 治めるのに適しており、 よくない嗜好や 社交に 少しも染まっていないので、 良妻賢母の職責を 果す以外に必ずや 学問に力を傾け 社会に奉仕する 余力があ り、 両立し対立することはな い はずだ。 しかし勿論、 小家庭で子女が 少ないことを 前提. とする。 もし学問研究あ るいは社会改造に 対して特別に 関心をもち、 性欲と狭義の 愛情を超えて いるような女性がいたら、 独身主義を守り、 妻として母としての 職責を放棄して 学問や社会に 身 を 任せるのもよいだろう。 しかしこのタイプは 全く個性が特殊であ るからで、 一般の女性は 模範.

(6) 140. 白水 紀子. としてはいけない。 将来、 分業の方法が 発達し、 社会組織が改変し、 あ るいは家庭で 行 べきこ とを完全に公共機関が 代行するようになれば、 妻としての職責は 完全に放棄できるであ ろうし、 う. 母としての職責も 妊娠時期から 乳児の断 軋 までの極めて 短期間に縮めることができ、 は学問研究と 社会改造に対する 熱意を十分に. そこで女ャ生. 発展させることができるだろう。 しかしながら、. こ. れは社会を改造するという 大問題であ り、 いっ到達できるかわからないのであ る。. このように、. 察元 培は女性の家庭責任の 軽減を未来社会において. 賢母の価値を 高く評価しているのであ. して同じように、. 展望するものの、. 現実には良妻. る。 彼の妻であ る 周峻 (1923 年に察と再婚 ) も同誌の質問に 対. 家庭責任を果たした 余力で学問研究や. 社会活動をやればよいとし、. 「多くの優秀な. まりにも重すぎ、 社会事業に集中できなくな っている。 かわいい子供も 良好な家庭教育を 得られずに、 天賦の知能が 発展させられず、 ひどい場 合には 天抗 してしまう悲惨な 目にあ っている。 家を治める道は 国家と間接的な 関係を多く有してい るのだ」とさらに 良妻賢母となることが 近代国家建設にかかわる 大事であ ると指摘している。 二人 はこの回答において 家庭的役割と 社会的役割の 両立を語っているが、 重点がどちらに 置かれていた か 読者には一目瞭然であ った。 同じ頃 、 ( 婦女雑誌》 13巻 1 号 (27年 1 月 ) に「小家庭的主婦」という 欄 が設けられ、 読者の入選論文が m2編ほど掲載されているが、 これらからも 主婦に対する 二重役割の 男性は賢妻の 内助を得られないために 家政の負担があ. 期待を一様に 伺. 3.. う. ことができるのであ る。. 「近代家族」イメージの. 形成. 五四新文化運動の 高まりの中で 登場した「新しい 家庭」モデルとしてイメージされたものは 大き. る。 一つは上ですでに 少し紹介した、 夫婦同等型「近代家族」 ( その女性像としては 良妻賢母・近代主婦 ) モデル、 そしてもう一つは 社会主義系の 人々によって 提 p昌 されていた共働き 型 「超近代家族」 (その女性像としては 有職主婦 ) モデルであ る。 両者に共通するのは、 恋愛結婚、 「子供の発見」、 優生学や女子教育への 強い関心であ り、 異なるのは前者に 女性の家庭内役割を 重視 する傾向が顕著であ ること、 また後者に女性の 経済的自立 (及びそのための 女子の職業教育の 重視 ) が強いことであ ろう。 しかし、 すでに述べたよ に良妻賢母を 提唱する前者においても 女性の生産 労働・就労・ 社会活動が排除されたわけではなく、 またたとえば、 社会主義系の 雑誌 ( 少年中国》 年 4 月 ) で示される模範家庭は 後者のサン に載った 黄議 「模範家庭 為 社会進歩的中心」 (1巻 4 号 1920 フ ルであ るが、 女性の経済的自立に 関して、 それを可能にする 肝心の具体的なサポート 案が提示さ れていないため、 この点を除けば 前者のモデルと 内容はそれほどかけ 離れたものではない。 く. 分けて二つあ. う. 作者の黄 諒が 描く模範家庭とは、 家族構成は一夫一婦で 子供が少ない 核家族であ ること 現状では父母との 同居はやむを 得ない ) 、. (. ただし、. 経済面では、夫婦ともに経済的に 自立して、 互いに生活費・. 養育費を負担し、 交際面では、 男女ともに. (儀礼的な親戚づきあ. いよりも ) 社会的な交際を 広げて 社. 会 観念、 国家観念、 世界観念を養い、 衛生面では、 服装・飲食・ 沐浴・運動を 適度に行って 健康な 身体と精神を 養い、 職業面では、 夫婦の職業選択の 自由を尊重し、 子育てに関しては、 子供 (男女の 区別なく ) 養育と教育は 両親が責任を 負. う. (使用人に任せて. 脳神経に悪影響を 与えてはならない ) 、. と. いうものだった。 だが、 現実の社会で 以上の内容を 実現することは 不可能に近い。 とくに、 第三者 の手を借りずに 共働き夫婦が 共に子育てをすることを 可能にする手だてが 明示されていない 以上、. たとえば自宅で 創作活動をするなど 特殊な職業に 従事する夫婦を 除いては、 単なる机上の 空論に等.

(7) 中国における「近代家族」の. 141. 形成. しいからであ る。 さらに使用人をおかずに 父母と同居した 場合、 育児の手助けを 期待できないばか りか反対に彼ら 老人の身の回りの 世話をしなければならないかもしれない。 また当時、 社会主義国 ソ連から伝わってくる 新しい家庭像は、 公共食堂・児童 公 育など家事育児の 社会化に特色があ. った. が、 黄 議の主張はこれとは 異なり、 家事育児は親が 行うとしている。 つまり彼女の 家族モデルには、 優生学への傾倒と 科学的な子育てへの 強い関心など、 むしろ欧米型近代家族像の 強い影響が認めら れ、 女性像としては 欧米型良妻賢母 像と 労働型女性像を 強引に一 つ にした感があ る。 だが、 た 社会主義系の. こ うし. 人々の家族モデルは、 先述のように 20 年代以降はあ まりみられなくなるのであ る。. 新女性という 言葉は民国時期には 社会参加型の 女性や都市のモダンガールに 対して使われていた が、. 同時に欧米型良妻賢母つまり 近代主婦に対しても 使われていた。 本章では. ( 新青年》. と ( 婦女. 雑誌》に掲載された 文章を幾つか 取り上げ、 20年代から盛んになった 近代家族イメージの 内容とそ の中で形成された「もう 一つの新女性」の 系譜 家族モデルは. ( 婦女雑誌》には. 教育」のものから「近代主婦. 良妻賢母像を 確認したい。 なお、 このタイプの. 多数掲載されており、 かっその女性像の 内容は「儒教の 女性観 十新. 千 男性と同等の. 職業」まで多様であ るため、 本稿では家庭役割部分に. おいて典型的な 文章を選んで 紹介することにしたひ。. まず、 この時期の実際の 家族を一 つ 紹介しょう。 播 垂統「 我欄的 家庭生活. (1924年 ) ㈲は、. 教員であ る 播 垂統が自身の 家庭生活を紹介した 文章であ る。. 給友人的一対 信. 」. 播の一家は、 主婦の安. 麗 、 幼稚園児の安 瑛児 (女児 ) 、 幼児の小幡 麗 (男児 ) の四人家族であ る。 文章の流れに 沿って拾い 読 みなしてみよう。. 妻が下女を使わないことを 提案して、 ほぼ 一ケ 月が経った。 毎朝六時に起床。 妻の安 麗が 台所で 洗面用の湯を 沸かし、 食事の支度をし、 小幡 麗 のおむつを洗っている 間に、 僕は小幡 麗と安 球児の. 着替えをさせる。 安麗 がお湯を持って 来ると、. まず僕が顔を 洗い、 次に小幡 麗と安瑛 児の顔を洗っ. てやる。 その後、 安暁月 に 簡単な文字と 数字を教え、 布団を畳み、 部屋の片づけをする。 セ時 、 僕 が石油コンロでミルクを 温め飲ませ終わるころ、 安 麗の朝食の準備も 整う。 そこで、 彼女は小幡 麗 を 受け取り、. 排便をさせる。 この合間に僕は 少し本を読むことができる。 小幡 麗を 、 人形やブリキの. 太鼓やゴムまりなどで 遊ばせておき、 僕らは食器を 並べて粥を食べる。 食事が終わり、 安麗が 食器 を 洗い終わるころ、 僕は安球児と 二人で僕の勤務先の. 学校に出かける。 途中の安球児との 会話にも. 教育的な気配りをする。 学校に着くと、 安瑛 児を付設の幼稚園に 預ける。 十一時半、 僕は校内で安 瑛児と 昼食をとるが、 それは 安 麗の手間を省くためだ。 彼女自身も昼食は 有り合わせで 済ませてい る。 安瑛 児の幼稚園は 午前中だけなので 家に連れて帰る。 このころ小幡 麗 はすでに十一時に 母乳を. 飲み、 ぐっすり眠っている。 安 麗は昼食後、 読書や針仕事をする。. 僕はまた 安瑛児 に文字や算数を. 教える。 午後一時、 僕は学校へ出かける 前に 、 紙に簡単な魚や 犬を描いて 安瑛児 に与え、 クレヨン で 同じものを真似て. 間を自由に使. う. 描き、 さらに積み木で 家や橋を作るよ. う. に課題を与えておく。 安 麗は空いた時. ことができるが、 実際にはそんな 時間はない。 五時、 僕が帰宅すると、 門の前で三. 人 が出迎えてくれる。 みなで中庭に. 出、 安麗は庭の石椅子に 腰掛けて、. とても自然に 母性愛に溢れ. た笑顔で子どもたちが 遊ぶのを眺めている。 彼女が最も幸せな 時であ る。 僕は安 瑛児に 10センチ 四 方の厚紙に書いた 文字カードを 持ってこさせ、. 朝と昼の復習をし、. 数字を数える 練習をさせる。 午. 後に描いた絵を 安 麗と 笑いながら見ていると、 実咲児の機嫌を 損ねたので積み 木の家を褒めてやる。 安 球児 は 50 ∼ 60 個の積み木を 箱 の中に形を合わせて 正しくしまうことができるよ. う. になった。 午後.

(8) 142. 白水 紀子. 六時、 安麗は夕食の 支度にかかる。 安瑛 児は小幡 麗と 遊んでいる。 僕は庭の椅子に 腰掛けて読書を する。 安 麗は夕食の支度が 終わると、 洗濯物を取り 込み畳んでタンスにしまう (撲. と. 安 麗の物は外に. 洗濯に出している ) 。 セ時 、 僕はまた石油コンロで 半熟卵を作り、 小幡 麗に 食べさせる。 小幡 麗 がぐ. っすり眠ってから、 我々の夕食の 開始だ。 空疎児の皿には 豚肉、 竹の子、 甘酢の大根などが 並んで いろ。 食後、 安 麗が 後片付けをしている 間に、 僕は顔を洗い、 安瑛 児の顔を洗ってやり、 寝具を並 へ。 る 0 八時、 安 瑛 児は自分で衣服や 靴下を脱いで、 大家が貸してくれた 大きなソファ 一に眠る。 八. 時 をすぎるころ 小幡麗を起こし、 目を覚まさせて 二十分ほどしてから 二人で入浴させる。九時過ぎ、 母子共に眠りに 就く。 僕は静かに読書をしたり 文章を書いたりし、 十一時に就寝する。 中国式の大 きなべッド に三人で寝ているが、 画家の大家がくれた 洋画や写真が 飾られ結構いい 雰囲気をだして いる。. 土曜日の午後は、僕のやることは 沢山あ る。 自転車磨きに 一時間、 床掃除や拭き 掃除に一時間半、 入浴にも一時間以上かかる。 それで夜は疲れを 覚えるが、 翌日が休みなので、 時には十二時を 過ぎ てもまだ べッド で本を読むこともあ る。 日曜日の午双中は 、 町へ 食料の買い物にでかける。 日曜の 昼食は安 麗に 特におかずを 多めに作ってもら. ぅ. 。. ( 日頃. は学校や間に 合わせで済ませているからだ. )。. 午後は僕一人で 友人に会いに 出かけることがあ る。 だが、 いっも家の中で 寂しい思いをしている 安 麗は僕の覚出を 好まないので、 家族で遊びに 出かけたり、 家で少し仕事をすることが 多い。 これが僕の毎日の 生活だが、 雨が降った時は 安 瑛児 に幼稚園を休ませる。 自転車が錆びるのが 困 るからだが、 昼食後に人力車で 家に送るのも 不便だからだ。 雨の日は、 おしめを乾かすために 火鉢 の 火を絶やすことができないため、 安 麗は普段より ィ、亡しくなる。. この文章からは、 中国ですでに 近代家族が形成され、 それに共通する. 要素、 とくに「子供中心」. の家族 像 が確実に知識人たちに 受容されているがわかる。 核家族、 愛情夫婦、 夫一人の収入、 専業 主婦、 科学的な育児 法 、 少子、 家族団 興 、 社交の縮小、 使用人を雇わない (非血縁の排除 ) 、 清潔で. 適度な装飾が 施された部屋など、 西欧における 近代家族の要素だと 考えられているものがほぼ 揃っ ている。 播 垂統の家族の 特色としては、 夫の育児参加が 積極的になされていること、 さらに子供の 知的教育に関して、 日本や欧米と 違い、 母親ではなく 父親が主体的に 取り組んでいる 点が挙げられ る。. 五四時期の男性知識人が 積極的に新しい 家族の形成に 関わろうとしている 姿が伝わってくるが、. 見方をかえれば 前 近代の中国や 日本において 子供の教育は 父親が行なっていたという 伝統的意識が 残っているとも 考えられる。 また、 妻の生活を見ると 近代主婦に期待されていた「知的」側面が 弱 い印象を受けるが、 これもこの文章が 男性の目から 描かれているせいかもしれない。 次に、 理想、としての近代家族がどのように 語られていたのかみてみたい。 中山義弘 氏は. ( 新青年》. から良妻賢母主義を 主張した文章として 5 本の投稿論文を 紹介している㎝。 いずれも 16年から 17年 にかけてのものであ るが、 その中からここでは 李平. 「新青年 2 家庭」. (2巻 2 期 1916 年 10 月 ) を少し詳. しく見てみよう。 李 平は新しい家庭像を 26 の箇条書きにしている。 その主なものを 拾ってみると、 一 、 家庭は一夫一婦と 未婚の子女で 構成する。. 一 、 家庭の出納庶務は 主婦が責任をもち、 男性には. 干渉 権 はない。 一 、 男子は直接利を 生む職業にっく。 一 、 女子は医学知識と 教育学を学び、 出産は 病院で行. て. う. 。 一 、 主婦は雑役をこなし、 使用人を多く 雇わない。 一 、 教育と衛生に 予算を多く割く。. 衣食住は科学的方法を. をつけさせる。. 用い、. 衛生および経済の. 原理に合致したものにして、. 子女に良好な 習慣. 一 、 室内の装飾を 精衛にし、 父母が身をもって 模範を示すことで、 家庭教育の基礎.

(9) 中国における「近代家族」の. 143. 形成. とする。 一 、 家庭に運動場、 蔵 書室、 屋内遊具を備え、 部屋には英雄名人の 肖像画や科学図表を 掛 け、 知力の発育を 謀る。. 一. 、 男女同等の教育を 受けさせる。 一 、 親子の関係には 義務があ るが権 利. はない。 一 、 交際は派手にせず、 応酬の労と浪費を 避ける。 一 、 職務や家事の 余暇に社会奉仕をし、. 子女の成人後、 別に家庭を組織させて 父母の負担を 軽減し、 もってさらに 社会事業に全力を 注ぐこ とができるようにする。一 、 地方自治選挙など 政治に関心をもち、 政治責任を果す、などであ った。. これらには、 核家族、 民主的な夫婦親子関係、 男女平等の学校教育、 科学的な子育てへの 関心、 科 学衛生の重視、 労働の価値の 見直し、 社交の縮小・ 簡素化など、 欧米型近代家族 像 が提示され、. 「. 家. 族 」から「家庭」へと 関心が移っていることが 分かる。 女性に家庭内領域における 自主性を認め、 近代主婦の役割が 重視され、 そのための女子教育 (男女平等の教育 ) の必要性が喚起されたことは、 女性解放の視点からは 女性の地位向上に 繋がるものとして 評価できるだろう。 家庭という領域で、 家事や育児という 限られた部分ではあ ったが、 中国女性の近代化が 始まったのであ る。 李平 という青年はこのころ《新青年》の 通信欄に何度か 名前がみられる、 働きながらドイッ 語の 学習をしている 勤労知識青年で、 女性問題に特に 関心があ るというわけではなく、 この文章は《 婦 女 雑誌》. 2巻8 号. (1916 年 8 月 ) に掲載された 社説「基礎的基礎」に 啓発されて書かれたものであ った。. 社説の筆者であ る宋朝 彬 夏はその中で、 る。. 「地方自治は. 建国の基礎であ り、家庭はその基礎の 基礎であ. 社会を改良しょうと 欲すれば、 家庭を改良すべきであ る。 我々女性は中国の 家庭を執筆する 権. 利 と義務を有している」として、 家庭改革が国家建設に 与える影響を 指摘し、 家政を主婦が 責任を もって担. う. こと (内助の功 ) により、. と 述べていた。. 男子の負担が 軽減され、 彼らが安心して 国家建設に専念できる. そしてアメリカにおける 女子高等教育の 浸透ぶりと社会の 発展との関係を 紹介しな. がら、 中国女性にも 高等教育が必要であ ると論じていたのであ る。 李平 はこの宋朝 彬 夏の主張に賛 同を示し、 「国家の腐敗や 青年の堕落はみな 劣悪な家庭によって 作られ、 Ⅰ家庭が不良であ れば、 社 会国家もまた 不良であ る」という同じ 認識にあ った。 明治期の日本と 同様に中国においても、 近代 家族や近代主婦が 国家と密接な 関係にあ ると認識され、 それゆえに女子教育の 早期普及と向上が 強 調されていたことがわかるが、 その具体的な 項目をみると、 上の李平の文章からも 伺える よう に 、. 日本が欧米の 家族像を日本風に 夫唱婦随型にアレンジしたのに 較べ、 中国ではかなりストレートに 男女同等型で 受容していると 言えるだろう。 このような近代家族および 良妻賢母 像は 20 年代に入っても 変わらず、 たとえば. ( 婦女雑誌》 7 巻 1. 号 (1921年 1 月 ) に掲載された 宝 貝 「新家庭」にも 李平 とほぼ同じ内容の 見解がみられる。 そこには、 家庭の組織が 旧家庭と異なる 点として、. 「一つは. 全局であ る。 英語で Family といい、 その範囲は父母. とその子女に 限られる」として 核家族であ ること、 また婚姻の自由 (恋愛結婚、 夫婦双方における 性 道徳の遵守 ) をあ げ、 父は一家を代表して 家族を養い、 母は家事に責任を 持って教育・ 管理・家計 お よび一切の雑務を 行い、 子女は父母の 手厚い保護 下 におかれる、 と述べている。 また、 新家庭は労 働主義をとり 使用人をおかず、 家族各人が職分を 尽くし、 自由で平等な 家庭のなかで 愛の薫陶を受 け 、 精神的な喜びを 得る事ができるとしている。 このように、 播 垂統、 李平 、 宝貞の文章から 伺わ れる家族 像は 、 恋愛によって 結ばれた民主的な 核家族をモデルとして、 夫婦双方に良夫 賢父 、 良妻. 賢母であ ることを求めたものだった。 ぱ. 婦女雑誌》 (1915 ∼ 1931) は、 中等レベルの 教育を受けた 主婦や女学生および 男女教員を主な 読. 者にもっ商務印書館発行の 大型雑誌で、 良妻賢母提唱の 大本陣とみなされている。 しかしながら、 掲載された文章を 具体的にみると、一方で近代主婦に 関する新しい 家事知識 (食物の栄養・ 衛生知識、.

(10) 144. 白水 紀子. 衣服や住居の 改善、 家族の健康管理、 家計簿のっけかたなど ) の紹介や啓蒙に 多くの紙面を 割きなが. らも、 他方で、 職業に就いて 社会に貢献することを 勧めたり、 主婦の経済的自立のために 副業を奨. 掲載されている。特に 7 巻 1 号 (1921 年 1 月 ) から 11巻 8 号 (1925 年 8 月 ) まで 章錫探が. 励 する文章も数多く. 主 編を務めた 20年代前半は、 内容の大幅な 改革をおこない、 離婚問題号、 産児制限 号 、 婦女運動 号 、. 家庭革新号、新性道徳号など 幅広く家事にとどまらな. 結婚、 家庭のあ りかたを宣伝している。 周叙瑛. い 特集号を組んで、 新しい女性の 教育、 恋愛. 『一九一. 0 ∼一九二 0 年代都会新婦女生活風貌. ( 婦女雑誌》. 為 分析実例』 (1996年 ) Ⅲによると、 20年代前半は婚姻、 社交、 女子職業に関す. る 文章が増加し、. 反対に家事知識に 関する文章が 減少しているという。 しかしながら、 以下に引用. 一以. する「 我欄 今後的態度」 (( 婦女雑誌》 10巻 1 号 1924年 1 月、 署名は記者 ) や 、 周叙瑛 がその第五章で 具体的に紹介しているよ. う. に、 当該雑誌の主たる 関心がいわゆる「新良妻賢母」. (. 当時、 旧式の女,性. 像との混同を 避けるために「良妻賢母」の 前に「 新 」をつける人が 多かった ) にあ ったことは明らか だった。. 女性解放の第一歩は、 教育における 解放であ るⅠ近年の多数の 人々の意見は、 むしろ今後の 女子 教育の目的は 職業教育を重視し、 教育を受けた 後は皆自活できる 能力を持っべきだと 考えている。 この種の主張は 、. く. 女性の経済的独立 ) から出発しており、 本来は一部理由があ るが、 しかしなが. らこの主張はあ まりに人類を 機械化しているよ 育 に改めるよ. ないだろう。. う. に主張し、. Ⅰ女子教育の. に思われる。 Ⅰ 今 かりに良妻賢母教育を 職業教. たとえ目的を 達したとしても、 低級奴隷から 高等奴隷に変わるに 過ぎ. 目的は、 人類の本能を 発展させること 以外に、. つまり母性本能を 発展させることにも 注意を払. 主張する、. う. う. さらに女性特有の 本能. べきであ る。 よって我々は ェ レン・ケイ女史が. 母性訓練を一年間強制する 義務教育を採用してみる 価値はあ. ると信じている。 職業方. 面の意見についても 同じであ る。 我々は女性が 一種の自活できる 職業を持てば、 これまで社会の 女性の能力に 対する蔑視を 一掃 し 、 女性の地位もこれによって 高まるだろうと 信じている。. しか. しながら、 我々は同時に、 自分で給料を 稼げない女性を 人間扱いせず、 社会の寄生者と 牡 める 多 くの意見にも 反対する。 家庭の主婦が、 家庭内の重大な 任務を完遂することができれば、 それは 社会や文化に 対して重大な 貢献をしているのであ る。 とくに未来社会に 対してそうであ る。 ここには ェ レン・ケイの 母性論への賛同が 示され、 近代主婦に対する 期待が込められていること が 分かる。 ェ. レン・ケイは 恋愛によって 結ばれた男女からは 優生学に合致した 質的に優秀な 子供が. 生まれると説き、 母親が子供に 科学的知識を 与え豊かな情操教育を 施す任務があ ると主張、 児童 公 育や女性の社会での 就労を批判したことで 有名であ る。 しかし彼女は 決して保守的な 母性論者では. なく、 産む性としての 女性の社会的役割を 重視し、 子育て期間は 母親に国家が 養育費を負担するよ 提案するなど、 ケイの「母性の 権 利」は単に子供を 産むことのみでなく、 恋愛による結婚から 出 産育児に及ぶ、女性がまさにその「性」たる 存在を全うする 権 利として捉えられていた。 《婦女雑誌》 が 描く新女性は、 このケイ流の 近代主婦であ り、 このような主婦がつくる 家庭を理想、として提示し ょうとしたのであ る㈹。 《婦女雑誌》は、 25年に主 編 の 章錫探が 商務印書館を 辞めて以降、 恋愛 や 結婚に関する 文章は減少するが、 家庭論としては 引き続き主婦の 役割を重視した 家事や育児知識に 関する啓蒙的文章が 掲載され、 27年には家事特集号を 出している。 新しい主婦像の 内容にも大きな 変化はみられず、 一方で女性の 経済的自立を 主張する文章も 掲載されたが、 31年に停刊するまで、 ぅ.

(11) 中国における「近代家族」の. 形成. Ⅰ. 45. 家庭の近代化に 強い関心を注ぎ 続けている。. 4. 30 年代における「近代家族」の 形成と普及一. 新生活運動を 中心に. 1928 年、 北伐が完了し、 全国を統一した 国民党は近代国家建設にむけて 工業・交通・ 通信・法律・ 教育など多方面における 改革に着手した。女子教育もその 一環として改革が 行なわれ、 前年の 27 年、 南京に国民政府が 成立すると、 中国国民党第二期中央執行委員会第四回大会で「女子教育について は、 広く優しい健全なる 母性を養. う. ことが、 まさに救国救民の 重要な計画、 優生 強 種の基礎であ. る. ことを確認する 必要があ る」と提起され、 『中国現代女子教育史』㎝の 著者の程諸礼はこれを 良妻 賢母主義教育から 母性主義教育への 転換だと指摘している。 女性の役割が 優生学的に健康な 子供を 産むことに特化され、 そのために女性たちに 健全な母性と 健康な身体が 要求され、 女子教育の目的 とされる り. 、. 「. よう. になったという。 この主張は翌 28 年の全国教育会議において 女子中等教育の 指針とな. 一 、 幼児の保育、 児童の養育は 民族生存の基本であ る。 もし女子がこれに 対して適切な 知識や. 能力および道徳の 修練がなければ、 決してこの偉大で 切実な任務を 果すことができない。 ニ 、 社会 生活の基礎は、 良好な家庭生活の 建設にあ り、 良好な家庭の 建設は実に女子の 最も主要な任務の 一. つであ り、 これはさらに 特殊な教育によって 養成されるのであ る」と、 女子教育において、 実際に は 科学知識や生産技能よりも 家政や保育に 関する教科に 力を入れることが 奨励されるよ. う. になった。. 家庭の近代化は、家庭が近代国家の 基礎単位として 位置づけられたことから 始まったが、このとき、 日本と同じように 女性の身体を 通して家庭の 近代化が明確に 意識され始めたのであ る。 そして 31 年の満州事変、 32 年の上海事変と 本格化してきた 日本の中国侵略に 対抗し、 一方で共産. 克 との内戦を繰り 広げながら、 国民党政府は 国民生活の面でも、 規律・清潔・ 節約をめざす 新生活 運動 (34年∼ 49 年 ) を全国規模で 推進した。 欧米に対抗できる 国家建設のためには、 国家の基礎であ る 家庭生活の改善こそが. 重要であ ると考えられ、. 「よりよ き 」生活、. 「文明化」した 家庭の実現をめ. ざして、 政府による新しい 家庭の形成が 図られたのであ る。 生活の改善を 通して、 国家は私的生活 領域としての 家庭と新たな 関係性を構築していくのであ り、 新生活運動が 単なる生活技術改善の 元の運動ではなかったのはい. う. 次. までもない。 30 年代半ばの第 1 回「女は家に 帰れ」論争 (33年∼ 37 年 ) 、. 40 年代はじめの 第 2 回「女は家に 帰れ」論争は、 こうした時代背景の 中で国民党統治 区 で起ったもの であ る。 良妻賢母を提唱する 側の内容は玉石 混清 であ り、 福建省政府首席 陳儀 のように儒教的な 古 い 女性像を唱えるものから、 優生学者の播 光 旦や文学者でキリスト 教者の林語堂、 沈従文等の男女 の 異質平等論に 基づいたものまで 実にさまざまで、 これらに対しては 主として共産党系の 人たちが. 激しい批判を 加えた。 また現実にも 一部地域では 女性職員の解雇・ 不採用の事態が 発生し (38∼ 42 午 ) 、 さらにドイツの 3K 主義など世界的な 伝統への回帰現象と 相まって、 この二度に及ぶ「女は 家に. 帰れ」の動きは、 新生活運動が 復古的性質をもつものであ るという印象を 強くあ たえることになっ た 。 近代家族イメージの 形成という側面からもこの 論争時に示された、 女性が 妻 ・母として家事 労. 働 ほ い そしむことは 女の「職業」であ. り. 「自然」 な 分業であ. るとみなす 播光 旦や林語堂の 言説は興. 味 深いが㈹、 本稿ではこうした 知識人の言説レベルを 越えて実際の 生活レベルで 近代家族の形成と 普及にきわめて 大きな影響をもったと 思われる新生活運動の、 その女性 版 であ る宋美齢を委員長と する新生活運動促進総会婦女指導委員会. (以下、. 指導委員会と 略称 ) の活動を取り 上げることにした. い 。 この指導委員会の 活動は中国における 家庭の近代化を 考える上で最も 注目すべきものだと 考え るからであ る。.

(12) 146. 白水 紀子. この活動について、 1989年に中華全国婦女連合会が 編んだ 中国女性運動史 ㈹には、 新生活 運動は「女性解放に 反対して、 女性大衆を抗日救国運動から 家庭に追い返し、 封建主義的な 良妻 賢 下. 母とすることも、 この復古的な 政治反動の一部分であ. り」. コ. (288頁 ) 、 ドイツの 三 K 主義など「国内覚. のこのような 逆流のもとで、 多くの封建的な 文化人や官製の 女性団体および 刊行物は 、. ぎつぎに. 鼓吹した。 Ⅰこの ほか、 宋美齢を委員長とする 新生活運動婦女指導委員会は、 当時、 女性が家を治め、 子を教え、 ま た 悪い風習を捨て 去るよ に指導する宣伝活動に 力をいれた。 (289 頁 ) と述べ、 指導委員会の 活動 ほ ついても批判的文脈の 中で紹介されているが、 以下のように 筆者はこれとは 異なる見解をもって. 文章や演説原稿を. 発表して、. つ. 女性が台所に 戻り、 良妻賢母となることをさかんに. う. 」. いる。 新生活運動は 国民生活の軍事化 (規律正しい生活 ) 、. 合理化、 節約簡素化をめざして 各機関、 団体、 学校、工場などで宣伝活動を 行な ことからはじまり、 新生活運動促進総会の 指導のもとに 各職場、 地域で宣伝 隊 が組織された。 この新生活運動が 始まった当初、 女性・家庭方面は 政府組織の婦女 会 う. が担当し、 各省の婦女会の 指導のもとで 家庭宣伝隣組 が 、 各種婦女団体、 女学校、 女性の教会関係. 組織されていたが㈹、 1936年 2 月、 新生活運動促進総会婦女指導委 員会が南京で 成立、 機関紙 婦女新生活月刊》 (1936 年 11月∼ 37年 7 月計 8 期 ) を発行した㎝。 その 創刊号によれ ば 、 指導委員会は、 全国の女性の 生活改善を指導し 社会服務・民族復興の 責任を負 ために新生活運動促進総会のもとに 組織されたもので、 指導長は宋美齢、 副指導 是 は 呉 賄方、 総 幹 事は管 梅熔 、 ほかに 8 名の指導委員から 構成されていた。 指導委員の中には 秘書を兼務する 羅家 傭夫 者、. 女医および看護婦によって は. う. 人の張継 貞 や馬主祥夫人の 活労働服務団などが. 李徳全がいた。 下部組織として、 各地に新 運 婦女工作委員会、 婦女新生. 組織され、 一年後の活動報告㎝に. ょ. れば、. 婦女工作委員会は. 上海、 南昌、. 長. 沙 、 西京、 蘇州など 8 箇所、 婦女労働服務団は 太原、 武昌、 成都などに 39回、 団員は 6068 名に達して. いる。 労働服務団は 女性の公務員、 教員、 学生、 婦女団体の会員など. 中上層階級の 知識女性を中心. に 組織され、. 家庭主婦や女工、 農村女性を対象に 活動が展開された。 宋美齢は講演「新生活写婦女」 (( 婦女新生活月刊》創刊号 1936年 1n月 ) において、 新生活運動の 意義と国家建設における 女性の役 割を述べたあ と、 つ ぎのように明言している。 「最近あ る人が、 中国女性は社会国家に 対して貢献で きない、 なぜなら政府が 女性は家に帰れと 主張しているからだ、 と批判していたが、 これはとても 大きな間違いです。 一人や二人の 長官の言論は 決して政府を 代表することはできませんし、 これが 中国政府の主張などとはなおさら 言えません」と「女は 家に帰れ」の 動きを牽制している㈹。 来美 齢 をはじめ当時の 女性幹部達の. 共通の認識としては、. 家庭の改善に 重点を置きながらも、 さらに家. 庭内に止まらず 女性が社会活動に 積極的に参加するよう 奨励することにあ. ったと思われ、. 恋愛・ 結. 関心が減少したとはいえ、 基本的には二重役割を 内容に持っこれま での良妻賢母の 系譜と同じだと 考えていいだろう。 そしてぜひ指摘しておきたいのは、 先述のよう に女性を母性に 還元する傾向を 強めた国民党政府とは 異なり、 指導委員会は 主婦の文化向上、 衛生. 婚など男女夫婦の 問題に対する. 知識の普及、 家事の合理化、 副業や社会参加の 奨励など、 家庭の近代化を 目指す活動を. 展開して、. あ る特定の事項に 特化しないト 一. タル な. 新しい主婦像や 近代家族イメージの 一般大衆への 普及に大. きく貢献したことだった。 ( 婦女新生活月刊》の. 各巻末に掲載される. 各地の活動報告をみると、 その内容は多彩で、. 重点は. 母子の健康促進と 女性の文化向上におかれ、 識字 班 、 婦女工 読班 、 婦女健康運動 班 、 婦女常識訓練 班 (家政常識、. 衛生常識、 社会常識、. 非常時の常識 ) 、 女傭 (女使用人 ) 訓練班などを 組織して各地で.

(13) 中国における「近代家族」の. 形成. 147. 講演会や勉強会を 開き、 児童衣食住 行 展覧会 ( あ るいは児童科学館の 開設 ) 、 家事講習会、 母の日大 会 (あ. るいは母性教育コンクール ) を開催して、 女性たちの家庭知識・. 文化の普及に 努めている。 ま. た、 非常時に備えて 看護・救護訓練班を 組織するとともに、 防空演習などを 実施し、 さらに節約 運 動 、 国産品購買運動、 募金活動などが 行なわれた。 そして生産活動を 促進するものとしては、 家庭 での副業が提唱されたほか、 平民婦女工場、 女子職業訓練所 ( あ るいは技術訓練 班 ) 、 生産実験 区 な. どが設立されて、 女性に就業の 場を提供するとともにその 条件作りにも 取り組み、 さらに託児所の 開設に取り組んでいる。 新生活運動促進総会からⅡ 、 額ではあ るが ) 予算の配分があ り、 また、 たと. えば女僧訓練班の 開催に際しては、 警察を動員して 使用人たちの 参加を保障するなど、 非協力的な 主人に対抗する「手段」も 有するなど、 こうした政府のバックアップによって 指導委員会の 活動は 全国的広がりをもって 強力に推進することができたといえる。 政府主導による 家庭改革が実際に 行 なわれ、 それが末端の 家庭にまで波及したのは、 中国ではこれが 初めてのことであ った。 以下、 この時期 (30年代後半 ) の様々な活動の 中から西教 (母性教化 ) 運動と新生活家庭団の 組織 計. 画を概観して、 具体的に中国における 家庭の近代化がどのように 行なわれよ. う. としたのか見てみた. いO. 母数運動は 37 年 4 月 30 日から 1 ケ 月間、 南京市民出教育館で 行なわれた㎝。 民衆教育館の 教導部と. 都市実験区の 主催で、 婦女工作委員会は 講演会などに 協力するかたちで 参加している。 「民族の興隆 も 衰退も、. 完全に母親の 肩にかかっている」という 認識から、 母性の重視を 呼びかけるものであ っ. た。 会場には、 妊娠から始まって、 出産、 乳幼児期、 学童期に至るまで、 子どもに関わる、 衛生、 健康、 栄養、 病気、 服装、 住宅などについての 様々な知識・ 技術が図表や 模型によって 展示され、 家庭工芸や家庭菜園および 家庭娯楽 (子どものための 本 や歌、 将棋、 ラジオ、 蓄音機、 会食、 遠足な どの紹介 ) のコーナーが 設けられていた。 また付帯事業としては 母性と児童に 関する講演、 映画の放 映があ り、 さらに健康優良児コンクールも 行なわれた。 母数講座は 1 週間、 「母親の責任」「家庭衛生」 「育児法 」「婦女衛生」「児童教育法」「母親の. 備えるべき条件」の 題目で講演が 行なわれている。 そ. して健康優良児コンクールでは 優秀者に賞品をあ たえ、 その母親に育児体験を 語らせるなど 市民の 参加と関心を 集める工夫が 随所にみられるものだった。 ただ、 健康優良児コンクールでは 参加児童. (6歳以下 )257名のうち条件を 満たす者は 184 名で、実際に審査を 行なってみると 真に健康といえる 児 童は極めて少なく、 184 名のうちトラホーム 57% 、 皮膚病 49% 、 栄養不良 63% 、 身体不潔 76% 、 衣服不潔. 65% など、 コンクールに 参加申し込みをした 児童でさえこのような 状況であ ったことに、 あ らためて 親の児童の健康に 対する配慮の 欠如を目の当たりにさせられている。 ともあ れ期間中、 多くの人々 が参観に訪れ、 日曜日は毎回. 1 万人を越える. 人出だったといい、 人々の関心を 母と子の健康に 向ける. 役割を果たしたことは 特筆すべきことだった。 国民党政府が「民族の 健康」に関心をもち、 それが 女性や子供の 身体の健康にむけられ 始めたことは、 一方においては 国家による国民の 日常生活への 介入・干渉であ りながら、 他方においては 女性の国民化・ 近代化へのまなざしを 育むものでもあ. っ. たのであ る。 これに類似した 展示会や講演会・. 講習会が各地の 婦女工作委員会でも 開催され、 子どもや家族を. 中心にした食事、住宅、娯楽などの紹介を 通して新しいタイプの 家庭像の普及がはかられていった。 子供はもはや 家内労働力として 捉えられることはなく、 また母親も子の 身体的な世話にとどまらず、 知的・心理的発達にも 留意できるだけの 知識を身につけていることが 理想、とされ、 これまで家庭の 中 で近代文化とは. 無縁の生活を 強いられてきた 女性たちにあ る種の解放感を 与えることになった。.

(14) 148. 白水 紀子. 一方、 指導委員会の 下部組織であ る婦女工作委員会は 独自に 37年度活動計画の 一 っとして新生活 家庭団の組織を 提唱している㎝。 この計画はその 後の各地の工作委員会の 活動報告には 言及がない. 可能性が強く、 さらに同年 7 月に日中全面戦争が 勃発すると、 指導委員会は 活動 全体にわたって 大幅な変更を 迫られているので、 現実的にも新生活家庭団の 組織化は無理だったの ため実現しなかった. であ ろう。 しかしながら、 この計画案は 当時理想、 とされた家庭像を 見る上で参考になるので、 少し その内容を紹介したい。 計画では、 家庭単位で団員となり、 10家庭で 1 つの団を形成し、 団長と副団長を 置く。 1 ∼ 2 カ月に. 。 ほかに、 新生活家庭団の 合同 で、 季節ごとに児童 同楽 会、 父母会、 母親会、 ピクニックなどを 行い、 模範家庭には 賞状をあ たえ、 以下の規約に 規定数以上違反した 家庭は退団させるというものだった。 「新生活家庭規約」はあ わせ て 20項目あ り、 主婦に関連するものとしては、 必ずしも母性に 特化したものではなく、 主婦は家を 治め、 子を教え、 家計管理の技能を 獲得することに 力を注ぐこと、 主婦は可能な 範囲で母親会や 知 識や能力を高める 活動及び社会奉仕活動に 参加すること、 であ った。 ほかには、 姥 (女奴隷 ) や妾を 置かないこと、 できる限り使用人をおかないこと、 博打・買春・ 阿片をやらないこと、 各人正業に づ くこと、 子女には男女平等に 教育を受けさせること、 身体と精神の 健康に気をつけ ろ こと、 衣食 住は合理的で 衛生的にすること、 無用な交際はひかえ 冠婚葬祭は節約を 旨とすること、 余暇には 正 しい家庭的娯楽を 取り入れること、 可能な限り国家や 社会に有益な 活動に参加すること、 家庭の和 睦を心がけ、 父は慈しみ深く、 子は孝を尽くし、 兄弟は仲良く、 夫婦は互いに 敬愛しめ こと、 な 一度会合を開いて 家庭における 新生活運動の 進展具合を報告し 合. う. ぅ. どであ った。. ところで、. 指導委員会が 推進した家庭の 近代化を考察する. この運動を自らが 信仰するキリスト. にかかわるよ. う. 教の教義と結びつけ、. 上で興味深いのは、. 委員長の宋美齢が. 各地における 新生活運動に 教会が積極的. にしたことであ る。 指導委員会における 人事や組織に 教会関係者やキリスト 教女子. 人びとを多用しただけでなく、 教会の救世活動を 新生活運動の 民族自助運動と 結びつ けたのであ る。 この連携は早くから 中国の家庭問題に 熱心に取り組み 教会の中国化 (本色化 ) を模索. 教育を受けた. していた教会側からも 大いに歓迎されたのはい. う. までもない (22) 。 このことは、 新しい家庭像の 普及. 意味する。 信仰深く、 夫婦は 対等で相互に 尊敬しあ い、 子供には父母双方が 愛情と関心を 注ぎ熱心に教育する、 慈愛に満ちた 家 庭 像の提示であ る。そして戦時下にあ って実際に経済的にも 使用人を雇えなくなった 家庭が増加し、 これまで中産階級の 主婦にとって 必ずしも必要ではなかった 家事 (料理、 掃除、 洗濯など ) や育児が において近代的クリスチャン・ファミリーがその 模範とされたことを. 現実に主婦の 役割になりだしたことも、 これらの新しい 家庭像が言説のレベルを 越えて各家庭に 浸 透していった 背景として考えられるのであ る。. ここで、. 家庭の近代化について、 範囲ではあ ったが、 科学的で合理的な. これまで概観してきた. 育児という限られた. 言及すれば、 家事・ 啓蒙を通して、 近代化から. 女性解放の視点から 知識の宣伝と. 取り残されていた 女性たちの主体意識をまずは 家庭内において 喚起しょうとした 試みは高く評価さ. れてよいと考える。 また、 その限界としては、. 家庭内の家父長制の 問題にほとんど 対応することが. なかったという 点は指摘しておかねばならないだろう。. 5. 40 年代の「中国の 近代家族」 指導委員会は 38年 7. 一一- 結びにかえて. 月に拡大改組され、. 先述の『中国女性運動史上に. よ. ると、 共産紡糸、. 進歩的.

(15) 中国における「近代家族」の. 149. 形成. 人々、国民党系の各派勢力がほぼ 三分の一ずっ 占める女性の 全国的な統一戦線となり (本部は漢ロ の ち 重慶 ) 、 共産純系の人々は 女性の抗戦への 動員に消極的だった 国民党系の人々をおさえて、 さまざ. まな活動を展開した、 とされている。 指導長は引き 続き宋美齢、 総幹事は YWCA の提議 真 、 副幹事も 同じく YWCA. の 陳紀壷 だった (361 ∼ 3 頁 ) 。. 改組後に発行された 紙. 代表白り 機関紙 ( 婦女親 運 》. ( 婦女新生活月刊》とはかなり. (1938年 12月∼ 48 年 9. 月). をみると、 改組双の機関. 内容が異なる 印象を受ける。 時局の急速な 展開を. ぅ. けて女性の前. 線 参加や後方支援、 救護活動、 慰問団の結成など 戦時 色 が濃くなり、 同時にこのころから 女性の生 産活動への動員が 強力に推進されていくためであ る。 この傾向は共産党地区の 動きと類似し、 活動 の 重点が家庭改革から 女性の生産活動への 参加に移っていく。 延安では、 「四姉年決定」が 家庭改革. や女性の権 利問題よりも 女性の生産参加を 強調し、 結果として女性に 社会的生産と 家事育児の二重 負担を強いることになったと 指摘されているが ("八国民党統治下の 武漢、 重慶でも戦時総動員体制 の中で家庭主婦、 農村女性、 職業女性、 女子労働者それぞれに、 男性不在部分を 代替するだけでな く、 さらに機織、 養蚕、 靴 ・外套の縫製など 生産活動への 動員が強く求められるよ. う. になったのだ. (24) 。 経済的に余裕のあ る中上流層の 主婦は女性団体の 機関や奉仕活動に、 また経済的に 困窮し時間. 的余裕のな い中 下層の主婦は 工場や内職など 有償の生産活動に 参加する よう 奨励された㏄ 5)。 詳細は 紙幅の都合で 別の機会に譲るが、 この時期に指導委員会が 最も活躍を期待したのは 健康で中等教育 以上の学歴をもつ 女性たちであ った。 たとえば、 40 年の時点で、 新 運 婦女幹部訓練 班 には 785 名. (ぅ. ち 無職の女性が 最も多く 360 名、 続いて女学生 225 名であ った ) 、 高級幹部訓練 既 には 128 名、 20 歳 か ら 30 歳までの知識女性が. 参加しており、 3 カ月間の訓練をへたのち、 郷村服務、 戦時服務、 生産事. 業、 保育事業の指導にあ たった。 また 44 年には中央政府の 青年に対する 従軍の呼びかけに 応じて、 指導委員会は 青年女子 2000 名の志願者を 募集しているが、 応募資格は 18歳から 35 歳までの中等教育. 以上の学歴をもっ 女子に限られ、 入隊期間は 2 年、 活動内容は双線での 救護、 政治工作、 通信、 裁縫 および事務などであ った㈲。 つまり、 指導委員会改組の 前後において 女性に家庭役割と 社会活動の 両方を求める 方針は変わっていないが㈲、 日中戦争が本格化すると、 後者の要求が 緊急を要する 現 美 的課題となり、 その影響を最も 強く受けたのが 若い中間層の 女性だったのであ る。 その結果、 彼 女 たちは家庭の 近代化を担. う. 良妻賢母の役割はそのまま 維持されながら、 宣伝活動や生産活動、. さ. らには従軍など、 直接的な社会的役割を 果すことも同時に 期待されるようになっていったのであ る。 すでに 37 年段階でも「もとよりこの 時代の女性が 負. う. べき責任は、 家庭の奴隷ではなく、 社会の戦. 士であ る。いわゆる時代の 女性は 、 古い良妻賢母の 姿から新しい 良妻賢母の姿に 変わるべきであ る。 つまり、 社会大衆のために 奉仕する責任を 負い、 さらに同時に 家事をこなし、 子供を養育教育し 、 夫が生産事業の 発展に従事するのを 助け、 家庭と社会大衆の 幸福を助長しなくてはならない」. (")と. 女性に家庭と 社会の二重役割を 果すことを求め、 それが新しい 時代のあ るべき女性像として 語られ ていたが、 その傾向は 40 年代に入っても 変わらない。 たとえば「婦女的新人生観」 巻 1 期 43 年. 1 月 ) には、. (. 《婦女親 運 》 5. 「女性運動は 必ずしも家庭と 衝突しない。 良妻賢母は女性の 天職であ るが、. これは女性の 事業の一部に 過ぎず、 ほかの社会部門にも 当然女性は積極的に 参加すべきであ る。 一. 日中家にいる 女性が、 を 助けて家を成し、. 毎日. 庭 に座って空を 眺め、 社会の状況に 対して無関心でいたら、 どうして 夫. 子を教え導いて 名を成さしめることができようか。 事業で成功をおさめた 女性. は、 知識が豊富で 学問も深く 、 妻として母としてもきっと 賢良であ るはずだ」と 女性の家庭的役割 と 社会的役割の. 両方を求める 傾向は続いている。 そして抗戦時期は 後者がより強く 実際の行動にお.

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