ブルボン王朝下のコーヒーとカフェ : ルイ14世の時代
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(2) 岩. 134. 切. 正. 介. ラ・ロックが持ち帰った美しい古い陶器や金・銀・絹の縁取りのあるモスリン地のナプ キンーこれは東方ではカップの下に敷くものであった-は普段は使われず収集品 として飾られていたという。2) コーヒーの愛飲者はマルセイユの商人や旅行家の間で増えていき,商人がその需要を. 満たすためコーヒー豆をエジプトから輸入し始め, 1671年,マルセイユの商品取引所の 側にフランスで初めてのカフェが開かれる。ここが商人や旅行家で賑わうのをみて,ま た新しくカフェを開く者も出た。3)コーヒーはラ・ロック家のように家庭でも飲まれ, マルセイユ人の生活への浸透を深めたから,この勢いは旧来の飲物ワインを圧迫してい くかに見えた。ワイン業者はあからさまな敵意を示し,また,マルセイユの住民の健康 の損なわれることを心配する医者も出始めた。マルセイユ大学の医学部は,. 1679年マル. セイユの市庁舎で市長など当局者を前にして,コーヒーの害を論証する医学生コロン 「すべての人々は Colombの教授資格論文を発表させた。その論文は雄弁に語ったワインの代りにコーヒーを飲むようになったが,コーヒーはワインというすばらしい飲. 物の沈殿物にも匹敵しない。コーヒーは下等な飲物で何らの価値も認められず,たんに 外来の新しいものというにすぎない。病気に効く薬だというのは笑止である。なぜなら コーヒーはヒツジとラクダによって発見された実だからである。コーヒーの作用は冷と いうのは間違いで,温の作用をする。コーヒーがたっぶりと含む焼け焦げた粒子は血液 に混じり込み,まず腎臓,次いで身体の各所の発液を奪い取る。それからコーヒーの粒 子は脳を襲い,脳の水分を奪って脳の孔のすべてを開いた状態にする。このため脳は, 睡眠をもたらす動物生気を脳内に保つことができなくなる。このためしばしば頑強な覚 醒状態に陥り,生気の回復に必要な脳液が完全になくなってしまう。神経組織は弛緩し, そのため麻捧と性不能が起こる。乾燥しかつ酸性化した血液によって,身体の各所は水 分を失い,最終的に全身は恐ろしく痩せることになる。マルセイユの土地は暑い。この ような町の住民がコーヒーを飲むのは,さなきだに身体を衰弓,Sさせ危険である」。4)この 危険の論の底に,ギリシャのヒポクラテス以来の四体液説があるほか,より明確に,ヨー ロッパの中世以来,人々が思い描いてきた健康体のしたがってまた不健康体の観念があ るという。人々の目には,太った,つまり水分を豊かに含んだ身体が健康な身体と写り, 逆に,痩せた,つまり水分の少ない身体は不健康体と映じていたのであった。健康体と 不健康体は,つまり,湿った体と乾いた体の対比で思い描かれていたのである。5) この論には,コーヒーとワインの入れ替わりについて事実の誇張やコーヒーそのもの に対する不倶戴天といった敵意がある。これはワイン業者のもので,この催し自体,医 者たちの純粋な良JL、に出るものではなく,背後でワイン業者が糸を引いていた。それま でワインやビールを日常の飲物としてきた17世紀のヨーロッパに初めてコーヒーが移入 された時,各都市で競合関係に陥り,業者たちの反対に遭遇するとともに, (推奨論も 多かったが)医者たちの有害論にも迎えられた。一種の参入儀礼ともいえようか。マル セイユの場合は,ワイン業者と医者たちの結託が見事で,これがいくぶん突出した形で 演出されたとみられよう。しかし,コーヒーにはこの参入儀礼を軽く乗り越える力があっ て,マルセイユでも普及の度を強めていく。東西ばかりでなく地中海とパリをっなぐ商.
(3) 135. ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 都リヨンでもコーヒーは,マルセイユとはぼ同時並行的に普及していく。リヨンの商人 がレヴアント地方からコーヒーを輸入するのもほぼ同じ時期である。リヨンのカフェが 初めて開かれたのはいっか,記録は伝えてはいないが,コーヒーに対する態度ではリヨ ン市民のはうがむしろ開明的だったかもしれない。マルセイユのような表立った反対運 動は記録されていない。このリヨンで1671年に『コーヒー,茶およびチョコレートの利 用について』 Del'usagedu. caphe,. du. theet. duchocolatという本が出版され,コーヒー. についてそれまで述べられてきた諸説を,つまり知識と効能を集約して人々に伝えるこ Sponなる人物 とになった。この本に著者の名は記されていなかったが,スボンJacob の手になるものと考証されている。6)この本の中心はコーヒーにあり,コーヒーの化学 とさまざまな治療への応用を述べたものであった。7)リヨンはなぜかフランスのコーヒー 1685年にはデュフールPhilippe. に関する指導的な情報の発信地となったところで,. silvestreDufourの『コーヒー,茶およびチョコレートについての興味ある新しい諸論』 Traitez nouveaux et curieux du caf6, du the et du chocolateが出され, 1687年にもプ レニーNicolasdeBlegnyが『茶,コーヒーおよびチョコレートを病気の予防と治療に 上手に使う方法』 Le bon usage du the, cafe et chocolat pour la preservation et laguerison. pour. des. maladiesを出している。プレニーはコーヒーの卓れた効能について, 二日酔い,頭痛,憂密症を治し,痛風と壊血病の薬となり,記憶力と判断力を高めると うたったoデュフールは,リヨンの薬種商droguiste8)で,当時コーヒーの輸入や販売 (なお,後に述べ を手がけたのはこの薬種商や香辛料商人,海外物産商などであった。 るようにアルメニア人もいた)。プレニ-は王および王次弟の顧問官,宮廷医,芸術家 conseiller,. medecin,. artiste. ordinaire. du Roi. et de. Monsieurだった人物である。9)フ. ランスのかれらの本は17世紀の後半,はぼ同じ時期にイタリア,オーストリア,ドイツ, オランダ,イギリスなどで相次いで出された同様の本と国際的に呼応し,コーヒーが健 康飲料であり,病気の治療に役立っことを世に喧伝したものであった。なかでも有名だっ たのはオランダの医者でドイツで活躍したデッカ-. (ボンテコー)Cornelius. Dekker. (Bontekoe) (1647-1685)で,かれにとってコーヒ-ははぼ万能薬だが,たとえば1688 年の『人間の生命に関する小論』. Kurtze. Abhandlung. Yon. dem. menschlichen. Lebenで. は「トルコ人はキリスト教徒でなく野蛮であるが,キリスト教徒(っまりヨーロッパ人). のようにど-ルやワインその他の冷の作用をする飲物を多用しない点はすぐれてい る。トルコ人の飲むのはコーヒーで,コーヒ-は害があるどころか,健康によい。こ のことは一般に飲用の習慣により証明されている」 (要約)と述べている。10)デュフー ル等の本はフランスでも,トルコ(あるいはアラビア)の飲物につきまといがちだっ た,外国の,野蛮な,危険な,異教徒の,といった否定的イメージを打ち消していく力 になった。. 2.旅行家テヴノーとオスマン・トルコ使節ソリーマン・アガ. 1657年に科学者でかっ有名な旅行家テヴノーJean. de Thevenot. (1633-1667)はエジ. プトよりコーヒー豆を持ち帰り,トルコ式の入れ方を披露しつつ友人たちにご馳走し,.
(4) 岩. 136. 切. 正. 介. トルコでは砂糖を加える者もいるし少量の丁字とカルダモンを加えて飲むこともあるな どと講釈もした.トルコのカフェの様子も語った。Il'テ■ヴノーは1664年にこれら旅行の 見聞を『テヴノーのヨーロッパ,アジアおよびアフリカ旅行記』 ThevenotenEurope,. Asie,. VoyagesdeM.de. Afriqueにまとめ,うち三ペ-ジをトルコのコーヒーとカ. フェに記述にあてた.テヴノーがコーヒーをふるまった友人仲間には,王室のトルコ語 la Croixなど東洋学者orientalisteが多かったとされているが, 通訳官ラ・クロワM.de パリには他にもごく少数だが,新しい飲物を味覚の楽しみに加えようとする者がいた。 宰相マザランJules Mazarin(1602-1661)もその数少ない一人で,マザラン邸では1660 年コーヒーをいれるある種の料理人を雇い入れている。またダラモン将軍marechal. de. Gramontの館でも同じ年に同種の専門家が雇われた。二人ともイタリア人で「すべて の種類の花,果実,実その他のものの蒸留の術に優れ,またチョコレート,茶,コーヒー をいれることに巧みであった」という。12)このような料理人は,厨房で料理を作る料理 人と異なり,いわゆるオフィス(食膳支度室)という部門で働く別の料理人で,食事の 時のデザートや飲物,舞踊会など社交の集まりに用意する軽食(コラシオンとよばれ, 果実,果物の砂糖漬け,菓子,飲物など)を調製した。食卓や宴の席の飲食物を美しく また豪華に飾り付けることも(演出!)その領分であった。パリの高官の館に雇われた 二人はともにわざわざイタリアから呼び寄せられている.コーヒー,チョコレート,茶 を入れる技術をもった者はパリにはまだいなかったからだという。13)ルイ14世が初めて. コーヒー考口にしたのは1644年だといわれる14)が,宮廷や貴族,あるいは上流ブルジョ アでコーヒーを実際に味わったものは,. 1660年前後のこの時点では,少数にとどまって. いた。値段も高く500gで80フランしたという。15)この時期,アルメニア人たちがパリ でコーヒーを売っていたともいわれている。16)この状況で1666年,早くもコーヒーを知っ て愛飲家になったある詩人が賛歌をこしらえている。シュブリニーSublignyはコーヒー の効用を称え,コーヒーは一年かかっても治せない病気も一夕にして治すのだ,とうたっ た。. コーヒーはアラビアの飲物 あるいはトルコの,といってよい レヴアントではみんな飲んでいる コーヒ.-はイタリアにやってきた オランダとイギリスにやってきた. コーヒーの良さはどこでもお墨付き パリのアルメニア人がコーヒーを フランスにも運んでくる17). フランスの宮廷・貴族社会のコーヒーを取り巻く雰囲気を一変させるのが,ルイ14世 Aga, Mustaの宮廷にやってきたオスマン・トルコの使節ソリーマン・アガSolimam ferracaである。フランスの王家は,東のオスマン・トルコ帝国と友好関係を維持し,. ヨーロッパの一大勢力-ーブスプルク王朝を東西から圧迫することを外交の一つの基本.
(5) ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 137. としてきた。しかしこの時期にフランスの使節や商人がオスマン・トルコの地で襲われ 身体に危害が加えられ金品が奪われる事態が起きていた。オスマン・トルコの代官にひ きられて軍隊がクレタ島(当時ヴェニス領)を占領したため,ボフォール公duc Beaufortの率いる軍隊が派遣され,ヴェニス人を救出したばかりであった。18)そこに突 如フランス宮廷にソリーマン・アガの派遣が伝えられた。この思いがけない派遣はモハ メット四世Mohammedの関係修復の意図にでたことはまちがいなく,フランス宮廷で. もこれを歓迎しない理由はなかった。ソリーマン・アガの一行は貴族と召使いの計20名 からなり,. 1669年8月4日にフランスのツーロン港に着き,フランス側の歓迎の意を表 す祝砲で迎えられた。一行がパリへ向かう道筋に当たる町々でも同様の措置がとられた。 ソリーマン・アガを迎えるヴェルサイユ宮殿では予定の通路に械壇を敷き延べ,ルイ14 世も盛装に威儀を正し,床より数段高い玉座に就いて迎えた。はるばるやってきた使節 は,王がスルタンの親書を玉座から立ち上がらずに,座ったまま受け取ったことを非礼 として,きわめて強い不満を抱いて宮殿を辞していった.ソリーマン・アガの一行は邸 館を借り翌年の五月(あるいは四月)までパリに留まることになるが,外交の成果には みるべきものがなかったように思われる。19)しかし,コーヒー史では確実に新しい局面 を開いた。ソリーマン・アガは年齢50歳はどの美丈夫で,トルコ風の家具調度品と装飾 をあしらったその館では楽しい社交と東方の鷲沢を目のあたりにすることができたとい う。パリの貴族たちはそこに招かれ,トルコの衣装に身を包んだ美しい若い奴隷がひざ まずいてだすコーヒーを飲んだ。陶製のカップは金の縁取りのついたダマスク織りのナ プキンの上に置かれ,貴婦人たちは扇であおぎながら顔にしわをよせて湯気のたっ飲物 に口を近づけた。20)フランスの貴族社会では,次の18世紀の後半でも念入りにトルコ風 の衣装を着て中国の美術品に囲まれた室のなかで,一種のペットとしてのモール人の少 年に入れさせたコーヒーを飲んだ。21)コーヒーを味わうことより装飾性と演出性に重点 が置かれたこの賛沢な飲み方の原点はこのソリーマン・アガの館のコーヒーに求められ るであろう。ソリーマン・アガは沢山のコーヒー豆をもって来ており,宮廷や貴族に献 ずるとともに,館での接見の際にいれて出したのである。トルコ風の室内,コーヒーそ してソリーマン・アガその人,すべてが人気を呼び,ソリーマン・アガの館に多くの貴族 が訪れ,訪れた後は,打ち競って客のもてなしにコーヒーを供したという。22)コーヒー の流行を残して,ソリーマン・アガはパリを去り,五月をリヨンで過ごし,南へ下って 8月22日にツーロン港から故国へ帰っていった。 流行の後,コーヒーはフランスの宮廷と貴族社会に定着した。例えば,宮廷の例であ る。. 「月曜,水曜,木曜の週三回開かれるヴェルサイユ宮殿のアパルトマンの夜会(御. 殿の夜会)は王族内輪の集いだが,豊儀の間に馬蹄形に並べられた卓の上には,背の高 い銀の瓶にそれぞれ,熱い飲物,冷たい飲物,果物のジュース,レモネード,ブドウ酒, チョコレート,コーヒーが満たされていた。コーヒーはこの頃世に出たばかりだが,疏 行のすたれることもない模様である。さらにヴィーナスの問にもいくつか卓が置かれ, 菓子や新鮮な果物,砂糖漬けがピラミッド型に組み上げられて大きい皿に盛られてい る。」23) 17世紀後半,コーヒーに対する宮廷や貴族社会の態度を窺わせるものに,また,. de.
(6) 岩. 138. 社交人セゲィニュ侯爵婦人Mme. 切. de S6vign6. 介. 正. (162611696)が娘にあてた,. 1675年から1690 年までの手紙数通がある。24)夫人は娘に伝えている。知り合いの貴族メリ嬢はコーヒー の害を怖れて館から「追放」した, しょう」. La. mode. d'aimer. Racine. 「ラシーヌはコーヒーの流行と同じ,消えていくで passera. comme. la mode. du cafe'(1676.5.. 10),あ. る貴族はコーヒーの効能を否定する医者の説を信じている,と。その一方で,コーヒー は健康に悪くないという意見をのべる人達もいる,という。. 「ドユ・シェスヌはコーヒー. はいけないといっも言い,兄アンジュはコーヒーが悪いとはまったく言いません。. I---. カドルスはいっもコーヒーを褒めています。コー コーヒーを薬として摂るべきかしら? ヒーはある人を太らせ,ある人を痩せさせます。世の中の両極端が見えます。こんなに 相反する結論をもたらすものは,積極的に勧めることはできないと思います」。セゲィ ニュ侯爵夫人はある手紙で,コーヒーは宮廷で不人気になったとも伝えている。しかし 最終的に侯爵夫人は王の宮廷医アリョの助言に従い,カフェ・オ・レの愛飲者になる。 「世の中でこんなに素敵なものはない」. 1aplusjoliechosedumonde,最高よ,という. のが1690年の手紙で語られている結論である。25)このカフェ・オ・レはグルノーブルの. 医者モナンMoninが1680年にコーヒーに砂糖と牛乳を加えて作り,咳止めおよび病人 を太らせる薬として,世に推奨したものである。26) 宮廷や貴族のみならず,市民のなかにも新来の飲物にJL、を動かした者がいたらしい。 パリの商人たちはソリ-マン・アガのもたらしたコ-ヒーへの興味を利用して一般の客 に売ることを考えたものらしく, 1671年,パリではコーヒーが数軒の店舗で買えるよう になっていた。商人たちはチラシでコーヒーの宣伝もした。. 1671年にリヨンで出された. スボンの『コーヒー,茶およびチョコレートの利用について』も心強い味方であったに. ちがいない。商人たちはコーヒーを噂好品というより,薬として宣伝した。それがスボ ンの立場でもあったし,商人たちがチラシで訴えたことでもあった。 1672年のものだが,商人たちの宣伝チラシの内容は次のようになっている。 コーヒーはアラビアの砂漠で生育する菜果である。コーヒーはそこから王の全領土 へ運ばれてくる。コーヒーはすべての冷および湿の体液を乾かせる。腸内ガスを消散 させ,肝臓を強化し,浄化作用によって水腫症(状)を軽減する。ひぜん(かいせん) に卓効がある他,血液の腐敗に対しても優れた効果がある。心臓の力,その樽動力を 回復させる。胃の痛みを和らげ,食欲不振を取り去る。重い,冷たい,湿ったなどの. 脳の不調にもよく効く。コーヒーから昇る湯気(蒸気)は目のただれ(水様分泌物) や耳鳴りによい。息切れにきわめてよく,肺カタルに効き,牌臓の痛みを和らげる。 食べ過ぎと飲み過ぎによく,とくに果物の食べ過ぎには,コ-ヒ-に勝る消化薬はな い。コーヒーを毎日飲めば,このような卓効がすぐに現れる。体調の勝れない者に時々 服用することを薦めたい。27) この内容は,. 1652年イギリスのロンドンで初めてコーヒーハウスを開いたパスカ・ロー. ジィがやはり宣伝ビラに書いた内容と驚くはど似ている。権威があるとされていた共通 の本があるのだろうか。.
(7) ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 139. 3.アルメニア風力フェの出現-パスカル. 1666年のシュブリニーのコーヒー賛歌の末尾にあるように,パリへ地中海地方から豆 のはいった袋を運び込んでいたのは,主にアルメニア人商人であった。パリで最初のカ フェを開くことになるのもまたアルメニア人である。 1669年ソリーマン・アガがパリに もたらしたコーヒー熱に商機をみたのであろう。カフェはアルメニア人の故地オスマン・ トルコー円ではきわめてありふれた施設であった。アルメニア人は1671年マルセイユで 開かれたカフェが賑わったことも聞いていたはずである。. 中近世のアルメニア人は,レヴアント地方とヨーロッパを結ぶ通商路において,ユダ ヤ人,イタリア人(ヴェニス,ジュノア,ピサ),ギリシャ人,トルコ人,南ドイツの 商人などとともに活躍した商業の民で,早く故国を失っていた点はユダヤ人と同じだが, 四世紀にはキリスト教徒となっていた点は異なり,特にフランスでは,重商主義政策の 一環として,ルイ13世の宰相リシュリューRichelieuが積極的に移民を計った。28)この ようなアルメニア人の一人パスカルという人物が1672年サン・ジェルマンの市(左岸。 異国の賓沢品も売られ,貴族・上流社会の人たちも訪れた)でコーヒーを飲ませる小屋 を開くことになる。. 市の-マス1elogeを借りて開いた店は,質素な板張りで,内部の作りはアルメニア 風,給仕の衣装もアルメニア風で,たばこを喫わせる煙具(キセル)が置かれていたの も東方風であった。コーヒーの入れ方もむろんまだ,トルコの沸騰式であった。サン・ ジェルマンの市の開かれるのは,. 2月,. 3月の寒い季節であったから,熱いコーヒーは. よく売れ,この企ては大成功に終わったという。そこで,市の後,パスカルは,常設の (右岸。今日のケ・デュ・ルーブルquaidu 店をケ・ド・レコ-ルquaidel'I;cole Louvre)に開いて,コーヒーー杯を2ス一半で提供したが,この店はパリ人の訪れる ところとはならなかった。パリの最初のこのカフェは,セーヌ右岸でも,左岸の繁華街 に通う人々で賑わうボン・ヌフPont-Neufに近かったから,場所が悪かったとはいえ. ないだろう。一般市民の飲食の趣好や習慣はまだビールやワインの方にある他に,パリ 人はレヴアント(東方人)ばかり出入りするこのカフェを敬遠したらしい。客にはレヴア ント人の他,いくらかマルタ島騎士団の者がいたという。パスカルはやがて店をたたん で,カフェの先進地イギリスのロンドンへ去った。29)パリの最初のカフェはマルセイユ と異なり,失敗におわったのである。次にアルメニア人のマリバンMalibanがやはり 当時の中心地の一つビュシー通りruedeBussy. (左岸)に開いたオリエント風のカフェ. も思わしくなかった。コ-ヒーとたばこの組み合わせ,アルメニア風の店の作りなど, (左岸)に移 パスカルの店と変わらなかった。マリバンは店をフェルー通りrueF6rou し,また元の場所に戻しもしたが,結局振るわず,店を給仕だったグレゴワール Gr6goireなる者に譲って,自分はオナンダに渡った。30) 17世紀後半のオランダは海外貿 易で賑わい,最も早く近代的な特徴が現れたところで,イギリスと同じようにコーヒー とカフェの普及では先進国だったからであろう。しかし,マリバンがパリに残した店は グレゴワ-ルの商才で救われ,潰れなかった。イランのイスファ-ン出身のグレゴワー ルは店をコメディ・フランセ-ズの側に移したところ,ここに俳優と文人comme'diens etgensdelettresが集まるようになった。フランス人の客が来た,そこでおしゃべり.
(8) 140. 岩. 切. 正. 介. をするために-これはカフェというものの成功の兆しを意味することだといってよ い。コメディ・フランセ-ズはこの頃はマザリーヌ通りr11eMazarine. (左岸)にあり,. グレゴワ-ルの元の店から遠かったのでもない.目と鼻の先ということが,しかし決定 】. 的だったのであろう。ビュシー通りの元の店はペルシャ人のマカラMakaraに譲られ, その後さらに,フランドル人ガントアGantoisの手に渡った。31)ようやくアルメニア風 のカフェもパリで立ち行くようになったのであろうか。シリアのアレッポ出のステファ ンStephenがボン・オ・シャンジュPontauChangeに開いた店はやがてより高級なサ ン・ミシェル橋PontSt-Michelに面するサン・アンドレ(・デザール)通りruedeSt(-desIArts)に移っている.32). Andr6. ところで,パスカルは店の給仕を街頭売りのため街に送り出したといわれている。コー ヒーの街頭売りは普通オリエントでも見られたもので,33)この街頭売りは,パリのコー ヒー史でもごく当初から登場し,コーヒーをパリ市民になじませるのに力のあったもの であった。大きな水缶を背負い,ポット,こんろ,カップや砂糖入れなどを手にしある いは首から紐でつるした板にそれらを乗せて路上を売り歩く者の姿は,いまでも図版で 見ることができる。34)路上の呼び売りのコーヒーには砂糖もつき,一杯が2スーであっ た。アルメニア風のゆったりしたズボンをはき,色鮮やかな上着をきていたものだとい う。クレタ島から釆たというので「クレタの男」と呼ばれたちんばのギリシャ人が有名 だったといわれるが,他にも路上の売り人はたくさんおり,このうち,レヴアント人の エチィエンヌEtienned'Alepや同じレヴアント人のジョゼフJosephの名が今に残っ ているが,かれらはカフェを持っようになったからであろう。エチエンヌのカフェはビュ シー交差点につながるサン・アンドレ・デ・ザール通りにあり,ジョゼフの店はノート 17, 18世紀のパリの街にはさま ル・ダム橋PontNortre-Dameにあった。35)ちなみに, ざまな物売りたちが呼び声を立てながら物を売り歩いており,このコーヒー売りの声も, 新たにそのにぎやかな声の加わったのであろう.36)路上を歩きまわり,あるいは戸口を. 訪れて物を売る者,一定の場所に露店を据えて来る客を待っ者,そして小さいながらも 店舗を構える者,とこの順で物売りの階級も上がっていったのであろう。店舗を構える ようになれば,もう商人とよばれよう。パスカルたち最初期のカフェ店主やエチエンヌ 等の路上売り人たちの姿によって, 17世紀のパリでは,コーヒーを売る者といえば,反 射的にアルメニア人と考えたものだという。37)この頃,コーヒー売りとは,つまりアル メニア人とほぼ同義語であった。38). 4.パリ風力フェの出現-プロコプ いわゆるアルメニア人が開いたカフェを訪れる客は,レヴアント人が多く,他にはパ リの住民でも下層の人々であったと推定されている。39)グレゴヮールの店がフランス人 の俳優や文人を集めたのは例外である。このような状況を一転させ,パリの上流階級の 客の訪れる優雅な店を作り出したのがプロコプである。. プロコプはシシリー島生まれのイタリア人で,イタリア名をコルテリFrancescoProcopio. Coltelliといい,生まれは1650年,父はOnofrio. Collelli,母はDomenica. Se-.
(9) ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. marquerといった。40)プロコプは,パスカルがサン・ジェルマンの市で開いたコーヒー 小屋で働き,ついでパスカルの開いたカフェで働いた。パスカルのカフェが閉店された. 141. ため,サン・ジェルマンの市で今度は自分でコーヒー小屋を開き,市が終わると,ロジュ (左岸)に店舗を借り受けカフェを開 ロLogerotと組んでトゥルノン通りrueTournon いた。このカフェははやってプロコプに多くの収入をもたらし,プロコプは1686年に, 遠い親戚の所有していた公衆浴場を借り,さらに隣接する二軒の家屋も借りて,広いカ フェを開くことになった.場所はフォセ・サン・ジェルマン通りruedesFosseJs-Saintl'Ancienne Germain(現在のランシアンヌ・コメディ通りruede Com6die)で,ビュ シー交差点に近かった。セーヌ川の川岸からでは,マザリーヌ通りを釆てこの交差点を まっすぐ渡り,少しのところであった。元のトゥルノン通りの店よりいくらか交差点に 近づいたから,それだけ賑わいの中心地に近く有利なところへ移ったといえるのだろう。 ビュシー交差点はセ-ヌ左岸の繁華街の中JL、で,六本の通りが集まっていた.その一本 ドフィーヌ通りrueDauphineはボン・ヌフを経て右岸とつながっていた.サン・アン ドレ・デ・ザール通りもこの交差点につながっていた。 プロコプの創意は,まず内装にあった。プロコプは広い店内に大理石のテーブルを置 いた。天井から水晶のシャンデリアを吊るし,かべには優雅な壁掛け布(タペストリー) を飾り,鏡を配し,高いガラス窓を切った。41)この大理石のテーブル(大理石はもっと 賛沢にするなら柱や壁,床に使う),シャンデリア,壁掛け布,そして鏡という四つの 内装品は,ルイ14世の宮殿をはじめ貴族の邸館に使われ,豪華な装飾性の演出に欠かせ ないものであった。とりわけ,鏡は相互の反射によって広間を大きく見せるとともに, 社交に集まる人々の間の見る・見られる関係を容易にしたので愛好された。プロコプは その鏡を巧みに使ったのであろう。大きな鏡を店内の要所に配する方式は後のベル・エ ポックまでカフェの内装の伝統になっている。オリエント風からパリ風のカフェへの転 換は,プロコプの店の提供する飲食物にもみられた。パスカルたちのコーヒーとたばこ に対し,フランス風のコラシオン(軽飲食物)である。プロコプが客に提供した物は, ワイン,リキュール,コーヒー,アイスクリーム,砂糖漬けの果物などで,いずれも自 分で調製した見事においしいものであったという。香薬草の(実の)エキス分や香りを 蒸留酒(火酒)に移したさまざまなリキュール類のなかでも,ロソリrossolyあるいは rossolis. (別名「太陽の露」. ros6edu. soleil)と名づけられたリキュールでは,アニス, ういきょう,コズイシ(コエンドロの実),イノンド,カラウェ(ひめういきょう)の. 調和した味が楽しめ,次の「ポピュロ」. populoとともに人気があったという。ポピュ. ロは,丁字,索香,城端,胡板,砂糖,アニス,コズイシ,酒精の香りが一つに溶け合 う低アルコールの一種のレモン水eaude ceJdratであり,かつ「完全な愛の飲み物」1iqueurduparfaitamourであったとか。42)蒸留酒でなくワインに,砂糖,肉桂の葉,坐 妻,丁字の芽,マスカットの芽のエキスと香りを溶け合わせたものも工夫された。当時 はまだ新奇な高級品であったアイスクリームも,さまざまな果物と花の香りを取り合わ せて加味して作られ,同じようにシャーベットもまた,レモン,索香,班王白,砂糖をひ とっを混ぜ合わせた精妙なものが工夫されて出された。当時好まれた砂糖漬けの果物も.
(10) 岩. 142. 各種用意されており,. 切. 正. 介. -タンキョウのパテ,オレンジの花のクリームまで作られ,サク de. ランボ,葛,クルミなど果物や実も置かれ,口に冷たいさまざまな味の氷水eau ge16esも楽しめた。43)プロコプの店に来る客が目にするこのような品は,宮廷や貴族の 館で目にするコラシオンと同じであったといえよう。プロコプのカフェでは,むろん, ヨーロッパのカフェやコーヒー-ウスで初期の頃から提供された基本の四品,コーヒー, 茶,チョコレート,シャーベットも揃っていたが,少なくとも当初プロコプの意図にお いてこれが主要の位置を占めていたとはいえないだろう。ちなみにアイスクリームはも. と中国に発し,インド,中近東をへて,西欧に入り,西欧では長い間,イタリアが本場 であった。44)シャーベットはそれに対し,もとは中近東のもので,コ-カサス山脈の氷 や万年雪を運び出し,果汁や香料水に混ぜ,味覚と冷味を楽しむものであった。フラン スの宮廷や邸館では冬の雪や他の氷などを氷室の貯蔵し,夏にたとえばこのシャーベッ トなどに利用した。 16世紀の末では,氷室に貯えた夏の氷は賛沢であったが, 17世紀で はそうではなくなっていた。45)プロコプの店が,アイスクリームやシャーベットを出す のは夏の間だけで,季節を問わず出すようになるのは1750年頃からである。46)フランス では17世紀の末からカフェを,カフェ・アイスクリーム店caf6glacierとしてカフェと アイスクリーム店の二つを結び合わせた呼び方が生まれたが,由来はプロコプにあると いう。47)カフェは冬,体を暖めるのによく,夏,体を冷やすのによい場所だ,とのイメー ジと結びついた。 プロコプの創意はもうーつあった。ニュースシートをストーブの煙突に貼り,そこで, (このニュースシートにどのよ おのずと社会の情報も得られるようにしたことである。 うな内容が盛られていたか,筆者はまだ知らない)。情報を得る,さらに情報を交換す るということが,他の都市と同じようにまたパリでも,カフェの大きな機能になってい く。パリではその出発点にプロコプがいたという点を見逃してはならない。 プロコプの打ち出した新機軸は,それだけで十分新しい客層を引きっけ成功を約束す るものであったと思われるが,偶然もまた幸いした。店の真向いにコメディ・フランセー ズが移転してきたのである。コメディ・フランセ-ズは,隣接するジャンセニスト派の 修道院に敵視されてマザリーヌ通りを追われ, 1687年にエトワール氏所有の屋内テニス 戯場(danslasalle,. Jeu. dePaume. du. sieurdel'豆toile)に移って来た。そこがちょう どプロコプの店の真向いであった。コメディ・フランセ-ズはそこに新しい劇場を作り,. 1689年にラシーヌの『フェードル』 Ph6dreとモリエールの『心ならずも医者にされ』 M6decin. malgr61uiで柿落しをした。この新劇場内にはプロコプのビュフェも置かれた が,関係の深さは本店の方に生まれ,プロコプのカフェはコメディ・フランセ-ズに関 係するすべての人々の利用するところとなり,店はコメディ・フランセ-ズと深く結び 付いて発展することになる。48)コメディ・フランセ-ズの移転前,店にやって釆た客は, de malus (不明) エトワール氏のテニス戯場にやってくる者,あるいは店の裏手のjeu をしにくる者,それから界隈に多かった剣術士bretteurs,49)そして,賑やかなビュシー. 交差点を越えてくる通行人たちの一部であった。移転後は,俳優come'diens,劇作家 auteurs,ヌヴュリスト(情報家). nouvellistes,文人gens. de. lettres,粋人beaux. seigneurs,.
(11) ブルボン王朝下のコーヒ-とカフェールイ14世の時代. 徴税請負人fermiers. 143. g6n6rauxなど,演劇と俳優,その魅力に引かれて来る者が多くなっ. た。50)これらの客に,プロコプの給仕たちは,異国の情趣をかきたてるゆったりとした 東方の衣装を身につけ,毛皮の帽子をかぶって仕えたという。51)ヨーロッパ風の店にオ リエント風の給仕とは,プロコプの策だったのかどうか。いずれにしても,. 17世紀末の. フランスでは,未開拓の新大陸アメリカへの興味よりも,すでに成熟した文化と豪膏を 示すトルコなどオリエントや中国など極東に対する異国趣味が強かった。そして異国の 品の収集とも結びっいたこの異国趣味は,豪香や賛沢の香りを漂わせるものであった。 プロコプのカフェはその後さらに客層を広げていった模様で,. 1716年に出されたラ・ロッ. dams l'Arabie Heureuseはその380頁で, クの本『幸せの国アラビアへの旅』 Vayage 客の多様さを語っている。格好のよい若い騎兵jeunes cavaliers,砂糖漬の果物を食べ. る優雅な神父たちabb6s discrets. r6fugi6s. au. galants,人中に身を潜めて会う秘密のカップルcouples milieu de la foule et du bruit,学者たちsavants,楽しげに知識. のさまざまな題目についてsur. des mati6res. d'6rudition話し合っている文人たちgens. delettres。52)コーヒーを前におしゃべりをする。プロコプは,いわゆる文学カフェになっ た。そのおしゃべりは,客の多様さから容易に推察されるように,狭義の文学に限らず, あらゆることにわたり,王の行政や制度も経済政策も,宗教も教会も,話題になった。 カフェ・プロコプはいわゆる政治力フェにもなってゆく。53). ところで,このプロコプとはどういう人物だったのか?イタリア人であること,その 父母の名,サン・ジェルマンの市で開いたコーヒー小屋でお金を稼ぎ,常設のカフェ (これはまだアルメニア風)をトゥルノン通りに開いたことはすでに述べた。その他に 現在分かっていることを記せば次の通りである。常設のカフェを開いた頃に,マルグリ ト・クルインMargueriteCrouⅠnという女性と結婚し,やがて八人の子供をもうける。 パリに来る前にはヴェニスやフィレンツェにいたこともあるといわれる。イタリア人で. あるところから,パリでの付き合いはイタリア人が多かったものと考えらている。 年にフランスに帰化し,仏名をプロコプ・クトーProcopeCouteauとした。よく貴族. 1684. だといわれるが,かれ自身は貴族ではなく,のち金持になった子孫が貴族になり,国会 議員にもなったところからの誤った推定であろう。54) 1676年に結成された蒸留・清涼飲 料業者distillateurs-1imonadiersのギルト(後述)に加入した。したがってプロコプの 職種は,蒸留飲料業者distillateurである。. 1677,. 1678年のそれぞれ娘の洗礼書類には 蒸留飲料業親方maitre-distillateurと記されているという。55)プロコプの長女の洗礼の 名親はイタリアの貴族で,三番目の娘の時もやはりイタリアのメッシーナの貴族,. 1688. 年のマリー・アンヌという娘の場合はディ・プラトアメーネDon. Papi. Cristofolo. DucadiPratoameneというイタ.リア貴族であったという。. プロコプが,オリエント風のカフェに対してパリ風のカフェ,またフランス人が通っ ていた飲酒中心のキャバレ-や居酒屋(タグェルヌ)に対してコラシオンのカフェとい うように,二重に異なる別範時の公共の施設を着想したのは何に由来するのだろうか。 推測の域を出ないが,プロコプは貴族ではなかったにしても,上流社会の内部で暮らし た,あるいは少なくともそれを親しく見聞きした経験があったためといえないだろうか。.
(12) 144. 岩. 切. 正. 介. ちなみにおよそ一世絶後,パリには新しい公共の飲食施設としてレストランが登場する. が,レストランは従来の居酒屋やキャバレーと違って初めから清潔な優雅さを備えた施 設であった。その模範となったのが,プロコプを祖とする豪華なカフェの系列であっ た。56). プロコプのような店の出現は,. 17世紀の末のフランスの社会がひそかに待っていたも. のだったのであろう。潜在したこの需要がプロコプの店をはやらせたばかりでなく,同 じようなカフェを素早く周辺に誕生させることになった。ドフィーヌ通りではロラン Laurentのカフェが開かれ,急速に有名になり,サン・アンドレ・デ・ザール通りでは, 元路上売り人のエチエンヌが店を開いている(前述)。パリの優雅な中心地(ビュシー 交差点一帯)のカフェに行くことは,上流社会の流行となり,カフェへ行くのはしゃれ ている(i1 6tait). de bon. ton. de. se. rendre. au. caf6という雰囲気と感覚が生まれた。57) パスカルが質素なコーヒー小屋を開いたサン・ジェルマンの市でも,プロコプの店の出 現以降,開かれる店は変身し,粗末な板張りの小さいものから優雅な広間に変わり,大 理石の卓,シャンデリア,鏡,壁掛け布,絵,燭台を備え,銀のコーヒーカップが使わ れた。58)給仕の着る衣装はしかし依然アルメニア風のままでそれがここを訪れるパリの 貴族・上流社会の者people of fashionや文人men of lettersたちの想像を東方に誘っ た。サン・ジェルマンの市の季節にこのような店を開くのは,パリ市内でカフェを営む 者,あるいはコーヒーを扱う商人あったが,同様のことは他の都市で開かれる市でも見 られたという。59). プロコプのカフェの出現に読み取れるものは,アルメニア風からパリ風への変化,レ ヴアント人の客からフランス人の客へ,粗末な作りから優雅で美しい作りへなどの他に, また飲酒と享楽から洗練されたおしゃべりと社交への変化60)などで,単一なものでは ない。このうち最後に挙げた点は,前回も触れたが, 17世紀と18世紀のフランスの精神 を分かっ大きな意味をもっ変化の現れである。酔いから醒めへ,居酒屋からカフェへ。 「プロコフのカフェ(1686)が 18世紀の革命期を生きたメルシェも言っている(1788)。 居酒屋とは別のもう一つの集会所を提供して以来,カフェが増え,その数1800軒に達す るが,この数の多さをみても人々が居酒屋から逃げ出したことがわかる」61)0 17世紀の 文人たちは「飲むために,おしゃべりするために」キャバレーや居酒屋に通った。サン・ アマンSaint-Amant,モリエールMoli6re,ラ・フォンテーヌLaFontaine,ラシーヌ. Racine,シャベルChape11e,ポワローBoileau肯しかりである。62)このような文人たち de la Juiverieにあった が集まったとしそ今に伝えられているのは,ユダヤ人通りrue 松果亭Cabaret. de la Pommeや聖ジャン墓地広場place. du cimeti6re. Saint-Jeanにあっ. た自羊亭LeMoutonblancである.63)目的は,陽気な社交のためばかりではない。霊感 と着想を得るために,である。モタン(1566-1613)の酒歌はこう歌っていた。 私は・. ・. ・居酒屋が大好き! なんと気ままに・ ・振る舞うことか! ●. ●. ●. 酒と賭博こそ地上の楽園 ●. ●. ●.
(13) ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 145. 行きあうだれでもとっっかまえ 踊るはよいが・ ●. ・. ・. ・. ・. ●. 自ぶどう酒が・ 赤ぶどう酒と・. ・. サヴアランBrillat-Savarin(1755-1826)はこれを『美味礼賛』のなかで紹介しながら 「よっぱらい全盛時代のものでさすがに情熱がこもっている」と評している。64) 19世紀 の歴史家ミシュレJules. Michelet. (1798-1874)もいう。. 「ルイ14世紀のパリの若者はキャ. バレーの酒樽の間で姫婦と飲み騒いでいた。溝に寝転がった」。鎚)そこ人力フェが登場 する。酔いの社交場に対して,しらふの社交場である。 18世紀の哲学者たちはカフェに 集まる。フォントネルFontenelle,ディドローDiderot,マルモンテルMarmontel, ダランベールd'Alenbert,ボマルシュBomarchais,ヴォルテールVoltaire。単純化し て言うなら,居酒屋かカフェという分け方は,プロコプ以降,粗野な享楽か洗練された 会話か,感覚的享楽か理性的批判か,保守か革新かといった分け方に対応する側面をも つものになっていく。 6.パリのカフェ模様とコーヒー事情. プロコプの出現の意味はまことに大きいが,パリのカフェがすべてその洗練と機能に おいてプロコプ級のものになったのでもない。質素な,造りの小さいカフェもパリの街 に増えて行き,これはこれでまた市民に多様な便宜を提供していくことになる。ただ, 17世紀の個々のカフェについて文献資料から分かる範囲は限られている。すでに述べた もの以外について,とくにA.フランクランの労作によって紹介しておきたい。叙述は. いくぶんか次の18世紀にもまたがる。 パリ最古のカフェの一つに数えられるカフェ・マリオンCaf6Marionがあったのは, de. オペラ小路Impassedel'Op6ra(右岸。現在のヴァロア通りrue ラ・フォンテーヌは1671年,自作の『アストレ』. Valois)である。. Astr6e初演を逃げ出しここへ来た.. この店に集まるのはとくに音楽家と文学者が多かった。カフェ・マリオンはロランやマ ヌリ(1718年開店)と並ぶ文学カフェであった。詩人・劇作家・哲学者・雄弁家のラモッ トLa Motte-Houdar (1672-1731)も常連の一人で,カフェで得意の逆説を述べ, 「普遍 的精神」として名があった.66)デフオンテーヌGuyot 字典』 1728年第三版(Dictionnaire. n6ologique畠.. 1'usage. Desfontainesは『当代文人新語 des. beaux. esprits. du. sieLcle). にマリオン夫人とラモットと取り巻き連を描いたカフェ点景(版画)を載せるつもりで, 次のような詩句まで考えていたという。いくらか排掩の視点からのものであろうか。 ひもじき老女とへボ詩人たちは. 似た親方に教えを受けた 老女はリキュールに混ぜものをする 客人たちも競って言葉を悪くする67).
(14) 岩. 146. 切. 正. 介. 「最も古 サン・トレノ通りにあった予言者エリのカフェCaf6duPropheJteI∃1ieは, く最も有名で最も美しいカフェの一つで,最上層の仲買人n6gotiansの集まるところ. だった」.68)店の創立が何時かは述べられていない。. 「最も古い」カフェの一つというか. ら多分17世紀なのであろう.サン・トレノ通りrueSaint-Honor6はセーヌ右岸にあり, 当時は高級店と貴族の館がある高級地であった。 カフェ・ド・ラ・レジャンス。開店当初(1681)の名は,パレ・ロワイヤル広場カフェ Caf6delaplaceduPalais-Royalといい,名の通り,セーヌ右岸の王次弟オルレアン 公の館パレ・ロワイヤルの側に開かれ, せてCaf6delaR6genceとなった.69). 1715年摂政時代(1715-1723)の始まりに合わ 18,19世紀を通じてとくにチェスで有名になって. いく。チェスは17,18世紀に才人といわれた人達の多くが噂んだゲームである。 カフェ・ロランCaf6Laurent。. Laurentに. 1690年頃,フランソワ・ロランFranGOis. よって開かれ,ドフィーヌ通りにあった。ドフィーヌ通りがクリスチーヌ通りrue Christineと交わる角であった。当初から文学カフェで, 音楽家,画家,詩人が集まった有名店の一つであった。70). 18世紀にも文学者,哲学者,. 1694年に店主ロランが死に, 1724 未亡人が店を継いだが,夫に比べ文人たちを引き付ける魅力に乏しかったらしく, 年頃には,客の大部分は大理石の卓とシャンデリアのあるカフェ・デュ・パルナス Caf6. du. Parnasseに移って行ったという。71). カフェ料理人Caf6Cuisinier.このカフェは路上のコ-ヒー売り人であったエチエン ヌ(前述)によって開かれたもので,サン・アンドレ・デ・ザール通り(左岸)にあり, シテ島にかかるサン・ミシェル橋に近かった.72). 18世紀には新しい店主オンフロワ. Onfroyの創意と工夫によって大いに栄える。 カフェ・アレクサンドルCaf6Alexandre。サン・ジェルマン・ロクセロワ通り(左. 岸). rue. Saint-Germain-1'Auxerroisにあった質素なカフェ。ただ17世紀からあった店. かどうかは確定できない。73). 支配する臣民の動静にたえず警戒の目を光らせる当局側の特殊な把握では, パリのカフェは,. 「夜も開かれ,盗人や詐欺師,いかがわしい輩gens. d6r6g16sの集まる所,かれらの隠れ場」74)であるとされているが,. 1695年の. malvivants. et. 1700年の「メルキュー. ル・ガラン」紙Merculegalantのいうように「まともな男と女の客honn6tes. gens. de. l'unetl'autresexe」ばかり,というはうがまだしも客観的だったのであろう。客はカ フェのコーヒー,茶,チョコレート,アイスクリーム,リキュール,果物の砂糖煮,軽 い焼き菓子と,それからおしゃべりを求めてやってきた。75) この頃はまた,コーヒーをおいしくいれる工夫もなされ,コーヒーの悟煎器や挽機の 数は急増し,良い製品の考案によって成功を収める者もいた。76) 1691年にはポケットに いれてどこにでも持ち運びができる機器(コーヒーメ-カー)まで宣伝されている。77) これもコーヒーやカフェの普及を窺わせることの一端だといえようか。パリでもまた, リヨンで出版されたコーヒ-の薬効をうたう本(前述)が読まれ,医者たちが健康や治 療のためコーヒーを推奨したことも,コーヒーの飲用を促す要因になったにちがいない. ルイ14世からコンスタンチノープルのスルタンのもとへ派遣された使節ノワンテルDe.
(15) ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 147. Nointelは前述したカディルのコーヒー弁護の書『コ-ヒ-の初めての利用とその後の 発展について』 (1587)の稿本をフランスに持ち帰り,78)東方学者のガランAntoine Galland. (1646-1715)がそれについておよそ70頁の解説文(1699)を書いている。79)東. 方文化や文物への憧れや趣味あるいは収集は,賛沢の観念とも結びついて,. 17世紀の社. 会を彩り-ちなみにガランがオリエント世界の極みともいうべきあの『千夜一夜物 語』を仏訳して紹介するのは1704-11年であるを促したこともまた間違いないだろう。ともあれ,. フランス社会でのコーヒーの定着 17世紀の末にはコーヒーは上流社会. にも確実に浸透したようで,イギリス人の医師リスターMartin 記』 (1698). [仏訳VoyagedeLister豆Parisen. Lister. の『パリ旅行. 1698]は,パリの大邸宅ではリキュ-. ルに加え,ロンドンと同じように紅茶,チョコレートやコーヒーを毎日飲む習慣がある, と述べている。80)あのセゲィニュ侯爵夫人の, 1669年の言葉「作家ラシーヌの流行は; コーヒーの流行と同じように,やがて去り行く」から30年たった17世紀の末,パリのコヒ一事情は反対の趨勢を示していた。 「パリでも,ヨーロッパで普段飲まれるようになっ たコーヒーがさまざまな店で売られて」いた。81)中世から革命までのフランスの食文化 を研究したある本はデザートについて「16世紀から17世紀にかけてデザートの内容はほ とんど変わらず,たいていの場合,食事の後に出されるものは,果物や砂糖漬けや砂糖 煮であった.. 1700年頃になると,冷たいデザートや小さいケーキ,そしてコ-ヒ-やチョ. コレートが流行しはじめた」 (要約)82)と言っているo 1644年初めてフランス(マルセ イユ)に入ったコーヒーは,およそ50年のうちに,フランスの中上階層の間に日常飲料 として定着し,かっまたそのコーヒーを社交の潤滑油として飲ませる施設カフェを出覗 させたといえよう。世紀が変わる1700年,パリにはおよそ300軒前後のカフェがあった 1676年壬令により結成された蒸留・清涼飲料業 のではなかろうか。後に述べるように, 者(かれらがカフェの営業者)のギルドの親方枠は250名であり, 1714年のカフェにつ いてはおよそ300軒といわれているからである。 7.ルイ14世のコーヒー政策. パリのカフェの隆盛は権力の中枢にある王の目にもはっきりと映っていた。国民の動 向に注意を怠らなかった当局者はまず,これは治安にとって危険かどうかという点に着 目した。. 1685年,国務卿Secr6taired'豆tatのセニュレSeigneleyは,王に「パリのい. くつかの場所にコーヒーを飲ませる所があり,あらゆる種類の人間,とくに外国人が集 まっている」,カフェを閉めさせるのが適当ではないか,と具申すると,王は,その当 否を警察長官のラ・レニLaReynieに尋ねるように言った。ラ・レニはパリのカフェ の勢いの目覚ましい様子を見て,これを閉めさせるのは無理と判断したという。83)ルイ 14世の関JL、はカフェに対する治安政策よりもむしろコーヒーから上がる税収の方にあっ たと見るべきだろうか。フランスには1634年以来,蒸留酒製造販売業者distillateurs d'eau-de-vie. et eau-forteのギルドcorporationがあり, 1637年にその規 約が主により承認されていた。84) 1673年,ルイ14世は, (主目的は徴税を確実にするた et vendeurs. めであろう),まだギルドに組織されていない(主に新業種の)業者たちに対し,それ.
(16) 148. 岩. 切. 正. 介. ぞれギルドを形成し,規約を定めることを命じた。この策によってリキュールの販売を していた業者が,蒸留・清涼飲料業者1imonadiers. marchands. d'eau-de-vieの名でギル. ドを形成し,規約は1676年1月28日に王に承認された。そして同年の5月には,この新 しいギルドに旧来の蒸留酒製造販売業者のギルドが併合された。さらにまた,カフェ業 を営んできたアルメニア人,いわゆるcaf6tiersもここに加えられた。三業者を統一し た新しいギルドの親方枠は250名で,. 50エキュで親方権を買い,この代金が王の国庫に. はいった。このギルドに加入した者が扱って良い品物は,ワイン,ワインで作るリキュー ル,酒精,レモネードその他の清涼飲料,アイスクリーム,シャーベット,コーヒーな どと定められた。85)コーヒーの形状は,豆,粉,および液状いずれでもよいとされてい た。86)徒弟の数は一人のみ許され,徒弟の修行期間は三年,ただし親方の子供は徒弟修 行を免除され,また親方の娘と結婚した者は親方資格を得る作品1e. chef-d'oeuvreの制. 作を免除されるとなっていた。ただ,何が一人前の親方になるための試験を意味するか 紘,指示がなかったという。87) このギルド形成の意味は案外大きいのではなかろうか。蒸留酒業者と清涼飲料業者と カフェ業者という三っの業者をひとっにまとめ,客に提供する品物を,リキュール,ワ イン,コーヒー,アイスクリーム,砂糖漬けあるいは砂糖煮の果物などとする新業種 (したがって一部は糖菓業者88)と重なる)を制度的に作り出したからである。プロコプ が作ったカフェも,この制度を基礎にしたものと考えられよう。このギルドの創設は, フランスのカフェの型をその後も規定していくはずである。このギルドの創設は,つま りフランス型カフェ誕生の制度的原点とみなしてよいのであろう。ちなみにこのギルド は,その後,国庫収入を増やそうという王の朝令暮改の策にいささか翻弄され,解散, 営業権購入方式などを経るが,. 1713年,最終的に,当初の形に戻された。89) 王は1692年1月にある王令を出すことになる。コーヒーを専売制度の下に置き,税収. を増やそうと考えたらしい。その前文によれば,. 「コーヒーは,茶,シャーベット,チョ. コレートとともに大層普及し,ほぼワインに取って代わるはどになった。しかも臣民の 大部分の者はこれら四種類の飲み物が健康によいと考えている。目下行われている戦争 の戦費をいささかまかなうため,これらの飲み物に援助を求めるものである」となって いる。この策はもともと王の発案ではなく,パリの市民ダマ-ムFranGOisDamameな る者の申し出に応じて考えられたものである。この専売制によれば,コーヒーは,茶, カカオ(豆),チョコレート(固形製品),ヴァニラなどとともに,その輸入と販売は, 1692年1月1日より向う六年間ダマームが独占し,これらの品の小売りを希望する業者 には,有料の許可証が与えられ,毎年,更新の際に30リーブル支払うことになる。コー ヒ-の小売価格は豆500グラムが4フランで,コーヒーは一杯が3スー6ドニエと定め る。業者は特定日にコーヒーの在庫品を申告することとし,それ以外のものは密輸品と みなされる。ダマームの雇うものは,業者に対し広範な調査と規制の権限を持っ。マル セイユとルーアンを輸入港とする。ただし,海上で略奪されたコーヒーとフランス領の 島々からのコーヒーは他の港に陸揚げしてもよい。穀類,松脂,そら豆を混ぜてはなら ない。混ぜもの違反の場合は,体刑か50リーブルの罰金とする。90).
(17) 149. ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 500グラムにつ この専売制度の結果はどうなったであろうか。まず価格が上昇した0 き27-28ソルだった値段が, 33-40フランになった。次に消費の激減があった。ただし,. 公式には,である。そして密輸が激増した。例えば,ダマームの雇う者が税関で700800kg入りのコーヒー豆の袋を押さえ,これを店へ運ばせた。しかし,当地の修道院に. いるゲィッテンペルク公女が個人用に取り寄せたものだから返すよう要求する。それに しては大変な量だ。公女はコーヒーしか口にしないとでもいうのか。 1692年3月10日付 でリヨンの財務官(税関)が中央に報告した密輸の一例であるという。91)密輸が増えた とはいえ,やはりコーヒーの消費は落ち,値段が最初の高騰から幾分さがったところに 落ち着いたらしい。 500gにつき50ソルという値段が1692年8月19日の国務卿Conseil d'豆tatの裁定書arre^tにみえるという。結局のところ,この専売制は当初の目論み通 1693年5月. りに運用することば難しかった模様で,ダマーム本人の返上申し出により,. に廃止となり,一年と四ケ月を経て,コーヒーの輸入と販売は旧制度に戻った。独占制 の廃止の真には,利権を著しく侵害されたマルセイユの輸入業者の運動のあったことも 十分考えられるという。92)コーヒー豆はフランスには再びマルセイユ港経由のみで輸入 されることになり,マルセイユ港の入口で500gにつき10ソルの納付金(港税)を支払 う従来の制度も復活した。93) (コ-ヒーの輸入はマルセイユ港のみという制度がいっま で続いたか筆者にはまだわからない)。いずれにせよ,コーヒーの輸入と販売の再自由 化によって,コーヒーとカフェの消長は,これを消費する者と利用する者との好みと必 要が決めていく体制になった。94). 参照文献 a.. Ulla. Heise:. New. York,. b.. William. C.. Wolfgang. d.. schichte Alfred dans. Kaffee. H.. Ukers:. der. Paris. e.. Alfred Franeois. g.. Encyclop6die. depuis. Jean mars. i.. k.. Caf6s,. le XIIIe. si6cle,. des. arts,. 2 vol., Marseille.. vie priv由d'autrefois. Dictionnaire du Grand. die Vernunft. und 1983.. Eine. Ge-. exerceJs et professions m6tiers R6impression de 176dition de. Le caf6, 1e th6et le chocolat, Siむ1e. Paris, 1990.. dictionaire. impression. en. des siences, des raisonn6 facsimile de la premiere edition. arts. de. des. et. Paris,. m6tiers,. 175111780.. 1893.. 35. vol.. Stuttgart/Bad. 1966.. Leclant: 1951,. no. Le. bistros. Pompidou-CCI,. (6e. In:Annales. ann6e,. janvier-. 1) Mercier: 1782-1788,. Lepage:. (1644-1693).. caf6 et les caf6s丘Paris. Louis-S6bastien. Auguste. Hildesheim/Zlirich/. 1935.. a.MノBerlin/Wien,. historlque. La. ou. d'Amsterdam j.. Kulturgeschichte.. 1905-1906.. Bluche:. Cannstatt,. Frankfurt. Dictionnaire. Franklin:. Nouvelle. Eine. York, coffee. 2 ed., New Paradies, der Geschmack. about Das. Genuβmittel.. Franklin:. Paris-Leipzlg,. h.. All. Schivelbusch:. f.. Kaffeehaus.. und. 1987.. Les. Tableau Geneve,. de. Paris,. 12vol.. R6impression. de Paris, et litt6raires politiques Expositions itin6rantes CCI compagnie. Paris, 1977.. et. caf6s. de. l'6dition. 1979. 1882. no. :. 4.. Centre. Georges.
(18) 150. 切. 岩. 1.. Ludwig der. Ecker:. 250 Jahre. Kaffeehausbesitzer. Kaffeehauses,. Wiener in Wien. Wien,. 介. 正. (1683-1933).. Kaffeehaus Erinnerung. zur. an. Festschrift. die Gr1王ndung. des des. Gremiums Wiener. ersten. 1933.. m.. Franeois. n.. 『旅人たちの食卓』フィリップ・ジレ著,宇田川悟訳,平凡社1989. 1987. 『ヴェルサイユの春秋』ジャック・ルグロン著,金津誠編訳,白水社, 『楽園・味覚・理性一噂好品の歴史』ヴォルフガング・シヴュルブシュ著,福本義意訳,法 政大学出版局, 1988. 1991. 『味覚の歴史』バーバラ・ウィートン著,辻美樹訳,大修館書店, 『18世紀パリ生活誌』(上下)ルイ-セバスチャン・メルシエ著,原宏編訳,岩波文庫, 『美味礼賛』(上下)ブリア・サヴアラン著,関根秀雄/戸部松実訳,岩波文庫, 1967, 『図説パリ歴史物語』ミシェル・ダンセル著,蔵持不三也編訳,原書房, 1991.. o.. p.. q. r. s.. t.. Jean. u.. Fosca:. Histoire. ThJwenot:. St6phane. des. Voyag・e. Yerasimos.. du. Paris,. de Paris.. cares. Levant.. Paris,. Introduction,. 1934.. choix. de. textes. et. 1989.. notes. de. 1980.. 注 1). a15. 2) h2,b27 3)以上の経過については,主にb28による。 「コーヒーという飲物」の店unmagazinde. h5.によれば,これはまだカフェとは呼ばれず, "1iqueurdecaff6"と表現されている。なお, フランスで最初にコーヒー豆を小売りしかっ飲ませもした(といえば一種のカフェともいえる が,この時代,このような両様の営業をした店は珍しくなかった)店は, 1643年にパリの左岸 のプチ・シャトレ下のアーケードに,失敗に終わったが一人のレヴアント人によって開かれた との伝聞も伝えられている(d,tom.Ⅰ,120)が,資料で証明できない(h5)という。プチ・シャ トレはシテ島を左側からの攻撃から守るため(対岸のセーヌ左岸に設けられた)要塞で,現在 は,プチ・ボン広場になっている。サン・ジャック通りとプチ・ボン橋をっなぐアーケードが この下にあって,両側に狭く暗い店が幾つか開かれていた。. 4). h9-10,. 5). c55 h2.なお,. 6). Die. c54-55. 1986年にこの本が当時のドイツ語訳(1696)の復刻版が出ている。. Curieiuse. Budissin,. 7) 8). b28-29,. Ttactaten. 1686,. den. von. Neudruck. Trancke. Cafe,. Leipzig/Mdnchen. sinesischen 1986.. The,. und. der. Chocolate,. h2. d,tom,Ⅰ,277.左の文献によれば,当時,薬種商は,食品商6picierと同じギルドに属し, 通常扱っていた商品は,肉柱, 1'eauforte,ブ血 砂糖,塩,蒸留酒(火酒),ジャム,吐ヲ軌 鎮痛剤,批素,センナ,石鹸,染料,干ぶどう,千アンズ等で,デザート頬の販売者という性 格もあわせてもっていた。. 9). h12. 10) ll). a38. 12). 13) 14). 15) 16) 17) 18). u78-80, h2-3. h2,. b27-28,. n220-221. e163-164 b87 h3 f210: h3 h3. "En. 1662163,. des. Arm6niens. en. vendaient丘Paris.".
(19) 151. ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 19) 20). h3. 21). c26, h4. 22) 23). b87. o39.. p20. 17世紀末の状況を語るものと理解してもおか. 1709年の時点の記述と受け取られるが,. しくない。. 24). h9-10. 25). hlO. 26) 27) 28). hlO,. 29). b5,. 30) 31) 32) 33) 34) 35) 36). h5,. a93, b88,. h5,. b88-89. h4,. e59 b470. g,tom,Ⅰ,695 112,. q148. 112. b89 a92-93 b88 (1672-1689のパリの路上売り人の図版), h5-6, h6,. q149,. r上60. b89. d, tom. ⅠⅠ, 792-771には, 16世紀以来パリで毎日人々が耳にしていた物売りの声129種が紹介 されている。野菜,果物類,水,ぶどう酒,堤,ニュースシート(瓦版),あるいは櫛など。 235, 238 路上の売り人は,いわゆるまた売りであった。 d,tom.Ⅰ,278も参照。またr上233, など。. 37) 38). d,tom.Ⅰ,120 h6. 39) b89 40) h6-7.以下プロコプの主な経歴もこの論文による。 b7, alO2, m8, 10, 41)内装や調度については, q150を参照。 42)リキュ-ルについては, n175,d,tom.II,437-438,F120などを参照.フランスでは17世紀 の後半に果物を原料とする蒸留酒(火酒)の製造技術が進み,生産量も増え(モンペリエやロ レーヌ地方の工場は有名になった),とりわけ北欧に輸出するようになった。蒸留酒に薬番種 のエッセンスを溶かした美味と香の薬(と観念されていた)リキュール類もしきりとさまざま に工夫創製されようになり,先進国のイタリアに近づいた。なかでも人気を得たのがロソリと ポピエロであった。したがってプロコプの店で出されたロソリもポピュロもプロコプの創製し たものではないが,独特の工夫が凝らしてあったのだろう。ルイ14世はファゴンFagonなる 者の調製するロソリを飲んでいた。アニス,ウイキョウ,コエンドロ,カラウェのそれぞれの 種子の粉等量を3週間ガラス容器に密封して液に浸し,アルコール,カミツレ水,砂糖を加え, 紙で漉して出来上がったという。普通,人々はこれを正餐(ディネ)の後に飲んだらしい。 1666年,ある神父が, 「正餐の後でみんなでロソリを少量飲んだ。当時はまだコーヒーもチ≡ コレートも知られず,茶がぼつぼつ飲まれ始めた頃だったので」と語っている。 なお, 1741年だが,サヴァリ編の『商業事典』 Savary, Dictionnaire du 表的なリキュールが紹介されている。 L'eau. de Cette. -d'anis. L'eau. -. -. de franglpane. -. ang61ique. -. clairette de c61eri. -. de fenouillette. -. -. -de. de cannelle de coriandre de genievre de. citronnelle de mille fleurs devine caf6. commerceに代.
(20) 岩. 152. 切. 正. 介. h7-8, m8, 10, 11など参照。 43)プロコプが提供した飲食物については, 44)フランスでは, 1673年清涼飲料業者1imonadierのギルドができたとき,糖菓業者confiseur と競合してアイスクリームを扱ってよいとされ,以後アイスクリームは両業者(glacierとconfiseur)の工夫で1000種はども作られるようになった。 1782年だが, 『製造百科』L'豆ncyclop6die m6thodiqueは約100種を紹介している。 45) d,tom.Ⅰ,364. 46). r下339-340. 47). h8. 48) 49). b8. d, tom.. Ⅰ,365-366参照。. d,tom.Ⅰ,35.剣術師は20名のギルドを作っており,一部は貴族に叙せられていた.王も剣 術師から手はどきを受けた。剣術師ははぼ全員ソルポンヌ大学近辺とフォプール・サン・ジェ ルマンに住みそこに道場を開いていた.したがってビュシー交差点付近には剣を使う者の姿が 多く見られた。. 50) 51). h8. 52). h8. 53). h8. 54) 55) 56) 57). h7-8. h8. h7 h7. 「ノーブル・ t.下13-14によれば,この交差点よりいくらか西へいった所は, フォプール」 (貴族の村)と呼ばれたサン・ジェルマン・デ・プレで,貴族や上流ブルジョワ の邸館が並んでいた。バック通り,ヴアランヌ通り,アンヴァリド(廃兵院),セーヌ川に囲 h9.ちなみに,. まれた一帯である。 58). h9,b89. 59) 60) 61) 62) 63) 64). b89. s下247-250. 65). k6,b95. 66) 67) 68). f824. 69). e293. 70) 71) 72) 73) 74). e279. h1 i,tom.XII,297 h1. j16-17. e283 e292. e280 e271 e259 a,tom.Ⅰ,120.. 1695年の警察令(2月)はすべてのカフェが夜も開いているのに対し,取り 締まりあるいは警戒を要するものとして,冬は5時に,夏は9時に閉店するよう命じた。カフェ 側の要求で,同年10月には,閉店時間が,それぞれ1時間延び,冬は6時,夏は10時と改めら れ, 1704年には,冬は10時,夏は11時となった.カフェ全体の風紀がひとまず改善されたのも. 一因だろうか。. 75) 76) 77). f211 q127, b471. 151.
(21) 153. ブルボン王朝下のコーヒーとカフェールイ14世の時代. 78) 79) 80) 81). b661-662 b8,27 n29,219. a17.パリの1694年のコーヒーの販売状況についてベーター・ポメート『正直な海外物産商 Der aufrichtige Materialist と香辛料商』(1717ライプチヒ刊) Peter Pomet, und Specery1717,は, "undin Paris derselbige inunterschiedH盆ndler, Leipzig 870頁(段)で, wird 1ichenL盆denverkaufft"と述べている。唆味な言い方なので,正確なことは分からない. derselbigeは,またコーヒ(飲物)とも取れる。あるいは,コーヒー(豆と粉と液体)とも 取れる。 untershiedliche L左denも,薬種南,香辛料商あるいは海外物産商の店舗とも,また カフェとも,あるいはこれらすべてとも取れる。. 82). q169-171. 83) 84). h9. 85). d,tom.. d,tom.Ⅰ,265,e192 Ⅰ,120-121,. 265, tom.. II,4341435,. e196-200.. d,tom.. ⅠⅠ,434-435によれば,ギルド. の規約2,3,4条で扱ってよい(小売りしてよい)と定める製品1es. produits. d'Espagne,. muscats,. qu'ils 6taient vins de Saint-. vim vins et tous viュs de liqueurs, rossoly, populo, vins de la Malvoisie de ge16es, de limonades eaux et parfumeles, esprit de Yin, toutes ambreJes glaces fruits et de fleurs, eaux d'anis, de cannelle, de franchipane, de cadre, algre sorbecs,. autoris6s豆d6biterは次のものである。 Laurens. et la Cioutat,. caf6, cerises,. framboises,. ラクランの注によればeaux. noix de. ge16esとはeaux. faite aigre de cedreとはboisson de de boisson compos6e citrons, 86) h7. 87) e201-202 88)糖菓業者confise11rについては,. fruits. et autres. avec mus°,. d, tom.. des. con. fits, drag6es. glac6s. c6drats d'ambre. de. et des. en. detail.なお,著者フ de. fraises, cerises, limons,さらにsorbecsとは. etcで,. et de sucreとのこと。. Ⅰ,194,. e197を参照。果物の砂糖煮,砂糖漬け, ジャム,シロップ,糖衣果物と実,乾燥(千)果物の他に,ゴーフル,マスパン,メレンゲな どの焼き菓子,各種ドロップ,チョコレート,アイスクリー_ム,シャーベット,クリーム,ムー スなど多数(1777年)を製造販売した。なお,クリームのなかには,チョコレート風,茶風や コーヒー風もあった.またシャーベットには,レモン,オレンジ,ぶどう,コーヒー,バラ,. もも,あんず,プラム,なでしこ(の一種)など各種があった。 89). d,tom.ⅠⅠ,434-435. 90) 91). hlO-ll,. 92). hl1. 93) 94). h12. d,tom.Ⅰ,. 119. hl1. d,tom.Ⅰ,119,フランスでは1723年にもう一度コーヒーの輸入と販売(卸・小売)に独占の 制度が導入される。独占権(王国内の輸送も含む)を与えられたのは東インド会社compagnie deslndesで,目的は,この国策会社を破産から救うことにあった。輸入港をマルセイユだけ と定め,コーヒーは会社の封印のついた1000gまたは750g入りの袋を会社の店舗(事務所)だ けで売ることにした。社員には,業者の店舗,倉庫,私人の邸館,城などを調査する権限が与 えられ,違反者(販売・保有)には高額の罰金またはガレー船漕ぎが課せられた.女子供には, 鞭打ちと5年の所払いが定められた。しかし,制度の維持・運営に費用がかかり,利益を上回 るため,まもなく廃止された。.
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