• 検索結果がありません。

梅根悟の障害児教育理論の影響と相克 ―1970年代障害児教育義務制をめぐって― [ PDF

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "梅根悟の障害児教育理論の影響と相克 ―1970年代障害児教育義務制をめぐって― [ PDF"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1.目次 序章 課題と研究の視点、本論文の構成 第一章 梅根悟の障害児教育論が日教組の教研・実践に 与えた波紋 第二章 「実現する会」での梅根悟の言動及び姿勢の変 化による影響 第三章 梅根の共同教育論が教育実践へ及ぼした影響 第四章 共同教育の変容とそれが養護学校義務制に果たし た役割 第五章 田中内閣による養護学校義務制の政策化 終章 まとめと今後の課題 2. 概要 〈序章〉本論文は、1970 年代の障害児教育義務制をめぐ る梅根悟の障害児教育理論の変遷を明らかにしそれが障 害児教育実践に与えた影響と、梅根悟の障害児教育理論 が実践に移行する段階で抱え込んだ相克を明らかにする ことを課題とした。先行研究では 1960 年代後半から 1970 年代の障害児教育史は 1967 年結成の全国障害者教 育研究会(略称「全障研」) の研究者の執筆者によって書 かれたものが多く、全障研運動の沿革史をそのままスラ イドさせて1970 年代の障害児教育全体の障害児教育史 と誤認したものが主であることを筆者は指摘した。梅根 悟の障害児教育論の影響と相克を明らかにすることは、 そのような1970 年代の障害児教育史を見直すことにつ ながるものである。 〈第一章〉本章では1971 年に梅根悟が日教組教育制度 検討委員会(以後「制度検討委」と記す)の会長となり、 日本の教育制度改革案を1974 年まで年に一回のペース で報告していった制度検討委員会総会の論議を『教育制 度検討委員会速記録』から分析した。梅根は初めから、 盲・聾・養護学校における義務制に批判的なのではなかっ た。転機になったのは1971 年 3 月に埼玉県立浦和高校が 松葉杖を使用している大西赤人の入学を拒否した事件の 不当性を訴える「大西問題を契機とし障害者の教育権を 実現する会」(以後「実現する会」と記す)結成を呼びか ける集会の呼びかけ人を引き受けたことであった。この 大西問題との関わりがきっかけとなり、その後の梅根の 障害児教育論が、盲・聾・養護学校への就学よりも、普 通学級で障害児と健常児がともに学ぶ必要性を説く共同 教育論へと梅根悟は障害児教育の方向性を変えていった。 制度検討委第 11 回総会で本格的に障害児教育を検討 する時、初回から梅根悟と清水寛の間の、意見の相違と なって表れていった。清水の原案は「盲・聾・養護学校 の増設・言語障害児教育、情緒障害児のための学級は積 極的に増設」「視覚障害児は盲学校で、聴覚障害児は、ろ う学校で教育を保障」という「障害別の独立の学校・学 級」を作っていくことを教育改革の方向性として主張し た。それに対して、梅根悟は「当面課題としては」障害 種別の学校・学級もやむを得ないが、基本的に障害児は 「普通学級で普通児と一緒に生活をし、学習をするとい うことが可能な限り、そういう方針でいくほうがいいん じゃないか」と、普通学級で学ぶ必要性を主張している。 清水寛が普通学級にいる障害児に注意をはらわなかった こととは対照的に、ここで梅根は一時的な交流などでは なく「普通学級で普通児と一緒に生活をし、学習をする」 という、どんな学級・学校に在籍するのかについての、 在籍のあり方について言及していることは注目すべきこ とである。このように梅根悟は、障害児と普通児が同じ 学級や学校で共に学び学校生活を過ごす共同教育を中心 とした障害児教育論を日教組の中で初めて提起した。そ して、梅根悟の共同教育論は日教組の組合員に大きな影 響を与え、普通学級で障害児と普通児とが共に学び・共 に学校生活や地域生活をしていく発想と実践の根拠を与 えた。各地で梅根悟の共同教育の教育実践が試行・実施 されていった。しかし、それが日教組の障害児教育分科 会に「混乱」と対立という波紋をもたらした。養護学校・ 特殊学級増設による障害児教育完全義務制を主張してい た清水達全障研の講師団及び教師は、大きな危機感を持 った。だが、これは逆の見方をすればそれだけ大きな影 響を与えことの証左にもなるのである。しかしこの時の 日教組は、社会党左派(社会主義協会系)、社会党右派(反 協会系)、共産党系の三派閥があり、日教組内部で常に勢 力争いをしているという状況だった。梅根悟が提起した共同 教育論は、組合員にとって新鮮なインパクトを与えたが、そ れが一つの原因となり日教組内部対立の激化あるいは分裂 の危機を危惧するものとなった。梅根たちが日教組へ制度

梅根悟の障害児教育理論の影響と相克

1970 年代障害児教育義務制をめぐって

― キーワード:就学猶予・免除、養護学校義務化、共同教育、統合教育、交流教育 教育システム専攻 久米 祐子

(2)

検討委の最終報告を出す時期(1974年)に、日教組では障 害児教育だけではなく同和教育その他についても、同じ日 教組内部での対立・分裂に発展していきかねない状況が生 じていた。そこで、梅根は日教組の分裂を回避するために最 終報告では、梅根の主張した共同教育を清水が解釈した交 流教育の延長としての「共同教育」の、どちらともとれる微妙 な表現に「調整」せざるをえなかった。 〈第二章〉「実現する会」での梅根の障害児者教育につい ての言動を「実現する会」の機関紙『人権と教育』など から分析した。梅根は、「実現する会」が普通学級での障 害児教育だけを進める団体とならないよう、養護学校に 在籍する障害児者を否定することは「現実にそわない」 と言い、養護学校か特殊学級か普通学級に入学するのか は、障害児本人の代理としての保護者の希望を優先して 学校選択していくという学校選択権を主張していく団体 となるように舵取り役をしていた。また、「実現する会」 で取り上げられた国立・私立大学の障害者へ門戸開放運 動は、梅根悟の影響を受けてかなりの前進をみた。「実現 する会」は、第一に養護学校・特殊学級における義務制 でもなく、普通学級における障害児教育だけを主張する 団体でもない、保護者の選択権を最優先として普通学 級・特殊学級・養護学校への完全就学を目的とする第三 の団体となっていき、それを主導したのは梅根であった。 〈第三章〉大阪府豊中市教組の史料を分析して、梅根悟 の障害児者教育論が具体的な障害児者教育実践に与えた 影響を考察した。まず、豊中市教職員組合定期大会の議案 書を見ていくと、1972 年の定期大会では障害児教育の項目 には、養護学校設置の運動をすすめること等要求項目があ がっていたが、翌年の定期大会の議案書には、「障害児の 発達保障は隔離された養護(特殊)学級ではなし得ない」とい う理由から「普通学級へもどして教育するとりくみも行われて いる」と述べられており、一年の間に大きな方針転換があっ たことがわかった。そして、1973 年の豊中市教研の基調には 「すべての子どもたちの全面発達をめざす普通教育の目 的は、さまざまな個性(「能力」や障害をふくめて)をも った子どもたちがさまざまな人間関係を集団の中でつく りあげていく過程で実現されていくべきものである。」と いう梅根悟が主張して作成された文章にあたる部分を引 用して、重度の身体障害児のための「ひろがり学級」設 置とその子どもたちの変化を「制度検討委員会の第二次 報告(筆者注、の正しさ)を裏付けている」ものである と結論づけている。豊中市教組は障害児者教育について、 制度検討委第二次報告の、梅根悟が主張した共同教育の 部分を「制度検討委員会第二次報告」として受け取って いた。さらに、1974 年度の方針でいう共同教育とは梅根 悟が主張した普通学級をベースにした障害児教育が採用 されていた。そして、清水が主張した交流を中心とした 部分はきれいに削りとられていることが特徴的である。 次に、教育実践から豊中市教組で取りくまれた共同教 育の内容の特徴を吟味した。豊中市教組では就学猶予・ 免除児をなくし、全ての障害児者に教育を行うために、 不就学児の家庭訪問を実施したり、京都府立与謝の海養 護学校の青木嗣夫副校長の講演会を豊中市教育委員会と 共に実施したりした。その中から校区の学校へ子どもを 通わせたいという保護者の願いが出てきて、それが内側 の要因となって1973年度の前記共同教育への方針転 換が行われた。 まず「不就学児親の会」と豊中市教組との共同で、就学猶 予・免除の一斉取り下げ行動を1973年 3 月に行った。次に 「不就学児親の会」・豊中市教組が共同で豊中市教育委員 会・豊中市助役との数度にわたる交渉をした結果、1973年 度に豊中市内の不就学児33名全員を入学させるために、 重度学級をまず四つの小学校に4学級・4学級、3学級という ように二年間の間に設置させ、また在宅のまま義務教育年 齢をすぎた生徒についても本年度入級し、教育を保障する ことを認めさせた。教師の配置については重度児の場合、 二対一の人員確保を実現させた。そして34名の児童に対し 11学級の重度学級(「ひろがり学級」とよばれた)を実現させ た。この割合は3~4名の障害児の在籍があれば各学校に 特殊学級を設置するという前例になっていった。 この頃の特徴は、昭和30年ごろから大阪府では過 密学級・学校の問題を緩和するために、特殊学級の児 童・生徒にも普通学級籍があったことである。「ひろ がり学級」の児童も普通学級にも籍があり、できるだ け普通学級で過ごし、その子どもの障害の必要に応じ て「ひろがり学級」で学習していた。そして、197 3年度から始まった豊中市の障害児者教育の共同教 育は、校区の子どもの校区での教育権保障運動へと発 展していった。それは、各小学校区に居住する障害児 者はどんなに障害が重く重複していても、校区の小・ 中学校で学習することができるという教育運動であ った。この当時の豊中市教組は、養護学級(筆者注、大阪 府では特殊学級を養護学級と呼んでいた)と普通学級とは、 どちらかを選択すべきものではなく、どちらにも当たり前に学 籍があるから両方の良い所をいかにうまく取り入れるのかが 豊中市教組の障害児教育の課題の一つであった。 豊中市立緑地小学校では、「障害児に配慮が必要なの で」一名の専科教師が配置されてきたことと、他に「一 名、「障」担を決め」て、二学期からの推進役になっても らおうと話し合って、二学期から校内操作で「障」担(筆

(3)

者注、「障害」児学級担任の略称)が決められた。その「障」 担の動きは、「国・算・体は一年生の介助(入り込み)10時 間、2年生の体育介助(入り込み)3時間、理科4年生9時間 専科として教える、水曜日は他校訪問をするためにあけた。 主には 中豊島小と南桜塚小を訪問して、(筆者注、本校居 住区の)子どもとかかわった。」と記されており、普通学級へ 入りこんで障害児の学習支援や介助をするが、理科の専科 授業を行うなど障害児だけに関わる担任ではないことや、他 校訪問をして本校に戻していく下準備などもしていることが 特徴であった。 このように、「障」担とは特殊学級への取 り出し授業を主にするものではなく、各障害児の必要性 に応じて、学習支援や介助に普通学級へ出向き(これを 「入り込み」と呼んでいた)支援したり、あるいは学校 の状況に応じて専科の授業を担当したり、他校に通って いる障害児のところへ学校訪問してかかわり、本校へも どって来る下準備をするなど、計画を細かく組んで学校 や児童の必要に応じた動きを行っていた。以上のような 細心の配慮と計画のもとで、豊中市教組の原学級保障(普 通学級での学習及び生活保障)が実施されていた。そし て、「ひろがり学級」の重度の子どもたちは、居住校区の 学校へもどっていったのである。中学校でも同様のとり くみがなされていた。但し、障害のとらえ方は学校で様々 であり、豊中市立第八中学校の場合は「つまづき」とと らえられ、障害児ばかりでなく学習不振や非行などもつ まづきの一形態ととらえられていた。そして、「障」担の 動きとしては、生徒の「つまづき」の状況に応じて「教 科入り込み促進」という複数担任授業をしたり、原学級 に専属副担任をつけたり、あるいは養護学級における指 導を教科によって実施するなど、いろいろなパターンで 実践されていた。 このように大阪府豊中市教組は、二重学籍を活用した 普通学級で障害児へのきめ細かな配慮を可能とした教育 へと発展した実践を生み出した。それは梅根の予想もし なかった教育方法・教育内容であったかもしれないが、 梅根悟の提起した共同教育を根拠としていたことは明ら かであり、影響の一つのあらわれであった。 〈第四章〉第一節では清水寛をはじめとした全障研の教 育者・研究者たちがどのように梅根の障害児教育理論を 変容させながら自分達のものとしていったのか、その経 過を分析した。さらに第二節では、全障研・障全協と日 本共産党との関係を筆者が実施した聞き取り調査から分 析し、明らかにした。彼等の主張する養護学校及び特殊 学級における義務化は、梅根の障害児教育論の影響を受 けた人々から反対されはじめ、反対の根拠となった梅根 の障害児教育論、特に共同教育論を尐しずつ変形し、共 同教育の発祥は梅根ではなく日教組教研障害児教育分科 会の交流実践の積み上げの中にあったと、梅根悟の共同 教育の提起とその内容を消し去った。そして、梅根悟の 論文をたくみに引用しながら、所々の文を削って自分に 都合のいい言葉や文に入れ替えたりしながら変えていき、 あたかも「共同教育」は障害児学級・学校と健体児学級・ 学校との交流に、地域交流を加えたものという内容に換 骨奪胎した。そして、共同教育とは交流教育と同義語で あるという印象を、清水の文章を読む人々に与えていく ことに成功した。ここでは梅根悟の障害児者教育の提起 や論文は、徹底的に利用されていった。 そして、清水たち全障研は日本共産党内でも養護学校 建設が選挙で勝利をもたらす「集票の手駒」であり、党 勢拡大にも力を発揮するものだ、という認識を持たせて、 全障研の主張を日本共産党の政策として取り入れさせる ことに成功した。こうして日本共産党は、養護学校及び 特殊学級における義務化を党政策とするようになった。 しかし、養護学校義務化反対を主張する全国青い芝の 会などの団体との対立が激しくなり、養護学校教育では 社会性が養われないことなどを指摘されて、それに対し て清水寛が改ざんしていった「共同教育」論をクローズ アップせざるを得なくなっていった。 日本共産党の役割について与謝の海養護学校建設の 聞き取り調査と『全障研三十年史』及び『赤旗』縮刷版 などをつき合わせた結果、障害児の保護者戸田晋氏と青 木嗣夫先生の動きを整理すると次のような日本共産党員 二人の役割がわかった。戸田氏は、保護者の一人として 宮津の親の会で一般の保護者を前面に立てながら、実質 的には書記長の役割をして京都府庁への陳情の段取りを つける等の働きを行った。宮津の親の会は全障研京都支 部結成研究集会の時には「宮津障害児者を守る連絡会」 になっており、後の一支部になっていった。つまり保護 者が多い団体である障全協宮津支部の書記長の役割が戸 田氏。そして教師・研究者を主とする全障研京都支部の 書記局の役割が青木先生である。どちらの団体にも「一 般大衆」が多数参加していたが、それを戸田氏や青木先 生たち日本共産党員が協力して「正しい方向へ」導いて いく役割をしていた。 〈第五章〉国会議事録などから田中内閣の障害児教育政 策を分析した。1971 年までの行政・文部省の方針は精神 薄弱児の8割が普通学級に在籍していた現実を踏まえて、 障害の段階別に障害児を普通学級・特殊学級・養護学校 へ就学させることによって障害児教育義務制を進める方 針だった。養護学校建設推進についは道府県の財政難に より予算を計上しても道府県は建設することに積極的で

(4)

はなかった。それが田中角栄内閣よって方針転換した。 政権をとる前から田中とそのブレーン達は「重度障害者 の完全収容」という政策構想を持っていた。1972 年に政 権をとった田中内閣が障害児者政策に手をつけ始めた時 に、養護学校には寄宿舎があることを利用して「重度障 害者の完全収容」という政策構想実現の手立てに使える ことがわかってきた。 ここに、自由民主党田中内閣と日本共産党が、期せず して障害児者政策については一致した。田中内閣は1973 年 11 月に「養護学校義務化の政令」を閣議決定して公 布した。田中内閣は養護学校建設費の国庫負担率を1/ 3から1/2に引き上げる財政措置をした上で、養護学 校義務化の政令を出した。この時、養護学校建設は田中 内閣が政策としていた「公益優先の公共工事」となって 建設されていった。養護学校建設のために、在籍児童・ 生徒の確保が必要なので「適正就学指導委員会」の設置 予算も計上され、通達によって都道府県や各市町村へ設 置されていった。 このようにして障害児は盲・聾・養護学校及び特殊学 級へ集められていくシステムができていった。就学猶 予・免除規定も学校教育法に残り毎年就学猶予・免除の 子どもを2.000~3.000 人出していく制度となった。 〈終章〉梅根悟は最後まで不就学児がいなくなることを 考えて、「実現する会」の講演の中でも養護学校建設にお もてだった反対をすることを諌めて、養護学校義務化は 障害児が「養護学校にかならず行かなければならない、 という意味の義務制ではない、そうではなくて、そうい う子どもが盲学校なり、聾学校なり、養護学校に入りた い(入れたい)と思ったとき、その人たちをみんな収容 できるだけの学校を用意する義務が国や都道府県にはあ る」のだと、説得していた梅根悟は、ものの見事に期待 を裏切られていた。梅根の没後から見ると、見方によっ ては、養護学校義務化に対する保護者や障害児者たちの 不満をそらす役割を演じさせられたことにもなる。また、 梅根悟は自分が障害児者の共同教育を提起したことがき っかけで起こった対立や分裂しかねない状況に対して、 その都度何とか関係修復の手立てを打ったり、共同教育 に至る段取りをゆるやかにするように考えて説得したり して、奔走した。だが、結果的にはそれらの勢力や行政 から利用されたり期待を裏切られたりするなど翻弄され ていった。 しかし、梅根悟が1970 年代はじめに、障害児者と普 通児者が一緒に学び生活する地域の学級・学校という共 同教育の考えを日教組教育制度検討委員会に提起したこ との意義は大きい。それを聞いたり読んだりした日教組 組合員たちによって、障害児者が地域で共に学び・共に 生活し・育っていくという考え方が受けとめられ、日本 各地域の障害児者教育実践が生まれた。 梅根悟は、共同教育論という大きな石を日本の障害児 教育という湖面に投げた。そして、それによって広がっ た日教組教研に現れたような波紋によって、障害児教育 界という湖中の水全体を振動させてかき混ぜ、いたる所 に従来の特殊教育への疑問の声を水しぶきのようにあげ させた。一方その反動で跳ね返った波のように清水寛な どの全障研は「共同教育」の内容を交流教育への延長へ と改変しそれを養護学校が隔離ではないという理由のた めに強調する跳ね返り等をひき起こしたりした。このよ うに梅根悟は共同教育を中心とする障害児教育論によっ て「隔離した専門的学校・学級の建設推進」に傾いてい た障害児教育そのものを揺り動かした。その振動という 影響の中から「共生・共学」「校区保障」などの日本各地 の統合教育が誕生していったのである。いわば梅根悟は そのための産婆の役割を果たしたのであった。 3.主要引用文献 ・『教育制度検討委員会総会製本速記録』日教組教育 制度検討委員会 第2 回総会-第 30 回総会 ・ 機関紙『人権と教育』障害者の教育権を実現する 会1972 年 1 月 20 号-1980 年 12 月 20 号 ・『定期大会 運動方針(案)』豊中市教職員組合 1972-1986 年 ・『緑地小学校「障害」児教育のあゆみ』1980 年 ・『障害児教育のあゆみ1979』 豊中市立第八中学校養 護教育委員会 ・『全障研三十年史』 全国障害者問題研究会出版部発行 1997 年刊 ・ 『講座 日本の教育8 障害者教育』 新日本出版社 1976 年刊 執筆者代表 田中昌人・清水寛・加藤直 樹 ・新聞『赤旗』縮刷版 1965 年-1979 年 ・『京都府立与謝の海養護学校建設運動についての聞き取 り調査』概要を本修士論文巻末238-245 頁に添付 ・『よさのうみ』創刊号-第 5 号 1970 年-1972 年刊 京都府立与謝の海養護学校編集発行 ・『国民への提言 *私の十大政策*』田中角栄著 ・国立国会図書館国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_logo ut.cgi?SESSION=23178 4.主要参考文献 ・『増補新版 中教審と教育改革』 横浜国立大学現代 教育研究所編 三一書房 1983 年刊

参照

関連したドキュメント

わが国の障害者雇用制度は、1960(昭和 35)年に身体障害者を対象とした「身体障害

在宅の病児や 自宅など病院・療育施設以 通年 病児や障 在宅の病児や 障害児に遊び 外で療養している病児や障 (月2回程度) 害児の自

平成 支援法 へのき 制度改 ービス 児支援 供する 対する 環境整 設等が ービス また 及び市 類ごと 義務付 計画的 の見込 く障害 障害児 な量の るよう

委 員:重症心身障害児の実数は、なかなか統計が取れないという特徴があり ます。理由として、出生後

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

歴史的にはニュージーランドの災害対応は自然災害から軍事目的のための Civil Defence 要素を含めたものに転換され、さらに自然災害対策に再度転換がなされるといった背景が

行ない難いことを当然予想している制度であり︑

となってしまうが故に︑