印度學佛敎學硏究第六十六巻第一号 平成二十九年十二月
中世禅林における菖蒲茶
︱
宋朝禅文化の復元的考察
︱
舘
隆
志
一
はじめに
本論では、鎌倉・南北朝期の禅林で、端午に際して行なわ れた菖蒲茶を飲むという習俗を、諸史料を通して解明するこ とで、中世の禅林における修行生活の一端を復元的に考察す ることを目指したい。あわせて、中世禅林文化の受容過程の 一端を明らかにしたい。 端 午 は 五 月 五 日 の 節 供 で あ り、 中 国 を 由 来 と す る も の で、 唐代には、屈原が汨羅で身を投じた日とし、粽を水中になげ て 祭 り 厄 を 祓 う 日 と 解 さ れ た。 そ の 後、 端 午 で は、 粽 を 食 べ、魔除けの札を書き、菖蒲を使い、蘭湯の沐浴などで邪気 を祓らうようになっ た 1 。端午の諸行事は、中国で禅林に流入 し、端午上堂、粽、菖蒲茶は、北宋代から端午の行事として 語 録 や 灯 史 に 登 場 す る よ う に な る。 そ し て、 徐 々 に 広 ま り、 元 代 の﹃勅 修 百 丈 清 規﹄ 巻 七﹁月 分 須 知﹂ に、 ﹁五 月、 端 午 日早晨、知事僧堂内焼香点菖蒲茶﹂ ︵大正四八・一一五五 a︶ と、 清規に端午上堂と菖蒲茶が記されている。 端午の民間習俗は、奈良時代以前から日本に導入され、粽 に つ い て は 平 安 中 期 頃 に は 仏 教 寺 院 で す で に 食 さ れ て い る が、鎌倉時代になると、入宋僧、渡来僧による禅の将来とと もに再び日本に輸入されることとなった。 そ れ ら 日 本 の 禅 林 に 導 入 さ れ た 端 午 で は、 上 堂 を 行 な い、 粽 を 食 べ、 菖 蒲 茶 を 飲 む こ と が 行 な わ れ た。 端 午 の 上 堂 は、 鎌 倉 中 期 の 道 元 ︵一 二 〇 〇 ︱ 一 二 五 三︶ や 蘭 渓 道 隆 ︵一 二 一 三 ︱ 一 二 七 八︶ の 語 録 に は す で に 見 ら れ、 早 い 時 期 か ら 日 本 に 導 入 さ れ て 根 付 い た よ う で あ り、 道 元 下 四 世 の 瑩 山 紹 瑾 ︵一 二 六 四 ︱ 一 三 二 五︶ は、 ﹃瑩 山 清 規﹄ 巻 下 に、 ﹁五 月 五 日、 称 端 午。 上 堂。 庫 下 若 有 点 心、 或 粽 等﹂ ︵大 正 八 二・ 四 四 五 b︶ と記しており、端午に上堂を行ない、点心、あるいは粽を食 べることを清規に記している。このように日本に導入された 端午の行事の一つが菖蒲茶である。 一 方、 鎌 倉 時 代 に 宋 代 仏 教 を 日 本 に 伝 え た 律 宗 に お い て中世禅林における菖蒲茶︵舘︶ は、 平 安 中 期 以 降 の 日 本 の 仏 教 寺 院 に 入 っ て い た 粽 を 除 い て、 端 午 の 民 間 習 俗 も、 菖 蒲 茶 も 伝 え ら れ た 記 録 が 残 ら な い。 す な わ ち、 禅 林 に お け る 端 午 や 菖 蒲 茶 の 受 容 の 解 明 は、 文化的な側面のみにとどまらず、日本における禅宗の独自性 の一端を明らかにすることに繋がるものと考える。 本論では、上記の観点を踏まえつつ、宋代禅林文化として 鎌倉時代に日本に輸入された菖蒲茶について、その受容と伝 承を考察する。さらに、諸史料を通して、失われた菖蒲茶の 習俗について復元的に考察するものである。
二
菖蒲茶について
端午の習俗として、菖蒲を用いたものが知られるが、その うちの菖蒲酒は、六世紀の﹃荊楚歳時記﹄にも﹁以菖蒲或鏤 或 以 泛 酒﹂ と 見 ら れ る ほ ど そ の 起 源 は 古 い。 菖 蒲 を 鏤 み 2 、 あるいは として酒に浮かべて飲むのである。また、十二世 紀 の 福 州 ︵福 建 省︶ の 地 誌 で あ る﹃淳 熙 三 山 志﹄ 巻 四 十﹁土 俗類・歳時﹂ ﹁端午﹂の﹁角黍﹂には、 ﹁旧俗婦礼、是日、上 続 寿 衣 服・ 鞋 履・ 団 糉・ 扇 子・ 菖 蒲 酒。 今 鮮 行 之﹂ と あ る。 端午に続寿として菖蒲酒が飲まれることが少なくなっている と記されるが、それはそれ以前に盛んに飲まれていたことを 示す記事でもあり、菖蒲酒は地域によっては﹁続寿﹂として の意味もあったようである。 こ の 端 午 の 菖 蒲 酒 の 習 俗 が 禅 宗 に 取 り 入 れ ら れ た の が、 ﹁菖 蒲 茶﹂ で あ り、 酒 を 茶 に 変 え 菖 蒲 を 浮 か べ て 飲 む の で あ る。 菖 蒲 茶 の 記 録 と し て は、 北 宋 代 の 兜 率 従 悦 ︵一 〇 四 四 ︱ 一 〇 九 一︶ の 端 午 の 上 堂 に、 ﹁一 甌 山 茗 泛 菖 蒲﹂ ︵続 蔵 一 一 八・ 四 三 四 a︶ と あ り、 兜 率 恵 照 ︵一 〇 四 九 ︱ 一 一 一 九︶ の 上 堂 に ﹁一 盞 菖 蒲 茶﹂ ︵続 蔵 一 三 六・ 一 六 七 a︶ と あ る。 北 宋 代 に は わ ずかこの二例のみであるが、南宋代にも伝えられ、より多く 語録に登場するようになる。 た と え ば、 無 門 慧 開 ︵一 一 八 三 ︱ 一 二 六 〇︶ の﹃無 門 開 和 尚 語 録﹄ 巻 上﹁普 済 寺 語 録﹂ の 端 午 上 堂 に、 ﹁只 是 各 人 喫 一 盃 菖 蒲 茶﹂ ︵続 蔵 一 二 〇・ 二 五 五 c︶ と あ る。 ま た、 希 紹 曇 ︵生 没 年 不 詳︶ の﹃希 和 尚 語 録﹄ や﹃希 和 尚 広 録﹄ の 端 午 上 堂 に、 ﹁埜 山 茶 点 石 菖 蒲﹂ ︵続 蔵 一 二 二・ 八 七 a︶ 、﹁大 家 相 聚 喫 盞 菖 蒲 茶﹂ ︵続 蔵 一 二 二・ 一 〇 四 a︶ 、﹁茶 点 菖 蒲﹂ ︵続 蔵 一 二 二・ 一〇七 c︶ 、﹁苦澀菖蒲茶﹂ ︵続蔵一二二・一一三 a︶、﹁茶点石菖蒲﹂ ︵続蔵一二二・一一八 a︶ とあり、多くの記述を確認できる。 この他、 ﹃枯崖漫録﹄巻三に収録された元代の雙杉中元 ︵生 没 年 不 詳︶ の 端 午 に お け る 説 法 に﹁今 朝 依 旧 点 盞 茶 与 伊 湿 口、 驀 然 破 菖 蒲、 出 身 冷 汗、 失 声 道 啞﹂ ︵続 蔵 一 四 八・ 九 〇 c︶ とあり、茶に浮かべた細かく切られた菖蒲を、口の中でかみ 砕くといい、 しかもとても苦いという。 了 庵 清 欲 ︵一 二 八 八 ︱ 一 三 六 三︶ の﹃了 庵 和 尚 語 録﹄ 巻 二中世禅林における菖蒲茶︵舘︶ ﹁住嘉興路本覚寺語録﹂ に ﹁細切菖蒲泛茶﹂ ︵続蔵一二三・三 一 三 b︶ と あ り、 茶 に 細 か く 刻 ん だ 菖 蒲 を 浮 か べ る こ と が、 菖 蒲 茶 の 作 り 方 で あ っ た よ う だ。 そ の 茶 は 茶 ︵濃 い 茶︶ で あり、より苦い茶に、苦い菖蒲を浮かべ、かみ砕いてさらな る苦さを味わっていたようである。 お そ ら く は、 宋 代 の 一 般 的 な 喫 茶 方 法 で あ る、 茶 葉 を 粉 ﹁末﹂状にして、器に入れ、湯を注いで撹拌させた﹁茶﹂に、 細かく切った菖蒲を浮かべていたものと想定される。色は緑 で、味はかなり濃かったと思われる。菖蒲茶はとても苦い飲 み物として飲まれていたのである。
三
中世禅林における菖蒲茶
この菖蒲茶は、日本には禅林を経由して鎌倉時代に伝わる ことになる。端午の喫茶は、蘭渓道隆の﹃蘭渓和尚語録﹄巻 上﹁建長寺語録﹂ の ﹁端午上堂﹂ に ﹁下座巡堂喫茶﹂ ︵蘭渓道 隆 禅 師 全 集 一・ 五 〇 b︶ と 一 斉 に 喫 茶 す る 合 図 を 述 べ て お り、 これが菖蒲茶であったと思われる。この点、建長寺第三世の 大休正念 ︵一二一五︱一二八九︶ の ﹃大休和尚語録﹄ ﹁建長寺語 録﹂ の ﹁端午上堂﹂ にも、 ﹁玉蒲浮緑茗啜了﹂ ︵仏全九六・一九 頁︶ と あ り、 鎌 倉 中 期 の 建 長 寺 で は ま ち が い な く 菖 蒲 茶 が 飲 まれていた。またこの記述から、茶の色は﹁緑﹂であり、緑 色の茶に緑色の菖蒲を浮かべていたことになる。 た だ し、 白 雲 慧 暁 ︵? ︱ 一 二 九 七︶ の﹃仏 照 禅 師 語 録﹄ ﹁東 福 寺 語 録﹂ の﹁端 午 上 堂﹂ に﹁和 茶 只 喫 石 菖 蒲﹂ ︵大 正 八 〇・ 二 七 c︶ と あ る よ う に、 菖 蒲 ︵シ ョ ウ ブ︶ な の か 石 菖 蒲 ︵セ キ シ ョ ウ︶ な の か と い う 問 題 が あ る が、 ﹃仏 照 禅 師 語 録﹄ ﹁東 福 寺語録﹂ の ﹁端午上堂﹂ にも ﹁細切菖蒲和茶喫、苦如蘗﹂ ︵大 正 八 〇・ 三 四 a︶ と あ り、 同 一 僧 侶 の 史 料 の 表 記 と し て 菖 蒲 も 石菖蒲も存在する。さらに、中国でも両者を混同していたよ う な の で [木 村 一 九 六 四] 、 こ れ を 確 定 で き な い が、 い ず れ に しても苦い飲み物として飲んでいたのである。 ち な み に 、 同 時 代 に 南 宋 仏 教 を 伝 え た 律 宗 で は ど の よ うで あ っ た だ ろ う か 。 日 本 の 律 宗 の 史 料 で は 、 端 午 に 関 連 す る も の と し て 、 嘉 暦 三 年 ︵ 一 三 二 八 ︶ に 律 宗 の 忍 仙 が 述 し た ﹃ 律 宗 行 事 目 心 鈔 ﹄ 巻 中 に ﹁ 問 、 粽 挙 、 可 為 正 食 耶 否 。 師 云 、 無 義 可 正 食 也 ﹂ ︵ 大 正 七 四 ・ 一 一 八 a︶ と あ る 。 た だ し 、 本 史 料 は 食 品 と し て の 粽 の 正 当 性 が 議 論 さ れ た 文 書 と 判 断 さ れ 、 端 午 と は 直 接 的 に 関 わ ら な い 。 こ の よ う に 、 律 宗 関 連 の 記 録 の 中 に 端 午 の 関 連 史 料 や 菖 蒲 茶 の 記 事 は 管 見 に 触 れ な い 。 端午が戒律に記されない律宗では導入されず、日常生活を 肯定する禅宗では積極的に導入されたようである。宋朝の日 常生活、民間習俗の輸入という観点からすれば、禅宗と律宗 には位置づけにおいて大きな差が存していた。 こ の ほ か、 規 庵 祖 円 ︵一 二 六 一 ︱ 一 三 一 三︶ の﹃南 院 国 師 語中世禅林における菖蒲茶︵舘︶ 録﹄巻下﹁偈頌﹂ ﹁端午︿次韻五首本韻見于上堂﹀ ﹂の内の一 種 に、 ﹁香 蒲 切 玉 泛 玻 瓈﹂ ︵大 正 八 〇・ 三 〇 五 b︶ と、 雪 村 友 梅 ︵一 二 九 〇 ︱ 一 三 四 六︶ の﹃宝 覚 真 空 禅 師 語 録﹄ の﹁端 午 謝 蔵 主・知客上堂﹂ に ﹁玻璃盞内泛菖蒲﹂ ︵五山文学新集三・六八九︶ と あ り、 ﹁玻 璃﹂ の 器 に︹茶 を 入 れ︺ 菖 蒲 を 浮 か べ と あ る。 ﹃碧 巌 録﹄ 第 三 十 五 則﹁前 三 三、 後 三 三﹂ 本 則 評 唱﹁文 殊、 挙 起 玻 璃 盞 子 云﹂ ︵大 正 四 八・ 一 七 三 c︶ を 踏 ま え た も の で あ ろう。 ﹁玻璃﹂ ︵ガラス製︶ の器の使用が示唆される。 惟忠通恕 ︵一三四九︱一四二九︶ の ﹃繋驢橛﹄ の ﹁端午上堂﹂ には ﹁叢林粥後一巡茶、細嚼菖蒲何太苦﹂ ︵五山文学新集別二・ 六 〇 一︶ と あ り、 口 の 中 で 菖 蒲 を 噛 み 砕 い て 苦 さ を 味 わ う 中 国の飲み方は日本にも伝わっていた。 菖蒲茶の習俗は、中世を通して日本で受容されたようであ る。 中 世 後 期 以 降 は、 正 宗 龍 統 ︵一 四 二 八 ︱ 一 四 九 八︶ の﹃禿 尾 鉄 帚﹄ に、 ﹁以 菖 蒲 茶 充 般 若 酒﹂ ︵五 山 文 学 新 集 四・ 一 六 七︶ と、 悟 渓 宗 頓 ︵一 四 一 六 ︱ 一 五 〇 〇︶ の﹃虎 穴 録﹄ の﹁端 午﹂ に ﹁只把茶杯当酒杯﹂ ︵妙心寺派語録一・一七五︶ とある。また、 天玄晃 ︵一五一八︱一六〇二︶ の ﹃天和尚語録﹄ に、 ﹁菖蒲 茶︿端 午 作 二 首﹀ ﹂ ︵妙 心 寺 派 語 録 二・ 一 〇 六︶ が 収 録 さ れ て お り、中世後期においても確認することができる。 曹 洞 宗 で は、 普 済 善 救 ︵一 三 四 七 ︱ 一 四 〇 八︶ の﹃普 済 和 尚 語 録 ﹄ 巻 下 ﹁ 偈 頌 ﹂ に ﹁ 菖 蒲 茶 罷 浴 蘭 湯 ﹂ ︵ 大 正 八 二 ・ 五 一 九 c︶ とある。ただし、中世後期の曹洞宗の語録には菖蒲茶の記述 が見られない。これは一つに中世曹洞宗の語録が、上堂・小 参という説示形態から、朝参で開示されていた代語を中心と するものに変わったためであろ う 3 。
四
江戸期以降の菖蒲茶
こ の 端 午 の 習 俗 は、 南 北 朝 期 に は 菖 蒲 甲 が 作 ら れ る な ど、 武家社会との接点が見られるようになる が 4 、これが劇的に変 化するのは江戸時代からであり、武家と端午の行事が結びつ くことになった。これは、武を尊ぶ﹁尚武﹂を、端午の﹁菖 蒲﹂に掛けたものと考えられている。さらに、辟邪としての 端 午 の 習 俗 は、 ﹁続 寿﹂ と い う 点 か ら か、 徐 々 に﹁祝﹂ と し ての性格を帯びるようになっていったとみら れ 5 、江戸時代に は ﹁祝﹂ の行事になったようである。 江 戸 時 代、 曹 洞 宗 の 面 山 瑞 方 ︵一 六 八 三 ︱ 一 七 六 九︶ の﹃洞 上 僧 堂 清 規 行 法 鈔﹄ ︵以 下、 行 法 鈔︶ ﹁桃 花 茶 等﹂ に、 ﹁洞 家 ノ 叢林、今時上已ニ桃花茶、端午ニ菖蒲茶、重陽ニ茱萸茶、或 ハ 菊 花 茶 等、 ソ ノ 時 節 ニ 祝 茶 ス ル コ ト、 勅 規 ニ デ タ リ﹂ ︵曹 全 四・ 三 一 二︶ と あ り、 菖 蒲 茶 は 曹 洞 宗 の 端 午 の 行 事 と し て 定着した。 しかしながら、江戸時代の臨済宗の文献には菖蒲茶の記述 が 見 ら れ な い。 無 著 道 忠 ︵一 六 五 三 ︱ 一 七 四 四︶ の 著 述 を 見 て中世禅林における菖蒲茶︵舘︶ みると、 ﹃正法山清規﹄の五月の項には、 ﹁五日、自今日著単 衣﹂ と あ る の み で、 ﹃小 叢 林 略 清 規﹄ に は 端 午 の 項 目 が 存 し ない。すなわち、江戸期の臨済宗の清規には端午の民間習俗 についての記載が存在していないことになる。 この菖蒲茶については、明末清初の史料の中にほとんど見 られない。また、隠元隆琦関係の記録には見られないことか ら、黄檗宗の影響ということでもない。さらに、道元や瑩山 紹 瑾 の 著 述 に 記 さ れ て い な い の で、 所 謂、 古 規 復 古 運 動 に よって道元や瑩山の行事として再現されたものでもない。中 世禅林より継承された儀式であろう。いずれにしても﹃行法 鈔﹄ ﹁桃 花 茶 等﹂ に﹁宋 朝 以 来、 志 那 ノ 風 俗 ニ 倣 フ、 ユ ヘ ニ 清 規 ニ モ 出 タ リ﹂ ︵曹 全 四・ 三 一 二︶ と あ る よ う に、 江 戸 時 代 の曹洞宗では宋代仏教の儀式として行なわれ、この宋朝禅林 文化は少なくとも明治初頭までは確認することができる。 ところで、端午が禅林に導入された鎌倉時代と、江戸時代 では、日本人の端午についての考え方が大きく異なっていた とみられる。もともとは、中世禅林の菖蒲茶は中国の辟邪思 想であり、あえて苦く飲み、そこで生じる菖蒲の香りで邪気 を祓っていた。それが、江戸時代の禅林でも﹁祝﹂という考 え方に変わったようであり、禅語録に見られる端午の説法で は、 ﹁祝﹂ という文字が散見されるようになる。 卍 山 道 白 ︵ 一 六 三 六 ︱ 一 七 一 五 ︶ の ﹃ 卍 山 広 録 ﹄﹁ 大 乗 寺 語 録 ﹂ の ﹁ 端 午 上 堂 ﹂ に は ﹁ 只 有 菖 蒲 茶 味 辣 、 為 衆 点 出 祝 端 陽 ﹂ ︵ 曹 全 六 ・ 二 四 〇 ︱ 二 四 一︶ と あ り、 菖 蒲 茶 が 辛 い が、 修 行 僧 の た め に 入 れ て 端 午 を 祝 う と 述 べ て い る し、 面 山 瑞 方 は 前 掲 の ﹃行法鈔﹄で、 ﹁祝茶﹂の一つとして記している。江戸時代の 禅 林 で は、 ﹁祝 茶﹂ と し て 菖 蒲 茶 を 飲 む と い う 考 え 方 に 変 化 していたとみられる。 江戸時代に曹洞宗で伝承された菖蒲茶は、本来の意味内容 が変化しつつも、まったく同じ形態の儀礼として執り行なわ れ、明治まで継承された。儀式の意味内容よりも、儀礼や文 化として重視されていたと言えるだろう。ちなみに、現在は 日本でも中国でも菖蒲茶は飲まれていない。
五
おわりに
本論において、中国の禅林に取り入れられた端午の菖蒲茶 の様態を復元的に考察し、中世日本の禅林に受容され伝承さ れていく過程を考察した。菖蒲茶は濃い緑の茶に菖蒲を刻ん で浮かべたもので、飲む際には菖蒲を口の中で砕いて更なる 苦さを味わい邪気を祓うものであった。 中 国 で は 、﹃ 勅 修 百 丈 清 規 ﹄ に も 記 さ れ 、 禅 林 の 一 般 的 な 行 事 と し て 定 着 し た が 、 日 本 にお い て も 顕 著 に 受 容 さ れ た 。 中 国 式 の 修 行 生 活 を 日 本 に再 現 する こ と を 目 指 し た 中 世 禅 林 の 僧 侶 たち は 、 菖 蒲 茶 に つ い て は 禅 林 独 自 の宋 朝 式 の儀 礼 と し中世禅林における菖蒲茶︵舘︶ て 積 極 的 に 受 容 し た と考 え ら れ る 。 菖 蒲 茶 は禅 林 に お ける 喫 茶 文 化 の 一 例 で は あ る が 、 具 体 的 に 喫 茶 事 例 が 記 さ れ た 数 少 な い 行 事 であ り 、 菖 蒲 茶 に 際 し て の語 録 の 内 容 は 、 当 時 の禅 林 に お け る 喫 茶 文 化 の 解 明 に 繋 が る 貴 重 な 情 報 源 と な ろ う 。 その後、江戸時代になると日本における端午の意味が変化 し、辟邪から﹁祝﹂に変化していった。その日本独自の考え 方は禅林にも導入され、端午は﹁祝﹂の行事の一つとして理 解された。しかし、このように日本人の端午に対する考え方 が 変 化 し て も、 菖 蒲 茶 は﹁祝 茶﹂ と し て 意 味 を 変 え つ つ も、 南 宋 禅 文 化 を 受 容 し た 中 世 の 儀 式 の ま ま 受 容 さ れ つ づ け た。 こ の こ と は、 江 戸 時 代 に な る と 菖 蒲 茶 の 本 来 の 意 味 よ り も、 儀礼そのものに価値が置かれていることを示していよう。 江戸時代の曹洞宗では、儀礼として菖蒲茶を積極的に継承 して受容したが、臨済宗では継承しなかった。江戸期以降に 両宗派に生じた相異を考える上でも、中世禅林に受容された 菖蒲茶は、興味深い伝承過程を経ていたのである。 1 端 午 に つ い て は、 主 に[林 一 九 九 〇] [中 村 二 〇 〇 九] [舘 二〇一八] などを参照。 2 唐代の ﹃千金月令﹄ にも、 ﹁端 午 以 菖 蒲 或 鏤 或 以 泛 酒﹂ と 同 文 が 収 録 さ れ る。 た だ し、 ﹁鏤﹂ は、 ﹃荊楚歳時記﹄ も ﹃千金月令﹄ も引用によっては ﹁縷﹂ の字が 当 て ら れ て い る。 ﹁縷﹂ は 糸 の よ う に 細 か い 状 態 を 指 す の で、 菖 蒲 は 細 く 刻 ま れ て い た か も し れ な い。 3 中 世 の 代 語 文 献 に つ い て は[安 藤 二 〇 〇 〇] を 参 照。 4 南 北 朝 期 の﹃園 太 暦﹄ 文 和 四 年 五 月 五 日 条︵ ﹃大 日 本 史 料﹄ 六 ︱ 一 九・ 八 一 八 頁︶ に 京 都 の 童 児 が 菖 蒲 甲 を 作 っ て 合 戦 の ま ね ご と を し て 遊 ん だ 記 事 が 収 録 さ れ る。 ま た 後 年 の、 ﹃年 中 恒 例 記﹄ に﹁五 月 四 日、 御 甲 の 菖 蒲、 檜 皮 師 進 上 之﹂ と あ り、 戦 国 期 に は 菖 蒲 甲 は 檜 皮 師 に よって制作された。 5 ﹃古事類苑﹄ ﹁歳時部﹂ ︵吉川弘文館、 一 九 七 六︶ の﹁端 午﹂ の 記 事 を 見 て み る と、 室 町 期 の﹃鎌 倉 年 中 行 事﹄ ﹃看 聞 日 記﹄ ﹃建 内 記﹄ の 記 事 で は す で に﹁祝﹂ と し て の 性 格を帯びていることが解る。 ︿参考文献﹀ 林 芬 蓉﹁端 午 節 供 考 ︱︱ 中・ 日 民 俗 儀 礼 の 比 較 研 究﹂ ﹃比 較 民 俗 研究﹄第二号、一九九〇 中 村 裕 一﹃中 国 古 代 の 年 中 行 事﹄ 第 二 冊、 夏、 古 書 院、 二〇〇九 舘 隆 志﹁中 世 禅 林 に お け る 端 午﹂ ﹃東 ア ジ ア 仏 教 学 術 論 集﹄ 第 六 号、二〇一八 守屋美都雄訳注﹃荊楚歳時記﹄平凡社、一九七八 木 村 康 一・ 秦 清 之・ 西 岡 立 夫﹁漢 薬 菖 蒲 の 生 薬 学 的 研 究 ︱︱ 第 一 報﹂ ﹃生薬学雑誌﹄第一七巻一号、一九六四 安藤嘉則﹃中世禅宗文献の研究﹄国書刊行会、二〇〇〇年 ︿キーワード﹀ 中世禅林、禅文化、喫茶文化、端午 ︵花園大学非常勤講師・博士︵仏教学︶ ︶