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佛教大学総合研究所紀要 2002(別冊)号(20020325) 109中野正明「大徳寺本『拾遺漢語灯録』について (法然浄土教の総合的研究)」

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大徳寺本

はじめに

﹁ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹂ は 法 然 上 人 ︵ 以 下 、 尊 称 を 略 す ︶ の 遺 文 集 で あ る ﹃ 黒 谷 上 人 語 灯 録 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 語 灯 録 ﹄ と 略 称 す ︶ 拾 遺 の う ち 漢 語 篇 を意味するが、﹃語灯録﹄の文献学的研究において従来最も疑 問視されていたものである。それが、近年曽田俊弘・梶村昇の 両氏によって﹁新出﹁大徳寺本拾遺漢語灯録﹄について﹂︵﹃浄 土 宗 学 研 究 ﹄ 第 二 二 号 、 平 成 八 年 ︶ に 滋 賀 県 甲 賀 郡 水 口 町 立 図 書 館 所 蔵 本 ︵ 後 述 す る が 、 水 口 町 大 徳 寺 よ り 委 託 管 理 さ れ て 所 蔵 す る こ と か ら 大 徳 寺 本と称す、以下同じ︶が紹介され、﹁拾遺漢語灯録﹄の記述が中世 に遡ることを証明できる可能性が出てきた。﹃語灯録﹄研究の 面からも総合的に評価することができるようになるなど、この 大徳寺本発見の意義は大きい。今後は法然遺文研究の資として

について

日 月 ﹃ F

大いに役立ち法然研究に新たな進展が計られることになるもの と思われる。そこで、本稿ではまず基礎的作業として必要と考 えられる大徳寺本と正徳版との校合、そして法然遺文を所収す る他の諸本との比較を行い、大徳寺本の文献としての史料的性 格について考察しようとするものである。 法然の初期遺文集としては、仁治二年︵一二四一︶頃に源智 の門弟によって編集されたと考えられる醍醐三宝院所蔵の﹁法 然 上 人 伝 記 ﹂ ︵ 以 下 、 ﹃ 醍 醐 本 ﹂ と 称 す ︶ 、 仁 治 二 年 か ら 宝 治 二 年 ︵ 一 二四八︶頃までに信空系の者によって編集されたと想定される 高 田 専 修 寺 所 蔵 の ﹃ 西 方 指 南 抄 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹁ 指 南 抄 ﹄ と 称 す ︶ 、 良 忠 の

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悌 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 別 冊 ﹁ 法 然 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 弟子了慧道光により文永十一年︵一二七四︶から翌十二年にか けて編集された﹃語灯録﹄の三本をあげることができる。この う ち 、 ﹃ 語 灯 録 ﹄ は 漢 語 篇 ︵ 以 下 、 ﹃ 漢 語 灯 録 ﹂ と 称 す ︶ 一

O

巻に﹁無 量 寿 経 釈 ﹂ 以 下 二 二 篇 、 和 語 篇 ︵ 以 下 、 ﹃ 和 語 灯 録 ﹄ と 称 す ︶ 五 巻 に ﹁三部経釈﹂以下二四篇の遺文を所収、さらに拾遺篇として漢 語 体 の も の ︵ こ れ を ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ と 称 す 、 以 下 問 じ ︶ 一 巻 に ﹁ 三 昧 発 得 記 ﹂ 以 下 五 篇 、 和 文 体 の も の ︵ 以 下 、 ﹃ 拾 遺 和 語 灯 録 ﹄ と 称 す 、 以 下同じ︶二巻に﹁登山状﹂以下一二篇を所収するように最も大 掛かりな編集となっている。拙著﹃法然遺文の基礎的研究﹂ ︵ 法 蔵 館 、 平 成 六 年 ︶ に お い て は 、 乙 れ ら 三 本 の 法 然 遺 文 集 に つ い て文献学的な考察を施し概ねその信濃性を証することが出来た ものと考えているが、その過程において﹃語灯録﹄のうちとく に﹃拾遺漢語灯録﹄については課題を残す結果となった。 ここで﹃語灯録﹄各篇の諸本について整理しておくことにす る。まず﹁漢語灯録﹄には恵空得岸書写本を伝承する写本︵以 下 、 恵 空 本 と 称 す ︶ と 、 良 照 義 山 印 行 本 ︵ 以 下 、 義 山 本 と 称 す ︶ の 二 系 統の伝承本が存し、双方の記述内容および字句にかなりの相違 点があることから、両本の信頼性をめぐる考察の必要性に迫ら れ、現在では良照義山が何らかの意図によって記述内容、表現 等に手を加え改変していることが認められるとして、恵空本の 方に信を置くべきであるとする見解が一般的となっている。そ

O のなかで、﹃漢語灯録﹄には前述の正徳五年︵一七一五︶に印 行された義山本︵以下、正徳版と称す︶のほかに、恵空本として千 葉県市川市善照寺と大谷大学図書館とに各一本ずつ所蔵してい るが、この両本ともに江戸時代末期から明治時代にかけての新 しい写本である。﹃和語灯録﹄にも同様に正徳五年印行の義山 本があり、ほかに寛永二十年︵一六四三︶に印行された片仮名 本をあげることができるが、最も信頼性の高い貴重本として龍 谷大学図書館所蔵の元亨元年︵一三二一︶版がある。写本とし ては近年確認されたものとして江戸時代中期頃のものと見られ る 旧 西 村 岡 紹 氏 所 蔵 本 ︵ 現 在 悌 教 大 学 図 書 館 所 蔵 ︶ 、 中 世 に 遡 る も の として安居院西法寺所蔵の鎌倉時代末期から室町時代初頭にか けての写本と見なされる残欠本が紹介されている。﹁拾遺和語 灯録﹄については﹃和語灯録﹄の場合と同様で各々の末尾に付 属する形で伝承している。そこで、﹃拾遺漢語灯録﹄であるが、 これは従来正徳版の義山本でしかその存在を確認することが出 来なかったわけである。 大徳寺本は前掲所論のうち曽田氏解説によれば、﹃郷土資料 並 古 書 類 註 解 附 目 録 ﹄ ︵ 鳥 居 忠 夫 ・ 石 川 季 男 編 、 水 口 町 教 育 委 員 会 ・ 水

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口 町 立 図 書 館 刊 、 昭 和 五 十 二 年 ︶ に よ っ て 確 認 さ れ て い た と い う が 、 これが実際に﹁語灯録﹄研究のうえで極めて重要な位置付けを もつもので、法然遺文集の研究にとって意義深い文献であるこ とについては、今回の曽田氏の発見によって斯界に紹介され初 めて認知されることとなった。 体裁は縦二七センチメートル、横一九・五センチメートル、 墨付二七丁、外二丁、袋綴じの冊子本ということである。表紙 に﹁滋賀県水口町大徳寺﹂の角印があり、表紙裏に﹁大徳寺什﹂ の書がありそのうえに﹁家松山蔵書﹂という丸印があるという。 そして、一丁表の脚部中央に﹁家松山大徳寺﹂の角印が捺され ているということである。 大徳寺は滋賀県甲賀郡水口町字赤堀に位置する浄土宗寺院で あるが、﹃浄土宗寺院由緒書﹄によると、末寺一一箇寺を有す る知恩院末寺院として確認され、成立年代については不詳であ るが、天正十年︵一五八二︶に水口城主中村一氏が水口城西に 浄慶寺を建立し小田原大蓮寺から叡誉を開山として招請したこ とに始まるとしている。叡誉が徳川家康の家臣本多忠勝の伯父 に当たることから、関ヶ原合戦の後家康が参詣して寺領二九石 を寄進し、山号を家松山と命名したという。家康はその後第二 代笈誉の時代にも立ち寄り宿所とし大徳寺という寺号を与えた ことなどが記されている。 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について ところで、大徳寺本の奥書にはつぎのようにある。 右 此 一 冊 難 レ 令 一 一 写 本 之 章 段 文 字 乱 脱 一 柳 加 一 一 了 簡 一 奉 一 一 書 写 一 者 也 、 後 輩 感 コ 得 正 本 一 者 必 札 レ 之 、 維時元禄十五壬午十二月上旬 六 十 歳

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血 釜 一 恩 哲 書 レ 之 、 南 無 阿 粥 陀 悌 一 一 口 一 一 ︵ 中 阿 ︶ ︵ 興 誉 ︶ この奥書によって大徳寺本が興誉恩哲なる者の筆写によるもの であることが分かる。興誉恩哲については前掲所論の曽田氏解 説によると安土浄厳寺の一四世住持であったという。そして、 浄 厳 院 所 蔵 ﹃ 漢 語 灯 録 ﹂ 第 七 、 ﹃ 仮 臥 抜 書 ﹄ 、 ﹃ 浄 土 諸 要 文 類 ﹄ 、 ﹃看病用心紗井十楽﹄、﹃神子問答抜書﹂の五冊に興誉恩哲伝領 の署名が確認される。興誉恩哲はこの大徳寺本を写本を底本と して書写したようで、写本の章段・文字を乱脱にするかもしれ ないが了簡を加えて書写すると記している。さらに後輩に対し て正本を得たならば必ず札すようにと言っているように、興誉 恩哲は大徳寺本を書写するに当たって疑問な点を感じていたよ う で あ る 。 梶村昇氏は前掲所論のなかで、大徳寺本の発見によって﹃拾 遺漢語灯録﹄が﹃醍醐本﹄を収録したものであったことが証明 されると主張される。その理由として、まず両書の﹁浄土随聞

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悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ 記 ﹂ ︵ ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ ︶ と ﹁ 一 期 物 語 ﹂ 前 半 部 ︵ ﹃ 醍 醐 本 ﹄ ︶ 、 ﹁ 臨 終 祥 瑞 記 ﹂ ︵ ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ ︶ と ﹁ 御 臨 終 日 記 ﹂ 前 半 部 ︵ ﹃ 醍 醐 本 ﹄ ︶ 、 ﹁ 三 昧 発 得 記 ﹂ ︵ ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ ︶ と ﹁ 御 臨 終 日 記 ﹂ 後 半 部︵﹃醍醐本﹄︶とは、文章の出入りがあるとはいえ対応してい ることをあげ、とくに﹃醍醐本﹄﹁御臨終日記﹂前半末尾の﹁上 人 入 滅 以 後 及 一 一 三 十 年 一 ﹂ 以 下 の 記 述 は 、 ﹃ 醍 醐 本 ﹄ 編 集 の 意 図 を述べた記述であり﹃醍醐本﹄にのみ有用なものであるが、こ れが﹃拾遺漢語灯録﹄﹁臨終祥瑞記﹂の末尾にも記されていると いうことは、﹁拾遺漢語灯録﹄が﹃醍醐本﹄を書写していたとい うことになると指摘される。また、大徳寺本の﹁浄土宗見聞﹂ の第九問と第十問の聞に禅勝一房との問答いわゆる﹁十一箇条問 答﹂の記述が存したことを意味する内容の註記があるが、この ことは﹃拾遺漢語灯録﹄が編集された当時の原本に﹁十一箇条 問答﹂の記述が存在していたことを証するとともに、ほかに ﹁三心料簡事﹂も含まれていた可能性を想定することになると述 べられている。そして、﹁三心料簡事﹂もはじめから﹃拾遺漢語 灯録﹄に所収されていたが、この法語には悪人正機説も含まれ ていたために、これを正徳版﹁拾遺漢語灯録﹄の鏑木光明寺良 求奥書に見られる建武四年︵一三三七︶の老宿達の治定に際し 削除するという改変が行われたものと考察し、宝永二年︵一七

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五 ︶ の 知 恩 院 第 四 十 二 世 白 誉 至 心 版 文 は 、 ﹁ 醍 醐 本 ﹄ の 記 述 に つ いて以前から抱いていた疑問が伊豆薬王寺にある武州金沢文庫 の蔵本を確認したことによりたちまちに晴れたため、義山に命 じてこの書室に収めたことを意味するというのである。筆者はこ うした一連の梶村氏の見解に些か異を唱えるものであるが、詳 細 は 考 察 を 進 め な が ら 明 か し て い き た い 。 本論に入る前に前掲所論には大徳寺本全文の影印と翻刻を掲 載し、研究資料としての便宜が計られているが、翻刻について 若干の誤植・誤読と思われる箇所が見られるため、これらを指 摘 し 後 考 の 資 と し た い 。 ︵ 丁 数 表 裏 ・ 行 数 ︶ 二 丁 表 ・ 5 行 目 七 丁 裏 ・ 5 行 目 十 一 丁 表 ・ 2 行 目 十 一 丁 表 ・ 4 行 目 十 一 丁 裏 ・ 1 行 日 十 一 丁 裏 ・ 8 行 目 十 二 丁 表 ・ 4 行 目 十 三 丁 表 ・ 1 行 目 十 三 丁 表 ・ 1 行 目 十 三 丁 表 ・ 4 行 目 ︵ 誤 ︶ 干 捕 ヒ 不 不 ス 是 現 二 | レ レ ト 非 レ 上 リ 可 可 ミ

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塵 ヲ 生 生 者 死ヲ死ヲ 也 為 諸 ノ 全 ク 可

藤ノ言デ参

他 談 言 午 暫 也 凡 . / _:::: ./

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夫 p , f主ヲ 生 也 子 排 ヒ 不 不 手 是 現 宝 寺 二 | レ レ P非 レ と 上ク可可;._~之ヲ

中解酔基ニ

塵 ; 脱 硫 者 一 生 生 死ヲ死ヲ 也 為 諸 全 ク 可

取主ノデ云

他./ ~集計暫 也 凡 了 ス 主 夫 / 山 往 生ヲ 也

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十 三 丁 表 ・ 7 行 目 是 故 二 十 丁 表 ・ 1 行目就一一何文立レ之給耶 二 十 丁 表 ・

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行 目 故 知 一 一 智 恵 分 際 一 二 十 一 丁 表 ・ 4 行 目 一 柳 御 平 癒 之 時 二 十 三 丁 裏 ・

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行 目 一 若 l 子人々 二 十 四 丁 裏 ・ 1 行 目 一 不 レ 信 一 一 悌 法 一 二 十 四 丁 裏 ・

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行 目 一 同 在 二 見 聞 奥 一 同 ク 不 若 柳 故 就 是 /

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官ノ法ヲ 之 恵 ノ 立 ヂニ一 時 分 レ

耶 このほかにも校訂の方法としては、二十二丁表 2 行目に﹁建久 ︹ 暦 ︺ 元年十一月十七日﹂とある箇所は﹁建久元年十一月十七日﹂と、 ノ ︹ 巳 ︺ / 二十三丁表 2 行自に﹁同廿日己時﹂とある箇所は﹁同廿日己時﹂ と、いずれも校訂注を付して正すべきであり、また二十五丁表

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行 目 に ﹁ 於 下 犯 一 一 四 重 五 逆 等 之 重 罪 一 候 上 者 上 ﹂ と あ る 箇 所 の 返 り点﹁上﹂が重複しているためにこれに﹁街﹂を付して、﹁於下 犯二四重五逆等之重罪一候上者上﹂とする必要があるし、さらに二 口 例 ︺ 十七丁裏 1 行目奥書の冒頭に﹁︵奥書︶﹂と註記したり、同 3 行 目﹁興誉恩哲﹂に重ねて捺されている二種類の角印の印影と、 その印文﹁興誉﹂﹁中阿﹂を註記するなど、原型を忠実に踏襲 した翻刻が望まれる。それにしても、ここに指摘した箇所は 九牛の一毛に過ぎず、いずれも全体に影響を及ぼす程のもの で は な い 。 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について 大徳寺本の史料的性格を検討するにあたり、大徳寺本・正徳 版・﹃醍醐本﹄の三本相互の関係について考えることにする。 はじめに、各々に所収される遺文・記録の題目を比較するとつ ぎ の よ う で あ る 。 大徳寺本 三昧発得記 ﹃ 醍 醐 本 ﹄ ︵ 三 昧 発 得 記 ︶ 正徳版 三昧発得記 夢感聖相記 浄土随聞記 臨終祥瑞記 答博陸問書 夢記 浄土宗見聞 臨終記 御教書御請 一 期 物 語 御臨終日記 別伝記 ︵ 十 一 箇 条 問 答 ︶ ︵ 三 心 料 簡 事 ︶ 大徳寺本と正徳版の題目は﹁三昧発得記﹂を除くすべてにおい て相違している。これはいったいどういうことであろうか。ど ちらが原型に近いのか、あるいはまたどちらも後世に改変もし くは作成されたものなのか重要な問題点が提起される。﹃醍醐 本﹄はそれ自体が三部構成となっていて題目としては﹁別伝記﹂ を含めて三点であるが、実際には括弧書で示したように六箇の

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悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ 遺文及び記録から成っており、そのうちの﹁御臨終日記﹂後半 部の記述が﹃拾遺漢語灯録﹄のいわゆる﹁三昧発得記﹂に当た る。また﹁一期物語﹂においても後半部の﹁十一箇条問答﹂﹁三 心料簡事﹂を除く前半部の記述が、﹁拾遺漢語灯録﹄の大徳寺本 では﹁浄土宗見聞﹂、正徳版では﹁浄土随聞記﹂として収録する 遺文と共通するわけである。﹃拾遺漢語灯録﹄と﹃醍醐本﹄の所 収遺文・記録を全体的に比べると、﹃醍醐本﹂には大徳寺本で ﹁夢記﹂、正徳版で﹁夢感聖相記﹂と称するもの、そして大徳寺 本では﹁御教書御請﹂、正徳版では﹁答博陸問書﹂と称するこの 二つの遺文・記録に当たるものが﹁醍醐本﹄の方にはなく、反 対に﹃醍醐本﹄所収の﹁別伝記﹂と﹁一期物語﹂の後半部に掲 載されているいわゆる﹁十一箇条問答﹂と﹁三心料簡事﹂は ﹁拾遺漢語灯録﹂の方にはない。この時点で普通であれば﹃拾遺 漢語灯録﹄と﹁醍醐本﹂の直接的な関係を論ずることに無理が あることが諒解されるところである。このように、所収する題 目の比較からも大徳寺本と正徳版がまったく別系統のものであ る こ と が 想 定 さ れ る 。 さらに、記述内容を比較していくと同じ﹁拾遺漢語灯録﹄で あるにもかかわらず、大徳寺本と正徳版には文体に大きな隔た りが存することが明瞭になる。しかるに、両者には所収体裁を 中心として共通性の認められる部分もある。例示するとつぎの よ う な 箇 所 で あ る 。 大 徳 寺 本 ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ 小 川 三 味 発 得 記 第 黒谷自筆記 同 ︵ 上 略 ︶ 三 昧 発 得 記 畢 、 (ハ) 建 久 九 年 五 月 日 百王 之 源 空 ∞浄土宗見聞第 勢観上人記 (ホ) 之殊ニ 人 於

去、法 属 私 門 ニ 文ニ云一 主バ者

事~

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右手空ニ 、 付 一 付又上人或時、聖道門除如一一祖 四 正 徳 版 ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹄ 三 昧 発 得 記 第 一 三昧発得記 源空白筆記之 建久九年五月二日註之 源空 浄土随聞記第二 勢観上人著 田空円

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列ヌ戒ノ 歪依テ法 主7什門ハ 1そ里ノ乃 ーニ予 之 弟 子 也 以私ニ 斗云OITヲ 、 又一時師語日、聖道門者輪

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父 沓 づ 為 一 一 祖 父 大 足 一 雄 レ 用 レ 之 、 為 − 一 孫 小 足 一 不 レ 中 レ 用 也 、 当 世 人 追 一 一 甘 跡 一 欲 レ 修 一 一 聖 道 門 一 事 亦 復 知 レ 是 、 此 云 − 一 道 縛 一 意 也 、 或 文 知 二 祖 父 弓 一 一 五 去 、 禅聖今ノ児'.:',__ 師 ノ 道 人 孫 ハ 乙 意門ヲ欲モ小如シ 也ナ上下 足ナ一 、リ亦清三、

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理事復=,其/父ノ ラ;事一知シ昔履履/ 、− ~賢ノ不一、 ~之晶子且 此 跡 ヲ に 父 ハ 、 レ ー 用 大 差 修 セ 也 足 ナ 料 中 { 、 、 リ 川私云、臨終記雄レ非二上人之一私云、此記雄レ丸一一上ん之誌一 週 間 一 同 在 一 一 見 聞 奥 一 為 レ 令 一 一 人 一 而 附 二 之 随 聞 之 後 一 、 庶 幾 後 取 レ 信 同 載 レ 之 者 也 、 見 者 得 一 人 視 一 一 上 人 臨 終 之 祥 瑞 一 発 一 一 レ 意 、 一 起 信 心 一 也 、 見 者 得 レ 心 、 例 御 教 書 御 請 第 ︶ , E , a J ! ︵ 一 一 月 廿 一 日 源 空 山川拾遺黒谷語灯録巻上 (ル) 験テ予

偽ヲ牛

撰久ク 集ス尋

語 委 大徳寺本﹁拾遺漢語灯録﹄について 答博陸問書第三 一 一 月 廿 三 日 源 ク匂 二E 拾遺黒谷語灯録巻上 漢語灯録十巻十七章井拾遺 語灯録上巻三章都是二十章、 灯 録 先 拾 遺 都 有 一 ム 問 寸 件 一 央 、 此 外 世 有 一 一 綴 集 一 本 願 奥 義 一 巻、往生機品一巻、注一一黒 谷作一全是偽書也、又有二三 部 経 惣 章 一 巻 一 列 一 一 四 十 八 願 名 目 一 第 十 八 願 名 一 一 十 念 往 生 願 一 也 、 間 決 一 巻 亦 是 偽 書 吹 、 黒谷遺一一鎮西一状云、金剛 宝戒章疑書、源空全以知是 ナ ス ト 事 不 申 候 ー 釈 迦 弥 陀 為 レ 証 云 云 、 況 復 聖 道 法 門 也 、 不 レ 能 レ 編 一 一 入浄録一也、管見所レ及取捨 知 レ 斯 、 若 有 レ 所 レ 誤 者 後 覧 必 札 レ 之 、 又 有 レ 所 レ 遺 者 乞 続 之 失 、 (ヲ) 之 私 語 五 灯 録 中 六 下 七/両 巻ト巻 全 之 同 和 三五 故 流 略/布 此予二十年来循索二此於華 ナ ル J 夷 づ 慎 検 一 一 真 偽 一 而 所 一 一 撰 集 一 也、此外世間所レ流本願奥義 一 巻 、 往 生 機 品 一 巻 、 称 一 一 黒 谷作一者即偽書也、又有下三 部 経 総 章 、 列 一 一 四 十 八 願 名 目 一 第 十 八 願 名 一 一 十 念 往 生 願 一 者 一巻、及間決一巻、金剛宝 ナ リ 戒章三巻上井亦偽書也、上人 与二鎮西一書目、金剛宝戒章 是 偽 書 也 、 予 不 レ 製 一 一 如 レ 是 書 一 釈 迦 弥 陀 以 為 一 一 灯 明 一 云 云 、 況又拠レ理而論宝戒所レ述 乃是聖道法門而非一一上人之 所作一者著明央、今則管見 所 レ 及 取 捨 如 レ 斯 、 若 有 一 一 舛 差 一 後 賢 札 レ 之 、 又 有 一 一 子 遺 一 来 哲 続 レ 之 、 又 拾 遺 語 灯 本 有 − 一 三 巻 一 但 中 下両巻和語而与一一和字語灯 五

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悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ ナ ラ ン ト 不 レ 書 レ 之 、 三 巻 欲 一 一 全 部 一 一 録 第 六 第 七 巻 一 其 事 全 同 、 故 者 、 以 二 彼 六 七 巻 一 可 レ 次 レ 之 一 今 略 不 レ 載 レ 之 、 若 欲 一 一 三 巻 者 也 、 一 全 備 一 以 一 一 彼 六 七 両 巻 一 続 一 一 一 次 子 蕊 一 正 局 、 順を追って見ていくと、小川同は最初に所収される﹁三昧発得 記﹂の内題と尾題の部分であるが、まず両本ともに題目の下に 所収順を示す﹁第こという記述がある。大徳寺本はその内題 につ、ついて﹁黒谷自筆記﹂との註記があるが、正徳版では同 の尾題につ、ついて同様の記述が確認される。川は大徳寺本が ﹁御夢記﹂、正徳版が﹁夢感聖相記﹂と題する記録の末尾に記さ れる日付と署名であるが、双方まったく共通した体裁の記述と なっている。判は同様に大徳寺本が﹁浄土宗見聞﹂、正徳版が ﹁浄土随聞記﹂と題する記録の内題につ、ついて、両本ともに ﹁第二﹂と記しその下部に﹁勢観上人記﹂﹁勢観上人著﹂なる註 記が存する体裁は共通するものである。附はその﹁浄土宗見聞﹂ ﹁浄土随聞記﹂両本の第十九問、月輪禅定殿下のところに参じ た時に住山の者への説示を記す箇所の末尾にある註記の部分で あ る が 、 両 本 と も に 共 通 し て い る 。 川 げ は 附 に つ 明 つ い て 記 さ れ 第 二十問、聖道門を祖父の沓や弓に喰えた説示であるが、この同 川げともに﹃醍醐本﹄の該当箇所には記述が確認できない部分で ム ノ 、 あり、その意味において大徳寺本・正徳版両本に共通性がある と言える。川は大徳寺本が﹁臨終日記﹂、正徳版が﹁臨終祥瑞 記﹂と題する記録の末尾にある註記の部分であるが、このよう に内容的には少し変えられてはいるが体裁のうえでは共通して いる。例は大徳寺本が﹁御教書御請﹂、正徳版が﹁答博陸問書﹂ と 題 す る 記 録 の 内 題 に つ 、 つ い て 、 両 本 と も に ﹁ 第 一 ニ ﹂ と い う 所 収順の記述を記している。川はその日付と署名であるが、大徳 寺本が﹁二月廿一日﹂、正徳版が﹁二月廿三日﹂というように 記述に相違が認められるが、その体裁についてはまったく共通 している。川は両本の末尾にある﹃拾遺漢語灯録﹄自体の尾題 であるが、これは両本ともに合致する記述となっている。そし て、この後に例に掲げるような編者の奥書がある。これも両本 を比較すると語句の表現はかなり相違するが内容的にはほぼ一 致している。さらに、同は大徳寺本の奥書に付記されている註 記であるが、同様の内容が正徳版では例の奥書につづく形で記 されている。このように、大徳寺本と正徳版の記述のなかには、 双方の記述内容には大きな隔たりが存するけれども、所収体裁 を中心としてかなりの共通性を認めることが出来る。このこと はすなわち、どちらかがどちらかの系統の記述を参考として伝 襲された可能性を想定しなければならないことを意味するもの と 言 え る 。

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つぎに、前掲した箇所のほかにも大徳寺本には註記が数箇所 確認されるが、これらの註記の性格を検討すると、大徳寺本独 自の註記、﹃拾遺漢語灯録﹂の編者による註記、あるいは記録 の原型そのものに存した註記である等の可能性が考えられる。 そこで、これらを正徳版や﹃醍醐本﹄における該当箇所等を参 考に見ていくことにする。まず前掲表のうち附付の箇所はつ づきの記述であるが、両方とも﹁醍醐本﹄所載﹁一期物語﹂の 該当箇所には見当たらない。このうち同と川は﹃語灯録﹄の編 者すなわち了慧道光による註記であり、付はもともと所収した 遺文の原型に存した記述と考えられる。とくに川の部分は、法 然の語ではないが﹁見聞﹂ここでは﹁浄土宗見聞﹂の奥に在っ た記録なので後人のために載せたとあるように、﹁語灯録﹄の 編者が所収する際にその事情を記し置いた記述であったもの が、正徳版において﹁浄土宗見開﹂を﹁浄土随聞記﹂と改称し て引き継がれたものと見られる。大徳寺本独自の註記であると 考えられるものをあげると、まず﹁三昧発得記﹂冒頭の﹁七々 日 念 仏 記 旧 住 一 子 一 同 オ 均 一 日 一 ト ー 灯 、 ﹂ な る 記 述 と 、 ﹁ 御 教 書 御 請 ﹂ 末 尾 の 日 付 ・ 署 名 の 下 部 に あ る ﹁ 闘 一 一 戸 、 ﹂ 註 ヒ ー ﹂ な る 記 述 は 、 正徳版にも﹃醍醐本﹂にも見られないことから、大徳寺本かそ の底本の筆記者が註記したものと思われる。問題の箇所は大徳 寺本の﹁浄土宗見開﹂の第九問と第十問との間にあるつぎのよ 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について う な 註 記 で あ る 。 私云、是所作時言也、界外カクヘシ、此次下遠州蓮花寺 住持禅勝一房造阿弥陀仏云人アリ、上人奉レ間二十二問答一 其 書 有 レ 之 、 雄 レ 然 和 語 第 十 四 巻 末 見 、 依 レ 繁 不 レ 載 レ 之 、 これは﹃拾遺漢語灯録﹄の原本には、遠州蓮花寺住持禅勝一房造 阿弥陀仏なる者との聞に交わされた﹁十二箇条問答﹂が掲載さ れていたことを意味する註記であり、梶村氏はこの﹁十二箇条 問答﹂は﹁三心料簡事﹂とともに、鏑木光明寺良求奥書に見ら れる建武四年の老宿達の治定に際して削除されたと主張され る。実際に﹁醍醐本﹄によって確認してみると、この註記があ る箇所は﹁一期物語﹂の丁度真ん中であり、﹁或時速江国蓮花 寺住僧禅勝一房参上人奉問種々之事上人一々答之、﹂として始ま る十一箇条の問答と、その最後尾につ明ついて所収される﹁三心 料簡事﹂の記述はまだかなり先ではあるが、大徳寺本の註記に ﹁界外ニカクヘシ﹂とあるように、ここではとくに所作の時の ことと関係してこの第九問の記述に対して記されたものと考え られる。そして、この﹁浄土宗見聞﹂のつぎに﹁十一箇条問答﹂ が所収されていたことになる。しかし、この﹁十一箇条問答﹂ が﹃醍醐本﹄の﹁三心料簡事﹂とともに建武四年に削除された 七

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悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ とするには少し無理がある。それは﹁三心料簡事﹂が所収され ていたことを示す註記があるわけではない点、さらにはこの註 記に﹁界外ニカクヘシ﹂とあって、もともとは界の外すなわち 頭註もしくは脚註としであった註記をこのように記したことが 分かるからである。それは、やはり大徳寺本書写の時点でかも しくは大徳寺本が底本とした転写本の筆記者等によって行われ たものと考えられるのである。 各記録の原型にすでにあったのではないかと想定される記述 として、大徳寺本所収の﹁三昧発得記﹂冒頭の註記につ明ついて あ る つ ぎ の 部 分 で あ る 。 ニ ニ 下 ブ ヲ ニ モ 元久三年正月四日念仏之間三尊共現一一大身一、又五日、初 生丑年也、生年六十有六也、午年也、 このうち前半部の記述は、正徳版所収﹁三昧発得記﹂では最末 尾 に 、 ﹁ 元 久 三 年 正 月 朔 日 勤 コ 修 恒 例 七 日 念 仏 、 至 一 一 第 四 日 一 念 仏之問、阿弥陀仏観音勢至三尊共現一一大身↓五日復現、﹂とあ る部分に当たり、また﹃醍醐本﹄においてもいわゆる﹁三昧発 得記﹂の末尾部分に、﹁元久三季正月四日念仏之問、三尊現 大 身 一 又 五 日 如 前 一 玄 々 、 ﹂ と あ る 記 述 と 共 通 し て い る 。 後 半 部 分 の記述は正徳版所収﹁三昧発得記﹂では、冒頭の内題下部にあ ) \ る ﹁ げ は 仁 詩

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建﹂なる記述と共通しており、 ﹃醍醐本﹂所収の﹁三昧発得記﹂では最初の﹁御生季当六十 九一説仁、季焚﹂に当たるなど、大徳寺本所収﹁三昧発得記﹂冒 頭のこれらの記述は、もともとの﹁三昧発得記﹂の記述がどこ かの時点で改変されて出来上がったものと想定されるわけであ る。つぎに、大徳寺本所収﹁浄土宗見聞﹂の第十七問と第十八 問との聞につぎのような註記がある。 また \勢観上人ノハノ一 f 私云、此言下柳有一一所存一吹、選択集

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以 一 一 真 言 仏 心 一 入 二 聖 道 一 捨 二 聖 道 門 一 入 一 一 浄 土 宗 一 対 一 一 念 仏 一 而 廃 レ 之 給 、 其 智 ナ ル ス 恵 深 遠 事 不 レ 可 一 一 勝 計 一 扶 、 これと共通する記述は正徳版所収﹁浄土随聞記﹂の該当箇所に は確認できないが、﹃醍醐本﹄所収﹁一期物語﹂の該当箇所に、 註記ではなく本文に混入する形で﹁私云、此言下柳有所存一孜、 選択集己以真言仏心一入聖道門一為浄土宗教相﹁以聖道門一対浄 ナ ル 土門一而廃之給、其智恵深遠事言語道断者抜、﹂とある。この 記述にはとくに﹁私云﹂を﹁勢観上人﹂と記しているが、こ れが大徳寺本かあるいは大徳寺本の底本の筆記者によるもので あるのか、または﹃醍醐本﹄所収﹁一期物語﹂系統の記述から 転写した際に記されたものなのかが問題となってくる。これは

(11)

今の時点で確実な徴証が得られるわけではないが、﹃醍醐本﹄ 所収﹁一期物語﹂の方が表現上理解し易いことや、﹃醍醐本﹄ 自体が醍醐三宝院義演の門弟達によって行われた聖教類書写事 業の一環であったことを予測させる程正鵠を得たものでない点 等を考慮すると、もともとの原型からこのような註記が存し、 ﹃醍醐本﹄では転写の際に本文と同様に扱われたものと考える のが妥当であろう。さらに、大徳寺本所収﹁浄土宗見聞﹂の第 十九聞に﹁住山吉一人参今﹂としこれに﹁刊訂ゴなる割 註があるが、これは正徳版所収﹁浄土随聞記﹂の該当箇所には 記述が確認できないが、﹃醍醐本﹄所収﹁一期物語﹂の該当箇 所には、﹁叫問、﹂との同様の割註が存する。これも恐らくは 原型からこのようにあったものと想定される。 このように、大徳寺本・正徳版・﹁醍醐本﹄という三本の記 述を比較検討して言えることは、大徳寺本と正徳版は所収遺文 に第一・第二・第三という編数を記したり、その第一・第二に ﹁付﹂と称して別記を付記するなど、また前掲表に示すとおり 所収体裁を中心として共通性があることが認められる。言うま でもなく正徳版の記述内容は大徳寺本のそれと大きく隔ってお り、むしろ﹃醍醐本﹄の対応する記録の記述内容に近似してい る。しかしながら、大徳寺本に数箇所確認される註記を検討す ると、それは大徳寺本かその底本の筆記者によって加えられた 大徳寺本﹁拾遺漢語灯録﹄について 註記と、﹁拾遺漢語灯録﹄の編者の註記、あるいは﹁醍醐本﹄ にさらに遡る原型からすでに存した可能性のある註記等に分け られるのである。このことは大徳寺本系統の記述が、少なくと も現在伝襲される﹃醍醐本﹄の記述によって近世になって再編 されたものではなく、中世に遡って記述が存在したことを証す ることとなり、正徳版はそうした系統の﹃拾遺漢語灯録﹄を底 本として良照義山により改変されたものであることを証するこ とになる。その編集に際して原型の﹃醍醐本﹄を参考としたこ とも、あるいは同一系統の記録をもとに収録したことも充分に 想定出来るところである。

大徳寺本所収本のうち﹃醍醐本﹄と対応する﹁三昧発得記﹂ ︵ ﹁ 御 臨 終 日 記 ﹂ 後 半 部 ︶ 、 ﹁ 一 期 物 語 ﹂ 、 ﹁ 御 臨 終 日 記 ﹂ 前 半 部 の 各記述について、大徳寺本の各該当箇所と比較検討してみると、 よく共通してはいるがそれは必ずしも大徳寺本が﹃醍醐本﹄を 底本としたというような直接的な関係として想定することは難 しい。そこで、筆者は大徳寺本や﹁醍醐本﹄に更に遡る記述の 存在として、康元元年︵一二五六︶から翌二年にかけて親驚に よって書写されて伝来する﹃指南抄﹄所収の該当遺文・記録と 九

(12)

悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ の比較対照が必要であることを提言する。 ﹁指南抄﹄所収文献のうち大徳寺本と対応するものは、中前本 所収﹁建久九年正月一日記﹂、同﹁法然聖人御夢想記﹂、同﹁法 然聖人臨終行儀﹂の三本である。このうち﹃醍醐本﹄にも所収 されている﹁建久九年正月一日記﹂﹁法然聖人臨終行儀﹂につい て、﹁醍醐本﹄﹃指南抄﹄各所収本の記述を大徳寺本と比較対照 し、それぞれの相違点を左に表示する︵対照箇所を示すために大徳寺 本 に 傍 点 を 付 す ︶ 。 ︹建久九年正月一日記︺ 大 徳 寺 本 一 ﹁ 醍 醐 本 ﹂ ﹃指南抄﹄中巻本 水 想 観 自 然 ニ コ レ ヲ 成 就 シ タ マ フ 一 回 、

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建 久 九 年 正 月 一 日 記 水 想 観 自 然 成 就 一 之 建 久 九 年 正 月 一 日 建 久 九 年 正 月 一 日 記

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申時計恒例正月七日一未時恒例一毎月七日念一未申ノ時ハカリ恒例正 ヲ 念 仏 始 コ 行 之 ↓ 仏 始 行 之 一 月 七 日 念 仏 始 行 セ シ メ タ マ フ 、

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自 レ 例 甚 明 云 云 、 自 然 甚 明 也 、 自 然 ア キ ラ カ ナ リ ト 一 回 、

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水 想 観 自 然 成 就 之 云 一 去 、

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七 日 重 又 現 レ 之 (6) 現 即

此 宮 殿ヲ 顕・ 其 相ヲ 七 日 朝 重 テ 又 現 之 、 即 似 宮 殿 類 一 其 相 現 之

七 日 朝 ニ マ タ カ サ ネ テ コ レ ヲ 現 ス 、 ス ナ ワ チ コ ノ 宮 殿 ヲ モ テ 、 ソ ノ 相 影 現 シ タ マ フ 、 ニ ︹ 仲 間 ︺ 的 二 月 廿 八 日 依 レ 病 念 仏 一 二 月 廿 八 日 依 為 念 仏 延 士 一 月 廿 八 日 病 ニ ヨ テ 念 退 レ 之 、 一 万 遍 或 二 万 一 之 一 、 一 万 或 二 万 反 、 一 仏 コ レ ヲ 退 ス 、 一 万 返 返 、 ア ル イ ハ 二 万 、 (8) 甚 右 ・

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ヨ 其 後 有 光 明 (9) 有 璃 文 主一、光ノ

花其ノ望シ

如 形 ・ 育J 二 如 宝 二 又 甑ノ・瑠眼ニ 璃 有 宜ノ瑠 (10)

J 一 ー 量四 樹方ヲ 皆− 毎・ 方・ 有 (11) 其 高 無 定 高 下 随フ 意・ 左 眼 − 一 其 後 有 光 明 放 一 有 其 文 赤 眼 光 ノ 花 如 瑞 ン 知 瑠 赤γ 宝 璃 寸 塑ノ軍最ニ

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見 四 方 一 有 赤 有 青 宝 樹 、 其 高 無 定 、 高 下 随 喜 一 右 眼 ニ ソ ノ 、 チ 光 明 ア リ 、 ハ ナ タ ナ リ 、 マ タ 光 ア リ 、 ハ シ ア カ シ 、 マ タ 眼 ニ 瑠 璃 ア リ 、 ソ ノ 形 琉 璃 ノ 壷 ノ コ ト シ 、 琉 璃 一 一 赤 花 ア リ 、 宝 形 ノ コ ト シ 、 四 方 ミ ナ 方 コ ト ニ 赤 青 宝 樹 ア リ 、 コ ソ

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ア ス シ 高 下

(13)

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或 四 五 丈 或 二 三 十 文 一 五 一 去 、 一 或 四 五 丈 或 二 三 丈 ほ 、 (13) 返 八 始 月 之 一、日 ョ 女日 本 ノ、− 万 (14) 段 想 及 計 分 二 也 明 九 、影・月 現ス廿 周・日

八 地 (15) トト想正

量−最善

之ゼ百

云・{主之

随・地 (16) 夜ニ建 聞 仁 ~~ ::ti主 主主. 旦ヲ二 月 八 日ノ 後 (17) 笠・ 3乞 日 等・ 開・ 之・ (18) 丈 /、 言十リ 勢. 至ノ

御 面 現ス 八月一日知本一七万返 始 之 、 及九月廿二日朝地想分 ニ ス 明現、闇円七八段許也、 任 想 正 意ニ等ノ治

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一•Ell A三土 二a 現 佳 百 之 坐 之

ーニ地 聞 建 鳥 仁 〔 舌ヲ九丞 一、季 月 八 日 後 夜ニ 丈六説御面現一云々 ︶ − − − − ヲ ︹ 西 ︺ ノ ノ ノ 目以レ之推レ之、面持仏一西持仏堂勢至菩薩形、 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について アルイハ四五丈、アル イ ハ 二 三 十 丈 ト 云 、 八月一日本ノコトク六 万 返 コ レ ヲ ハ シ ム 、 リ 明 ニ 九 現ス月 廿 周 二 囲日ノ 七朝ニ 八 段 地 ハ 想 カ 分 任 臥 地 正 運 ニ コ 想 治 コ 、 等 二 レ ロ ノ 正 ヲ ニ 五 ム

要友関百

ト カ ι ノ

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ヘ 座 日 建仁元年二月八日ノ後 夜ニ鳥ノコヱヲキク、 シヤウノオトラコレヲ キ ク 、 丈六ハカリノ勢至ノ御 面 像 現 セ リ 、 コレヲモテコレヲ推ス 出堂ニ

t勢 至 支E 薩

丈 /、ノ (20) 是 則 推・ 之・ 此 菩 薩 丈 六 面 現 、 是則此菩薩 、 ︸ ノ ノ シ 下 フ 幻 今 為 一 一 念 仏 者 一 示 一 一 現 其 一 今 為 念 仏 音 一 示 現 其 相 、 形 一 (22) 一 同 段 第 ・ 言十リ二 日 始テ 座 処ノ 下ヲ 四 方 (23) 高 建 畠 仁 少 二 将 年 殿・十・ 来J二 γ 月 廿 八 日

I J テ ノ ス サ 判 的 透 通 仏 面 示 現 、 大 如 一 一 丈六面一即亦隠給畢、 (25) 廿 八 日 午 時 之・ 事 也 建仁二季二月廿一日高一建仁二年十二月廿八日 畠 少 将 殿 、 高 畠 小 将 キ タ レ リ 、 方ニ同 一 廿 段 六

許日

始予 座 処ョ

丈徹

六ノ通テ 仏ノ仏 面 面

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、 E芸 大 医 如 同ヌ長 廿八日午時也、 ル、西ノ持仏堂ニテ勢 至菩薩、形像ヨリ丈六 ノ 面 ヲ 出 現 セ リ 、 コレスナワチコレヲ推 スルニ、コノ菩薩ステ ニ モ テ 、 イマ念仏者ノタメニ、 ソノカタチヲ示現シタ マ ヘ リ 、 同六日ハシメテ、座処 ヨリ四方一段ハカリ、 スキトホリテ仏ノ面像 ヲ 現 シ タ マ フ 、 丈 六 ノ コ トシ、仏面スナワチマタ 隠 タ マ ヒ 了 、 廿八日午時ノ事也、

(14)

悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ 側 山 中 三 昧 発 得 記 畢 、 ︹ 法 然 聖 人 臨 終 行 儀 ︺ 大徳寺本 ﹃ 醍 醐 本 ﹄ ﹃ 指 南 抄 ﹄ 中 巻 本

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島一畑一冗年十一月十七日一建暦元季十一月十七一建暦元年十一月十七 可 入 洛 之 由 賜 − 一 宣 旨 二 日 可 入 洛 之 由 賜 宣 旨 二 日 藤 中 納 言 光 親 卿 ノ 藤原中納言光親奉也、一藤中納言光親奉也、一奉ニテ、院宣ニヨリテ、 (2) み 也 凡 貝 、 此 −.一 曲.然・コ 也・而・孟 死・~ 塑・議. 〕 J(_} 近・醸 如・昧 (3) 弘・日・僧ニ我 孟 本 ・ 占 本

法ヲ~"°·存ニ享

一、人頭~ うた陀ヲヂニ

怠其・交

吏ニ警・戸 文 士 聞 如 心 凡 ソ 昔 醸 此 耳 昧 二 目 也 三 分 、 季 明 然 耳 也 死 ヲ 期 ボ 己 ロ 近テニ 念 本 僧 ニ 我 負ヲ国常ニ本 入 行 シ 在

室頭キ手

旦陀竺ニ 刀tニ一、 一 一 、 其 交 又 後 声 勧 来 聞 オホカタコノ二三年ノ ホトオイホレテ、ヨロツ モノワスレナトセラレケ ルホトニ、コトシヨリハ 耳モキ\コ、ロモアキラ カニシテ、トシコロナラ ヒオキタマヒケルトコロ ノ法文ヲ、時時オモヒ イタシテ、弟子トモニ ︹ カ ︺ ムロヒテ談義シタマヒ ケ リ 、 本 ニ 陀 声 ワ キ 行 聞 レ タ セ 僧 ハ リ シ ニ モ 弓二 ミ てず 卜 ~ ;,シ末 令 、ワ三ニ 豆 コ リ オ チ ニ ノ テ 2 ノ ヤ 日 頭 て

エ マ リ タ ト コ ノ ノ タ 念 マ 仏 ヒ ノ ケ 法 リ門ニ 、ア

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弟子問可令往生極楽給一弟子問云、可令往生極一ヒトリノ僧アリテ、ト 哉 、 一 楽 哉 、 一 ヒ タ テ マ ツ リ テ 申 ス ヤ 一ウ、極楽ヘハ往生シタ マ フ ヘ シ ヤ ト 申 ・ ケ レ ハ 、

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唱 − 一 此 仏 名 口 叱 一 者 不 虚 唱此仏名一者不虚云、 名号ヲトナエムモノ、 ヒトリモムナシキ事ナ シトノタマヒテ、

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又観音勢至菩薩衆在前一文観音勢至菩薩聖衆払一観音勢至菩薩聖衆マへ 拝 之 否 、 一 前 拝 之 乎 否 、 ニ 現 シ タ マ フ オ ハ 、 ナ ムタチオカミタテマツ ルヤトノタマフニ、 的其時勧乙可下奉レ拝−一本尊一コノ御仏ヲカミマイラ一其時可拝本尊一之由奉 給上之由恥上人以レ指指一一一セタマフヘシト申侍ケ一勧、上人以指々空一此外 リ ヤ 一 一 虚空一此外又有レ仏、一レハ、聖人ノタマハク、一又有仏一、 一コノ仏ノホカニマタ仏一 一オハシマスカトテ、ユ ヒヲモテムナシキトコ ロヲサシタマヒケリ、

(15)

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此十余年念仏之功積一此十余季奉拝極楽荘厳一コノ十余年ヨリ、念仏 奉レ拝二極楽荘厳仏菩一化仏菩薩一事是常也、一ノ功ツモリテ、極楽ノ 薩 一 事 是 常 也 、 一 ア リ サ マ ミ タ テ マ ツ リ 、 一仏菩薩ノ御スカタヲツ 一ネニミマイラセタマヒ ケ リ 、 (9)

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事 勧 レ 又 刊文者骨二仏,・ 大 丈I)御 様ノ乙J子ニ 事蛤:f寸・

不 是 ケ (10) 雲・紫・同 一、雲・廿 鍾フ日 雲・己E 中J時ノ 有 当 問、・坊・ ムン上ニ ノl'lノ ー 取 事 執 文 、 是 之 御 大 給 手 ニ 様 之 付 テ 事 由 五 勧 色 ノ

望ト者糸ヲ

終二女日可 不 此 令 文同廿日巳時、大谷一房 一 ノ上アタリテ、アヤシ キ雲西東ヘナオクタナ ヒキテ侍中ニ、ナカサ 五六丈ハカリシテ、ソ ノ中ニマロナルカタチ ア リ ケ リ 、 仏ノ御子ニ、五色ノイ トヲカケテ、コノヨシ ヲ申シ侍ケレハ、聖人 コレハオホヤウノコト ノイハレソ、カナラス シモサルヘカラストソ ノタマヒケル、 雲 紫 同 雲 廿 筆ク日 其 巳 中ニ時

有当

戒管上ニ 日往レ道人々於一一処々一見一行道一人々於処々見之、一ミチヲスキユク人々、ア レ 之 、 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について マタトコロニテミアヤ (12) 上 筆 フ 弟 人 、 子 五 御 云 善

2

費 近 空 ニ 巧 付 ・ 紫 給 雲 扶己ニ (13) 覧f人 '"主岳

答・之 然・奉

fヲム 御・ (14) 頭 ニ 広 見 在 見 警 之 西 来テ?来テ山ニ 型 下 即J

口中向ノ語ル; 尼 ヂ 於 又 よ 二 白 京 路 子 人 哀 ナ 御 弟

事ル往壬

さμ,. 宣乙 μク; で 近 ル 給 見 吹エニ 、紫 上 雲 人 己 云筆ク 取、入 一、皆 然 奇

豊之

i"'t−下一 、テ奉 問 仏ノ 在ス 而 寺 之 在 至 五 一 一 耳石 円ル下来テ日 向ス而?ニ Fル語ル炭 !丘、焼 2よ 又 十 語 従 余 円 庄 宏 人 来テ隆〕見 シミテオカミ侍ケリ、 アル御弟子申テイフヤ ウ、コノ上ニ紫雲タナ ヒケリ、聖人ノ往生ノ 時チカッカセタマヒテ 侍カト申ケレハ、聖人 ノタマハク、アハレナ ル事カナトタヒ/\ノ タ マ ヒ テ 、 人 ミ ナ ア ヤ シ ミ テ 、 夕、事ニハアラス、コ レ証相ノ現シテ、聖衆 ノキタリタマフカトアヤ シ ミ ケ レ ト モ 、 ヨ ノ 人 ハ ナ ニ ト モ コ 、 ロ エ ス 侍 ケ リ 、 西ノ山ノ水ノ尾ノミネ ニミエワタリケルヲ、 樵夫トモ十余人ハカリ ミタリケルカ、ソノ中 ニ一人マイリテ、コノ ヨ シ ク ワ シ ク 申 ケ レ ハ、カノマサシキ臨終

(16)

備教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ (15) ー殊ニ 時 強 或 盛 半・高 時・声 也 念 仏シ 給・ 事 或 殊強盛高声念仏事或一 時 或 二 時 、 ノ午ノ時ニソアタリケ ル、マタウツマサニマ イリテ下向シケルアマ モ、コノ紫雲オハオカ ミテ、イソキマイリテ ツ ケ 申 侍 ケ ル 、 コ ト ニ ッ 、 不 ヨ リ モ ツ ヨ ノ ク高声念仏ヲ申タマヒ ケル事、或ハ一時、或 ハ半時ハカリナトシタ マ ヒ ケ ル ア ヒ 夕 、 目白二廿四日酉時一至−一同一白廿四日酉時至廿五一マタオナシキ廿四日ノ 廿 五 日 午 時 一 、 日 、 一 酉 時 ヨ リ 廿 五 日 ノ 日 時 マ 一 ア 、 (17) 弟 雛 ・ 漸f

芋ゑ.細〉

天 高 高 ・ 人 声 声 ・ 番 念 時 ・ 々ニ仏 4

聖無相−

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J 六 高 人 声 番 念 々ニ仏 助 無 音ス絶 弟 子 五 聖人高声念仏ヲヒマナ ク申タマヒケレハ、弟 子 ト モ 番 ニ カ ワ リ テ 、 一 時二五六人ハカリコヱ ヲタスケ申ケリ、ステ ニ午時ニイタリテ、念 仏シタマヒケルコヱス コ シ ヒ キ ク ナ リ ニ ケ リ 、 四 (18) 文ヲ念諦シ

如埜完

2

終 シ 摂 詣 給 フ 取 干 不 方 捨 世 之 界 命 仏 語 終 ス 衆 光 、 生 明 摂 遍 取 照

不十

如 界 眠 念 サリナカラ、時々マタ 高声ノ念仏マシワリテ キ コ エ 侍 ケ リ 、 テ 四諸人競来持之猶知一一盛一ソノ、チヨロツノ人々一諸人競来拝之供如盛 市 一 一 キ オ イ ア ツ マ リ テ 、 オ 一 市 、 カ ミ 申 コ ト カ キ リ ナ シ 、 ﹁建久九年正月一日記﹂の対照では、三本のうち相違箇所と認 められるそのほとんどが大徳寺本と﹃醍醐本﹄においては、わ ずかな例を除いては相違するにもかかわらず、大徳寺本と﹁指 南抄﹄の記述とは一致している。大徳寺本の記述で﹃醍醐本﹂ と だ け 共 通 す る 箇 所 と し て は 、 的 ﹁ 或 二 万 返 ﹂ ︵ 大 徳 寺 本 、 以 下 同 サ じ ︶ 、

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﹁ 知 宝 瓶 ﹂ 、 川 ﹁ 見 二 四 方 一 ﹂ 、 倒 ﹁ 高 畠 少 将 殿 ﹂ 、 凶 ﹁ 大 如丈六面一﹂をあげるのみである。﹁醍醐本﹄と﹁指南抄﹄とだ けが一致する記述としては、

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﹁ 七 日 朝 ﹂ ︵ ﹃ 醍 醐 本 ﹂ 、 以 下 同 じ ︶ 、

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﹁ 光 瑞 赤 ﹂ ﹁ 々 々 々 有 赤 花 ﹂ の 部 分 の み で あ る 。 こ の よ う に 、 ﹁建久九年正月一日記﹂いわゆる﹁三昧発得記﹂においては、 大徳寺本の記述形成には﹃醍醐本﹄の影響というよりは ﹃ 指 南

(17)

抄﹄所収本との関係を想定しなければならない。つぎに﹁法然 聖人臨終行儀﹂の方であるが、この場合は前例と違って大徳寺 本と﹃醍醐本﹂との記述は全体的には共通している。﹃指南抄﹂ だけが他の二本とは遠い文体にかなり多くの記述が付加されて いる。これを文字どおり後の付加と考えるか、逆に﹃指南抄﹄ 本系の記述から他の二本の記述に縮少されていったのかは一概 には断じられない。とくに

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﹁ 其 後 来 二 日 本 国 一 入 二 天 台 宗 一 ﹂ ︵ 大 徳 寺 本 、 以 下 同 じ ︶ 、

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﹁ 唱 一 一 此 仏 名 号 一 者 ﹂ 、

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﹁ 此 十 余 年 念 仏 之 恥 積 、 、 ﹂ 、 川 ﹁ 往 レ 道 人 々 ﹂ 、

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﹁ 或 一 時 或 半 時 ﹂ 、 間 ﹁ 胤 刊 紙 白 声時々相交、難レ然高声念仏無絶﹂等の部分においては、﹁醍 醐本﹄とは相違し﹃指南抄﹄と共通している。このことは、少 なくとも﹃醍醐本﹄の記述がそのまま大徳寺本となったという ことはないことを意味するものである。 ところで、大徳寺本においても﹁臨終記﹂には前掲側の記述 に つ 明 つ い て ﹁ 或 人 七 八 年 之 前 感 二 霊 夢 一 ﹂ と し て 記 述 の 付 加 が あ るが、乙の記述は﹃指南抄﹄が﹁法然聖人臨終行儀﹂につ哨つい て 、 ﹁ 聖 人 御 事 ア マ タ 人 々 夢 そ ミ タ テ マ ツ リ ケ ル 事 ﹂ ︵ 以 下 、 ﹁ 聖 人 御 事 諸 人 夢 記 ﹂ と 称 す ︶ を 所 収 し て お り 、 中 宮 の 大 進 兼 高 以 下 丹 後国しらふ庄別所の和尚に至る一六件のいわゆる霊夢の記事を 集録するうち、その最初の記事である中宮の大進兼高の夢想記 事を土台として形成されたものであることが確実である。これ 大 徳 寺 本 ﹃ 拾 遺 漢 語 灯 録 ﹂ に つ い て に釈尊滅後百年の阿育王仏心開悟の物語、さらには﹃醍醐本﹄ 編者の附記と見られる記述等を掲載しているわけであるが、そ の体裁については﹃醍醐本﹂を踏襲した形となっている。また 正徳版﹃拾遺漢語灯録﹄ともまったく一致している。これは ﹃醍醐本﹂所収本の形成過程において﹃指南抄﹄所収本の原型 をなす記述の影響を受けていたことを間違いなく証することに なるものであり、また梶村氏が説かれるとおり大徳寺本が﹃醍 醐本﹂の影響によって成立している可能性を示すことになる。 ﹃ 指 南 抄 ﹄ 所 収 本 に も う 一 点 ﹁ 法 然 聖 人 御 夢 想 記 ﹂ が あ る 。 ﹁ 醍 醐 本 ﹄ に は 対 応 す る も の が な い が 、 こ れ を 大 徳 寺 本 所 収 ﹁ 夢 記 ﹂ と 対 照してみたい。短かい記録なので全文を左に掲げる。 大 徳 寺 本 ﹁ 夢 記 ﹂ 御夢記 或夜夢、有一二大山一、其峯極 高、南北長遠向一一西方山根づ 有 二 大 河 一 傍 レ 山 出 レ 北 流 レ 南 、 河 原 砂 々 而 不 レ 知 一 一 其 遁 際 一 林 樹 滋 々 而 不 レ 知 一 一 其 限 数 一 於 レ 是 源 空 忽 登 一 山 腹 一 遥 視 一 一 西 方 ↓ ﹃指南抄﹄中巻本﹁法然聖人御 夢 想 記 ﹂ 法然聖人御夢想記善導御事 或夜夢ニミラク、一ノ大山アリ、ソ ノ峯キワメテ高、南北ナカクトオ シ、西方ニムカヘリ、山ノ根一一大河 アリ、傍ノ山ヨリ出タリ、北一一流タ リ、南ノ河原砂砂トシテソノ遁際 ヲシラス、林樹滋滋トシテ、ソノ カキリヲシラス、コ、ニ源空タチ マチニ山腹ニ登テ、ハルカニ西方ヲ 五

(18)

悌教大学総合研究所紀要別冊﹁法然浄土教の総合的研究﹂ 自レ地己上五十尺計上 1 昇 、 空 中 有 二 東 紫 雲 一 以 l 為 何 処 有 一 一 往 生 人 一 哉 、 愛 紫 雲 飛 至 一 一 於 我 前 一 為 一 一 希 有 之 思 一 処 、 即 自 一 一 紫 雲 之 中 一 孔 雀 鵜 鵡 等 之 衆 鳥飛出、遊コ戯河原一暢レ沙 ニ ル ニ ノ ヲ レ 疋 戯 レ 潰 一 見 一 此 等 鳥 一 是 非 一 一 白 レ身放レ光照曜無レ極、其後飛 l 昇 知 レ 本 入 二 紫 雲 中 一 畢 、 愛 此 紫 雲 不 レ 住 一 一 此 所 一 過 而 向 一 一 北 隠 ニ リ ヤ ト 山河一畢、又以 l 為 山 東 有 一 一 往 生人一哉、如是思惟之問、須 央 還 l 来即住二於我前一白二紫 雲 中 一 着 一 一 墨 染 之 衣 一 僧 一 人 飛 下 住 コ 留 我 立 処 之 許 ↓ 即 為 一 一 恭 敬一歩 l 下 、 立 一 一 僧 足 下 一 瞬 一 ﹂ 仰 此 僧 一 者 、 身 上 半 肉 身 即 僧 形 也 、 身 下 半 金 色 知 一 一 仏 身 一 也 、 愛 源 空 合 掌 低 首 言 、 是 レ ル ヤ 誰 人 来 哉 、 答 日 、 我 是 善 導 ニ リ 玉 ヘ ル ヤ 也、又問目、為レ何故来哉、 ミレハ、地ヨリ己上五十尺ハカリ 上ニ昇テ、空中ニヒトムラノ紫雲ア リ、以為、何所ニ往生人ノアルソ哉、 コ、ニ紫雲トヒキタリテ、ワカト コロニイタル、希有ノオモヒヲナ ストコロニ、スナワチ紫雲ノ中ヨ リ 、 孔 雀 ・ 鶴 鵡 等 ノ 衆 鳥 ト ヒ イ テ\河原ニ遊戯ス、沙ヲホリ、潰ニ 戯、コレラノ鳥ヲミレハ、凡鳥ニア ラス、身ヨリ光ヲハナチ口、照曜 キワマリナシ、ソノノチトヒ昇テ、 本ノコトク紫雲中ニ入了、コ、ニコ ノ紫雲コノトコロニ住セス、コノ トコロヲスキテ、北ニムカフテ山 河ニカクレ了、マタ以為、山ノ東ニ往 生人ノアルニ哉、カクノコトク思 惟スルアヒ夕、須奥ニカヘリキタリ テワカマヘニ住ス、コノ紫雲ノ中 ヨリ、クロクソメタル衣着僧一人 トヒクタリテ、ワカタチタルトコ ロノ下ニ住立ス、ワレスナワチ恭敬 ノタメニアユミオリテ、僧ノ足ノ シモニタチタリ、コノ僧ヲ謄仰ス レハ、身上半ハ肉身、スナワチ僧形 也、身ヨリシモ半ハ金色ナリ、仏身 ノコトク也、コ、ニ源空合掌低頭 シテ問テマフサク、コレ誰人ノ来タ 又 答 日 、 余 離 一 一 不 宵 一 能 言 一 一 専 修念仏一甚 l 以 為 レ 貴 、 為 レ 之 故 以来也、又問日、専修念仏之人 皆 為 一 一 往 生 一 哉 、 未 レ 承 一 一 其 答 一 之問、忽然而夢 l 覚 畢 、 建久九年五月二日註之 源空 一 一 一 六 マフソ哉、答日、ワレハコレ善導 也ト、マタ問テマフサク、ナニノユ ヘニ来タマフソ哉、マタ答日、余 不肖ナリトイヱトモ、ヨク専修念 仏ノコトヲ言、ハナハタモテ貴ト ス、タメノユへニモテ来也、マタ 問言、専修念仏ノ人ミナモテ為二往 生一哉、イマタソノ答ヲウケタマハ ラサルアヒタニ、忽然トシテ夢覚 了 、 この両本の記述は非常に近いことが確認される。大徳寺本に ﹁ 傍 レ 山 出 レ 北 流 レ 南 河 原 砂 々 而 不 レ 知 一 一 其 遁 際 一 ﹂ と あ る 箇 所 は 、 ﹃指南抄﹂に﹁傍ノ山ヨリ出タリ、北−一流タリ、南ノ河原砂砂ト シテソノ漫際ヲシラス﹂とあるから、大徳寺本の方の返り点の 誤りに過ぎないものと見られる。あとは大徳寺本に﹁至二於我 前ことある箇所が﹃指南抄﹄では﹁ワカトコロニイタル﹂と あり、同様に﹁住一 l 一留我立処之許一﹂とある箇所が﹁ワカタチ タルトコロノ下ニ住立ス﹂とあり、また﹁指南抄﹄にある﹁コ レラノ鳥ヲミレハ凡鳥ニアラス﹂﹁コノトコロヲスキテ﹂﹁コノ紫 雲ノ中ヨリ﹂﹁ワレスナワチ恭敬ノタメニアユミオリテ﹂の各傍 点部分の記述が大徳寺本にはない点、さらには大徳寺本末尾の ﹁ 建 久 九 年 五 月 二 日 註 之 と い う 日 付 ・ 署 名 の 記 述 が 源 空 ﹂

(19)

﹃指南抄﹄にはない点、以上の相違箇所を除くと全文が合致し ている。したがって、対応する記録が﹃醍醐本﹂にはないので 参考としかならないが、大徳寺本の記述について考察するには ﹁指南抄﹄所収本系の記述との関連性を想定することが必要で あ る と 言 え る 。

まとめ

大徳寺本の記述内容を正徳版﹃拾遺漢語灯録﹄をはじめ﹃醍 醐本﹂の対応する記述、さらには﹃指南抄﹄の該当記述等との 比較対照を行うことによって検討を進めてきたわけであるが、 まずは大徳寺本に数箇所確認される註記を検討することによ り、大徳寺本独自の註記、﹃拾遺漢語灯録﹂編者による註記、 あるいは遺文・記録の原型そのものに存した註記である等の可 能性が考えられた。このことによって大徳寺本系統の記述の存 在をかなり遡らせることが出来るようになったわけである。 そこで、大徳寺本﹁三昧発得記﹂と﹃指南抄﹄﹁建久九年正 月一日記﹂の比較対照からは、とくに﹁醍醐本﹂所収本との異 同箇所に限っては、両者に共通性が認められたが大徳寺本の方 の記述との関係が深い。また、大徳寺本﹁臨終記﹂と﹃指南抄﹄ ﹁法然聖人臨終行儀﹂とではもともと記述の形態が相違してい 大徳寺本﹃拾遺漢語灯録﹄について るが、とくに﹃醍醐本﹄所収本との異同箇所に限るとやはり大 徳寺本の方の記述に近い。大徳寺本﹁夢記﹂と﹁指南抄﹂﹁法 然聖人御夢想記﹂とでは、両者の記述に密接な関係を想定する ほど非常に近いことが判明した。これらのことから、どこかの 時点で大徳寺本系統の記述と﹃醍醐本﹂系統の記述が存在する ようになったと想定することとなり、さらにこれらの両記述に 遡った存在として、﹃指南抄﹂系統の記述にその原型を求める ことが出来るものと考えられた。 正徳版は近世になって良照義山により、中世から存していた ﹃拾遺漢語灯録﹄をもとに記述の改変が行なわれて印行された ものである。大徳寺本の検討結果を踏まえると、この大徳寺本 の確認によって、﹃拾遺漢語灯録﹄が正徳版に先行し中世に遡 って存在した可能性が提示された意義は非常に大きいと言うこ とができる。法然の遺文集ともいうべき﹃語灯録﹄の信憲性に ついては従来から決して高い評価を受けてきたわけではない。 その最大の焦点となっていたのが﹁拾遺漢語灯録﹄の位置付け であり、これに良質の文献が欠けていることが﹁語灯録﹄全体 の評価を低くしていた大きな因由であった。大徳寺本は従来の 正 徳 版 に 先 行 す る も の と い う ば か り で な く 、 ﹃ 醍 醐 本 ﹄ ﹁ 指 南 抄 ﹄ 所収本等との比較から原型をかなり忠実に伝えているのではな い か と 考 え る 。 七

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悌 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 別 冊 ﹁ 法 然 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 八 ﹁和語灯録﹄﹃拾遺和語灯録﹄には元亨版と西法寺蔵鎌倉末期 写本、﹃漢語灯録﹄には浄厳院蔵隆尭書写本、そして﹃拾遺漢 語灯録﹄にはこの大徳寺本が中世に遡りうる文献として確認出 来ることとなったわけである。したがって、大徳寺本の存在は ﹃拾遺漢語灯録﹄に所収される各遺文・記録の信濃性を高める とともに、﹃語灯録﹂全体の史料的価値を確固たるものにする など、法然遺文研究の進展に大いに貢献するものと言える。 ︹ 註 ︺︵ 1 ︶藤原猶雪著﹃日本仏教史研究﹂︵大東出版社、昭和十三年︶所収 ﹁徳川時代における法然上人漢語灯録の改貿刊流﹂、拙著﹃法然遺文 の基礎的研究﹄︵法蔵館、平成六年︶第三章第一節﹁﹁漢語灯録﹄に つ い て ﹂ 参 照 。 ︵ 2 ︶﹃黒谷上人語灯録︵和語︶﹄︵龍谷大学善本叢書店、同朋舎、平成 七 年 ︶ 参 照 。 ︵ 3 ︶西村岡紹﹁﹁語灯録﹄︵和字︶の一考察|新出浄写本を中心として ー ﹂ ︵ ﹁ 仏 教 学 会 紀 要 ﹄ 第 二 号 、 平 成 六 年 ︶ 参 照 。 ︵4 ︶拙著﹁法然遺文の基礎的研究﹄第三章第二節﹁﹃和語灯録﹄につ い て ﹂ 参 照 。 ︵ 5 ︶ ﹃ 増 上 寺 史 料 集 ﹄ ︵ 続 群 書 類 従 完 成 会 ︶ 第 六 巻 所 収 。 ︵6 ︶ ﹃ 親 驚 聖 人 真 蹟 集 成 ﹂ ︵ 法 蔵 館 ︶ 第 五 巻 所 収 。

参照

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