1.はじめに
『仏説大安般守意経』に関連する研究は、最初期の中国仏教あるいは格義仏教を解明 するための重要な手がかりの一つと思われる。宇井伯寿1をはじめ、諸碩学がこの分野 を重視し研究に力を注いできたことは言うまでもない。『仏説大安般守意経』の研究に 画期的な展開をもたらしたのは、1999年に大阪河内長野市にある金剛寺で発見された 『安般守意経』である。また、同寺でともに発見された安世高訳の『十二門経』『仏説 解十二門経』2も『仏説大安般守意経』への解明に大変役に立つものである。 また、謝敷の「安般守意經序」3と道安の「安般注序」4には、『安般守意経』と深い関 係のある『修行道地経』も言及されている。さらに、「大小安般経」は竺法護訳『修行 道地経』の「数息品」に相当する禅観を説いた重要な文献だと荒牧典俊は示唆してい る。したがって『仏説大安般守意経』を研究するためには、『修行道地経』を重視しな ければならない。 『仏説大安般守意経』は安世高の著であるかどうかは、まだ論議の余地があるが、こ の点に関しては別稿に譲り、筆者は『仏説大安般守意経』に関するこれまでの文献・ 研究に基づいて訳注研究を通じて全文を解明したい5。本稿はこの研究の第一歩であ る。訳注研究は、まず、テキストを提示し、同テキストの内容に沿って書き下し文6を してから、現代語訳7をする。最後に、テキストの重要な箇所を注釈する。訳注は、【テ キスト】【書き下し文】【現代語訳】【注釈】とにする。釋 果 暉
1.はじめに 〈本稿の底本について〉 〈凡 例〉 2.訳注(『大正蔵』第15巻、No.602、pp.163c L12 164a L17) 3. まとめ 〈参考文献〉〈本稿の底本について〉
『大正新脩大蔵経』(『大正蔵』と略)の『仏説大安般守意経』(第15巻、No.602)は、 『高麗蔵』を底本にして『宋本』『元本』『黄檗版』および『宮本』を対校したものであ る8。しかし『大正蔵』と『高麗蔵』を比較すると、両方は完全に一致していない。さ らに、『宋本』『元本』『黄檗版』と校訂した箇所は、殆ど『大日本校訂大蔵経』(『縮刷 大蔵経』と略称した)に従う9と見られる。したがって『大正蔵』は『縮刷大蔵経』の 見落としたところをそのまま引き継いでいる10。本稿のテキストでは改めて『大正蔵』 の『仏説大安般守意経』を底本にして現存する各大蔵経の版と対校することにする。 これら校訂本の内、Ⓜ元『磧砂蔵』とⒿ明『洪武南蔵』の二蔵は、Ⓖ『磧砂蔵』とほ とんど一致している。また、Ⓝ『清蔵』とⒻ『明本』は同じものであり、Ⓚ『鉄眼蔵』 とⒾ『嘉興蔵』も全く同じ物である。 Ⓞ『縮刻蔵』Ⓟ『卍正蔵経』は『大正蔵』とは同じ『高麗蔵』を底本としたもので ある。Ⓛ『七寺一切経』の『仏説大安般守意経』は参考する価値があるが、残念なが ら脱行、脱字がしばしば見られる。したがって本稿の校訂本テキストは、『金蔵』『高 麗蔵』『宮本』『宋本』『元本』『明本』『磧砂蔵』『南蔵』『嘉興蔵』の各大蔵経刊本によ るものにする11。 Ⓐ『金蔵』12(1139 1173) Ⓑ『高麗蔵』13(1236 1250) Ⓒ『宮本』14(1113 1172又は1104 1148、宮内庁書陵部所蔵本) Ⓓ『宋本』15(1239、増上寺所蔵本) Ⓔ『元本』16(1277 1290又は1209 1286、増上寺所蔵本) Ⓕ『明本』17(1410 1440) Ⓖ『磧砂蔵』18(1231 1322又は1225 1350) Ⓗ『南蔵』19(1412 1417、山東省済南図書館所蔵本) Ⓘ『嘉興蔵』20(1589 1676、駒澤大学所蔵本) Ⓙ『洪武南蔵』21(1372 1399) Ⓚ『鉄眼蔵』22(1669 1678、上越教育大学所蔵本) Ⓛ『七寺一切経』23 Ⓜ元の『磧砂蔵』24 Ⓝ『清蔵』25(1735 1738) Ⓞ『縮刻蔵』26(1881 1885、国会図書館所蔵本) Ⓟ『卍正蔵経』27(1706 1710)〈凡 例〉
⑴ 本稿は、『大正蔵』第15巻(No.602)所収のものを底本とした。テキストの提示 は、『大正蔵』に準じるが、適当な句点を補った。なお、テキストの見出し部分に付 した頁数などの表記は、『大正蔵』の該当箇所を示す。 例、【テキスト】(pp.163c L15 20) ⑵ 【テキスト】【書き下し文】には、旧字体そのままを使い、その以外のところは、 新字体を用いた。 ⑶ 本稿校訂本の略符は、次のごとくである。 『宋本』『元本』『明本』の三本 『宋本』 『元本』 『明本』 『金蔵』 『高麗蔵』 『宮本』 『磧砂蔵』 『南蔵』 『嘉興蔵』 また、校訂番号も『大正蔵』に準じたが、筆者が加えたものに元『大正蔵』の前 後校訂番号の間に前番号数の後にハイフン( )と“1”からの記号を加えて付け る。 例、【pp.163c L20 164a L3】 名=般 (『大正蔵』 の校訂番号) 得=德 (筆者の加えたもの) ⑷ 各段落の【テキスト】中にある重要な用語、語句を注釈し、注番号は該当語、語 句の最後に付け、注は本稿の最後にまとめる。また、テキストを注釈する箇所を見 出しにするため、同箇所に下線を付ける。ただし、一つの注の番号には複数の箇所 を注釈する場合もある。なお全段落の趣旨を説明する場合、下線を付けない。 例、【テキスト】(pp.163c L15 20) 度脱十方32 【注釈】 32「度脱十方」の語は、本経を大乗に位置付ける意図がある。 ⑸ 本稿は、専門用語あるいは重要語句を提示する場合、鍵括弧「 」を付ける。語 句を補い、意味の補足、語句の言い換えなどは丸括弧( )を用いた。また、同一用語の漢語同義語があり、さらに梵語、パリ語もある場合、同用語の直後の括弧内 に並べる。 例、「一遮匿迦羅」はコーサラ(Kosala)の一村落名である…。 例、越 国(跋耆/拔祇/Vajjī/Vr 44ji)
2.訳 注
【テキスト】(pp.163c L15 20) 佛在越 國舍羈痩國。亦説一名28遮匿迦羅國29。時佛坐行30安般守意九十日。 佛得佛。 復獨坐31九十日者。思惟校計。欲度脱十方32 人及蜎飛蠕動之類。復言。我行安般守意 九十日33者。安般守意得自在慈念意34。還行安般守意已。復收意行念也35。 佛+(得佛) 〔人〕− 【書き下し文】 佛は越 國、舍羈痩國また一遮匿迦羅國と説けるに在り。時に佛坐して安般守意を九 十日行ず。佛は佛を得、また独り坐すこと九十日、思惟し校計し、十方の人及び蜎飛 蠕動(けんぴぜんどう)の類を度脱せんと欲す。また、いわく。我、安般守意を行ず ること九十日、安般守意をもて自在なる慈念の意を得る。還た安般守意を行じ已りて、 また意を収め、念を行ずるなり。 【現代語訳】仏陀は越 国(跋耆/拔祇/Vajjī/Vr 44ji)、舍羈痩国(釋羇 /Sakkesu)に居られ、または一
遮匿迦羅国(伊車能伽羅/壹奢能伽羅/一奢能伽羅/Icchānan44 gala)という場所にいった。 ある時、仏陀は坐禅して、九十日間に安般守意を修行した。仏陀は最高の悟りの境地 に達した。仏陀は成仏した後、もう一度独りで九十日間に坐禅したのは、深い禅定に 入って観察し、十方の人間、空中を飛びまわるもの及び地上に蠢く虫など各種類の衆 生を度脱しようと思ったからである。また、仏陀はこのように言った。私は九十日間 に安般守意を修行して、安般守意の実践を通して自在な慈、悲、喜、捨の意念を修得 した。仏陀は再び安般守意を行い終わり、またその意を収め、慈しみの念を行ってい た。 【テキスト】(pp.163c L20 164a L3) 安爲身。般爲息。守意爲道36。守者爲禁亦謂不犯戒。禁者亦爲護。護者遍護一切無所 犯。意者息。意亦爲道也。安爲生。般爲滅37。意爲因緣。守者爲道也。安爲數。般爲相 隨。守意爲止也。安爲念道。般爲解結。守意爲不墮罪也。安爲避罪。般爲不入罪。守 意爲道也。安爲定。般爲莫使動搖。守意莫亂意也。安 般守意 名爲御意至 得無
爲也。安爲有。般爲無。意念有不得道。意念無不得道。亦不念有亦不念無。是應空定38。 意隨道行。有者謂萬物。無者謂疑39。亦爲空40也。安爲本因緣。般爲無處所。道人知本 無所從來。亦知滅無處所41。是爲守意也42。 般=爲 名=般 得=德 【書き下し文】 安を身と爲す。般を息と爲す。守意を道と爲す。守とは禁と爲し、また不犯戒と謂う。 禁とはまた護と爲す。護とは遍く一切を護りて犯すところ無しとなす。意とは息、意 また道と爲すなり。安を生と爲す。般を滅と爲す。意を因緣と爲す。守とは道と爲す なり。安を數と爲す。般を相隨と爲す。守意を止と爲すなり。安を道を念ずると爲す。 般を結を解すと爲す。守意を罪に墮ちずと爲すなり。安を罪を避けると爲す。般を罪 に入らずと爲す。守意を道と爲すなり。安を定と爲す。般を動搖せしめること無しと 爲す。守意は意を亂すことなきなり。安般守意は意を御して無爲を得するに至ると爲 すに名づくなり。安を有と爲す。般を無と爲す。意に有を念ずれば道を得ず。意に無 を念ずれば道を得ず。また有を念せず、また無を念せず。是は空定に應じ、意は道に 隨うて行ず。有は萬物と謂う。無は(萬物を)疑と謂う。また空と爲すなり。安を本 因緣と爲す。般を處所無しと爲す。道人は本より從来する所無きを知り、また滅の處 所無きを知る。是を守意と爲すなり。 【現代語訳】 安とは身体であり、般とは呼吸であり、守意とは最高の道である。守とは禁止の意味 で、または戒律を犯さないこと。禁止とは戒護の意味でもある。そして、戒護とは遍 く一切の身・口・意の行為を護って、犯すことがないのである。意とは意を止めるこ とで、これもまた最高の道である。安とは物事の生じることである。般は物事の滅ぼ すことである(安と般とは物事における生と滅の現象である)。意とは物事の生と滅の 因緣である。(生と滅の表面的な現象に対して、意とは生と滅の現象における内面的な 因と縁である)。守とは道を行うことである。(守とはそれらの生と滅との現象及び、 それらの内面的な因縁を覚悟し、修道をすることである。)安とは息を数えることであ る。般とは息の出入りに随って注意しつつあることである。守意とは意念が体の何処 かにも安らかに集中し、身中の息をつまびらかに観察することができる。安とは道を 念ずることである。般とは諸々の煩悩の結縛を解放すことである。守意とは罪に堕ち ないことである。安とは罪を避けることで、般とは罪を犯さないことである。守意と は罪のない最高の道である。安とはこころを安定させることである。般とはこころを 動揺させないことである。守意とはこころを乱させないことである。安般守意とは、 こころを制御して無為の境地に達することである。安とは物事の有ることである。般
とは物事の無いことである。こころに物事が有ると考えれば、道を得ることができな い。こころに物事は無いと考えれば、道を得ることもできない。有るとも考えなく、 無いとも考えなければ、こうしたことこそ、空三昧の定(śūnyatā-samādhi)に相応し、 意は最高の真理(道)に随って修行するのである。有とは万物の存在を指すこと、無 とは万物の存在を疑うことで、また空の真義に当たるのである。安とは(息が)因縁 の法則に因って生じるものである。般とは(最終的に息が)居場所がないのである。 (しかし、どこへ消滅するのではなく、本来、実質的なものとして存在しないからであ る。)修道者は、物事はもとより因縁によって生じるもので、どこから生じるわけでは ないと知る。また物事が実質的なものとして存在しないから、どこへ滅するわけでは ないと知る。これは、守意の本来の真義である。 【テキスト】(pp.164a L4 9) 安爲清。般爲淨。守爲無。意名爲。是清淨無爲43也。無者謂活。爲者謂生。不復得苦故 爲活也。安爲未。般爲起。①以未起便爲守意。若已44②起意便走爲不守。當② 爲還 故。佛説安般守意也。安爲受五陰。般爲除五陰。守意爲覺因緣。不隨身口意也。 ①已 、已=以 ②〔意起便爲守意若已〕八字− ② 〔爲〕− 【書き下し文】 安を清と爲し、般を淨と爲す。守を無と爲す。意を爲と名づく。これ清淨無爲なり。 無とは活と謂う。爲とは生と謂う。復び苦を得ざる故に活と爲すなり。安を未と爲す。 般を起と爲す。未だ起らざるを以て便ち守意と爲す。若し已に意が起り便ち走れば、 不守と爲す。當に還さんが爲の故に、佛は安般守意を説くなり。安を五陰を受すと爲 す。般を五陰を除くと爲す。守意を因緣を覚ると爲す。身口意に隨わざるなり。 【現代語訳】 安とは清らかなことで、般とは浄めることである。守とは無いことで、意とは作為の ことで、安般守意とは即ち清淨無為のことである。無とは活きることで、為とは生じ ることである。(煩悩の因が、すでに清浄にするので、)また再び苦の果を受けること がない。これは活きる真義である。安とは煩悩の意念が未だ起こらないことで、般と はすでに起こったことである。煩悩が起こらないように、その意を守るべきである。 もし煩悩の意念が起こった途端、その意はそのまま走ってしまったら、これは、意念 を守らないことである。そのとき、直ちにもとに還って、意念を守るべきである。し たがって、仏陀は安般守意の修道法を教えるわけである。安とは正念を持って色・受・ 想・行・識という五陰(pañca-skandhāh44)の現象を受け取り、観察することである。般
とは五陰に対する執着を取り除くことである。守意とは五陰の諸現象における形成の 因縁を如実に知覚することで、そして五陰から生じた身、口、意における貪・瞋・痴 の意念に随わないのである。 【テキスト】(pp.164a L9 13) 守③意者。無所著爲守意。有所著不爲守意。何以故。意起復滅故。意不復起爲道。是 爲守意。守意莫令意生。生因有死爲不守意。莫令意死45。有死因有生。意亦不死。是爲 道也46。 ③(安)+意 【書き下し文】 守意とは、無所著を守意と爲す。有所著を守意と爲さず。何を以ての故なるや。意起 れば復た滅する故に。意復た起ならざるを道と爲す。これを守意と爲す。意を守って 意を生ぜしめること莫れ。生に因っては死有り、不守意と爲す。意を死せしめること 莫れ。死有るは生有るに因り、意また不死。是れを道と爲すなり。 【現代語訳】 何も執着していないことを守意といい、何か執着しているならそれを守意と言えない。 なぜなら、意念が起こったら、直ちに滅尽するからである。再び意念が起こらなけれ ば、道のこととなる。これは真の守意である。意を守るべきで、それを生じさせるべ きではない。意念の生じることに因って、かならず死滅に至る。これは、意を守って いないのである。いっぽう、意念を死滅させるべきでもない。なぜなら、死滅するこ とは、生じることに因るからである。意念の本質は死にもならなく、(また、生にもな らない。)これは、本当の道のことである。 【テキスト】(pp.164a L13 15) 安般守意有十黠47。謂數息相隨止觀還淨四諦。是爲十④黠成。謂合三十七品經48爲行成 也49。 ④黠+(黠) 【書き下し文】 安般守意に十黠あり。謂く數息・相隨・止・觀・還・淨と四諦なり。是れを十黠を成 ずと爲す。謂く三十七品經に合し、行を成ずと爲すなり。
【現代語訳】 安般守意には十種類の智慧があり、いわゆる数息(gan44anā)、相随(anugama)、止 (sthāpanā)、観(upalaks44an44ā)、還(vivarta)、浄(śuddhi)という六事の六種類と、苦、 集、滅、道という四諦(catuh44-satya/catur-ārya-satya)の四種類、合わせて十種類の智 慧である。この十種類の智慧は、三十七品經(三十七道品)から得た智慧に合致して いる。このような智慧を得た人は、道の修行を完成する人となる。 【テキスト】(pp.164a L15 17) 守意譬如燈火有兩因緣50。一者壞冥。二者見明。守意一者壞癡。二者見黠也51。 【書き下し文】 守意は譬えば燈火の如し、兩の因緣あり。一は冥を壊す。二は明を見る。守意とは、 一は癡を壊す。二は黠を見るなり。 【現代語訳】 守意は燈の光り(燈火/然燈/padīpo jalanto)のように二つのはたらき(kicca)がある。 一つは暗闇をやぶることであり、二つは光明を見ることである。それと同様に、守意 も二つのはたらきがあり、一つは愚痴を破壊することであり、二つは智慧を見ること である。
3.まとめ
本稿の研究を見る限り、『佛説大安般守意經』は、インド仏教に典拠があるものの、 「清浄無為」「有・無」などの老荘思想が色濃く。仏教思想が一切なかった当初の漢時 代の人々に道家思想を借りて説明する苦労は、いまでも想像できるほどである。また、 宇井伯寿が指摘したように、確かに重複解釈している箇所がある。しかし、どちらは 「経」どちらは「註」は、もっと有力な論拠が要すると思われる。 〈参考文献〉 主要テキストArabinda Barua(ed.), Pet44akopadesa, Pali Text Society, London 1982.
『大正新修大蔵経』は『大正蔵』と略。
『長阿含十報法経』(『大正蔵』第1巻、No.13) 『阿那律八念経』(『大正蔵』第1巻、No.46) 『釋摩男本四子経』(『大正蔵』第1巻、No.54)
『漏分布経』(『大正蔵』第1巻、No.57) 『雑阿含経』(『大正蔵』第2巻、No.99) 『雑阿含二十七経』(『大正蔵』第2巻、No.101) 『六度集経』(『大正蔵』第3巻、No.152) 『法句経』(『大正蔵』第4巻、No.211) 『大般涅槃經』(『大正蔵』第14巻、No.375) 『佛説大安般守意經』(『大正蔵』第15巻、No.602) 『陰持入経』(『大正蔵』第15巻、No.603) 『坐禪三昧経』(『大正蔵』第15巻、No.614) 『阿毘達磨大毘婆沙論』(『大正蔵』第27巻、No.1545) 『舍利弗阿毘曇論』(『大正蔵』第28巻、No.1548) 『阿毘曇五法行経』(『大正蔵』第28巻、No.1557) 『出三蔵記集』(『大正蔵』第55巻、No.2145) 『佛説大安般守意經』(高麗蔵) 同経(『趙城金蔵』、または『金蔵』と略) 同経(『毘盧蔵』、または『宮本』と略) 同経(『資福蔵』、または『宋本』と略) 同経(『普寧蔵』、または『元本』と略) 同経(『永楽北蔵』、または『明本』と略) 同経(宋の『磧砂大蔵経』、または『磧砂蔵』と略) 同経(『永楽南蔵』、または『南蔵』と略) 同経(『嘉興蔵』、すなわち『径山蔵』) 金剛寺版『安般守意経』写本 テキストは、 TEXT と略 金剛寺版『仏説十二門経』写本テキストは、 TEXT と略 金剛寺版『仏説解十二門経』写本テキストは、 TEXT と略 研究書・研究論文など
HUNG Hung-lung ‘On the collation of Taishō Tripit44aka:A case on Foshuo Da Anban
Shouyi Jing T602, Journal of Indian and Buddhist Studies, Vol.59:3, 2011, pp.193 197.
荒牧典俊 「インド仏教から中国仏教へ−安般守意経と康僧会・道安・謝敷序など−」 『仏教史学』第15巻2号、1971年、pp.139 140。 荒牧典俊「出三蔵記集訳注」『大乗仏典』3、中央公論社、1993年、pp.9 112。 宇井伯寿『譯經史研究』、岩波書店、1983年(1971第1刷)。 落合俊典 編 『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、国際仏教学大学院大学、 2004年、pp.1 3及び183 228。 落合俊典「七寺一切経と古逸経典」『仏教史学研究』第33巻2号、1990年、pp.117 139。
村木弘昌『大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法』、春秋社、2009年(2001第1刷)。 洪鴻栄 『修行道の研究−『仏説大安般守意経』を中心として−』(博士論文)、立正 大学、2005年。 黄永武 『敦煌宝蔵』(叢:全130冊)、新文豊出版社、台北、2007年。 蔡運辰編『二十五種藏經目録對照考釋』、新文豊出版公司、台北、1983年。 湯用彤 『漢魏兩晉南北朝佛教史』上冊、台湾商務印書館、台北、1991年(1938第一 刷)。 杜継文 『安般守意經』、佛光出版社、台北、2007年(1997第一刷)。 羅竹風編『漢語大詞典』、漢語大詞典出版社、上海、1986年。 ――――――――――――――――――― 【注釈】 1 宇井伯寿『譯經史研究』、岩波書店、1983年(1971第1刷)、pp.201 244。 2 落合俊典編「はしがき」『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、国際仏 教学大学院大学、2004年、pp.1 3)。また、以上三つの新発見文献の翻刻・影印 (金剛寺版『安般守意経』『仏説十二門経』『仏説解十二門経』写本 テキスト)は、 同書に収録されている(pp.183 228)。 3 「…并抄撮大安般修行諸經事相應者。引而合之…」(『大正蔵』第55巻、No.2145、 pp.43c L25 44b L28)。 4 「…故修行經。以斯二法而成寂…」(『大正蔵』第55巻、No.2145、pp.43c L4 24)。 5 本稿はもとより筆者の博士論文の一部(洪鴻栄『修行道の研究−『仏説大安般守 意経』を中心として−』、立正大学、2005年、pp.176 181)であるが、当初では現代 語訳をしなかった。謝意を表することに中央学術研究所の要請で日本語訳をしなが ら、注釈研究などにも大幅に校訂した。 6 宇井伯寿前掲書、pp.201 235には、すでに訓読文があって参考にもなるが、やは り、それは、「(経と註とを)試みに強いて区別することになした」構文に違いない。 本稿は、それとは一致していない。 7 村木弘昌『大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法』、春秋社、2009年(2001第1刷)、 pp.35 242にも大部分の現代語訳があるが、学術的な面よりも医学知識による説明の 面が多いと見られる。 8 校訂として『大正蔵』の底本を校勘したものは、これらの四本しかないのであり、 また『大正蔵』のいう『明本』は実は、『黄檗版』である。『大正蔵』の校勘は、『縮 刷大蔵経』を利用する場合が多い(次の注を参照)。さらに『縮刷大蔵経』の利用す る『明蔵』は『黄檗版』であることを會谷佳光も指摘した。http://rnavi.ndl.go.jp/asia/ tmp/H23_asiakensyu_4_aitani_2.pdf#search=’%E7%B8%AE%E5%88%BB%E8%94%B5 %E7%B8%81%E8%B5%B7’(pdf, pp.22, July22, 2013)
9 蔡運辰編『二十五種藏經目録對照考釋』、新文豊出版公司、台北、1983年、pp.557 に「『大正蔵』…毎頁下附校勘(多據縮藏)」とある。また、「『大正蔵』…校勘の際 に、先行する『大日本校訂大蔵経』(縮蔵)の校勘を引き継いでいる場合が多い。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%96%B0%E8%84%A9% E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C(大正新脩大蔵経 Wikipedia, July22, 2013)。 10 筆者は、本経に限って『縮刷大蔵経』の校勘上の信頼度(confidence level)はほぼ
90%に達したのに対し、『大正蔵』は95%に達した、と指摘したい(HUNG Hung-lung‘On the collation of Taishō Tripit44aka:A case on Foshuo Da Anban Shouyi Jing T602,
Journal of Indian and Buddhist Studies, Vol.59:3, 2011, pp.193 197)。
11 また、敦煌文献のスタイン蒐集漢文文献(No.1∼6980 木刻1号∼19号)、ぺリオ 蒐集漢文文献(No.2001∼6404)および房山石経には『仏説大安般守意経』は所蔵さ れていない。ただし、荒牧典俊(「出三蔵記集訳注」『大乗仏典』3、中央公論社、 1993年、pp.226)は「敦煌写本 S4221が『小安般経』の残簡ではないか」と指摘し た。筆者は確認したところ、それは、東晋・謝敷が著した『安般守意経』(『小安般 経』)に対する「注」と指摘したい。この件に関して、また別紙に譲ることにする。 12 別名は『趙城蔵』、『趙城金蔵』で、1933年に山西省趙城県霍山広勝寺で発見され、 北京版(1984 )『中華大蔵経』(No.869、第36冊、pp.105 125)に収録されている。 現存する『金蔵』の『仏説大安般守意経』は上巻のみである。 13 『仏説大安般守意経』は K806、第20冊、pp.477 492である。 14 宋の『毘盧蔵』(別名福州東禅寺・開元寺版)である。 15 宋の『資福蔵』(別名南宋版一切経、後思渓版)である。 16 元の『普寧蔵』である。 17 明の『永楽北蔵』(『大明北蔵』)である。『仏説大安般守意経』第66冊、pp.1 45 である。『大正蔵』の対校版としての『明版』は実は『黄檗版』である。本稿におけ る『仏説大安般守意経』のテキストの部分の『明本』は、『大明北蔵』を設定する。 確かに『大明北蔵』は『黄檗版』より、『宋本』『元本』に近いものである。その他 の『大正蔵』からの引用中の、対校本としての『明本』は『大正蔵』の『明本』に 従う。 18 宋の『磧砂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』はNo.825、第20冊、pp.48 57で ある。 19 明の『永楽南蔵』(『大明南蔵』)である。 20 明の『径山蔵』(万暦版の『方冊蔵経』)である。 21 『仏説大安般守意経』は No.106、pp.78 116である。 22 『黄檗版』である。『仏説大安般守意経』の卷冊次は93 1である。 23 『七寺一切経』版の『仏説大安般守意経』はその内容から、おそらく宋代の大蔵経
から写された写経であると推定される。『七寺一切経』は平安時代末期の写経である (落合俊典「七寺一切経と古逸経典」『仏教史学研究』第33巻2号、1990年、pp.117 139。 24 台北版『中華大蔵経』に所蔵されている。『仏説大安般守意経』はpp.16746 16755 である。 25 『乾隆蔵』(清勅版の『龍蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.677、第55冊、 pp.343 372である。 26 『大日本校訂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』は第138冊、pp.68 77である。 27 『大日本校訂蔵経』(『卍字正蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.683、第26 冊、pp.831 848である。 28 「一名遮匿迦羅國」の「名」の字は、誤植と筆者が指摘したい。 29 荒牧典俊(「インド仏教から中国仏教へ−安般守意経と康僧会・道安・謝敷序な ど−」『仏教史学』第15巻2号、1971年、pp.139 140)は「越 國」「舍羈痩國」の それぞれは別々の国で、「一遮匿迦羅」はコーサラ(Kosala)の一村落名であると主 張する。一遮匿迦羅国(Icchānan44 gala)は、伊車能伽羅、壹奢能伽羅、一奢能伽羅な ど複数の同名の漢語がある。訳名は、金子芳夫【資料集2 3】原始仏教聖典の仏在 処・説処一覧 ── コーサラ国篇(中央学術研究所紀要」モノグラフ篇 No.8)を 参考。(http://www.sakya-muni.jp/monograph/08/2 3/, June29, 2013)。 舍羈痩國は釋羈 國と同一の国名である。『釋摩男本四子経』(『大正蔵』第1巻、 pp.848b L6 7)に「聞如是。一時佛在釋羈 國。行在迦維羅衛兜國泥拘類園坐於樹 下。」と出る。 30 本経の他の箇所(『大正蔵』第15巻、pp.166a L1。)にも「坐行二事」の語がある。 つまり、本段落の「坐行」は坐禅と経行とが含まれると言える。 31 の校訂版のように、「仏得仏…」と「(仏)復獨坐…」とのつなが りは、自然であると考えられる。 32 「度脱十方」の語は、本経を大乗に位置付ける意図がある。 33 仏が独り九十日の安般守意に坐することが三回説明されている。宇井伯寿(1983、 pp.201)はその一回目を経、二・三回目を注に区別した。荒牧典俊(前掲書、pp.139 140)は、パーリ相応部54・11経では仏が三ヵ月間独坐しtemAsaM paTisallIyituM、安 般念を行い、その対応する漢訳と見られる『雑阿含経』807経では二ヵ月しかないと 比較した。 34 「自在慈念意」の「慈念意」とは、慈・悲・喜・捨という四無量心(四梵住/catvāro
brahma-vihārāh44/cattāro brahma-vihārā)を指すといえよう。杜継文(1998、pp.19)は、
ここの「慈念意」を四無量心の「慈」のみに限定する。また、「自在」の語に関し て、『大般涅槃経』(『大正蔵』第15巻、No.374、pp.453b L24 c L1)は、諸々の仏・
菩薩たちは四無量心があり自在に衆生を縁することができると説く。さらに、金剛 寺版『解十二門経』( TEXT、pp.198 L409 412)に四無量心は第二四門禅経の形で 安般の修道法に収められている。この四無量心は『十二門経』『解十二門経』に「等・ 哀・喜(愛)・護」とあり、『長阿含十報法経』(『大正蔵』第1巻、pp.236a L3 20) に「等・慈・喜・観」とある。 35 この段はブッタが『仏説大安般守意経』を説く縁起を述べている。 36 「安為身。般為息。守意為道」という解釈は、「行道の三事」との配当の関係に由 来すると見られる。本経(pp.169c L4 7)に「故行道有三事。一者觀身。二者念一 心。三者念出入息。復有三事。一者止身痛痒。二者止口聲。三者止意念」とある。 つまり、この「行道の三事」には「身」→「息」→「意(心)」という三つの段階が ある。この三事と「安」「般」「守意」との配当の関係は次の表に示す。 表1 「行道の三事」に二つの例 行道の三事 安 般 守意 身 息 道 例の一 身 (出入)息 (一)心 例の二 身 口声(息) 意(念) 本経は老荘の「道」の思想を借りて「心・意」を説明した意図がある。したがっ て「安」「般」「守意」と「行道の三事」との配当は、素朴的な格義的解釈であると 見られる。 37 「安為生。般為滅」という解釈はインド仏教とは、まったく無縁ではない。他の段 落(pp.165a L5 6。)に「安名為入息。般名為出息」の文も見られる。入息は息の生 じることであるの対し、出息は息の滅することである。 表2 「安・般」の基本的定義 安 般 生 滅 入息 出息 『舍利弗阿毘曇論』(『大正蔵』第28巻、No.1548、pp.694b L25 26)に、「身行於何 處生滅。若有出入息處。於此處身行生滅。」とある。つまり、身行の生滅するところ は、すなわち出入息の生滅するところであると述べている。本経(pp.168b L14 16) にも「出息入息自知。……知者謂知息生滅麤細遲疾也」の文がある。 38 金剛寺版『安般守意経』( TEXT、pp.190 L129、136、143、153)には、「空定 向活无為度世行」の文がある。また、複数の「空定・不思想定・不願定」( TEXT、 pp.190 L167 141、L143 148)という三三昧(samādhi-traya)の語が見られる。本段 落文中の「空定」はおそらくこの「三三昧」中の「空定」を指す。ただし、『長阿含 十報法經』(『大正蔵』第1巻、pp.240a L7 8)に「從四次禪竟空定」とあるものの、
この場合の「空定」は空無邊處定(ākāśânantyâyatana)の意味を指すものの、いま だ解脱のところに至らない。 39 杜継文(『安般守意經』、佛光出版社、台北、2007年、pp.19)は「疑:讀 ni, 止、 息、安、定等義。此處指一種心理非常寧靜の状態」と解釈している。確かに、羅竹 風編『漢語大詞典』、漢語大詞典出版社、上海、1986年、第8巻、pp.511に「疑[ning 『古今韻会挙要』疑陵切,平蒸。]通“凝”。❶安定:止息。『詩・大雅・桑柔』:“靡 所止疑,云徂何往。”毛伝:“疑定也。”鄭玄箋:“我從兵役,無有止息時。”」とある。 すなわち「疑」は「凝」に通じる場合である。周知のように、「有」「無」の思想は 「老荘思想」に由来する。しかし、『老子』『荘子』中の「無」「疑」「凝」の用例を調 べると、それぞれの箇所数は次のような表に見られる。『老子』には「疑」「凝」と 「無」の関係は殆ど無縁である。『荘子』中においても「凝」の用例は、三箇所しか ないのである。むしろ、経文中の「疑」は「萬物を疑う」という解釈が適当であろ う。 表3 『老子』・『荘子』に出る「無・疑・凝」字数の概算 無 疑 凝 老子 100 0 0 荘子 866 14 3 『荘子』(『莊子・雑篇・則陽第二十五』)に「…有名有實,是物之居;無名無實,在 物之虛。可言可意,言而愈疏。未生不可忌,已死不可徂。死生非遠也,理不可睹。 或之使,莫之爲,疑之所假。吾觀之本,其往無窮;吾求之末,其來無止。無窮無止, 言之無也,與物同理;或使莫爲,言之本也。與物終始。道不可有,有不可無。道之 爲名,所假而行。…」とある。本段落の「意念有不得道。意念無不得道。亦不念有 亦不念無」「有者謂萬物。無者謂疑」「道人知本無所從來。亦知滅無處所」の文は、 『荘子』文中の「道不可有。有不可無。道之為名。所假而行。」「疑之所假」「吾觀之 本。其往無窮。吾求之末。其來無止。無窮無止。言之無也」と極めて類似している ことを指摘したい。ただし、本経(pp.167b L17 22)に「視上頭無所從來者。…後 視無處所者。…」とあり、金剛寺版『安般守意経』( TEXT、pp.190 L155 156)に も「見上頭无息所從來。…後觀无有迹處」とあるから、「本無所從來…滅無處所」の 文は、後の時代に加えられた文とは考えにくい。 40 本段落の「安・般」は基本定義から次第に無常観・空観と結びついていく。『坐禅 三昧経』(『大正蔵』第15巻、pp.273a L24 25)に「身心生滅無常。相似相續難見。入 息出息生滅無常。易知易見故。」と出る。意味は出入息を観察することによって無常 を知りやすい。さらに『大毘婆沙論』(『大正蔵』第27巻、pp.134c L5 7)にも「以 持息念增益法想是空觀本。由此速能引四念住。是故偏說。」とある。「持息念」は「空 観」の本になるという意である。
表4 「安・般」における観法及び論拠(出典) 安 般 観法 論拠(出典) 入息 出息 基本定義 本経 息の生じること 息の滅すること 無常観 坐禅三昧経 縁の生じること 縁の滅すること 空観 大毘婆沙論 41 「安為有。般為無。……安為本因緣。般為無處所。道人知本無所從來。亦知滅無處 所」という文は、道家の「有・無」思想を借りてインド仏教の「空」を説明する意 図があると思われる。 表5 本経における「安・般」の解釈 安 般 有 無 本因緣 無處所 本無所從來 滅無處所 安世高訳の『本相猗致経』(『大正蔵』第1巻、pp.819c L24 25)に「從是本因緣, 令致有愛」とある。「本因緣」の原語はidappaccayA/_idam44 pratyayatā(縁性/縁によ ること)である。また、本経にも「自計本何因緣有。是為止愚癡藥」(pp.167c L8 9)、「物從因緣生。斷本為滅時也」(pp.167c L21 22)、「信本因緣知從宿命有。是名 為直見」(pp.172b L21)とある。これらの「本・因緣」も本段落中の「本因緣」と 同意味であると考えられる。 『雑阿含経』(『大正蔵』第2巻、pp.92c L20 25)に「俗數法者。謂此有故彼有。此 起故彼起。如無明緣行。行緣識。廣說乃至純大あ苦聚集起。又復。此無故彼無。此 滅故彼滅。無明滅故行滅。行滅故識滅。如是廣說。乃至純大苦聚滅。比丘。是名第 一義空法經」とある。これは、「縁起」による「有・無」、つまり「空」真意であり、 老荘思想の「有・無」思想とは一致しない。 次に、老荘思想の無、インド仏教の空と格義仏教との関係を示す。
42 本段落(pp.163c L20 164a L3)と次の段落(pp.164a L4 9)は、「安」「般」「守意」 を繰り返し解釈している。 43 「清浄無為」は、もとより道家の用語で、初期中国仏教(東漢から三国までの時 期)の訳経者らがそれを借りってインド仏教の涅槃などの語を解釈する。同用語は 安世高訳の『漏分布経』(『大正蔵』第1巻、pp.853c L15)および『雑阿含二十七経』 (『大正蔵』第2巻、pp.494b L17)に見られ、康僧会訳の『六度集経』(『大正蔵』第 3巻、pp.43c L23 24)にも存在する。呉・維祇難訳の『法句経』(『大正蔵』第4巻、 pp.567b L22)にもある。 44 の校訂版のように⑨〔意起…若已〕八字は、重複文であると見られ る。 45 「莫令意生…莫令意死」(意の不生・不死)こそ「道」そのものとなる。このよう な「不生・不死」の文は、老荘の「不死思想」をも取り込んで、インド仏教の「空」 の思想に近い解釈と思われる。 46 この段落(pp.164a L9 13)と次の三つの段落(pp.164a L13 24)は、主に「守意」 を解釈している。 47 「黠」は、数多くの安世高訳経に見られる。本経にも「黠智」(pp.165c L15)「黠 慧」(pp.165c L16 17)が出てくる。『阿毘曇五法行経』(『大正蔵』第28巻、pp.1000c L9)に「十黠」の語があるが、その十黠の内容は、『仏説大安般守意経』と一致し ていない。本経の「十黠」は『沙彌十慧章句』中の「十慧」に似ていると指摘され た(湯用彤『漢魏兩晉南北朝佛教史』上冊、台湾商務印書館、台北、1991年、pp.65)。 48 三十七品経は安世高の特有用語で、三十七道品(三十七菩提分/sattatim44 sa-bodhi-pakkhiyā dhammā)の同義語である。 49 この段の十黠は、すなわち六事と四諦で、そして三十七品経に加え、これら三つ のキーワードは、全経の趣旨を表している。
50 本段落の文中に兩因縁とあるが、『陰持入経』では作四事(cattāri kiccāni karoti) とある。つまり、「因縁」の語は「事/kicca」に該当するのである。
51 「譬如燈火」、「壞冥」および「見明」の語は、『陰持入経』(『大正蔵』第15巻、 pp.179b L20 22)の「譬如然燈燭。上至竟爲作四事。爲作明。爲去冥。爲現色。爲 却疑。」文は、Pet44akopadesa(pp.134 L28 135 L1)のYathā dīpo jalanto ekakāle apubbam44
acarimam44 cattāri kiccāni karoti, andhakāram44 vidhamati, ālokam44 pātukaroti, rūpam44
nidassīyati, upādānam44 pariyādiyati.に還元することができる。文中の「譬如然燈燭」「作
明」「去冥」と類似する。「譬如燈火」の原語は、yathā padīpo jalanto(灯を燃やしつ
つある)である。原語は、yathā padīpo jalanto(灯を燃やしつつある)である。
さらに、同経(pp.179b L11 12)にある「譬如日出。上至竟。爲現作四事。致明壞 冥 現 色 現 竟。」文 は Yathā vā sūriyo udayanto ekakāle apubbam44 acarimam44 cattāri kiccāni
karoti, andhakāram44 vidhamati, ālokam44 pātukaroti, rūpam44 nidassīyati, sītam44 pariyādiyati.
(Pet44akopadesa, pp.134 L24 26)にも還元できる。したがって「見明」「作明」「致明」
は、同じ原語のandhakāram44 vidhamatiからの訳語であり、そして「壞冥」「去冥」は、
同じ原語のālokam44 pātukarotiからの訳語である。つまり、本段落の「譬如燈火」「壞