周作人の文芸批評
TheLi t e r a r yCr i t i c i s mofZhouz uor e n
山田 史生 ・鄭 文茜 *
FumioYAMADA ・WenxiZHENG*
論文要 旨 :銭理群 『周作人研究二十一講』 (中華書局)第七講 「周作人的文芸批評」の翻訳。
キーワー ド :自由 寛容 個性 自己表現
周作人は、みずか らの文芸批評 における旗印 と して 「自由 と寛容」「個性 と自己表現」 とい うふ たつのス ロ‑ガ ンをかか げたo この ことが周作人 をして五四時期 における最 も影響力ある批評家た らしめ、 さらには三十年代 に入 って著名な左翼の 批評家である阿英 をしてその批評活動 を 「中国に お ける新 しい文芸批評の基礎 を確立 した ものであ る」(1)と肯定せ しめた所以である。 ところが、 こ れ ら二つの理論的な旗印はそれがかかげられた当 初か ら反駁や非難 をひきお こし、やがてその批評 (ない しは批判)は次第 にエスカ レー トしてゆき、
ついには周作人の文芸批評 における地位す らも懐 疑や否定 にさらされ るに至 った。 中国の現代批評 史上 にあって、 この よ うな特殊な処遇 をこ うむ っ た批評家は、おそ らく周作人ひ とりであろ う。
かれの文芸批評の理論お よび実践 は、それゆえ に一種の文学史的な研究価値 を有す ることになっ た。たんにその理論や実践 それ 自体だけによって ではな く、かれの仕事 にたいす る歴史的な評価の 変遷 とい う観点 において も、その文芸批評は中国 の現代文学批評史 における特徴 と法則 とをある特 定の角度か ら映 しだ しているか らである。
(‑)
五四時代の批評家たちは、創始者である ととも に開拓者で もある とい う世代 に属す る。歴史がか れ らに与 えた使命は、みずか らの批評活動 を通 し て新 しい文学 の道 を切 り拓 いて ゆ く 「道路清掃
夫」(2)とな る ことであ り、 同時 にまた現代批評 に お ける固有 の品格 お よび地位 を確立す る こ とで あったO五四時代の批評家集団にあって、なにゆ えに周作人が最 も影響力ある批評家 と目されたか といえば、かれがみずか らの批評活動 にお ける理 論お よび実践 にす こぶ る自覚的であって、歴史の
もとめる ところを存分 に体現 していたか らである。
周作人は、歴史の要請 にしたがって 「批評 にお ける自由 と寛容」 とい う原則 について詳細 に解説 し、五四時代 における批評のあ り方の特色 を鮮明 にした。それは 「自分が 自由な発展 をもとめてい る とき、圧迫 して くる勢力にたい して、けっ して 屈服す るよ うな態度 を とってはな らない。そ して 自分が勢 力をもつ よ うな立場 になった ら、今度は 他 人が 自由な発展 を も とめて い る とき、かな ら ず 寛容 な態度 を とらね ばな らない」 とい うこ と であった。 ちなみ に 「いわゆる寛容 な態度 とは、
既成 の勢 力が新興 の流派 にたい して とるべ き態 度」(3)の ことである。
周作人の 「自由 と寛容」観は、明 らかに 「除旧 布新 (古 きをすてて新 しきをひろむ)」とい う傾 向をもっている。文壇 にあって支配的な地位 を占 めている封建的な旧文芸である 「既成 の勢 力」は、
もちろん 「寛容の対象 にな らない」のだが、それ だけではな く 「新興 の流派」 を して旧文芸の支配 下か ら脱 して新文芸の生存お よび発展の権利 をか ち とらしむるとい う役 目をも担 っていた。 「自由」
お よび 「寛容」 とい う環境 は、そのための基本的 な必要条件である。
弘前大学教育学部国語教育講座
DepartmentofJapaneseLanguageandLiterature,FacultyofEducation,HirosakiUniversity
*弘前大学大学院教育学研究科
GraduateSchoolofEducation,HIROSAKIUNIVERSITY
この よ うに周作人の批評 における旗 印 としての
「自由 と寛容」 とい う原則 は、封建専制主義 に反 対す るとい う戦闘的な性格 をもってお り、同時 に また 「干己成之局 (既成 の局面)」にたい しては
「委曲求全 (ガマンして折 り合いをつ ける)」けれ ども 「干初興之事 (新興 の事業)」にたい しては
「求全真備 (完全無欠 をも とめ る)」(4)とい う中国 文化 に伝統的な心理‑の反発 とい う側面 もそなえ ていた言。
周作人は 「あ らゆる価値 をあ らためて評価 しな おす」 とい う五四時代の新文化の精神 をきわめて 自覚的 に把握 してお り、まず封建的な旧文芸 を批 判す ることか ら、その文芸批評の活動 をは じめた。
かれは 『「黒幕」 を論ず』『再び 「黒幕」 を論ず』
をたてつづ けに執筆 し、いわゆる 「黒幕小説」は 実質的 には 「中国の国民性 お よび社会情況 の変 態心理」 を反映 した もので あ って 「文学的 な価 値(5)」な ど微塵 も有 していない と厳 しく指摘 した。
かれはまた洋場芝に氾濫す る 「現代的な悪趣味一 一 一切合財 を汚染す るところの現実 をないが しろ
に し欲望 をほ しいままにす る人生観」 (6)による作 品を 「賀意胡蝶体」(7).3とよび、それ を一再な らず 痛烈 に攻撃 した。
黒幕小説お よび鴛意胡蝶派小説 にたいす る批判 は、五四時代の新文学批評がみずか らの歴史的な 地位 を確立す るための肝要な二つの戦いであった。
周作人はつねに先頭 に立 って奮迅 し、その鎧袖一 触のはた らきぶ りは、いまもって悔恨の念 をいだ かれている。だがなによ りも周作人 を現代批評の 礎石 を築いた人物のひ とりとして位置づ けること に一役買ったのは、 旧陣営か ら浴びせ られた反対 声明に抗 して、新文芸 を真っ向か ら肯定す ること によってそれ を成就せ しめた評論 の文章であった。
周作人は、郁達夫の小説 『沈倫』 における俗世 間を驚かせた性の煩悶の描写 について、は じめて 科学的な分析 をほ どこし、作者が表現 したかった のは 「青年のいだ く現代的な苦悶」であることを 指摘 した。かれは 「『沈倫』は一個 の芸術作品た るを失わない」 ことを繰 り返 し強調 し、封建的な 文人 による 「(旧)道徳 の名 をか りた (新)文芸 にたいす る批判」(8)に反論 した。
周作人はまた江静之の詩集 『意の風』を論評 し た文章のなかで、江静之の叙情詩 について 「不道 徳 な匂 いがす る」 と攻撃 す る腐敗 しきった連 中 にたい して容赦のない痛棒 を食 らわせ、あわせて
「伝統的な権威 によ りかかって異端的な文芸 を圧 迫す るのは、その当座は優勢の よ うで も、後世か らは 「献丑 (お笑 い種)」 (9)とみな され るだ ろ う」
と預言 している。
現代文学の経典 『阿Q正伝』が発表 された とき も、京城 の官僚 はひ としき り恐慌 をきた したが、
周作人は 『阿Q正伝』のは らんでいる思想的な意 義、芸術的な風格お よびその淵源 について、す ぐ
さま深 く突っ込 んで分析 した(10)0
これ らの周作人の評論 は、ただに強靭な戦闘力 をもつ とい うだけではな く、批評家が作品の内在 的 な価値 につ いて深甚 な る理解 力お よび精微 な る分析力を有 していることを うかがわせ るもので あって、作家を して 「我が意 を得た り」の感をい だか しむ るに足 るものであった。その証拠 に、郁 達夫は 『達夫代表作』の扉頁 に 「本書 を周作人先 生 に捧 げる。なぜな らばわた しの幼稚 な作品に好 意 を示 して くれた中国でただひ とりの批評家だか ら」 と書いてい る。魯迅 もまた周作人の 『「阿Q 正伝」』の所説 は 自分 の本意 とちがわない と認 め ている。
周作人の よ うな創作活動 に 「深い理解」 を有す る批評家の仕事であって こそ、は じめて中国現代 批評 をして創作 とはまた別の価値 をもつ営み とし て社会お よび文壇 に認知せ しめることがで きるの である。 まさに阿英 の看破 したよ うに、周作人の
『「沈倫」』『情詩』 (わた しは 『「阿Q正伝」』も加 えたい)は、 このゆえに中国新文学批評史上 にお ける 「重要な文献」と目され るのである(ll)。
(二)
周作人の意図す るところは、たんに封建的な旧 文芸の独 占的地位 を打破す る とい うだけには とど ま らなかった。新文芸が旧文芸 に取 って代わ るこ とが歴史的な事実 として決定的 になったのち、か れは 「既成の勢力」 となった新文芸の作家たちに 向かって 「だれ を許 してや るか」 とい う質問を発 した。そ して再三再四にわたって 「由々 しき問題 であ りなが ら、やや もすれば 自覚 されていないの は、われわれが反抗的な青年 を許 してやれ る度量 をもっていない とい うことである」「もっぱ ら許 して くれ と要求す るばか りで、みずか らは許 して やれない とい うのは、 はなはだ遺憾である」「こ れ こそつ ね に危倶すべ き こ とであ る」(12)と苦言
を呈 している。
肝 腎な ことは、周作人の 「危倶」がけっ して杷 憂でなかった ことが歴史の流れのなかで証明 され た とい うことではな く、それ よ りも留意 されて然 るべ きなのは、周作人がひ とつの重要な思想 を提 起 した とい うことで あ る。 それ は 「自由」お よ び 「寛容」 とい うものが、封建的な旧文芸 に反対 す るため に提 出 された 「暫定的な需要」「便宜的 な措置」ではな く、文学 とい う芸術 における客観 的な法則 にかんがみて、 この 「自由」お よび 「寛 容」が 「文芸 の発達の必要条件」(13)だ とい うこと である。
周作人は この よ うに問題 を提出 し、それ をつ ぎ の よ うに論証 してゆ く。かれは 「文芸の生命 とは、
自由であって平等ではな く、分離であって合併で はない」(14)とい うことを強調す る。文学 とい う芸 術は、そ もそ も個性や独創性が要求 され るもので あ り、お のづ か ら 「排他性 」 を帯 び ざるを えな い。それゆえ唯一の価値 を定めることはできない し、また 「多数決 によって判定す る」(15)こともで きない。 もし 「統一」「平等」「多数決」 とい う価 値観 によって創作 における個性 を縛 ろ うものな ら、
文芸の発展 はまさに致命的な損害をこ うむ るだろ う。批評 にお ける 「自由」 「寛容」 とは、批評 の 職責はたかだか一種 の分析 を読者 に提供す るだけ であって、べつ に 「合法的な判決 を下す」 もので はない とい うことを明 らかにす ることである。批 評家は、個人的な意見 によって文壇 を 「統一」 し た り、また作家の創作 を 「査定」 した りす るよ う な、まして作品の命運 を決定す るよ うな、いかな る権利 をも有 していない。 これは文学 とい う芸術 の健全なる発展 とい う観点か ら、批評家 に突 きつ けられた基本的な要求である。
周作人は、批評の尺度 としての文学芸術 とい う 観念 その ものの発展 もまた不断 に変 化す る 「過 程 」 にあ りつづ けるので あ って、 けっ して 「頂 点」 を定めることができない とい うことを指摘す る(16)。す なわ ち批評家の文学 にたいす る認識 は、
文学芸術のなんたるか とい う原理 を把握す る うえ で、かな らずその時代の水準 による制約 を受 けね ばな らない し、同時 にまた批評者 自身の主観的な 条件 による制約 も受 けねばな らない とい うふ うに、
お よそ限定的 な もので しかないので あ る。 した がって批評家は、すべか らく冷静かつ明噺 におの れの意見を認識すべ きである。た とえ正確な見解
であって も、 しょせん相対的な真理性 しか もって いないのであって、 けっして 「ひ とを屈服 させ ら れ るほ どの権威 はもっていない」のだ、 と(17)0
周作人は中国お よび諸外 国の批評史を総括 して つ ぎの よ うに指摘す る。文学史上、おびただ しい 批評の流派があったが、それ らは 「もともと一家 言 を有 していて、それな りの価値 をもっていて も、
やがて凡百の続一派の悪習 に染 まることを免れ え ない」(18)のであ り、 しか も 「文芸 につ いての流派 が生まれ るときには、た くさんの人間が、まるで 革命 を成功 させた英雄の よ うな顔 をして、やた ら と根本的な問題 をもちだ し、新 しい潮流が成長 し てゆ くのをジヤマす る」 もんだか ら、せ っか く生 気がみなぎっていた批評の流派 も、だんだん と保 守的なほ う‑ と変質 し、やがて批評それ 自体 を危 機‑ と陥ってゆかざるをえない。
ここにおいて周作人はひ とつの結論 をみちび く。
批評家が 「もし自分の流派のみ を信奉 し、それ を 唯一の 「道」だ とみな して他の流派 を異端 として 蔑視す るな らば・・・‑それは文芸の本質 とまった く 相反す るものである」 と(19)0
この周作人の思想は、理論 と実践 との両面 にお いて、 きわめて重大な意義 をもっている。かれは こ う主張す る。批評 はかな らず 自由かつ寛容であ らねばな らず、そのためには批評家の思惟方法を 根底か ら改造せねばな らない、 と。いったい真理 の認識お よび把握 は、ひ とつ の手段、ひ とつの方 法 によるとい うことはな く、またひ とつの結論 に 至 る とい うこともないのであって、それ どころか 必然的 に 「すべての道は ローマに通ず」 とい う按 配であ らねばな らない、 と。
周作人は 「自分の判断や権利ばか りを主張 して、
他人の 自我 を認めない とい うのが、あ らゆる不寛 容の原因である」 とい う(20)。 この手の独断論 は、
封建主義 にもとづ く文化的な伝統が根強い中国に あって、 とりわ け顕著である。周作人 にいわせれ ば、 これは国民性の弱点のひ とつである。ある観 念 (学説、流派・‑・・) を信奉す ることが、ただち に異端 を排斥す る 「専制的な狂信」 にまでエスカ レー トす るとい うのは、ま さに 「東方文化」 にお ける 「最大の害毒」のひ とつである。
歴史的 に観て も 「保守的な伝統擁護者が書 を焼 き像 を穀 し、革命党が 旧王朝 の遺跡 を破壊す る」
といった 自分 と異なるものの存在 を容認できない とい う 「憎 しみ」 は 「往々 に して芸術‑ の攻撃」
をもた らす(21)。周作人にとって、こういった 「熱 狂 はまだ しも情状酌量の余地があるが、 さりとて 人類 として未発達 の証拠」で もあった(22)。 だか ら現実の生活における一切の 「専制的な狂信」 に たい して、かれはす こぶ る敏感に警戒をいだ くの であった。
周作人は、当代の青年たちの激烈な言辞の背後 にきわめて封建的で独断 に満ちた昔なが らの亡霊 が巣 くってい ることに気づ き、 「父親がマル クス 主義 を禁 じ、息子がタゴール を禁ず る」(23)といっ た ことを防止す るように警告 した。魯迅がいった ように、いかなる新 しい思潮であっても中国伝統 の 「染 めつ けの要」 に漬 けれ ば、 きっ と色 は変 わって しま う。一部の青年は 「役人が放火す るの は許すが、庶民が点灯す るのは許 さない」 とい う 封建的な独断論でもって 「個性の 自由な発展」を 理解 しようとす るが、それは恐るべき誤解 をまね かずにはおかないだろ う。周作人が しば しば力説 するように、いわゆる 「個性の 自由な発展」は二 つの側面 をもっている。ひ とつは、 自分の意見を 自由に発表 し、個性的な権利 を発揮すること。 も うひ とつは、他人が意見を自由に発表 し、個性的 な権利 を発揮す ることを尊重、容認、保証す るこ と。いかなる自分の 自由あるいは個性であれ、他 人の自由あるいは個性 を抑圧するものは、すべて 自由お よび寛容の原則 と根本的に抵触するのであ る。
具体的な文芸批評 に即 していえば、周作人はつ ぎの よ うな重要な原則 を提起 した。 「もし自分が なにかを語 りたければ」 「それは他人を裁 くよ う であってはな らない」(24)「とい うの も他 人 に反対
しようとすると、 どうしても他人を敵 とみな しが ちたが、役人 よろしく他人を罪人あっかいする権 利 をもってい るはず もな く」(25)「つ ま り各 自はお のおの文芸上の主張 をいだいてもよいのだが、た だ し同時 にあ らゆる作品を虚心に鑑賞する広い度 量 と理解の精神 とをもたねばな らない」 と(26)0
周作人が文学 と批評 との 自己発展の法則か ら出 発 して 「批評 における自由 と寛容」 とい う原則 に ついて深刻 に吟味 していることは、かれの批評理 論のなかでも最 も価値のある部分であるとい うだ けではな く、それはまた五四時期 における思想解 放運動お よび文学革命の貴重な成果で もある(27)0 それは現代の文学批評 とい う観念が、ある一定の 水準に達 した とい う歴史的な記念であ り、それは
また今 日の発展 した科学的な批評 にたい しても有 益な作用 を及ぼす ことは疑いない。 ところが上述 の周作 人の理論 につ いて、われわれ は長 きにわ たって分析 を怠 り、あまつ さえそれ を 「資本主義 的な 自由論」 と一律の もの として片づ けてきた。
それは 「批評の自由」 とい う理論 をみずか ら資本 主義 に売 り渡す ことと同断である。 この ことは理 論の うえでも幼稚で愚かな ことであ り、また実践 にあっても深刻な影響 をもた らす ものである。 こ れは万人の目に自明の ことである。 この期 に及ん では、法外な 「学費」を支払ったのだか ら、せめ て真に有益な教訓 を身につ けるべきであろ う。
周作人の 「批評 自由論」 にも、当然なが ら若干 の資本主義的な階級偏見がふ くまれている。それ は否めない事実ではある。だがその偏見は、上述 してきた文学お よび批評のあ り方 にもとづいた 自 由の原則それ 自体か らみちびかれるものではな く、
む しろ逆 にこの原則の 自覚をさまたげるものなの である。
周作人はかつて文学における階級功利主義 に反 対の態度 を表明 したが、それは 「文芸の自由と生 命」 の 「喪失」 を必然的 にもた らすか らであっ た(28)。魯迅 のい った よ うに 「階級 のある社会 に 生まれなが ら階級 を超 えた作家 になろ うとす る」
のは 「こころの描 いた幻影」 にす ぎない(29)。 現 実 にはそ ういった態度が壁 にぶちあたることは必 至である。
は じめの うち周作人は、階級功利主義 を標梼す る左翼文学にたい して一定の 「寛容」を示す こと ができた。そ して 「社会 問題か ら階級意識 まで、
すべて文芸 のなか に包摂 で きる」 と公言 してい た(30)。 しか しプ ロレタ リアー トによる文学運動 が 日増 しに勢いづいて くるにつれて、かれは疑い をいだきはじめた。やがて批判の矛先を次第に左 翼文壇‑ と向け、それを 「呪いの言葉」 と罵 り(31)、 文芸の 「自由」の敵 とみな し、微塵 も 「寛容」を 示 さな くなった。
左翼作家が 「封建的な資本主義社会 の法律 に よる圧迫、禁固、殺教 をこ うむ りなが ら」 「左翼 の刊行物がすべて破棄 され る」(32)とい う情況裡 に あって、周作人は国民党ファシス トに自由をもと めず、 「自由」の旗 印の もとに左翼文壇 にたい し て攻撃 を しか けた。 それ はみず か ら宣揚 してい た 「批評の自由」 とい う原則 を根本か ら踏みにじ るものであった。 これは裏か らい うと、 もし真に
「文学批評 の 自由」 とい う原則 を堅持 したいな ら ば、すべか らく徹底 してブル ジ ョアジーの偏見を 放棄すべ きだ とい うことである。
他方、周作人の左翼文壇 にたいす る 「批評」は、
また別の階級的な立場、別の観点、角度か らも問 題 を提起 していることを看過 してはな らない。な るほ ど階級的な偏見はあるにせ よ、歪曲や誹講の なか にも、 い ささか の合理 的 な要 素 が、す なわ ち 「ま ぐれ 当た り」が混在せぬ とい うことはない。
プ ロレタ リアー トの文学が発展 してゆ く過程では、
絶 えず異なった階級か らの 「警告」 に耳を傾 けね ばな らない たんに耳を傾 けるだけにとどま ら ず、そ こか ら自分な りの結論 をみちびかねばな ら ない。 ところが耳を傾 けることを拒絶 して、おの れの 「純潔 さ」や 「正確 さ」 ばか りを唱えたがる とい うのは、ひ どく幼稚 な表現方法である。 こ う 考 える とき、周作人 にお ける批評の理論お よび実 践 は、た しかにブル ジ ョワジーの偏見がち らほ ら しているにせ よ、なにが しかの価値 を有 している ことはまちがいない。
(≡)
批評 における個性 の問題 を提 出 した こと、 さら にまた主観的、鑑賞的、印象的な批評 を提唱 した こと、 これ によって周作人は中国の現代批評 に重 要な貢献 をな した。
五四時期、第一世代の批評家たちが中国の現代 批評の確立 に着手 した とき、かれ らはみずか らの
「反伝統」 の立場 を自覚せ ざるをえなかった。茅 盾 はその 『「文学批評」管見の‑』でつ ぎの よ う
に明瞭 に説 いている。 「中国ではいまだかつてい かな る文学批評 の論 も正式 には存在 した こ とが なか った。『詩品』『文心彫龍』といった古書 は 、 じっさいは文学批評の論ではな くて、たんなる詩 賦、詩章一‑ な どの文体 についての主観的な定義 にす ぎない。だか ら文学批評 を云々 しよ うとお も えば、 どうして も西洋の学説 をもってきて、それ を民衆 に向かって宣伝す るよ りなかった」 と(33)0
こういった 「反伝統」の立場 は、いきおい西洋 の文芸批評 の理論 にかんす る選択 と紹介 とのあ り 方 を決定す る こ とにな る。 中国の伝統 的 な批評 は、 どち らか とい うと主観的な印象批評 に傾いて いた。い うな らば 「イ ンス ピレーシ ョン」 を重 ん じた 「批評 としての文学」 とい う風情 であった。
五四時期の第一世代の批評家たちの歴史的な任務 は、現代批評 としての独 自の品格 を確立す ること であった。すなわち 「文学 としての批評」 を建立 す ることであった。それゆえかれ らが西洋の理性 主義的な実証批評の導入 につ とめたのは、ま こと
に無理か らぬ仕儀であった。
その批評の特徴 は、学者然 とした客観的かつ冷 静 な態度で、科学的かつ分析 的な方法 をもちい、
作家お よび作品の思想的、芸術的な価値 にたい し て、客観的かつ論理的な判断お よび証明を与 える とい うものであった。 この理性主義的な実証批評 は、文学 とは現実生活 を反映す るものであ り、作 家 とは社会お よび民衆の代弁者であるとい う文学 上 の観念 を ともな うものであった。 したが って、
それがすみやか に現代批評 にお ける主流の地位を 占め、やがてマル クス主義的な社会批判‑ と変貌 してゆ くであろ うことは、 じつ に火を見るよ りも 明 らかな ことであった。
五四の時期 は、上述の よ うに文学 と社会生活 と の関連 を重視す る とい う視座か ら文学 を とらえる とい う風潮が盛 んであったが、それ とともに文学 作品 と作家 (な らび に批評家)の主観的な精神世 界 との関係 を考察 しよ うとい う傾 向もあ らわれて きた。周作人はま さにこ うい う傾向を代表す る人 物である。
かれの文芸思想 にあっては 「個性化」 とい うこ とが枢要の位置 を占めている。周作人 こそは最初 に 「個性 的 な文学」 とい う概念 を呈 した人物 で あった。ただに文学創作のプ ロセスにおける作家 の個性 のはた らきにつ いて明確 にし、 「文芸 は 自 己表現 を主体 とす る」(34)とい うことを強調 しただ けではな く、あわせて文学批評活動のプ ロセスに おける批評者の個性 のはた らきについて明確 にし、
「本物 の文芸批評」 とは 「対象 の真相 を明 らか に す る とい うよ りも、む しろ自己の反応 をあ らわす ものである」 (35)とい うことをも主張 した。かれ は 批評家 に 「批評文 において 自分の思想お よび感情 を誠実 に表現す る」 (36)ことを要求す る。周作人 に よれ ば、主体 の個性 を遺憾 な く発揮す ることは、
とりもなお さず作品の価値を評価す るための基本 的な物差 しを しっ らえることであ り、それはまた 批評家 自身の価値 をはかる尺度 を表示す ることで もある。要す るに周作人は、文学の個性化 とい う 原則 を、文学創作の発端か ら成就 までの全過程 を 貫 くもの として把握す るのである。
周作人はフランスの著名な批評家アナ トール ・ フランスの言葉 を引いている。 「よい批評家 とは、
傑作のなか に精神を遊 ばせ ることのできるもので あ り」 「ひ とび とに自分 自身の ことを語 る ことが で きる もので あ る」 と(37)。 かれ は この十九世紀 の批評家の理論のなかに現 に生 きている時代の思 潮 を加 え、 さらに批評家は 「自分 を表現す ること に努力す る」 と同時 に 「その 自分の意見は偶然的 かつ趣味的な ものの集 ま りにす ぎない」 (38)とい う こ とを 自覚すべ きで あ って、 ただの 「普通 の人 間」であるとい う限定性 を免れ えない ことを強調 した。 したがって批評家 とい うものは、ひたす ら 真面 目に自己を表現す る 「誠実」さをもつ ととも に、 自分は 「他人 に服従 を強いるいかなる権威 を も有 していない」(39)ことを直視す る とい う 「謙虚」
さをそ な えるべ きで あ る。 この 「誠実」 と 「謙 虚」 との統一 とい うことが、周作人 における文芸 批評 を構成す る基本的な特徴である。
周作人は、批評であれ創作であれ、 どち らも主 体 的な 自己表現 で あ る とい うこ とを強調 し、 同 時 にまた批評 とは 「も とよ り創作である」 (40)とい うことをも力説す る。かれは批評 とは 「詩人的な ものであって学者的な ものではない」 (41)としば し ば説 いてい る。 か な らず Lも批評 が 「‑篇 の美 文」 (42)であるべ きだ とい うのではないが、その言 葉の風格 もまた文学的な特徴 をそなえるべ きであ る。批評家たるもの、ただ文学作品を審美的 に吟 味す るだけではな く、その文体 ・形式 ・言語 ・構 成な どについて も論考すべ きである。 さらに重要 なのは、批評家 自身 もまたかな らず詩人的な思惟 で もって作 品の 「印象 と鑑賞」 「趣味の総合」 を 研究すべ きであって 「やた らと理知的な論断のみ を偏重すべ きではない」 と周作人は注意す る(43)0 ただ上 っ面だけを見ているかぎ り、周作人が提 唱す るところの印象 にもとづいて主観的 に鑑賞す るとい う批評方法 と、上述 した理性 にもとづいて 分析的 に実証す る とい う批評方法 とは、お よそ相 容れない よ うにお もえる。周作人はまた断定的な 口調で、作品の客観的な 「真相」 を認識 し、評価 す ることは不可能であ り、いわゆる 「科学的な批 評」は 「容易 に偏見 に傾 く」 ものであると極論 し てい る(44)。 ど うあがいて も 自然 に偏 向は生ず る ものであって、甚だ しくは唯心主義の よ うに不可 知論 に陥ることだってある。 しか しなが ら、それ は文芸 批評 とい うもの に内在す る矛盾 (「文芸」
にはもちろん科学的な判断 に属す る 「批評」 にも 見 られ る)のひ とつの側面 ばか りを形式的 に誇張 す ることによって、かえって文学批評がは らんで い る両義性‑ の注意 を うなが してい るのである。
この ことは、ひ とび との文学批評 にたいす る本質 的な認識が深まった ことをあ らわ している。
五四時期 における科学的な実証批評 は 「文学 を 批評す ること」 とを重ん じ、周作人の提唱す る主 観 的 な印象 に も とづ く鑑 賞 は 「文学 として の批 評」 をめ ざす。 どち らも文学批評その ものが矛盾 として内包 している両義性 について、それ を各 自 の重視す るところにしたがって描いているのであ る。双方 ともに先駆者たちが開拓 してきた 「現代 文学批評 とい う観念」「文学批評の 自己意識」が、
ある段階 に到達 した ことを示 している。
これ ら二つの批評観、それ にもとづ く二つの批 評流派、その関係 は対立す る と同時 に補い合 うも ので もある。興味深いのは、 もし五四時期 におけ る科学的な実証批評が、歴史的 にいって中国の伝 統的な批評 にたいす る否定ない し反逆である とす れ ば、主観的な印象 にもとづ く鑑賞 もまた、 よ り 高い レヴェル において中国の伝統的な批評 と内在 的 に関連 しているとい うことである。
周作人は 『文芸批評雑話』のなかで こ う論 じて いる。科学的な批評方法 は、 もっぱ ら分析 とい う ことを重 ん じるの にたい して、 「鑑賞 はむ しろ総 合 を重 ん じ」ているのだが、その恰好の例 として は陶淵 明の 「奇文共欣賞」宮.とい う態度 を挙 げ ら れ よ う、 と。 中国の伝統的な批評の基本的な特徴 は、客観的な批評対象 を重ん じることと主観的な 感覚に偏 ることとを総合 して全体 を把握す る とい うことにある。周作人の文芸批評の理論 には、東 洋の伝統的な批評 と西洋の現代的なそれ との内在 的な結合が見 られ る。 これは注 目に値す る文学現 象である。それは中国現代批評 を歴史的 に位置づ ける うえで、す こぶ る重要な理論的意義 をもって いる。
だが中国現代批評史 における周作人の批評理論 の意義 については、 さらにもっ と深 く探究すべ き だろ う。周作人の批評理論 に異議 を呈す ることに 先鞭 をつ けたのは郭沫若だった。かれ は一九二三 年 に書いた 『批評 ・鑑賞 ・検査J](45)において、周 作人は 「主観的な鑑賞のなかか ら客観的な検査 を 抹消 し、批評 として鑑賞は正 しく、検査 は間違 っ ている とす るが、い ささか武断であろ う」 と鋭 く
指摘 した。 もっ とも、かれ は極端 に走 る ことはな く、 こ うも書 い てい る。 「文芸 批評 の要 素、す な わ ち客観 的な検査 お よび主観 的な鑑賞 は、 も とよ り相 互 に関連 す る もので あ り」「真 の批評 家 で あ れ ば、かな らず理性 と感性 とを統 一 し、科学偏重 と印象重視 とを融合すべ きであ る」 と。 ど うや ら 五四時期 にあって、ひ とび とは周作人 の理論 に同 意せず、その偏見 を指摘す るに急 であった よ うだ が、 とはい えその主観的 な鑑賞 に よる印象批評 と
「客観 的 な検査 」 とはたが い に補 い合 うものだ と は認識 していた らしい。 ところが、や がて周作人 の提 唱す る主観、鑑 賞、 印象 に よる批 評 は、 「唯 心主義」 に偏 ってい る との廉 に よって、故意 に非 難 され、つ い には全面的 に否定 され た。 この こ と は一種 の 「あれ か これか」 とい う形而上学的 な思 惟方法 を示 してい るだ けで はな く、批判者が 「唯 物主義」 と 「唯心主義」 とを唯一 の物差 しとして お り、それ に よって文芸 の創作や理論 とい う複雑 きわ ま りない現象 につ いて判断 してい るので、い きおい視野 の狭 窄 に陥ってい る とい うこともあ ら わ して い る。 批 判 者 は だ た 「唯 心 主 義 」 とい う レッテル を貼 りさえすれ ば、 そ うされ た相手 の理 論 はたち どころに存在意義 を喪失す る とみ な しが ちだが、それ はマル クス主義 を信奉す る作家 によ るつ ぎの教 えを忘れてい るのだ ろ う。 日 く 「粗漏 かつ簡単 な る形而上学的 な唯物主義 の見地 か らす れ ば、哲学的な唯心主義 な どはデ タラメにす ぎな い。逆 に、弁証法的 な唯物主義 の観点か らすれ ば、
哲学的な唯心主義 とは、認識 のあ る特徴や領域 に つ いて、それ を部分的、 片面的 に発展 (膨張、拡 大) させ る ことに よって、物質 か ら離脱 させ 、 自 然 か ら乗離 させ、絶対的 な もの として神格 化 させ た もの で あ る」 と(46)。 この 「粗 漏 かつ 簡 単 な る 形而上学的な唯物主義 の見地」 は、かつ て我 が国 の現代批評史 にあ って権威 お よび影響 力 を有 して い た。 周 作 人 の文 芸 批 評 理 論 が 「歴 史 の穀 誉 褒 乾」 に さらされ た とい う歴 史的な教訓 こそ、 じつ は周作人 の文芸批評理論 の現代批評 史 にたいす る 独 自の貢献 なのであ る。
原注
(1)(川 阿英 『夜航集』「周作人」『阿英文集』第111 頁。
(2)周作人 『談虎集」]「批評の問題」。
(3〕(13)(14)(16)(1g)CZO)周作人 『自己の園地」]「文芸上の寛
容」。
(4) 魯迅 『華蓋集』「あれ とこれ」『魯迅全集』第3 巻、第143頁。
(5)周作人 「再論 『黒幕』」1919年 2月15日 『新青 年』第6巻第2号。
(6)周作人 「悪趣味 と害毒」1922年10月2日 『農報 副刊』。
(7) 周作人 『芸術 と生活』「日本の最近三十年の小 説の発達」。
(8)周作人 『自己の園地』「沈倫」。
(9)周作人 「不道徳文学 とはなにか」1922年3月19 日 『農報副刊』。
(10)「『阿Q正伝』」1922年3月19日 『農報副刊」]。後
『魯迅の青年時代』「『阿Q正 伝』について」に収 む。
(12)CZ3)周作人 「だれが寛容になれるか」(通信)1925 年7月27日 『語綿』第37期
個 周作人 『自己の園地』「詩の効用」。 (17)伽 周作人 『談龍集」]「文芸批評雑話」。 (18)周作人 『自己の園地』「文芸の統一」。 CZ
l ) C Z 2
) 周作人 『自己の園地』「鐸百姿」。CZ5) 周作人 「文芸界の匪賊を討伐する運動」1923年 11月3日 『農報副刊』。
価)周作人 『自己の園地』「文芸上の異物」。 但7) それゆえ 「批評の自由」を重視するとい うのが
五四時期の批評家に共通する特徴である。茅盾は
『「文学批評」管見の‑』 (1922年8月10日 『小説 月報』第13巻第8号)で 「文学を発展 させたけれ ば、まず 自由に批評できねばならない」 とい うこ とを強調 し、さらに 「批評 とい う二文字 と裁判官 の判決 とを混同してはいけない」 と力説 している。
その言葉づかいは周作人のそれ とよく似ている。
但8)(30) 周作人 『談龍集』「詩人席烈の百年忌」. (31)魯迅 『南腔北調集』「第三種人を論ず」『魯迅全
集』第4巻、第440頁。
(32)周作人 『苦茶随筆』「画廊集序」。
(33)魯迅 『南腔北調集』「第三種人を論ず」『魯迅全 集』第4巻、第439頁。
伽 1922年8月10日 『小説月報』第13巻第8号.
周作人 『自己の園地』「文芸上の寛容」。 (35)(36)(37)(38)(39)(40)(41)(42)(43)(44)周作人 『談龍集』「文芸批
評雑話」。
個 1923年10月28日 『創造周報』第25号 『郭沫若全 集』「文学篇」第16巻。
(46) レーニン 『談談弁証法問題』.
訳注
① なにゆえに中国人は、これまでの情況 にたいし ては心穏やかでいられたのに、新 しい機運にたい
してはこれほ ど嫌悪す るのか、既成の局面 にたい しては意 をまげてまで事 を全 うしようとす るのに、
始まったばか りの事業 にたい しては厳 しく完全 を も とめるのか、 ど うにも解せ ないのである。 (魯 迅 「這箇与那箇」)
② 洋場 とは、解放前、外 国が中国の都市 ・港湾 に も うけた繁華な居留地 ・租界。 とりわ け上海 を貝乏
してい う場合がある。
③ 賀意胡蝶派 とは、清末か ら五四運動前後 までの 文学の流派のひ とつで、主 に才子佳人を描いたC
④ 「移居」其一 に 「奇文 は共 に欣 賞 し」 とあ る。
面 白い文章があれば、い っしょに鑑賞す る、の意。
(2006.7.27受理)